♯002『構造の牙、鉛の牙』

[3−1]

 午後2時22分。
 救急車が到着して、負傷者が搬送されるのを三訓は廃車のボンネットに尻を乗せてただ眺めていた。
 救急隊員は三訓が透明人間であるかのように視界に入っても気にせず、負傷者を次々と搬送していく。
 その後、誰も居なくなったスクラップ場で葉巻を吸う機械のように廃車のボンネットで寛いでいた。
 何も話が進んでいない。
 あいつは何も喋っていない。
 自分も何も言っていない。
 スピーカーから声が流れて以降の沈黙は、三訓にとっては不自然には感じられなかった。
 あの男は【大塔商事】のマニュアルを知っている。
 ならば報・連・相のマニュアルも知っている。
 つまり、三訓が【大塔商事】へ連絡するそぶりを見せれば即座に撃ち殺される。
 ……今は撃ち殺されていない。
 あいつは三訓に無言で「動くな」と命令しているのだ。
 社内マニュアルを知っている者同士の駆け引きは面倒だ。
 他社を攻略するように外部のマニュアルの隙を突くのではなく、自社の堅牢なマニュアルに何もないところに隙間を作り、その隙間に入り込む作業だからだ。下っ端の社員が会社の根幹をなすルールに誤りがあると指摘する大それた行為に相当する。
「南東の建物に来い!」
 三訓以外、誰も居なくなってから、スピーカーが再びあの声で再び喋り出す。
 南東の方向には中間処理施設の建物が有る。産業用工場や大きな倉庫のような外観のそれが視界に入る。
 三訓の脳内で電卓が叩かれる音がする。
 マニュアルでは会社への連絡が規則だ。
 会社の規則というものは、会社が不利益を被ることに対して被害を回避、軽減、挽回というダメージコントロールに重点が置かれている。今回はそのパターンが適用されるかどうかが怪しかった。
 私怨である。
 個人の敵意が、三訓という個人を攻撃している。
 その結果、三訓に不利益が被るように『会社が巻き込まれた』という解釈ができる。……【大塔商事】上層部はそう考えるだろう。
 商売にガメツイのではなく、組織の持続に影響が有るリスクだけを取り除くことに傾注している嫌いがある。
 組織戦略の意図は下っ端の三訓には推測しかできない。だが、存在をリスクだと判断すれば、会社は三訓を平気で見捨てるだろう。
 【大塔商事】は任侠ヤクザの集団ではないので、身内の恥は親の恥とは全く思わない。そんな概念は持ち合わせていない。書類と捺印で処理できる問題しか取り合わないのだ。今すぐに増援を呼んでも、増援を渋るだろう。
 敵の首魁は判明しても、その首魁が『何処の誰をどれだけ雇っている』のかが、全くの不明だからだ。『首魁の総資金、総資産も不明だ』。

――――不本意だけど……。
――――この場は自分しか頼れないみたい。

 葉巻の煙を怪獣のように吐きながら、S&Wガバナーを抜き、爪先を南東の建物――中間処理施設――に向け、歩き出す。
 足場が不確かな、濡れた倒木の上を歩いているような感覚。鉄火場が得意ではない三訓に自ら行動を起こさせる首魁。

――――あ……もしかして、嵌められた?

 【大塔商事】のマニュアルを知り尽くしているのなら、その逆算から、社員を一個人として分離させ、個人対個人の私的問題として処理させる社内マニュアルの存在も知っている人間が敵だ。
 自分が上手く嵌められたと直感した時には、歩みは止まり、南東の建物こと、中間処理施設の正面出入口のドアの前に立っていた。
 強化ガラスで作られているはずのドアが無残に叩き割られている。最初からあいつは今日この場で、三訓を仕留めるつもりだったのがよく分かる。
 S&Wガバナーに410番が6発。ばら弾が4発。45ロングコルトがスピードローダー2個(12発)。
 中間処理施設内部……この建物自体が罠だ。
 あいつなら三訓が接近戦で優位に立ちやすいS&Wガバナーを使用しているのは知っているはず。
 それでも尚、相手に有利な条件を与えて勝つという『心理的マウンティング』が働いている。普通に蹂躙するだけでは実感が伴わない。相手に有利な条件で勝利して心理的優位性を誇示し、止めを刺す。
 合理的でない思考。
 合理的でないからこそ、三訓の行動を逆算し易かったのだろう。
 学者肌でコスト優先で考える三訓はどうしても、明確に定義が為された事象にしか『前向きに捉えようとしない』。変数だらけで計算が難解になる感情や喜怒哀楽は最初から切り捨てる。
 行動分析学を学ぶ上で、その学問で出来る事と出来ない事を把握した後に、それに類する学問を学んで、本来学んでいる学問を増強させるのは珍しくない。
 結果、三訓は人間の感情や記憶ほど頼りにならないものはないと、あっさりと切り捨てた。否、意識的に切り捨てる事ができる技術を修得した。
 重要視するのは自分の感情のみだ。
 自分勝手な論理であっても、それが人間という変数の塊であると、詭弁を自分に対して弄している。
 三訓が感情で動くのは、自身にとって重要な意味が有る。
 常に行動分析を行うべく、五感で覚える全ての情報を処理していたのでは、途端に脳疲労に陥る。
 本当に必要な時にだけ、行動分析学とその他学問を発揮しているが、その優先順位は感情が「これは大事だ」と注目した時に初めて理性が働いてそれを観察対象とする。
 三訓とて人間である。疲れれば倒れるし、腹が減れば食事をして、抑えられない性欲も持っている。一日に投入できる心身のリソースは有限だ。何度も会社の産業医に疲労を注意されている。
 三訓はリノリウムの床を歩きながら、右手に構えたS&Wガバナーに左手を添えて、アイソセレススタンスを維持して廊下を進む。
 窓際に来ると頭を伏せて外部からの狙撃に備え、曲がり角ではコンパクトのミラーで角の向こうを確認する。これだけ慎重になっても、口から、いつの間にか火の消えた葉巻を銜えたままで捨てないのが三訓らしい。
 彼女は恐怖している。その感情を耳目にする全てを分析するという知性化の防衛機制で抑えているだけだ。
 鉄火場専門の訓練を受けたが、鉄火場専門の戦闘要員ではない。「鉄火場に発展しても生き残って帰れるように」という最低限の戦闘訓練だ。護身の為の拳銃の撃ち方より少しアグレッシブなだけで、プロや大火力に本格的に対抗する技術はない。
 中間処理施設内部を支配する空気は清掃されて、まだ新しい物件特有の、『最後の清掃の匂い』がした。消毒や防カビの処理が為された思われる薬品の臭いがかすかに残る。
 窓からはこの時期にしては珍しい、降り注ぐ陽光が差し、ビジネススニーカーが床を踏むたびに、薄っすらと積もった埃が舞う。
 この中間処理施設を含むスクラップ場は、働く作業員はこの敷地の出入り口付近にあるプレハブ事務所を拠点にしていた。勿論、【大塔商事】が『聖域』として使用するために、何も知らないカタギの人間を臨時や不定期で働かせて業務実績を書類上、作成している。
 普段は【大塔商事】傘下の中小企業が作業――主に海外への盗難車の密輸のための工作――する現場として使われている。
 三訓は、葉巻を噛み潰さないように意識する。
 緊張で視野狭窄に陥るのを防ぐために態と意識を分散させているのだ。特に銃撃戦ともなると、『世界がトイレットペーパーの芯を通してみるように狭くなる』。過集中が知らぬ間に発生する。

――――サーチ&アセスの訓練をもっと真面目に積んでおくべきだったわ。

 サーチ&アセス。発砲後に左右や全周を視認で警戒しつつ、過集中による視野狭窄を回復させつつ再装填などの戦術的行動を、三訓は完全に習得していない。知識として知っているだけだ。
 このような狭い空間でこそ最も必要とされる技能の一つ。たった一つの技能を習得していないという事実が、あたかも、家を出る前に大事な金庫に鍵をかけ忘れたというほど重要な事柄に思えてくる。
 歩みを進める。
 静かな空間。
 狭い空間。
 確実にあいつはここに居る。
 『自分はあいつに嵌められた』という前提で行動する。
 できる限りの最悪の事態を想定して、その想定の可能性を大きい順に論理的に否定していく。
 S&Wガバナーを握る掌に脂っぽい汗がジワリと浮く。
 左手が左腹部のシェル用ポーチからばら弾の4発を抜き、左手の指の間に挟んで、次回の再装填に備える。
 この4発が頼みの綱の一歩手前。
 最後の頼みの綱は合計12発の45ロングコルトだ。
「……」

――――怪しい。確実に居る。態とらしい。態と小さな物音を立てている……。

 目の前のドア。アルミフレームにアルミのドア。オフィスでよく見かけるドア。
 このドアの向こうには中間処理施設の本体である破砕機が鎮座する大きな部屋へと入ることができる。

――――複数の気配はない。誰かが潜んでいる気配もない。
――――私が『正々堂々と勝負をする』タイプだと分かっている。
――――『正々堂々と勝負をする』タイプだと思わせている。
――――『それを知っているのは入谷さんだけ』。

 ドアノブに手を伸ばそうとして一瞬硬直した。
 その瞬間に様々な計算が脳裏を巡る。

――――あいつは『私はイチかバチかの勝負を嫌う』と思い込んでいる……。勝率の高い方法しか選ばないと思い込んでいる。

 だが……。

「!」

 三訓は自分からドアノブを捻った。
 ドアを開け放つなり、部屋に前転しながら飛び込む。
 2拍ほど遅れて短機関銃の銃声。
 7階建てビルのボイラー室で浴びせられた銃声とは少し違う。腹に響くような重量感がある。膨らむような銃声が連なる。
 
――――やっぱり!

 2回ほどの前転の後に立ち上がり、短機関銃の射線からずれた位置にあるフォークリフト用のパレットの陰に身を滑り込ませる。
 緊張と恐怖の震えが葉巻の先端に伝わり、火が消えた葉巻の先端が小刻みに震える。
 敵の裏を掻いた。
 『イチかバチか』の勝負をバカバカしいと笑うタイプだと敵の首魁は思っている。
 実際にそうだ。三訓もバカバカしいと思っている。
 そのまさかの『イチかバチか』を、命が懸かっている局面で披露したのだから、敵からすれば裏の裏を掻かれたので、困惑しただろう。
 それが短機関銃を持っていながら、待ち構えていながら、即応できなかった理由だ。
 三訓が破砕機が有る作業場に転がり込んだ時、短機関銃の銃口は離れた位置にあり、明後日の方向を狙っていたのだ。……その銃口の狙う方向は本来の三訓なら、突入してくるであろう、『誰も想像しない方向からの襲撃に適している』場所だった。
 あいつの銃口は、外部へと通じるドアの数m横にある、鉄線入りの窓ガラスに向けられていた。
 本来ならその通りで、三訓ならば、S&Wガバナーの特性を活かして、弾薬をミックスロードし、最初の2発の散弾で鉄線入りの強化ガラスを叩き割り、その次の4発の45ロングコルトで一気にカタをつける。
 その為に、あいつはこの場に敵は自分が一人でここに居るというアピールをしていた。小さな物音がそれだ。
 三訓は慎重なのではない。確率的に低い可能性を切り捨てているだけだ。
 そして三訓の思考を知り尽くしている……辛酸を舐めさせられた者ならば、それを逆手にとって蹂躙するのが最高の優位性の証明となる。

――――33回かける4。心拍数132。
――――7回かける4。呼吸数28。頻呼吸。浅表性呼吸。胸式呼吸。
――――末梢神経が大忙しね。

 これは恐怖ではない。過剰なアドレナリン放出による生理的副作用だ。三訓は自分という輪郭が崩壊しそうな危機を覚え、咄嗟に自身の現況を生理学と脳科学に置き換えて知性化に逃げる。
 知的な逃避。戦略的撤退ではない。知性化という防衛機制はその場で足踏みしてさらに自分の殻に閉じこもる防衛機制だ。
 皮肉な話に、自分自身とまともに対話できる環境とは、三訓にとっては常に、危機的状況である。
 そしてそれを発現し、それで以て成功体験としたのが、行動分析学を頭に叩き込んだ大学時代の記憶と体験が根幹にある。
 短機関銃の掃射がパレットの山に叩き込まれる。針で突かれたように身を縮こませる。
 樹脂でできたパレットが小刻みに震え、銃弾をことごとく防いでくれるが、何も進展しない……前進も後退もできない、膠着状態に陥る。
 パレットが銃弾によって身震いするたびに、三訓は歯を食いしばる。とうとう、葉巻が吸い口を残して先端を噛み潰して床に落としてしまう。
「『分析屋』ァッ! 生きて帰れると思うなよ!」
 一年前に聞いた忌々しい声が耳に届く。
 粛清対象として抹殺されたのかと思ったが、あの声の張りは間違いなくあの男だ。
 あの男。羽鳥純一(はとり じゅんいち)。記憶が確かならば、45歳。
 破砕機のある、壁際のキャットウォークへと登り、回り込んだ羽鳥はHKと思われる短機関銃の弾倉を交換しながら、三訓を狙い撃ちできる場所を探していた。
 羽鳥は鉄火場に出る事が無い部署に居たので、銃火器は拳銃程度しか使えないはずだ。その証拠に、訓練も十分ではないのか、今でも弾倉を交換しようとして、弾倉挿入口に弾倉を差す事ができず、弾倉上部の何発かを弾倉挿入口の縁にぶつけて床にぱらぱらと落としてしまう。
 羽鳥純一。キャットウォークの上で黒い戦闘服を着た男。野性味の薄い男が怨嗟の情だけで顔を鬼のように変貌させている様は、人間の怨念の底の見え難さを物語っていた。
 彼女が嘗て社内の監査でスパイだと看破した羽鳥という男。
 三訓の『分析屋』としての腕前を買われて監査部に派遣されていた頃の話だ。
 羽鳥を炙り出した功績が認められ、三訓の給料は同僚と比較しても高給取りとなる。
 勿論それは税金対策をしろという名目で高額な買い物をさせられる会社側の功名な罠だったのだが。
 羽鳥は今、狭い空間で王の如く振る舞い、その威光を銃弾に形を変貌させて撒き散らす。
 キャットウォークでの羽鳥の振る舞いは驚嘆と絶賛に値した。三訓というたった一人の人間を私怨だけで追い詰めようと画策していたのだから。
 本日の急な3件もの『差し込み』をバッティングしない程度にスケジュール調整できる部署は一か所しかない。その部署に口出しできる部署に内通者か協力者が居るのだろう。或いは弱みを握られた誰か。
 羽鳥が『差し込み』の現場に襲撃部隊を編成して投入するのには、まとまった資金が必要だ。襲撃者を外注で雇うのには【大塔商事】のリストに載っていないような小物や零細企業を選ぶのが賢い。
 そうなれば、度重なる襲撃者のグループや手法に特定のパターンが見られなくて当然だった。それぞれ別の事業者で、支払う料金も違うのだから用いる襲撃の手段も違う。

――――内通者と協力者の存在。

 そこまで考えが及ぶと、三訓の目に生気が戻り始める。
 今自分が為すべきことが明確になったからだ。
 今回の全ての騒動を、個人的な私怨ゆえに三訓が単独で対処しなければならない事態だと把握していたが、【大塔商事】内部に内通者と協力者が居るのなら、『それは【大塔商事】の監査部の仕事』に切り替わるので、その二つの存在は頭から切り離して、目の前の羽鳥だけに全力を傾ければいい。
 認知負荷の低減により、急激に頭がクリアになる。倦怠感は抜けないが、頭脳さえ働けばこちらのものだ。……根拠は無いが『そんな予感がした』。
 キャットウォークを右へ左へと移動しながら、羽鳥は近くに主人が居る愛玩犬のように、三訓が潜むパレット周辺に挑発するように銃弾を叩き込む。 
フルオート射撃ではなく3バースと射撃による牽制……だと思ったが、牽制ではなく、元々の射撃の腕前が心許ないゆえの3バースとだと判断できた。
 羽鳥は『ハジキの使い手』ではない。だから短機関銃を選んだのだろう。下手な鉄砲かず撃ちゃ当たるの理屈だ。だからといって先ほどのように気前よく銃弾をばら撒いていたのではあっという間に弾倉は空になる。
 短機関銃の発射速度が体感で計算できない人間特有の焦燥が見える。
 三訓は自分の頭脳が氷のように冷えている感覚を覚える。神経が冴えわたる。口から唾を吐くように、噛み切ってしまった葉巻の吸い口を吐き出す。
「おい、分析屋! た、弾が切れたか? それともけ計算機が熱暴走でもしたか!」
 あの男、あいつ、羽鳥。
 彼の怒号が、錆びが浮いたアルミの壁に反響して僅かに轟く。その言葉にマンド(要求)を見た。
 あいつは三訓にその場から動かないでくれと願っている。こちらの持ち弾が少ないのも承知の上だろう。
 三訓が無為に弾薬を消費して弾切れを誘う、利用可能性ヒューリスティックも伺える。その証拠に「熱暴走でもしたか!」という揶揄で、三訓を『笑える対象』へ格下げしようと試みている。

――――挑発を重ねて心理的な効果を高めようとしている。

 基本的に自分が手を下す時は全ての駒を使い切った時に、漸く自分が現場に出てくる、そんな小心者の使う常套手段だ。
 その小心者がここに居る。
 小心者で首魁の羽鳥が、たった一挺の短機関銃を持って三訓と対峙する。彼の脳内では壮大な劇場が幕を開けているのだろう。
 屋外で三訓の足元に銃弾を叩き込んだ狙撃手。
 クライアントの先行を負傷させ、『三訓の足元に銃弾を叩き込む』だけの舞台装置として雇ったのだろう。
 威嚇射撃としての狙撃と、暗殺目的の狙撃では、発生する料金が段違いだ。前者の方が格安なのだ。しかも三訓には1発だけ。銃声からして5.56mm弾。米国製としても本日のレートで1発50円から85円。国内実売価格がそれの倍でもたかが知れている。
 狙撃手の腕前も威嚇のための狙撃に限定すれば、薄利多売で商売を引き受ける中流の狙撃手が雇える。
 羽鳥の威勢のいい声と、言葉の文節を分析する。

――――どもった。2か所。
――――……非流暢性。かなり焦っているわね。

 三訓は意を決し、遮蔽物から一気に飛び出した。ビジネススニーカーのソールが、小さな砂利と鉄屑を確実に噛む。
「あ、てめぇ!」
 羽鳥のHK短機関銃が吠えた。
 銃弾が、三訓の足元のコンクリートに衝突し粉砕する。小さな破片がスラックスを汚す。三訓は走りながら、S&Wガバナーを右手一杯に伸ばして、ろくに狙わずに2発、放った。
 いつも通りに頼りになる銃声が腹まで響く。
 散弾が羽鳥に届くとは思っていない……どう考えても20m以上離れた位置に羽鳥は居る。
 散弾の粒は届くが、小石を叩きつけた程度の威力しか残っていないだろう。そもそも散弾だ。パターンは大きく開いてしまい、羽鳥の周辺に出鱈目にぶつかるだけで、脅威でも何でもない。
 自分の銃弾は届くが、相手の銃弾は届かない。安全圏からの攻撃で優位性のアピール。悲しい程の小心者の戦術だが、最適解でもある。それを含めてのマンド……「そこから動くな」という要求なのだろう。キャットウォークから降りないのも、少なくとも1階から2階相当への距離が有れば、散弾のエネルギーは低下しているはずという計算ができるらしい。
 2発の散弾は羽鳥の周辺に8か所の塗装の剥がれを作っただけに終わる。


[3−2]

「!」
 羽鳥は頭を伏せて目をきつく閉じた。
 その1拍か2拍ほどの時間に三訓は破砕機の近くにある別のパレットの山へと移動しながら、S&Wガバナーへと2発、補弾する。空のシェルを放り出し、左手の指の間で待機させていた410番2発を押し込む。
 三訓はパレットの陰に駆け込むと、シリンダーを閉じた。壁際。位置関係としては距離を詰めたが5mほど近付いただけだ。
「……」
 パレットの遮蔽からコンパクトをかざし、鏡の世界を伺って羽鳥の位置を把握する。羽鳥も走って移動する。三訓、舌打ち。
 どんなに距離を縮めても対角線上に羽鳥は移動する。この勝負に勝算は有るのか? 三訓にも、羽鳥にも。
 長引けば長引くほど両者とも不利になる。それは小心者なら真っ先に計算に入れるはずだ。

――――何を狙っている?
――――『狙っている』というブラフか?

「……」
 ふと見ると、パレットにはタグ代わりのガムテープが貼られており、ガムテープにはこの現場で作業員が書いたと思われるメモやパレットの所在を示す部署の名前が書かれていた。何処の現場でも見るラベルタグの代わりだ。
「…………」
 再び銃声。3バーストの間隔が広い射撃。
 先程ちらと見た時、羽鳥は御大層な戦闘服に、明らかに度が過ぎた予備弾倉のポーチをぶら提げていた。長期間の単独任務が続くラープ――LRRP(Long Range Recon Patrols)――でもあるまい。その滑稽さに笑うが、あの銃弾一発は三訓の散弾よりも遠くへ飛び、たった一発で三訓を死に至らしめるのに十分な威力を持っている。
 三訓は左手の指に挟んで待機させていた2発の410番を口にくわえると、S&Wガバナーを腹のベルトに突っ込み、左手でタクティカルナイフをSOGのタクティカルナイフを取り出し、親指を跳ねてブレードを起こす。
 ガムテームを細く切り、全長20cm程のテープを作る。
 地面に転がる小さな石や鉄くずの中から小粒のボルトとナットを拾い、規格はM1.4と思われるそれをシェルの雷管に押し当て、細く切ったガムテープで丸頭ボルトの頭部を固定する。突き出たボルトに次々とナットをねじ込んでいく。更に数本のボルトをテープで巻き付ける。
 それを2組作る。
 彼女はパレットの陰から、ボルトとナットで加重した2発のシェルを、放物線を描くように天井の鉄骨へ向けて高く放り投げた。
 放たれたシェルは頂点で一瞬静止し、自由落下を開始する。
 ガムテープで固定されたボルトの先端が、その重量配分によって確実に直下を向き、矢のように床へと加速した。
 コンクリートの床にボルトの先端が衝突した瞬間、その衝撃荷重はボルトの軸を伝わり、底部の雷管へとピンポイントで収束する。
 瞬間。乾いた破裂音。
 撃鉄のない、自重のみによる雷管の起爆。
 それは羽鳥の予測した射線とは全く異なる、キャットウォークの傍、部屋の壁側付近で発生した。
 キャットウォークに立つ羽鳥にとって、それは背後からの奇襲、或いは第三者の介入を予感させる、計算外の音響的攪乱となった。
「な、なんだぁっ!?」
 羽鳥の状況認識が、爆発音へと強制的に引き剥がされる。
 小心者ゆえに包囲されることを最も恐れる彼の銃口が、無人の空間へと彷徨ったその僅か2秒。
 三訓はその隙を見逃さない。
 ビジネススニーカーが床の埃や砂利を蹴り上げ、彼女の体は抜いたS&Wガバナーをアイソセレススタンスで維持しつつ、低く、鋭く、速く羽鳥の死角へと滑り込む。
 距離は一気に10m圏内。
 三訓の氷のように冷えた瞳が、動揺に晒された羽鳥の喉元を、既に『対象』としてロックオンしていた。
 三訓が仕掛けたのは、言うまでもなく、重力と慣性を利用した即席の慣性発火式デコイ。
「!」
 ただならぬ気配を感じた羽鳥は、即座に銃口を三訓が居た位置に定めるが、三訓のS&Wガバナーは羽鳥の胸部を捉えていた。
 躊躇わず、銃口を引く。
 立て続けに3発。
 羽鳥の胸と服の表面が激しく毛羽立ち、体が小刻みに震える。
 
――――さよなら!

 三訓の口角が、ここ暫く浮かべていなかった会心の笑みを浮かべる。八重歯を剥き出しにする、久しぶりの笑顔だ。
 ……だが、その笑顔のまま、三訓は硬直する。
「え!?」
 うなだれかけた羽鳥が両足を踏ん張って体勢を立て直し、HK短機関銃の銃口をこちらに向ける。
「やりやがったな『分析屋』!!」
 地面を這う銃弾。ミシンが縫うようにコンクリの床に弾痕を穿つ。『ミシンの針の先端』が三訓に襲い掛かる。
 三訓はビジネススニーカーの底が床に焦げ跡を残すような勢いでバックステップを踏みながら、軌道を逸らそうと全身を捻る。威嚇の為に夢中でS&Wガバナーの引き金を引く。デホーンドハンマーが異様に重い。
 410番の数粒が羽鳥の左肩や左上腕部に擦過傷を作る。彼の背後の壁に、霧のように細かな血飛沫が弾けるように吹き付けられる。
 軽傷。バイタルゾーン外で、皮膚を浅く削っただけだ。致命傷には程遠い。
 羽鳥は怯むことなく、右手だけで保持したHK UMP45を乱射した。片手だけのコントロールできていない射撃で、銃口が大きく暴れる。
 三訓は自分の足元を出鱈目に穴を穿つ銃弾に、視野と聴覚が急激に『狭くなる』感覚に襲われる。咄嗟に両手を顔の前で交差させて、頭部だけでも守ろうと本能が、彼女の体を操作する。
「がは!」
 三訓の咄嗟の防御も空しく――2本の腕で短機関銃の銃弾を防げるわけもなく――被弾してしまう。
 右脇腹に被弾した彼女は衝撃で左手側の壁に押しやられる。
「……!」
 三訓は歯を食いしばって、迫る壁に対して、『自分の体をぶつけるつもり』で地面を強く蹴る。

――――せめて銃口の死角に入らないと次の一連射で死ぬ!
――――この壁際は……『キャットウォークの直下! この直上の辺には羽鳥が居る!』

 つまり、羽鳥の追撃が有るとすれば、羽鳥は『この場所を確認するために頭を出して覗き込まなければならない。彼はそんなリスクは承知なので必ず、三訓が視界に捉えられる範囲に出てくるしかない』。
 そこまで計算できたのは、壁に惰性で叩きつけられる直前の事だった。計算が終わるや否や、全身に衝撃を覚える。
 右半身に馬に蹴られたような衝撃を覚えて思考が寸断される。
 自分から壁に向かっていったとは言え、全てのエネルギーを身体で受け、頭が白くなりそうなショックにその場に崩れる。

――――やられた!
――――いや、これは予測できた!
――――寧ろ、私が甘い!

 予測外の事態――防弾チョッキ――こそが唯一の定数であるという皮肉。自分が装備していないから相手も装備していないに違いない。自分がそうだから相手もそうに違いない。いわゆる自己中心性バイアス。
 自分を叱責して意識を繋ぎ止める。
 呼吸をする度に図太い針を突き刺されるような激しい痛みが右脇腹から彼女の脳天を襲う。
 羽鳥の「やりやがったな!」という叫びには、彼自身の復讐心――被害者意識の反転――が凝縮されている。
 三訓が羽鳥を『監査の対象』――【大塔商事】の敵――と定義し。
 羽鳥が三訓を『分析屋』――自分を壊した元凶――と定義する。
 相互の非人間化が、私刑の泥沼を表している。


[3−3]

 鋭い痛みが三訓の視界も思考を濁らせる。

――――防弾チョッキ……。それくらい着ていて当然よね。
――――痛い。何処が? 右脇腹が。銃は、有る。今は床に寝転がっている。音が少し『遠い』。視野が狭い。狭窄を起こしている。寒い? 暑い? 寒い。痛覚は有る。喉が渇く。みぞおちが痛い。アドレナリンの鎮痛作用が働いている。
――――あ……銃の残弾、ゼロ。

「おしまいだ、分析屋。お前の理屈じゃ、俺みたいな『不条理』は殺せねえんだよ!」
 羽鳥の優越感にまみれた声が作業場に響く。
 小さなカチャカチャという音が聞こえる。弾倉を交換しているのだろうか。
 そういえば……と、三訓は意識が遠のきそうな激痛に冷や汗を流しながら、歯を喰い縛って耐えてS&Wガバナーのシリンダーを開き、痛みに震える指先でエジェクターを押し、空のシェルを排莢する。
 その時漸く、自分は床で仰向けに寝転んでいるのだと自覚した。
 左手を右脇のホルスター――――右脇に45ロングコルト用のスピードローダーを差し込むポーチが常に2個ある――――に手を伸ばした時に、指先に『何も触れない』ことに肝を冷やされた。
「……!」

――――え!?
――――これ……。

 右脇のスピードローダーのポーチが二つとも粉砕されており、跡形もなく吹き飛んでいる。
 そして、自分は『被弾していない』ことを知った。
 羽鳥の銃弾が右脇腹を掠った際に、スピードローダーのポーチを射貫き、虎の子である45ロングコルトを全弾損失していた。
 ふと目をやると、前方7m程の位置に45ロングコルトだと思われる数発の薬莢が転がっている。確かあの位置で、被弾覚悟で咄嗟に壁に向かって飛んだはず……。
 自分が今、体が自由に動かせないのは、壁にぶつかった時に脳震盪でも起こしたか、それとも、右肋骨が折れているせいだろうか。頭も脇腹も酷く痛い。
 激しい痛みで、撃たれたと思い込んで「創にきずあり、傷にきずなし」の心理的状態――急性ストレス反応――に陥っていたのか。
 自分は致命的な状態に陥っていないと確認できたのは幸いだが、奥の手の45ロングコルトを全て喪ったのは事実だった。痛手だった。
 三訓は右脇腹の痛みを堪えて、奥歯を食いしばり、体勢を整えて壁にもたれると埃まみれの顔を上げた。
 左手首のロレックス。シャンパンゴールドの輝きが、西日に反射して彼女の瞳を焼く。
 午後2時45分。ロレックスが破損していないことに取り敢えず安堵する。

――――『直帰時間まで、まだ、15分ある』。
――――『私のシフトが終わるまで、あと15分』。

 こんな時まで6時間労働――『合計1時間半の休憩時間は含まず』――の間、きっちりと職務を全うしようとしている自分に対して自嘲する。
 本日の業務が終わったらまたバーに行って娼婦を引っ掛けようとしている。
 今から15分以内に止めを刺されるかもしれないのに。
 だらりと下げた左手の指先に冷たい金属が触れて転がる。
「……?」

「分析屋ぁ!! 生きてるか!! 殺しに行くまで死ぬなよ!」
 羽鳥は腹から絞り出すような大声で獰猛に叫びながら、キャットウォークから降りてくる。左腕や左肩の痛みに顔をゆがめながら、両手でHK UMP45を保持し、ゆっくりと三訓が飛び込んだ遮蔽まで歩んでくる。
 羽鳥はこの時を一年も待っていた。
 スパイだと三訓に看破されて組織を放逐された。
 殺されはしなかったが、全ての資産や資金や権利は【大塔商事】にペナルティとして没収され、洗い浚いの情報を搾り取られて、【大塔商事】にも【大塔商事】を敵視する【情報を提供していた組織】にも居場所がなくなった。
 この業界で恐ろしいのは殺される事ではない。
 殺されるのは全てからの解放と同義で、苦痛を取り除く究極の手段だ。
 最も恐ろしいのは人間が心理的に忌避する損失回避性――利得の喜びより損失の悲しみを強く感じ、不合理な判断をする ――が働き、かつての栄光や贅沢や強権を奮う快楽をもう2度と味わえないという絶望に叩き落されることだ。
 美味い酒も美女の体も味わえない。
 快適な豪邸で、快適な生活ができない。
 顎先だけで人の命を篩にかけられない。
 後顧の憂いなく人生を楽しめない。
「……分析してみろよ、犬神。今、お前が死ぬ確率は何パーセントだ?」
 ゆっくりと歩みを進める。
 自分が優位に立っているはずなのに、自分から爆弾に近づくような危機を覚えている。
 何度も羽鳥は立ち止まり、このままあの女の顔を確認しに行く必要があるのかと自問する。
 45ロングコルトの散らばった薬莢を見て、その恐怖が幾分か和らぐ。
 三訓の奥の手が45ロングコルトであるのを知っている彼は、2個分のスピードローダーの破片を見つけると口角を上げた。『計画通りに410番を使い切っていた』のだと確信する。
 【大塔商事】は好きな銃と好きな弾薬を護身用に持たせてくれるが、不要なトラブル――不意な鉄火場の展開やオーバーキルなど――を避けるために、携行する弾数と弾頭の種類には煩い。
 前もって書類で必要な弾数と弾薬を申請しなければ、必要以上の弾数や弾薬は持たせてくれない。それも社内マニュアルとして知っている。 三訓の410番を消費させる為に、外注で『鉄砲玉』を雇って、『聖域』での取引を襲撃させた。
 更に、体力を少しでも削る為に、犬神三訓が好みそうな女子大生に金を握らせて、理由も話さず行きつけのバーに飲みに行かせた。すると簡単に犬神三訓が女子大生を口説き始めて家に持ち帰り、朝まで楽しんでいた。
 コンディションを重要視しながら、不摂生でしか生きている実感が感じられないのは男だけではない。この業界なら女も同じだ。
 確実にあの女子大生を抱いた犬神三訓は今日は朝から余計な体力を消耗しているはずだ。
 この日の為に準備した全てが成就する輝かしい瞬間がそこに有るというのに、彼の心臓は恐怖で圧し潰されそうだった。

 羽鳥の喉から振り絞った言葉に三訓は、返答しなかった。
 
「お、勝手にくたばってるんじゃねぇ!!」
 羽鳥は恐る恐る、遮蔽の向こうに銃口と顔を覗かせる。目に飛び込んできた哀れな姿に思わず、罵声を飛ばす。彼の顔はそのセリフに反して喜色満面だ。
 今までの恐怖を払拭せんばかりに、勢いの強い語気だった。
「おいおいおい! 勝手に死ぬなよ!」
 三訓は……背中を壁にもたれたまま、両足を投げ出し、右手にS&W ガバナーを力なく握り地面に掌を付け、頭をうなだれさせたまま……あたかもそれがファイティングポーズであるかのように維持していたが、生気が感じられない。
 羽鳥、短機関銃を構え、一歩踏み出す。
 カサッと音がする。
 羽鳥は三訓の前方6mの位置で止まる。
 羽鳥は視線を落とし、自分が空になったポケットテッシュの外装を爪先で踏んだのを確認すると、再び、三訓に視線を戻す。
「早く来い」
「!」
 視線を外した瞬間に三訓のドスの利いた声がする。
 目を大きく見開き、羽鳥は仰天する。
 眼に鋭い殺意を湛えた三訓が『こちらを見ている。S&Wガバナーの銃口と共に』。
「……!」
「遅い」
 発砲。ダブルタップ。
 正確には4回引き金を引いていたが、『撃発したのは2発だけだった』。
 1発目は羽鳥の右脇腹を浅く削り。2発目は、右上腕部の肉を大きく削る。
 聴き慣れた45ロングコルトの銃声ではなかった。
 羽鳥は被弾した衝撃で、右手を大きく弾き飛ばされながら、引き金を引く。全く無為にフルオート射撃を撒き散らす。短機関銃の銃弾は三訓の頭上の壁を横一文字に薙いでミシンの縫い跡のような弾痕を穿つ。
 羽鳥は何か喚いていたが、銃声にかき消された。
 彼の体は右腕を銃弾で撃ち抜かれ、その衝撃で独楽のように回転しながら足元から床に崩れていく。
 弾倉が空になったHK UMP45が乾いた音を立てて三訓の足元に転がっていく。
「撃ちやがったな! こいつ、撃ちやがった! な、何故!? そんな! 弾はもう……!」
 羽鳥が喚きながら上半身を左手で支え、その場からふらつきながら立ち上がる。
「完全に優位な状態で……完全な勝利を収めたいけど、必ず不安を抱えているから歩幅や呼吸にその恐怖や緊張が現れているわよ。そもそも、キャットウォークで右往左往するような歩き方をする人間は、普段からストレスに晒されているから何かしらの防衛機制が働いている証拠よ」
 三訓は滔々と喋る。額の間を割るように、汗の筋が流れる。首元は冷や汗でびっしょりと濡れている。
 この局面においても、自分の腕と作戦を信じられなかった羽鳥の敗北であり、その隙をついた三訓の勝利だった。
「!」
 怒鳴り声が呼吸を詰まらせたように止まる羽鳥。
 脂汗が額にびっしりと浮かんでいる。
 微表情が≪嫌悪≫≪恐怖≫≪驚き≫と次々と現れて困惑すら伺える。
 彼の目に映っているのは、いまだにこちらを向くS&Wガバナーの小指が入りそうな図太い銃口ではなく、その両サイドに見えるシリンダーの薬室だった。
 2か所の薬室が黒く、4か所の薬室が白い。
「な、なんだそれ!」
「おっと、動かないで。『あと2回引き金が引けるけど、本当に発砲できるかどうか分からないの』。今引き金を引いて撃てるかどうか試してもいいけど? まあ、この距離なら今度こそ外さないわ」
 最初、三訓はこの部屋……破砕機が置かれている作業場に来た時に、不意打ちをしたが、結果的に先制されて銃撃された。
 その時、三訓が遮蔽のパレットに飛び込んだ時に、羽鳥は弾倉交換をした。
 弾倉交換が上手くいかず、新しい弾倉を弾倉挿入行の縁にぶつけて数発の未使用の実包をキャットウォーク下に溢してしまった。
 その溢した場所に、今、右脇のポーチに被弾した三訓が居た。
 羽鳥の短機関銃は45ACP。三訓のS&Wガバナーは45ロングコルト。条件が揃えば共有できる弾薬だ。
 本来ならばS&Wガバナーはフルムーンクリップを用いて45ACPを撃てるモデルだが、そんな便利なものは持ち合わせていない。
 シリンダーの先端に、丸めたポケットティッシュで塞ぎ、S&Wガバナーをスイングアウトし、6発の45ACPを落とす。
 シリンダーを閉じて、先端からボルトで詰め込んでいたポケットティッシュをきつく押し込んで、辛うじて発砲できるように体裁を整えた。
 三訓は数十秒前を思い出していた。
 その行動が、報われますようにと。


 右脇腹の激痛が、呼吸のたびに思考を断裂させていた。
 三訓は震える指先で、床に落ちたポケットティッシュの残骸を毟り取った。
 粘つく脂汗が、薄いビニールと紙の繊維を指に張り付かせる。
「……っ」
 羽鳥の足音が砂利を噛む。一歩、また一歩。
 彼女は毟った紙を口に放り込み、犬歯を舐めて唾液を分泌させてそれで丸め、銃身の奥、薬室の『底』へと必死に押し込んだ。
 45ACP弾がリボルバーのシリンダー内に沈み込まないための、即席のスペーサー。
 押し込んだ。
 指先が痛い。
 足りない。もう一枚。

 『背後から近づく死の足音』が、心臓の鼓動を追い越そうとしていたのを思い出す。


 やがて、空になったポケットティッシュの外装を捨て、壁に背を凭れさせて、両足を投げ出した状態で座り込み、こうべを項垂れさせた。
 右手に拳銃を力なく握って、いかにも「組織の部品足らん」という気概を匂わせる恰好で座って、『羽鳥を待っていた』。

 そして、発砲。
 4回引き金を引いて2発、発砲できた。
 即興にしては大成功だ。
 無論、排莢しての再装填は考えていない。
 再装填を考えていると敗北する。
 敗北は死を意味する。
 望む死ならば、それはそれで歓迎だが、望まぬ死は遠慮願いたい。
 データとコストが支配する現代に於いては『他人の迷惑にならない死』など、無い。死後こそ処理する人間の手間と苦労は大きい。生きなければならない、生かさねばならない。活かさなければならない。
 元から三訓は羽鳥に対して、『生命として抹殺する』選択肢は考えていない。
 逆転が決定した後も、三訓は羽鳥に殺意や敵意という非言語でメッセージを送り続けて、『妙な真似はしないように』と懇願した。
「『分析屋』ぁ! てめぇ!」
 三訓自身の『不発への予期不安』が表情に現れ、羽鳥への銃口による心理的圧迫――抑止力――を僅かに弛緩させたか? 彼に余裕を与えてしまったか? 羽鳥は目を血走らせて、軽傷の左手を後ろ腰に回して反撃のサイドアームを抜こうとする。
「!」
 三訓は咄嗟に引き金を引いた。
 ダブルタップではない。
 2回引き金を引いても『撃発しなかった』。
 ポケットティッシュを丸めて詰めただけの、無理な装填をしたので雷管に撃針のエネルギーが伝わらず、不発に終わる。
「!」

――――拙い!

 撃鉄が空を切るのに似た軽い金属音と共に、三訓の脳内で、精緻に組み上げられた生存の数式が音を立てて崩壊する。背中に冷たい氷を流し込まれたように寒気が全身を襲う。
 歓迎しない死が脳裏を過る。
 今の三訓の微表情には恐怖しかない。勘の鈍い人間でも十分に察する事ができるほどの明らかな表情だった。
 全身が硬直する。喉が急激に渇き、鳩尾が絞られるように痛む。眼を見開き、迫りくる殺意が可視化されたような羽鳥の憎悪に歪んだ顔から視線が外せないでいた。
 刹那。
 羽鳥の左肩が小さく震える。左脹脛が鮮血を噴きながら大きく揺れる。
 それらの部位から、綺麗な小さな鮮血の飛沫が花のようにぱっぱっと可憐に咲く。
 羽鳥は抜きかけていたらしいサイドアームを抜く直前に、背後から銃撃され、筋肉の緊張で引き金を引き、拳銃を暴発させてしまう。軸足の左足から沈むように再び崩れ落ちる。
 羽鳥の後ろ腰の辺りから滑り落ちた大型軍用自動拳銃が、床に当たって暴発し、その反動で彼の手首を挫きながら弾き飛び出し、床を50cmほど滑る。
 三訓は羽鳥が血飛沫を上げて倒れた直後には、既に彼の背後、羽鳥よ数m向こうの位置に立つ幽霊のような瘦身長躯の黒い男を見ていた。
「少し監査に手間取ってな」
「入谷さん!」 
 幽霊のような男……入谷昭衛を見て、安堵と喜びが混じった表情を浮かべた途端に、体に鉛を流し込まれたように重くなった。
 安堵のあまり、眩暈を覚えた。気を失いそうになる。軽い血管迷走神経性失神――ストレスや安堵などで自律神経が崩れ、心拍数が減少し、血圧低下で脳への血流が瞬間的に減り、眩暈や失神に至る――を引き起こす。
 自分が想像している以上に凄まじいストレスに晒されていたのだと漸く、客観視できた。
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