野良学者の没論

 ゆえに聴覚情報はその声を快か不快かの0/100思考で判断し、不快だと判断した扁桃体は即座にノルアドレナリンとアドレナリンを噴出させて彼女の全身を凍りつかせた。
 即ち、防御的体勢として体を縮こまらせたように凍結したような姿勢を維持させた。
「なぁ、嬢ちゃん、ちょっと付き合えよ」
 硬直したまま振り返る間もなく、二人の男が素早く回り込み、ユキの前に立ちはだかった。
 どちらも大柄。
 顔には黒い使い捨てマスク。全身から漂う悪意に、彼女の心臓は一瞬で凍りついた。本当に氷の手で心臓を掴まれたかのような恐怖に飲み込まれた。
「いや……!」
 反射的に後ずさり、逃げようとするが、全身の筋肉が緊張しているので予想以上に体が重たい。関節が油が切れたようにぎこちない。
 男の一人が素早くユキの腕を掴んだ。もう一人が回り込み、ユキの退路を塞ぐ。
 恐怖で声が出ない。
 大粒の涙が溢れる。
 力で押さえつけられ、体躯、膂力ともに勝てる要素がないユキは悲鳴を挙げる間もなく、地面に引き倒されそうになる。
 体が大きく振り回され、地面に投げつけられるように倒されてしまう。
 叩きつけられた肩や背中から衝撃が伝わり、肺腑の空気が全て吐き出される。
 肘や上腕部を擦りむいたようだが、ノルアドレナリンの作用で痛みが麻痺している。ノルアドレナリンは『闘争か逃走か』を選ばせる役割を担っている。その際に体は否応なく戦闘モードに入り、アドレナリンが噴出し、神経を鈍麻させて多少の打撃でも痛みを感じ難くさせる。
 今の彼女は逃走を選んだはずだが、圧倒的に身体能力が劣っているために、ノルアドレナリンのもう一つの役割……【『選択』と『行動』の実行】を行っていた。
 それは彼女が意識して行ったと言えなくもない。
 ほぼ無意識だ。
 ユキの脳裏に、取得したばかりのコンシールドキャリーのライセンスが過ぎり、その存在を認知し直した。
 凶悪犯罪の増加に伴い、護身用拳銃の携帯が許可されて以来、ユキは万が一のためにと、ライセンスを取得し、銃を所持していた。
 手元のバッグに収められた、愛用のS&W M351c。
 掌にすっぽりと収まる、Jフレームの小型のリボルバーだ。22WMR。7連発。2インチ銃身。
 普段は服の下に隠し持ち、その存在を意識する事は殆無く、思ったより出番がなかったのでホルスターではなくバッグに直接放り込んでいたのだ。
 だが……今、その冷たい金属の感触が、背筋に一筋の覚悟を走らせた。
 手元のバッグの底に右手を差し込む。震える指先でグリップを保持。
 掌に吸い付く心地よさ。
 地面に倒れたまま、仰向けに銃を抜き放つ。
「離れなさい!」
 精一杯の声で叫び、ユキは男たちに向け、渾身の力で引き金を引いた。……異様に重い引き金だった。講習会のトレーニングの時とは異質な重さだった。発砲前の警告は義務だ。
 パンッ!
 紙袋を破裂させたかのような、乾いた銃声が夜の静寂を切り裂き、その直後に鋭く息を呑む呼吸音。
 至近距離での発砲。
 彼我の距離、2m。
 22マグナムを用いるこの銃では理想的な距離。厳密には22WMR……スピアー社のゴールドドット・ショートバレル22WMRのホローポイント弾を装填している。
 国内でのコンシールドキャリー法で、護身用拳銃で用いる拳銃の弾頭はホローポイントのみと決められている。このメーカーのショートバレルシリーズ22マグナムは単純計算で32ACPと同程度の性能を持つ。名前の通りに、短い銃身で発砲した時に最高のパフォーマンスを発揮するように設計されている。
 手首に鋭い22マグナムの反動が襲いかかる。だが、ユキの腕力と握力でもコントロールできる軽便さだ。この軽さが気に入ってS&W M351cを選んだのだ。
 男たちは驚きのあまり、裂けんばかりに目を見開き、一瞬怯んだ。
 その隙を逃さず、ユキは銃口を振りながら男たちを牽制し、這う体勢から起き上がり、必死で走り出した。走っている方向が自宅の方向とは違う方向だと気がついていないが、兎に角走った。
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