掌編【辺加直の鏡像】

 包括的秘匿所持法。通称コンシールド法。
 多発する凶悪犯罪に対して警察官の絶対数的不足が生んだ悪法。
 当初からこの法律は歴史に残る悪法であるという判定が下されるのを想定して施行された。
 それ故、国の内外に向けてのポジティブなイメージだけでも汲み取ってもらうことを主眼とし、『常識ある市民』しか所持できない法律として流布された。
 誰も彼もがカジュアルに拳銃を所持できない工夫は即ち、公権力を以てすればいつでも許可証の剥奪が可能である事を物語っている。
 コンシールド許可証を取得するにあたって、21歳以上65歳以下の日本国民で1年間の『無事故無違反』『複数回の抜き打ちの精神鑑定で異常無しが証明』『座学と実技の講習に全て無遅刻で出席』『複数回の抜き打ちでの口頭試験を全て及第点でクリア』『【通院】【服薬】歴無し』『逮捕歴、補導歴無し』等の条件や試験をクリアした者が漸く、コンシールド許可証を取得できる。
 コンシールド許可証を取得できても、政府が指定するコンシールドキャリー専門の銃砲店でしか銃や弾薬や周辺アクセサリー、メンテナンスキットを購入できず、更にそれらの価格が特別税の名目で米国内の正規販売価格の倍以上で販売されている。
 追い打ちをかけるように銃火器やアクセサリー類購入に関する消費税は30%。……更に日本政府が指定するメーカーの指定するモデルしか購入できず、微調整可能のサイトの調整は可能でも、別売のアダプターやレーザーサイト、グリップの交換、銃本体を加工(トリガープルの調整、トリガーストロークの調整、木製グリップを削る、視認性を高めるためにサイトに蛍光塗料を塗る等)は全て違法改造と見做されてコンシールド許可証を五年間剥奪、武器準備罪が適応され刑事罰を受ける。
 選べる銃が少ない上に、銃本体にも制限が有る。例外はなく、一人一挺で、コンシールド許可証を取得して銃を買う時に、本人の顔と指紋と銃の線状痕、雷管の打刻痕、製造番号、日本国内での銃火器の管理番号を公安に登録され、マイナンバーカードに紐づけられる。マイナンバーカード不携帯の状態で銃を携行発砲するとコンシールド許可証を剥奪され、銃砲刀不法所持で刑事罰を受ける。また発砲時にアルコールが検出されると同じくコンシールド許可証を剝奪で刑事罰を受ける。
 国内で流通するコンシールキャリー用の銃火器には法律上、中古品は存在せず、その銃を手放す時は、その銃が溶鉱炉送りになる事を意味する。
 自分に合った銃を探すのは非常に困難な状況なので購入してから後悔する人も多い。『何しろ、銃砲店ではカタログスペックを見せられるだけなので、試射できない。カタログを見て気に入った銃を見つけても取り寄せるのに一年以上待たされるのは当たり前。政府指定の銃砲店で相性のいい銃と出会える確率は低い』。
 国が選定した銃の基準は、実のところ、四十年近く前の知識が使われているので、弾薬と弾数が諸外国と比べて比較的、『低い』。
 リボルバーは予備の実包を含めて四十発しか携行所持できず、銃身長四インチ以下。装弾数は最大九発まで。スピードローダーやストラップ一個ごとに別の税金が発生。弾薬は三十八口径以下、薬莢長二十九.五mm以下しか使えない。
 オートは予備の実包を含めて三十発しか携行所持できず、全長二十二cm以下。薬室を除く装弾数は八発まで。マニュアルセフティが必須。予備弾倉は一本ごとに別の税金が発生。薬室に予め実包を装填しての携行や保管は処罰の対象になる。弾薬は口径九ミリ以下、薬莢長十八mmまでしか使えない。
 リボルバーのスピードローダーやストラップなどの装填補助具は一人最大三個までしか所持できない。オートの予備弾倉は一人最大二本までしか所持できない。これを破れば例外なく処罰の対象だ。
 リボルバーもオートも弾頭はソフトポイントのみしか使えない。それ以外の弾頭は国内では販売されておらず、もしも入手して使用すると『法律上、無用な苦痛を与えると見做されて』殺人致傷の意図ありと見做されて刑事罰の対象になる。
 また、居住する都道府県から出る際にコンシールドキャリーを行う際には居住する都道府県から出る一週間前までに所轄の警察署に窓口で報告し、居住する都道府県に戻った際には二十四時間以内に帰宅した旨を窓口で連絡しなければならない。この義務を怠っても特に処罰はないが、届け出なしに出先で発砲した場合は緊急避難は適用されなくなる。……都道府県の境目にコンシールド許可証を取得している人間が少ないのもよく分かる。
 銃を盗難紛失、窃盗被害に遭った際には四十八時間以内に警察署の窓口に報告しなければコンシールド許可証は永久に剥奪される。
 また、運転中の発砲含む全ての操作は露見次第、処罰の対象になる。
 ……このように、『銃を持つことを諦めさせるために銃を持たせる法律』と揶揄されることが多いコンシールド法。オタクや愛好家や趣味人は真っ先に試験から脱落し、暴力とは遠い位置にいる人間ほどコンシールド許可証を取得する確率が高い。
 知識のない、役人のような素人の銃砲店の店員が、知識のない、素人に銃を売る。……これも悲劇であった。悪法と呼ばれる所以であった。
 最大の難所は発砲時の通報の義務だ。一発でも発砲すれば命中の如何関係無く、例外を除き六時間以内に最寄りの警察の専用窓口に通報し、現場での聴取が行われ、この聴取の段階で緊急性が有ったことを正当に論理的に説明できれば何事も無く、『使用した銃にロックをかけられて』解放される。
 この聴取の段階で多くの人間が警察に不審がられてコンシールド許可証を剥奪されるような憂き目にあう。初めて人を撃って六時間以内に警察を呼び論理だてて正当性を証明しないと、許可証を得るまでの苦労が水の泡になるだけでなく、負傷させられた容疑者が、銃を持っていない元コンシールド許可証取得者に報復をする事例が多発している。それだけでなく、論理的説明が上手く行えて、警察の聴取が終わっても、銃は銃口から薬室までワイヤーを通されてロックされて専用の鍵で開錠しない限り発砲できない状態が、裁判所からの『正当防衛成立を認める』と認められた封筒が届き、最寄りの警察署でロックを解除されるまでの約一週間は、銃を撃てない。その間を狙って容疑者の仲間が報復に来る事例も多数ある。
 コンシールド許可証取得者は先ずは犯罪者よりも『法律から銃を守る』事が暗黙の了解的に優先されている。

 ※ ※ ※

 加直は眼鏡を外し、目薬を差した。
 レジカウンターのテーブルの上には今年度版のコンシールド許可証取得者向けの問答集があり、辺りにはマジックインキやボールペンが並べられている。
 発砲した際の警官の聴取を上手く切り抜けるには、毎月細かく更新されるコンシールド法の法律を頭に叩き込んで、発砲した際にパニックに陥らずに、発砲の正当性を証明しなければならないので、そこにビジネスチャンスを見つけた弁護士が、コンシールド許可証取得者向けに様々な『警官の聴取で使える法律用語とその用例』を書いた本が刊行されている。
 加直の手元に有る本もその一冊だ。こんな時間まで読んでいたのではなく、こんな時間ぐらいしか勉強をしている時間が無いのだ。
 警察は常にコンシールド許可証取得者から銃を奪う目を光らせている。少し前のアーミーナイフ狩りより簡単な手続きで自分の点数稼ぎになるからだ。
 絶対数的に警察官の数が足りないので国民が守れなくなり、自分で自分の命を守ってね、と責任放棄したも等しい法律を作り、広めたのは元警察官の政治家だと聞いている。ここに、『国民を守れない警察組織が、国民を虐げるのに手段を選ばない警察官』を法的に生み出す遠因の一つとなっている。……警察の法的な自浄作用が崩壊している証拠ともいえる。
 状況は極めてクソッたれ。
 しかし、加直はその銃が無ければ生きていけない体になったのだ。ミラータッチ共感覚が発現しなければ考えは違っただろうが……。
 銃を使う技術と知識が有っても、他人のコンシールドキャリーには触れる事はできない。これも処罰の対象だ。ゆえに、様々な場面での『緊急避難の法の抜け穴』を潜ったメソッドが書かれた本が毎年毎年新しく書かれては売れる。公安や警察庁はコンシールド許可証やその取得を一考する国民をターゲットにした書籍やネットメディアを監視して、コンシールド法の抜け穴を探っているという噂が有るほどだ。
 何事にも腰が重い役人である警察にしては、簡単に点数稼ぎができる方法にだけは腰が軽いと陰で嗤われているのも頷ける。
 加直は疲れ目に電子レンジで温めたホットタオルを当ててみようと、店舗の休憩スペースに来た。二階の居住部分では既に就寝している祖父の恵悟を物音で起こしたくない。
 クロノグラフに目をやる。午前一時三十分を回ろうとしていた。
 第二商店街は深い夜の帳に包まれている。潮の匂いを乗せた湿った隙間風が、古いシャッターの下を這い回っていた。この季節にこの臭いがする風が強く吹くという事は明日は雨かもしれない。
 【辺金物屋】の店内は防犯のためにレジカウンター以外はオレンジ色の常夜灯が灯っている。
 加直は、黒いトレーナー姿にデニムパンツ姿で勉強をしていた。夜の雰囲気は好きだ。静かで、少し寂しさを覚え、ミラータッチ共感覚とは違う情緒的な寂寞に包まれる。このまま静かに朽ち果てていくような錯覚を感じる。
 加直は、電子レンジで濡らしたタオルを温めながら、電子レンジの近くの棚から小さな板チョコを幾つか掴んで、アーミーナイフのハサミで開けて次々と口へ放り込む。電子レンジを使っているので同時に電気ケトルが使えない。熱いコーヒーは後回しだ。
 加直はふと、衣服の上から右腹に触れた。IBWホルスターに潜むS&W M351cの硬質な感触。この銃は普段携行する分には軽くて疲労が少ないのだが、抜き放つと、軽すぎて照準が定め難いという重心の弱点があった。とはいえ、それは海外のフォーラムでの評価で、国内のコンシールドキャリーの使用状況では大した問題ではなかった。
 午前一時三十五分。やや強い風が表のシャッターを軽く叩く。商店街が最も深い眠りにある時間帯だ。ホットタオルの効果で少し眼精疲労がマシになった。
 店舗と隣の――辺金物屋のプレハブ倉庫が有る――倉庫を隔てる扉の裏側から、わずかな金属音が響いた。辺金物屋の全ての窓で雨戸やシャッターが外界を遮断している今、『割と簡単に』侵入できるドアはそこだけだ。
 訓練された者にしか出せない、静かで硬質なシリンダー操作の音。潮の匂いに混じって、僅かなゴムの匂いと、強い警戒心が混じった、異質な空気が店内に流れ込んできた。『流れ込んできたのは空気だけではない。加直のミラータッチ共感覚が強く反応するほど』の不快感も流入する。
 過去の犯人たちとは全く異なる、冷たく、硬質な、『計画の成功に対する揺るぎない確信』だった。
 ミラータッチ共感覚が真っ先に反応したのは、独りの侵入犯が抱える『計画の成功に対する揺るぎない確信』が強烈に印象に残る、明確な、静謐なノイズだった。
 その人物には感情的な乱れや濁りのようなノイズが一切なく、目論む行動は完全に合理的で、論理的なルールに基づいているという自信すら感じる。
 この冷静さは加直にとっては最も危険なサインだった。
 なぜなら、彼の行動には感情的な躊躇が存在しないからだ。加直はこのロジカルシンキングで『為そうとする脅威』に対し、『発砲の正当性』を確立することが難しいことを直感的に理解した。
 加直は、隣の倉庫へと通じる扉から店舗部分へと侵入した人物の姿を目視したわけではない。
 気配や直感という曖昧――ともすればスピリチュアル――な感覚で異質な存在を『知った』だけだ。
 感情と事実の分離。
 この状況では、物理的な衝突は敗北を意味する。理由は明白だ。このような密閉されて遮蔽が多い空間では、素人のコンシールドキャリーよりプロの職人技の方が優れているからだ。コンシールドキャリーで銃を持っていながら返り討ちに遭い、死傷した人間は割合としては断トツで多い。
 先ほど、少しチョコレートを齧っていて正解だった。大量の認知資源を消費するミラータッチ共感覚による、微細な信号の受信を、『冷静に事実として処理する』ためには代償が大きく、燃費が悪い。
 全身から神経の繊維が床を這うように伸びて、店の隅々までそれが張り巡らされるイメージ。
 加直は姿を見せない侵入者が、『出来るものなら、気配を感じられても姿を見せずに仕事を完遂させたい』思いであることを悟りつつある。……もう、侵入者の衣服の擦れる音や呼吸がすぐそこまで聞こえてくる。
 同時に理解する。それらの微小な音は攪乱させるための仕掛けだという事を。
 レジカウンターの椅子で体をできるだけ脱力させる加直。筋肉の硬直は素早い動作が難しくなる。

――――電気……通信……防犯カメラ……は異常なし。
――――『自分から人が居る店舗に向かう侵入者の心理とは?』

 視線を落とす。レジカウンター下の棚には愛用のスナブノーズが定位置として鎮座している。グリップが見える。
 耳鳴りがしそうな静かな夜に、時折、風がシャッターを叩く。その音響的ノイズの合間に、反歩ずつ距離を詰めているであろう侵入者の気配を感じる。相変わらずプロ意識の高い、ノイズに乱れも何も感じない『綺麗な、整った、明確な意思』。
 侵入者は、倉庫の仕切り扉側の通路から静かに姿を左半身だけ現した。
 黒いトレーナーに黒い作業ズボン、黒いバラクラバ。黒い運動靴。見えた半身。威圧か強迫か恫喝か。その意味は分からないが、加直はまだ観察者のペルソナのまま、近辺の棚や商品を物差しにして、その人物の身体を計る。
 体格は加直より少し高いか。頑丈そうな体躯。体つきからして男。左手に小型の工具バッグを持っている。一番注目したのは彼の胸元には、服の上からでも分かる不自然な硬質な膨らみがあったことだ。
 彼は事前に店主代理がコンシールドキャリーの許可証を持つ女性であることを把握していたようだ。
 彼の胸の硬さの正体は直ぐに脳内のデータベースと照合して答えが出る。
 加直の22WMR弾程度では貫通しないアラミド繊維製の防弾ベストを重ね着しているのだとすぐに分かる。加直の小さな拳銃に対する当たり前の防護策だった。
 コンシールド許可証取得者に義務付けられている毎月合計五時間の座学講習と二時間の実技講習で習ったことが有る。相手が防弾ベストを着ている場合の対処の仕方を。マニュアルでは可能な限り、手足を狙い、頭、腹部、下腹という防弾ベストの防護範囲外のバイタルゾーンは避けた方が聴取の際に法的に有利になると講習で学んだ。
 こちらをバラクラバ越しに睨む彼は、加直の拳銃の存在を計算済みであり、その脅威を無効化するための準備を整えていた。
 加直は、発砲の可否や有無の判断が分からない危険を感じたため、彼女はレジカウンターの下にある棚の中で、そっとS&W M351Cに触れる。
 まだグリップを握っただけだ。こちらの動きを必要以上に与えない。相手もこちらを、こちらも相手を睨んで無言なのだ。既に異様な空間が完成している。即座の発砲は悪手だ。
 加直の知覚推理は、この犯人に対しては、銃ではなく心理的な罠こそが唯一の武器であることを示していたが、具体的には何も思い付かない。考えさせてくれるだけの時間を与えてくれるとは思えない。――――彼が何の目的で、この店の電機や通信や防犯カメラを無力化させず、加直の居る時間に、加直の居る場所に、加直の前に姿を見せに来たのかが不明なのだ。……加直がお礼参りで狙われている可能性も視野に入れて考える。
 一瞬、動きを止めた彼。
 加直が拳銃を持っている可能性を計算していたため、この女が容易に通過できる獲物ではないことを把握していた彼の視線は、加直の腰元ではなく、彼女の目と手の動きに集中している。

――――ははあ、そういう事か。
――――勘弁してれ……。

 彼の左半身の体と左目の視線の動きだけで拾ったノンバーバルの情報を解析し、理解し、把握し……思わず頭痛がする。
 ここからが、加直の戦場だった。こんな寂れた商店街の、こんな寂れた金物屋に、金目のものも売り上げも何も無いようなどうしようもない個人商店を態々選んで侵入してきた目的は――――『加直』だ。
 『銃を持っている人間が守護する店に侵入し、守護者を出し抜き、商品かレジの小銭か、それを勲章のように持ち去る事が目的だろう』。
 加直は自ら感じている違和感を全て逆から計算し構築し直していた。
 その上で先ほどのノンバーバルの情報を加えて推察する。侵入者の不可解な行動や乱れないノイズが全て氷解した。
 彼は勝負を所望していた。
 それも命を奪い合うようなスタイルから、棚からネジ一本くすねるような小物のような勝負まで。様々なスタイルの勝負。
 自分より強い者がいる場所で、自分より強い者をケムに巻き、自分より楽しんでいる人間はいないと証明するための純度の高いスリル中毒。
 彼のノイズは純粋だった。
 敵意、悪意、殺意、恐怖、焦燥、不安、恐慌。警戒。注意。
 何もかもが感じられない。
 ただ純粋に『こちらに全ての神経が向けられていた』。彼の視線は曇りなく真っすぐで、尋常な勝負を求めるサムライのようであった。
 ただ、勝負する手法が、多発する小物臭い犯罪を踏襲していただけの事だった。
 彼の熱い想いにどうやって答えてあげるのが正解か? 
 加直は犯人の極度の警戒心、つまり脅威を感知できない。寧ろ、彼の警戒を高めたい。「自分は全くの無害で、容易に通過できる獲物である」というペルソナを剝ぎ取るべきか。
 加直はミラータッチ共感覚で覚えた犯人の『成功への確信』とは正反対の、『深い、絶望的。ともすれば虚無感』をシミュレートするという、負荷の高い演算を始めた。
 彼女は、口元を覆っていた左手をゆっくりと下ろし、意識的に視線を左下に逸らせて、瞳孔を僅かにブレさせる。肩を内側にすくめ、顎を引き気味にして、身体の重心を前かがみにする。これは、『戦う意思も、逃げる意志もない、極度の恐怖に支配された、受動的な獲物』のノンバーバルサインだった。自分は負け犬です。勘弁してください。
 犯人は、加直のこの微細な挙動を分析した。
 彼の脳は彼女の静かな恐怖のサインを、具体的な脅威がゼロであると計算した。
 彼の事前調査では、加直の『人命を奪うことを嫌う』という心理的弱点につけ込んで勝負に出るつもりだった。つまり撃たせてからの反撃がセオリーの一つだと読んでいた。実行するつもりでいた。
 安堵による警戒心の弛緩。
 犯人は、加直を完全に無力化したと判断した。
 彼は見落としていたのではない。心が無防備になった瞬間に一瞬だけ失念していただけなのだ。『銃以外の脅威を』。
 バラクラバの奥で彼の瞳孔の変化を加直は見逃さなかった。同時にミラータッチ共感覚が砂粒ほどの変化を捉えた。予想通りの障害が、無害な獲物として確認されたことによる安堵感だった。
 この安堵は、警戒心を司る扁桃体の活動を一時的に低下させ、報酬系を刺激する。つまり彼はこの一瞬、「もう大丈夫だ」と判断し最も身も心も無防備になる。
 犯人は、加直の拳銃による反撃という主要な脅威に注意を集中するあまり、店内の基本的な防御手段を完全に軽視した。彼は加直から目を離し、レジの方向へ向かって一歩踏み出した。
 この一歩が、加直が狙っていた、『最も無防備になる瞬間』だった。
 彼は『その存在』を、目的のハードルを高めて、もっと楽しむために敢えて事前に遮断しなかった。それを安堵による心の無防備――テンションリダクション――が一瞬だけ失念させていた。
 刹那。レジカウンターの下の、指一本で容易に操作できる位置に設置された緊急時通報ボタンに、スナブノーズの横にあるそれに、素早く手を伸ばした。彼女は、躊躇いなくボタンを強く押し込んだ。
 静かな辺金物屋の空間を、甲高い警告音が打ち破った。
 犯人は、加直の無力な獲物という偽装に完全に騙されていたのとあれほど警戒していた警報装置を失念していたことに舌打ちした。突然の大音響に焦りはしたがパニックに陥らなかった。彼の持ち前の冷静さが一瞬で、彼の平常心を取り戻す。
 とはいえノイズに乱れが生じる。彼は加直が命乞いをするものだと勝手に思い描いていた。勿論、命までは盗らない。銃も奪わない。筋書き通り、小物の悪党らしくレジの有り金を奪うだけで良かった。……脳内に描かれたプロットが破綻した。
 彼の動揺は、拳銃を持った女性に対する対策は万全だったが、『獲物自身による通報』という、感情的な要素が皆無の行動を、人間の不確かな行動を計算の上で軽く見ていた、とも言える。
 こんな緊張状態なら、「どこの誰でも、こんな状態なら銃を抜いて乱射するだろう! 普通はよ!!」と、彼の目は抗議の色を強くしていた。
 彼が彼女を見ると、いつの間にか抜いていた銃口をこちらに向けていた。
 発砲音を少しでも小さくするつもりなのか、B5版ほどの大きさの書籍を銃の上に被せて、銃口だけをこちらに向けていた。
 彼は晒していた半身を素早く商品棚に押し戻すように隠れると、運動靴の裏がこすれる音を残しながら、来た道を戻って開錠したままの倉庫への出入口から逃走した。逃走の際の足音は既に冷静そのもので慌てるようなノイズは拾えなかった。
 ただ、捨て台詞の代わりに、『成功の確信』から『計画崩壊の激しい焦燥』へと、感情が激しく揺れ動く様を加直のミラータッチ共感覚に乱暴に叩きつけた。加直はこの場にて初めて不快極まりない苦痛を覚えた。
 遁走した彼は恐らく、逃走経路も用意しているだろう。寂れた商店街の裏手の路地は土地勘が無いと通り抜けるのに苦労する。初めてこの地区で仕事をしたのであれば苦労するだろうし、この地区が初めてではないのなら、目撃情報や行動パターンから犯人像を割り出す事ができるだろうが、それは民間人である加直の仕事ではない。
 加直は、レジカウンターに右手をおろした。右手に覆いかぶさっていた書籍――コンシールド許可証取得者向けの聴取問答集――がバサッと落ちて、手に握っていた、底部の銀色部分をマジックインキで黒く塗った二本のマジックインキのペン軸を手放す。……彼はこの軸の黒い底部を銃口を向けられていると勘違いして逃走を選択した。直接の動機となるように、加直は彼を凶眼で睨みつけていた。彼にとっては防弾ベストは『対策ができている』というポーズで実戦で使用するつもりはなかったらしい。
 堂々と侵入して窃盗して立ち去る。これが彼の美学なのだろう。
 彼を撃退する最後の一押しになったのは、先ほどまで勉強していた書籍と筆記に使っていたペン類だった。勉強は命を助ける事の裏付けだ。
 加直は崩れ落ちそうな身体を両手をレジカウンターに突っ張って支えた。ミラータッチ共感覚による今現在の苦痛は発砲時とは異なり、『極度の緊張からの解放』という安堵感と緊張感の差が激しすぎて、脳機能の恒常性が急激に活動していることによる倦怠感だ。
 事件発生から約十分後。加直はレジの有るカウンター向こうの椅子に座り、熱いマグカップを両手で指先を温めるように持っていた。
 犯人は、裏の路地で巡回中の警官によって発見され今尚も逃走中とのこと。聴取を担当する警官と向かい合っている最中にそのような話を聞いた。
 若い警官は、今回は発砲がなかったことに安堵しながらも、市民による事態収拾に複雑な表情を浮かべている。
「辺さん。なぜもっと早く通報しなかった? あなたが、通報ボタンを押すまで危険に晒されていたのは事実だ」
 警官の疑問と非難は尤もだ。加直は、警官が来るまでに淹れていた、未だ冷めていない珈琲が湛えられたマグカップからコーヒーを一口飲んだ。
「……そうは言いますけど、僕は『恐怖で動けなかった』、か弱い市民ですよ。下手に動いて何をされるか分かったものではないです」
 加直は、引っ込み思案な市民のペルソナを保ったまま、淡々と説明した。
「目の前に、武装しているかもしれない強盗がいる。この状況で僕が通報ボタンを押すには、相手が僕を警戒する一瞬の隙が必要でした。なので極度の恐怖で動揺しているように見せかけ、相手の警戒心を解きました。で、生命の危険を感じたので、その隙を突いて通報しました」
 他の警官たちが店内の防犯カメラを確認しても、加直が『拳銃を抜く場面』は全く確認できない。
 単に、強盗に押し入られて、命を守るために『必要な措置』として通報した、か弱い市民の姿が有るだけだ。ここに、コンシールド許可証の剥奪を目論む余地は皆無。
 聴取の警官は、どこかおどおどとした加直の通報当事者特有の雰囲気に、これ以上の聴取は無意味だと判断した。
 彼はクリップボードの書類を片付け始めた。
「今回の措置は、通報による適切な避難行動でした。ご協力ありがとうございました」
 聴取の警官はそう結論づけて礼を述べた後、加直の表情を鋭く見つめて告げた。
「ところで辺さん、この犯人は、この近隣で最近起きている連続窃盗事件の犯人像と、何か関係が有るかもしれません。十分にご注意を」
 彼は注意喚起と言う意味でその情報を話しただけだ。情報漏洩ではないだろう。
 逆を言えばそれは、「あなたの周りには、まだ解決すべき危険な案件が潜んでいる」という、一種の忠告だった。加直は、お疲れさまでしたー、と軽く労い、警察官が去っていくのを、珈琲を飲みながら静かに見送った。


 今夜の事件は終結したが、加直は慢性的な脳疲労と睡眠相のリズムの崩壊から来る疲労で体に鉛を流し込まれたように動けないでいた。多動思考とミラータッチ共感覚の信号を逆手に取るという、極度の心理的な負荷がかかったのも一因だ。
 祖父の恵悟が居住部分二階から店舗部分の階下へと降りて来る。恵悟は全ての遣り取りを見ていたのだろうか。少なくとも警報装置が作動した時点で起きているだろう。
「加直……」
 恵吾の心配そうな声が加直の耳に届く前に、恵吾の感情のノイズがひしひしと伝わる。
 加直の場合のミラータッチ共感覚は、喜怒哀楽の全ての感情や情動が『不快』の信号に置き換えられて、五感の情報を『快か不快か』のラベル貼りをするA9神経群を通過する。
 どんなに優しい言葉や気持ちを向けられても、全てが不快に感じる。恵悟の孫を案じる祖父としての愛情も『苦痛として認識してしまうのだ』。
「ああ、おじいちゃん。ごめんね。もう済んだから……。詳しい説明は明日するから今夜はもう寝よう。ね?」
 加直は努めて優しい笑顔を作り、恵悟を見ながら言う。
 恵悟の顔からは何の変化も無く、ただただ、不安と孫を思いやる感情と、理不尽な事件へのやり場のないマーブル模様のようなノイズが伝わってきた。
 思い悩んでくれる感情が苦痛にしか感じられない加直は恵悟が二階へ上がった後に、声を殺して肩で嗚咽をした。

≪♯008・了≫
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