掌編【辺加直の鏡像】
土曜日。午後四時五十分。
加直は、【辺金物屋】の休憩スペースで、熱を失ったコーヒーを飲んでいた。
冷たくなり始めたカップを両手で包み、香しい水面に映る、黒フレーム眼鏡の陰鬱な顔を翳る目で見る。
※ ※ ※
一昨日、最寄りの警察署である北川上署の捜査一課から呼び出しを受けた。
コンシールド許可証についての様々な不安に心が散々掻きまわされ、たった数時間で体重が2kgは減ったはずだ。
そもそも警察署は好きではない。加直のミラータッチ共感覚が様々な感情を痛覚に置き換えて遠慮なく体内に注がれてくる。接触していないのに針の筵に巻かれているような感覚になるのだ。
態々捜査一課に呼び出されたのに、担当者の名前を出すと、空いている会議室まで隔離されるように連れてこられて、目の前の――西ローランドゴリラよりは人間に近い顔をした刑事――に愕然と、呆然と、憤然とする内容の文言と依頼を聞かされる。
要約すると、コンシールド許可証の件について、当たらずしも遠からずと言ったところだ。
『近隣で続発する連続強姦犯の捜査について、期間限定のみなし公務員として、囮捜査に協力してほしい』という依頼だった。
これには流石に面を喰らってしまった。空かさず、
「僕じゃ駄目ですよ!」
加直は殆ど脊髄反射的に、彼女にしては珍しく声を荒げて断った。
顔を赤くして反対する加直に対し、彼女の声を無視するように話を進める刑事。
彼が提示した理由と条件は、彼女が地域でも数少ない女性コンシールドキャリー許可証保持者であり、犯人の犯行パターンから見て、『あなたのような容姿の若い女性が一番狙われている』というものだった。
「僕には家の仕事があります! それに僕が危険な囮捜査に協力する正当な理由がありません! 僕は公権力の行使を助けるために許可証を取得したわけじゃない! 護身のためです!」
加直は全力で抗議した。
しかし、刑事の顔は全く涼しい顔で、加直の皮膚に流れ込むミラータッチ共感覚は微塵もノイズを拾わなかった。……つまり、これは決定事項で、元からお前に拒否権は無いという態度の表れでもあった。加直のノンバーバルを読み解く能力を以てしても、刑事のどこか尊大な態度はそれを証明していた。『俺は上でお前は下』。それを全身で語っている。
確かに、地域の女性たちが感じる、連続的な恐怖と未来への不確実性が織りなす集合的な恐怖のざらつきは、道を歩いていても加直の感性が受信してしまう。
この認知負荷はあまりに重く、加直の日常の思考回路を緩やかに侵食し始めていた。この犯人が捕まらない限り、加直のミラータッチ共感覚は常に過覚醒状態を強いられ、認知機能の維持を妨げる。
――――公務員からすれば、たかが個人の不快感かもしれない。
――――でも……僕の生活には無視できない要因だ。
――――さて、どうやって断ろうか……。
加直の脳は計算を始めた。
警察の非効率な捜査を待つ間の長期的なストレスと、短期的な危険な計画による一撃必殺のストレス除去。論理的には費用対効果は、明らかに後者が優位だった。が、前者に期待したい。
加直が刑事に対して断りの名案を思い付いて顔が明るくなった時だ。
テーブルを挟んで座る目の前のゴリラよりマシな顔の刑事はこう言った。
「辺さん。『よく眠れていない』んですか? 何か『悩み事』ですか? 『精神が参るほどの』」
それを聞いた途端に加直は風船が萎むように肩を落として小さくなった。
「わかったよ、やればいいんだろ……」
――――こいつ! 『知っているな!』
加直が大量の市販の睡眠薬を購入して常用していることを。
直ぐに心当たりが頭に浮かんだ。
先日、【辺金物屋】を襲撃したチンピラの上層組織を壊滅させる『手掛かりになる匿名の情報』を封筒でタレ込んだ。
社会正義が執行されたので、それ以上の追跡や解析はされないだろうと胡坐を書いていたが、僅かに残っていた懸念が的中したのだ。
【もしかすると使える情報源だと見なして、追跡をしなかったのかもしれない】
甘かった。警察は既に追跡を終えていた。更に、都合よく使える駒であると認識されていた。
加直は下唇を噛んで顔だけで抗議したが、目の前の刑事は全く表情は変えないでいる。最初から逃げ道は封じてあるという自信の表れだ。ここで抗議の声を大きくすれば、睡眠薬から辿られて加直のミラータッチ共感覚を端に発するトラウマや、現況の精神的限界が知られてしまう。否、知っているだろう。
そしてそれを名目にコンシールド許可証を剥奪するつもりだ。……その加直には銃を手放せない理由がある。即ち、コンシールド許可証を法的に剥奪できる人質にされている。
加直は何手も先に敗北する将棋盤を見詰めるような顔でうなだれ、「分かりました」と魂を吸い取られた声で返答した。
今更、警察の横暴だ、権力の不当な行使だと騒ぐ気になれなかった。……騒げばミラータッチ共感覚が悪化する上に、益々コンシールド許可証を剥奪される口実を与えてしまう。
元から加直に断る理由を用意させなかった。何より、『不必要な闘争を避けるための闘争』は自分の心の中でコンフリクトを生まない性分も見抜かれていた。
こうして、公僕の犬として従う羽目になる。
期間限定とはいえ、個人の権利を権力によって人質にされ、命を懸けさせられた理不尽だけは納得がいかない。飲めない理由を飲み込むのも処世術だと自分を宥めて自己矛盾を防ぐ。
今後も都合よく使われまいとするための次善策として、みなし公務員としての報酬は正当に受け取る上に、全ての手順を僕の指示に従うという条件を付けた。更に表向きには警察側の作戦だと表明してくれと頼む。こうすれば自分の命の行く末を問わずに個人情報がメディアに露出する確率を下げる事ができるはずだ。
※ ※ ※
午後五時二十分。
加直は、鏡の前で『武装』を完成させた。
ゆったりとした紺色のトレーナーを着る。右腹のIBWホルスターには、黒く重々しいスナブノーズを差し、トレーナーの裾で覆い隠す。
「……」
右腹部のホルスターの位置を手で押さえながら片眉を下げて眉間に皺を寄せる。不安で押し潰されそうな自分を、なだめる言葉や名案は結局、出てこなかった。
警察──捜査一課──から犯人のプロファイルの上澄みだけが抜粋されて記されたコピー用紙を、着替えをしていた自室のデスクの上から取り上げて何度も目を通す。
『自分の手順に従え』という条件を飲ませた以上は囮役を貫徹したい。……冷静に考えれば引き換え条件に相当する加直の言葉も警察からすればすでに織り込み済みで、わざと加直に一貫性の法則を誘発させるために、警察側は『論理の隙』を作って誘っていたのではないか? と疑う。
それは今更疑っても何も変わらない。疑えばこの世の全てが疑わしくなる。そこまでリソースを割くのは合理的ではない。彼女の認知資源は常に低い状態なのだ。
この囮役を行う上で条件を交わしたその中の一文。それは……『許可してもらった行動を取らなければ自分が危うい』。
加直は、鏡を見つめる自分の表情に、翳りのある優越感を覚えた。
加直の脳内で展開される計画が、資料に記された犯人の犯行パターンを完全に逆手に取る。実のところ、加直にとっては犯行パターンを一切変えない人間──犯罪者含める──というのは大した脅威ではない。
左手首の重々しいクロノグラフに視線を落とした。時刻を確認する。五時二十五分。決行まであと六時間。今が見まごう事無く、午後であることをクロノグラフの二十四時間計が報せていた。
彼女の今回の行動は、法的な正当性を必要とする。
囮を使い、発砲を誘う可能性が高い行為は、正当防衛の限界を越え、故意犯と見なされる可能性がある。
────兎に角、自分の命が第一だ。人を撃つのが目的じゃあないんだ。
────『その証明が必要だ』。
警察の提示した作戦概要と自分の進言で修正した計画を成功させるためには、犯人には銃を奪ってもらわないと困る。
そして、それで以て加直を恫喝してもらわないと、脅迫を行ったという事実が『出来上がらない』。……それが決定的な証拠となる。
警察の絶対数的な人員不足でここ数年で捜査方法がかなり改められた。
そのうちの一つが囮捜査。
そのうちの一つが見なし公務員の法的拡大解釈。
近年の犯罪件数の増加に対処しきれなくなった挙げ句、民間人に護身用拳銃を所持させることを可能とする法案が通ったのを鑑みても、それは危機的状況であることは簡単に汲み取れる。治安を守る砦たる警察機構が、自分の身は自分で守ってくれと言外に訴えている。
警察内部の犯罪的汚染────汚職、横流し、横領、もみ消し等────も警察の不人気不評に拍車をかける一因となっている『一因』だ。
理由は複合的多層的に広がり、決定的に何が原因で警察が凋落し、治安が水際を超えてしまい、国益に影響が出ているのかを解析するのは非常に難しい。
尤も、加直にできることは平穏無事に生涯を閉じることを目指すのが最大の目標なので、このような見なし公務員で囮役というのは彼女の心の中でコンフリクトが発生して当たり前なのだ。
誰もが今の時代を生きるので精一杯だ。
午後十一時五十分。
【辺金物屋】のある【室中センター第二商店街】から離れた路地裏に面する表通りの裏道。人通りはほぼゼロ。ここは【室中センター第一商店街】の路地裏。
駅前で繁盛している【室中センター第一商店街】。
隣の自治体との境目にあり競合相手が居ないのでそこそこ繁盛している【室中センター第三商店街】。
そして、【辺金物屋】がある、駅からも国道からも離れており人口密度が薄い地区にあるので自ずと売上が芳しくない【室中センター第二商店街】。
加直は【室中センター第一商店街】と沿うように伸びる路地裏を歩いている。この路地裏は商店街と裏道の間に挟まれている形で敷かれており、路地裏から裏道へと出ると、火が消えたように静かになり、街灯の数も少なくなる。
増え始めた野良犬がうろつく道でもある。保健所の害獣駆除を担当する部署は、数年前から被害と目撃が頻発する郊外の大型害獣の駆除に躍起になっており、野良犬対策に割く人員も予算も少なくなっている。どこの店でも野良犬を追い払うペッパースプレーはいつも在庫が少ない。山間部では肉食害獣や大型害獣対策用にもっと強力でもっと大容量のスプレーが飛ぶように売れてこれまた品薄状態だ。
生活を脅かす存在は犯罪者だけではない。山野に住む、ただの野生の動物が『未確認の感染症』に感染している可能性があるという発表があってから社会問題と化した。
加直は、指定されたエリア――外灯の明かりが乏しく、割れ窓理論を証明するかのように落書きで埋め尽くされた建物の壁、不法投棄されたゴミ、遠巻きにこちらを見ている野良犬、黴臭く、呼吸の度に心肺機能が得体の知れない何かに冒されているような不快な空気の中――をやや早めの、自然体の歩幅と速度で、歩く。
時折、腕時計のクロノグラフを見て、帰路を少し急いでいる『この道を通るのが怖い、か弱い女』を演じる。
彼女の首筋には既に、闇の向こうに潜む『存在』の意図が小さな粒のようなノイズとなって流入し始める。獲物を狙う狩人の熱とそれを遂行できないことへの鬱屈が混じった、極めて不快なノイズだ。......明らかな恐怖。そして抑えつけられない興奮。
加直の経験上、社会の規範から外れる事を目論んでいる人間特有のノイズだ。これには『理由は問わない』。止むにやまれぬ事情が有ろうと、悪意の有無がどうであろうと、自分が社会のレールから反れた規範的でないことを実行しようとする人間に共通した緊張感だ。
如何な理由であろうと、ルールを破る。
裏返せば、加直が今までに遭ってきた犯罪者は全て、幼少の頃からつい最近まで、教え込まれてきた社会規範を守ろうと苦労していた、或いは守り続けていた『真面目な人間』ばかりだった。誰も進んで犯罪者になりたくない。
それでも犯罪者にならねばならない理由は……今となっては格差社会の一言だけでは説明がつかないほど複雑で多面的だ。従来の犯罪機会論に加えて様々な社会環境が『犯罪者と言う一人の化け物を作り上げる』。その『化け物』が大量に生まれる土壌ができてしまったのが、今現在ともいえる。
歩きながら、加直は無意識にトレーナーの上から左手で右腹辺りに差し込んだIWBホルスターの位置に触れる。……かのように見せる。
――――ターゲットは僕を確認したはずだ。
――――僕が右腹に何か仕込んでいると『知った』はずだ。
この仕草こそが、犯人の警戒心を一層強くして、最も慣れた方法で襲撃させるための戦略的なミスリードである。人間は確実性を求めるために自分が得意とする方法を必ず選択する心理が働き易い。
加直は、不快なノイズの質が僅かに変化したことに恐怖を抱く。
――――落ち着け! この不快はターゲットの感情を受信しているからだ。僕の心の異常ではない。体には何の異常も無い!
様々な文言を心の中で並べて、防衛機制として処理しようと努めていた。この恐怖は、警戒を怠らないための重要な信号だと言い聞かせる。しかしミラータッチ共感覚が伝える外界のざらつきは限界を超え、軽い頭痛と吐き気を催し始めた。
捜査一課の担当刑事より渡された作戦概要に記されたエリアの中心に差し掛かる手前で、加直は立ち止まった。
腕時計のクロノグラフは、目標地点まで残り三分であることを示している。
自動販売機の煌々とした灯りを見つけた。
――――……『確認』、するか。
自動販売機に近づきながら、さり気なくIWBホルスターに、もう一度、触れた。『ここに、何かある』というメッセージの発信を『無意識に行っている』演技だ。……その信号を闇へ向けて発する。
自動販売機に近づいたのは、彼女の姿が誰からも確認しやすいようにするため。
加直が再び歩き出した。裏道を抜けようと――このまま進めば人通りがやや多い道に出る――爪先を向けて数歩歩いた瞬間。
背後から熱い息使いと、大きな獣のような突進が背中を叩く。
犯人は、まさに加直の予測通り、背後から『何かある場所』……IWBホルスターに狙いを定めた。
襲撃者は加直を背後から抱きしめた!
直後に彼の体温が伝わるかのように、加直の背中にノイズの濁流が注ぎ込まれる。背筋に『生暖かい虫の塊』を貼り付けられたかのような不快を覚え、体が生理的に硬直してしまう。
加直の驚きの硬直……襲撃者にとって、獲物が必ず見せる思考が停止して、一瞬で恐怖に飲み込まれた反応だと分かっていた。その反応が確認されたのなら、もうこっちのものだ。襲撃者の口元が邪悪な笑顔を作る。
すぐさま加直のトレーナーの腹の辺りに手を差し込み、ホルスターに収まっていたスナブノーズを掴み、一瞬で銃を引き抜いた。
加直になすすべもなかった。
『こうなると分かっていても、直面する恐怖には彼女は何の抵抗もできなかった』。
加直のミラータッチ共感覚は、犯人の脳内に湧き上がった『絶対的な勝利の快感』を、感覚のざらつきとして受け取り、彼女の神経に叩き付けるかのような恐怖を、止めのように刺す。
その言語的処理が難しい不快感は強烈で、加直の全身の感覚を一瞬麻痺させるほどだった。
「いい顔だぞ、女ァ……。動くなよ、ハジくぞ……」
犯人は荒い息使いで左耳元で囁き、奪った銃の冷たい銃口を加直の右側頭部に押し当てた。可哀そうな女の唯一の武器を取り上げて、その武器で女を脅し、為すすべを全て奪った後に性犯罪に及ぶ。――――『全て資料通りだ』。
身も心も硬直していた加直は、右側頭部に押し付けられたのを合図のように、体の緊張が一瞬だけ抜ける。……同時に彼女らしい論理的な思考がニューロンを通じて処理されて……実行していた。
――――『奪ったな』! 『銃口を押し付けたな』! 『【それ】で脅したな』!
犯人が「ん?」と、奪った黒いスナブノーズを見て違和感を覚える。
一秒にも満たない時間。
その一秒で、背中に密着する空の体から、加直の左胸をトレーナーの上からまさぐっている左手が止まる。
僅かな隙。
彼の違和感や不審が、彼の集中力を奪っていた。
襲撃者が右側頭部から銃口を離した。彼の狼狽が湯気が触れるようにじんわりと伝わる。
「こいつ!」
その男が叫んだと同時に、加直は素早く前方へと大きく一歩飛ぶように進む。
進みながらトレーナーを捲りあげ、可愛らしいへそも白い腹も瑞々しく若いあばらも見せながら、それらが性犯罪者に晒すと分かっていても、性的興奮を煽るかもしれないというリスクを孕んでいても、トレーナーを捲り上げ、『そこにぶら下がっていたモノ』を右手で抜き放った。
手にした銃を横に傾け、首を捻っていた、黒いブルゾンジャンパーを着た中年の男が自分が手にしていたそれがモデルガンだと気付き、顔の表情筋が「混乱と怒り」の形に歪んだ瞬間、加直は動いた。
加直の右手が、一瞬にして抜いていたのは、それこそが彼女の愛銃S&W M351c。
『そこに収まっていたのは、誰にも予測できなかった、本命の武装だった』。
加直はブラジャーのフロント部分にクリップとスナップボタンで止めたブラホルスターから、S&W M351cを抜いてピタリと伸ばした右手で保持し、それ以上襲撃者が近寄れないように銃口を彼の胸部に定めていた。彼に対して精一杯の凶相を突き刺す。加直の顔が、目が、口元が語っている。動けば撃つ、と。
勿論のこと、撃つつもりはない。
今この瞬間であっても、『自分のために彼の身を案じていた』。
撃って、彼が胸部に被弾すれば、自分はミラータッチ共感覚の激しい信号の受信でショック死するかもしれないと本気で思っていた。
選んだ銃が素人らしい思考で選んだ22口径で良かったと思う。これが日本政府指定銃砲店の店主が勧めていた通りに38スペシャル+Pであれば、確実に心臓麻痺を起こしていたと身に沁みて感じている。
襲撃者は、驚愕と怒りと焦りの微表情をノイズに乗せて吐き出しながら、モデルガンを投げ捨て、加直に再び突進しようと動いた。
「動くな! 撃つぞ!」
加直はS&W M351cの銃口を即座に下げて、彼の右脚の膝下を狙って保持し、警告した。
護身のための発砲では最初に警告ありきだ。これを怠ると裁判で不利に働く。法的な解釈では、警告後の突進は『自分の生命の危機』を意味する。
「バカ!」
加直の声こそ荒々しいが、感情を完全に切り離し、現場に即した理知的な判断として引き金を引いた。
140デジベルの銃声が暗い裏道の狭い世界を席巻する。一瞬だけマズルフラッシュで自販機の以上の明るさが発生する。
乾いた破裂音が夜の闇を引き裂く。22マグナムのソフトポイントが、犯人の右脛の肉を浅く削った。
同時に、加直の全身が犯人の激しい痛みを内臓が引き裂かれるような鮮烈な激痛としてフィードバックした。
彼女は自分の右足の脛に焼け火箸を押し付けられたような激痛を覚えて、湧き出るような頭痛と吐き気に襲われ、危うく膝をつきかける。
――――動くなよバカ!!
加直は、ミラータッチ共感覚の激痛に耐えながら、銃口を犯人に向けて保持し続けた。犯人はその場に尻餅を搗き、動けない。
マラリアに罹ったように震える全身を意志だけで抑えながら左手でスマートフォンを取り出し、然るべきアドレスを呼び出し、通話ボタンを押す。
数秒後、最寄りの警察署こと北川上署に繋がる。
「警察ですか……。発砲の通報の件で担当の方をお願いします」
おっとり刀でやってくるパトカー。その間も銃口の狙う先は、気力を失った男の頭部に固定されている。
加直が最寄りの北川上署から来た聴取担当の警官は、早々に『右脛を負傷した怪しい男』を連行し、離れた路地で待機していた救急車に乗せられた。
加直は、奪われたIBWホルスターの銃がモデルガンであった点について、厳しく追及された。
「あなたには、最初から犯人に銃を奪わせ、発砲する意図があったのではないか? そうなると、それは正当防衛ではなく、故意犯と見なされる可能性があります」
加直の脳はこの問いに冷静に分解してできるだけ理路整然と対応した。そうしなければミラータッチ共感覚の強烈な残滓で倒れそうだ。
「それは法的な解釈として、不適当じゃないですか」
加直は黒フレームの奥の疲弊した瞳を、警官に向けた。
「僕がモデルガンを持っていたのは、犯人の行動を逆手に取るためです。万が一銃を奪われてもいいための保険です。これは安全確保のための工夫であって、危害を加えるための故意や誘発ではありません」
息を注がずに一気に捲し立てる加直。早くこの聴取を終わらせたい。さもなければ自分が気を失う。
「重要なのは構成要件です。犯人はモデルガンを奪い、それを本物として僕の頭に銃口を突きつけ僕の生命を脅かしました。彼のこの行為が、既に不法な侵害であり、僕の護身の行動を惹起しました」
更に畳みかける。
「僕は、彼がモデルガンであることに気づき、再び襲いかかってきた瞬間に発砲しました。これは切迫した侵害に対する反撃です。同意していない僕に勝手に接触した時点で、僕の安全は失われたのです。僕の発砲は緊急避難であり、必要性と相当性を欠いていません」
警官は加直の口調こそは感情的になっているが、言葉自体は理路整然としている論理と予想以上に法学の知識が有ることに、苦そうに口を閉ざしていた。……だが、そんな聴取担当の中年の警官は書き込んでいたクリップボードに書類を閉じた途端に相好を崩した。
「『みなし』の方ですね。……失礼しました。『上の方』から話は聞いております。囮役を引き受けられた方ですね。これは、発砲した際の形式上の聴取なのでご安心ください」
それを聞いた瞬間、加直の体を圧し潰さんばかりの疲労感が濡れた冬布団のように彼女の全身を覆い尽くした。安心感のあまり、口から魂が抜け出ていたのかもしれない。
これまでのすべての緊張、ミラータッチ共感覚の痛み、そして聴取する警官を前に必死の展開による自己防衛が、解放されたことにより気が抜けた。自分の体重ですら重い。この肉体を今すぐ脱ぎたい。
「それはそれは……お疲れさまでした」
会釈のような軽い敬礼をして踵を返す警官に、加直はか細い声で、そう答えた。
※ ※ ※
昨今、犯罪発生件数は指数関数的に右肩上がりである。
警察官の数は絶対数的に不足し、公的機関の機能不全は明らか。加直のようなか弱い一般市民が自分の命を守るためには、法的に許可された範囲で武装するしかない。
だが、コンシールドキャリー許可証を取得すると、自己防衛の手段を得る代わりに、犯人の標的となり、今回の加直ように都合のいい人員不足の穴埋めとなることを、半ば強要される。
全てのコンシールド許可証が限定的なみなし公務員として『協力を求められている』とは思わない。加直も噂話程度で知っている『みなし公務員』の当事者になるとは思わなかった。(発砲は発砲なので裁判所から正当防衛成立の封筒が届くまで一週間の間、警官が自宅付近を警邏して警護してくれる)
これが、コンシールド許可証を持つ市民が抱える幾つかあるジレンマの一つだ。
偶々、加直はブラホルスターという一工夫を思い付いたので間一髪だったものの、今回のような法的に疑問の残る欺瞞を使わなければ、理不尽な暴力に屈してしまう。実は生存性バイアスが働き、みなし公務員を全うした人だけの話を聞いているだけで、その陰にはみなし公務員が全うできずに『消えた』人もいるのではないか?
この国の役人の失政失策が国民を、この大犯罪時代に放り込んだ謗りは避けられない。
【辺金物屋】休憩スペースにて。
加直は熱いコーヒーを淹れ直した。
カップを両手で包み、湯気を見つめる。
「……それでも僕は」
――――銃が手放せないんだ。
加直は静かにコーヒーを啜った。
その苦味は、今回の臨時の仕事の代償と、理不尽な社会への皮肉を込めて、彼女の脳を静かに満たした。
ミラータッチ共感覚のノイズは今、深く穏やかだ。
≪♯005・了≫
加直は、【辺金物屋】の休憩スペースで、熱を失ったコーヒーを飲んでいた。
冷たくなり始めたカップを両手で包み、香しい水面に映る、黒フレーム眼鏡の陰鬱な顔を翳る目で見る。
※ ※ ※
一昨日、最寄りの警察署である北川上署の捜査一課から呼び出しを受けた。
コンシールド許可証についての様々な不安に心が散々掻きまわされ、たった数時間で体重が2kgは減ったはずだ。
そもそも警察署は好きではない。加直のミラータッチ共感覚が様々な感情を痛覚に置き換えて遠慮なく体内に注がれてくる。接触していないのに針の筵に巻かれているような感覚になるのだ。
態々捜査一課に呼び出されたのに、担当者の名前を出すと、空いている会議室まで隔離されるように連れてこられて、目の前の――西ローランドゴリラよりは人間に近い顔をした刑事――に愕然と、呆然と、憤然とする内容の文言と依頼を聞かされる。
要約すると、コンシールド許可証の件について、当たらずしも遠からずと言ったところだ。
『近隣で続発する連続強姦犯の捜査について、期間限定のみなし公務員として、囮捜査に協力してほしい』という依頼だった。
これには流石に面を喰らってしまった。空かさず、
「僕じゃ駄目ですよ!」
加直は殆ど脊髄反射的に、彼女にしては珍しく声を荒げて断った。
顔を赤くして反対する加直に対し、彼女の声を無視するように話を進める刑事。
彼が提示した理由と条件は、彼女が地域でも数少ない女性コンシールドキャリー許可証保持者であり、犯人の犯行パターンから見て、『あなたのような容姿の若い女性が一番狙われている』というものだった。
「僕には家の仕事があります! それに僕が危険な囮捜査に協力する正当な理由がありません! 僕は公権力の行使を助けるために許可証を取得したわけじゃない! 護身のためです!」
加直は全力で抗議した。
しかし、刑事の顔は全く涼しい顔で、加直の皮膚に流れ込むミラータッチ共感覚は微塵もノイズを拾わなかった。……つまり、これは決定事項で、元からお前に拒否権は無いという態度の表れでもあった。加直のノンバーバルを読み解く能力を以てしても、刑事のどこか尊大な態度はそれを証明していた。『俺は上でお前は下』。それを全身で語っている。
確かに、地域の女性たちが感じる、連続的な恐怖と未来への不確実性が織りなす集合的な恐怖のざらつきは、道を歩いていても加直の感性が受信してしまう。
この認知負荷はあまりに重く、加直の日常の思考回路を緩やかに侵食し始めていた。この犯人が捕まらない限り、加直のミラータッチ共感覚は常に過覚醒状態を強いられ、認知機能の維持を妨げる。
――――公務員からすれば、たかが個人の不快感かもしれない。
――――でも……僕の生活には無視できない要因だ。
――――さて、どうやって断ろうか……。
加直の脳は計算を始めた。
警察の非効率な捜査を待つ間の長期的なストレスと、短期的な危険な計画による一撃必殺のストレス除去。論理的には費用対効果は、明らかに後者が優位だった。が、前者に期待したい。
加直が刑事に対して断りの名案を思い付いて顔が明るくなった時だ。
テーブルを挟んで座る目の前のゴリラよりマシな顔の刑事はこう言った。
「辺さん。『よく眠れていない』んですか? 何か『悩み事』ですか? 『精神が参るほどの』」
それを聞いた途端に加直は風船が萎むように肩を落として小さくなった。
「わかったよ、やればいいんだろ……」
――――こいつ! 『知っているな!』
加直が大量の市販の睡眠薬を購入して常用していることを。
直ぐに心当たりが頭に浮かんだ。
先日、【辺金物屋】を襲撃したチンピラの上層組織を壊滅させる『手掛かりになる匿名の情報』を封筒でタレ込んだ。
社会正義が執行されたので、それ以上の追跡や解析はされないだろうと胡坐を書いていたが、僅かに残っていた懸念が的中したのだ。
【もしかすると使える情報源だと見なして、追跡をしなかったのかもしれない】
甘かった。警察は既に追跡を終えていた。更に、都合よく使える駒であると認識されていた。
加直は下唇を噛んで顔だけで抗議したが、目の前の刑事は全く表情は変えないでいる。最初から逃げ道は封じてあるという自信の表れだ。ここで抗議の声を大きくすれば、睡眠薬から辿られて加直のミラータッチ共感覚を端に発するトラウマや、現況の精神的限界が知られてしまう。否、知っているだろう。
そしてそれを名目にコンシールド許可証を剥奪するつもりだ。……その加直には銃を手放せない理由がある。即ち、コンシールド許可証を法的に剥奪できる人質にされている。
加直は何手も先に敗北する将棋盤を見詰めるような顔でうなだれ、「分かりました」と魂を吸い取られた声で返答した。
今更、警察の横暴だ、権力の不当な行使だと騒ぐ気になれなかった。……騒げばミラータッチ共感覚が悪化する上に、益々コンシールド許可証を剥奪される口実を与えてしまう。
元から加直に断る理由を用意させなかった。何より、『不必要な闘争を避けるための闘争』は自分の心の中でコンフリクトを生まない性分も見抜かれていた。
こうして、公僕の犬として従う羽目になる。
期間限定とはいえ、個人の権利を権力によって人質にされ、命を懸けさせられた理不尽だけは納得がいかない。飲めない理由を飲み込むのも処世術だと自分を宥めて自己矛盾を防ぐ。
今後も都合よく使われまいとするための次善策として、みなし公務員としての報酬は正当に受け取る上に、全ての手順を僕の指示に従うという条件を付けた。更に表向きには警察側の作戦だと表明してくれと頼む。こうすれば自分の命の行く末を問わずに個人情報がメディアに露出する確率を下げる事ができるはずだ。
※ ※ ※
午後五時二十分。
加直は、鏡の前で『武装』を完成させた。
ゆったりとした紺色のトレーナーを着る。右腹のIBWホルスターには、黒く重々しいスナブノーズを差し、トレーナーの裾で覆い隠す。
「……」
右腹部のホルスターの位置を手で押さえながら片眉を下げて眉間に皺を寄せる。不安で押し潰されそうな自分を、なだめる言葉や名案は結局、出てこなかった。
警察──捜査一課──から犯人のプロファイルの上澄みだけが抜粋されて記されたコピー用紙を、着替えをしていた自室のデスクの上から取り上げて何度も目を通す。
『自分の手順に従え』という条件を飲ませた以上は囮役を貫徹したい。……冷静に考えれば引き換え条件に相当する加直の言葉も警察からすればすでに織り込み済みで、わざと加直に一貫性の法則を誘発させるために、警察側は『論理の隙』を作って誘っていたのではないか? と疑う。
それは今更疑っても何も変わらない。疑えばこの世の全てが疑わしくなる。そこまでリソースを割くのは合理的ではない。彼女の認知資源は常に低い状態なのだ。
この囮役を行う上で条件を交わしたその中の一文。それは……『許可してもらった行動を取らなければ自分が危うい』。
加直は、鏡を見つめる自分の表情に、翳りのある優越感を覚えた。
加直の脳内で展開される計画が、資料に記された犯人の犯行パターンを完全に逆手に取る。実のところ、加直にとっては犯行パターンを一切変えない人間──犯罪者含める──というのは大した脅威ではない。
左手首の重々しいクロノグラフに視線を落とした。時刻を確認する。五時二十五分。決行まであと六時間。今が見まごう事無く、午後であることをクロノグラフの二十四時間計が報せていた。
彼女の今回の行動は、法的な正当性を必要とする。
囮を使い、発砲を誘う可能性が高い行為は、正当防衛の限界を越え、故意犯と見なされる可能性がある。
────兎に角、自分の命が第一だ。人を撃つのが目的じゃあないんだ。
────『その証明が必要だ』。
警察の提示した作戦概要と自分の進言で修正した計画を成功させるためには、犯人には銃を奪ってもらわないと困る。
そして、それで以て加直を恫喝してもらわないと、脅迫を行ったという事実が『出来上がらない』。……それが決定的な証拠となる。
警察の絶対数的な人員不足でここ数年で捜査方法がかなり改められた。
そのうちの一つが囮捜査。
そのうちの一つが見なし公務員の法的拡大解釈。
近年の犯罪件数の増加に対処しきれなくなった挙げ句、民間人に護身用拳銃を所持させることを可能とする法案が通ったのを鑑みても、それは危機的状況であることは簡単に汲み取れる。治安を守る砦たる警察機構が、自分の身は自分で守ってくれと言外に訴えている。
警察内部の犯罪的汚染────汚職、横流し、横領、もみ消し等────も警察の不人気不評に拍車をかける一因となっている『一因』だ。
理由は複合的多層的に広がり、決定的に何が原因で警察が凋落し、治安が水際を超えてしまい、国益に影響が出ているのかを解析するのは非常に難しい。
尤も、加直にできることは平穏無事に生涯を閉じることを目指すのが最大の目標なので、このような見なし公務員で囮役というのは彼女の心の中でコンフリクトが発生して当たり前なのだ。
誰もが今の時代を生きるので精一杯だ。
午後十一時五十分。
【辺金物屋】のある【室中センター第二商店街】から離れた路地裏に面する表通りの裏道。人通りはほぼゼロ。ここは【室中センター第一商店街】の路地裏。
駅前で繁盛している【室中センター第一商店街】。
隣の自治体との境目にあり競合相手が居ないのでそこそこ繁盛している【室中センター第三商店街】。
そして、【辺金物屋】がある、駅からも国道からも離れており人口密度が薄い地区にあるので自ずと売上が芳しくない【室中センター第二商店街】。
加直は【室中センター第一商店街】と沿うように伸びる路地裏を歩いている。この路地裏は商店街と裏道の間に挟まれている形で敷かれており、路地裏から裏道へと出ると、火が消えたように静かになり、街灯の数も少なくなる。
増え始めた野良犬がうろつく道でもある。保健所の害獣駆除を担当する部署は、数年前から被害と目撃が頻発する郊外の大型害獣の駆除に躍起になっており、野良犬対策に割く人員も予算も少なくなっている。どこの店でも野良犬を追い払うペッパースプレーはいつも在庫が少ない。山間部では肉食害獣や大型害獣対策用にもっと強力でもっと大容量のスプレーが飛ぶように売れてこれまた品薄状態だ。
生活を脅かす存在は犯罪者だけではない。山野に住む、ただの野生の動物が『未確認の感染症』に感染している可能性があるという発表があってから社会問題と化した。
加直は、指定されたエリア――外灯の明かりが乏しく、割れ窓理論を証明するかのように落書きで埋め尽くされた建物の壁、不法投棄されたゴミ、遠巻きにこちらを見ている野良犬、黴臭く、呼吸の度に心肺機能が得体の知れない何かに冒されているような不快な空気の中――をやや早めの、自然体の歩幅と速度で、歩く。
時折、腕時計のクロノグラフを見て、帰路を少し急いでいる『この道を通るのが怖い、か弱い女』を演じる。
彼女の首筋には既に、闇の向こうに潜む『存在』の意図が小さな粒のようなノイズとなって流入し始める。獲物を狙う狩人の熱とそれを遂行できないことへの鬱屈が混じった、極めて不快なノイズだ。......明らかな恐怖。そして抑えつけられない興奮。
加直の経験上、社会の規範から外れる事を目論んでいる人間特有のノイズだ。これには『理由は問わない』。止むにやまれぬ事情が有ろうと、悪意の有無がどうであろうと、自分が社会のレールから反れた規範的でないことを実行しようとする人間に共通した緊張感だ。
如何な理由であろうと、ルールを破る。
裏返せば、加直が今までに遭ってきた犯罪者は全て、幼少の頃からつい最近まで、教え込まれてきた社会規範を守ろうと苦労していた、或いは守り続けていた『真面目な人間』ばかりだった。誰も進んで犯罪者になりたくない。
それでも犯罪者にならねばならない理由は……今となっては格差社会の一言だけでは説明がつかないほど複雑で多面的だ。従来の犯罪機会論に加えて様々な社会環境が『犯罪者と言う一人の化け物を作り上げる』。その『化け物』が大量に生まれる土壌ができてしまったのが、今現在ともいえる。
歩きながら、加直は無意識にトレーナーの上から左手で右腹辺りに差し込んだIWBホルスターの位置に触れる。……かのように見せる。
――――ターゲットは僕を確認したはずだ。
――――僕が右腹に何か仕込んでいると『知った』はずだ。
この仕草こそが、犯人の警戒心を一層強くして、最も慣れた方法で襲撃させるための戦略的なミスリードである。人間は確実性を求めるために自分が得意とする方法を必ず選択する心理が働き易い。
加直は、不快なノイズの質が僅かに変化したことに恐怖を抱く。
――――落ち着け! この不快はターゲットの感情を受信しているからだ。僕の心の異常ではない。体には何の異常も無い!
様々な文言を心の中で並べて、防衛機制として処理しようと努めていた。この恐怖は、警戒を怠らないための重要な信号だと言い聞かせる。しかしミラータッチ共感覚が伝える外界のざらつきは限界を超え、軽い頭痛と吐き気を催し始めた。
捜査一課の担当刑事より渡された作戦概要に記されたエリアの中心に差し掛かる手前で、加直は立ち止まった。
腕時計のクロノグラフは、目標地点まで残り三分であることを示している。
自動販売機の煌々とした灯りを見つけた。
――――……『確認』、するか。
自動販売機に近づきながら、さり気なくIWBホルスターに、もう一度、触れた。『ここに、何かある』というメッセージの発信を『無意識に行っている』演技だ。……その信号を闇へ向けて発する。
自動販売機に近づいたのは、彼女の姿が誰からも確認しやすいようにするため。
加直が再び歩き出した。裏道を抜けようと――このまま進めば人通りがやや多い道に出る――爪先を向けて数歩歩いた瞬間。
背後から熱い息使いと、大きな獣のような突進が背中を叩く。
犯人は、まさに加直の予測通り、背後から『何かある場所』……IWBホルスターに狙いを定めた。
襲撃者は加直を背後から抱きしめた!
直後に彼の体温が伝わるかのように、加直の背中にノイズの濁流が注ぎ込まれる。背筋に『生暖かい虫の塊』を貼り付けられたかのような不快を覚え、体が生理的に硬直してしまう。
加直の驚きの硬直……襲撃者にとって、獲物が必ず見せる思考が停止して、一瞬で恐怖に飲み込まれた反応だと分かっていた。その反応が確認されたのなら、もうこっちのものだ。襲撃者の口元が邪悪な笑顔を作る。
すぐさま加直のトレーナーの腹の辺りに手を差し込み、ホルスターに収まっていたスナブノーズを掴み、一瞬で銃を引き抜いた。
加直になすすべもなかった。
『こうなると分かっていても、直面する恐怖には彼女は何の抵抗もできなかった』。
加直のミラータッチ共感覚は、犯人の脳内に湧き上がった『絶対的な勝利の快感』を、感覚のざらつきとして受け取り、彼女の神経に叩き付けるかのような恐怖を、止めのように刺す。
その言語的処理が難しい不快感は強烈で、加直の全身の感覚を一瞬麻痺させるほどだった。
「いい顔だぞ、女ァ……。動くなよ、ハジくぞ……」
犯人は荒い息使いで左耳元で囁き、奪った銃の冷たい銃口を加直の右側頭部に押し当てた。可哀そうな女の唯一の武器を取り上げて、その武器で女を脅し、為すすべを全て奪った後に性犯罪に及ぶ。――――『全て資料通りだ』。
身も心も硬直していた加直は、右側頭部に押し付けられたのを合図のように、体の緊張が一瞬だけ抜ける。……同時に彼女らしい論理的な思考がニューロンを通じて処理されて……実行していた。
――――『奪ったな』! 『銃口を押し付けたな』! 『【それ】で脅したな』!
犯人が「ん?」と、奪った黒いスナブノーズを見て違和感を覚える。
一秒にも満たない時間。
その一秒で、背中に密着する空の体から、加直の左胸をトレーナーの上からまさぐっている左手が止まる。
僅かな隙。
彼の違和感や不審が、彼の集中力を奪っていた。
襲撃者が右側頭部から銃口を離した。彼の狼狽が湯気が触れるようにじんわりと伝わる。
「こいつ!」
その男が叫んだと同時に、加直は素早く前方へと大きく一歩飛ぶように進む。
進みながらトレーナーを捲りあげ、可愛らしいへそも白い腹も瑞々しく若いあばらも見せながら、それらが性犯罪者に晒すと分かっていても、性的興奮を煽るかもしれないというリスクを孕んでいても、トレーナーを捲り上げ、『そこにぶら下がっていたモノ』を右手で抜き放った。
手にした銃を横に傾け、首を捻っていた、黒いブルゾンジャンパーを着た中年の男が自分が手にしていたそれがモデルガンだと気付き、顔の表情筋が「混乱と怒り」の形に歪んだ瞬間、加直は動いた。
加直の右手が、一瞬にして抜いていたのは、それこそが彼女の愛銃S&W M351c。
『そこに収まっていたのは、誰にも予測できなかった、本命の武装だった』。
加直はブラジャーのフロント部分にクリップとスナップボタンで止めたブラホルスターから、S&W M351cを抜いてピタリと伸ばした右手で保持し、それ以上襲撃者が近寄れないように銃口を彼の胸部に定めていた。彼に対して精一杯の凶相を突き刺す。加直の顔が、目が、口元が語っている。動けば撃つ、と。
勿論のこと、撃つつもりはない。
今この瞬間であっても、『自分のために彼の身を案じていた』。
撃って、彼が胸部に被弾すれば、自分はミラータッチ共感覚の激しい信号の受信でショック死するかもしれないと本気で思っていた。
選んだ銃が素人らしい思考で選んだ22口径で良かったと思う。これが日本政府指定銃砲店の店主が勧めていた通りに38スペシャル+Pであれば、確実に心臓麻痺を起こしていたと身に沁みて感じている。
襲撃者は、驚愕と怒りと焦りの微表情をノイズに乗せて吐き出しながら、モデルガンを投げ捨て、加直に再び突進しようと動いた。
「動くな! 撃つぞ!」
加直はS&W M351cの銃口を即座に下げて、彼の右脚の膝下を狙って保持し、警告した。
護身のための発砲では最初に警告ありきだ。これを怠ると裁判で不利に働く。法的な解釈では、警告後の突進は『自分の生命の危機』を意味する。
「バカ!」
加直の声こそ荒々しいが、感情を完全に切り離し、現場に即した理知的な判断として引き金を引いた。
140デジベルの銃声が暗い裏道の狭い世界を席巻する。一瞬だけマズルフラッシュで自販機の以上の明るさが発生する。
乾いた破裂音が夜の闇を引き裂く。22マグナムのソフトポイントが、犯人の右脛の肉を浅く削った。
同時に、加直の全身が犯人の激しい痛みを内臓が引き裂かれるような鮮烈な激痛としてフィードバックした。
彼女は自分の右足の脛に焼け火箸を押し付けられたような激痛を覚えて、湧き出るような頭痛と吐き気に襲われ、危うく膝をつきかける。
――――動くなよバカ!!
加直は、ミラータッチ共感覚の激痛に耐えながら、銃口を犯人に向けて保持し続けた。犯人はその場に尻餅を搗き、動けない。
マラリアに罹ったように震える全身を意志だけで抑えながら左手でスマートフォンを取り出し、然るべきアドレスを呼び出し、通話ボタンを押す。
数秒後、最寄りの警察署こと北川上署に繋がる。
「警察ですか……。発砲の通報の件で担当の方をお願いします」
おっとり刀でやってくるパトカー。その間も銃口の狙う先は、気力を失った男の頭部に固定されている。
加直が最寄りの北川上署から来た聴取担当の警官は、早々に『右脛を負傷した怪しい男』を連行し、離れた路地で待機していた救急車に乗せられた。
加直は、奪われたIBWホルスターの銃がモデルガンであった点について、厳しく追及された。
「あなたには、最初から犯人に銃を奪わせ、発砲する意図があったのではないか? そうなると、それは正当防衛ではなく、故意犯と見なされる可能性があります」
加直の脳はこの問いに冷静に分解してできるだけ理路整然と対応した。そうしなければミラータッチ共感覚の強烈な残滓で倒れそうだ。
「それは法的な解釈として、不適当じゃないですか」
加直は黒フレームの奥の疲弊した瞳を、警官に向けた。
「僕がモデルガンを持っていたのは、犯人の行動を逆手に取るためです。万が一銃を奪われてもいいための保険です。これは安全確保のための工夫であって、危害を加えるための故意や誘発ではありません」
息を注がずに一気に捲し立てる加直。早くこの聴取を終わらせたい。さもなければ自分が気を失う。
「重要なのは構成要件です。犯人はモデルガンを奪い、それを本物として僕の頭に銃口を突きつけ僕の生命を脅かしました。彼のこの行為が、既に不法な侵害であり、僕の護身の行動を惹起しました」
更に畳みかける。
「僕は、彼がモデルガンであることに気づき、再び襲いかかってきた瞬間に発砲しました。これは切迫した侵害に対する反撃です。同意していない僕に勝手に接触した時点で、僕の安全は失われたのです。僕の発砲は緊急避難であり、必要性と相当性を欠いていません」
警官は加直の口調こそは感情的になっているが、言葉自体は理路整然としている論理と予想以上に法学の知識が有ることに、苦そうに口を閉ざしていた。……だが、そんな聴取担当の中年の警官は書き込んでいたクリップボードに書類を閉じた途端に相好を崩した。
「『みなし』の方ですね。……失礼しました。『上の方』から話は聞いております。囮役を引き受けられた方ですね。これは、発砲した際の形式上の聴取なのでご安心ください」
それを聞いた瞬間、加直の体を圧し潰さんばかりの疲労感が濡れた冬布団のように彼女の全身を覆い尽くした。安心感のあまり、口から魂が抜け出ていたのかもしれない。
これまでのすべての緊張、ミラータッチ共感覚の痛み、そして聴取する警官を前に必死の展開による自己防衛が、解放されたことにより気が抜けた。自分の体重ですら重い。この肉体を今すぐ脱ぎたい。
「それはそれは……お疲れさまでした」
会釈のような軽い敬礼をして踵を返す警官に、加直はか細い声で、そう答えた。
※ ※ ※
昨今、犯罪発生件数は指数関数的に右肩上がりである。
警察官の数は絶対数的に不足し、公的機関の機能不全は明らか。加直のようなか弱い一般市民が自分の命を守るためには、法的に許可された範囲で武装するしかない。
だが、コンシールドキャリー許可証を取得すると、自己防衛の手段を得る代わりに、犯人の標的となり、今回の加直ように都合のいい人員不足の穴埋めとなることを、半ば強要される。
全てのコンシールド許可証が限定的なみなし公務員として『協力を求められている』とは思わない。加直も噂話程度で知っている『みなし公務員』の当事者になるとは思わなかった。(発砲は発砲なので裁判所から正当防衛成立の封筒が届くまで一週間の間、警官が自宅付近を警邏して警護してくれる)
これが、コンシールド許可証を持つ市民が抱える幾つかあるジレンマの一つだ。
偶々、加直はブラホルスターという一工夫を思い付いたので間一髪だったものの、今回のような法的に疑問の残る欺瞞を使わなければ、理不尽な暴力に屈してしまう。実は生存性バイアスが働き、みなし公務員を全うした人だけの話を聞いているだけで、その陰にはみなし公務員が全うできずに『消えた』人もいるのではないか?
この国の役人の失政失策が国民を、この大犯罪時代に放り込んだ謗りは避けられない。
【辺金物屋】休憩スペースにて。
加直は熱いコーヒーを淹れ直した。
カップを両手で包み、湯気を見つめる。
「……それでも僕は」
――――銃が手放せないんだ。
加直は静かにコーヒーを啜った。
その苦味は、今回の臨時の仕事の代償と、理不尽な社会への皮肉を込めて、彼女の脳を静かに満たした。
ミラータッチ共感覚のノイズは今、深く穏やかだ。
≪♯005・了≫
