床に沈む硝煙

 廊下の人感センサーが働いていない。この山荘は人の体温を感知すると自動的に温暖色のLED蛍光灯が天井から廊下を照らす仕組みのはずだ。
 そのセンサーが機能していない。
 嫌な予感がする。
 山荘の内部に居るはずの警護や、もう一人の家政婦を呼ぶべく息を大きく吸ったが、叫ぶのをやめた。
「……」

────『私なら、声を頼りに始末する』。

 自分。祐太郎。大山の山荘。居ない家政婦。物音。夜。……それらが連想させた不吉な予感。
 舞衣は裸足にパジャマのまま、足音を殺して山荘の2階へ向かう。
 向かうにつれて人の気配が強くなる。断片的ではあるが、小さな話し声も聞こえてくる。
 その声に聞き覚えはない。
 ひんやりとした空気が彼女の体を押し留めるようにまといつく。……舞衣は歩みを止めた。2階へは下りず、人の気配を探る。
 山荘内のエアコンも機能していない。電源が遮断されたのか?
 各フロアの廊下の角に一箇所ずつ設けられている固定電話に飛びついて受話器を上げようとするが、受話器を上げる前に、受話中を知らせる赤いランプや留守番電話作動中のランプも灯っていない。

────そうだ! スマホ!

 舞衣は踵を返そうとしたが、廊下の向こうの角から足音が聞こえてきた。本来なら温かみのある色調の色合いである床板が寒々と、その足音には悪意が籠もっていることを報せていた。
 今、家政婦用の寝室へ戻ると、足音の主と鉢合わせしてしまう。
 足音複数。それも山荘のフロアの様々な方向から聞こえる。……厳密には気配や話し声を頼りにした推定なので正確な人数は分からない。
 解るのは、この山荘に侵入した悪漢たちは、警護の4人を音もなく仕留めるだけの技量を持ったプロだということだ。
 警護の気配がしない上に、もう一人の家政婦の声すら聞こえない。
 もう既に仕留められたと考えるのが妥当だろう。
 腹の底が冷える。寒さのためだけではない。
 連中の目的が直感で理解できたからだ。
 裕太郎。
 彼を攫うか殺害するか、意図は不明だが、目的は裕太郎だろう。
 耳の奥がキーンと甲高い音を聴く。緊張のあまり、アドレナリンが大量に分泌されて血圧が上がっているのだ。
 それに【闘争と逃走】と【選択と行動】を司る脳内物質であるノルアドレナリンが扁桃体を刺激して舞衣に今すぐ行動せよと急かす。
 急激にみぞおちが痛くなり、呼吸が浅くなり、口渇を覚える。眠気が吹っ飛ぶほどの危機的緊張のためにコルチゾールが沸騰している。
 寒いのに熱い。暑いのに寒い。
 血圧の上昇。脈拍の亢進。
 狭窄する視野と強張る筋肉。
 舞衣を具現して構成する脳という臓器が、舞衣というマニュピレーターを介して、『この場の判断として最適解であるはずの行動』を彼女に無意識に選択させる。
 動物的勘。危機回避本能。危険予知。……もっとヒューリスティックなバイアス。
 彼女は走り出した。
 自分の足音が山荘に潜む連中に聞かれても構わないと言わんばかりの全力疾走だった。
 狭まる視野はただただ、3階フロアの大山巌の書斎を目指していた。一番見晴らしのいい部屋に籠もって、大山巌はスピーチの原稿や日記を書くのを楽しみにしていた。
 その大山の聖域には必ず『何か』がある!
 その部屋には必ず『武器』がある!
 確信はない。
 だが、大山ほど警戒心が強い人間が何の備えもしていないとは考えられない。
 大山巌は5年前に自分を拾ってくれた恩人だ。恩人のためにと、いつも彼を見ていた。
 彼の薄汚い本性を見せつけられる度に、彼が人を虐げる度に、舞衣は、本来なら自分は被害者のように痛めつけられる価値のない人間として生きていくしかなかったと思い知る。
 今の自分は大山巌に叱責されるだけの価値がある身分に漸くなれたのだ。
 それと同時に、彼に直接褒められる機会が訪れているのを感じている。
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