掌編【辺加直の鏡像】
大月島市。
【室中センター第二商店街】。
昨夜の土砂降りが上がった午前四時。
店舗付住居である【辺金物屋】の内部は、工具と鋼の硬質な匂いで満たされ、外の湿気を帯びた空気とはまた違う趣ある金属の匂いを充満させていた。
店主代理の加直の朝は早い。否、『寝ていない』。
水色の作業用ブルゾンを着用し、レジ奥のカウンターに立っている、彼女の黒フレームの眼鏡の奥の瞳は、連夜連夜の不眠による疲労の色に染められていた。
加直は、酷く認知機能が低下した自らの前頭葉に活を入れるために、レジ横のサーモマグから、休憩スペースで抽出したばかりの熱いブラックコーヒーを一口飲んだ。
口の中に広がる安心感を与えてくれる芳醇な苦味が、過剰に活動する脳を僅かに鎮静させる。
左腕のクロノグラフを傾け、デイデイトカレンダーを確認した。棚卸作業も一苦労で、こんな狭い店舗でも時計のカレンダーは――記憶が確かなら――もう三日もこの作業を続けていることになる。何枚の板チョコを齧り、何本のハーフコロナを灰にしたのか分からない。
シルバーに光る、紳士用クロノグラフの複雑な文字盤とムーブメントの精密さが、彼女の多動的な思考を日常の規律へと引き戻す。
その時、腰痛持ちの祖父・恵悟が、怒気を滲ませた声で加直を呼んだ。
「加直、見てくれ! また落書きだ。今度は隣の倉庫のシャッターにも!」
その穏やかでない声は加直のミラータッチ共感覚に粒が散弾銃の様に叩き込まれる。頼むから声を抑えてくれ。
加直が欠伸を噛み殺しながら外に出ると、【辺金物屋】の右隣のシャッターと、恵悟が買い取った金物屋の左隣の倉庫のシャッターに、2色の蛍光色のスプレーで同じ記号が描かれていた。
単なる落書きではなく、幾何学的でありながらややエスニックな、特定の古い地域の文化に関連する抽象的な記号だった。
落書きを見た瞬間、加直は舌打ちした。ここ暫く、商店街のシャッターや壁にこのような同じ意匠の落書きが頻発している。これを書いた【匿名の芸術家】は何かのメッセージを込めているのだろうが、その価値と意図を汲み取れない加直を含めた近隣の住民からすればただの落書きの域を出ない。
脳内に微かな不快感が走った。ミラータッチ共感覚による何かの受信ではなく、もっとプリミティブな……直感のようなものだった。
「軽蔑」「威嚇」「予期」「不吉」の予感。それも予期不安に近い根拠のない思い込みに等しい予感。
加直は両腕を組み、軽く握った左手で口元を覆いながら落書きを見つめた。傍では文句を垂れながら、落書きを塗り消すためのペンキの缶を探している恵吾が右往左往していた。
恵吾を無視して加直は暫し、落書きを視る。
商店街で頻発する落書き。同じような意匠。使われている色も同じ2色。【匿名の芸術家】は商店街以外の他の家屋や商店でも深夜のうちに落書きをしていると町内会の掲示板で読んだ事が有る。
――――どこかで見た?
――――何か引っかかる……。
加直はポケットからスマートフォンを取り出し、落書きを鮮明に撮影した。
その場で画像をアップロードし、AIで画像検索し、そこで過去に市の保存会が集めた大月島市港湾部の歴史資料のデータベースがヒットして照合する。数秒後、彼女の知覚推理がパターンを認識した。
この落書き……『記号』は100年ほど前に、この大月島市に流入したインドネシア群島の移民コミュニティが、航海安全や豊穣を祈るために用いたトーテム的シンボルである。この記号の意味をスマートフォンでの検索を通じて思いのほか簡単に特定できた。
……しかし問題は『意味』ではなく『意図』だ。
加直はこの落書きの配置と筆致を、スマートフォンで調べられる範囲で検索して集めた情報を脳内で解析した。
記号は、故意に不完全な形で描かれ、その本来のポジティブな解釈ではなく、集団が他者を排斥する際の『呪詛返し』として使われる……より一層不吉な解釈を連想させるように歪められていた。
――――これは、物理的な損壊を目的としていないな。
――――明らかな威嚇のニュアンスを込めた意味合いだ。
彼女の脳は、スマートフォンのディスプレイに表示された落書きの歪みから、意図的な『悪意の増幅』を読み取っていた。ミラータッチ共感覚を持つ人間の多くはHSPに類する感情の増幅が過敏に行われる。
スマートフォンに表示されたテキストや画像と添えられた注釈を読めば読む程、この【匿名の芸術家】が抱く排他的な感情のベクトルを、加直のHPA軸にダイレクトに伝達する。
背筋に冷たい霜が降りるような感覚。物理的接触や聴覚情報なしに、他者の攻撃的な意図を感知する、加直の面倒な能力が発する『警告的な予感』だった。
「あ……そうか」
加直は、商店街の組合がこの件を警察に持ち込まなかった理由を、即座に整理した。
商店街の組合だけでなく、町内会や自治会も、この古く永い移民コミュニティとの間に『触らぬ神に祟りなし』の長年の暗黙の了解があった。
彼らが動けば、紛争が再燃する。
この自治体には、港湾部の倉庫街や廃棄区画に、日本にやってきたが文化や風習に溶け込めなかった移民だけが集まって不法占拠している一画が有る。
最初はごく少人数の単一民族だけが一軒のあばら家に住んでいたらしいが、やがて行く宛のない外国人が集まってきた。
正当な手続きで日本にやってきた者たちは少ない。海外航路の船から降りてそのまま日本国内に逃走した者や、犯罪を犯して逃走先に日本を選んだ者や、事業で日本に来たがやむにやまれぬ事情が有って『消えるしか』なかった者などが集まり、コミュニティは段々と拡充し、今では防犯や消防と言う意味でも、土地の不法占拠と言う意味でも市長選の度に移民コミュニティの処遇について公約に掲げらる。
加直の想像する動機はこの落書きの姿をした威嚇行動を放置すれば、必ずエスカレートし、彼女の繊細過ぎるセンサーが反応するレベルの物理的暴力を呼ぶ。
それに対して先手を打つには、今、非暴力的に彼らの『行動の動機を消滅させるしかない』。
彼らのコミュニティとの確執は、室中センター商店街を計画した有力者――今では絶滅した任侠やくざ団体――とその一家が地権を巡り暴力抗争に発展した。
結果的に警察が介入した。
警察は以前から市内で顔をきかせていた任侠やくざの極道一家が邪魔で、真正面から法的に正当に取り締まれる機会を伺っていた。そこへ、移民たちに刺激されたやくざがコミュニティの移民を殺害し、抗争に発展して双方に打撃を受けた際に警察が両者ではなく、やくざ団体だけを逮捕拘束し壊滅に近い状態に追い込んだ。
コミュニティの移民は、やくざとその他の区別がつかない。
やくざも善良な市民も日本人だ。
日本人は自分たちを迫害したので悪い存在だと認識している。
短絡に短絡が重なった内集団的帰属意識。コミュニティはやがて、暗黙的にアンタッチャブルな存在となった。……それが歴史的背景だ。新しい世代の加直には想像も考えも及ばない、実に黴臭い因縁話である。
加直の想像と、想像を基にした解決策はいささか恐怖によってバイアスがかかっている判断だと自覚できていない。
加直にとってはその解決策は、要らぬ苦痛を避けるための緊急避難に相当した。
加直は眼鏡を外して眉根を揉んだ。眼鏡のフチが、疲労で熱を持った皮膚に深く食い込む。
不眠と頭痛のループから脱するために、内向的で引っ込み思案なペルソナを脱ぎ捨て、冷徹な分析者……即ち『辺金物屋の番人』のペルソナへと切り替えた。
加直は、レジ横に置いていたビターチョコレートを一塊齧った。
集中力を高め、思考の精度を上げるための燃料だ。
『【辺金物屋】だけが狙われているわけではない。第二商店街全体を調査し、合計九箇所――理髪店、廃業した食堂、空き店舗等、そして許せないことに、心の燃料補給所であるフルーツパーラー『月見里』も!――に同じ記号の落書きがされていることを確認した。これは広域でゲリラ的に行われている集団の心理戦だと視た。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この落書きがいたずらではなくメッセージを込めた威嚇行動であると認識した瞬間に、悪意や敵意が浮かんで見えるような気がした。
加直の脳疲労と肉体疲労で限りなく認知機能の能力が低下した状態では様々な認知の歪みが発生している。
白黒思考やべき思考、単純化、一般化……人間は疲れてエネルギーが低下すると脳がエネルギーの消費を抑えるために思考すら省エネにする。それが認知の歪みやバイアスを生み出す。
加直は今、移民コミュニティを『絶対的に邪魔な存在』『連中さえいなければ快適に生活できる』『この自治体から追い出すべき』という、認知の歪みが偏桃体の過剰反応で加速している。
今すぐ休養せねばならない。先ほど眼鏡をはずした時に眉間に熱感を覚えた。疲労の極みだ。
――――これは『僕しかできない!』
狭窄と誇大化。
加直はすぐに組合長の家へ向かい、落書きの事実とその文化的な背景を秘密裏に共有することを提案した。
※ ※ ※
……と、言う夢を見ていた。
加直は倒れた。疲労で。
商店街の組合長の家に行って情報の伝達を熱っぽく語っている夢を延々と見ていた。
夢を延々と見るだけの時間、彼女は眠っていた。
目が覚めると、店舗の休憩スペースで、折り畳んだ座布団を枕にして、ブルゾン姿の上から毛布を二枚掛けられた状態で天井を見ていた。眼鏡は外されていた。
自分が倒れて夢を見ていたのは把握したが、まだ窓の外が薄暗かったので大した時間は寝ていないだろうと思った。その割には体が軽いから若さに感謝だ、と暢気に思っていた。
そして、ここまで運んでくれたのは祖父……の一声で駆けつけてくれた近所の人が自分を応急的にここで寝かせてくれたのだろう。あとで手土産を持ってお礼に行かないと。
詳しい時間が知りたくて寝転がったまま、寝ぼけ頭で左手首のクロノグラフを見る。まだ六時十五分。二時間前までシャッターの前にいたので疲労のために、気絶するように短時間で深く眠ったらしい。
「!」
クロノグラフの二十四時間計を見て目を剥く。二度見する。二十四時間計は午後六時を指していた。
「え!」
思わず声が出た。更に、デイデイトカレンダーを見て、日付が変わっているのを確認して更に目を剥いて驚く。
気絶どころか、死んだように寝ていたらしい。そういえば……頭がはっきりしてくるほどに腰や背中が痛い。畳の上で一夜干しの魚のように、一日半寝ていたので体が固まっていたらしい。
お陰でぐっすり眠れたし、一瞬で目が覚めた。座布団の枕元に置かれていた黒いフレームの眼鏡を手に取り、掛ける。
飛び起きて祖父に訊いたところ、やはり疲労で倒れて寝てしまっていたらしい。
シャッターの落書きは夢でも何でもなく、事実で、それについて何か思いついたらしいが、思考、選択、判断、決断が鈍くなっていると自覚し始めたところで意識が無くなっている。記憶が途切れている。……燃費の悪い脳味噌は早くも空腹で以てエネルギー補給を催促してきた。
何もできずに祖父に全ての家事と仕事を押し付けてしまった事を詫びながら、台所へと向かう。祖父への詫びのために何かいい肴でも作ろう。自分のエネルギー補給と気力回復のためにカロリーの高い動物性たんぱく質を貪ろうと心に決める。
※ ※ ※
【僕たちの目的は犯人を捕まえることではなく、衝突を避けて平穏を取り戻すことです。犯人の行動を抑制するのではなく、『犯人が行動を抑制してしまう』方法が有効だと思います。】
翌日の夕方、商店街の組合長にそのような旨で始まるメールをしたためて送信した。
【彼らの威嚇の意図を裏返して、心理的な優位の機会を奪う必要があります。早い話が、『ポジティブを作り出して、居心地の悪い』思いをさせれば、犯人連中の気力を大きく下げます】
以降に続く、加直の理路整然とした【法的解釈としては商店街側が正しい】文面を読んだ。組合長はパソコンのモニターを見ながら静かに頷いた。
加直の計画は広域に分散した落書きに対して、部分的――先ずはこの商店街から――認知的不協和の誘発を仕掛けるというものだった。
加直は倉庫の奥から新しいベニヤ板と、絵筆、ペンキ用の刷毛、そして塗料を持ち出した。
汚れてもいい古い作業用ブルゾンに着替え、畳一畳ほどの立て看板の簡単な設計図を確認しながら、ホームセンターで買ってきた目の前の木材をノコギリで切り、釘を打ち付け始めた。
その手の動きには一切の迷いがない。多動思考が、この時ばかりは精密機械のように目の前のオペレーションへと集中していた。ある種の作業興奮なのかもしれない。
【ポジティブな解釈の明記】
加直は、スマートフォンで特定した古い港湾部に住まいを築いた移民コミュニティの起源である文化の「本来の、ポジティブな意味合い」を、美しく、学術的な言葉遣いで六枚のプラカードに筆書きした。彼女の考案した文面ではなく、スマートフォンで無料で使えるAIに明記してほしい文言を含んだプロンプトを書いて生成してもらった字列を、更に平易な文体に改めて、絵筆でその文字列を白く塗った立て看板に記していく。
【この紋様は、荒天を鎮め、豊饒をもたらす古代の航海安全を祈るシンボルとして、過去のこの地域に平和をもたらした】という書き出しから始まる落書きの本来の意味の解説だ。
加直は立て看板を書き終えると、組合長と組長の呼びかけで集まった商店街の有志――総勢二十人。半分は組合長の身内――で、夜の深い時間帯に人通りが途絶えた商店街の九箇所の落書きの真横に、それを設置していった。
組合長の呼応に集まった有志は悉く落書きの被害者だ。彼らももうこりごりだという疲労浮かべていた。「これで鎮静化するのなら」と言う思いで組合長の言葉を聴いてくれたのだろう。
勿論、発案と手柄は加直ではなく、組合長のものとして譲るつもりだ。加直の策が上手くいけば、次回の組合長の選挙でも有利に働くだろう。組合長は顔には喜びの色を出さなかったが、加直の提案を受け入れた。彼の喜びの感情は表情筋の変化と感情のノイズとして簡単に読み取れた。
……そして、加直は次回の組合の選挙でも有利に立ちたい現組合長は喜んで手柄を独り占めするだろうと、予想していた。
深夜一時を少し経過。
有志たちは、蛍光色のスプレーで描かれた憎悪のシンボルと、その隣に設置される、歴史的・文化的な肯定のメッセージを対比させるように並べた。
静かで冷たい空気の中、加直は設置場所のわずかな角度や、街灯の照明との位置関係をスケールで測りながら調整する。そのノウハウも有志に共有している。
完璧な『認知的な衝突』を生み出すための、周到な心理的戦術だった。
この立て看板に書かれた文言の意味は、相手の脳内に彼らが信奉する威嚇の記号と、その落書きが持つ本来のポジティブな歴史的意味との間に強い認知的不協和を生じさせるための、心理的なゲリラ戦だった。口語体で言うのなら「えー、本当はこんな意味だったのに、そんなことも知らないでイキってたのー?」と言ったところか。
翌朝。午前九時。【辺金物屋】開店時間。
通りを歩く住民たちは、落書きには眉をひそめるが、その隣にある筆文字の解説と【地域の隠れた文化遺産】というポジティブな側面に視線が移ると興味深げに立ち止まった。
このメッセージの解離によるポジティブな認知は、犯人たちへの決定的な一撃となった。
その日の深夜、加直は店内の監視カメラのモニターを凝視していた。深夜二時過ぎ。フードを被った二人の男――【匿名の芸術家】たち――が、【辺金物屋】のシャッター前に現れた。
彼らは、自分たちが描いたはずの威嚇の記号の横に、その記号の 【ポジティブで高尚な解説】が飾られているのを見て、目を白黒させて動きを停めた。
彼らの身体は、明らかに硬直していた。
加直の脳内に、モニター越しに彼らの動揺が空気の振動のように伝わる。
彼らの心臓が急激に収縮し、呼吸が乱れるという自律神経系の混乱がモニターの顔色から加直に共有されたのだ。
加直は静かにレジカウンター下のS&W M351cに手を伸ばし、グリップに指先を乗せる。先ほど、シリンダーをスイングアウトさせて実包が詰まっているかを確認した。いつでも発砲できる状態だ。
ミラータッチ共感覚の僅かな不快感を覚えながら、彼らに物理的な暴力の意図がないことを確信した。モニターの向こうの彼らの顔から読み取れたのは、『強い当惑、屈辱、そして行動の意義の喪失』という、脳の意図伝達回路の混乱だった。
少し強い疼痛を覚える。加直の脊髄を駆け上がり、こめかみを締め付ける。加直の予感は彼らが拳を上げて暴力を振るうという『明確な敵意』ではなく、『敗北』という自己認識の崩壊を共有していた。
彼らの行動は『威嚇』として始まった。だが、商店街の九箇所で彼らの記号が『文化の紹介』へと意味を転換させられた。
脳は、自らの行動の目的が予想せぬ方向で裏返された時、強いストレス反応を示す。このストレスは威嚇を続けるための動機付けの脳回路を自動的に遮断させる。結果的に混乱の顔色を浮かべる。
加直は、彼らが『今は脅威に値しない』と判断し、S&W M351cから手を離した。
二人の男は商店街を歩き、自分たちの描いた落書きがことごとくポジティブな解説で上書きされているのを見て、立ち尽くしたらしい。有志達も心配でそれぞれの監視カメラの映像を見ていたようだ。
こうして彼らの威嚇は、無力化された。
※ ※ ※
翌日。
シャッターの件は町内会で話題となり、事態を一番理解している、室中センター第二商店街の組合長が【辺金物屋】を訪れた。
今回は、地元を巡回中の警官も同行していたが、彼らの存在はあくまで、組合への儀礼的なものだった。
「辺さん、本当に驚いた。一晩で、全ての落書きが『地域の話題』に変わった。他の組合員も、これには驚いているよ」
加直は、カウンターの奥から熱いコーヒーを淹れ、組合長に差し出した。彼女は冷静な分析のペルソナを保ち、警官の冷ややかな視線を受け流す。今は冷静なペルソナを維持する時だ。
「組合長。僕の行動は被害を最小限に抑えるための措置でした。先にメールでお送りしたように、彼らが用いたのは文化的な不快感という脅威で、それに対して僕たちが文化的な肯定で応じた。威嚇の動機を、根本から消滅させるために『必要な措置』でした。彼らからすれば威嚇行動自体が滑稽になり、動機の『意義の喪失』につながりますからね」
組合長は、満足そうに納得したように頷いた。
「確かに、これで昔聞いたような紛争は回避された気がするよ。辺さん。今回も有り難う」
警官は、加直の手腕と応答があまりにも完璧で、法の名のもとに市民の銃を奪う隙が見つからない事に苛立ちを隠せないまま、静かに組合長と共に立ち去った。
※ ※ ※
事件は終結したが、加直の疲労は極限に達していた。
夜。祖父が眠りについた後、加直は自室から続くベランダで二本目のハーフコロナを吸っていた。苦い煙が、一日の緊張をゆっくりと解きほぐす。
雑多な苦痛をミラータッチ共感覚で感じ取り不要な疲労を背負い込んでいた。そしてそれに拍車をかける多動思考による脳の疲労。
加直は、ベランダから空を見上げ、月を見つめた。
威嚇行為に及んでいたのは、フードを被った若い世代のコミュニティの移民だった。
加直の知覚推理は、この行為の裏にある構造を深く理解していた。
彼らがシンボルの持つポジティブな意味を知らず、ただ『不快感を与えるための呪い』としてのみ教えられ利用していた事実に、加直はやるせない気持ちになる。
古い移民コミュニティの祖父母世代が抱いた地域への怨念が、何の罪もない若い世代の行動原理として引き継がれているのだ。歴史の軋轢と齟齬は解決されぬまま、世代間の憎悪のバトンとして機能していた。
――――多分、彼らは自分たちが何を呪っているのかも知らないのかもしれない。
加直は、ベニヤ板に書いたメッセージを思い出す。
それは単なる心理戦ではない。彼らの祖先が信じた『平和への祈り』の象徴を、現代の彼らに返却した意味も込めている。彼らの記憶に、彼らの歴史の再認識を突きつけたのだ。
――――今回のは『対症療法』だ。『根治療法』じゃない。
――――必ず『次』が来る。『恨みは消えないから恨みと言う』んだ。
彼らもまた、古い怨念という見えない呪いの被害者なのだ。加直は、この連鎖する悲劇に対し、ミラータッチ共感覚の激痛とは異なる、深い共感を抱いた。彼女が心掛けるレジリエンスは、この絶望的な現実に耐えるために修得しようと心掛けているものだった。
彼女は、多動思考を停止させるための手段として、階下へ降り、裏庭へ出た。庭には愛犬トメが尻尾を振って寄り添ってきた。トメの顔をもみくしゃにして癒しのオキシトシンを補給する。自然と加直の顔も緩む。
誰にも何も明かせない秘密を背負う加直の背中は、金物屋の主人代理として少し知恵を貸し、代償として夜な夜な眠りを奪われる、孤独な一般人の背中だった。
月明かりの下、火の消えたハーフコロナを銜えたままいつまでも愛犬と戯れていた。
≪♯006・了≫
【室中センター第二商店街】。
昨夜の土砂降りが上がった午前四時。
店舗付住居である【辺金物屋】の内部は、工具と鋼の硬質な匂いで満たされ、外の湿気を帯びた空気とはまた違う趣ある金属の匂いを充満させていた。
店主代理の加直の朝は早い。否、『寝ていない』。
水色の作業用ブルゾンを着用し、レジ奥のカウンターに立っている、彼女の黒フレームの眼鏡の奥の瞳は、連夜連夜の不眠による疲労の色に染められていた。
加直は、酷く認知機能が低下した自らの前頭葉に活を入れるために、レジ横のサーモマグから、休憩スペースで抽出したばかりの熱いブラックコーヒーを一口飲んだ。
口の中に広がる安心感を与えてくれる芳醇な苦味が、過剰に活動する脳を僅かに鎮静させる。
左腕のクロノグラフを傾け、デイデイトカレンダーを確認した。棚卸作業も一苦労で、こんな狭い店舗でも時計のカレンダーは――記憶が確かなら――もう三日もこの作業を続けていることになる。何枚の板チョコを齧り、何本のハーフコロナを灰にしたのか分からない。
シルバーに光る、紳士用クロノグラフの複雑な文字盤とムーブメントの精密さが、彼女の多動的な思考を日常の規律へと引き戻す。
その時、腰痛持ちの祖父・恵悟が、怒気を滲ませた声で加直を呼んだ。
「加直、見てくれ! また落書きだ。今度は隣の倉庫のシャッターにも!」
その穏やかでない声は加直のミラータッチ共感覚に粒が散弾銃の様に叩き込まれる。頼むから声を抑えてくれ。
加直が欠伸を噛み殺しながら外に出ると、【辺金物屋】の右隣のシャッターと、恵悟が買い取った金物屋の左隣の倉庫のシャッターに、2色の蛍光色のスプレーで同じ記号が描かれていた。
単なる落書きではなく、幾何学的でありながらややエスニックな、特定の古い地域の文化に関連する抽象的な記号だった。
落書きを見た瞬間、加直は舌打ちした。ここ暫く、商店街のシャッターや壁にこのような同じ意匠の落書きが頻発している。これを書いた【匿名の芸術家】は何かのメッセージを込めているのだろうが、その価値と意図を汲み取れない加直を含めた近隣の住民からすればただの落書きの域を出ない。
脳内に微かな不快感が走った。ミラータッチ共感覚による何かの受信ではなく、もっとプリミティブな……直感のようなものだった。
「軽蔑」「威嚇」「予期」「不吉」の予感。それも予期不安に近い根拠のない思い込みに等しい予感。
加直は両腕を組み、軽く握った左手で口元を覆いながら落書きを見つめた。傍では文句を垂れながら、落書きを塗り消すためのペンキの缶を探している恵吾が右往左往していた。
恵吾を無視して加直は暫し、落書きを視る。
商店街で頻発する落書き。同じような意匠。使われている色も同じ2色。【匿名の芸術家】は商店街以外の他の家屋や商店でも深夜のうちに落書きをしていると町内会の掲示板で読んだ事が有る。
――――どこかで見た?
――――何か引っかかる……。
加直はポケットからスマートフォンを取り出し、落書きを鮮明に撮影した。
その場で画像をアップロードし、AIで画像検索し、そこで過去に市の保存会が集めた大月島市港湾部の歴史資料のデータベースがヒットして照合する。数秒後、彼女の知覚推理がパターンを認識した。
この落書き……『記号』は100年ほど前に、この大月島市に流入したインドネシア群島の移民コミュニティが、航海安全や豊穣を祈るために用いたトーテム的シンボルである。この記号の意味をスマートフォンでの検索を通じて思いのほか簡単に特定できた。
……しかし問題は『意味』ではなく『意図』だ。
加直はこの落書きの配置と筆致を、スマートフォンで調べられる範囲で検索して集めた情報を脳内で解析した。
記号は、故意に不完全な形で描かれ、その本来のポジティブな解釈ではなく、集団が他者を排斥する際の『呪詛返し』として使われる……より一層不吉な解釈を連想させるように歪められていた。
――――これは、物理的な損壊を目的としていないな。
――――明らかな威嚇のニュアンスを込めた意味合いだ。
彼女の脳は、スマートフォンのディスプレイに表示された落書きの歪みから、意図的な『悪意の増幅』を読み取っていた。ミラータッチ共感覚を持つ人間の多くはHSPに類する感情の増幅が過敏に行われる。
スマートフォンに表示されたテキストや画像と添えられた注釈を読めば読む程、この【匿名の芸術家】が抱く排他的な感情のベクトルを、加直のHPA軸にダイレクトに伝達する。
背筋に冷たい霜が降りるような感覚。物理的接触や聴覚情報なしに、他者の攻撃的な意図を感知する、加直の面倒な能力が発する『警告的な予感』だった。
「あ……そうか」
加直は、商店街の組合がこの件を警察に持ち込まなかった理由を、即座に整理した。
商店街の組合だけでなく、町内会や自治会も、この古く永い移民コミュニティとの間に『触らぬ神に祟りなし』の長年の暗黙の了解があった。
彼らが動けば、紛争が再燃する。
この自治体には、港湾部の倉庫街や廃棄区画に、日本にやってきたが文化や風習に溶け込めなかった移民だけが集まって不法占拠している一画が有る。
最初はごく少人数の単一民族だけが一軒のあばら家に住んでいたらしいが、やがて行く宛のない外国人が集まってきた。
正当な手続きで日本にやってきた者たちは少ない。海外航路の船から降りてそのまま日本国内に逃走した者や、犯罪を犯して逃走先に日本を選んだ者や、事業で日本に来たがやむにやまれぬ事情が有って『消えるしか』なかった者などが集まり、コミュニティは段々と拡充し、今では防犯や消防と言う意味でも、土地の不法占拠と言う意味でも市長選の度に移民コミュニティの処遇について公約に掲げらる。
加直の想像する動機はこの落書きの姿をした威嚇行動を放置すれば、必ずエスカレートし、彼女の繊細過ぎるセンサーが反応するレベルの物理的暴力を呼ぶ。
それに対して先手を打つには、今、非暴力的に彼らの『行動の動機を消滅させるしかない』。
彼らのコミュニティとの確執は、室中センター商店街を計画した有力者――今では絶滅した任侠やくざ団体――とその一家が地権を巡り暴力抗争に発展した。
結果的に警察が介入した。
警察は以前から市内で顔をきかせていた任侠やくざの極道一家が邪魔で、真正面から法的に正当に取り締まれる機会を伺っていた。そこへ、移民たちに刺激されたやくざがコミュニティの移民を殺害し、抗争に発展して双方に打撃を受けた際に警察が両者ではなく、やくざ団体だけを逮捕拘束し壊滅に近い状態に追い込んだ。
コミュニティの移民は、やくざとその他の区別がつかない。
やくざも善良な市民も日本人だ。
日本人は自分たちを迫害したので悪い存在だと認識している。
短絡に短絡が重なった内集団的帰属意識。コミュニティはやがて、暗黙的にアンタッチャブルな存在となった。……それが歴史的背景だ。新しい世代の加直には想像も考えも及ばない、実に黴臭い因縁話である。
加直の想像と、想像を基にした解決策はいささか恐怖によってバイアスがかかっている判断だと自覚できていない。
加直にとってはその解決策は、要らぬ苦痛を避けるための緊急避難に相当した。
加直は眼鏡を外して眉根を揉んだ。眼鏡のフチが、疲労で熱を持った皮膚に深く食い込む。
不眠と頭痛のループから脱するために、内向的で引っ込み思案なペルソナを脱ぎ捨て、冷徹な分析者……即ち『辺金物屋の番人』のペルソナへと切り替えた。
加直は、レジ横に置いていたビターチョコレートを一塊齧った。
集中力を高め、思考の精度を上げるための燃料だ。
『【辺金物屋】だけが狙われているわけではない。第二商店街全体を調査し、合計九箇所――理髪店、廃業した食堂、空き店舗等、そして許せないことに、心の燃料補給所であるフルーツパーラー『月見里』も!――に同じ記号の落書きがされていることを確認した。これは広域でゲリラ的に行われている集団の心理戦だと視た。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この落書きがいたずらではなくメッセージを込めた威嚇行動であると認識した瞬間に、悪意や敵意が浮かんで見えるような気がした。
加直の脳疲労と肉体疲労で限りなく認知機能の能力が低下した状態では様々な認知の歪みが発生している。
白黒思考やべき思考、単純化、一般化……人間は疲れてエネルギーが低下すると脳がエネルギーの消費を抑えるために思考すら省エネにする。それが認知の歪みやバイアスを生み出す。
加直は今、移民コミュニティを『絶対的に邪魔な存在』『連中さえいなければ快適に生活できる』『この自治体から追い出すべき』という、認知の歪みが偏桃体の過剰反応で加速している。
今すぐ休養せねばならない。先ほど眼鏡をはずした時に眉間に熱感を覚えた。疲労の極みだ。
――――これは『僕しかできない!』
狭窄と誇大化。
加直はすぐに組合長の家へ向かい、落書きの事実とその文化的な背景を秘密裏に共有することを提案した。
※ ※ ※
……と、言う夢を見ていた。
加直は倒れた。疲労で。
商店街の組合長の家に行って情報の伝達を熱っぽく語っている夢を延々と見ていた。
夢を延々と見るだけの時間、彼女は眠っていた。
目が覚めると、店舗の休憩スペースで、折り畳んだ座布団を枕にして、ブルゾン姿の上から毛布を二枚掛けられた状態で天井を見ていた。眼鏡は外されていた。
自分が倒れて夢を見ていたのは把握したが、まだ窓の外が薄暗かったので大した時間は寝ていないだろうと思った。その割には体が軽いから若さに感謝だ、と暢気に思っていた。
そして、ここまで運んでくれたのは祖父……の一声で駆けつけてくれた近所の人が自分を応急的にここで寝かせてくれたのだろう。あとで手土産を持ってお礼に行かないと。
詳しい時間が知りたくて寝転がったまま、寝ぼけ頭で左手首のクロノグラフを見る。まだ六時十五分。二時間前までシャッターの前にいたので疲労のために、気絶するように短時間で深く眠ったらしい。
「!」
クロノグラフの二十四時間計を見て目を剥く。二度見する。二十四時間計は午後六時を指していた。
「え!」
思わず声が出た。更に、デイデイトカレンダーを見て、日付が変わっているのを確認して更に目を剥いて驚く。
気絶どころか、死んだように寝ていたらしい。そういえば……頭がはっきりしてくるほどに腰や背中が痛い。畳の上で一夜干しの魚のように、一日半寝ていたので体が固まっていたらしい。
お陰でぐっすり眠れたし、一瞬で目が覚めた。座布団の枕元に置かれていた黒いフレームの眼鏡を手に取り、掛ける。
飛び起きて祖父に訊いたところ、やはり疲労で倒れて寝てしまっていたらしい。
シャッターの落書きは夢でも何でもなく、事実で、それについて何か思いついたらしいが、思考、選択、判断、決断が鈍くなっていると自覚し始めたところで意識が無くなっている。記憶が途切れている。……燃費の悪い脳味噌は早くも空腹で以てエネルギー補給を催促してきた。
何もできずに祖父に全ての家事と仕事を押し付けてしまった事を詫びながら、台所へと向かう。祖父への詫びのために何かいい肴でも作ろう。自分のエネルギー補給と気力回復のためにカロリーの高い動物性たんぱく質を貪ろうと心に決める。
※ ※ ※
【僕たちの目的は犯人を捕まえることではなく、衝突を避けて平穏を取り戻すことです。犯人の行動を抑制するのではなく、『犯人が行動を抑制してしまう』方法が有効だと思います。】
翌日の夕方、商店街の組合長にそのような旨で始まるメールをしたためて送信した。
【彼らの威嚇の意図を裏返して、心理的な優位の機会を奪う必要があります。早い話が、『ポジティブを作り出して、居心地の悪い』思いをさせれば、犯人連中の気力を大きく下げます】
以降に続く、加直の理路整然とした【法的解釈としては商店街側が正しい】文面を読んだ。組合長はパソコンのモニターを見ながら静かに頷いた。
加直の計画は広域に分散した落書きに対して、部分的――先ずはこの商店街から――認知的不協和の誘発を仕掛けるというものだった。
加直は倉庫の奥から新しいベニヤ板と、絵筆、ペンキ用の刷毛、そして塗料を持ち出した。
汚れてもいい古い作業用ブルゾンに着替え、畳一畳ほどの立て看板の簡単な設計図を確認しながら、ホームセンターで買ってきた目の前の木材をノコギリで切り、釘を打ち付け始めた。
その手の動きには一切の迷いがない。多動思考が、この時ばかりは精密機械のように目の前のオペレーションへと集中していた。ある種の作業興奮なのかもしれない。
【ポジティブな解釈の明記】
加直は、スマートフォンで特定した古い港湾部に住まいを築いた移民コミュニティの起源である文化の「本来の、ポジティブな意味合い」を、美しく、学術的な言葉遣いで六枚のプラカードに筆書きした。彼女の考案した文面ではなく、スマートフォンで無料で使えるAIに明記してほしい文言を含んだプロンプトを書いて生成してもらった字列を、更に平易な文体に改めて、絵筆でその文字列を白く塗った立て看板に記していく。
【この紋様は、荒天を鎮め、豊饒をもたらす古代の航海安全を祈るシンボルとして、過去のこの地域に平和をもたらした】という書き出しから始まる落書きの本来の意味の解説だ。
加直は立て看板を書き終えると、組合長と組長の呼びかけで集まった商店街の有志――総勢二十人。半分は組合長の身内――で、夜の深い時間帯に人通りが途絶えた商店街の九箇所の落書きの真横に、それを設置していった。
組合長の呼応に集まった有志は悉く落書きの被害者だ。彼らももうこりごりだという疲労浮かべていた。「これで鎮静化するのなら」と言う思いで組合長の言葉を聴いてくれたのだろう。
勿論、発案と手柄は加直ではなく、組合長のものとして譲るつもりだ。加直の策が上手くいけば、次回の組合長の選挙でも有利に働くだろう。組合長は顔には喜びの色を出さなかったが、加直の提案を受け入れた。彼の喜びの感情は表情筋の変化と感情のノイズとして簡単に読み取れた。
……そして、加直は次回の組合の選挙でも有利に立ちたい現組合長は喜んで手柄を独り占めするだろうと、予想していた。
深夜一時を少し経過。
有志たちは、蛍光色のスプレーで描かれた憎悪のシンボルと、その隣に設置される、歴史的・文化的な肯定のメッセージを対比させるように並べた。
静かで冷たい空気の中、加直は設置場所のわずかな角度や、街灯の照明との位置関係をスケールで測りながら調整する。そのノウハウも有志に共有している。
完璧な『認知的な衝突』を生み出すための、周到な心理的戦術だった。
この立て看板に書かれた文言の意味は、相手の脳内に彼らが信奉する威嚇の記号と、その落書きが持つ本来のポジティブな歴史的意味との間に強い認知的不協和を生じさせるための、心理的なゲリラ戦だった。口語体で言うのなら「えー、本当はこんな意味だったのに、そんなことも知らないでイキってたのー?」と言ったところか。
翌朝。午前九時。【辺金物屋】開店時間。
通りを歩く住民たちは、落書きには眉をひそめるが、その隣にある筆文字の解説と【地域の隠れた文化遺産】というポジティブな側面に視線が移ると興味深げに立ち止まった。
このメッセージの解離によるポジティブな認知は、犯人たちへの決定的な一撃となった。
その日の深夜、加直は店内の監視カメラのモニターを凝視していた。深夜二時過ぎ。フードを被った二人の男――【匿名の芸術家】たち――が、【辺金物屋】のシャッター前に現れた。
彼らは、自分たちが描いたはずの威嚇の記号の横に、その記号の 【ポジティブで高尚な解説】が飾られているのを見て、目を白黒させて動きを停めた。
彼らの身体は、明らかに硬直していた。
加直の脳内に、モニター越しに彼らの動揺が空気の振動のように伝わる。
彼らの心臓が急激に収縮し、呼吸が乱れるという自律神経系の混乱がモニターの顔色から加直に共有されたのだ。
加直は静かにレジカウンター下のS&W M351cに手を伸ばし、グリップに指先を乗せる。先ほど、シリンダーをスイングアウトさせて実包が詰まっているかを確認した。いつでも発砲できる状態だ。
ミラータッチ共感覚の僅かな不快感を覚えながら、彼らに物理的な暴力の意図がないことを確信した。モニターの向こうの彼らの顔から読み取れたのは、『強い当惑、屈辱、そして行動の意義の喪失』という、脳の意図伝達回路の混乱だった。
少し強い疼痛を覚える。加直の脊髄を駆け上がり、こめかみを締め付ける。加直の予感は彼らが拳を上げて暴力を振るうという『明確な敵意』ではなく、『敗北』という自己認識の崩壊を共有していた。
彼らの行動は『威嚇』として始まった。だが、商店街の九箇所で彼らの記号が『文化の紹介』へと意味を転換させられた。
脳は、自らの行動の目的が予想せぬ方向で裏返された時、強いストレス反応を示す。このストレスは威嚇を続けるための動機付けの脳回路を自動的に遮断させる。結果的に混乱の顔色を浮かべる。
加直は、彼らが『今は脅威に値しない』と判断し、S&W M351cから手を離した。
二人の男は商店街を歩き、自分たちの描いた落書きがことごとくポジティブな解説で上書きされているのを見て、立ち尽くしたらしい。有志達も心配でそれぞれの監視カメラの映像を見ていたようだ。
こうして彼らの威嚇は、無力化された。
※ ※ ※
翌日。
シャッターの件は町内会で話題となり、事態を一番理解している、室中センター第二商店街の組合長が【辺金物屋】を訪れた。
今回は、地元を巡回中の警官も同行していたが、彼らの存在はあくまで、組合への儀礼的なものだった。
「辺さん、本当に驚いた。一晩で、全ての落書きが『地域の話題』に変わった。他の組合員も、これには驚いているよ」
加直は、カウンターの奥から熱いコーヒーを淹れ、組合長に差し出した。彼女は冷静な分析のペルソナを保ち、警官の冷ややかな視線を受け流す。今は冷静なペルソナを維持する時だ。
「組合長。僕の行動は被害を最小限に抑えるための措置でした。先にメールでお送りしたように、彼らが用いたのは文化的な不快感という脅威で、それに対して僕たちが文化的な肯定で応じた。威嚇の動機を、根本から消滅させるために『必要な措置』でした。彼らからすれば威嚇行動自体が滑稽になり、動機の『意義の喪失』につながりますからね」
組合長は、満足そうに納得したように頷いた。
「確かに、これで昔聞いたような紛争は回避された気がするよ。辺さん。今回も有り難う」
警官は、加直の手腕と応答があまりにも完璧で、法の名のもとに市民の銃を奪う隙が見つからない事に苛立ちを隠せないまま、静かに組合長と共に立ち去った。
※ ※ ※
事件は終結したが、加直の疲労は極限に達していた。
夜。祖父が眠りについた後、加直は自室から続くベランダで二本目のハーフコロナを吸っていた。苦い煙が、一日の緊張をゆっくりと解きほぐす。
雑多な苦痛をミラータッチ共感覚で感じ取り不要な疲労を背負い込んでいた。そしてそれに拍車をかける多動思考による脳の疲労。
加直は、ベランダから空を見上げ、月を見つめた。
威嚇行為に及んでいたのは、フードを被った若い世代のコミュニティの移民だった。
加直の知覚推理は、この行為の裏にある構造を深く理解していた。
彼らがシンボルの持つポジティブな意味を知らず、ただ『不快感を与えるための呪い』としてのみ教えられ利用していた事実に、加直はやるせない気持ちになる。
古い移民コミュニティの祖父母世代が抱いた地域への怨念が、何の罪もない若い世代の行動原理として引き継がれているのだ。歴史の軋轢と齟齬は解決されぬまま、世代間の憎悪のバトンとして機能していた。
――――多分、彼らは自分たちが何を呪っているのかも知らないのかもしれない。
加直は、ベニヤ板に書いたメッセージを思い出す。
それは単なる心理戦ではない。彼らの祖先が信じた『平和への祈り』の象徴を、現代の彼らに返却した意味も込めている。彼らの記憶に、彼らの歴史の再認識を突きつけたのだ。
――――今回のは『対症療法』だ。『根治療法』じゃない。
――――必ず『次』が来る。『恨みは消えないから恨みと言う』んだ。
彼らもまた、古い怨念という見えない呪いの被害者なのだ。加直は、この連鎖する悲劇に対し、ミラータッチ共感覚の激痛とは異なる、深い共感を抱いた。彼女が心掛けるレジリエンスは、この絶望的な現実に耐えるために修得しようと心掛けているものだった。
彼女は、多動思考を停止させるための手段として、階下へ降り、裏庭へ出た。庭には愛犬トメが尻尾を振って寄り添ってきた。トメの顔をもみくしゃにして癒しのオキシトシンを補給する。自然と加直の顔も緩む。
誰にも何も明かせない秘密を背負う加直の背中は、金物屋の主人代理として少し知恵を貸し、代償として夜な夜な眠りを奪われる、孤独な一般人の背中だった。
月明かりの下、火の消えたハーフコロナを銜えたままいつまでも愛犬と戯れていた。
≪♯006・了≫
