♯002『構造の牙、鉛の牙』
[1ー1]
犬神三訓は、眠りからの意識の浮上と同時に、まず左手首に伝わる一定の重みを感じた。安心感を与えてくれる重量と存在。
純金製ロレックス・デイデイト。眠りにつく時ですら外すことのないその『腕枷』は、シャンパンゴールドの文字盤の上で、静かに滑らかに時を削り続けている。
早朝のセルフケアの習慣で、右手の人差し指の腹で右頸動脈に軽く触れながら、ロレックスの秒針を見つめる。
きっかり15秒。
15秒間に指先に伝わった拍動の回数×4=現在の心拍数。
――――脈拍64、呼吸数16。覚醒プロセスは……まあ、正常かな。
起床時の段階で、自分のコンディションに異常が無いのを確認するとベッドに横たわる、なだらかな膨らみへと視線を向けた。
横たわる人物の眠りを妨げないように細心の注意を払う。ベッドからするりと降り立ち、何も纏わぬ姿のまま、寝室の窓際へと歩む。
午前5時45分。
日の出まで約1時間。
窓ガラスの向こうの空気は凛と冷たくも、大気汚染の微量物質を大量に含んだ大気が存在し、霞のかからない空というものを、古いドラマの中でしか見たことが無い。
そもそも老人たちが口を揃えて言う、「空が青い」というのは国家規模の集団幻覚ではなかったのか? とさえ、疑ってしまう。
数年前の疫病禍以前からこの国では、国民病の花粉症が蔓延していたのでマスクの着用に忌避感が薄く、諸外国よりも感染者が少なくて済んだという話はデータとして知っているが、貴重な大学生時分を独り暮らしのアパートで、疫病に感染しないように籠城した記憶の方が強い。
前頭前皮質と眼窩前頭皮質が、脳内の断片化された情報を次々と糸で結ぶように繋げていく。
デフォルトモードネットワーク。
表向きは何もしていない。脳内では、散らかった情報の断片をかき集め、必要な記憶だけを記憶の金庫――側坐核――に放り込んでいる脳の生理的機能。
この機能の稼働にはエネルギーがかかる。脳が使うエネルギーの60〜80%を平らげてしまう大食漢だ。例えば何もしないで座っているだけなのに疲れるのは、この機能が脳内で激しく動き回っているせいだ。
この作用こそが閃きや記憶のサルベージを促す。駅のベンチで疲れたサラリーマンがぼーっと座っていたのに、突然思い出したように正気に戻り、突然手帳やスマートフォンを確認するのは、デフォルトモードネットワークの作用により、忘れていた案件を思い出したり、アイデアを思いついた時なのだ。
窓の外を見ただけで、大気汚染、パンデミック、大学時代を次々と連想したのはデフォルトモードネットワークの働きそのものなのだが、人間であるからには必ず、このモードに脳を切り替える機会を設けないと脳疲労の原因となる。
ゆえに近年ではマインドフルネスや瞑想や写経がストレス緩和や認知機能のケアとして再び着目されている。
――――私も皆も、疲れている……。
――――あー、いけないいけない! 意識が自分の内側に向いているわ!
目にすう、と精気が灯る。
ほんの十数秒……少しばかりの、『膨大な無』へのトリップ。
湾岸の静寂を見下ろす高層マンションの24階。
室内は、夜の残滓である重い湿度と、遮光カーテンが作り出す人工的な闇に一部分を支配されていた。
ベッドで眠りの国を徘徊している女。マキ。
昨夜、行きつけのバーのカウンターで、色彩理論と孤独の相関性について語っていた美大生だ。
三訓は再びベッドに近づき、そこに腰を下ろす。『自分がまともに経験できなかった時代を生きている』彼女をどこか物悲しい表情で見る。ほんの数年前の事なのに、もう随分と時間が経ったように思える。
耳下平巻きパーマが印象的な彼女の肌は、朝の微かな光を吸い込んで、仄かに淡く白く発光しているように見える。
三訓は、マキの項から肩にかけての滑らかな曲線に、ゆっくりと人差し指と中指を添えて、指先を滑らせた。
その瞬間マキが小さく身悶えし、三訓の体を探るように彼女の左手が縋り付いてきた。
「……ん、みのり……。もう起きたの?」
マキの声はまだ湿り気を帯び、昨夜の情事の余韻がそのまま粘膜に張り付いている。
彼女の指先が三訓の太腿を、まるで消えゆく夢を引き留めるように強く掻いた。三訓は拒まなかった。それどころか、マキの首筋に顔を埋め、その肌の匂いを深く吸い込んだ。
――――私の感性は非人間的過ぎる……こんな『感想』しか出てこないのなら、自分で自分の頭を撃ち抜きたい。
三訓はマキの、眠気を伴った鈍い微表情から、オキシトシン分泌による親密の要求を見たのだ。脳内にSADFISH(サッドフィッシュ)――人間が生来備えている基本的な感情。Sadness (悲しみ)Anger (怒り)Disgust (嫌悪)Fear (恐怖)Interest (興味)Surprise (驚き)Happiness (幸福)のアクロニム――の知識と情報がが浮かび上がり、たちまちのうちに感情や情欲を塗りけてしまう。
そんな自分が嫌になる。
目の前の一晩愛しただけの女性であっても、気を抜けば、彼女を『サンプル』として観察している自分の癖が嫌になるのだ。自分で自分を侮蔑を孕み、嫌悪する。
疫病禍の折にアパートで籠城していた学生時代。孤独から逃げるための防衛機制として代償が顕著に表れた。……そのうちの一つが知性化だ。
三訓の場合ネガティブから逃れるために、脳に過剰な情報を流入させ、認知機能に負荷をかけて、不安そのものをあやふやにする働きが自動的に行われる。
脳から、不安の要素や不安に対する思考を向けさせまいとして、本やネットで拾える論文を片っ端から読み漁った。
知性化ゆえに認知機能を司る大脳新皮質が活性化するのではなく、その部位に働けと命令している偏桃体は大脳辺縁系にあり、ストレスホルモンでもあるノルアドレナリンにハッキングされているのだ。
そしてノルアドレナリンはネガティブな状況や状態で分泌され、「今度からはネガティブに遭わないように、対処や逃避の為に現在の状況を記憶する」ための記憶増強ホルモンでもある。
三訓は記憶増強ホルモンとしてのノルアドレナリンの影響を強く受けて、耳目にした情報を悉く吸収した。
紙に落とした油が沁み込むように、自分の専攻する学問とそれを補完する学問を覚えてゆく日々……。
高校卒業まで特に明確な目的も無く、大学に入ってもそれは変わらずで、軽い気持ちで選択した心理学部の行動分析学が思いのほか自分に合っていて、モチベーションが上がってきた時期だった。
世界的な疫病の流行で大学は休講が続き、基礎だけをトートロジー的に繰り返し、なし崩し的に大学院に進んで研究をするが……。そこで人生を転換する事件が起きて、社会から落後して現在に至る。
何もかもが上手くいかない中で身に付けた、身に付いてしまった能力。
無職のまま放浪するかと思ったのも束の間、【大塔商事】傘下の企業にスカウト――冷静に考えればこの時、既に【大塔商事】に目を付けられていた可能性が有る――され、就職先の【大塔商事】では珍重されるが、今となっては彼女の特異能力となった行動分析学の臨床での応用は、彼女を冷血な計算機に仕立て上げた。
――――ごめんね……。
彼女の安心しきった寝顔を見ながら、心の中で呟く。
三訓は彼女を愛してはいけないのだ。彼女の全てを読んではいけないのだ。……彼女を知れば知るほど、彼女が危険になる。
三訓の指先が、マキの背骨をゆっくりと、鍵盤を辿るようなリズムで這う。
彼女は単なる『冷たいマシン』ではない。
性愛においても、彼女は等価交換のプロフェッショナルだ。
最高の性的報酬を相手に与え、同時に自らも最大のリソースを回収する。
それが三訓にとっての、恋愛関係に於ける唯一無二の誠実さだった。そして、マキを……マキを含む全ての人を愛してはいけない。
三訓の愛撫は、解剖学的な正確さを以て、マキの性感帯を的確に捉えていく。マキは弓なりに背を逸らし白い喉を見せる。三訓の短く切り揃えられた黒髪に指を深く食い込ませた。
「ああ……好き。好きよ。ずっと、こうして……」
愛の言葉が、汗の入り混じった空気の中に吐き出される。
三訓はその声を、敢えて音声信号として処理しながら、マキの瑞々しい喉が激しく波打つのを見届け、自らもその官能の深淵へと飛び込んだ。
……やがて、互いの性技の限りを尽くし、同時に頂点へと到達する。脳内が白光に塗りつぶされる、刹那の等価交換。
その至福の余韻が冷めやらぬ、数分後。三訓のロレックスが、午前6時30分を告げた。
針の動きを見てしまった。頭の中の時計がカチリと、彼女の中のスイッチが、一切の情を切り捨てて『オン』になった。
三訓はマキの体から、あたかも束縛する縄からするりと抜けるように滑らかに、そして一切の未練を残さずに離れた。
「……みのり? どうしたの……」
マキが置いていかれた小動物のような声を出す。
ベッドの縁に腰掛けた三訓の背中は、既に氷のように硬質な拒絶を纏っていた。
三訓の背中が異様に遠く感じるマキ。手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、マキはもう二度と、三訓に触れられない予感がした。
三訓はベッドルームの洋箪笥の抽斗から黒いレースの下着を摘まみ上げ、出勤の為に衣服を整えるように、無機質な動作で足を通す。
「時間よ。あなたとの『取引の時間』は今、終了したの」
三訓は黒いカッターシャツをハンガーから取り、羽織る。ボタンを外したまま、ナイトテーブルの上に放り出していた革製のシガーケースから赤いリングラベルの葉巻を取り出した。
三訓の声に抑揚は無かった。
政府広報の動画のように感情を感じさせない抑揚のない声。
ベッドの上で困惑に震えるマキを背に、三訓はスッと立ち上がり、空のスパークリングワインのボトルと2脚のシャンパングラスが乗ったテーブルに近寄り、それらの傍のシガーアシュトレイの上で葉巻のヘッドをシガーカッターで切り落とす。昨夜の葉巻の吸い差しと長い灰が一晩の事実を強く記憶に焼き付ける。
困惑の表情のまま事態が飲み込めていないマキの気配を背中に感じる。
――――この瞬間だけは……いつも嫌なのよね……。
デュポンのシガーライターの蓋を跳ね上げ、勢いよくフリントで着火する。……キィィィン。
金属音が、寝室の甘い空気の残滓を鋭く切り裂いた。
いつもより冷たく感じる。
その直後に大きな炎が立ち上る。炎の燃焼でさえ冷気を帯びているように感じた。
葉巻を口に銜え、断面を満遍なく炭化させて吸う。上質な葉巻の香りが、マキの吐息を暴力的に蹴散らしていく。
何かに気付いたのか、マキの呼吸のパターンが変わった。三訓はこの瞬間がいつも嫌だった。
「嘘……あんなに優しかったのに。全部、演技だったの?」
三訓はマキの言葉など意に介していない表情で、葉巻を銜えたまま、左手首のロレックスに目を落とした。午前6時33分。
「演技じゃないわ。私はあなたに快楽を与え、私も得た。完璧なイコール・トレードよ。けれど、そこまでなの。それ以上にはならなかった。ならなかったのよ、マキ。だから、この話はここでお終いなの……」
三訓は美味いはずの葉巻を、苦い薬でも飲むかのように眉を小さく顰めながら大きく吸い込む。
今すぐ、この部屋を葉巻の臭いで埋め尽くしたかった。
昨夜の思い出と、先ほどの思い出を早く消すために。
この部屋の臭いに不快を感じて、マキが早く逃げ出すように願う。
これは好きな『匂い』ではなく、虫や動物に使う忌避剤の『臭い』だと三訓の嗅覚は訴えていた。
自分の非人間的な感情に暗澹たる思いに沈みそうだ。
「……このサイコパス! あなた、人間じゃないわ!」
マキは声に蔑みを含んで罵倒する。
――――それもよく言われるわ。
非難の声が背中越しに浴びせられる。
マキの涙交じりの絶叫を背中で受け流し、三訓は下着の上にカッターシャツを着たまま、寝室を出た。
瞳には、もはやマキの影すら残っていない。脳裏からマキとの一晩の思い出は、思い出として記憶されず、性的衝動の発散を行っただけという履歴として記憶される。
三訓は人を愛してはいけない。
それは自分の弱点になるだけでなく、愛する存在とその居場所を守り通せるほどの自信家ではなかったからだ。「それはやってみなければ分からない」「やりもしないで諦めるのは愚かだ」などという論点のずれた妄言に振り回されるほど三訓はロマンティストではない。
どんな猛特訓をしたところで、今すぐに三訓が全方位に対して鋼のように強くなり、資産や安心安全が確保された居住地を入手できるわけがない。
明日、否、今日マンションのエントランスから出た途端に頭を撃ち抜かれて死ぬかもしれない。そんな世界に住んでいるのだ。
三訓は今日を全力で生きる事しか考えていない。
勤務先の【大塔商事】にしても三訓はかけがえのない存在というわけではない。
組織というのはその規模の大小にかかわらず、誰かが抜けても、誰かが即座に穴埋めできるシステムが整っている状態を指す。三訓が理不尽に死んでも、【大塔商事】は何処からか三訓の代わりを呼んで、空いた席に座らせるだけだ。
三訓が一夜限りの関係しか契ろうとしない理由がそれだ。
マキの存在は三訓の性的衝動が先走ったおかげで、彼女との『一夜の契約』を結ぶ前に犯したミスだった。『いつもならもっと後腐れなく他人になれたのに』。
最近感じる嫌な予感から逃げるために、気が急いて選んだ女がマキだっただけだ。もう2度と会うことは無いだろう。
素人の女は新鮮な経験を与えてくれるので好物だ。だが、度々今回のような失態を犯してしまう。
娼婦だけでは色香が強すぎて、食べ過ぎると胸やけに似た感覚を覚えるので、つい、素人に手を出してしまう。特に自分より年下だと下心が逸るので、今まで数えきれないほど自分を戒める事態を経験している。
[1−2]
まだ暖房が十分に効いていない、カーテンも開けていない薄暗いリビングルーム。
ロレックスに視線を落とす。
少し前にマキが消えた。
寝室から、衣服を整えたマキが怒りを露にした表情で……怒りを露にしていたであろう足音を立てて、飛び出していき、玄関が開錠される音を聞いた。玄関ドアが閉まると、完全に三訓だけの空間が復帰した。
ロレックスはマキが飛び出て三訓が独りになるまでに、秒針が17周したことを告げていた。
三訓の不甲斐なさとマキの怒りが覚めるには、まだまだ時間が足りない。
リビングルームでソファに座って黒いレースの下着に黒のカッターシャツだけの姿のまま、火の消えた葉巻を銜えて天井を見る。部屋の中空に紫煙が揺蕩う。
「…………」
濃厚なホンジュラスの香りに包まれたままゆっくり瞑目して、先ほどの朝からの一戦で分泌された幸福物質や快楽物質が平常値に戻るのを体感していた。寂寞感が大きい。それだけマキを心に受け入れていたのだ。
リビングルームのサイドボードで、支給品のスマートフォンがバイブレーションを刻む。
葉巻の火が消えたので、二度目のデュポンを鳴らして葉巻の先端に火を蘇らせた後、漸く、スマートフォンを手に取り、耳に当てた。
ディスプレイには【大塔商事】の自分が所属する部署の名前が表示されていた。
起き抜けにマキとの目合いで体力を消耗したので、いつもより早い空腹を感じながら葉巻を吸い、どうやって『一晩の全て』を削除しようかと思っている、そんな気怠い時間を堪能しているうちに会社からの電話だったので、即座に電話に出なくてもいいか、と、やや怠惰な三訓が顔を出したのだ。
「犬神です」
「起きていたか」
スピーカーから漏れたのは、低音の……しかしどこか実体のない入谷昭衛の声だった。
「ああ、入谷さん。本日のスケジュールに修正でも?」
「ああ。臨時で、な。立ち合いは3件だ。全部『差し込み』だ」
「3件!?」
思わず三訓は素っ頓狂な声を挙げてしまった。
『差し込み』とは予定外の仕事の総称だ。他の『立ち合い人』はどうした!? 全員同じ店で食べて食中毒にでもなったのか? と叫びたい声を飲み込む三訓。
焦りを隠すように葉巻を深く吸い、紫煙を吐き散らしながら、口角を下げる。≪不快≫の微表情。
「午前8時、Dー4地区での【鉄錆】と【銀蛇】の取引。午前11時、Eー1地区東和ビル7階でカードの取引。午後2時、スクラップ場での境界線交渉。午後3時退社時刻、直帰せよとのこと。……妙な予感がする」
入谷が「妙な予感」と言う。凡そ、彼らしくない言葉を発する。
入谷は三訓とは違うタイプの計算方法を使う人間で、その専門家でもあるのだが、自分の専門外や自分の知識外の分からないことは、きっぱりと分からないと明確に発言するタイプだ。
その彼が曖昧な表現を用いるのだから、心に留めようと、耳に神経を集中させる。……それはそれとして、今日は日中の取引が多くないか? なあ?
「……『妙な予感』? 入谷さん、『あなたらしくない表現』ね」
三訓はぶつけても仕方がない言葉を入谷にぶつける。自分の感想に明確な言語化を求めてしまうのは論点がずれている気がした。
この場合の正解は、『差し込み』のラッシュとそれに対応できない部署の人的リソースとスケジュール管理に口出しするべきだ。
「……気配だよ。君には理解できないだろうがね。私はいつも通り、影から監視を続けるが、今日は感情的にならない方がいい。いつも以上に機械になった方がいいかもしれない」
「忠告、痛み入ります。それでも私は『予感』という変数は無視したくないの。……その上でコストに見合う仕事をするだけよ」
マイクの向こうで入谷が息をのむ音が聞こえた。彼は自分が余計な情報を付随させたせいで、三訓がやや意固地になっていると悟ったようだ。
実際に、三訓はその傾向を直ぐに悟った。
自分の言葉を実行しようとする一貫性――サラリーマンとしての意地――が働いているのを感じ、自戒するようにきつく瞑目した。
入谷が通話を切り、直後に今日の取引のスケジュールが暗号で記されたファイルが、社内で作成された社員間で運用する専用SNSで送られてくる。
それに一通り目を通す。
予定だけを見ていれば平凡な取引ばかりで、他の『立ち合い人』でも廻せそうな案件ばかりだ。
社屋だと言われている【大塔商事】の物理的な建物は有るが、世間への韜晦用のビルと社名、屋号。実のところ、三訓は自分が所属する部署の全社員の顔を知らない。これもまたニードトゥノウの法則だ。一人がドジを踏んでも、その一人から情報が漏洩しても被害を最小限に抑えるためだ。
通話を切り、三訓は急激な疲労がのしかかってくる感覚に襲われた。 残念なことに、三訓は普通の人間なのだ。ハリウッドのアクション映画で言えば、冒頭で主人公に殴り倒されてそれ以降出番がない程度の存在なのだ。スケジュールを見て、予定外の大量の仕事が雪崩れ込んでくるとロアスタシス負荷で辟易する程度の普通の人間なのだ。
基本的に『立ち合い人』はワンオペだ。
『監視役』の入谷は別部署に所属する人間で、指令系統が違う。『取引の時だけ、事業部の垣根を超えた合同作業』を行っているのだ。
徹底した情報漏洩予防の為に、わざと『チェック項目が多い手順』を設けている。
作業が煩雑になれば人間は認知資源を大量に消費して疲労する。その時に出るのが『守らなければならない』物を守れなくなることだ。
社内の監査機関が目を光らせているので、『不審なミス』『不要な出費』『優先された不急の用件』などを調べ上げると『意図した情報漏洩の工作』のうっかりミスを見つけやすくなる。
社員に自覚できないレベルの疲労を負わせ、油断した時に出るボロを狙っている。この仕組みに自力で気がついた三訓は誰にもこの仕組みを話していない。要らぬ詮索や謎解きは寿命を縮める。
火の消えた葉巻を銜えながら、暖房が効き始めた室内を歩き、キッチンで朝食を作り始める。
朝はガッツリ食べたいタイプなので、厚切りベーコンを5枚、卵を3個使ったベーコンエッグとボウルのようなガラスの器にレタスとキャベツを中心にした野菜サラダを山のように盛り付け、一斤のパンを半分に切っただけの炭水化物の塊を添える。
ベーコンエッグに何をかけるかは拘りが無く、その日の気分で決める。今日は塩コショウだ。
これだけのカロリーを摂取しても昼前には空腹になるので何とも燃費が悪い話である。
それだけ頭脳を使う。
思考する大脳新皮質だけでなく、感情で判断する大脳辺縁系もフル稼働しているのだから、三訓という個体の生命の全てを司る脳幹も大忙しだ。
更に現場が鉄火場の空気を孕んだり、鉄火場に発展するとS&Wガバナーを抜いて応戦するので、カロリーの消費は指数関数的に加速する。
美食や健啖なわけではないが、平均的なカロリーより多めの分量を食べないと体がもたない。
アンダーグラウンドの世界で生きている人間だから、映画やドラマで見るような荒くれ者の食事みたいに酒とジャーキーだけの粗食ではとてもじゃないが、仕事を全うできない。睡眠と食事と休養だけは維持しないと、殺されて命を落とす前に、不摂生で命を落とす。
実のところ、アンダーグラウンドの世界では常にストレスに晒されているので、生活習慣病やガンや精神疾患は深刻な問題で、若くして脳梗塞や心筋梗塞で現場で突然死というのは珍しくない。
巨大な反社会組織の筆頭である我らが【大塔商事】でさえ、産業医とカウンセラーを導入し、毎年、社員全員に健康診断を受けさせている。貴重な人材を鉄火場や報復以外で失いたくないのが透けて見える。昨今では、人的資本投資の収益率は有形資産への投資を上回るとも示唆される。単なるコストではなく、将来の企業成長のための投資と位置づけられている。
表向きの企業の看板を守る為に社内レクリエーションや慰安旅行、社内カレンダーによる140日以上の休暇も保障されている。
表世界の人間からシノギを取っているアンダーグラウンドの世界でさえ、心身の健康は無視できない問題なのだ。
――――あー。塩分が甘く感じる……。
――――疲れてる……。
食育が行き届いた親に育てられた健康優良児のようによく噛んで嚥下する。
食事の時間は決まった時間に決まった量を摂りたいが、最近は乱れ気味だ。
睡眠時間も『アフターファイブ』を優先してしまい、良質な睡眠とは言えない。自分のバイタルを無視した運動――銃撃戦――もあまりよくない傾向だ。
一人でいる時に思考が自分の内側へ向かっていく時は脳疲労の前兆なので、意識を昼食に集中させる。
意識が自分の内側へ向かうと、内省の顔をした後悔や預言者の顔をした予期不安が付随してネガティブな方向へと思考が加速する。
こんな時は五感を外側へ向けて、その情報を脳内で実況するのが最適解なのを知識として知っている。ただ、実行が難しいだけだ。
目の前の朝食を目視してどれを食べるか、どの順で食べるかを楽しみ、口の中の味の変化を、自身の少ないボキャブラリーとレトリックで表現してみる。
耳は遮断。背景のホワイトノイズ程度に意識しない。
存分に朝食を楽しんだ後のコーヒーの香りを楽しんで、芳醇な熱いそれに唇を浸して、静かに飲む。
今ここに意識を集中させる。
同僚が命を落とす時は、決まって、数日前から平凡なミスを繰り返していた。
集中力が途切れる要因は複合的だ。そのうちの一つに、意識が自分の内側に向いた結果、浮上した後悔や不安で『よくないモノや事を思い出したり、よくない方向の予期不安を意識し過ぎて』、それらネガティブに注意力を削がれてしまい、普段ではありえないミスで命を落とす。……それこそ、『銃の薬室に実包を送り込むのを忘れている』のに銃を構えて飛び出た瞬間に、銃口を向けて引き金を引いても弾が出るわけもなく、逆に撃ち殺される事も多い。
朝食後にコーヒーを飲みながら、葉巻の紫煙を薄く長く吐く。
これまた健康にはよろしくない行為だが、これくらいの悪行は勘弁してもらいたいと、どこかの誰かに心で呟く。
食後に手際よく、食洗器に食器を預けて、出勤のための衣服を身にまとう。
彼女が黒いスーツに黒いカッターシャツ、黒いビジネススニーカーを選ぶのは社内規定ではなく、服を選ぶという行動で認知資源と時間を消費したくないからだ。
懐に銃を呑み込む職業でなければ、Tシャツとジーンパンツにスニーカーでいいと思っている。
女だからと取引の現場で嘗められても困るので、心身の増強の為に精一杯、身体化認知を計ってこの服を着ている。
衣服に対するその考えは、三訓が大学在学中に至った『答え』の一つだ。同じ人間でも着ている物が、全裸とジャージとスーツでは思考や意見が微妙に変わるのは当たり前だと思っている。
朝はなるべく頭を使いたくない。
朝からTVを見るのは愚行でしかない。朝でなければ手に入らない情報などたかが知れている。本当に必要な情報は時間を選んでやって来ない。
左脇のショルダーホルスターにS&Wガバナーを差し込んだ。
安心感のある重量。
ロレックスとデュポンのシガーライターとS&Wガバナーが揃って初めて『武装した』という実感が浮かぶ。重量感を覚えているうちは自分はまだ正気であると思い込んでいるような、そんなロジカルではないジンクスさえ感じている。
410番口径。2.5インチシェル。フェデラルパーソナルディフェンス、000バックショット。
6発の暴力の結晶。
出来る事なら一発も発砲せずに済む事を願うのみ。
『聖域』をレンタルする全ての客が好意的だとは限らない。それを前提に自分や入谷のような人間だけを集めた専門の部署が作られている。
そこそこ頭が回り、そこそこハジキの腕が立つ、給料の支払いが良好なうちは裏切る確率が低い人間が重宝される。
更にその重宝する人材を監視する『監査役』も居るのだから、上層部の人間が素顔を世間に露出するはずがない。
彼らは自分たちの命が惜しいのではなく、自分たちが運営する組織の持続可能な未来の為に、白黒思考とレッテル貼りとべき思考を組織の運営に組み込んでいるだけだ。
敵か味方か。
あいつは敵に違いない。
『我々』はかくあるべし。
車のキーをポケットに入れて玄関でビジネススニーカーを履く。
今朝は寝室で葉巻を吸ったので、帰宅すると葉巻の味は苦く変貌するのだろうと想像し、苦い笑いがこぼれる。
朝の情事は忘れつつあるのに、帰宅する頃にはマキとの思い出はただのログとして処理されて側坐核の一部になっている。
……マキと最後の情事を交わした場所で葉巻を吸ったのはやはりミスだ。
必ず自動的にプルースト効果――匂いが過去の記憶や感情を呼び起こす現象――のせいで、マキの肌の温かさや指先の湿り気を思い出す。
素人の一夜限りの女との別れはいつもこうなのに全く学習しない自分を侮蔑する。
性的快楽でないと忘れられない疲労や悩みもあるのだ。それが対処療法だと分かっている上で自分で自分を侮蔑する。
玄関を出ると、朝の冷気が肺を刺した。
外の空気は冷たい。
マンションの廊下。
28階建て高層マンションの24階フロア。
湾岸部からのオーシャンビュー。
分譲物件。
一つの集合物件に【大塔商事】の社員は住めない。
これもまたリスクの分散だ。社員に高級物件をローンで買わせて、その支払いを続けさせることで、社員が逃亡する理由を失くしやすくするためだ。
悔しいことに、【大塔商事】――の、看板がかかった企業――の社屋がある地区まで通勤に便利で交通の便も申し分なし。更にガソリン代も一定金額までは【大塔商事】が負担してくれる。
ホワイト企業とブラック企業の側面のハイブリッドゆえに抜けたくても抜けられないジレンマが発生する。
三訓は論文として読んだことが有る。『人間は緊張の連続で常に疲労を感じ続けると、脳が認知的リソース軽減のために、ストレスを考えない方法を無意識に模索し、その方向ばかり考える』。所謂、現状維持バイアスの典型だ。
社員が支払いの為に働き続けると、どんなにタフでも必ず常に小さなストレスを無意識のうちに抱え込み、無意識のうちに楽な方法を考える。結果、今の会社から別の会社へ転職を考えようにも、常に疲れているので思考を停止、または低下させて、「今の環境が楽だ」と感じて転職や『足抜け』は別の機会に考える――その別の機会は、巡る度に同じことを考えて、また別の機会に考えようとする――ので、【大塔商事】の手厚い福利厚生は疲労した人間には甘く心地よいアリジゴクなのだ。
ストレスを感じない人間など存在しない。
葉巻を左手の指に挟み、廊下に漂う冷気を吸い込みながら姿勢を伸ばして歩く。
高層マンションはカタギの富裕層しか住んでいないが、それが三訓のような人間に『早まった行動』を起こさせない安全装置として働いている。
悔しいがそれも【大塔商事】の方針だ。いくら警察に賄賂が効いていても、カタギの人間全てに賄賂や口止め料をばら撒くわけにはいかない。
カタギの人間からのSNSでの拡散は何としても避けたい。
従って、高層マンションの共有スペースに当たる部分ではカタギが運営する高層マンションのルールに従う。
ここで一番身分が高いのはカタギの人間で、一番身分が低いのは三訓だ。
アンダーグラウンドの人間でも衣食住が足りているからこそ反社会的な活動が可能になる。ただでさえ異なる社会構造の住人達が犇めく高層マンションだ。些細なトラブルでも避けたい。
三訓はオペラント条件付けによってパノプティコンを棲み処にするように躾けられているように感じるが……恐らく気のせいではない。
ビジネススニーカーがアスファルトを捉える。
一晩の情事は既に償却された。消却された。……そう思いたい。
向かう先はD―4地区。通称『塵溜め』。
――――入谷さんの言葉が気になる。
――――いや……今は取引の事だけ考えよう。
三訓は再びロレックスを見た。午前7時35分。彼女は地下駐車場へと向かう。
犬神三訓は、眠りからの意識の浮上と同時に、まず左手首に伝わる一定の重みを感じた。安心感を与えてくれる重量と存在。
純金製ロレックス・デイデイト。眠りにつく時ですら外すことのないその『腕枷』は、シャンパンゴールドの文字盤の上で、静かに滑らかに時を削り続けている。
早朝のセルフケアの習慣で、右手の人差し指の腹で右頸動脈に軽く触れながら、ロレックスの秒針を見つめる。
きっかり15秒。
15秒間に指先に伝わった拍動の回数×4=現在の心拍数。
――――脈拍64、呼吸数16。覚醒プロセスは……まあ、正常かな。
起床時の段階で、自分のコンディションに異常が無いのを確認するとベッドに横たわる、なだらかな膨らみへと視線を向けた。
横たわる人物の眠りを妨げないように細心の注意を払う。ベッドからするりと降り立ち、何も纏わぬ姿のまま、寝室の窓際へと歩む。
午前5時45分。
日の出まで約1時間。
窓ガラスの向こうの空気は凛と冷たくも、大気汚染の微量物質を大量に含んだ大気が存在し、霞のかからない空というものを、古いドラマの中でしか見たことが無い。
そもそも老人たちが口を揃えて言う、「空が青い」というのは国家規模の集団幻覚ではなかったのか? とさえ、疑ってしまう。
数年前の疫病禍以前からこの国では、国民病の花粉症が蔓延していたのでマスクの着用に忌避感が薄く、諸外国よりも感染者が少なくて済んだという話はデータとして知っているが、貴重な大学生時分を独り暮らしのアパートで、疫病に感染しないように籠城した記憶の方が強い。
前頭前皮質と眼窩前頭皮質が、脳内の断片化された情報を次々と糸で結ぶように繋げていく。
デフォルトモードネットワーク。
表向きは何もしていない。脳内では、散らかった情報の断片をかき集め、必要な記憶だけを記憶の金庫――側坐核――に放り込んでいる脳の生理的機能。
この機能の稼働にはエネルギーがかかる。脳が使うエネルギーの60〜80%を平らげてしまう大食漢だ。例えば何もしないで座っているだけなのに疲れるのは、この機能が脳内で激しく動き回っているせいだ。
この作用こそが閃きや記憶のサルベージを促す。駅のベンチで疲れたサラリーマンがぼーっと座っていたのに、突然思い出したように正気に戻り、突然手帳やスマートフォンを確認するのは、デフォルトモードネットワークの作用により、忘れていた案件を思い出したり、アイデアを思いついた時なのだ。
窓の外を見ただけで、大気汚染、パンデミック、大学時代を次々と連想したのはデフォルトモードネットワークの働きそのものなのだが、人間であるからには必ず、このモードに脳を切り替える機会を設けないと脳疲労の原因となる。
ゆえに近年ではマインドフルネスや瞑想や写経がストレス緩和や認知機能のケアとして再び着目されている。
――――私も皆も、疲れている……。
――――あー、いけないいけない! 意識が自分の内側に向いているわ!
目にすう、と精気が灯る。
ほんの十数秒……少しばかりの、『膨大な無』へのトリップ。
湾岸の静寂を見下ろす高層マンションの24階。
室内は、夜の残滓である重い湿度と、遮光カーテンが作り出す人工的な闇に一部分を支配されていた。
ベッドで眠りの国を徘徊している女。マキ。
昨夜、行きつけのバーのカウンターで、色彩理論と孤独の相関性について語っていた美大生だ。
三訓は再びベッドに近づき、そこに腰を下ろす。『自分がまともに経験できなかった時代を生きている』彼女をどこか物悲しい表情で見る。ほんの数年前の事なのに、もう随分と時間が経ったように思える。
耳下平巻きパーマが印象的な彼女の肌は、朝の微かな光を吸い込んで、仄かに淡く白く発光しているように見える。
三訓は、マキの項から肩にかけての滑らかな曲線に、ゆっくりと人差し指と中指を添えて、指先を滑らせた。
その瞬間マキが小さく身悶えし、三訓の体を探るように彼女の左手が縋り付いてきた。
「……ん、みのり……。もう起きたの?」
マキの声はまだ湿り気を帯び、昨夜の情事の余韻がそのまま粘膜に張り付いている。
彼女の指先が三訓の太腿を、まるで消えゆく夢を引き留めるように強く掻いた。三訓は拒まなかった。それどころか、マキの首筋に顔を埋め、その肌の匂いを深く吸い込んだ。
――――私の感性は非人間的過ぎる……こんな『感想』しか出てこないのなら、自分で自分の頭を撃ち抜きたい。
三訓はマキの、眠気を伴った鈍い微表情から、オキシトシン分泌による親密の要求を見たのだ。脳内にSADFISH(サッドフィッシュ)――人間が生来備えている基本的な感情。Sadness (悲しみ)Anger (怒り)Disgust (嫌悪)Fear (恐怖)Interest (興味)Surprise (驚き)Happiness (幸福)のアクロニム――の知識と情報がが浮かび上がり、たちまちのうちに感情や情欲を塗りけてしまう。
そんな自分が嫌になる。
目の前の一晩愛しただけの女性であっても、気を抜けば、彼女を『サンプル』として観察している自分の癖が嫌になるのだ。自分で自分を侮蔑を孕み、嫌悪する。
疫病禍の折にアパートで籠城していた学生時代。孤独から逃げるための防衛機制として代償が顕著に表れた。……そのうちの一つが知性化だ。
三訓の場合ネガティブから逃れるために、脳に過剰な情報を流入させ、認知機能に負荷をかけて、不安そのものをあやふやにする働きが自動的に行われる。
脳から、不安の要素や不安に対する思考を向けさせまいとして、本やネットで拾える論文を片っ端から読み漁った。
知性化ゆえに認知機能を司る大脳新皮質が活性化するのではなく、その部位に働けと命令している偏桃体は大脳辺縁系にあり、ストレスホルモンでもあるノルアドレナリンにハッキングされているのだ。
そしてノルアドレナリンはネガティブな状況や状態で分泌され、「今度からはネガティブに遭わないように、対処や逃避の為に現在の状況を記憶する」ための記憶増強ホルモンでもある。
三訓は記憶増強ホルモンとしてのノルアドレナリンの影響を強く受けて、耳目にした情報を悉く吸収した。
紙に落とした油が沁み込むように、自分の専攻する学問とそれを補完する学問を覚えてゆく日々……。
高校卒業まで特に明確な目的も無く、大学に入ってもそれは変わらずで、軽い気持ちで選択した心理学部の行動分析学が思いのほか自分に合っていて、モチベーションが上がってきた時期だった。
世界的な疫病の流行で大学は休講が続き、基礎だけをトートロジー的に繰り返し、なし崩し的に大学院に進んで研究をするが……。そこで人生を転換する事件が起きて、社会から落後して現在に至る。
何もかもが上手くいかない中で身に付けた、身に付いてしまった能力。
無職のまま放浪するかと思ったのも束の間、【大塔商事】傘下の企業にスカウト――冷静に考えればこの時、既に【大塔商事】に目を付けられていた可能性が有る――され、就職先の【大塔商事】では珍重されるが、今となっては彼女の特異能力となった行動分析学の臨床での応用は、彼女を冷血な計算機に仕立て上げた。
――――ごめんね……。
彼女の安心しきった寝顔を見ながら、心の中で呟く。
三訓は彼女を愛してはいけないのだ。彼女の全てを読んではいけないのだ。……彼女を知れば知るほど、彼女が危険になる。
三訓の指先が、マキの背骨をゆっくりと、鍵盤を辿るようなリズムで這う。
彼女は単なる『冷たいマシン』ではない。
性愛においても、彼女は等価交換のプロフェッショナルだ。
最高の性的報酬を相手に与え、同時に自らも最大のリソースを回収する。
それが三訓にとっての、恋愛関係に於ける唯一無二の誠実さだった。そして、マキを……マキを含む全ての人を愛してはいけない。
三訓の愛撫は、解剖学的な正確さを以て、マキの性感帯を的確に捉えていく。マキは弓なりに背を逸らし白い喉を見せる。三訓の短く切り揃えられた黒髪に指を深く食い込ませた。
「ああ……好き。好きよ。ずっと、こうして……」
愛の言葉が、汗の入り混じった空気の中に吐き出される。
三訓はその声を、敢えて音声信号として処理しながら、マキの瑞々しい喉が激しく波打つのを見届け、自らもその官能の深淵へと飛び込んだ。
……やがて、互いの性技の限りを尽くし、同時に頂点へと到達する。脳内が白光に塗りつぶされる、刹那の等価交換。
その至福の余韻が冷めやらぬ、数分後。三訓のロレックスが、午前6時30分を告げた。
針の動きを見てしまった。頭の中の時計がカチリと、彼女の中のスイッチが、一切の情を切り捨てて『オン』になった。
三訓はマキの体から、あたかも束縛する縄からするりと抜けるように滑らかに、そして一切の未練を残さずに離れた。
「……みのり? どうしたの……」
マキが置いていかれた小動物のような声を出す。
ベッドの縁に腰掛けた三訓の背中は、既に氷のように硬質な拒絶を纏っていた。
三訓の背中が異様に遠く感じるマキ。手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、マキはもう二度と、三訓に触れられない予感がした。
三訓はベッドルームの洋箪笥の抽斗から黒いレースの下着を摘まみ上げ、出勤の為に衣服を整えるように、無機質な動作で足を通す。
「時間よ。あなたとの『取引の時間』は今、終了したの」
三訓は黒いカッターシャツをハンガーから取り、羽織る。ボタンを外したまま、ナイトテーブルの上に放り出していた革製のシガーケースから赤いリングラベルの葉巻を取り出した。
三訓の声に抑揚は無かった。
政府広報の動画のように感情を感じさせない抑揚のない声。
ベッドの上で困惑に震えるマキを背に、三訓はスッと立ち上がり、空のスパークリングワインのボトルと2脚のシャンパングラスが乗ったテーブルに近寄り、それらの傍のシガーアシュトレイの上で葉巻のヘッドをシガーカッターで切り落とす。昨夜の葉巻の吸い差しと長い灰が一晩の事実を強く記憶に焼き付ける。
困惑の表情のまま事態が飲み込めていないマキの気配を背中に感じる。
――――この瞬間だけは……いつも嫌なのよね……。
デュポンのシガーライターの蓋を跳ね上げ、勢いよくフリントで着火する。……キィィィン。
金属音が、寝室の甘い空気の残滓を鋭く切り裂いた。
いつもより冷たく感じる。
その直後に大きな炎が立ち上る。炎の燃焼でさえ冷気を帯びているように感じた。
葉巻を口に銜え、断面を満遍なく炭化させて吸う。上質な葉巻の香りが、マキの吐息を暴力的に蹴散らしていく。
何かに気付いたのか、マキの呼吸のパターンが変わった。三訓はこの瞬間がいつも嫌だった。
「嘘……あんなに優しかったのに。全部、演技だったの?」
三訓はマキの言葉など意に介していない表情で、葉巻を銜えたまま、左手首のロレックスに目を落とした。午前6時33分。
「演技じゃないわ。私はあなたに快楽を与え、私も得た。完璧なイコール・トレードよ。けれど、そこまでなの。それ以上にはならなかった。ならなかったのよ、マキ。だから、この話はここでお終いなの……」
三訓は美味いはずの葉巻を、苦い薬でも飲むかのように眉を小さく顰めながら大きく吸い込む。
今すぐ、この部屋を葉巻の臭いで埋め尽くしたかった。
昨夜の思い出と、先ほどの思い出を早く消すために。
この部屋の臭いに不快を感じて、マキが早く逃げ出すように願う。
これは好きな『匂い』ではなく、虫や動物に使う忌避剤の『臭い』だと三訓の嗅覚は訴えていた。
自分の非人間的な感情に暗澹たる思いに沈みそうだ。
「……このサイコパス! あなた、人間じゃないわ!」
マキは声に蔑みを含んで罵倒する。
――――それもよく言われるわ。
非難の声が背中越しに浴びせられる。
マキの涙交じりの絶叫を背中で受け流し、三訓は下着の上にカッターシャツを着たまま、寝室を出た。
瞳には、もはやマキの影すら残っていない。脳裏からマキとの一晩の思い出は、思い出として記憶されず、性的衝動の発散を行っただけという履歴として記憶される。
三訓は人を愛してはいけない。
それは自分の弱点になるだけでなく、愛する存在とその居場所を守り通せるほどの自信家ではなかったからだ。「それはやってみなければ分からない」「やりもしないで諦めるのは愚かだ」などという論点のずれた妄言に振り回されるほど三訓はロマンティストではない。
どんな猛特訓をしたところで、今すぐに三訓が全方位に対して鋼のように強くなり、資産や安心安全が確保された居住地を入手できるわけがない。
明日、否、今日マンションのエントランスから出た途端に頭を撃ち抜かれて死ぬかもしれない。そんな世界に住んでいるのだ。
三訓は今日を全力で生きる事しか考えていない。
勤務先の【大塔商事】にしても三訓はかけがえのない存在というわけではない。
組織というのはその規模の大小にかかわらず、誰かが抜けても、誰かが即座に穴埋めできるシステムが整っている状態を指す。三訓が理不尽に死んでも、【大塔商事】は何処からか三訓の代わりを呼んで、空いた席に座らせるだけだ。
三訓が一夜限りの関係しか契ろうとしない理由がそれだ。
マキの存在は三訓の性的衝動が先走ったおかげで、彼女との『一夜の契約』を結ぶ前に犯したミスだった。『いつもならもっと後腐れなく他人になれたのに』。
最近感じる嫌な予感から逃げるために、気が急いて選んだ女がマキだっただけだ。もう2度と会うことは無いだろう。
素人の女は新鮮な経験を与えてくれるので好物だ。だが、度々今回のような失態を犯してしまう。
娼婦だけでは色香が強すぎて、食べ過ぎると胸やけに似た感覚を覚えるので、つい、素人に手を出してしまう。特に自分より年下だと下心が逸るので、今まで数えきれないほど自分を戒める事態を経験している。
[1−2]
まだ暖房が十分に効いていない、カーテンも開けていない薄暗いリビングルーム。
ロレックスに視線を落とす。
少し前にマキが消えた。
寝室から、衣服を整えたマキが怒りを露にした表情で……怒りを露にしていたであろう足音を立てて、飛び出していき、玄関が開錠される音を聞いた。玄関ドアが閉まると、完全に三訓だけの空間が復帰した。
ロレックスはマキが飛び出て三訓が独りになるまでに、秒針が17周したことを告げていた。
三訓の不甲斐なさとマキの怒りが覚めるには、まだまだ時間が足りない。
リビングルームでソファに座って黒いレースの下着に黒のカッターシャツだけの姿のまま、火の消えた葉巻を銜えて天井を見る。部屋の中空に紫煙が揺蕩う。
「…………」
濃厚なホンジュラスの香りに包まれたままゆっくり瞑目して、先ほどの朝からの一戦で分泌された幸福物質や快楽物質が平常値に戻るのを体感していた。寂寞感が大きい。それだけマキを心に受け入れていたのだ。
リビングルームのサイドボードで、支給品のスマートフォンがバイブレーションを刻む。
葉巻の火が消えたので、二度目のデュポンを鳴らして葉巻の先端に火を蘇らせた後、漸く、スマートフォンを手に取り、耳に当てた。
ディスプレイには【大塔商事】の自分が所属する部署の名前が表示されていた。
起き抜けにマキとの目合いで体力を消耗したので、いつもより早い空腹を感じながら葉巻を吸い、どうやって『一晩の全て』を削除しようかと思っている、そんな気怠い時間を堪能しているうちに会社からの電話だったので、即座に電話に出なくてもいいか、と、やや怠惰な三訓が顔を出したのだ。
「犬神です」
「起きていたか」
スピーカーから漏れたのは、低音の……しかしどこか実体のない入谷昭衛の声だった。
「ああ、入谷さん。本日のスケジュールに修正でも?」
「ああ。臨時で、な。立ち合いは3件だ。全部『差し込み』だ」
「3件!?」
思わず三訓は素っ頓狂な声を挙げてしまった。
『差し込み』とは予定外の仕事の総称だ。他の『立ち合い人』はどうした!? 全員同じ店で食べて食中毒にでもなったのか? と叫びたい声を飲み込む三訓。
焦りを隠すように葉巻を深く吸い、紫煙を吐き散らしながら、口角を下げる。≪不快≫の微表情。
「午前8時、Dー4地区での【鉄錆】と【銀蛇】の取引。午前11時、Eー1地区東和ビル7階でカードの取引。午後2時、スクラップ場での境界線交渉。午後3時退社時刻、直帰せよとのこと。……妙な予感がする」
入谷が「妙な予感」と言う。凡そ、彼らしくない言葉を発する。
入谷は三訓とは違うタイプの計算方法を使う人間で、その専門家でもあるのだが、自分の専門外や自分の知識外の分からないことは、きっぱりと分からないと明確に発言するタイプだ。
その彼が曖昧な表現を用いるのだから、心に留めようと、耳に神経を集中させる。……それはそれとして、今日は日中の取引が多くないか? なあ?
「……『妙な予感』? 入谷さん、『あなたらしくない表現』ね」
三訓はぶつけても仕方がない言葉を入谷にぶつける。自分の感想に明確な言語化を求めてしまうのは論点がずれている気がした。
この場合の正解は、『差し込み』のラッシュとそれに対応できない部署の人的リソースとスケジュール管理に口出しするべきだ。
「……気配だよ。君には理解できないだろうがね。私はいつも通り、影から監視を続けるが、今日は感情的にならない方がいい。いつも以上に機械になった方がいいかもしれない」
「忠告、痛み入ります。それでも私は『予感』という変数は無視したくないの。……その上でコストに見合う仕事をするだけよ」
マイクの向こうで入谷が息をのむ音が聞こえた。彼は自分が余計な情報を付随させたせいで、三訓がやや意固地になっていると悟ったようだ。
実際に、三訓はその傾向を直ぐに悟った。
自分の言葉を実行しようとする一貫性――サラリーマンとしての意地――が働いているのを感じ、自戒するようにきつく瞑目した。
入谷が通話を切り、直後に今日の取引のスケジュールが暗号で記されたファイルが、社内で作成された社員間で運用する専用SNSで送られてくる。
それに一通り目を通す。
予定だけを見ていれば平凡な取引ばかりで、他の『立ち合い人』でも廻せそうな案件ばかりだ。
社屋だと言われている【大塔商事】の物理的な建物は有るが、世間への韜晦用のビルと社名、屋号。実のところ、三訓は自分が所属する部署の全社員の顔を知らない。これもまたニードトゥノウの法則だ。一人がドジを踏んでも、その一人から情報が漏洩しても被害を最小限に抑えるためだ。
通話を切り、三訓は急激な疲労がのしかかってくる感覚に襲われた。 残念なことに、三訓は普通の人間なのだ。ハリウッドのアクション映画で言えば、冒頭で主人公に殴り倒されてそれ以降出番がない程度の存在なのだ。スケジュールを見て、予定外の大量の仕事が雪崩れ込んでくるとロアスタシス負荷で辟易する程度の普通の人間なのだ。
基本的に『立ち合い人』はワンオペだ。
『監視役』の入谷は別部署に所属する人間で、指令系統が違う。『取引の時だけ、事業部の垣根を超えた合同作業』を行っているのだ。
徹底した情報漏洩予防の為に、わざと『チェック項目が多い手順』を設けている。
作業が煩雑になれば人間は認知資源を大量に消費して疲労する。その時に出るのが『守らなければならない』物を守れなくなることだ。
社内の監査機関が目を光らせているので、『不審なミス』『不要な出費』『優先された不急の用件』などを調べ上げると『意図した情報漏洩の工作』のうっかりミスを見つけやすくなる。
社員に自覚できないレベルの疲労を負わせ、油断した時に出るボロを狙っている。この仕組みに自力で気がついた三訓は誰にもこの仕組みを話していない。要らぬ詮索や謎解きは寿命を縮める。
火の消えた葉巻を銜えながら、暖房が効き始めた室内を歩き、キッチンで朝食を作り始める。
朝はガッツリ食べたいタイプなので、厚切りベーコンを5枚、卵を3個使ったベーコンエッグとボウルのようなガラスの器にレタスとキャベツを中心にした野菜サラダを山のように盛り付け、一斤のパンを半分に切っただけの炭水化物の塊を添える。
ベーコンエッグに何をかけるかは拘りが無く、その日の気分で決める。今日は塩コショウだ。
これだけのカロリーを摂取しても昼前には空腹になるので何とも燃費が悪い話である。
それだけ頭脳を使う。
思考する大脳新皮質だけでなく、感情で判断する大脳辺縁系もフル稼働しているのだから、三訓という個体の生命の全てを司る脳幹も大忙しだ。
更に現場が鉄火場の空気を孕んだり、鉄火場に発展するとS&Wガバナーを抜いて応戦するので、カロリーの消費は指数関数的に加速する。
美食や健啖なわけではないが、平均的なカロリーより多めの分量を食べないと体がもたない。
アンダーグラウンドの世界で生きている人間だから、映画やドラマで見るような荒くれ者の食事みたいに酒とジャーキーだけの粗食ではとてもじゃないが、仕事を全うできない。睡眠と食事と休養だけは維持しないと、殺されて命を落とす前に、不摂生で命を落とす。
実のところ、アンダーグラウンドの世界では常にストレスに晒されているので、生活習慣病やガンや精神疾患は深刻な問題で、若くして脳梗塞や心筋梗塞で現場で突然死というのは珍しくない。
巨大な反社会組織の筆頭である我らが【大塔商事】でさえ、産業医とカウンセラーを導入し、毎年、社員全員に健康診断を受けさせている。貴重な人材を鉄火場や報復以外で失いたくないのが透けて見える。昨今では、人的資本投資の収益率は有形資産への投資を上回るとも示唆される。単なるコストではなく、将来の企業成長のための投資と位置づけられている。
表向きの企業の看板を守る為に社内レクリエーションや慰安旅行、社内カレンダーによる140日以上の休暇も保障されている。
表世界の人間からシノギを取っているアンダーグラウンドの世界でさえ、心身の健康は無視できない問題なのだ。
――――あー。塩分が甘く感じる……。
――――疲れてる……。
食育が行き届いた親に育てられた健康優良児のようによく噛んで嚥下する。
食事の時間は決まった時間に決まった量を摂りたいが、最近は乱れ気味だ。
睡眠時間も『アフターファイブ』を優先してしまい、良質な睡眠とは言えない。自分のバイタルを無視した運動――銃撃戦――もあまりよくない傾向だ。
一人でいる時に思考が自分の内側へ向かっていく時は脳疲労の前兆なので、意識を昼食に集中させる。
意識が自分の内側へ向かうと、内省の顔をした後悔や預言者の顔をした予期不安が付随してネガティブな方向へと思考が加速する。
こんな時は五感を外側へ向けて、その情報を脳内で実況するのが最適解なのを知識として知っている。ただ、実行が難しいだけだ。
目の前の朝食を目視してどれを食べるか、どの順で食べるかを楽しみ、口の中の味の変化を、自身の少ないボキャブラリーとレトリックで表現してみる。
耳は遮断。背景のホワイトノイズ程度に意識しない。
存分に朝食を楽しんだ後のコーヒーの香りを楽しんで、芳醇な熱いそれに唇を浸して、静かに飲む。
今ここに意識を集中させる。
同僚が命を落とす時は、決まって、数日前から平凡なミスを繰り返していた。
集中力が途切れる要因は複合的だ。そのうちの一つに、意識が自分の内側に向いた結果、浮上した後悔や不安で『よくないモノや事を思い出したり、よくない方向の予期不安を意識し過ぎて』、それらネガティブに注意力を削がれてしまい、普段ではありえないミスで命を落とす。……それこそ、『銃の薬室に実包を送り込むのを忘れている』のに銃を構えて飛び出た瞬間に、銃口を向けて引き金を引いても弾が出るわけもなく、逆に撃ち殺される事も多い。
朝食後にコーヒーを飲みながら、葉巻の紫煙を薄く長く吐く。
これまた健康にはよろしくない行為だが、これくらいの悪行は勘弁してもらいたいと、どこかの誰かに心で呟く。
食後に手際よく、食洗器に食器を預けて、出勤のための衣服を身にまとう。
彼女が黒いスーツに黒いカッターシャツ、黒いビジネススニーカーを選ぶのは社内規定ではなく、服を選ぶという行動で認知資源と時間を消費したくないからだ。
懐に銃を呑み込む職業でなければ、Tシャツとジーンパンツにスニーカーでいいと思っている。
女だからと取引の現場で嘗められても困るので、心身の増強の為に精一杯、身体化認知を計ってこの服を着ている。
衣服に対するその考えは、三訓が大学在学中に至った『答え』の一つだ。同じ人間でも着ている物が、全裸とジャージとスーツでは思考や意見が微妙に変わるのは当たり前だと思っている。
朝はなるべく頭を使いたくない。
朝からTVを見るのは愚行でしかない。朝でなければ手に入らない情報などたかが知れている。本当に必要な情報は時間を選んでやって来ない。
左脇のショルダーホルスターにS&Wガバナーを差し込んだ。
安心感のある重量。
ロレックスとデュポンのシガーライターとS&Wガバナーが揃って初めて『武装した』という実感が浮かぶ。重量感を覚えているうちは自分はまだ正気であると思い込んでいるような、そんなロジカルではないジンクスさえ感じている。
410番口径。2.5インチシェル。フェデラルパーソナルディフェンス、000バックショット。
6発の暴力の結晶。
出来る事なら一発も発砲せずに済む事を願うのみ。
『聖域』をレンタルする全ての客が好意的だとは限らない。それを前提に自分や入谷のような人間だけを集めた専門の部署が作られている。
そこそこ頭が回り、そこそこハジキの腕が立つ、給料の支払いが良好なうちは裏切る確率が低い人間が重宝される。
更にその重宝する人材を監視する『監査役』も居るのだから、上層部の人間が素顔を世間に露出するはずがない。
彼らは自分たちの命が惜しいのではなく、自分たちが運営する組織の持続可能な未来の為に、白黒思考とレッテル貼りとべき思考を組織の運営に組み込んでいるだけだ。
敵か味方か。
あいつは敵に違いない。
『我々』はかくあるべし。
車のキーをポケットに入れて玄関でビジネススニーカーを履く。
今朝は寝室で葉巻を吸ったので、帰宅すると葉巻の味は苦く変貌するのだろうと想像し、苦い笑いがこぼれる。
朝の情事は忘れつつあるのに、帰宅する頃にはマキとの思い出はただのログとして処理されて側坐核の一部になっている。
……マキと最後の情事を交わした場所で葉巻を吸ったのはやはりミスだ。
必ず自動的にプルースト効果――匂いが過去の記憶や感情を呼び起こす現象――のせいで、マキの肌の温かさや指先の湿り気を思い出す。
素人の一夜限りの女との別れはいつもこうなのに全く学習しない自分を侮蔑する。
性的快楽でないと忘れられない疲労や悩みもあるのだ。それが対処療法だと分かっている上で自分で自分を侮蔑する。
玄関を出ると、朝の冷気が肺を刺した。
外の空気は冷たい。
マンションの廊下。
28階建て高層マンションの24階フロア。
湾岸部からのオーシャンビュー。
分譲物件。
一つの集合物件に【大塔商事】の社員は住めない。
これもまたリスクの分散だ。社員に高級物件をローンで買わせて、その支払いを続けさせることで、社員が逃亡する理由を失くしやすくするためだ。
悔しいことに、【大塔商事】――の、看板がかかった企業――の社屋がある地区まで通勤に便利で交通の便も申し分なし。更にガソリン代も一定金額までは【大塔商事】が負担してくれる。
ホワイト企業とブラック企業の側面のハイブリッドゆえに抜けたくても抜けられないジレンマが発生する。
三訓は論文として読んだことが有る。『人間は緊張の連続で常に疲労を感じ続けると、脳が認知的リソース軽減のために、ストレスを考えない方法を無意識に模索し、その方向ばかり考える』。所謂、現状維持バイアスの典型だ。
社員が支払いの為に働き続けると、どんなにタフでも必ず常に小さなストレスを無意識のうちに抱え込み、無意識のうちに楽な方法を考える。結果、今の会社から別の会社へ転職を考えようにも、常に疲れているので思考を停止、または低下させて、「今の環境が楽だ」と感じて転職や『足抜け』は別の機会に考える――その別の機会は、巡る度に同じことを考えて、また別の機会に考えようとする――ので、【大塔商事】の手厚い福利厚生は疲労した人間には甘く心地よいアリジゴクなのだ。
ストレスを感じない人間など存在しない。
葉巻を左手の指に挟み、廊下に漂う冷気を吸い込みながら姿勢を伸ばして歩く。
高層マンションはカタギの富裕層しか住んでいないが、それが三訓のような人間に『早まった行動』を起こさせない安全装置として働いている。
悔しいがそれも【大塔商事】の方針だ。いくら警察に賄賂が効いていても、カタギの人間全てに賄賂や口止め料をばら撒くわけにはいかない。
カタギの人間からのSNSでの拡散は何としても避けたい。
従って、高層マンションの共有スペースに当たる部分ではカタギが運営する高層マンションのルールに従う。
ここで一番身分が高いのはカタギの人間で、一番身分が低いのは三訓だ。
アンダーグラウンドの人間でも衣食住が足りているからこそ反社会的な活動が可能になる。ただでさえ異なる社会構造の住人達が犇めく高層マンションだ。些細なトラブルでも避けたい。
三訓はオペラント条件付けによってパノプティコンを棲み処にするように躾けられているように感じるが……恐らく気のせいではない。
ビジネススニーカーがアスファルトを捉える。
一晩の情事は既に償却された。消却された。……そう思いたい。
向かう先はD―4地区。通称『塵溜め』。
――――入谷さんの言葉が気になる。
――――いや……今は取引の事だけ考えよう。
三訓は再びロレックスを見た。午前7時35分。彼女は地下駐車場へと向かう。
