透明人間の輪郭
濡れたアスファルトを蹴り上げて、全身の痛みを無視して、ただただ、ひたすら走る。奥まった路地へと向かう前に……路地へと進む路の横の建物の隙間を走った。
腹や腕の傷口が焼けるように疼き、視界は疲労に揺れる。
背後からは、怒号と足音が迫りつつある。汚い言葉が濁流のように押し寄せ、恰も暗い底から這い上がってきた亡霊たちが、私の魂を掴もうと追いかけてくる様を連想させた。
けばけばしいネオンサインが油絵のように滲む繁華街に、強引に身を滑り込ませる。……辺りから見れば、建物の隙間から放り出されたぼろ雑巾に見えたろうか?
これはしめたものだ。これは助かるかもしれない。
この通りを形作る酔っ払いの吐息と娼婦の嬌声が混ざり合う喧騒は、一時的に『奴ら』の追跡を阻む壁となる。
雑踏の人の波に揉まれて押し潰されそうになりながら、私はひたすら足を動かし続けた。……肺は悲鳴を上げ、喉は焼け付くように渇く。
それでも、立ち止まることは許されない。
立ち止まれば、そこで全てが終わる。
……そんな気がした。
ジャケットの内ポケットに収まったS&W M351cは冷たい鉄の塊として、消えそうな質量で自らの存在を主張している。……噂には聞いていたS&WのJフレームスナブノーズは軽量化が徹底された金属で拵えられているので、携行には違和感や疲労を感じないほどに軽い。その反面、抜いて、狙って、撃つと言う動を行う時には、抜くのは簡単でも、本体が軽る過ぎて狙いが定め難いという難点を持っている。
頼りないかもしれない。
時代遅れの玩具かもしれない。
だが、今の私にとってそれは唯一の武器であり、暗闇の中で瞬く、最後の希望らしき断片なのだ。
どれほどの距離を、どれほどの時間を、どれほどの角を曲がったのか? ……走り続けたのか、歩き続けたのか? それすらも判然としないほどに疲労に意識をそがれている。
背後の喧騒は遠ざかり、再び雨音だけが、この世界を支配する静寂が訪れた。……その静かな世界に再び踏み込んでしまったらしい。爪先の任せるままに走っていた。
古びたビルの壁に沿って歩き、錆び付いた非常階段を見つける。
冷たい鉄の階段に腰を下ろし、荒い息を繰り返した。
コンクリートの無機質な冷たさが尻から伝わり、熱を帯びた体に心地よく染み渡る。
震える両手でS&W M351cを握りしめる。
雨に濡れ、鈍く光る黒く短い銃身。
小さな銃口は、静かに、そして深く、夜の闇を見つめている。……そのように思える。自分から銃口を覗く馬鹿はいない。弾きの腕にはあまり自信が無い私にもそれくらいは分かる。
こいつが……あの雨の路地裏で絶望の淵に立っていた私に、再び立ち上がるための力を与えてくれた。
こいつがなければ、今の私はただの出来立ての屍だっただろう。
勿論、これで終わりではない。
連中は執念深い野犬のように必ず私の匂いを嗅ぎつけ、この街の隅々まで探し回るだろう。
私が連中に何をしたのか? ……今となっては、最早取るに足りないことだ。
重要なのは連中が私の命を狙っているという、紛れもない事実だけだ。
雨粒と汗で濡れた前髪を掻き上げると、額から滴る不快な液体が額の開いた傷口に染み込んで鋭い痛みが走る。
この痛み。私がまだ生きているという証だ。
諦めるという選択肢は私の辞書には今のところ、存在しない。
この手にした小さな銃を……最後の弾丸が尽きるまで、決して手放すわけにはいかない。
空が微かに白み始める。夜の帳が薄々と上がり、新しい一日が顔を出そうとしている。
雨はまだ降り続いている。
その勢いは弱まり、小雨と霧雨の中間のような優しい雨に変貌している。
そうやって、日が昇りつつある空を見ていると、夜の激しい慟哭が、漸く鎮まろうとしているかのような錯覚を覚える。
私は重い腰を上げ、非常階段を下り始めた。
一歩、また一歩。
大して昇っていなはずの階段が、酷く高い位置に来たかのように思える。錆び付いた鉄板が軋む音が静まり返った朝の空気に寂しく小さく響く。
向かうべき場所などどこにもない。ただ、猟犬のような……『奴ら』の手から一刻も早く遠ざかることだけを考えていた。
腹や腕の傷口が焼けるように疼き、視界は疲労に揺れる。
背後からは、怒号と足音が迫りつつある。汚い言葉が濁流のように押し寄せ、恰も暗い底から這い上がってきた亡霊たちが、私の魂を掴もうと追いかけてくる様を連想させた。
けばけばしいネオンサインが油絵のように滲む繁華街に、強引に身を滑り込ませる。……辺りから見れば、建物の隙間から放り出されたぼろ雑巾に見えたろうか?
これはしめたものだ。これは助かるかもしれない。
この通りを形作る酔っ払いの吐息と娼婦の嬌声が混ざり合う喧騒は、一時的に『奴ら』の追跡を阻む壁となる。
雑踏の人の波に揉まれて押し潰されそうになりながら、私はひたすら足を動かし続けた。……肺は悲鳴を上げ、喉は焼け付くように渇く。
それでも、立ち止まることは許されない。
立ち止まれば、そこで全てが終わる。
……そんな気がした。
ジャケットの内ポケットに収まったS&W M351cは冷たい鉄の塊として、消えそうな質量で自らの存在を主張している。……噂には聞いていたS&WのJフレームスナブノーズは軽量化が徹底された金属で拵えられているので、携行には違和感や疲労を感じないほどに軽い。その反面、抜いて、狙って、撃つと言う動を行う時には、抜くのは簡単でも、本体が軽る過ぎて狙いが定め難いという難点を持っている。
頼りないかもしれない。
時代遅れの玩具かもしれない。
だが、今の私にとってそれは唯一の武器であり、暗闇の中で瞬く、最後の希望らしき断片なのだ。
どれほどの距離を、どれほどの時間を、どれほどの角を曲がったのか? ……走り続けたのか、歩き続けたのか? それすらも判然としないほどに疲労に意識をそがれている。
背後の喧騒は遠ざかり、再び雨音だけが、この世界を支配する静寂が訪れた。……その静かな世界に再び踏み込んでしまったらしい。爪先の任せるままに走っていた。
古びたビルの壁に沿って歩き、錆び付いた非常階段を見つける。
冷たい鉄の階段に腰を下ろし、荒い息を繰り返した。
コンクリートの無機質な冷たさが尻から伝わり、熱を帯びた体に心地よく染み渡る。
震える両手でS&W M351cを握りしめる。
雨に濡れ、鈍く光る黒く短い銃身。
小さな銃口は、静かに、そして深く、夜の闇を見つめている。……そのように思える。自分から銃口を覗く馬鹿はいない。弾きの腕にはあまり自信が無い私にもそれくらいは分かる。
こいつが……あの雨の路地裏で絶望の淵に立っていた私に、再び立ち上がるための力を与えてくれた。
こいつがなければ、今の私はただの出来立ての屍だっただろう。
勿論、これで終わりではない。
連中は執念深い野犬のように必ず私の匂いを嗅ぎつけ、この街の隅々まで探し回るだろう。
私が連中に何をしたのか? ……今となっては、最早取るに足りないことだ。
重要なのは連中が私の命を狙っているという、紛れもない事実だけだ。
雨粒と汗で濡れた前髪を掻き上げると、額から滴る不快な液体が額の開いた傷口に染み込んで鋭い痛みが走る。
この痛み。私がまだ生きているという証だ。
諦めるという選択肢は私の辞書には今のところ、存在しない。
この手にした小さな銃を……最後の弾丸が尽きるまで、決して手放すわけにはいかない。
空が微かに白み始める。夜の帳が薄々と上がり、新しい一日が顔を出そうとしている。
雨はまだ降り続いている。
その勢いは弱まり、小雨と霧雨の中間のような優しい雨に変貌している。
そうやって、日が昇りつつある空を見ていると、夜の激しい慟哭が、漸く鎮まろうとしているかのような錯覚を覚える。
私は重い腰を上げ、非常階段を下り始めた。
一歩、また一歩。
大して昇っていなはずの階段が、酷く高い位置に来たかのように思える。錆び付いた鉄板が軋む音が静まり返った朝の空気に寂しく小さく響く。
向かうべき場所などどこにもない。ただ、猟犬のような……『奴ら』の手から一刻も早く遠ざかることだけを考えていた。
