掌編【辺加直の鏡像】
薄暮を過ぎ、夕日の残骸が堕ちて夜へと移り変わる午後七時半。
室中センター第二商店街の裏路地に面した辺金物屋から、国道方向へわずかに歩いた、第二商店街の西側ゲート付近。
月見里(やまなし)はこの街では非常に稀少な存在で、若い客層で賑わうフルーツパーラーだ。
外装は白く清潔感があり、ガラス越しに並ぶイミテーションの色鮮やかなパフェやタルトが昭和の時代の遺物を今の時代に再興したかのように美しくディスプレイされている。
室中センター第二商店街の場末感が漂う、寂れた空気を局地的に一掃している。加直はこの『甘く魅惑的な匂いの安息地』で働く、一人の女性に会うためにここに来ていた。勿論、脳のエネルギー補給も目的の一つだ。
店内は、室温が適切に保たれているだけなく、ロスナイも効いているので、フルーツの甘い匂いや、ほんのりと漂うコーヒーの香りが完全に抜け切ることなく快適な空間を創り上げていた。
カットフルーツの瑞々しい香りと、微かな砂糖の匂いで満たされている空間で、加直はいつもの水色の作業用ブルゾンと黒いトレーナー、デニムパンツ。仕事が終わって真っ直ぐここに来たという装いで、店内の隅の席に座る。黒フレームの眼鏡は、不眠による目の下のクマを隠すための化粧と共に鼻先に乗っかっている。
彼女は、先ほど店に入るなりマスターの方を見て、「今日のブレンドでケーキセット」と注文していた。
店内の客の入りは三割ほど埋まっている。
先の疫病禍でこの店も経営状況にダメージを受けたが、テイクアウトで凌ぎ切った。本当にあの時は商店街が壊滅するのではないかと、どこの店主も気が気ではなかった。そんな時でも加直はここの店でテイクアウトのコーヒーを買って売り上げに貢献した。それほど、生命体としての加直にとって、フルーツパーラー月見里は命綱だった。
加直の視線の先には、カウンター越しにテキパキと働く、バイトの女子大生がいた。彼女の笑顔と分け隔てない接客は、加直の多動思考とミラータッチ共感覚の苦痛から解放してくれる数少ない癒しの存在だった。他人と有意義なコミュニケーションを交わすことで分泌するオキシトシンが加直の苦痛を軽減してくれている。
脳科学的作用など学問として体系だって学んだことがない加直でも、この空間と彼女とマスターの淹れるコーヒーは精神安定のために必須であると理解していた。
加直はクロノグラフに視線を落とし時間を確認した。午後七時三十三分。彼女の愛用の時計は、複雑な文字盤を持つクロノグラフだが今確認するのは、単なる時刻。デジタルが隆盛する時代だからこそのアナログな煩わしさが日常の規律を刻み、メリハリをもたらす。左手首のオアシスだ。
その時、自動ドアが軋む音と共に二人の男が店内に乱暴に踏み込んできた。彼らは季節外れの厚手のパーカーのフードで顔を隠し、その動きは硬く荒々しい。
彼らが『纏う空気』は加直がよく知る、『絶望と自暴自棄』のそれだった。
――――もう……。
――――勘弁してくれ……。
加直はまだ何も気づいていないふりをして、スマートフォンを取り出し、無意味にディスプレイを指先で操作するふりをする。
二人の男の衣服、爪先、指先、顎の向き、肩の張り方の順で観察して、自分のミラータッチ共感覚が不快を覚えた部分を中心にして観察範囲を絞る。同じ認知資源――脳のエネルギー――を使うにしても、相手をまとめて全身を舐め回すように観察するよりも、経験則から学んだポイントを中心に観察した方が分析し易い事を会得している。
彼らは犯行に慣れた者特有の『冷静な合理性』を欠き、行動は完全に感情に支配されている。特に、青いフード付きパーカーの男――やや背が高く、年の頃は自分と同じだろうか? 三十歳にはなっていないと思われる――――は周囲の客の視線に対し、僅かに身を竦める仕草を見せた。
経験上、このような仕草を隠蔽することもできない人間は、社会的な規範意識が完全に消滅しておらず、自分の内外の行動の矛盾に苛まれていることを示す事が多い。
彼らの身体から発せられる緊張の信号は、加直のミラータッチ共感覚を通して激しいノイズとなって脳に響いたが、認知機能を乱されるほどではなかった。寧ろ、仕事が終わって一息入れたい時に現れた波乱の予感に、軽い易怒性を覚えた。テンションリダクションが刺激されて少し機嫌が悪くなる。
加直はできるだけ意志の力でこれを理性的に受け止めた。
彼らは『金品を奪う』という在り来たりな目的よりも、鬱屈した情動的負荷に耐えられず、『社会への復讐』という行動に置き換えて感情の充足を優先している。……今時では普通の動機だ。
「全員動くな! レジの金を全部出せ!」
青いフードの男が手に持った剣呑なデザインの大型ナイフを振りかざし、店内に向かって叫んだ。
スマートフォンをテーブルに置くと加直はすっと両腕を組み、軽く握った左手で口元を覆った。感情のノイズに攪拌される中、彼女は小癪で不快な存在が席巻する空間で、『引っ込み思案の客』というペルソナを保ちながら、思考を起動させた。
彼女の顔つきこそは男の声に怯える客の顔を維持する。
店内にいた客たちは、悲鳴を挙げながら立ち上がって逃げ出そうとした。それを阻止する、店のドア内側で陣取るもう一人の男。その中で、カウンター内のバイトの彼女が一瞬の動揺の後、目を左右に走らせて、冷静にレジを操作しようとしているのが見えた。
――――? 彼女は何を見た?
大型ナイフの男はナイフを彼女に向けて、事務的に冷静に対応しようとする彼女に苛立ちを覚えた。彼女の何者にも怯えていない態度や表情が彼らを刺激した。
「お前、ふざけているのか! 動くなと言っているだろう!」
もう一人の男――フード付きの黒いパーカー、ジーンンパンツを穿いて柳包丁を右手に持っている。年齢は青いパーカーの男と同じか――は加直の仄かな好意を寄せるレジの女性に向かって、柳包丁を振り上げながら一歩踏み出した。
この瞬間、加直のミラータッチ共感覚に彼女の極度の恐怖と生命の危機感が、過去に経験したどの激痛よりも強く、加直の脳を貫くはずだった。
……本来ならその激痛は親しい人間や親しみを覚えている人間が痛みやネガティヴな感情を覚えると倍増するものだが、この違和感は……加直に発砲を躊躇わせるトラウマの痛みを想起させず、「彼女を守らなければならない」という本能的かつ純粋な使命感を全く引き起こさなかった。目の前で彼女が危機なのに。
――――何だ……これ?
――――この『感覚』は何だ?
加直は他の怯える客と同じくテーブルに突っ伏して頭を抱える演技をする。加直の脳内を支配ℍしているのは、いつも眺めて癒しの成分を補給していた可愛らしい女子大生のバイトが、顔に硬直の色を浮かべているものの、恐怖や焦燥といった微表情を顔にも態度にも浮かべず、真っ直ぐ、目の前の大型ナイフの男を見据えていた事だ。
脳のエネルギーを補給しに来たのに肝心の糖分を補給する前に次から次へと違和感や理解できない事態や、味わったことがない感覚に襲われて、前頭葉をフル稼働させても分析も先読みもできない。自分のミラータッチ共感覚に疑問を覚えたほどだ。
兎に角、思考の麻痺だけは命取りだ。集中力を出来るだけ高めて俯瞰した視線に切り替えて状況を把握することにした。
男二人の感情のノイズはいつもの社会的弱者特有の鬱屈だけを放っている。辺りでは客たちの恐怖と恐慌に陥るネガティブなノイズが加直を圧し潰さん勢いでのしかかってくる。
数人の客は基本的に自らアクティブに状況を打破しようとはしていない。夕食前に立ち寄っただけの老人や子供連れの母親、それと何人かの、馴染みのない顔。……初めて立ち寄った店で強盗に遭うとはご愁傷様だ。
加直は衣服の上から右腹に触れた。S&W M351Cが収まった樹脂製のIBWホルスターの硬質な感触が、辛うじて彼女に冷静な判断力を下す余裕を与えてくれる。銃に触れている間だけは、加直は分析者のペルソナを被っていられる気がした。
加直の外側前頭皮質と外側眼窩前頭皮質は、この切迫した状況下で四つの決定的な理由から発砲を躊躇していた。
個人的な関係性の崩壊への恐れ。これが一番大きい。今、ここで銃を抜き、発砲すれば、事態は大きく変化する。良くも悪くも。だが、仄かに好意を寄せている、未だ名前も訊き出せていないバイトの彼女は、自分をただの客ではなく、『銃を持った危険な人間』として認識するだろう。彼女の目から見て、自分で『一見すると奥ゆかしい、人前に出るのが苦手な辺さん』というペルソナを、自分で破壊してしまう。彼女に嫌われたり恐怖の対象になることは、不眠の苦痛を和らげてくれる数少ない安息を失うことに繋がる。
ミラータッチ共感覚の感受性。これは即座に影響を及ぼす。発砲の衝撃音は、周囲の人間……特に人質となっているこの空間にいる全員に極度の驚愕と精神的ショックを与える。その瞬間、ミラータッチ共感覚は周囲の全ての激しいノイズを受信し、加直自身の脳に自力では制御不能な激痛と混乱をもたらす。ミラータッチ共感覚の激痛がトラウマである加直はその感覚の増幅を極度に恐れた。
公共の場での秩序の維持。この店、月見里は辺金物屋とは異なり、加直にとって日常の安息の場であり、第三者にとっての職場である。店内で発砲する事は、甚大な器物損壊と営業妨害を引き起こし、彼女が無意識に心掛けている事勿れ主義に反する。できる限り平和的な解決を模索すべきだという、彼女のルールが作った自分の規範が抵抗した。
そして、正当性の絶対的担保の問題だ。加直は過去の発砲経験から、発砲は『正当防衛や緊急避難における、必要性比例性の絶対的担保』が無ければ、コンシールド許可証剥奪の理由となることを知っている。ナイフを振りかざしている現状では、まだ威嚇の域を出ていない。人質の命に直接的な危険が迫る決定的瞬間まで、法的な正当性を確立するために、その一瞬手前まで耐える必要があった。
加直はテーブルに突っ伏した頭をやや上げて少しでも広い視界を確保しようと試みた。
右手の中指で眼鏡を下にずらして、親指と人差し指で、疲労と緊張で脈打つ眉根を揉んだ。
柳包丁の男は、加直が好意を寄せる女性を乱暴に怒鳴りつける。日本語を為していない叫び声のような怒鳴り声で解析不能だ。
「おい、早くしろ! 金出せ!」
大型ナイフの男はナイフの切っ先を、彼女の白く細い首筋に触れさせた。皮膚が僅かに押し込まれ、緊張が走る。
この瞬間、加直の全ての躊躇は消滅した。『決定的瞬間』の訪れだ。
――――野郎!
加直の身体が硬直から一瞬で脱力に変わり、覚悟を決めた表情になる。
大型ナイフの男の顔を凝視した。ナイフの切っ先がバイトの彼女の首に触れた瞬間、男の口元は緊張が極限に達した際に無意識に現れる歪んだ支配の笑みを浮かべた。これは彼が『人質の命を支配することで、己の無力感を補償する』という感情的な充足を求めており、最早交渉の余地がないことを示している。
加直は、このノンバーバルなサインから『ナイフを押し込む』という衝動的な暴力の実行が、あと数秒以内に発生することを予見した。
座っていた席から立ち上がる積りで足腰に力を入れてしっかり踏ん張る。このまま勢いよく立ち上がり様に、やや手前にいる柳包丁の男の向こうにいる大型ナイフの男の脇腹に22WMRを叩き込むつもりだった。
……そう『つもり』だったのだ。
その時までは。
いつからこの状況を打破できるのは自分だけだと錯覚していた?
いつから発砲さえできれば確実に命中して可哀想な人質を助ける事ができると思っていた?
いつから……先ほどまでの冷静に状況を俯瞰して観察しようとしていた自分を見失っていた?
『その硬質な音は、男たちには聞こえていない』。
少なくとも、強盗二人だけでなく、店内の誰もが、加直も含めて全員が、そんな小さな音など聞こえようが無かった。
全ての事態がスローモーションに見えた。
加直の視線は、人質を直接脅している大型ナイフの男の右手の甲に絞られた。彼我の距離5m以下。直線上に障害物は無し。ダブルアクションのやや重い引き金を一度引けばいい。直後に右手の甲に、手首がちぎれたかと思うほどの激痛が襲いかかるだろうが、そんな事は思案の範疇外に押しやられていた。
完全に加直の脳は『闘争か逃走か』を迫られ、『選択』した後、どのように『行動』するかというノルアドレナリンの働きで偏桃体が制御され……早い話が、理性を失いかけていた。
彼女が感情に乗っ取られたまま愛銃のグリップを掴み、威勢よく右腹のホルスターから、それを抜くはずだった。
極度の緊張下では、人間の運動制御はフィードフォワード制御、即ち反射的な予測行動に依存している。大型ナイフの男がナイフを押し込もうとする瞬間は、脳が『これから行う動作』に向けて、既に筋肉に電気信号を送り込んでいる状態だった。加直はこの『フィードフォワード制御が最高潮に達する、動作の開始直前』を狙った。
狭い店内を制圧する銃声。
たった一発の銃声。
全てが覆る銃声。
銃声が、フルーツパーラーに一瞬の静寂をもたらし……直後に再び、打ち破った。……加直は激しい頭痛を覚えて『両手で耳を塞いでいた』。
大型ナイフの男の右手の肘が千切れ飛ぶ寸前の負傷を負い、ナイフを握る筋群と骨に深刻な損傷を与えた。その男は激痛と衝撃でナイフを取り落として、悲鳴を挙げてその場に喚き散らしながら崩れ落ちた。
柳包丁の男は予想外の銃声と仲間の一瞬の無力化に、顔に驚愕の表情を貼り付けて、射すくめられたように動きを完全に停止させた。
加直は、ただただ、目を白黒させているだけだった。
握って、抜いて、構えつつ警告を発し、その言葉の終了と同時に発砲するつもりだった。……人を撃つ時の凶眼で睨みつけながら。
そのつもりだった。
加直の指先が愛銃のグリップを握った瞬間に聞こえた聴き慣れない爆発音に虚を突かれ、反射的に両耳を塞いだ。愛用のスナブノーズを引き抜くどころではない。
「動くな。と言ったんだけど……聞こえなかった? ん?」
店内の全ての視線が、右肘下を失った男を除いた全ての視線が、ゆっくりと声がする方向へと集中する。
そのボックス席の辺りだけ、細かな紙吹雪が舞い散っていた。
――――誰?
――――いつから其処に……あ、客か。
――――見たことがない顔。常連じゃないな。
何処か解離した加直の意識が静かになった。
加直のミラータッチ共感覚は視界や嗅覚、聴覚に捉えられるものなら敏感に反応し、画像や動画や目に見えない雰囲気やイメージは脳の側頭葉で形成されて不快な信号として嫌悪系神経回路――主に室周囲系――がキャッチして心身症として発現する。
加直のそれらの有用だがネガティブな能力は、能力の調整と制限ができない事と心身のコンディションで差が激しいのが難点だった。
それを鑑みて、軽い易怒性を覚えるほどエネルギーが枯渇した脳が過敏にならないはずがない。その脳がミラータッチ共感覚を加活動状態にさせていたはずなのに、『何も感じ取ることができなかった存在』が自分のすぐ後ろの席に居た。
柳包丁の男は突然、手から包丁を落として、両手を上げた。『恰も、銃口に捉えられたかのように』。
加直はしっかりとその人物を見た。
窓際に座る、やや焦げ茶色のロングヘアの女性――この辺りでは見ない顔。商店街の人間ではない。加直が憧れるタイプの年上の女性像に近い、凛とした雰囲気。どこかアルカイックスマイル――はテーブル席で座ったまま、右手にシルバーのリボルバー――4インチ銃身。恐らく38口径。6連発――を握っていた。右手首を固定するかのようにカップ&ソーサーでグリップエンドを固定し、銃口をピタリと加直のその向こうにいる柳包丁を捨てた男の胸を捉えていた。
彼女はリボルバーを構えたまま、静謐な表情のまま、スマートフォンを左手で操作し、警察に通報した。
「発砲での通報。場所は大月島市室中センター第二商店街、フルーツパーラー月見里。強盗事件発生。人質は無事。犯人二名は制圧、拘束可能です。犯人一人が負傷。よろしくお願いします」
その女性は実に慣れた口調と場数を踏んだ態度で淡々と通報の義務を果たす。
「!」
――――このノイズは!
――――『ややこしいノイズ』の元か!
はっと、加直はバイトの女子大生を見た。
目の前で男の腕が千切れ飛ぶ瞬間を見たはずだ。
加直でさえ爆発するような銃声に驚いて一瞬、両耳を塞いで体を硬直させたから意識が解離し、ミラータッチ共感覚による死に至るかもしれない激痛を防ぐことが偶然できた。……だが、バイトの女子大生は素人のはずだ。恐怖に慄いているはず!
加直のそれに反しカウンターの奥で、バイトの女の子は困り顔で、床で芋虫のように悶えて呻いている大型ナイフの男を見て、面倒臭そうにポニーテールにして結わえていたゴムを解く。
顔を青くしている加直の姿を見て、バイトの彼女はこの場で一番相応しくない笑顔で、接客と同じくらいの無邪気な笑顔で、掌を加直に向けてひらひらと降っていた。……が、その視線や、彼女から発せられる感情の粒子が『優しかった』ので、咄嗟に後ろを振り向いた。
シルバーのリボルバーを紺色のジャンパーの左腋に滑りこませていた女性が笑顔で返していた。
この場の異物は強盗なのに、これではまるで二人の間に座っている自分が異物であるかのようでいたたまれない気分になる。
シルバーのリボルバーの彼女の周りで舞っていた紙吹雪の正体は直ぐに分かった。新聞紙だ。それをコンシールドのリボルバーに被せて強盗に気取らせずに照準を定めて引き金を引いたのだろう。新聞紙がシリンダーギャップとマズルからのガス圧で新聞紙が爆ぜたのだ。
確かに彼女の所作や落ち着きからしてかなりの場数を踏んでいるが……。『どうして発砲に至れるのだ?』
加直は彼女とバイトの女の子の関係性も気になったが、どうしても腑に落ちない一点が有った。『どうして発砲に至れるのだ?』
やがて警官がやってきて、その警官の数は二人から四人、八人と十分ごとに乗数で増えていった。
店内の客は目撃者という事で全員聴取の対象としてその場で待機させられる。
狭い店内に多数の様々な感情が渦巻き、残り少ない認知資源がが枯渇しそうな危機を覚える。加直が発砲した当事者ならば、正当性の主張のための聴取を無事に終えられたかどうか自信がない。
万が一の低血糖で動けなくなる前に作業用ブルゾンのポケットに常備している一口サイズの板チョコレート数枚を纏めて口に放り込む。……こんなに悲しいエネルギー補給はいつ経験しても慣れるものではない。僅かなドーパミンがすぐに心を鎮静するのを期待する。
「もう……勘弁してくれ……」
心の叫びを呟く加直。
事件発生から約一時間後。二人の男は拘束され、救急隊員による処置を受けて搬送された。
加直は元の席から動かず、マスターが気を利かせて振舞ってくれたブレンドを飲みながら、激しいノイズの渦の中で、ささやかな安息を噛み締めている。
店の奥のバックヤードで、聴取を担当する警官と向かい合っているシルバーのリボルバーの女性はスマートフォンを警官に向けていた。その途端に聴取担当の警官は、苦々しい表情をしながらも、クリップボードを閉じた。
「?……」
――――何があったんだ?
――――あれで聴取終わり!?
加直は一つの仮説を立てた。十分可能な仮説。ただ、狙っていなければ運が良かった、というだけで済む仮説。
冷静な分析者のペルソナを被る加直。左手の人差し指と中指で、黒フレームの眼鏡を正した。
警官は、市民の銃を法の名のもとに正当に奪う隙が見つからないことに、舌打ちをしそうな顔を作り、踵を返して店外へ歩き出した。
「不思議そう……でもないわね。辰野由(たつの ゆい)。よろしく」
「全く可能性が無い訳ではないので……辺加直です。この商店街で金物屋をやっています」
リボルバーの彼女は警察の聴取を終えても全く疲労していない顔で、真っ直ぐ加直の席に寄ってきて、手品のように右手の指先に名刺を挟んで加直をに差しだす。加直も意思を振り絞り、冷静を保ちながら商売用の名刺を渡す。これは相手の素性云々と言うより、社会的交流の挨拶としての名刺交換だった。その証拠に……その証拠以上に、加直のノンバーバルを読み取る能力は辰野由という女性が全く敵意が無い事を知らせていた。彼女から伝わるノイズも実に穏やかなものだ。全人類この人を見習え。
加直と辰野由。
視線が交わる。
綺麗な人。だけど『裏で何かしていないとそれは嘘だ』と言いたくなる危険な雰囲気。ノンバーバルでは全く読み取れない感情。時折、乱れる感情のノイズを感じるが偏桃体が警告するほどのものでもない。
加直はわざと彼女の目を三秒以直視した。人間は明確な意図を持たずに人間の瞳を三秒以上見つめるとストレスを感じて視線を逸らす。自分が見透かされる危機を心理的に覚えるのだ。だが、彼女は平然と三秒以上、加直の目を見ていた。
不思議な人だ。
その不思議な麗人も、加直を興味深そうに見ていた。
「……」
「……」
僅かな微笑みの片鱗を浮かべる辰野由。
何も読み取られまいと無表情を守る加直。
そして、その二人の間を遮断するように割って入るバイトの女の子。
「もしもーし。いちゃいちゃしてるところ悪いんですけどー」
バイトの女の子が可愛らしく腕を組んで、呆れ顔で二人を交互に見ていた。
「辺さん、まともにこの人を相手にしちゃダメですよ! この人、隙を見せるとすぐに口説くんですから」
「あー、ひどーい」
「……」
関係性が見破れない苦笑いを浮かべる加直。
それを一瞥した辰野は極シンプルに話題を説明に変える。
「こんなうちの妹をよろしく。茉莉(まり)もちゃんとお礼を言いなさい。辺さんは私よりもあんたをずっと見て真っ先に守ろうとしていたんだからね」
「え、妹さんですか?!」
加直は虚を突かれてキョトンとする。同時に重要な情報を側坐核に叩き込む。なるほど、この子の苗字は辰野で、名前は茉莉か。それで由さんとは姉妹、と。
意外な瞬間に名も知らぬかわいいバイトさんのフルネームと家族構成の一部を知ったので少し胸が温かくなった。
「警官には巧いこと言いましたね、いつもあの方法ですか? 僕も今度から真似しようかなー」
加直もヘラっと笑って、辰野由を褒める。『具体的に何の件で何について警官との話をしているのかは明確に言っていない。同じコンシールド許可証取得者ならば気になる話題を振ってきたな、と思わせるためだ』。
加直は由が殺到した沢山の警官と様々な説明や聴取を行ったのを見ていた。由が勝手に勘違いしてくれたのか、「ああ、あんなのはいつもの事よ」と言いながら顔の前で手を振り謙遜のそぶりを見せる。
「法的に不審でなければ警察は何もできないからねー。あなたが強盗を見ていてくれたお陰で助かったわ」
「どういたしまして。あとコンマ数秒遅ければ、僕が聴取の対象でしたから。こんな疲れている時にあんなに大勢の前で聴取は正直勘弁です」
「先に読めれば、強盗が来ることが分かるし、『席の位置』も変えられるし、……ああいう手合いは大声でしか怒鳴らないから『簡単』なのよ」
由は軽い調子で言う。その言葉の端々から次々と情報が集まる。強盗が入るのが分かったのは座席の位置から店外が見渡せる大窓を観察していたから。この時間帯は密閉された店舗で客が多く、レジが出入り口付近にあり、籠城もしやすく、逃走にも向く、それでいて人質も多い店舗ともなると飲食店になる。しかも力の強い男性客が少なそうなフルーツパーラーだと大勢でで取り押さえられる可能性も低い。
そこまでは加直の仮説通りだろう。
そして最も、個人的に気になっていた情報も聞けた。……否、由が加直のヘラっと笑った腑抜けた顔を見て気が緩んだ瞬間に左手がジャケットのハンドウォームを押さえた。……スマートフォンが有る場所だ。そして、「ああいう手合いは大声でしか怒鳴らないから『簡単』なのよ」と言う言葉。これで確定したも同然だが、そこは今後の付き合いも考えて深く追求しないことにした。
彼女は『平気でグレーな行為が行える人間』だ。
加直の由に対する初頭効果が早くも覆り始める。ロス効果が働き始める。
「それじゃ、時間も遅いし、僕はこれで」
「あ、じゃあね」
「またいらしてください!」
加直は席を立つと営業用の笑顔で社交辞令的な会釈を辰野姉妹にしてフルーツパーラー月見里から出る。
店から出た途端に全身に汗が噴き出る。
――――あの辰野由とかいう女!
――――僕を『壁』にしていたな!
彼女は無意識にスマートフォンの収納場所を触った。
それだけでほぼ確定した。警官の聴取が短い理由も分かった。日本人は一分間に三百字の速さで喋ることが出来る。どんなに効率よく警官をけむに巻いてもあんな短時間で聴取が終わるわけがない。発砲の正当性が成立するには『警告の明確な証拠が必要だ』。
彼女は全員が強盗に集中している間に、スマートフォンに警告を促す言葉を発していた。店内が大声で強盗が乱入し阿鼻叫喚。そのどさくさに最初から強盗を撃つつもりで、『犯人に警告する文言を並べた音声を店内の騒ぎ声と共に吹き込んで』、発砲やむなしと警官が錯覚する音声を証拠として提出。強盗から見て加直が邪魔でその向こうの由の細工に誰も気が付かなかった。……この予想は恐らく外れていない。そして、あの女はこの手のグレーな技法をいくつも知っているし、行使している。それほど淀みない手腕だ。その証拠に、音声を吹き込んで『大した時間が経過していないうちに発砲している』。
人を撃てる、ではなく、人も撃てる。彼女はそんな人間だ。
真意が分からないのが不気味。感情が読み取れないのが不思議。
加直は背中を丸めてハーフコロナを銜えて、フットに火を点けながら、新しい脅威の登場に異質なストレスを覚えた。
それはそれとして茉莉ちゃんは可愛いので、許す。
≪♯007・了≫
室中センター第二商店街の裏路地に面した辺金物屋から、国道方向へわずかに歩いた、第二商店街の西側ゲート付近。
月見里(やまなし)はこの街では非常に稀少な存在で、若い客層で賑わうフルーツパーラーだ。
外装は白く清潔感があり、ガラス越しに並ぶイミテーションの色鮮やかなパフェやタルトが昭和の時代の遺物を今の時代に再興したかのように美しくディスプレイされている。
室中センター第二商店街の場末感が漂う、寂れた空気を局地的に一掃している。加直はこの『甘く魅惑的な匂いの安息地』で働く、一人の女性に会うためにここに来ていた。勿論、脳のエネルギー補給も目的の一つだ。
店内は、室温が適切に保たれているだけなく、ロスナイも効いているので、フルーツの甘い匂いや、ほんのりと漂うコーヒーの香りが完全に抜け切ることなく快適な空間を創り上げていた。
カットフルーツの瑞々しい香りと、微かな砂糖の匂いで満たされている空間で、加直はいつもの水色の作業用ブルゾンと黒いトレーナー、デニムパンツ。仕事が終わって真っ直ぐここに来たという装いで、店内の隅の席に座る。黒フレームの眼鏡は、不眠による目の下のクマを隠すための化粧と共に鼻先に乗っかっている。
彼女は、先ほど店に入るなりマスターの方を見て、「今日のブレンドでケーキセット」と注文していた。
店内の客の入りは三割ほど埋まっている。
先の疫病禍でこの店も経営状況にダメージを受けたが、テイクアウトで凌ぎ切った。本当にあの時は商店街が壊滅するのではないかと、どこの店主も気が気ではなかった。そんな時でも加直はここの店でテイクアウトのコーヒーを買って売り上げに貢献した。それほど、生命体としての加直にとって、フルーツパーラー月見里は命綱だった。
加直の視線の先には、カウンター越しにテキパキと働く、バイトの女子大生がいた。彼女の笑顔と分け隔てない接客は、加直の多動思考とミラータッチ共感覚の苦痛から解放してくれる数少ない癒しの存在だった。他人と有意義なコミュニケーションを交わすことで分泌するオキシトシンが加直の苦痛を軽減してくれている。
脳科学的作用など学問として体系だって学んだことがない加直でも、この空間と彼女とマスターの淹れるコーヒーは精神安定のために必須であると理解していた。
加直はクロノグラフに視線を落とし時間を確認した。午後七時三十三分。彼女の愛用の時計は、複雑な文字盤を持つクロノグラフだが今確認するのは、単なる時刻。デジタルが隆盛する時代だからこそのアナログな煩わしさが日常の規律を刻み、メリハリをもたらす。左手首のオアシスだ。
その時、自動ドアが軋む音と共に二人の男が店内に乱暴に踏み込んできた。彼らは季節外れの厚手のパーカーのフードで顔を隠し、その動きは硬く荒々しい。
彼らが『纏う空気』は加直がよく知る、『絶望と自暴自棄』のそれだった。
――――もう……。
――――勘弁してくれ……。
加直はまだ何も気づいていないふりをして、スマートフォンを取り出し、無意味にディスプレイを指先で操作するふりをする。
二人の男の衣服、爪先、指先、顎の向き、肩の張り方の順で観察して、自分のミラータッチ共感覚が不快を覚えた部分を中心にして観察範囲を絞る。同じ認知資源――脳のエネルギー――を使うにしても、相手をまとめて全身を舐め回すように観察するよりも、経験則から学んだポイントを中心に観察した方が分析し易い事を会得している。
彼らは犯行に慣れた者特有の『冷静な合理性』を欠き、行動は完全に感情に支配されている。特に、青いフード付きパーカーの男――やや背が高く、年の頃は自分と同じだろうか? 三十歳にはなっていないと思われる――――は周囲の客の視線に対し、僅かに身を竦める仕草を見せた。
経験上、このような仕草を隠蔽することもできない人間は、社会的な規範意識が完全に消滅しておらず、自分の内外の行動の矛盾に苛まれていることを示す事が多い。
彼らの身体から発せられる緊張の信号は、加直のミラータッチ共感覚を通して激しいノイズとなって脳に響いたが、認知機能を乱されるほどではなかった。寧ろ、仕事が終わって一息入れたい時に現れた波乱の予感に、軽い易怒性を覚えた。テンションリダクションが刺激されて少し機嫌が悪くなる。
加直はできるだけ意志の力でこれを理性的に受け止めた。
彼らは『金品を奪う』という在り来たりな目的よりも、鬱屈した情動的負荷に耐えられず、『社会への復讐』という行動に置き換えて感情の充足を優先している。……今時では普通の動機だ。
「全員動くな! レジの金を全部出せ!」
青いフードの男が手に持った剣呑なデザインの大型ナイフを振りかざし、店内に向かって叫んだ。
スマートフォンをテーブルに置くと加直はすっと両腕を組み、軽く握った左手で口元を覆った。感情のノイズに攪拌される中、彼女は小癪で不快な存在が席巻する空間で、『引っ込み思案の客』というペルソナを保ちながら、思考を起動させた。
彼女の顔つきこそは男の声に怯える客の顔を維持する。
店内にいた客たちは、悲鳴を挙げながら立ち上がって逃げ出そうとした。それを阻止する、店のドア内側で陣取るもう一人の男。その中で、カウンター内のバイトの彼女が一瞬の動揺の後、目を左右に走らせて、冷静にレジを操作しようとしているのが見えた。
――――? 彼女は何を見た?
大型ナイフの男はナイフを彼女に向けて、事務的に冷静に対応しようとする彼女に苛立ちを覚えた。彼女の何者にも怯えていない態度や表情が彼らを刺激した。
「お前、ふざけているのか! 動くなと言っているだろう!」
もう一人の男――フード付きの黒いパーカー、ジーンンパンツを穿いて柳包丁を右手に持っている。年齢は青いパーカーの男と同じか――は加直の仄かな好意を寄せるレジの女性に向かって、柳包丁を振り上げながら一歩踏み出した。
この瞬間、加直のミラータッチ共感覚に彼女の極度の恐怖と生命の危機感が、過去に経験したどの激痛よりも強く、加直の脳を貫くはずだった。
……本来ならその激痛は親しい人間や親しみを覚えている人間が痛みやネガティヴな感情を覚えると倍増するものだが、この違和感は……加直に発砲を躊躇わせるトラウマの痛みを想起させず、「彼女を守らなければならない」という本能的かつ純粋な使命感を全く引き起こさなかった。目の前で彼女が危機なのに。
――――何だ……これ?
――――この『感覚』は何だ?
加直は他の怯える客と同じくテーブルに突っ伏して頭を抱える演技をする。加直の脳内を支配ℍしているのは、いつも眺めて癒しの成分を補給していた可愛らしい女子大生のバイトが、顔に硬直の色を浮かべているものの、恐怖や焦燥といった微表情を顔にも態度にも浮かべず、真っ直ぐ、目の前の大型ナイフの男を見据えていた事だ。
脳のエネルギーを補給しに来たのに肝心の糖分を補給する前に次から次へと違和感や理解できない事態や、味わったことがない感覚に襲われて、前頭葉をフル稼働させても分析も先読みもできない。自分のミラータッチ共感覚に疑問を覚えたほどだ。
兎に角、思考の麻痺だけは命取りだ。集中力を出来るだけ高めて俯瞰した視線に切り替えて状況を把握することにした。
男二人の感情のノイズはいつもの社会的弱者特有の鬱屈だけを放っている。辺りでは客たちの恐怖と恐慌に陥るネガティブなノイズが加直を圧し潰さん勢いでのしかかってくる。
数人の客は基本的に自らアクティブに状況を打破しようとはしていない。夕食前に立ち寄っただけの老人や子供連れの母親、それと何人かの、馴染みのない顔。……初めて立ち寄った店で強盗に遭うとはご愁傷様だ。
加直は衣服の上から右腹に触れた。S&W M351Cが収まった樹脂製のIBWホルスターの硬質な感触が、辛うじて彼女に冷静な判断力を下す余裕を与えてくれる。銃に触れている間だけは、加直は分析者のペルソナを被っていられる気がした。
加直の外側前頭皮質と外側眼窩前頭皮質は、この切迫した状況下で四つの決定的な理由から発砲を躊躇していた。
個人的な関係性の崩壊への恐れ。これが一番大きい。今、ここで銃を抜き、発砲すれば、事態は大きく変化する。良くも悪くも。だが、仄かに好意を寄せている、未だ名前も訊き出せていないバイトの彼女は、自分をただの客ではなく、『銃を持った危険な人間』として認識するだろう。彼女の目から見て、自分で『一見すると奥ゆかしい、人前に出るのが苦手な辺さん』というペルソナを、自分で破壊してしまう。彼女に嫌われたり恐怖の対象になることは、不眠の苦痛を和らげてくれる数少ない安息を失うことに繋がる。
ミラータッチ共感覚の感受性。これは即座に影響を及ぼす。発砲の衝撃音は、周囲の人間……特に人質となっているこの空間にいる全員に極度の驚愕と精神的ショックを与える。その瞬間、ミラータッチ共感覚は周囲の全ての激しいノイズを受信し、加直自身の脳に自力では制御不能な激痛と混乱をもたらす。ミラータッチ共感覚の激痛がトラウマである加直はその感覚の増幅を極度に恐れた。
公共の場での秩序の維持。この店、月見里は辺金物屋とは異なり、加直にとって日常の安息の場であり、第三者にとっての職場である。店内で発砲する事は、甚大な器物損壊と営業妨害を引き起こし、彼女が無意識に心掛けている事勿れ主義に反する。できる限り平和的な解決を模索すべきだという、彼女のルールが作った自分の規範が抵抗した。
そして、正当性の絶対的担保の問題だ。加直は過去の発砲経験から、発砲は『正当防衛や緊急避難における、必要性比例性の絶対的担保』が無ければ、コンシールド許可証剥奪の理由となることを知っている。ナイフを振りかざしている現状では、まだ威嚇の域を出ていない。人質の命に直接的な危険が迫る決定的瞬間まで、法的な正当性を確立するために、その一瞬手前まで耐える必要があった。
加直はテーブルに突っ伏した頭をやや上げて少しでも広い視界を確保しようと試みた。
右手の中指で眼鏡を下にずらして、親指と人差し指で、疲労と緊張で脈打つ眉根を揉んだ。
柳包丁の男は、加直が好意を寄せる女性を乱暴に怒鳴りつける。日本語を為していない叫び声のような怒鳴り声で解析不能だ。
「おい、早くしろ! 金出せ!」
大型ナイフの男はナイフの切っ先を、彼女の白く細い首筋に触れさせた。皮膚が僅かに押し込まれ、緊張が走る。
この瞬間、加直の全ての躊躇は消滅した。『決定的瞬間』の訪れだ。
――――野郎!
加直の身体が硬直から一瞬で脱力に変わり、覚悟を決めた表情になる。
大型ナイフの男の顔を凝視した。ナイフの切っ先がバイトの彼女の首に触れた瞬間、男の口元は緊張が極限に達した際に無意識に現れる歪んだ支配の笑みを浮かべた。これは彼が『人質の命を支配することで、己の無力感を補償する』という感情的な充足を求めており、最早交渉の余地がないことを示している。
加直は、このノンバーバルなサインから『ナイフを押し込む』という衝動的な暴力の実行が、あと数秒以内に発生することを予見した。
座っていた席から立ち上がる積りで足腰に力を入れてしっかり踏ん張る。このまま勢いよく立ち上がり様に、やや手前にいる柳包丁の男の向こうにいる大型ナイフの男の脇腹に22WMRを叩き込むつもりだった。
……そう『つもり』だったのだ。
その時までは。
いつからこの状況を打破できるのは自分だけだと錯覚していた?
いつから発砲さえできれば確実に命中して可哀想な人質を助ける事ができると思っていた?
いつから……先ほどまでの冷静に状況を俯瞰して観察しようとしていた自分を見失っていた?
『その硬質な音は、男たちには聞こえていない』。
少なくとも、強盗二人だけでなく、店内の誰もが、加直も含めて全員が、そんな小さな音など聞こえようが無かった。
全ての事態がスローモーションに見えた。
加直の視線は、人質を直接脅している大型ナイフの男の右手の甲に絞られた。彼我の距離5m以下。直線上に障害物は無し。ダブルアクションのやや重い引き金を一度引けばいい。直後に右手の甲に、手首がちぎれたかと思うほどの激痛が襲いかかるだろうが、そんな事は思案の範疇外に押しやられていた。
完全に加直の脳は『闘争か逃走か』を迫られ、『選択』した後、どのように『行動』するかというノルアドレナリンの働きで偏桃体が制御され……早い話が、理性を失いかけていた。
彼女が感情に乗っ取られたまま愛銃のグリップを掴み、威勢よく右腹のホルスターから、それを抜くはずだった。
極度の緊張下では、人間の運動制御はフィードフォワード制御、即ち反射的な予測行動に依存している。大型ナイフの男がナイフを押し込もうとする瞬間は、脳が『これから行う動作』に向けて、既に筋肉に電気信号を送り込んでいる状態だった。加直はこの『フィードフォワード制御が最高潮に達する、動作の開始直前』を狙った。
狭い店内を制圧する銃声。
たった一発の銃声。
全てが覆る銃声。
銃声が、フルーツパーラーに一瞬の静寂をもたらし……直後に再び、打ち破った。……加直は激しい頭痛を覚えて『両手で耳を塞いでいた』。
大型ナイフの男の右手の肘が千切れ飛ぶ寸前の負傷を負い、ナイフを握る筋群と骨に深刻な損傷を与えた。その男は激痛と衝撃でナイフを取り落として、悲鳴を挙げてその場に喚き散らしながら崩れ落ちた。
柳包丁の男は予想外の銃声と仲間の一瞬の無力化に、顔に驚愕の表情を貼り付けて、射すくめられたように動きを完全に停止させた。
加直は、ただただ、目を白黒させているだけだった。
握って、抜いて、構えつつ警告を発し、その言葉の終了と同時に発砲するつもりだった。……人を撃つ時の凶眼で睨みつけながら。
そのつもりだった。
加直の指先が愛銃のグリップを握った瞬間に聞こえた聴き慣れない爆発音に虚を突かれ、反射的に両耳を塞いだ。愛用のスナブノーズを引き抜くどころではない。
「動くな。と言ったんだけど……聞こえなかった? ん?」
店内の全ての視線が、右肘下を失った男を除いた全ての視線が、ゆっくりと声がする方向へと集中する。
そのボックス席の辺りだけ、細かな紙吹雪が舞い散っていた。
――――誰?
――――いつから其処に……あ、客か。
――――見たことがない顔。常連じゃないな。
何処か解離した加直の意識が静かになった。
加直のミラータッチ共感覚は視界や嗅覚、聴覚に捉えられるものなら敏感に反応し、画像や動画や目に見えない雰囲気やイメージは脳の側頭葉で形成されて不快な信号として嫌悪系神経回路――主に室周囲系――がキャッチして心身症として発現する。
加直のそれらの有用だがネガティブな能力は、能力の調整と制限ができない事と心身のコンディションで差が激しいのが難点だった。
それを鑑みて、軽い易怒性を覚えるほどエネルギーが枯渇した脳が過敏にならないはずがない。その脳がミラータッチ共感覚を加活動状態にさせていたはずなのに、『何も感じ取ることができなかった存在』が自分のすぐ後ろの席に居た。
柳包丁の男は突然、手から包丁を落として、両手を上げた。『恰も、銃口に捉えられたかのように』。
加直はしっかりとその人物を見た。
窓際に座る、やや焦げ茶色のロングヘアの女性――この辺りでは見ない顔。商店街の人間ではない。加直が憧れるタイプの年上の女性像に近い、凛とした雰囲気。どこかアルカイックスマイル――はテーブル席で座ったまま、右手にシルバーのリボルバー――4インチ銃身。恐らく38口径。6連発――を握っていた。右手首を固定するかのようにカップ&ソーサーでグリップエンドを固定し、銃口をピタリと加直のその向こうにいる柳包丁を捨てた男の胸を捉えていた。
彼女はリボルバーを構えたまま、静謐な表情のまま、スマートフォンを左手で操作し、警察に通報した。
「発砲での通報。場所は大月島市室中センター第二商店街、フルーツパーラー月見里。強盗事件発生。人質は無事。犯人二名は制圧、拘束可能です。犯人一人が負傷。よろしくお願いします」
その女性は実に慣れた口調と場数を踏んだ態度で淡々と通報の義務を果たす。
「!」
――――このノイズは!
――――『ややこしいノイズ』の元か!
はっと、加直はバイトの女子大生を見た。
目の前で男の腕が千切れ飛ぶ瞬間を見たはずだ。
加直でさえ爆発するような銃声に驚いて一瞬、両耳を塞いで体を硬直させたから意識が解離し、ミラータッチ共感覚による死に至るかもしれない激痛を防ぐことが偶然できた。……だが、バイトの女子大生は素人のはずだ。恐怖に慄いているはず!
加直のそれに反しカウンターの奥で、バイトの女の子は困り顔で、床で芋虫のように悶えて呻いている大型ナイフの男を見て、面倒臭そうにポニーテールにして結わえていたゴムを解く。
顔を青くしている加直の姿を見て、バイトの彼女はこの場で一番相応しくない笑顔で、接客と同じくらいの無邪気な笑顔で、掌を加直に向けてひらひらと降っていた。……が、その視線や、彼女から発せられる感情の粒子が『優しかった』ので、咄嗟に後ろを振り向いた。
シルバーのリボルバーを紺色のジャンパーの左腋に滑りこませていた女性が笑顔で返していた。
この場の異物は強盗なのに、これではまるで二人の間に座っている自分が異物であるかのようでいたたまれない気分になる。
シルバーのリボルバーの彼女の周りで舞っていた紙吹雪の正体は直ぐに分かった。新聞紙だ。それをコンシールドのリボルバーに被せて強盗に気取らせずに照準を定めて引き金を引いたのだろう。新聞紙がシリンダーギャップとマズルからのガス圧で新聞紙が爆ぜたのだ。
確かに彼女の所作や落ち着きからしてかなりの場数を踏んでいるが……。『どうして発砲に至れるのだ?』
加直は彼女とバイトの女の子の関係性も気になったが、どうしても腑に落ちない一点が有った。『どうして発砲に至れるのだ?』
やがて警官がやってきて、その警官の数は二人から四人、八人と十分ごとに乗数で増えていった。
店内の客は目撃者という事で全員聴取の対象としてその場で待機させられる。
狭い店内に多数の様々な感情が渦巻き、残り少ない認知資源がが枯渇しそうな危機を覚える。加直が発砲した当事者ならば、正当性の主張のための聴取を無事に終えられたかどうか自信がない。
万が一の低血糖で動けなくなる前に作業用ブルゾンのポケットに常備している一口サイズの板チョコレート数枚を纏めて口に放り込む。……こんなに悲しいエネルギー補給はいつ経験しても慣れるものではない。僅かなドーパミンがすぐに心を鎮静するのを期待する。
「もう……勘弁してくれ……」
心の叫びを呟く加直。
事件発生から約一時間後。二人の男は拘束され、救急隊員による処置を受けて搬送された。
加直は元の席から動かず、マスターが気を利かせて振舞ってくれたブレンドを飲みながら、激しいノイズの渦の中で、ささやかな安息を噛み締めている。
店の奥のバックヤードで、聴取を担当する警官と向かい合っているシルバーのリボルバーの女性はスマートフォンを警官に向けていた。その途端に聴取担当の警官は、苦々しい表情をしながらも、クリップボードを閉じた。
「?……」
――――何があったんだ?
――――あれで聴取終わり!?
加直は一つの仮説を立てた。十分可能な仮説。ただ、狙っていなければ運が良かった、というだけで済む仮説。
冷静な分析者のペルソナを被る加直。左手の人差し指と中指で、黒フレームの眼鏡を正した。
警官は、市民の銃を法の名のもとに正当に奪う隙が見つからないことに、舌打ちをしそうな顔を作り、踵を返して店外へ歩き出した。
「不思議そう……でもないわね。辰野由(たつの ゆい)。よろしく」
「全く可能性が無い訳ではないので……辺加直です。この商店街で金物屋をやっています」
リボルバーの彼女は警察の聴取を終えても全く疲労していない顔で、真っ直ぐ加直の席に寄ってきて、手品のように右手の指先に名刺を挟んで加直をに差しだす。加直も意思を振り絞り、冷静を保ちながら商売用の名刺を渡す。これは相手の素性云々と言うより、社会的交流の挨拶としての名刺交換だった。その証拠に……その証拠以上に、加直のノンバーバルを読み取る能力は辰野由という女性が全く敵意が無い事を知らせていた。彼女から伝わるノイズも実に穏やかなものだ。全人類この人を見習え。
加直と辰野由。
視線が交わる。
綺麗な人。だけど『裏で何かしていないとそれは嘘だ』と言いたくなる危険な雰囲気。ノンバーバルでは全く読み取れない感情。時折、乱れる感情のノイズを感じるが偏桃体が警告するほどのものでもない。
加直はわざと彼女の目を三秒以直視した。人間は明確な意図を持たずに人間の瞳を三秒以上見つめるとストレスを感じて視線を逸らす。自分が見透かされる危機を心理的に覚えるのだ。だが、彼女は平然と三秒以上、加直の目を見ていた。
不思議な人だ。
その不思議な麗人も、加直を興味深そうに見ていた。
「……」
「……」
僅かな微笑みの片鱗を浮かべる辰野由。
何も読み取られまいと無表情を守る加直。
そして、その二人の間を遮断するように割って入るバイトの女の子。
「もしもーし。いちゃいちゃしてるところ悪いんですけどー」
バイトの女の子が可愛らしく腕を組んで、呆れ顔で二人を交互に見ていた。
「辺さん、まともにこの人を相手にしちゃダメですよ! この人、隙を見せるとすぐに口説くんですから」
「あー、ひどーい」
「……」
関係性が見破れない苦笑いを浮かべる加直。
それを一瞥した辰野は極シンプルに話題を説明に変える。
「こんなうちの妹をよろしく。茉莉(まり)もちゃんとお礼を言いなさい。辺さんは私よりもあんたをずっと見て真っ先に守ろうとしていたんだからね」
「え、妹さんですか?!」
加直は虚を突かれてキョトンとする。同時に重要な情報を側坐核に叩き込む。なるほど、この子の苗字は辰野で、名前は茉莉か。それで由さんとは姉妹、と。
意外な瞬間に名も知らぬかわいいバイトさんのフルネームと家族構成の一部を知ったので少し胸が温かくなった。
「警官には巧いこと言いましたね、いつもあの方法ですか? 僕も今度から真似しようかなー」
加直もヘラっと笑って、辰野由を褒める。『具体的に何の件で何について警官との話をしているのかは明確に言っていない。同じコンシールド許可証取得者ならば気になる話題を振ってきたな、と思わせるためだ』。
加直は由が殺到した沢山の警官と様々な説明や聴取を行ったのを見ていた。由が勝手に勘違いしてくれたのか、「ああ、あんなのはいつもの事よ」と言いながら顔の前で手を振り謙遜のそぶりを見せる。
「法的に不審でなければ警察は何もできないからねー。あなたが強盗を見ていてくれたお陰で助かったわ」
「どういたしまして。あとコンマ数秒遅ければ、僕が聴取の対象でしたから。こんな疲れている時にあんなに大勢の前で聴取は正直勘弁です」
「先に読めれば、強盗が来ることが分かるし、『席の位置』も変えられるし、……ああいう手合いは大声でしか怒鳴らないから『簡単』なのよ」
由は軽い調子で言う。その言葉の端々から次々と情報が集まる。強盗が入るのが分かったのは座席の位置から店外が見渡せる大窓を観察していたから。この時間帯は密閉された店舗で客が多く、レジが出入り口付近にあり、籠城もしやすく、逃走にも向く、それでいて人質も多い店舗ともなると飲食店になる。しかも力の強い男性客が少なそうなフルーツパーラーだと大勢でで取り押さえられる可能性も低い。
そこまでは加直の仮説通りだろう。
そして最も、個人的に気になっていた情報も聞けた。……否、由が加直のヘラっと笑った腑抜けた顔を見て気が緩んだ瞬間に左手がジャケットのハンドウォームを押さえた。……スマートフォンが有る場所だ。そして、「ああいう手合いは大声でしか怒鳴らないから『簡単』なのよ」と言う言葉。これで確定したも同然だが、そこは今後の付き合いも考えて深く追求しないことにした。
彼女は『平気でグレーな行為が行える人間』だ。
加直の由に対する初頭効果が早くも覆り始める。ロス効果が働き始める。
「それじゃ、時間も遅いし、僕はこれで」
「あ、じゃあね」
「またいらしてください!」
加直は席を立つと営業用の笑顔で社交辞令的な会釈を辰野姉妹にしてフルーツパーラー月見里から出る。
店から出た途端に全身に汗が噴き出る。
――――あの辰野由とかいう女!
――――僕を『壁』にしていたな!
彼女は無意識にスマートフォンの収納場所を触った。
それだけでほぼ確定した。警官の聴取が短い理由も分かった。日本人は一分間に三百字の速さで喋ることが出来る。どんなに効率よく警官をけむに巻いてもあんな短時間で聴取が終わるわけがない。発砲の正当性が成立するには『警告の明確な証拠が必要だ』。
彼女は全員が強盗に集中している間に、スマートフォンに警告を促す言葉を発していた。店内が大声で強盗が乱入し阿鼻叫喚。そのどさくさに最初から強盗を撃つつもりで、『犯人に警告する文言を並べた音声を店内の騒ぎ声と共に吹き込んで』、発砲やむなしと警官が錯覚する音声を証拠として提出。強盗から見て加直が邪魔でその向こうの由の細工に誰も気が付かなかった。……この予想は恐らく外れていない。そして、あの女はこの手のグレーな技法をいくつも知っているし、行使している。それほど淀みない手腕だ。その証拠に、音声を吹き込んで『大した時間が経過していないうちに発砲している』。
人を撃てる、ではなく、人も撃てる。彼女はそんな人間だ。
真意が分からないのが不気味。感情が読み取れないのが不思議。
加直は背中を丸めてハーフコロナを銜えて、フットに火を点けながら、新しい脅威の登場に異質なストレスを覚えた。
それはそれとして茉莉ちゃんは可愛いので、許す。
≪♯007・了≫
