野良学者の没論

 ひりつくようなスリル。
 実践でしか試せない仮説。
 これを為したから何かを得るという損得勘定ではない。
 大袈裟に言うのなら、この世で自分の存在を証明するチャンスを自力で見つけて、自力で思案し、自力で試せて、成否に問わず満足のいく行動ができたと自分で自分を褒めることができる。
 全くの勝手な理屈。子供。未熟。無責任。
 暗い道。街灯の間隔は同じでも光量は低い。……これも条件の一つ。
 ユキは不意に走る。前方に向かって。
 雨で濡れて重たい衣服に構わず、左手に提げたコンビニ袋を放り出さず、走る。
 脳内に展開する近隣の地図。そこへ自分が書き込みをしたレイヤーを被せる。
 足音が追跡してくる。歩幅が広い。足音が重い。男、一人分。視認していないので距離は不明だが10m以下の位置に居ると思われる。その足音は、間隔を狭めるように全速力だ。
 ユキは雨合羽のフードの下でにやりと笑う。
 実に悪いニュアンスを含んだ微笑みだ。
 自分が悪魔に変貌しているのに気がついていない微笑みだ。
 自分の心に背徳を好む何かが萌芽したことを悟っていない微笑みだ。
 ユキは突如、全速力で走る。
 男と思しき足音が水溜りを蹴って走り出す。1人分の足音。独りで来たか? 別の不審者か?
 人間とは不思議なもので、衆人環視の中ならば唐突に現れて声を発するだけの度胸がある。反対に、人に危害を与えたことのある人間は夜だと逆に縫ったように口が開かない。
 言語化できる理由は様々だが、心理的理由から観察すると、明らかに『この騒ぎを知られたくない』心理が働いているのだ。
 雑踏の中で声をかけた男は今は静かに追跡している。あの時のように乱暴に呼び止めたりしない。
 ユキは旧い墓苑の入口まで来るとゲートが閉まって入ることができないこの場所で、急停止し、きびすを返し、追跡者に向かってコンビニ袋を突然、投げつけた。
 男は……特徴的な黒い使い捨てマスク。否、黒い使い捨てマスクをしているからこそ、耳たぶや眉目の形を集中して覚えやすいので、その男が、ユキを襲おうとした男たちの一人だと瞬間に分かった。
 男は女の細腕で投げつけられた、大した威力のないコンビニ袋を足元に叩き落とすと、尻のポケットにでも突っ込んでいたのか、刃渡り15cmほどの包丁を抜き出す。包丁の刃を包んでいた新聞紙が水たまりに落ちて泥水を吸う。
 脂が浮いた包丁。魚や肉しか捌いたことがない……ということを期待しよう。間違えても人を捌いたことはないと信じたい。
 冷える腹の底。ユキはアドレナリンの分泌を全身で味わっていた。
 恐ろしい男が目の前に居る。
 自分に危害を与えた男と対峙している。
 勝算はあるが約束された勝利は存在しない。
 彼我の距離6m。
 じりじりと詰め寄る男。
 じりじりと後退りするユキ。
 唐突にユキの雨合羽の右手側のポケットが2度、破裂した。風船が爆ぜたように、ポケットの樹脂の生地がちぎれて勢いよく吹き飛ぶ。
 途端、目前の男の足元に落ちていたコンビニ袋から缶ビールの内容物が噴出し、男の視界を塞ぐ。
 ポケットの中で右手で握り続けて、まさに今のために待機させていたS&W M351cを右手側のポケットの中で発砲したのだ。
 2発の22WMRのうち1発が未開封の缶ビールに命中し、破裂したように内容物を男にぶちまけた。
 シリンダーギャップから吹き出る高熱のガスで火傷しないように軍手をしている。
 更に発砲。1発。
 22マグナムは違うことなく、男のへその上辺りに命中し、急激に脱力したように濡れた地面に倒れ込む。うめき声からして即死には至らない。22マグナムでも単純なエネルギーは、今では諸外国では対人停止力が低くて時代遅れの弱装の32ACP程度の威力だ。
 そしてユキは『次に訪れる恐怖に対してこそ、博打を打った』。
 『さあ、次は何処から出てくる?』と、その場で蝋人形のように固まる。全身の神経を集中させて気配だけで辺りを伺う。背中にも目がほしい。
 心拍亢進。動悸。口渇。ヒステリー球。聴覚の狭窄。瞬きの頻回。扁桃体が急激に騒ぎ出したものだから交感神経が優位に立ちすぎて自律神経が激しく乱れる。
 今の自分はどんな顔をしているだろう?
 次の瞬間。
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