♯002『構造の牙、鉛の牙』
[2−1]
午前8時02分。
D-4地区。7階建ての廃ビル。……の第4ボイラー室。
三訓は、冷たいコンクリートの壁に背を預け、赤いリングラベルの葉巻を燻らせていた。
【大塔商事】では具体的な地区名を用いて指示しない。情報の暗号化を促すためだ。
D-4地区という区割りの呼称も社員だけの間で通用する暗号の一部なので、『聖域』をレンタルするクライアントにはその暗号を報せない。今では大小問わず、どこの組織でも独自の暗号を開発して、社内言語として用いている。
この暗号は司直の手から逃れるための虎の巻に書かれるほど重要で、組織の長が変わっても暗号の運用システムと資金があればすぐにでも挽回できる。
リスクマネジメントとリスクヘッジを重要視しない組織はすぐに『消える』。
皮肉にもそのアイデアは、国家を与る司法、立法、行政の各機関が旧態然とした動脈硬化的組織形態を維持するばかりに、『思わぬ出来事』に対して柔軟に対処できず廃止と再編を繰り返しているのを見てきた、アンダーグラウンドの人間の間で自然発生的に生まれた概念だった。
「…………」
正面では、【鉄錆】の代表・村岡と【銀蛇】の仲介人・田島が、SDカードが入った半透明の小さなケースを挟んで視線を交わらせている。
――――【鉄錆】村岡……。
――――【銀蛇】田島……。
三訓の視線が机を挟んで向き合う男たちの横顔を見る。
男性の横顔というのは無言でも実に雄弁だ。喉仏と胸鎖乳突筋の動きが視認しやすく、髪が短いので顎の角度や額の際の毛髪の上下が伺い易い。更に我慢、忍耐、ストレスを抱えながらの状況下だと、肩から背筋や肘に緊張の度合いが現れやすい。
コンクリートがむき出しのボイラー室には換気用の窓と大型換気扇があるだけの部屋で、ボイラー自体は架台が残るのみ。上部は既に撤去済み。
30平米ほどの部屋。乾いた黴臭い空気。埃は少ない。光源は必要ない。まだ朝の時間帯で窓から大量の太陽光が差し込む。
部屋の中央に折り畳みテーブル。
この折り畳みテーブルは【大塔商事】傘下のオフィス用品レンタル事業を請け負う会社に用意させたもので、レンタル料の30%が【大塔商事】の取り分だ。
テーブル一つでも料金が発生するのは表向きの企業として、『業務実態のある会社である』というアピールで、特に収益や様々な法人税を公式書類で税務署に申告、納付する時に威力を発揮する。
国税局というのは何処の誰が何兆円稼ごうとも興味は示さないが、その何処の誰かが1円でも支払いに使おうものなら目を光らせる。特に出納の金額が大きければ大きいほど、その目は爛々と輝く。早く脱税の尻尾を見せろと言わんばかりに。
――――村岡……。今のところは問題ないな。
喉仏の上下、1分間に3回。緊張はあるが、隠し事や不穏な予備動作ではない。
――――田島……。視線は定位、鼻腔が膨らんだ。了承か肯定か。
――――この様子だと取引成立までもうちょっとかな。
目前6mの位置で向かい合いながら、お互いの条件を最終確認している男達。
厳つい顔つきを崩さないのは牽制や攻撃ではなく、その表情を作って相手に舐められないようにする古式ゆかしいヤクザのペルソナだ。
ヤクザや任侠団体が絶滅危惧種に指定されて久しいが、前の世代の様式美だけは形骸化しつつも確かに伝統に則って継承されている。
互いが物理的な距離で睨み合いながら、怖い顔で牽制。
モノクロの映画の中でしか見られない光景。年代的に30代の彼ら二人からすれば、その起源――態々、顔を突き合わせて取引する理由と必要性――が何処に有るのか分からないだろう。
『分析屋』の三訓が入社する遥か以前から対面でのこの形式は【大塔商事】で継がれている。
『顔も晒せない臆病者』と言われると脊髄反射で反骨してしまう人間が多いアンダーグラウンドでのリトマス試験紙だ。
顔を晒す勇気が有るのか無いのか?
それにも乗ってこないのなら『聖域』は貸さない。
だからお前らのような小物はいつまで経っても小物なのだ。
……と、勝手に認知が歪んで敵意帰属バイアスを抱く。
個人や集団は多かれ少なかれバイアスで行動する。バイアスの属性は判明しているだけで200種類以上もある。
そのあまたあるバイアスを特定の一方向に向けさせると、操作しやすい。三訓が入社する前からこのマニュアルは出来上がっていた。
行動分析学を学んでいた三訓がスカウトされたのは全く偶然ではない気がしている。スカウトされやすいように大学院時代に私生活のどこかで、無意識に操作されていたのかもしれない。
「……え!?」
霞の漂う晴天を映すのみだった窓ガラスが黒く曇り、不意に陰りが入る。
唐突過ぎる!
三訓の目の前で行われている取引が終了する和やかな雰囲気を見て安堵していた。テンションリダクション――大きな決断や緊張状態から解放された直後に精神的な緊張が緩みんで、注意力が散漫になり警戒心が弱まる心理現象――を突かれた。
全くの無警戒のタイミングでそれらが雪崩れ込んできた。
三訓の思考にブランクが発生する。
派手な音を立てて、窓ガラスが叩き割られ、80年代のSWATを思わせるシンプルで軽量な装備に身を包んだ黒い戦闘服の一団が飛び込んできた。三訓の思考が停止する理由、それは……。
――――『ここは最上階の7階よ!!』
この高さから……窓から派手に登場する方法はラぺリングが最適だが、緊張が解けた人間の、生理的に無警戒な一瞬を突かれると、動物的直感が優位な生物でないと対処できない。
三訓は『計算機ゆえに、計算できなかった』。
ボイラー室の遮光遮音の不透明な強化ガラスが、凄まじい音と共に内側へ爆ぜた。閃光と爆鳴。
「……っ!?」
分析よりも先に、三訓の身体が一拍遅れで生存を選択した。
生存を選択するプロセスはすっ飛ぶような速さだが、一拍のロスはどうしても挽回できない。
ビジネススニーカーの踵が床を蹴り、彼女は隣のボイラーの架台の影へと滑り込む。
右手を左脇へと滑り込ませるが、直後、部屋を埋め尽くしたのは、9mmパラベラム弾の耳を劈くけたたましい連射音だった。
瞬間的に察したのは侵入者は3名。タクティカルベストにフルフェイスのバラクラバ。
彼らの動きには、特定の組織の『パターン』がない。
脳内で敵対組織のリストを高速で検索する。S&Wガバナーのグリップを握っているが、抜き放つ隙間が無かった。
アドレナリンが筋肉と血管を焼き、野性的な本能で認知的リソースを生存へ全振りする。
喉が渇く。
知らぬ間に葉巻を嚙みちぎり、口の中に葉巻の断片が残る。目を硬く閉じ、嵐のような銃声が収まるのを願う。唾棄するように口の中の葉巻を吐き出す。
頭をできるだけ低く。腰より低いコンクリの架台に身を伏せ気味にして遮蔽物にする。
狭い室内に硝煙の臭いが充満する。耳障りな金属の音は空薬莢が転がる音だろう。
自分が連中ならそうする。自分が連中なら意図はどうであれ、襲撃するのなら自分たちが想像もしない場所から襲撃する。
『それを防ぐための入谷はどうした?』
頭の中でパニックに飲み込まれないように彼女は自身の悪癖でもある、防衛機制による代償の一つの知性化に逃げ込む。
人間はネガティブなイベントから逃げ出すために様々な『自分だけの逃げ方や対処法』を幾つか防御反応として備えている。
三訓の場合は不安や恐怖から逃げるために、過剰なまでに認知機能に情報を流し込み、片っ端から解析し、海馬へと送り込み記憶の断片にしてしまう。
不安の入る隙間を埋めてしまう知性化と呼ばれる行動だ。
三訓が行動動分析学を脳に叩き込んだ方法と同じことが、今起きている。
即ち、非常事態。
襲撃者たちは交渉者たちを狙っているのではない。
彼らが無差別に放つ弾丸は、ボイラーの架台を、放置されたツールケースを、そして三訓の周囲のコンクリートを初速毎秒350m初活力450Jの無機質な暴力で削り取っていく。
これは単純な略奪ではない。
取引そのものを無効化するための、嫌がらせだ。
現に村田と田島が短機関銃の洗礼を受けて床で転がり、死にきれずに罵詈雑言交じりの元気な呻き声をあげているのに、止めを刺す銃声は聞こえない。
三訓は目を硬く閉じたまま左脇のショルダーホルスターからS&Wガバナーを抜き放った。
脳内は、様々な知識や記憶の引き出しを開けっ放しで放置している感覚を覚える。パニックの極致に陥り乖離を起こしているのだろう。パニックに陥る自分と、自分を観測する自分。
2.7インチのショートバレル。狙撃など端から考えていない。
彼女は遮蔽の影から右手を精一杯伸ばし、襲撃者たちへ向ける。照準を十分定めずに、重い引き金を絞る。
空気が破裂するような銃声が轟く。手応えはない。
410番の咆哮と同時に、短機関銃の乱射がスイッチを切ったように沈黙した。
今放った1発の410番には4粒のペレットが入っているがそれが悉く命中して無力化したとは考えられない。
「……」
――――入谷さんが仕留めた?
410番口径の咆哮を最後に静寂が訪れる。村田と田島の元気な呻き声を無視すれば。
パリッとガラス片が床で割れる音。
ブラインドファイア気味な発砲の直後に静まり返るボイラー室。
窓が叩き割られ、屋外の冷たい空気が遠慮なく部屋に吹き込み、硝煙を追い出していく。
ノルアドレナリンの急激な沸騰で口喝と鳩尾に痛みを覚えながら、淑女の嗜みとして持ち歩いているコンパクトのミラーごしに室内を伺う。
反転した狭い世界では、この部屋の何処にも襲撃者の姿はなかった。大量の空薬莢が散らばり、致命傷ではない村田と田島が『聖域』の安全神話にクレームを入れるように罵詈雑言を撒き散らす。
窓には襲撃者たちがラペリングで用いたと思われるザイル。暗殺や取引の妨害であろうとなかろうと、これは由々しき事態だ。
三訓は混乱気味の脳内で、古来より伝わる伝統の社訓だけを記憶から引き出して、その緊急時の対応マニュアルと化した社訓を脳内で叫んで、余計な思考を振り払う。
――――報・連・相!!
祝詞や念仏やはたまた、聖書の詩編46編10節「静まって、わたしが神であることを知れ。」と同列であるかのようにその言葉は三訓を一時的に正常に戻す。
スマートフォンを取り出し、然るべきアドレスを呼び出しコールを待つ。
――――え?
ディスプレイを見ると通話不能と表示されている。……が、数秒後に電波が通じる。
こんなに都合よく通話障害が発生するものか。それも『このビルだけに』。
今の時代、通話を含めたネットインフラが不通となるとその事実だけで隣近所レベルで騒ぎになる。このビルが有るD-4地区でそんな騒ぎは、襲撃の直前にも取引の最中にも無かった。
勿論すぐに、その現象には心当たりが有る。
局地的な電波障害を引き起こす、電波法を無視したジャミング装置など珍しくはない。【大塔商事】も用いるが、社会的リスクが大きいので多用しないだけだ。
通話が可能になったスマートフォンで直ぐに入谷の電話番号を押してコール音を聞くが、入谷はなかなか電話に出ない。いつもならこちらから発信すれば2コール以内で応答する。その入谷が……。
「『妙な予感』……」
三訓は朝に聞いた入谷の不穏な言葉を思い出す。
決してあやふやな文言は使わない入谷が、予感というあやふやな表現を使ったのだ。 行動分析学の学徒である三訓としては看過できない言葉だ。
脳は過去の経験、記憶、学習などの情報を無意識のうちに生体電流の速度で検索し、今の状況が、過去の危険や成功のパターンと一致した際、脳が肯定或いは否定の信号を意識的な論理より先に発する。すると、前外側前頭葉が、未来の行動の成功確率を事前に予測し、意思決定に強く影響を与える。
それが予感の正体だ。
脳科学で分解できる、ただの反応に入谷が過敏になっている事自体が不穏で、さらに彼と連絡が取れない事実が一層不穏を強化する。
確かに人間のヒューリステックは馬鹿にできないが、自分が襲撃されて入谷とも連絡が取れないので、三訓の寒気はさらに温度が下がる。
三訓は『入谷という、或る種の依存先』が視野で確認できない強い不安を、用語の羅列で誤魔化していると直感する。それでもやめられないのが彼女の防衛本能なのだ。
今は報・連・相に徹するべきだ。社内マニュアルに従って、市内の総合病院――【大塔商事】直轄の医療機関。救急で銃創や創傷を治療させる為に、海外でGSW(Gunshot Wound:銃創)のMARCH(March Protocol:M: Massive Hemorrhage(大量出血の止血)A: Airway(気道確保)R: Respiration(呼吸・胸部外傷への対応)C: Circulation(循環・ショック対応)H:Hypothermia/Head injury(低体温症の予防、頭部外傷))の実技と実践を経験させた外科医を常に複数人配置している――に連絡を入れる。
喉が渇いて枯れ気味の声を振り絞って救急車を寄越してもらうように手配し、【大塔商事】の自分が所属する部署に連絡を入れる。
脳の伝達物質が恒常性により段々と冷静さを取り戻す。反比例するように倦怠感と空腹を覚える。
これだけ騒ぎが大きくなれば近隣住民も黙っていないだろう。形だけでもパトカーが駆けつけて、形だけでも三訓は拘束される。そして時間を大幅にロスし、給料の査定にも響く。……という予期不安が泡のように膨れがる。
――――あああああ。査定が……。評価が……。ローンが……。
――――取引が……いや、『聖域』が守れなかった!
喉がカラカラに乾く。今葉巻を吸えばさらに喉が渇くのが分かっていても葉巻を欲する。
S&Wガバナーに給弾してホルスターに戻す。
――――清掃コスト、ボイラー室の修理費、取引中断による賠償金。
――――……不条理だわ! この襲撃、誰が得をするの? 私の査定を削る以外に、経済的なメリットが見当たらない!
漸くクールダウンしたのか、頭の中でコストの計算を始める。
今はこの場で救急車の到着を待つ。この時の為に連携する所轄の消防も、【大塔商事】が買収済みだ。
大きな問題は、それらの公的機関の目が曇るほどの袖の下を渡せる巨大犯罪組織に対して、誰が不逞な行為を働いたのか、だ。
今は警察の厄介は避けたいので負傷者がストレッチャーで搬送されるのを見届けると、パトカーが到着する前に、兎のようにビルから逃げた。
[2−2]
午前10時45分。港湾第12倉庫群手前のコンビニ。
明らかに非常事態だった。
入谷とも依然として連絡が取れず。
更に所属する部署からの連絡で、入谷の代わりに派遣する予定だった『監視役』が『交通事故の渋滞に巻き込まれて』到着できず、急遽近隣に住む非番の『監視役』を向かわせたが家を出るなり、背後から何者かに液体のようなものをズボンに振りかけられて、振り向いた直後に『首輪のついていない野良犬』に噛まれ、救急病院で治療中とのこと。……昨今の社会問題の一つである、『狂犬病に酷似したウイルスのキャリアとなった野良犬』が足を引っ張るならぬ、足に嚙みついたらしい。
結果、一人で『立ち会い人』を務める事になった。
取引の現場では『監視役』不在だという事に気付かれては都合が悪い。目の前の『立ち合い人』だけでなく、見えない『監視役』の存在を匂わせているだけで抑止力になっているのだ。
現場へ急行する愛車の中でコンビニに寄り、買い込んだペットボトルの水をガブ飲みし、チョコレートでコーティングした、中も外もチョコレートだらけの菓子パンを3個、次々と胃袋に押し込む。
高ストレス下に置かれた人間は反動で糖分を欲する。自立神経が乱れているので喉が渇く。それは食欲を満たすというより、生存に必要なエネルギーと水分を注入しているだけの野性的な反応だった。
現場の倉庫群の今は状態のいい廃屋となった、管理事務所の一室での取引だった。
午前11時。
2件目の『無記名債権の受け渡し』もまた、予定調和を拒絶した。
三訓が現場に入り、双方の書類を確認しようとしたその瞬間、管理事務所の正面シャッターが外部から下ろされ、その派手な音に反応すべくホルスターに手を伸ばそうと振り向くと、鉄筋コンクリート造りの元管理事務所の換気のために開け放っていた窓に火炎瓶が次々と投げ込まれた。
2人のクライアントの脱出を優先させる為に廊下に出たが、廊下も火が回っており、襲撃者は窓という窓を叩き割り、火炎瓶を投げ込んだらしい。
割れていない窓ガラスを見つけるとS&Wガバナーの散弾で叩き割り、悪態を吐くクライアントを先に脱出させる。
再び口喝と鳩尾に痛みを感じる。認知能力がヤスリで削られているような不快感。
――――交感神経が限界まで高ぶっている!
――――さっきの件と同じ敵対者! 意図は分かっても真意がが分からないのが気持ち悪い!
三訓は混乱気味の脳内の片隅で、湧いてきた疑問を膨らませる事で不安を払拭し、現況の把握に努める。
だが、この「手際」の悪さ。
殺すためではなく、ただ現場を壊すためだけの、執拗なまでの『負債』の押し付け。
……そんな印象を受ける。
明確に敵意や殺意を剥き出しにして襲撃してくれた方が、まだ対処の方法はある。
襲撃者の目的と目標が読めない。
先の襲撃ではラぺリングからのブレイクスルーで短機関銃の掃射、そして、素早い撤退。普通なら波状攻撃を仕掛ける第一波だ。なのに第二波は無かった。
そして、この火炎瓶の攻撃。火あぶりにする意図が有ったとしても、単価が安い火炎瓶とは! 一気に戦術のレベルが低下している。実に有効だが、レベルが低下している。
そして『一番の危機』は、【大塔商事】の情報が漏洩していることだ。
こんなにも行く先々でトラブルが頻発するなど、それも『聖域』で発生するなど有り得ない。
所属する部署や入谷ですら感知できない何かが起きている。
組織内部……それも上層での情報漏洩が疑われるが、勿論、報・連・相に則って、報告はする。内通者や漏洩元の内偵は三訓の仕事ではない。
――――本社の組織戦略と現場の事業戦略の乖離を突かれた!?
鉄線入りの窓ガラスをS&W バナーの弾倉分全てで叩き割ったので、再装填をする。空のシェルをポケットに流し込む。
計量事務所の外で複数台の車が唸りを挙げて走り去るエンジン音を聞く。ここを襲撃した連中の車だろう。三訓は一番最後に脱出した。
残されたのは、燃え盛る債権と、【大塔商事】の縄張りを踏みにじられたという不名誉な事実。
炎上する計量事務所を背後に三訓は、煤で汚れた顔を拭い、葉巻を咥えて火を点けた。「キィィィン」というシガーライターの蓋を跳ね上げる音が今は嫌に耳障りだ。デュポンの音が、焦げ臭い空気の中でどこか虚しく響く。
泣いても笑っても『差し込み』として入っている今日の予定は執り行われる。
計量事務所での取引失敗を、血涙を流す思いで会社に連絡する。
[2−3]
午後1時59分。スクラップ場。
昼食は愛車の中で貪った、コンビニ弁当のみ。それも半分残して捨てる。
交感神経が優位過ぎて食欲が湧かない一方で、何か栄養を補給しないと、という習慣で無理矢理胃袋に流し込んだ。
3件目の『境界線交渉』が本日最大の悲劇となった。
三訓が到着した時、交渉相手の片側と思われる組織は、既に正体不明の狙撃によって崩壊していた。
スクラップ場――事実上の密輸用に非合法に解体するヤード――での惨劇と片付けるには『やや悲劇性に届かない』。死者が居ないのだ。
――――生存者、4。命に別条なし。銃創。短機関銃じゃない。小口径の小銃弾。貫通してる。フルメタルジャケット。
目の前に広がる、地面でのたうち回る被害者の為に救急車を要請しながら、視線を走らせる。
今の彼女の意識は完全に乖離している。
ストレスと混乱からの逃避。
逆に、目の前の事象しか判断できない。
感情を交えての判断や連絡が難しくなっている。
それは現場を仕切る者としては理想に見えるが、現実逃避として人間性を切り捨てたマニュアル人間に変貌したのと同じだ。
――――血液の流動性から推測される襲撃時刻は……約30分前。生存者は取引の先行か。
取り引き現場ではしばしば、クライアントが下見を兼ねてやってくることがある。
その当たり前の警戒心は【大塔商事】への敵意とは見做されないので、『聖域』をレンタルしたクライアントが主体的によく行う。
その際に警護の人員や運転手を先行させて、万が一が発生した際のルートの選択肢を増やす。被害者は先行していたクライアントのどちらかの勢力だろう。
……地面に転がっている拳銃が、揃いも揃って同じメーカーの同じ口径の大型軍用自動拳銃――CZ社のSIG P226のコピー――だ。大量に仕入れた拳銃を持たされた。結果的に、弾薬の共用ができるので長丁場の銃撃戦では優位になる。
場慣れしたプロがこうもあっさりと仕留められている。
――――全員、バイタルゾーンから外れた位置に被弾。掌の胼胝の具合から見て全員、戦闘訓練を受けている。
三訓は落ちていた大型軍用自動拳銃を拾い、撃鉄を目視した後、撃鉄が安全位置にあってもデコッキングレバーを下げる。そして、弾倉を抜き、スライドを引いて薬室から実包を弾き出すと、スライドを引き絞ってスライドストップをかける。スライドオープン。
薬室から銃口に鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
――――弾倉と薬室はフルロード。銃身内部に発射残渣の匂い無し。
救急車が到着する前に、意識の有る負傷者に一人ずつ事情を聴いて報告を詳しくしようと思い、ふと辺りを見回す。
――――車のタイヤ痕……。急発進した……。
――――態と逃がされた!?
――――クライアントが派遣した人間が居るのね。
――――『この惨状の証言者を増やす為』に逃がした……?
地面に視線を落として考える。
負傷者の体には無力化させられる程度の負傷。銃創が一か所ずつ。それだけの腕前を持つ使い手がこの場からの逃走を許すわけがない。やはり【大塔商事】に対する嫌がらせか。
これだけの事態を引き起こして無事で済むはずがない。
組織的な犯行にしても不自然だ。
これまでの襲撃者は統一された戦闘力ではない。
情報漏洩を基に作戦を立てている。
――――嫌がらせ。資金は? 指導者やその層がどんなに優秀でも、具体的に人を動かすのは資金だ。
――――その出どころは? 国の内外で大きな金の動きが有れば、必ず【大塔商事】の然るべき部署が報告を出す。その部署が注視中に起きた事態なのか?
――――資金が有ったとして、どうやって運用している? ロンダリング方法は?
突っ立って腕を組み、口元に手を当てて思考の渦に埋没していた三訓の足元に土煙が鋭く立つ。
「!」
僅かに聞こえてくる銃声。
約0.5秒後に銃声が輪郭を喪ったように薄く轟く。恐らく約370m離れた位置からの狙撃。
三訓は大きなアクションで警戒や防御の行動を取らなかった。
その場に佇む。恐怖で怯んだのではない。相手の意図が薄っすらと分かり始めてきた。
心の中で入谷の『妙な予感』という言葉が浮上する。
狙撃ではない。
足元を狙った、明らかな『挑発』だ。
相手の思惑通りに慌てふためく姿を期待通りに披露してやる義理はない。
三訓は乖離した作用として、恐怖に対して鈍くなっていることに自覚していない。
銃声が聞こえた方向を見る。
顔つきが能面のように、無表情とも『表情を知らない』とも受け取れる顔で、その方向を見ながら胸ポケットに差していた吸い差しの葉巻を咥え、その場で葉巻を銜える。火は点けないままだ。
「おい、『分析屋』! 一年前のことは忘れてねえだろうな!」
拡声器を通した、歪んだ声がスクラップ場に響く。発声源を視線を走らせて探す。
拡声器の声を探している途中で、銃声が聞こえた方向を見る。スクラップ場の高い薄い壁……フラットパネルの仮囲いの数か所が剝がされているのを発見。その隙間から狙撃したのだろう。それ自体は三訓にとって脅威ではなかった。
狙撃手の腕前が確かならば、貴重なイニシアティブを以て、初弾で三訓の頭を撃ち抜いていたはずだ。
それをしなかったのは三訓に対する挑発と、三訓を『そちらの方向』へと向かせるためのパーティ用クラッカーのようなものだった。
視線の先10mの位置に拡声器。恐らくワイヤレス。古めかしいハンドスピーカー型。ジャミングの危機を揃えるような連中だ。誰も操作していない、ぽつんと置かれたハンドスピーカーから『忘れかけていた声』が聞こえてきても何も不思議には思わなかった。
三訓はその声のトーン、独特の抑揚、そして一人称の選び方を、脳内のデータベースと照合した。
――――執着、怨恨、嫌悪。
――――一年前……。
――――ああ、あの社内監査で私がスパイだと報告した男か。
――――仕掛け人が分かれば……。
――――いや、でも……?
「これはこれは。お久しぶりです」
そう、呟く。
この呟きは彼には聞こえていないだろう。
敵の正体に心当たりが有るので、幾分か緊張がほぐれたのか、余計な力が抜けていた。
三訓はガバナーを給弾しておいたことに安堵した。口に加えた吸い差しの葉巻の先端をデュポンで炙る。
残弾は心許ないが……。シリンダーの散弾を全弾撃つと次は即座に45ロングコルトを銜えたスピードローダーを押し込むつもりだ。
予備の弾薬は、すでに午前中の2件の襲撃で携行弾数18発中8発を消費している。弾倉に6発、ばら弾が4発しかない。12発の45ロングコルトの使いどころが肝になる気がした。
声がしただけで三訓は声の主を探そうとしない。探すまでもない。
三訓は、血とオイルが混じった地面を睨みつけた。ロレックスを見る。午後2時15分。
彼女の脳裏では、かつて彼女の分析によって全てを失った男の粘着質な復讐劇だと判別がついた。
「いいわ。そのコスト、私の命で支払わせるつもりなら、高くつくわよ」
彼女は、葉巻を大きく吸い込み乱暴に吐く。吸い差しの葉巻への再着火だったのでニコチンが沈着し始めた苦い味がする。
救急車がそろそろ到着する。
隠蔽する物は特にない。転がっている拳銃程度で騒ぎ立てる救急隊員はいない。搬送された負傷者はGSWの研修を受けた救急救命医によって治療され、形式だけの警察の聴取が行われて釈放される。『そうなるように』なっている。
三訓の瞳に暗い明かりが灯る。
そこには獲物を計算し尽くす『分析屋』の冷徹な殺気だけが宿っていた。
午前8時02分。
D-4地区。7階建ての廃ビル。……の第4ボイラー室。
三訓は、冷たいコンクリートの壁に背を預け、赤いリングラベルの葉巻を燻らせていた。
【大塔商事】では具体的な地区名を用いて指示しない。情報の暗号化を促すためだ。
D-4地区という区割りの呼称も社員だけの間で通用する暗号の一部なので、『聖域』をレンタルするクライアントにはその暗号を報せない。今では大小問わず、どこの組織でも独自の暗号を開発して、社内言語として用いている。
この暗号は司直の手から逃れるための虎の巻に書かれるほど重要で、組織の長が変わっても暗号の運用システムと資金があればすぐにでも挽回できる。
リスクマネジメントとリスクヘッジを重要視しない組織はすぐに『消える』。
皮肉にもそのアイデアは、国家を与る司法、立法、行政の各機関が旧態然とした動脈硬化的組織形態を維持するばかりに、『思わぬ出来事』に対して柔軟に対処できず廃止と再編を繰り返しているのを見てきた、アンダーグラウンドの人間の間で自然発生的に生まれた概念だった。
「…………」
正面では、【鉄錆】の代表・村岡と【銀蛇】の仲介人・田島が、SDカードが入った半透明の小さなケースを挟んで視線を交わらせている。
――――【鉄錆】村岡……。
――――【銀蛇】田島……。
三訓の視線が机を挟んで向き合う男たちの横顔を見る。
男性の横顔というのは無言でも実に雄弁だ。喉仏と胸鎖乳突筋の動きが視認しやすく、髪が短いので顎の角度や額の際の毛髪の上下が伺い易い。更に我慢、忍耐、ストレスを抱えながらの状況下だと、肩から背筋や肘に緊張の度合いが現れやすい。
コンクリートがむき出しのボイラー室には換気用の窓と大型換気扇があるだけの部屋で、ボイラー自体は架台が残るのみ。上部は既に撤去済み。
30平米ほどの部屋。乾いた黴臭い空気。埃は少ない。光源は必要ない。まだ朝の時間帯で窓から大量の太陽光が差し込む。
部屋の中央に折り畳みテーブル。
この折り畳みテーブルは【大塔商事】傘下のオフィス用品レンタル事業を請け負う会社に用意させたもので、レンタル料の30%が【大塔商事】の取り分だ。
テーブル一つでも料金が発生するのは表向きの企業として、『業務実態のある会社である』というアピールで、特に収益や様々な法人税を公式書類で税務署に申告、納付する時に威力を発揮する。
国税局というのは何処の誰が何兆円稼ごうとも興味は示さないが、その何処の誰かが1円でも支払いに使おうものなら目を光らせる。特に出納の金額が大きければ大きいほど、その目は爛々と輝く。早く脱税の尻尾を見せろと言わんばかりに。
――――村岡……。今のところは問題ないな。
喉仏の上下、1分間に3回。緊張はあるが、隠し事や不穏な予備動作ではない。
――――田島……。視線は定位、鼻腔が膨らんだ。了承か肯定か。
――――この様子だと取引成立までもうちょっとかな。
目前6mの位置で向かい合いながら、お互いの条件を最終確認している男達。
厳つい顔つきを崩さないのは牽制や攻撃ではなく、その表情を作って相手に舐められないようにする古式ゆかしいヤクザのペルソナだ。
ヤクザや任侠団体が絶滅危惧種に指定されて久しいが、前の世代の様式美だけは形骸化しつつも確かに伝統に則って継承されている。
互いが物理的な距離で睨み合いながら、怖い顔で牽制。
モノクロの映画の中でしか見られない光景。年代的に30代の彼ら二人からすれば、その起源――態々、顔を突き合わせて取引する理由と必要性――が何処に有るのか分からないだろう。
『分析屋』の三訓が入社する遥か以前から対面でのこの形式は【大塔商事】で継がれている。
『顔も晒せない臆病者』と言われると脊髄反射で反骨してしまう人間が多いアンダーグラウンドでのリトマス試験紙だ。
顔を晒す勇気が有るのか無いのか?
それにも乗ってこないのなら『聖域』は貸さない。
だからお前らのような小物はいつまで経っても小物なのだ。
……と、勝手に認知が歪んで敵意帰属バイアスを抱く。
個人や集団は多かれ少なかれバイアスで行動する。バイアスの属性は判明しているだけで200種類以上もある。
そのあまたあるバイアスを特定の一方向に向けさせると、操作しやすい。三訓が入社する前からこのマニュアルは出来上がっていた。
行動分析学を学んでいた三訓がスカウトされたのは全く偶然ではない気がしている。スカウトされやすいように大学院時代に私生活のどこかで、無意識に操作されていたのかもしれない。
「……え!?」
霞の漂う晴天を映すのみだった窓ガラスが黒く曇り、不意に陰りが入る。
唐突過ぎる!
三訓の目の前で行われている取引が終了する和やかな雰囲気を見て安堵していた。テンションリダクション――大きな決断や緊張状態から解放された直後に精神的な緊張が緩みんで、注意力が散漫になり警戒心が弱まる心理現象――を突かれた。
全くの無警戒のタイミングでそれらが雪崩れ込んできた。
三訓の思考にブランクが発生する。
派手な音を立てて、窓ガラスが叩き割られ、80年代のSWATを思わせるシンプルで軽量な装備に身を包んだ黒い戦闘服の一団が飛び込んできた。三訓の思考が停止する理由、それは……。
――――『ここは最上階の7階よ!!』
この高さから……窓から派手に登場する方法はラぺリングが最適だが、緊張が解けた人間の、生理的に無警戒な一瞬を突かれると、動物的直感が優位な生物でないと対処できない。
三訓は『計算機ゆえに、計算できなかった』。
ボイラー室の遮光遮音の不透明な強化ガラスが、凄まじい音と共に内側へ爆ぜた。閃光と爆鳴。
「……っ!?」
分析よりも先に、三訓の身体が一拍遅れで生存を選択した。
生存を選択するプロセスはすっ飛ぶような速さだが、一拍のロスはどうしても挽回できない。
ビジネススニーカーの踵が床を蹴り、彼女は隣のボイラーの架台の影へと滑り込む。
右手を左脇へと滑り込ませるが、直後、部屋を埋め尽くしたのは、9mmパラベラム弾の耳を劈くけたたましい連射音だった。
瞬間的に察したのは侵入者は3名。タクティカルベストにフルフェイスのバラクラバ。
彼らの動きには、特定の組織の『パターン』がない。
脳内で敵対組織のリストを高速で検索する。S&Wガバナーのグリップを握っているが、抜き放つ隙間が無かった。
アドレナリンが筋肉と血管を焼き、野性的な本能で認知的リソースを生存へ全振りする。
喉が渇く。
知らぬ間に葉巻を嚙みちぎり、口の中に葉巻の断片が残る。目を硬く閉じ、嵐のような銃声が収まるのを願う。唾棄するように口の中の葉巻を吐き出す。
頭をできるだけ低く。腰より低いコンクリの架台に身を伏せ気味にして遮蔽物にする。
狭い室内に硝煙の臭いが充満する。耳障りな金属の音は空薬莢が転がる音だろう。
自分が連中ならそうする。自分が連中なら意図はどうであれ、襲撃するのなら自分たちが想像もしない場所から襲撃する。
『それを防ぐための入谷はどうした?』
頭の中でパニックに飲み込まれないように彼女は自身の悪癖でもある、防衛機制による代償の一つの知性化に逃げ込む。
人間はネガティブなイベントから逃げ出すために様々な『自分だけの逃げ方や対処法』を幾つか防御反応として備えている。
三訓の場合は不安や恐怖から逃げるために、過剰なまでに認知機能に情報を流し込み、片っ端から解析し、海馬へと送り込み記憶の断片にしてしまう。
不安の入る隙間を埋めてしまう知性化と呼ばれる行動だ。
三訓が行動動分析学を脳に叩き込んだ方法と同じことが、今起きている。
即ち、非常事態。
襲撃者たちは交渉者たちを狙っているのではない。
彼らが無差別に放つ弾丸は、ボイラーの架台を、放置されたツールケースを、そして三訓の周囲のコンクリートを初速毎秒350m初活力450Jの無機質な暴力で削り取っていく。
これは単純な略奪ではない。
取引そのものを無効化するための、嫌がらせだ。
現に村田と田島が短機関銃の洗礼を受けて床で転がり、死にきれずに罵詈雑言交じりの元気な呻き声をあげているのに、止めを刺す銃声は聞こえない。
三訓は目を硬く閉じたまま左脇のショルダーホルスターからS&Wガバナーを抜き放った。
脳内は、様々な知識や記憶の引き出しを開けっ放しで放置している感覚を覚える。パニックの極致に陥り乖離を起こしているのだろう。パニックに陥る自分と、自分を観測する自分。
2.7インチのショートバレル。狙撃など端から考えていない。
彼女は遮蔽の影から右手を精一杯伸ばし、襲撃者たちへ向ける。照準を十分定めずに、重い引き金を絞る。
空気が破裂するような銃声が轟く。手応えはない。
410番の咆哮と同時に、短機関銃の乱射がスイッチを切ったように沈黙した。
今放った1発の410番には4粒のペレットが入っているがそれが悉く命中して無力化したとは考えられない。
「……」
――――入谷さんが仕留めた?
410番口径の咆哮を最後に静寂が訪れる。村田と田島の元気な呻き声を無視すれば。
パリッとガラス片が床で割れる音。
ブラインドファイア気味な発砲の直後に静まり返るボイラー室。
窓が叩き割られ、屋外の冷たい空気が遠慮なく部屋に吹き込み、硝煙を追い出していく。
ノルアドレナリンの急激な沸騰で口喝と鳩尾に痛みを覚えながら、淑女の嗜みとして持ち歩いているコンパクトのミラーごしに室内を伺う。
反転した狭い世界では、この部屋の何処にも襲撃者の姿はなかった。大量の空薬莢が散らばり、致命傷ではない村田と田島が『聖域』の安全神話にクレームを入れるように罵詈雑言を撒き散らす。
窓には襲撃者たちがラペリングで用いたと思われるザイル。暗殺や取引の妨害であろうとなかろうと、これは由々しき事態だ。
三訓は混乱気味の脳内で、古来より伝わる伝統の社訓だけを記憶から引き出して、その緊急時の対応マニュアルと化した社訓を脳内で叫んで、余計な思考を振り払う。
――――報・連・相!!
祝詞や念仏やはたまた、聖書の詩編46編10節「静まって、わたしが神であることを知れ。」と同列であるかのようにその言葉は三訓を一時的に正常に戻す。
スマートフォンを取り出し、然るべきアドレスを呼び出しコールを待つ。
――――え?
ディスプレイを見ると通話不能と表示されている。……が、数秒後に電波が通じる。
こんなに都合よく通話障害が発生するものか。それも『このビルだけに』。
今の時代、通話を含めたネットインフラが不通となるとその事実だけで隣近所レベルで騒ぎになる。このビルが有るD-4地区でそんな騒ぎは、襲撃の直前にも取引の最中にも無かった。
勿論すぐに、その現象には心当たりが有る。
局地的な電波障害を引き起こす、電波法を無視したジャミング装置など珍しくはない。【大塔商事】も用いるが、社会的リスクが大きいので多用しないだけだ。
通話が可能になったスマートフォンで直ぐに入谷の電話番号を押してコール音を聞くが、入谷はなかなか電話に出ない。いつもならこちらから発信すれば2コール以内で応答する。その入谷が……。
「『妙な予感』……」
三訓は朝に聞いた入谷の不穏な言葉を思い出す。
決してあやふやな文言は使わない入谷が、予感というあやふやな表現を使ったのだ。 行動分析学の学徒である三訓としては看過できない言葉だ。
脳は過去の経験、記憶、学習などの情報を無意識のうちに生体電流の速度で検索し、今の状況が、過去の危険や成功のパターンと一致した際、脳が肯定或いは否定の信号を意識的な論理より先に発する。すると、前外側前頭葉が、未来の行動の成功確率を事前に予測し、意思決定に強く影響を与える。
それが予感の正体だ。
脳科学で分解できる、ただの反応に入谷が過敏になっている事自体が不穏で、さらに彼と連絡が取れない事実が一層不穏を強化する。
確かに人間のヒューリステックは馬鹿にできないが、自分が襲撃されて入谷とも連絡が取れないので、三訓の寒気はさらに温度が下がる。
三訓は『入谷という、或る種の依存先』が視野で確認できない強い不安を、用語の羅列で誤魔化していると直感する。それでもやめられないのが彼女の防衛本能なのだ。
今は報・連・相に徹するべきだ。社内マニュアルに従って、市内の総合病院――【大塔商事】直轄の医療機関。救急で銃創や創傷を治療させる為に、海外でGSW(Gunshot Wound:銃創)のMARCH(March Protocol:M: Massive Hemorrhage(大量出血の止血)A: Airway(気道確保)R: Respiration(呼吸・胸部外傷への対応)C: Circulation(循環・ショック対応)H:Hypothermia/Head injury(低体温症の予防、頭部外傷))の実技と実践を経験させた外科医を常に複数人配置している――に連絡を入れる。
喉が渇いて枯れ気味の声を振り絞って救急車を寄越してもらうように手配し、【大塔商事】の自分が所属する部署に連絡を入れる。
脳の伝達物質が恒常性により段々と冷静さを取り戻す。反比例するように倦怠感と空腹を覚える。
これだけ騒ぎが大きくなれば近隣住民も黙っていないだろう。形だけでもパトカーが駆けつけて、形だけでも三訓は拘束される。そして時間を大幅にロスし、給料の査定にも響く。……という予期不安が泡のように膨れがる。
――――あああああ。査定が……。評価が……。ローンが……。
――――取引が……いや、『聖域』が守れなかった!
喉がカラカラに乾く。今葉巻を吸えばさらに喉が渇くのが分かっていても葉巻を欲する。
S&Wガバナーに給弾してホルスターに戻す。
――――清掃コスト、ボイラー室の修理費、取引中断による賠償金。
――――……不条理だわ! この襲撃、誰が得をするの? 私の査定を削る以外に、経済的なメリットが見当たらない!
漸くクールダウンしたのか、頭の中でコストの計算を始める。
今はこの場で救急車の到着を待つ。この時の為に連携する所轄の消防も、【大塔商事】が買収済みだ。
大きな問題は、それらの公的機関の目が曇るほどの袖の下を渡せる巨大犯罪組織に対して、誰が不逞な行為を働いたのか、だ。
今は警察の厄介は避けたいので負傷者がストレッチャーで搬送されるのを見届けると、パトカーが到着する前に、兎のようにビルから逃げた。
[2−2]
午前10時45分。港湾第12倉庫群手前のコンビニ。
明らかに非常事態だった。
入谷とも依然として連絡が取れず。
更に所属する部署からの連絡で、入谷の代わりに派遣する予定だった『監視役』が『交通事故の渋滞に巻き込まれて』到着できず、急遽近隣に住む非番の『監視役』を向かわせたが家を出るなり、背後から何者かに液体のようなものをズボンに振りかけられて、振り向いた直後に『首輪のついていない野良犬』に噛まれ、救急病院で治療中とのこと。……昨今の社会問題の一つである、『狂犬病に酷似したウイルスのキャリアとなった野良犬』が足を引っ張るならぬ、足に嚙みついたらしい。
結果、一人で『立ち会い人』を務める事になった。
取引の現場では『監視役』不在だという事に気付かれては都合が悪い。目の前の『立ち合い人』だけでなく、見えない『監視役』の存在を匂わせているだけで抑止力になっているのだ。
現場へ急行する愛車の中でコンビニに寄り、買い込んだペットボトルの水をガブ飲みし、チョコレートでコーティングした、中も外もチョコレートだらけの菓子パンを3個、次々と胃袋に押し込む。
高ストレス下に置かれた人間は反動で糖分を欲する。自立神経が乱れているので喉が渇く。それは食欲を満たすというより、生存に必要なエネルギーと水分を注入しているだけの野性的な反応だった。
現場の倉庫群の今は状態のいい廃屋となった、管理事務所の一室での取引だった。
午前11時。
2件目の『無記名債権の受け渡し』もまた、予定調和を拒絶した。
三訓が現場に入り、双方の書類を確認しようとしたその瞬間、管理事務所の正面シャッターが外部から下ろされ、その派手な音に反応すべくホルスターに手を伸ばそうと振り向くと、鉄筋コンクリート造りの元管理事務所の換気のために開け放っていた窓に火炎瓶が次々と投げ込まれた。
2人のクライアントの脱出を優先させる為に廊下に出たが、廊下も火が回っており、襲撃者は窓という窓を叩き割り、火炎瓶を投げ込んだらしい。
割れていない窓ガラスを見つけるとS&Wガバナーの散弾で叩き割り、悪態を吐くクライアントを先に脱出させる。
再び口喝と鳩尾に痛みを感じる。認知能力がヤスリで削られているような不快感。
――――交感神経が限界まで高ぶっている!
――――さっきの件と同じ敵対者! 意図は分かっても真意がが分からないのが気持ち悪い!
三訓は混乱気味の脳内の片隅で、湧いてきた疑問を膨らませる事で不安を払拭し、現況の把握に努める。
だが、この「手際」の悪さ。
殺すためではなく、ただ現場を壊すためだけの、執拗なまでの『負債』の押し付け。
……そんな印象を受ける。
明確に敵意や殺意を剥き出しにして襲撃してくれた方が、まだ対処の方法はある。
襲撃者の目的と目標が読めない。
先の襲撃ではラぺリングからのブレイクスルーで短機関銃の掃射、そして、素早い撤退。普通なら波状攻撃を仕掛ける第一波だ。なのに第二波は無かった。
そして、この火炎瓶の攻撃。火あぶりにする意図が有ったとしても、単価が安い火炎瓶とは! 一気に戦術のレベルが低下している。実に有効だが、レベルが低下している。
そして『一番の危機』は、【大塔商事】の情報が漏洩していることだ。
こんなにも行く先々でトラブルが頻発するなど、それも『聖域』で発生するなど有り得ない。
所属する部署や入谷ですら感知できない何かが起きている。
組織内部……それも上層での情報漏洩が疑われるが、勿論、報・連・相に則って、報告はする。内通者や漏洩元の内偵は三訓の仕事ではない。
――――本社の組織戦略と現場の事業戦略の乖離を突かれた!?
鉄線入りの窓ガラスをS&W バナーの弾倉分全てで叩き割ったので、再装填をする。空のシェルをポケットに流し込む。
計量事務所の外で複数台の車が唸りを挙げて走り去るエンジン音を聞く。ここを襲撃した連中の車だろう。三訓は一番最後に脱出した。
残されたのは、燃え盛る債権と、【大塔商事】の縄張りを踏みにじられたという不名誉な事実。
炎上する計量事務所を背後に三訓は、煤で汚れた顔を拭い、葉巻を咥えて火を点けた。「キィィィン」というシガーライターの蓋を跳ね上げる音が今は嫌に耳障りだ。デュポンの音が、焦げ臭い空気の中でどこか虚しく響く。
泣いても笑っても『差し込み』として入っている今日の予定は執り行われる。
計量事務所での取引失敗を、血涙を流す思いで会社に連絡する。
[2−3]
午後1時59分。スクラップ場。
昼食は愛車の中で貪った、コンビニ弁当のみ。それも半分残して捨てる。
交感神経が優位過ぎて食欲が湧かない一方で、何か栄養を補給しないと、という習慣で無理矢理胃袋に流し込んだ。
3件目の『境界線交渉』が本日最大の悲劇となった。
三訓が到着した時、交渉相手の片側と思われる組織は、既に正体不明の狙撃によって崩壊していた。
スクラップ場――事実上の密輸用に非合法に解体するヤード――での惨劇と片付けるには『やや悲劇性に届かない』。死者が居ないのだ。
――――生存者、4。命に別条なし。銃創。短機関銃じゃない。小口径の小銃弾。貫通してる。フルメタルジャケット。
目の前に広がる、地面でのたうち回る被害者の為に救急車を要請しながら、視線を走らせる。
今の彼女の意識は完全に乖離している。
ストレスと混乱からの逃避。
逆に、目の前の事象しか判断できない。
感情を交えての判断や連絡が難しくなっている。
それは現場を仕切る者としては理想に見えるが、現実逃避として人間性を切り捨てたマニュアル人間に変貌したのと同じだ。
――――血液の流動性から推測される襲撃時刻は……約30分前。生存者は取引の先行か。
取り引き現場ではしばしば、クライアントが下見を兼ねてやってくることがある。
その当たり前の警戒心は【大塔商事】への敵意とは見做されないので、『聖域』をレンタルしたクライアントが主体的によく行う。
その際に警護の人員や運転手を先行させて、万が一が発生した際のルートの選択肢を増やす。被害者は先行していたクライアントのどちらかの勢力だろう。
……地面に転がっている拳銃が、揃いも揃って同じメーカーの同じ口径の大型軍用自動拳銃――CZ社のSIG P226のコピー――だ。大量に仕入れた拳銃を持たされた。結果的に、弾薬の共用ができるので長丁場の銃撃戦では優位になる。
場慣れしたプロがこうもあっさりと仕留められている。
――――全員、バイタルゾーンから外れた位置に被弾。掌の胼胝の具合から見て全員、戦闘訓練を受けている。
三訓は落ちていた大型軍用自動拳銃を拾い、撃鉄を目視した後、撃鉄が安全位置にあってもデコッキングレバーを下げる。そして、弾倉を抜き、スライドを引いて薬室から実包を弾き出すと、スライドを引き絞ってスライドストップをかける。スライドオープン。
薬室から銃口に鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
――――弾倉と薬室はフルロード。銃身内部に発射残渣の匂い無し。
救急車が到着する前に、意識の有る負傷者に一人ずつ事情を聴いて報告を詳しくしようと思い、ふと辺りを見回す。
――――車のタイヤ痕……。急発進した……。
――――態と逃がされた!?
――――クライアントが派遣した人間が居るのね。
――――『この惨状の証言者を増やす為』に逃がした……?
地面に視線を落として考える。
負傷者の体には無力化させられる程度の負傷。銃創が一か所ずつ。それだけの腕前を持つ使い手がこの場からの逃走を許すわけがない。やはり【大塔商事】に対する嫌がらせか。
これだけの事態を引き起こして無事で済むはずがない。
組織的な犯行にしても不自然だ。
これまでの襲撃者は統一された戦闘力ではない。
情報漏洩を基に作戦を立てている。
――――嫌がらせ。資金は? 指導者やその層がどんなに優秀でも、具体的に人を動かすのは資金だ。
――――その出どころは? 国の内外で大きな金の動きが有れば、必ず【大塔商事】の然るべき部署が報告を出す。その部署が注視中に起きた事態なのか?
――――資金が有ったとして、どうやって運用している? ロンダリング方法は?
突っ立って腕を組み、口元に手を当てて思考の渦に埋没していた三訓の足元に土煙が鋭く立つ。
「!」
僅かに聞こえてくる銃声。
約0.5秒後に銃声が輪郭を喪ったように薄く轟く。恐らく約370m離れた位置からの狙撃。
三訓は大きなアクションで警戒や防御の行動を取らなかった。
その場に佇む。恐怖で怯んだのではない。相手の意図が薄っすらと分かり始めてきた。
心の中で入谷の『妙な予感』という言葉が浮上する。
狙撃ではない。
足元を狙った、明らかな『挑発』だ。
相手の思惑通りに慌てふためく姿を期待通りに披露してやる義理はない。
三訓は乖離した作用として、恐怖に対して鈍くなっていることに自覚していない。
銃声が聞こえた方向を見る。
顔つきが能面のように、無表情とも『表情を知らない』とも受け取れる顔で、その方向を見ながら胸ポケットに差していた吸い差しの葉巻を咥え、その場で葉巻を銜える。火は点けないままだ。
「おい、『分析屋』! 一年前のことは忘れてねえだろうな!」
拡声器を通した、歪んだ声がスクラップ場に響く。発声源を視線を走らせて探す。
拡声器の声を探している途中で、銃声が聞こえた方向を見る。スクラップ場の高い薄い壁……フラットパネルの仮囲いの数か所が剝がされているのを発見。その隙間から狙撃したのだろう。それ自体は三訓にとって脅威ではなかった。
狙撃手の腕前が確かならば、貴重なイニシアティブを以て、初弾で三訓の頭を撃ち抜いていたはずだ。
それをしなかったのは三訓に対する挑発と、三訓を『そちらの方向』へと向かせるためのパーティ用クラッカーのようなものだった。
視線の先10mの位置に拡声器。恐らくワイヤレス。古めかしいハンドスピーカー型。ジャミングの危機を揃えるような連中だ。誰も操作していない、ぽつんと置かれたハンドスピーカーから『忘れかけていた声』が聞こえてきても何も不思議には思わなかった。
三訓はその声のトーン、独特の抑揚、そして一人称の選び方を、脳内のデータベースと照合した。
――――執着、怨恨、嫌悪。
――――一年前……。
――――ああ、あの社内監査で私がスパイだと報告した男か。
――――仕掛け人が分かれば……。
――――いや、でも……?
「これはこれは。お久しぶりです」
そう、呟く。
この呟きは彼には聞こえていないだろう。
敵の正体に心当たりが有るので、幾分か緊張がほぐれたのか、余計な力が抜けていた。
三訓はガバナーを給弾しておいたことに安堵した。口に加えた吸い差しの葉巻の先端をデュポンで炙る。
残弾は心許ないが……。シリンダーの散弾を全弾撃つと次は即座に45ロングコルトを銜えたスピードローダーを押し込むつもりだ。
予備の弾薬は、すでに午前中の2件の襲撃で携行弾数18発中8発を消費している。弾倉に6発、ばら弾が4発しかない。12発の45ロングコルトの使いどころが肝になる気がした。
声がしただけで三訓は声の主を探そうとしない。探すまでもない。
三訓は、血とオイルが混じった地面を睨みつけた。ロレックスを見る。午後2時15分。
彼女の脳裏では、かつて彼女の分析によって全てを失った男の粘着質な復讐劇だと判別がついた。
「いいわ。そのコスト、私の命で支払わせるつもりなら、高くつくわよ」
彼女は、葉巻を大きく吸い込み乱暴に吐く。吸い差しの葉巻への再着火だったのでニコチンが沈着し始めた苦い味がする。
救急車がそろそろ到着する。
隠蔽する物は特にない。転がっている拳銃程度で騒ぎ立てる救急隊員はいない。搬送された負傷者はGSWの研修を受けた救急救命医によって治療され、形式だけの警察の聴取が行われて釈放される。『そうなるように』なっている。
三訓の瞳に暗い明かりが灯る。
そこには獲物を計算し尽くす『分析屋』の冷徹な殺気だけが宿っていた。
