床に沈む硝煙

 快感。
 この男に殴りかかっていたとしても、手に鉄パイプを持っていたとしても、どこから殴っても彼女の膂力では大したダメージを当てられないだろう。
 それが、どうだ。
 指先に少し力を込めるだけで自分より大きな男がたった1発で身動きできなくなるほどの無様な姿に変貌する。
 彼女を包んだ快感も、直ぐに去る。
 この銃声を聞いて仲間がこのフロアに殺到することだろう。早くこの場を離れなければ。
 舞衣は床で伸びる男を飛び越え、書斎から出ると、先ほどの階段を降りて2階と3階の中間にある踊り場の隅で小さくうずくまった。
 足音が聞こえる。
 2階から。
 その数2人分。
 この拳銃には彼女の知識が正しいのなら残り4発の実包が詰まっている。
 最低3人の侵入者。今しがた、1人、倒した。初めて人間に死に至るかもしれない怪我を負わせたという、道徳的社会的通念の恐怖が舞衣を襲っている。
 体がガタガタと震えている。誇張無しで奥歯もカチカチと鳴っている。
 それでも尚、舞衣は遁走を選ばなかった。
 裕太郎。
 弟のような存在。
 当初は雇い主に大山の長男ということで面倒見が良い顔をしていれば給料が上がると思っていただけの大したことがない存在。
 それが今では、舞衣は命がけで救出したいと第一に考え、自身を覆う恐怖を払いながら歩みを進めている。
 不安や恐怖は扁桃体の過剰興奮でしかない。
 扁桃体の興奮という生理的挙動は根源の恐怖や不安が言語化できずに脳内で反芻されているから増幅し、ネガティブな感情に飲み込まれてしまう。
 恐怖や不安を言語化して、一つずつ解析すれば扁桃体は鎮まる。そのためには先ず、事実と感情を切り離して考えることだ。
 そして今、舞衣の認知機能は低下している。
 従って、ワーキングメモリも大して機能していない。
 筆記用具を広げて時間をかけて脳内の抽象的な概念を言語化している暇はない。
 そこで視座を変えて、敢えて白黒思考を導入する。
 ざっくりと事実と感情を切り離す。今の舞衣の脳内では事実と感情に分類されない事柄は片っ端から削除されている。
 事実……。山荘内に悪意ある、人数不明の侵入者。裕太郎が危ない。警護要員は全滅したと見做す。もう一人の家政婦も同じく死亡とする。小型拳銃を持つ自分一人。電信電気は断絶。スマホは通用するだろうが、取りに戻るのは時間的ロスが大きい。……そして、連中は反撃を企てる者が居たことに気がついて早々に去るか、仕留めに来る。後者の可能性が確定であると言い聞かせる。可能性ですら白黒思考前提で思考し、悪意と戦う決心をする。
 その途端にノルアドレナリンが逃走よりも闘争を選び、選択と行動を即断で行うように全身に命令を出してアドレナリンやコルチゾールを分泌させる。
 いずれも『通常ならば』ストレスホルモンだと言われ、忌避されがちな脳内物質だが、短期決戦や一発逆転を狙う勝負や僅かなミスも許されない作戦を行う上では、信じられないほどの思考的効率と身体的能力の向上を引き出す。
 そして、感情。……言うまでもなく、裕太郎を命に変えても救い出したい。
 明確な目標の再設定。『山を登るのが目標であって、眼の前の落石を取り除くことが目的ではない』……確か、そのように書いてあったと思う。あの古ぼけた脳科学の本では。
 舞衣は走る足音を聞く。この山荘内部のことは全て頭に入っている。この踊り場の隅で、『採光窓の月明かりが差し込まないこの場所』で、大人しくしていれば必ず侵入者はこの階段を登ってくる。
 階段はここしかないのだ。
 息を呑む。
 足音、2つ。
 この歩幅は男。足音から焦燥がうかがえる。
 ぎゅっと小型リボルバー拳銃を握る。
 このリボルバー拳銃を初めて握った時に覚えていた違和感はもう忘れた。何が違和感だったのか? ……そんな疑問すら忘れた。
 呼吸4秒。呼吸停止2秒。呼吸を吐き出す、8秒。
 それを数回繰り返す。
 呼吸法による不安と恐怖の鎮静を試みる。
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