♯001『純金と鉛の査定』
影から現れたのは、仕立ての良い黒いスーツを着た【大塔商事】の直属構成員だった。彼は転がる負傷者たちには目もくれず、三訓の前で足を止めた。
「実に見事。さすが『分析屋』と呼ばれるだけあるな。最小限の弾数で、最大の制圧効果。これなら『清掃人』の出動も、通常処理の範疇で済む」
三訓は感情が動いていない瞳で男を見た。
――――白々しい。
反射的に≪嫌悪≫の微表情が浮かぶ三訓。
彼に非言語的コミュニケーションの塊を見たのだ。
男は賞賛を口にしているが、額がのっぺらぼうのように平坦だ。額には様々な表情やその変化が顕著に出る。なのに、塗り固めたように何も、無い。眦や小鼻、爪先に何の変化も見えない。開いた右手の人差し指だけが僅かに震えている。これは何かのマイクロジェスチャーではなく、『今しがた、銃を撃ってきた後の生理的反応』だ。彼からは『いつも、何も読み取れない』のだ。
三訓は彼を恐れている。
彼が倉庫内にいるという事は、「外の気配は沈黙している」はずだ。
それも彼の職掌だった。
邪魔者の排除。
恐らく倉庫街の残党はこの男に排除されたに違いない。
入谷がサプレッサーを銃身に組み込んだスタームルガーMarkⅡを愛用しているのは知っているが、発砲している姿は見たことが無い。
入谷からすれば、音もなく奇襲で複数の標的を苦しまずに殺害することは難題ではない。……と、三訓は思っている。彼の右手の自動拳銃胼胝は本物だ。
彼は三訓ほど給料の査定を気にしないのではない。事後処理に動員できる『清掃員』を大量に雇えるだけの予算が有る部署で働いているのだ。
『監視役』の入谷には、重心移動の挙動がない。呼吸の揺らぎも、瞳孔の予備動作も、研究室で散々学んだ計算式に当てはまらない。
彼女の脳内の将棋盤が、定義不能なエラーを吐き出して混濁していく。
これこそが、【大塔商事】というシステムの真の姿だった。
『得体の知れない計算機には得体の知れない概念のような輪郭を組み合わせる』。
即席のブラックボックスが生み出す奇跡のセッションに期待している節さえうかがえるので、【大塔商事】の人事部には往年のバディものの刑事ドラマのファンが居るに違いない。
「私の給料の査定に傷がつかないなら、それでいいわ。【鴉】の安田さんと、この【笠野商店】の残党、それから彼らが持ち込もうとした『不良品』。全て『ウチの会社』で適切に処理できる範囲でしょ」
「言われなくとも。そのための『監視役』だからね。勿論、そのように今回も処理するさ」
三訓は、ショルダーホルスターにデホーンドハンマー仕様のS&W ガバナーを収めた。金属と革が擦れ合う微かな音が、閉幕の合図のように響く。
『監視役』の男。
書類上の名前は入谷昭衛(いりや しょうえ)。
年齢は書類通りなら35歳。
彼の職掌は『立ち合い人』が真っ当に仕事をしているか、『したのか』を見極めること。
彼が姿を現す時は、彼のもう一つの職掌とも言える、『事後処理が適切に行えるケースかどうか』を査定する時だ。例えば今回のように鉄火場が形成された時の被害の評価だ。
三訓のような『立ち合い人』が最前線で取り引きをする関係者を見極め、入谷のような『監視役』がそれを俯瞰するように監視して、三訓の判断から発生する影響を予想して報告する。
その際にトラブルが発生すれば今回のように、【大塔商事】の傘下の組織で処理できるレベルか否かを判断して報告する。
アンダーグラウンドの世界だから、荒くれ者が好き勝手に暴力をまき散らしている時代は既に終わった。
分かり易い暴力ですら今では社会のシステムの一つとして組み込まれており、それを運用、保全、管理、供給する連環が整っている。
強力なものほど制御しなければならない。
皮肉にも、暴力を好き勝手に撒き散らしていた世界の住人が率先して、暴力を論理的理性的に制御して、社会機能の一つとしてインフラ化してしまっている。
目のくぼんだ入谷の、猛禽類を思わせる鋭い眼光が、腰を抜かしたままの安田を射竦めて、視線だけで彼の心臓を握りつぶそうとする。
「……入谷さん。『この件の裏どり』を進言したいのですが」
彼女は葉巻の紫煙に目を細めながら、7mも離れていない入谷の顔を遠い目で見る。紫煙が目に沁みるのか、本当に彼が遠い世界の住人だと認知しているのか。
彼女は、床に散らばった自身の葉巻の灰をビジネススニーカーの先で圧し潰した。
『入谷さんがここに居る。ここに出てきた。倉庫の中に入ってきた』。……これだけで全てを把握した。この倉庫の外には敵性脅威は存在しない。
この現場を収められたであろう電子記録は、入谷への『この件の裏どり』の進言に全て含まれている。
外部に漏洩した情報の始末や揉み消しや、デジタルタトゥーの予防策や対策は三訓の職掌ではない。
電子戦専門に海外の(国営の)マフィアに高い金を払って外注するのだ。勿論、払うのが金だけではなく、日本国内の『誰にも触られてはいけない情報』も報酬として支払っているという噂だが、予算や会計に口出しできる身分ではないし、完全な越権行為なので興味を持たないことにしている。
「外の奴らは、全て始末した。……言いたい事は分かる。だが遅かった」
「そう……。『やっぱりクラウド経由で送信なのね』。今度もまた自称民主主義の国に頼むのかしら?」
「さあ? 俺たちは下っ端の現場要員だ。頭の悪いふりをしているのが賢い処世術というものだ。報告だけ真面目にやればいい」
「報連相ってね、部下から上司への義務じゃないの。上司も部下も横の部署も関係なく自由に話せる環境を作って、連携するために考案されたものなのよ」
「『上の人』からすれば俺たちのような多少の上下関係など水平線みたいなものだ」
三訓は皮肉っぽく話を伸ばしてやろうと意地悪をしていた。彼の声の端々に小さな震えが聞こえたからだ。話を早く完結したがっている証拠だ。
人間は不思議なもので、話題にしてはいけないものほど饒舌に話すが、その話の根拠に実像が混じっていることは少なく、ドーパミンの興奮作用で予想や希望が込められた発想が言語化されて言葉としてアウトプットしてしまう。
話を途中で切り上げたがっている入谷の心境が理解できたのだ。
要らぬ詮索は寿命を短くするのは、社会における暴力の在り様が変わっても、本質的な役割は何も変わっていないことを示していた。
それに何より、入谷の感情の揺れが伺えたので、非常に珍しい物を観させてもらったと、心の中で口笛を吹く。
動画だか音声だか画像だか。この場の取引を収めた記録が有るのならば、それを処理するのは別の部署。三訓は別の部署への出動要請を『監視役』入谷を通じて報告しただけだ。ここから先は入谷の事務仕事だ。
三訓は好き勝手に振舞えるアクション映画の主人公ではない。企業のサラリーマンと同じ境遇の人間なのだ。
きびすを返し、三訓は出口へと歩き出した。
背後では入谷が呼んだであろう下請け業者の外回り――荒事の後始末専門の企業――の男が、どこかへ連絡を入れ始めている。
数分後には、証拠の一切を消し去る専門のチームがこの場所を洗浄し、明日の朝には何事もなかったかのような静寂が戻るだろう。
この光景は何度見ても寒気が背筋を襲う。
『これだけの人数』がすでに待機していたのに、彼女は彼らの気配の欠片すら感じ取る事ができずにいたのだ。
願わくば、社員の間で噂話になっている【大塔商事】内部の粛清部隊が自分をこの世から削除しないように願うばかりだ。
そんな恐ろしい真似はしたくないが、【大塔商事】は巨大すぎて、上層へ行けば行くほど、ブラックボックスなのだ。どんな一投足一挙動で何処の誰にどのように受け止められるか分かったものではない。
この世は先を読むものが生き残ると言われているが、ファーストチェス理論で切り抜けられるほど甘くはない。
一手先は掛け算の選択肢だが、二手先は乗数の計算の世界だ。だからこそ、組織の内外では時々、博打に似た行動で華麗なる逆転を夢見る者が登場し、自爆する。自爆させられる。自爆する前に爆破処理される。
安田の所属する【鴉】も【笠野商店】も反駁し合って潰れるより、一時的な共闘での最大戦力で立ち向かえば【大塔商事】に瑕をつけられると目論んだのだろう。
その瑕をつけた後の戦略は今となっては不明だ。勿論、連行された安田や倉庫街で待機していた警護要員――生存者がいればの話だが――も連行されて口を割らされるだろう。
組織が上層へ行くほどブラックボックス化していくのはニードトゥノウがシステムを支えるために働いているのは理解している。
彼らの『聞き取り調査』に同席するのは三訓の職掌ではないのだから、今夜はもう、おとなしく帰社して報告書を作成して提出して帰宅するだけだ。倉庫を出る前に、鎮火しつつある葉巻に再びデュポンのシガーライターで火を点ける。
倉庫の外へ出ると、夜明け前の凍てつくような潮風がマッシュウルフの髪を揺らした。
潮風が三訓の顔を優しく撫でて、ほんの少し、葉巻の燃焼が早くなる。紫煙が遥か上空へと吸い上げられていく。
三訓は左手首の純金のロレックス・デイデイトを、仕事道具の一つであるフラッシュライトで照らして確認した。時刻は午前3時5分。
――――予定よりは遅れたけれど、朝食までには少し時間が作れそうね。
今夜の仕事は一波乱あったものの、自分に課せられた業務を全うできたので満足だった。
尤も、波乱の起きない仕事など今まであったためしがなく、これを予想して、自分のようなカタギの研究者崩れをスカウトして程々に研修を受けさせて後は実地で査定をするのだから、現代のコンプライアンスで言うと限りなくブラック企業。まさに、自分達が働く環境と優遇と福利厚生を盾にとって集団訴訟を起こせば雇い主の【大塔商事】に一泡吹かせてやれるのではないか? とさえ考えてしまう。
社会構造ありきの企業ならば、社会構造の中で機能するルールから外れる事は社会的死を意味する。
――――まあ、専門は社会学でも法学でもないからいいっか!
そんなことを考えながら、自分が近くに乗り付けた愛車が待つ駐車場へ向かう。
三訓の歩幅は一定、呼吸数は1分間に14回。命懸けの戦闘後の自律神経の乱れは場慣れしたので恒常性が働き、速やかにアドレナリンを通常に戻したようだ。
ロアスタシス負荷を感じるほどのストレスはなかった。
ホメオスタシスによる倦怠感も無かった。
軸足の左足の重心がわずかに外側に逃げている。これは無意識のうちに次の『自分に対して害を為すモノ』を求めている攻撃的予備動作。無意識のうちに危険に対する期待が溢れている。
三訓は赤いリングラベルの葉巻を深く吸い込み、芳醇なアロマの爆弾のような煙をゆっくりと夜空へ吐き出した。
この『乖離した街』において、秩序は【大塔商事】という巨大な暴力によって支えられ、彼女はその不確かな均衡を維持するための、ただの計算機に過ぎない。
冷徹な計算が、今夜も数人の命を『何かのリソース』或いは『アセットの元』として繋ぎ止めたのは事実。
三訓は両手をスラックスのポケットに突っ込んだまま、銜え葉巻で、全身に冷たい潮風を感じながら、ビジネススニーカーをしっかり踏みしめて、闇の残る倉庫街の外れへと消えていった。
「研究室より充実してるなんて……本当に皮肉……」
まだあどけなさの面影が残る唇から、ふと、そんな言葉が零れた。
≪♯001・了≫
「実に見事。さすが『分析屋』と呼ばれるだけあるな。最小限の弾数で、最大の制圧効果。これなら『清掃人』の出動も、通常処理の範疇で済む」
三訓は感情が動いていない瞳で男を見た。
――――白々しい。
反射的に≪嫌悪≫の微表情が浮かぶ三訓。
彼に非言語的コミュニケーションの塊を見たのだ。
男は賞賛を口にしているが、額がのっぺらぼうのように平坦だ。額には様々な表情やその変化が顕著に出る。なのに、塗り固めたように何も、無い。眦や小鼻、爪先に何の変化も見えない。開いた右手の人差し指だけが僅かに震えている。これは何かのマイクロジェスチャーではなく、『今しがた、銃を撃ってきた後の生理的反応』だ。彼からは『いつも、何も読み取れない』のだ。
三訓は彼を恐れている。
彼が倉庫内にいるという事は、「外の気配は沈黙している」はずだ。
それも彼の職掌だった。
邪魔者の排除。
恐らく倉庫街の残党はこの男に排除されたに違いない。
入谷がサプレッサーを銃身に組み込んだスタームルガーMarkⅡを愛用しているのは知っているが、発砲している姿は見たことが無い。
入谷からすれば、音もなく奇襲で複数の標的を苦しまずに殺害することは難題ではない。……と、三訓は思っている。彼の右手の自動拳銃胼胝は本物だ。
彼は三訓ほど給料の査定を気にしないのではない。事後処理に動員できる『清掃員』を大量に雇えるだけの予算が有る部署で働いているのだ。
『監視役』の入谷には、重心移動の挙動がない。呼吸の揺らぎも、瞳孔の予備動作も、研究室で散々学んだ計算式に当てはまらない。
彼女の脳内の将棋盤が、定義不能なエラーを吐き出して混濁していく。
これこそが、【大塔商事】というシステムの真の姿だった。
『得体の知れない計算機には得体の知れない概念のような輪郭を組み合わせる』。
即席のブラックボックスが生み出す奇跡のセッションに期待している節さえうかがえるので、【大塔商事】の人事部には往年のバディものの刑事ドラマのファンが居るに違いない。
「私の給料の査定に傷がつかないなら、それでいいわ。【鴉】の安田さんと、この【笠野商店】の残党、それから彼らが持ち込もうとした『不良品』。全て『ウチの会社』で適切に処理できる範囲でしょ」
「言われなくとも。そのための『監視役』だからね。勿論、そのように今回も処理するさ」
三訓は、ショルダーホルスターにデホーンドハンマー仕様のS&W ガバナーを収めた。金属と革が擦れ合う微かな音が、閉幕の合図のように響く。
『監視役』の男。
書類上の名前は入谷昭衛(いりや しょうえ)。
年齢は書類通りなら35歳。
彼の職掌は『立ち合い人』が真っ当に仕事をしているか、『したのか』を見極めること。
彼が姿を現す時は、彼のもう一つの職掌とも言える、『事後処理が適切に行えるケースかどうか』を査定する時だ。例えば今回のように鉄火場が形成された時の被害の評価だ。
三訓のような『立ち合い人』が最前線で取り引きをする関係者を見極め、入谷のような『監視役』がそれを俯瞰するように監視して、三訓の判断から発生する影響を予想して報告する。
その際にトラブルが発生すれば今回のように、【大塔商事】の傘下の組織で処理できるレベルか否かを判断して報告する。
アンダーグラウンドの世界だから、荒くれ者が好き勝手に暴力をまき散らしている時代は既に終わった。
分かり易い暴力ですら今では社会のシステムの一つとして組み込まれており、それを運用、保全、管理、供給する連環が整っている。
強力なものほど制御しなければならない。
皮肉にも、暴力を好き勝手に撒き散らしていた世界の住人が率先して、暴力を論理的理性的に制御して、社会機能の一つとしてインフラ化してしまっている。
目のくぼんだ入谷の、猛禽類を思わせる鋭い眼光が、腰を抜かしたままの安田を射竦めて、視線だけで彼の心臓を握りつぶそうとする。
「……入谷さん。『この件の裏どり』を進言したいのですが」
彼女は葉巻の紫煙に目を細めながら、7mも離れていない入谷の顔を遠い目で見る。紫煙が目に沁みるのか、本当に彼が遠い世界の住人だと認知しているのか。
彼女は、床に散らばった自身の葉巻の灰をビジネススニーカーの先で圧し潰した。
『入谷さんがここに居る。ここに出てきた。倉庫の中に入ってきた』。……これだけで全てを把握した。この倉庫の外には敵性脅威は存在しない。
この現場を収められたであろう電子記録は、入谷への『この件の裏どり』の進言に全て含まれている。
外部に漏洩した情報の始末や揉み消しや、デジタルタトゥーの予防策や対策は三訓の職掌ではない。
電子戦専門に海外の(国営の)マフィアに高い金を払って外注するのだ。勿論、払うのが金だけではなく、日本国内の『誰にも触られてはいけない情報』も報酬として支払っているという噂だが、予算や会計に口出しできる身分ではないし、完全な越権行為なので興味を持たないことにしている。
「外の奴らは、全て始末した。……言いたい事は分かる。だが遅かった」
「そう……。『やっぱりクラウド経由で送信なのね』。今度もまた自称民主主義の国に頼むのかしら?」
「さあ? 俺たちは下っ端の現場要員だ。頭の悪いふりをしているのが賢い処世術というものだ。報告だけ真面目にやればいい」
「報連相ってね、部下から上司への義務じゃないの。上司も部下も横の部署も関係なく自由に話せる環境を作って、連携するために考案されたものなのよ」
「『上の人』からすれば俺たちのような多少の上下関係など水平線みたいなものだ」
三訓は皮肉っぽく話を伸ばしてやろうと意地悪をしていた。彼の声の端々に小さな震えが聞こえたからだ。話を早く完結したがっている証拠だ。
人間は不思議なもので、話題にしてはいけないものほど饒舌に話すが、その話の根拠に実像が混じっていることは少なく、ドーパミンの興奮作用で予想や希望が込められた発想が言語化されて言葉としてアウトプットしてしまう。
話を途中で切り上げたがっている入谷の心境が理解できたのだ。
要らぬ詮索は寿命を短くするのは、社会における暴力の在り様が変わっても、本質的な役割は何も変わっていないことを示していた。
それに何より、入谷の感情の揺れが伺えたので、非常に珍しい物を観させてもらったと、心の中で口笛を吹く。
動画だか音声だか画像だか。この場の取引を収めた記録が有るのならば、それを処理するのは別の部署。三訓は別の部署への出動要請を『監視役』入谷を通じて報告しただけだ。ここから先は入谷の事務仕事だ。
三訓は好き勝手に振舞えるアクション映画の主人公ではない。企業のサラリーマンと同じ境遇の人間なのだ。
きびすを返し、三訓は出口へと歩き出した。
背後では入谷が呼んだであろう下請け業者の外回り――荒事の後始末専門の企業――の男が、どこかへ連絡を入れ始めている。
数分後には、証拠の一切を消し去る専門のチームがこの場所を洗浄し、明日の朝には何事もなかったかのような静寂が戻るだろう。
この光景は何度見ても寒気が背筋を襲う。
『これだけの人数』がすでに待機していたのに、彼女は彼らの気配の欠片すら感じ取る事ができずにいたのだ。
願わくば、社員の間で噂話になっている【大塔商事】内部の粛清部隊が自分をこの世から削除しないように願うばかりだ。
そんな恐ろしい真似はしたくないが、【大塔商事】は巨大すぎて、上層へ行けば行くほど、ブラックボックスなのだ。どんな一投足一挙動で何処の誰にどのように受け止められるか分かったものではない。
この世は先を読むものが生き残ると言われているが、ファーストチェス理論で切り抜けられるほど甘くはない。
一手先は掛け算の選択肢だが、二手先は乗数の計算の世界だ。だからこそ、組織の内外では時々、博打に似た行動で華麗なる逆転を夢見る者が登場し、自爆する。自爆させられる。自爆する前に爆破処理される。
安田の所属する【鴉】も【笠野商店】も反駁し合って潰れるより、一時的な共闘での最大戦力で立ち向かえば【大塔商事】に瑕をつけられると目論んだのだろう。
その瑕をつけた後の戦略は今となっては不明だ。勿論、連行された安田や倉庫街で待機していた警護要員――生存者がいればの話だが――も連行されて口を割らされるだろう。
組織が上層へ行くほどブラックボックス化していくのはニードトゥノウがシステムを支えるために働いているのは理解している。
彼らの『聞き取り調査』に同席するのは三訓の職掌ではないのだから、今夜はもう、おとなしく帰社して報告書を作成して提出して帰宅するだけだ。倉庫を出る前に、鎮火しつつある葉巻に再びデュポンのシガーライターで火を点ける。
倉庫の外へ出ると、夜明け前の凍てつくような潮風がマッシュウルフの髪を揺らした。
潮風が三訓の顔を優しく撫でて、ほんの少し、葉巻の燃焼が早くなる。紫煙が遥か上空へと吸い上げられていく。
三訓は左手首の純金のロレックス・デイデイトを、仕事道具の一つであるフラッシュライトで照らして確認した。時刻は午前3時5分。
――――予定よりは遅れたけれど、朝食までには少し時間が作れそうね。
今夜の仕事は一波乱あったものの、自分に課せられた業務を全うできたので満足だった。
尤も、波乱の起きない仕事など今まであったためしがなく、これを予想して、自分のようなカタギの研究者崩れをスカウトして程々に研修を受けさせて後は実地で査定をするのだから、現代のコンプライアンスで言うと限りなくブラック企業。まさに、自分達が働く環境と優遇と福利厚生を盾にとって集団訴訟を起こせば雇い主の【大塔商事】に一泡吹かせてやれるのではないか? とさえ考えてしまう。
社会構造ありきの企業ならば、社会構造の中で機能するルールから外れる事は社会的死を意味する。
――――まあ、専門は社会学でも法学でもないからいいっか!
そんなことを考えながら、自分が近くに乗り付けた愛車が待つ駐車場へ向かう。
三訓の歩幅は一定、呼吸数は1分間に14回。命懸けの戦闘後の自律神経の乱れは場慣れしたので恒常性が働き、速やかにアドレナリンを通常に戻したようだ。
ロアスタシス負荷を感じるほどのストレスはなかった。
ホメオスタシスによる倦怠感も無かった。
軸足の左足の重心がわずかに外側に逃げている。これは無意識のうちに次の『自分に対して害を為すモノ』を求めている攻撃的予備動作。無意識のうちに危険に対する期待が溢れている。
三訓は赤いリングラベルの葉巻を深く吸い込み、芳醇なアロマの爆弾のような煙をゆっくりと夜空へ吐き出した。
この『乖離した街』において、秩序は【大塔商事】という巨大な暴力によって支えられ、彼女はその不確かな均衡を維持するための、ただの計算機に過ぎない。
冷徹な計算が、今夜も数人の命を『何かのリソース』或いは『アセットの元』として繋ぎ止めたのは事実。
三訓は両手をスラックスのポケットに突っ込んだまま、銜え葉巻で、全身に冷たい潮風を感じながら、ビジネススニーカーをしっかり踏みしめて、闇の残る倉庫街の外れへと消えていった。
「研究室より充実してるなんて……本当に皮肉……」
まだあどけなさの面影が残る唇から、ふと、そんな言葉が零れた。
≪♯001・了≫
