掌編【辺加直の鏡像】

 肌寒さが増す秋の夜、午後九時。
 第二商店街の寂れた空気は、海からの湿った風によってさらに重く感じられる。軒を連ねる古い建物の間を吹き抜ける風の音だけが、往来の少なさを物語っていた。
​ 【辺金物屋】のレジカウンターの奥の休憩スペースが有る座敷と店舗を、加直は水色の作業用ブルゾンを脱いで、いつものように閉店後の片づけとその後の帳簿の確認のために店内を右往左往していた。不眠による疲労と、化粧で隠された目の下のクマ。彼女の脳は多動思考によって常にエネルギーを浪費している。これらの作業が終わると更に認知資源を消費する『発砲時の聴取の際に於ける警察との問答集』を勉強しないといけないのかと思うと気が緩められない。
​ 加直は、サーモマグに入れてそろそろ冷めだした生温かいブラックコーヒーを一口飲んだ。苦味が、思考の速度を僅かに安定させる。

 ※ ※ ※

 数日前、商店街連合の組合長が会合で、第二商店街の治安改善を目的とした有志による自警団の実験的な結成を提案した。
 組合長は地域の連帯を強調したが、その真の狙いは、警察に依存しない独自の防犯体制を敷くという自負心の誇示と、次の組合長の選挙で票稼ぎに、ここで評価の高い実績を作っておきたいのだろう。
 加直の祖父・恵悟は商店街の顔役――旧い店舗の主というだけでその扱い――であり、その信頼を盾に加直は、半ば強引に自警団の一員に組み込まれた。
 加直にとって、人前に立ち、不必要な人脈を作ること、そしてミラータッチ共感覚の感受性の機会を増やす活動は全て、彼女の主義――事なかれ主義――に反する重荷だった。……祖父の腰痛の事情と、金物屋の商売上の立場から、この義務を拒否することは非常に難しかった。
 その一方で、自警団に加盟してくれた店舗には、事実上のテコ入れ資金である『優遇優待』の特典が有るのは大きな魅力だった。配布する『特典』のために組合の金庫番は買収済みだというのが薄々感じられる。商店街の組合でさえこの政治劇なのだ。自治体や国レベルになると、今現在のように、毎月十人程度の役人の自殺者が出てもおかしくはない。
​ 愛用のクロノグラフを傾け、時間を確認。

――――そろそろかな。

 彼女は、予めセットしておいたクロノグラフの回転ベゼルの目盛りを凝視し、巡回ルートの距離と目標時間を結びつけながら、自警団の推奨巡回速度を脳内で計測した。……正直、時間を綿密に調べて早く自分が解放される時間を一秒でも正確に計測して、前もって知っておきたい。今夜の巡回には加直は編成されていないが、いつか必ず編成に組み込まれる。
 ​この自警団結成の直接の背景には、近隣で発生した連続辻斬り事件があった。
 日本刀による創傷を持つ三体の死体が発見されており、第二商店街の裏路地で第四の事件が発生したことで、組合長の危機感は頂点に達していた。(という悲痛な表情の演技をしていた)
 ​加直は、レジの棚の下に常駐させてある、深いトレイに山のように積んだアソートサイズのチョコレートを一つ、無言で齧った。違和感の分析に、不要な集中力を割いてしまった。
​ 店舗の後片付けが終わり、夕食を済ませ、休憩スペースのテーブルで勉強しながらも、矢張り連続辻斬り事件には過敏になっており、組合の会合での注意喚起として、北川上署地域課の警官がやや詳細に事件の報告をしていたのを脳味噌の片隅で反芻していた。
​ 最初の二体の創傷は見事に深く、迷いが無く、一撃で仕留めるという優れた技術が際立っていた。これは殺害行為そのものから快楽を得るサイコパス的な特徴と合致する。 
 彼らの行動は、人間を目的達成のための道具と見なす冷徹な合理性に基づいている。加直の土壇場で会得した『我流心理学』では、その犯人から、『感情の欠如から来る絶対的な高揚感』の片鱗を読み取っていた。このレベルの推察は警察もとっくに通過しているだろう。
 ​しかし、三体目の創傷は全く異なっていた。
 恐らく、地域課の警察官が直接、各地区に注意喚起に廻っているのは『これ』が原因だろう。
 【切り口が不揃いで、何度も振り下ろされた痕跡があり、そこには当初のような人を斬る技術はなく、めった刺しや矢鱈と斬り付けただけの残虐な遺体だったそうだ。】
 この情報は本日の営業時間中に、四体目の遺体を発見した商店街の住人の噂によるものだ。明確なソースではないが参考になる。

――――凶器は同じ。犯行の時間や手口は同じ。技術が違う?

​ 加直は眼鏡を外し、眼精疲労で霞む目に目薬を差し眉根を揉んだ。

――――警察は公開していないが……『犯人は、二人いる』。

 加直は、組合の中の近視眼的な噂話と広域に広められている警察の注意喚起や犯行現場を記したネット記事などを、覚えている範囲で頭の中でパズルを組み立てるように外観把握を働かせる。
 先ずは集まった情報のみで顛末を再現してみる。
 犯人が二人乃至複数だと仮定して、最初のサイコパス気質な犯人が二人を殺害した後、三人目を襲った際に反撃に遭い、刀を奪われ、逆に殺害された。
 刀はそのまま奪われ、悪意のある人間が所有者となり、『実行』し、三体目の死体は、プロの技術ではなく、素人の人切り包丁になり果てて生み出された。
 ​この刀を奪ったのが、不幸にもサイコパス気質を持った人間か、社会的に鬱屈した過去やストレス発散を求める二番目の犯人だと推測できる。……飽く迄推察なので、情報を修正できる余地は多めに『作っておく』。演繹的なマインドセットを心掛ける。
 二人目の犯人。つまり凶器の刀を受け継いだ犯人は、最初の犯人の凶行を『強さ』や『権力の誇示』と誤認したか『目覚めさせられたか』、その行為を模倣することで、自身の満たされない感情を満たそうとしている節が見られる。通報せずに凶器を奪い踏襲しようとする行動からそれが伺える。 
 その動機はどこか衝動的であり、予想通りなら――ある日突然自分の力を何倍にもするモノを手に入れた――――、追いつめられた際の反応は予測不能な感情的暴発へと繋がる可能性も視野い入れるべきだろう。
​ 加直は両腕を組み、軽く握った左手で口元を覆った。

――――僕の思考は、この場で起こり得る全ての結末をシミュレーションしているだけの妄想的デバガメだな。
――――まずは感情と事実を分けてもう一度考えよう。
――――事実は今、この近隣で、感情的な衝動に支配された模倣犯が刀を携えて潜伏していることだ。
――――いや、まあ、僕が頭を捻ってもあまり得することは無いな……。

 加直はテーブルの上に広げた警察との問答の対応を記した問題集をパタンと閉じた。
 多動思考に支配されてしまい、問題集を全く読んでいない。……勿論、この場合の多動思考とは巷を騒がせている連続辻斬り事件だ。加直がどんなに頭を捻って事件の全貌を解明しようとも、加直には元から何の得も無い。自警団の活動が一層多くなるだろうが、それだけだ。
 被害者は全員、暗がりを一人で歩いていたところを切られている。一人目の犯人の手口を知っていた二人目も模倣したのだろう。
 自警団の見回りのように集団で行動している住民に危害を加えるとは考えにくい。シフト順が正しければ、いつかは加直もその集団に交じって夜の路地を歩くのだ。危険度は低い。
「まあ、いいか」
 その夜は結局、勉強は諦めて、コーヒーを飲みながら赤い紙箱のハーフコロナを一本吸って就寝した。……市販の睡眠薬を飲んで。

 ※ ※ ※

​​ 秩序型連続殺人犯という括りが有る。
 これは自分のルールに則ったサイコパス型殺人鬼の典型だと一般的には分類されている。だが、どんなに自らの秩序やルールや掟に忠実なサイコパス型殺人鬼も最終的には無秩序型連続殺人犯に変貌する。
 これは社会的文化的背景により研究の余地が有るとされているが、一説では誰も自分を止められない、誰からも逃げ果せられる、誰にも痕跡を見つける事ができない、自分は殺人の才能が有ると錯覚して殺人がエスカレートする。その結果として、自己効力感が高まり、世間や権力に対して挑発するために、また、自分の能力を試すために『ハードルを課す』のだ。その『ハードル』が様々なシチュエーションでの殺人の手段として現れるとされている。
 加直は数日前に自分が他人事のように脳内で推測していた連続辻斬り犯が、自分の前に現れる事は一切予想していなかった。
 否、他人事として捉えていたのだから、当事者として直面する危機管理が甘かっただけなのだ。

 室中センター第二商店街より、港湾部に向かって車で10分ほどの地区に辺金物屋がレンタルしている一棟全体が倉庫になっている建物が有る。
 元々は資材置き場だったが、祖父がまだ現役の頃にこの棟を買い取って倉庫――という名の不良在庫置き場――として使っている。
 加直は赤字にしかならない不良在庫の処分先が決まったので喜び勇んで、店が営業終了になる午後7時になると、直ぐに商用車の白いダイハツハイゼットを飛ばしてここまで来た。
 この季節になると、午後7時はもう夜と同じくらいに辺りは暗い。近くにハイゼットを停車して少し歩く。狭い裏手の路地の勝手口を開けてから倉庫内に入り、倉庫の内側から表のシャッターを開ける仕組みなので一手間多い。シャッターを開けてから車を倉庫の前に廻すのだ。
 歩く。
 街灯の乏しい路地の奥、古びた倉庫の壁にもたれかかるように、一人の人影が立っていた。シルエットからして女性。黒いフライトジャケットに身を包み、黒いスラックスを穿き、手に提げられた布に包まれた細長い物体。……微かに日本刀の柄が覗いている。
 彼女は、加直の存在に気づくと、壁にもたれ掛かる体勢のまま、一瞬で瞳孔を収縮させた。
 加直のミラータッチ共感覚に、『恐怖』『焦燥』『敵意』の三つの信号が、騒乱した状態のまま、ノイズとなって激しく叩きつけられる。……これは『対処できるが、苦しくなるタイプ』の苦痛だ。
 ​加直はその場で動きを止めた。
 全身に不快な感覚が流れ込んでくるのを奥歯を噛んで耐える。
 目の前の女は明らかに『敵の排除』という思考に感情を乗っ取られていた。
 歳の頃は自分と同じ20代半ばか? 元から整った造りをした美貌の持ち主なのか、やつれて目の下にクマができていても加直とは違い、儚さと物憂げな容貌は……正直、男の庇護欲を掻き立てる美しい顔だ。
 女は櫛で梳かれていないようなやや乱れた黒髪のセミロングをゆらりとした仕草で、右手で髪をかき上げ、その右手を左手の日本刀の柄にかける。鯉口から鈍い光が漏れる。
 思わず、ほう、と加直は彼女の所作を見て感嘆の息を吐いた。

――――動作が自然だ。無駄が無い。
――――『知らないところで何人か斬ってるな』。
  
 加直自身は恐怖と不快を押し殺して女の目を凝視した。自分はもう逃げられない位置にいるのを知っていたからだ。
 加直は躊躇なく右腹辺りに差していたIBWホルスターからS&W M351cに手を持っていく。威嚇させる目的で、態とゆっくりと銃を構える。この世にはコンシールド法というものが有るのだよ、と教えるように。
​「動かないで。刀を捨てて」
 加直の声は、感情を排した低いものだった。出来るだけ穏便に済ませたい。声や表情を、冷静よりやや静かにゆったりとした印象を持たせるように演技する。相手を刺激させたくない。恐らく刺激させればさせるほど、こちらを攻撃する意図が激しくなり、それは握り拳のような感情の塊となって加直を酷く疲弊させる。疲弊すればするほど、加直の認知機能は低下して、自慢のズナブノーズを奮う判断が遅れる。狙いも定め難くなる。 
 一番恐れている事が二つある。
 一つは彼女の凶刃で倒れる事。
 そして、彼女のバイタルゾーンに22マグナムを叩き込んでしまい、ミラータッチ共感覚が彼女の苦痛を捉えて、自分も彼女と同じく苦痛に悶えて地面に沈んでしまう事だ。
 それくらい、彼女は、『確実な距離にいた』。
 彼我の距離、六m。
 街灯が乏しく、加直の背後の頭上に外灯。加直が光源の照射範囲に収まっている。辺りに人影も人の気配もない。路地を抜ける風はこの距離では銃弾に大した影響を与えない。
 普通ならひりつく空気に逃げ出してしまうのが、人間の心理だろう。
 加直は残念な事に、『自分が逃げるために背中を見せた途端に、背中から斬られてしまう』のが予想できてしまう人間で、相手の微表情や仕草を見ただけで相手の殺意も高確率で読み取れてしまう。その上、相手の感情の変化すらミラータッチ共感覚がノイズとして伝えてくれる。即ち、『この場で、S&W M351Cを抜いて、狙いを定めて、ようやく初めて、彼女と同等の立場になった』事実も理解していた。
 ​女性は加直の持つ銃を見て、一瞬、フリーズ。彼女のノイズに隙間ができたのを感じた。コンシール許可証取得者だとは思わなかったのだろう。しかし、直ぐに殺意を漲らせるノイズを放出し、加直に先制攻撃を浴びせるがごとく、不快感を与える。
 加直は彼女の背後に視線を一瞬だけ向ける。
 
――――なるほど。そういうことね。

 彼女の背後には……十m以上離れた位置には既に骸と化している被害者が横たわっているのが見えた。辺り一面血の海だ。外灯の下に照らされる被害者。首と胴体が離れている。救急車を呼んでも奇跡でも起きない限り、救命は不可能に近い。
 それは普通に考えれば、逃走経路が断たれていることを指していた。血液で地面も壁も塗りたくられた空間を通過すれば必ず足跡が付く。そして、その向こうは人通りが多い道へと通じる路地に面している。
 日本刀の彼女が後退して逃走するより、加直を斬り殺して前進した方が逃走経路の選択肢は広いのだ。

――――こういうタイプは苦手だなぁ。

 加直は幽鬼の如くゆらり動く彼女を見据えて、徐々に威嚇のための凶眼を造る。その凶相のペルソナだけで相手が引いてくれる可能性に僅かに期待する。
 目の前の精気の宿らない目をした女の黒い瞳を見ながら、心の中で、吐き捨てる。

――――この人もクソッタレな社会の被害者ね。偶々、サイコパス気味だっただけの!

 目の前に立つ無口な彼女の、黒く深く歪んだ感情が、加直の全身をワイヤーで縛り上げるように苦痛で硬直させていく。勿論、これはミラータッチ共感覚の身体症が引き起こす症状の一つだと分かっている。分かっているが、慣れない苦痛なのだ。
 彼女の洞穴のように黒い目の奥に秘めた、鬱屈した『何か』からの解放への渇望が完全に、彼女の認知や社会通念、道徳、人道という人間社会で必要な概念を上書きしてしまい、人間の一番古い脳と言われる大脳辺縁系が感情的衝動だけに乗っ取られている。
 加直の凶相のペルソナの威嚇も空しく、彼女の感情が『恐怖』から『攻撃』へと奇ッ怪に歪む。
 女は、加直に向けて一言も発することなく、布に包まれた刀の柄を握り、抜き、布にくるまった鞘を捨て、両手で中段正眼に構えた。
 剣術ではなく剣道の構えだろう。顎を引き重心を落とし、半歩左足を引いて、切っ先が加直の喉を突き刺すように狙っている。彼女の全身が、静から動へと移行する前の、極度の緊張で震え始める。『剣の心得が有る者が剣を奮う者に反撃して刀を奪い、殺し、剣を奮った』……他人事のようの脳内で組み立てて忘れていた自分の推理を思い出す。大方間違いない。
 加直と女性の間には、六mの距離と静寂だけが存在した。
 空気が歪む錯覚がする。
​ 視野と聴覚が狭窄を起こし始めた加直。
 脳にかかる負荷が大き過ぎて、脳の省エネモードで工面することができたエネルギーはノルアドレナリンとアドレナリン、そしてストレスホルモンのコルチゾールの分泌に優先される。

――――ああ。そうか。もうすぐ時間切れか。

 解離した加直が苦境に立たされる自分を俯瞰する。
 解離した顔の言うとおりに、様々な器官や組織が狭窄を起こしているのなら、速やかなエネルギーの補給と休息が必要だが、それは叶わない。
 ならば短期決戦しか手段はない。
 自分が先に銃口を向けている。
 絶対に外さない自信が有る距離。
 そして、彼女の技量不明の刀の切っ先が、加直の命を捉えるのにも恐らく、最適な距離。
 光源下に立つ加直。
 暗がりに立つ女。
 鈍く誇示されるスナブノーズ。
 暗がりで鈍く秋水を曇らせている白刃。
 六m。無限の距離感。
 女性の口元は、歯を食いしばることで緊張を示し、顎のラインは極度に硬直している。これは『感情的な衝動を、筋肉の硬直によって抑え込もうとしている』サインだ。さらに彼女の体重は、左足の母指球にわずかに傾いており、これは『左軸足から発生する前方への突進と何かしらの攻撃』という、予備動作だ。
 ​この女性の脳内では、衝動制御を司る前頭前皮質の機能が、感情的な暴走によって完全に麻痺している。彼女は、『行動を起こすこと』でしか、この極度の緊張と恐怖から逃れられないと錯覚している状態だ。
 現況を維持する、現況を打破する他の選択肢を模索するという情動的負荷が一秒でも耐えられない緊張状態にあることの証左でもある。
 ​加直の脊髄にミラータッチ共感覚が感じ取れた、ウニのように尖ったノイズの粒が脳を突き刺す。
 ……しかし、加直は『覚悟を決めた人間のペルソナ』を造る。その激痛を無視した。
 人間の表情の極端な変貌は最高のノンバーバルコミュニケーションだ。極端なスペクトラムに偏っていない精神障害を患っていない限り、『相手がこちらの顔を睨みつけている限り』有効な抑止力となる。……と、願いたい。
​ 対峙してどれくらいの時間が経過したか。せいぜい数十秒以内だろうが、加直の感覚では数時間が経過したような疲労を覚えている。
 女の柄の握り方を見る。人差し指や小指を浮かせていない。矢張り剣術ではなく剣道だろう。我流の喧嘩剣道かと思ったが、爪先や腰の重心の落し方は、慣れたそれ。
 ふと、刀の切っ先がふわりと綾の字を小さく描く。
 それは、加直が定める『発砲の正当性が確立される最後の瞬間』が近いことを報せていた。
 切っ先を照準のようにして斬り付ける場所の目処を立てる際、必ずその人間特有の癖が出る。刀だけに留まらずそれは拳や蹴りや投げ技、投擲、打擲……つまり『命を奪う攻撃が開始される、その一歩手前』だった。
 ​加直は怒鳴るように警告し、直後発砲した。2発。
 腹の底から絞り出すような警告だった。頼むからその一喝でおとなしくしてくれとの思いを込めた最後の恫喝だった。
 恫喝の意味を含んだ警告は空しく路地に響き、その声の響きをかき消すように鋭い、抜けるような銃声が空気を貫く。
​ 銃弾は、前方に全力で駆けだした女の刀を握りしめた右手の甲を掠め、右足の斜め手前のコンクリートを穿つように破片を飛び散らせた。
 女は、銃弾の衝撃で右手の衝撃によって刀を取り落とし、足元の破片が飛び散り、片目を強く閉じて塵埃から顔を顰めた。先ほどまでの殺意を込めた構えを崩されてしまい、彼女の意識は地面に落ちた刀に向けられる。
「……撃たないの?」
 彼女は加直に問う。声に全く抑揚がない。まだ若いだろうに酒か煙草に焼かれた声だ。
「……撃てない。『あなたは凶器を持っていないし、反撃の機会も伺っていない』。完全に無力な人間は撃ちたくても撃てないの」
「コンシールド法って不便ね」
「僕もそう思う」
 加直は言葉の最後に態と『悪そうな微笑みを浮かべた』。お前の命などいつでも吹き飛ばせるが、吹き飛ばす理由がない。理由を今すぐ作ってくれるか?
 ​加直と女が対峙して僅か4分22秒。時刻を証明してくれる証人は加直のクロノグラフだった。だが、この曰くつきの相棒は無口なので証言してくれない。
 近所の住人か通りすがりの人が通報したのか、銃声を聞きつけたのか、遠くからパトカーのサイレンの音が急速に近づいてくる。
 クロノグラフを真の証人だとするのなら、今こちらに向かっているパトカーは近年稀に見る勤勉な警察官が手配したパトカーだと言える。
 何しろ五分以内にサイレンをけたたましくさせて真っ直ぐこっちにやってくるのだ。嘗ての国内では通報すれば必ず警官が五分以内に駆けつける体勢が維持されていたというが、近年ではその体制も絶対数の不足から維持できなくなり、所用時間十分以上が当たり前になっている。強盗や殺人が起きても犯人は悠々と逃げられる時間だ。
 女は逃げられないと観念し、虚脱感と無力感と共にその場に崩れた。表情からは様々な感情が渦巻く複雑なノイズが迸る。
 『諦めと、安堵。その感情が一番強かった』。
 彼女の表層的な感情を分析するのなら、人を斬る快楽に対して、背徳的な興奮と悔悟を覚えていたのだろう。詳しくは警察の聴取次第だろう。ここから先は加直の仕事ではない。民間人としての義務を果たすのみだ。
 加直は、愛銃を構えたまま、左手で右手の甲を強く押さえながら、下唇を噛んで激痛を堪えていた。
 彼女の右手の甲を狙った22WMR。
 実のところ、右手首の付け根を狙って発砲したのだが、引き金を引く直前に、命中した場合のミラータッチ共感覚を介した激痛を想像してしまい、僅かに心が鈍り、その心境の揺れが銃口のブレに繋がり、幸い、彼女に軽症を負わせただけで終わった。命中していたのなら、恐らく、加直は銃を滑り落とすだけで済まずに、気を失っていたかもしれない。
 下唇を強く噛み締めたまま、加直は右手だけでS&W M351Cを保持して、左手でブルゾンの内ポケットからスマートフォンを取り出し形式としての通報を行った。その後にマイナンバーカードが収まった二つ折りのカードケースを出して到着するパトカーを待った。マイナンバーカードがコンシールド許可証と紐付けられているので到着したパトカーの警官に説明する手間を少しでも省くためだ。 
 ​事件発生から約三十分後。連続殺人の容疑で女は拘束され、救急隊員による手当を受けている。加直は、現場の路地の出入口近くで、聴取を担当する中年の警官と向かい合っていた。
​ 聴取担当の警官は加直の発砲という事実に渋い顔を隠せない。
「辺さん。彼女は刀を『あなたに対して振りかぶっていなかった』。あなたの発砲はギリギリの行為だ」
 ​加直は、ポケットからハーフコロナを取り出し、ゆっくりと使い捨てライターで火を灯した。自分の感情的になる心を抑えつける儀式ではなく、余計な動作を細かく挟むことで右手の甲の痛みを早く分散させるためのコーピングだ。
 深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。苦い煙の匂いが、夜の裏路地の空気を満たした。
​ 左手の人差し指と中指で黒フレームの眼鏡を正した。
​「今回の犯人は、あまりにも感情的な衝動で襲ってきました。『刀は振るだけの武器ではないんです』」
​ 加直は冷静に、出来るだけいつも通りに論理的に組み立てた問答で押し返すべく、先ずは事実のみを説明した。
​「僕が狙ったのは、彼女の『右手の甲と足元のコンクリート』です。彼女はすでに抜刀して『突き』の予備動作に入っていました。アレ(刀)の殺傷能力を鑑みれば、予備動作が完了するのを待つのは、バカですよ」
 ハーフコロナを銜えて首ごと向けて、視線の先にいる、拘束されて救急車に運ばれる女の姿を見た。
​「僕の発砲は右手と視界を阻害して、彼女を強制的に停止させることを目的としました。これは極限まで発砲を回避して、凶器の使用を阻止するための最も合理的な手段だと思うのですが。今回の発砲『も』緊急避難における『必要な措置』と認められますが、どうでしょうか」
 加直の言葉の最後の「どうでしょうか」は相手――警察官の聴取――に止めを刺すつもりの強い語気を孕んでいた。
​ 警官は犯人の心理状態を把握し、その上で非致死的制圧を行ったという主観に対して返す言葉を失う。
 恐らく加直の言っていることは正しいだろう。目撃者や街頭カメラが無いので加直の言い分は警察の手を離れて犯人の聴取の末に、裁判所の然るべき部署の担当となるだろう。それに近隣の連続辻斬り事件の犯人像とも一致しているので、結果的に警察は苦労せず犯人を確保できた。市民に先を越された悔しさがあるので駄賃の積りでコンシールド許可証を剥奪して点数稼ぎをしようと目論んだが、それを強行すると世論が煩そうなので、口を噤む。
 彼は、市民の銃を法の名のもとに奪う隙が見つからないことに苛立ちを隠し、書類に目を落とした。下手に突いてSNSで拡散されたら今度は自分が社会的に抹殺される。……今や、真偽の証明が難しいSNS発信と事実よりもポストトゥルース優先で生成されたフェイク動画の方が社会的に恐ろしい脅威として認識されている。この場を静かに納めれば穏便に済む話なのに、権力を嫌う輩に対して不審の種を与える必要もあるまい。
​「……今回の発砲の件はこれで聴取終了になります。緊急避難の原則に則り、法的に問題なしと認められるまで銃をロックさせてもらいます。裁判所からの通知をお待ちください」
 警官は自分で自分に手錠をかけるような悲壮な影を顔に作りながら、加直の銃の銃口からワイヤーを通し、その先端を小さな錠前に差し込んで銃を完全に使えなくした。
 加直は凄まじい恐怖に襲われたが口の中で舌を強く嚙んで顔に何の変化も出さないように努めた。また通知が来るまで銃の無い生活が続くのか……。

​ 事件は一応の終結をみた。
 加直は帰宅するなり、疲労困憊の身体を【辺金物屋】の裏の庭へ運び、愛犬トメの頭を優しく撫でた。
 誰にでも尻尾を振る、番犬に不向きな性格の犬だが、それも可愛らしさの一つだ。その証拠に、トメの顔や耳をくしゃくしゃにするたびに加直の荒んだ心が凪いでいく。犬の感情はノイズとして感知できないので、愛犬との戯れは大事な心のメンテナンス時間だ。
 この日の晩は帳簿の管理とメールチェックだけをして、勉強はせずに熱いコーヒーと甘いチョコレートをしみじみと味わい、睡眠薬を飲んで少し早く寝た。

​ ※ ※ ※

 事件は一応の終結を見た。連続辻斬り事件の件は、だ。
 二日後の午後八時半。商店街組合の会合が開かれている会議室にて。その会議の終わりに会合に参加した全員が退室する直前、大声で呼び止められた加直。
​「辺さん! 『君のおかげで辻斬り事件が解決した! 自警団の活動は驚くほどの効果を発揮した。これは、我々市民の力の証明だ!』 勿論、この自警団は暫く継続することになったよ! 本当にありがとう!」
​ 加直は、心の中で静かに目の前の肥えた60代の壮年を殴り飛ばした。組合長の「本当にありがとう!」の言葉の意味は加直を神輿にして次の選挙を有利に進められる可能性が高くなった打算的なお礼の言葉だ。本人はそんなことは一言も言っていないが、加直の微表情を読み取る能力とそれを補強する不快なノイズが、人間の名誉欲を感知していた。

――――何がありがとうだ。

 心の中の毒づきを決して表情には出さず、「商店街の皆様のお役に立てたのならそれはそれで……」と言葉の意味を汲めない曖昧な返答を苦笑いと共に返した。
​ 加直の顔は、『奥ゆかしくて人見知りの辺さん』のペルソナを保ったまま、微かに引きつった。
 ※ ※ ※

 【ああ。僕が最も避けたかった結果だ。自警団の活動は僕に不必要な人脈と、ノイズの機会を増やすだけなのに。僕が事なかれ主義を貫こうとすればするほど、何故か事態は僕を最前線へと駆り出す。事件を解決したせいで、人前に出る義務は暫く僕から離れてくれないだろうな。僕の安息はまた遠のいた。……せめて明日、【月見里】で小倉トーストを食べている間は何も起きないでくれよ……】

 そう記された加直の日記が発見されるのは、後年に加直が亡くなってから暫くしての事だった。


 今の​加直は、夜の帳の中、微かなフルーツとコーヒーの香りを目指して、体が一回り小さくなるほどの大きな溜め息をついていた。

≪♯009・了≫

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