野良学者の没論

 今夜も銃声と悲鳴が静寂を切り裂く。
 近年、全国的に凶悪犯罪の多発が深刻な社会問題となっている、日本。
 そのとある政令都市。
 高層ビルが立ち並び、猥雑な繁華街が裾野を広げる都市の喧騒から離れたこの街でも、夜の闇は日ごとにその色を濃くしていた。
 先月21歳の誕生日を迎えたばかりの津村ユキは、そんな不安な時代を生きる、ごく普通の大学生だった。
 少なくともごく普通だと思っていた。凡百の市民と同じく、平穏無事に毎日を享受することに何も不満はなかった。
 報道される国内の犯罪件数が、即ち、自分の住む街も『数えられている』という暗澹たる現実を無視すれば、だ。
 数年前にとうとう、国内でも絶対数的に人員不足という現実を新法で覆すことができなかった日本政府は、米国に倣ってコンシールドキャリー法を導入した。民間人の拳銃所持をライセンス制で許可したのだ。
 もちろん誰もが好きな銃を所持できるというわけではなく、毎月の厳しい試験と毎月の精神鑑定を一年間、問題なく突破した日本国民だけが『国が指定する銃火器メーカーのコンシールドの法令に抵触しないモデル』を所持することができた。
 それがライセンスだ。それはマイナンバーカードの機能の一つに組み込まれ、拳銃を携帯していてもマイナンバーカードが不携帯だと厳しい罰則が待ち構えている。
 そんな暗い世相の中、彼女の世代は逞しく生きていた。
 ユキのショートカットの髪が風に揺れる、華奢な身体。……けれど、その瞳の奥には、簡単に折れない芯の強さが宿っていた。
 とはいえ、彼女に何か強盛になってしまう目的や目標があるわけではない。少なくとも今はその自覚は無い。
 日に日に増える犯罪に対しても不安は有っても、だからと言って何もしなければ飢えるだけなのでバイトに励む。……正直、大学で学んでいる事が現実では何も反映されないと思っている。
 目標もなく、無目的に大学を受験し、講義を受ける毎日。専攻する学問を今後どのように活かすのか? ……そこまで考えていない。
 日々を生きている。
 享楽に生きているのではない。
 植物のように生きることだけが目的になっている、デジタルネイティブ世代らしい主義。

 その日も、ユキは深夜まで続くアルバイトを終え、慣れた夜道を一人で歩いていた。
 空気がそろそろ湿度を含む。
 あと2週間もしないうちに不快指数に悩まされる梅雨が訪れるとの予報だ。
 毎年毎年、気候変動が激しく、ユキの周りでも気温や気圧の変動で季節性情動障害に悩まされる学生が多くなっている。
 あたかも、五月病が12ヶ月続くような感覚さえする。ユキも自律神経のケアだけは万全にしたいと思っていても、深夜まで続くバイトと軽い睡眠不足のまま講義を受ける日が続くので、思いっきり息抜きをしたいとつくづく思っている。
 このままだと交感神経が優位な状態が続き、最終的にノルアドレナリンが枯渇して脳疲労からのうつ病にまっしぐらだ。
 その予期不安に、軽く震えを覚える。
 その震えは精神疾患に対する想像からの震えか、それとも、明確な目標もなく進学してしまった自分の人生設計の危険さからか?

 最寄りの駅から自宅までは、街灯もまばらな細い生活道路が続く。ざっと徒歩20分。
 目蓋を落とし気味に、スマホの画面を眺め、今日の出来事をぼんやりと思い返していたその時だった。人間は歩きながらスマホの画面を閲覧すると、視界の80%をスマホのディスプレイに奪われてしまう。これは昨今の夜道では非常に危険な行動だった。
 起きるべくして……突然、背後から荒々しい声が響いた。
 『人間の脳は主語を理解しない』。
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