♯002『構造の牙、鉛の牙』

[4−1]

 午後2時58分。
「入谷さん! どうして……いや、これは? ……あ、え? 何?」  自分でもしどろもどろになっている。疲労と安堵で脳が働いていない。
 この件は社則を破った独断ではなく、三訓が個人的な問題を解決するために『遅いランチタイム』――『合計1時間半の休憩時間』――を宛がった時間で解決するつもりだった。結果的に会社側にも協力――内通者や協力者のあぶり出し――を仰ぐ事にしていたが、会社側の人間である入谷がここに居るのが不思議だった。
 部署が違う。彼は『監視役』だ。『立ち合い人』の三訓の周辺を警戒する役目で、彼に別命が下らない限り、三訓の『立ち合い』を助けるために現場に出ることは無い。……そもそも彼は今までどこで何をしていた?
 入谷は両手で構えたサプレッサー内蔵のスタームルガーMarkⅡを羽鳥の頭部に向けながら歩みより、放り出したポリマーフレームの大型軍用自動拳銃を爪先で遠くに蹴り飛ばす。
 羽鳥は日本語を為さない罵詈雑言を喚き散らしていたが、入谷は速やかに羽鳥の首を左手で大きく掴み、一気に締め付けて頸動脈洞反射――頸動脈洞の圧力受容器を圧迫し、脳への血流を一時的に遮断させて意識を失わせる――を起こさせて黙らせる。
 片手で鶏の首を捻って締め落とすよりスムーズなスキルを久しぶりに見て、三訓は改めて入谷を恐怖の対象だと認識した。
「社内での『抜き打ち』があってな。不本意ながら、私は怪しまれていた。今朝の最初の仕事場に行く前に『抜き打ち』に遭って現場に行けなかった。そこで社内マニュアル通りに代理を派遣しようと私の上司が連絡をしようとしたら……このざまだ」
 入谷の代理がことごとく……交通渋滞や犬に嚙まれたなどで現場に入ることができなかった。連鎖的に本日は過密なスケジュールであったのを思い出す。それも仕組まれたものだと確信した。
 『抜き打ち』。
 【大塔商事】で行われる、スパイや背信や非違行為、職務規律違反、企業秩序違反などを見つけ出す『抜き打ちテスト全般』を指す。
 その『抜き打ち』の決行は【大塔商事】の上層部が決めるので、不定期だ。
 社員はどのような状態でも――鉄火場でも、自宅で寛いでいる最中でも――『抜き打ち』を拒否した時点で『社に対して非や背信がある』と見做されるので処罰の対象となる。入谷もそれに従う他ない。
 同時にそれは、突然一人や複数が抜けても、誰かが穴埋めすることで組織は滞りなく機能するという抜き打ちの訓練でもある。
 三訓は気を失いそうになる自分に、奥歯で舌を噛んで活を入れ、一気に喋る。噴き出すように喋る。そうしないと死んでしまうと言わんばかりに。
 脳を揺さぶる血管迷走神経性の震えを、彼女は強靭な語彙という名の楔で、自身の精神に打ち込んで固定した。
「入谷さん。……この事象を、どう処理するかは決まっているわ」
 喉の渇きを無視し、三訓は淡々と『報告』の体裁を整え始めた。意識を失いそうな女の言葉ではなく、事務的な冷徹さを纏った『現場の報告』だった。
「今回の私の行動は、社則に抵触する独断ではないと思う。これは『ランチタイム』の時間枠を利用した、個人的な『不良資産の現地点検』よ。こいつは、うち(大塔商事)から放逐された時、完全に清算されずに流出した『汚染された不良資産』だと思うの。彼は組織の管理外で意図不明な行動を続けていた。放置すれば、こいつが抱える情報の腐敗がいずれ外部に漏れ出し、社に対して法的、あるいは社会的な追及をもたらすリスクが高かった……と、私は思う」
 三訓は壁に凭れたまま、少し息をつき、乱れた呼吸を収めようと試みる。
「……だから私は『ランチタイム』中に、この『負債』の最終処分状況を確認しに来た。会社が公式に手を下す手間とコンプライアンス上のリスクを、私が個人の休憩時間で代行したに過ぎない……と、思いたい。……だってそうでしょう? 就業時間内にこれを行えば不祥事になるけれど、私的な時間での『正当防衛』なら、それはただの護身上の清算よ」
 理屈だ。だが、この圧倒的な理屈を重ねないと眩暈で気を失ってしまうだろう。知性化に逃げ込んだ彼女が言語化した自己弁護を並べているだけだ。
 彼女は入谷の感情が伺えない視線から逃げるように、ロレックスを見た。午後2時59分。
「……あと、1分。定時になったら、私はこの現場を『クリーンな状態』として上層部に報告するわ。異論はありますか?」
 青い顔をした女が、事務的な再定義によって、鉄火場をオフィスへと書き換えていく。
 彼女の知性の傲慢が、即ち生存証明であるかのように。
 「~だと思う」「~と思いたい」という言葉の揺らぎ。
 これまでの絶対的な断定から、承認を求めるような語尾への変化は、三訓の認知機能が限界に達し、客観性が主観的な願望に浸食され始めている心理的脆弱性を示している。
 入谷が『抜き打ち』によって足止めされていたという事実。
 後方支援――『監視役』――が組織内部の不確定要素によって分断されたことを意味し、三訓の作戦の成功は、純粋に『幸運』と『彼女の即興工作』に依存していたという、酷く脆弱な作戦状況が浮き彫りになった。三訓は眩暈が一層強くなった。……もう少しで望まぬ死を迎えるところだった。


[4−2]

 個人の私怨を組織の論理で強引にラッピングする『過剰な組織への帰属意識』の危うさが露呈している。
 【大塔商事】がこの『屁理屈』を飲むかどうかは、三訓の有用性という『時価評価』に委ねられるが、彼女はこれが今回の件の決め手だと思い、入谷に付け足す。
「羽鳥は殺さない方がいいわ。まだまだ情報を持っているみたいよ。この一年間での潜伏先や資金の流れや、外注できる業者の伝手やコネは潰すより、利用した方が価値が高くなるかも。それにうちの内部に内通者や協力者がいる可能性が否定できないし……」
「それは言い訳か? 『評価』か? 『言葉に自信の揺らぎが見えるぞ』」
 入谷の言葉に一瞬、返答に窮する三訓。冷や汗が大量に出る。微表情のかけらも見せない顔を見ると心臓を氷の手で握られた気分になる。
「自分の価値を高めて、査定にバーターを提示したな。そうなればお前の独断は価値のある行動として称えられる余地が生まれ、発言権も威力を増す。……まあ、これは『私の邪推だがな』」
「……」
 洞のように冷たい瞳に射竦められて、三訓は入谷の目から視線を外す事が出来なかった。
 挙動や言動の奥底が読めなくて不気味。
 自分がこの状況を言い訳して尚且つ、自分の有用性をアピールする材料にしているのも事実。利用できるものは何でも利用する。無意識に思考し、主観で正解だと判断して発言したが……この男には通じないのか?
「しかし、その苦労も半分は消えてしまうな」
「え?」
 入谷は予想外のことを言う。半分消えるとは? 


[4−3]

 土砂降りの空を見上げる。
 見事なまでの鉛色の冬空だ。
 今日も雨の匂いは独特のものだった。
 古老たちはこの雨の匂いを大気汚染の臭いだと文句を言うが、その文句を、昔の空の色も雨の匂いも知らない世代の三訓に言われても困る。

――――本日の最後の案件、終了。さて、後片付けね。
――――もしも何かあったら……これ以降の時間は、超過勤務として計上しよう。

 三訓は、シガーケースから最後の葉巻を取り出した。
 思い返せば、あの時に是非とも吸いたかった一本だ。
 あの時にもこの馴染み深い葉巻が有れば、幾分かまともな思考ができたのかもしれないのに。……と、今でも思う。
 キィィィン。
 デュポンの澄んだ高音が乾いたコンクリート打ちっぱなしの壁に響く。
 丹念に先端を炙って火を点け、瞑目気味に紫煙を吸い込む。ホンジュラスと現場の匂いが混じった葉巻の香りは、酷く不条理で、それでいて生きている実感を与えてくれた。
 スクラップ場の中間処理施設での鉄火場から一週間が経過。スーツの下に、罅が入った肋骨を守るコルセットを装着している。
 自分の正常でない判断を、都合よく部分的に聞き入れた入谷の配慮で生きているのだと噛み締める。
 正常でない思考をたった一つの冴えたやり方だと錯覚していた自分を恥じる。
 今しがたの現場での取引成立を見届けて、現場で使用した机や椅子をレンタルしていた業者が引き取りに来るのを待っている。
 窓の外を見る。
 強化ガラスの向こうは土砂降りの雨。
 コンクリートがむき出しの部屋で折り畳み椅子に座り、換気のために開け放った別の窓から吹き込む匂いに、まだ暫くこの雨は続きそうだ。
 今朝は珍しく寝坊したのでスマートフォンで天気予報を見ていない。
 三訓の意識が一週間前に跳ぶ。
 

 洞のように冷たい瞳に射竦められて、三訓は入谷の目から視線を外す事が出来なかった。
 挙動や言動の奥底が読めなくて不気味。
 自分がこの状況を言い訳して尚且つ、自分の有用性をアピールする材料にしているのも事実。利用できるものは何でも利用する。無意識に思考し、主観で正解だと判断して発言したが……この男には通じないのか?
「しかし、その苦労も半分は消えてしまうな」
「え?」
 入谷は予想外のことを言う。半分消えるとは? 
「それは……? どういう……」
「『抜き打ち』だよ。『抜き打ち』は決まった日に決まった部署が受けるわけではない」
「う、うん……?」
 思考が鈍っている三訓は、重くなる目蓋を堪えながら必死で論理的に入谷の言葉を解明しようと試みる。
「詳しくは知らされていないが、とある部署で数週間前に『抜き打ち』を受けて情報漏洩をして小遣いを稼いでいる社員を見つけたらしい。『かなり上の社員の関係者』だったので公にされなかったようだ。上層部としての判断は、その社員は通常業務をさせて、洗い浚いの情報を引き出して一網打尽にするべきだと判断し、『殺さずに泳がせていた』。時間をかけて何処の組織の誰が首魁なのかを調査しているうちに、その首魁が、わが社から放逐した羽鳥を以前から取り込むために『観察しており』、わが社に対する敵対行為を実行させる為に資金と情報を与えていた。その情報源が『かなり上の社員の関係者』だ。察するに……『上の社員』とは羽鳥のことだろうな」
 三訓の脳裏に閃く物が有る。
 羽鳥は序列的には三訓より、かなり上の層の人間だ。羽鳥は『社内に残存していた誰か』から情報を得ていた。そして羽鳥の都合の良いメッセンジャーとなって、社内の羽鳥の残党――数は不明だが――に命令を出していたという図式が浮かぶ。
「つまり……元から内通者や協力者の存在は」
「感知していた。上層部は羽鳥を好きなように暴れさせて表面上の損害を被り、その賠償を『襲撃してきた者か組織』に突き付ける算段だったようだが……羽鳥は思った以上に準備が早い奴だったらしく、敵の正体を暴く前にお前を襲撃した。それもごく個人的な私怨だったので、相手の正体を暴いても、企業としては『個人間の諍い』として処理するのが通例なので見ているしかなかった。……『個人同士の恨みの話』という図式を羽鳥が利用したのだろうな。そうなれば、わが社はお前に増援を出すのを渋るだろうからな」
 それを聞いたときは気が遠くなりそうになった。
 自分が使い捨ての駒にされたことではなく、凄まじいカロリーを投入して考えた『入谷と会社を晦ます方法が殆ど功を奏さない』ことに。
 わが社が三訓を「見ているしかなかった」と。三訓の働きを特例や例外として認めなかったのは……福音だった。始終、普通の社員の規定を当て嵌めて扱っていた。
「……あー。私は使い捨ての駒だった」
「有り体に言えばそうなる」
 三訓はそこに勝機を見た。
 使い捨ての駒扱いされるのは仕方がないと、普段から思っていたが、実際の認識でも使い捨ての駒だったのなら、話は簡単だ。今はそんな非情な社則に感謝している。
「じゃあ、私が『予想以上の働きをした今の評価は?』」
「査定とバーターにしても、独断とはみなされずに忠誠だと判断されるだろうな。寸志か『上(うえ)のポケットマネー』のコースだろうな。恐らく、それで恩威としてプラマイゼロ。……この件の落し処になるだろう」


 ……そして、今。
 コンクリート打ちっ放しの一室。
 この部屋は意外と快適だ。
 元々この建物自体、撮影用のスタジオとして作られたのだからコンクリート打ちっ放し特有の底冷えの寒さや黴臭さは無い。エアコンやロスナイも完備。その部屋の空気を葉巻の煙で汚しているのだからこの空間での悪党は三訓、一人だ。

――――それにしても……。
――――入谷さんはちゃんと『進言』を伝えてくれたかな?

 ふとそんなことを考えながら、ロレックスデイデイトに視線を落とし時間を見る。
 予定通りなら5分以内にレンタル業者が来るはずだ。レンタル業者が完全に引き上げた後に、何も知らされていないカタギのクリーンな清掃業者が来て本当に清掃をして帰る。
 そこまで見届けるのが本日の業務だった。
 【大塔商事】傘下の事務用品レンタル業者と入れ替わるように、表の世界の堅気の業者がこの部屋に入る。
 非日常とは、日常と地続きであるという事実を再確認させられる。それをいつも見ている三訓。

 ああ、今日も外は冷えるな。と、彼女は暢気に窓の外の車軸を流す様子を見ながら、ぷかりと紫煙を吐いた。
 まだ、大きく葉巻を吸うと、あばらがチクリと痛む。

 ※ ※ ※

「ああ、もしもし。私です。……はい、巧く潜り込めました。あの女は予想通り私を殺しませんでした。全く甘いもんで。……ええ、『中の様子』の事なら任せてください。提示してくださった計画通りに洗い浚い吐くと訴えたら、元の役職以上の待遇で『部長級の待遇を保障してくれました』。有り難うございます! お力添えを裏切らない成果を以て期待に応えます! 【大塔商事】を内部からブッ壊す方法なら任せてください! ……はい、それでは失礼いたします!」
 そう言ってスマートフォンを終話する。
 某所。某ビル地下駐車場。
 嘗てのように高級なスーツに身を包み、運転手付きのレクサスLSの後部座席で横柄な態度で座っている羽鳥。
 ここには自分と、黒いスーツを着た30代の瓜実顔の男の運転手しかいないのに、それでも優越コンプレックスを発揮して、防御的自己愛の表現に勤しむ。
 三訓と入谷に散々銃弾を叩き込まれたのに、それすらも羽鳥には『計算のうち』で、自分の能力が――協力者の力添えがあったにせよ――連中より上だったという実感が衣服の下の銃創を麻痺させるのに十分なドーパミンを分泌させる。
 羽鳥は時折、銃創の沁みるような痛みに顔を顰めた。
 今や『不倶戴天の敵の情報を持って帰る貴重な人材』だと【大塔商事』に認識された羽鳥は掌中の珠の如く扱われて、有頂天になっている。
 それもそのはずで、彼の隠し玉である、『もう一人の内通者の運転手』が誰にも気取られずに無傷で組織内部で健在を保っていたからだ。
 万が一に備えて自分の身の保証の条件――ライバル組織に雇ってもらうための手土産(社外秘)――を揃えるのに一働きした懐刀だ。
 この運転手が居る。まだ誰にも悟られていない。この運転手が健在ならば何度でも挽回できる!
 羽鳥は完全勝利を確信した笑顔をここ数日絶やしていない。
 そして……運転手もまた、羽鳥に貼り付けと命令されていた。
 『抜き打ち』で、『情報漏洩での小遣い稼ぎ』を見抜かれて以来、【大塔商事】上層部から命と引き換えに密命を受けていた人材だ。
 運転手は絶対に、羽鳥に「自分は【大塔商事】から密命を受けた監視役である」とバレてはいけない。
 バレると速やかに『消される』。
 この場合、死の方が本当に救済であると理解させられる苦痛への想像が、運転手を【大塔商事】のスパイ――羽鳥――の監視係として繋ぎ止めていた。
 繋ぎ止める物を千切っても、千切られても、想像を絶する苦痛に叩き落とされる恐怖。
 それを知らずに気が大きくなっている羽鳥は仲間だと信じて疑わない運転手が聴いている狭い車内で、『決定的証言』を滔々と喋る。
 大声で意気揚々と話す羽鳥に対して、鉄面皮のような顔で沈黙する運転手。

――――それにしても……。
――――入谷さんはちゃんと『進言』を伝えてくれたかな?

 三訓が『進言』したこと。
 「羽鳥は必ず裏切る。今度はわが社にとって大きな利益をもたらす可能性が高い」と入谷に伝えたのだ。
 三訓の『進言』は既に聞き入れられているが、上層部が三訓にその旨を伝える必要は無い。これもニードトゥノウの法則だ。
 三訓は既に羽鳥が裏切る可能性が有ると看破していた。
 そこまでは三訓には難しい問題ではなかった。本当に毒にも薬にもならないのなら、遠慮なくS&Wガバナーに装填していた『残り2発』で頭部を狙っていた。(結果的に不発で終わった2発だが)
 羽鳥というチャンネルを維持していれば、その背後にいる組織を掴むことができる。
 そのためには彼をおだて挙げて、心を隙だらけにすれば幾らでも情報を勝手に零すと三訓は見抜いた。
 確信したのは、入谷が、破砕機の有る作業場で羽鳥を背後から撃ったのにも関わらずに、バイタルゾーンに銃弾を叩き込んだのではなく、左肩左腕左脹脛というバイタルゾーンから離れた位置に命中させ、更に首を絞めて気絶させたときだ。『あの入谷が命を奪わない発砲をした』。
 それを見て、『羽鳥にはわが社にとって【何か】ある』と直感し、機嫌を取り、おだて挙げれば勝手にエンハンシング効果――――報酬や褒め言葉などの外部からの反応で、主体的な行動をするようになる効果――――を発揮して、『聴いてもいないことまで喋るだろう』と入谷に伝えたのだ。
 羽鳥は自分が【大塔商事】によって都合のいい情報源として利用されている事実に気が付いてない……。
 そして、運転手は、人を殺傷したことが無い自分の手を汚して、羽鳥を殺害するように命令を強いられている。
 羽鳥が大声で情報を垂れ流せば垂れ流すほど、自身は懐刀に殺される時間が近づいているとも知らずに。
 運転手は『童貞』――殺人を犯したことが無い――でありながら「殺害を強要されている」。
 プロの暗殺者ではなく、あえて素人に手を汚させることで、【大塔商事】は呵責の念に苛まれる『運転手の弱み』を握り、永遠に奴隷化するシステムに嵌めている。
 『重層的な人的資源の管理』の陰湿さが際立っているが、運転手は自分が既に逃げられない立場に居る事を自覚していない……。

 ※ ※ ※

 三訓は、カタギの清掃業者が去った後に、雨雲が垂れこめる外を見ながら、リングラベル付近まで短くなった葉巻を唇からむしり取る。
 指に葉巻を挟んで、すでに次の業務――明日午前8時の取引――へのシミュレーションが始まっている。就業時間外になっても仕事が頭から離れないのは悪いことだ。

 この街で『分析屋』として生きることは、終わりのない負債の回収だ。
 そうなるようにできている。
 そうなる世界に自分が馴染んでしまった。
 その反社会的で不毛な等価交換の連鎖が、犬神三訓という『計算機』にとっての、唯一の平穏が保てるルーティンだった。
「……割に合わないわね。本当に」
 三訓はロレックスのカレンダーを確認して、脳内のスケジュール帳を開く。
 彼女の貌には、羽鳥への情けも、入谷への感謝も残っていない。
 ただ、赤いリングラベルの葉巻と、純金の時計、そして冷徹な理性が、彼女を次の仕事場へと運んでいく。

――――あ、そうだ……。
――――たまには、『はしゃぐのもいいよね』。

 三訓は臨時ボーナスの一部の使い方をふと思いついた。
 たまには贅沢にプロの高級娼婦を2、3人買って、一方的に自分を可愛がってもらうのもいいかな、と脳裏を過る。
 彼女にとって性的快楽は刹那的だが、その時間だけは本当に生きていると実感できる貴重な『命の洗濯の時間』だ。
 三訓が臨時ボーナスで「娼婦を買う」という選択。
 組織の構造として支配される側だった彼女が、私生活では「金で支配する側」に回ることで精神の均衡を保とうとする、歪んだ代償行為として危険をはらんでいる。
 だが。
 自分で稼いだ金の使い方だ。
 誰にも文句を言われる筋合いはない。

 願わくば、盛っている最中に急な『差し込み』だけは勘弁してほしいと強く思った。


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