掌編【辺加直の鏡像】
「鍵、ワイヤー、そして錠前。これらは境界線じゃない。これからの原則の延長線だ」
加直は帳場の隅で、冷めたコーヒーを啜りながら、店舗の休憩スペースで、テーブルの上のノートに書きつけた。
彼女の背後……真鍮の蝶番やステンレスのボルトが詰まった古い棚が、薄暗い電灯の下で何も言わずに静かに光っている。
彼女のその文字には、沈着な分析的思考とは裏腹に、ある種の焦燥感が滲んでいた。
なし崩し的に金物屋の店主代理となった25歳の彼女を追い詰めているのは、入院している父の容態だけではない。
この古い商店街の再開発を巡る、背後に暴力団が控える開発業者の圧力。
連中は巧妙だった。
決して法を破らない。その上、確実に加直の精神を削る嫌がらせを仕掛けてきた。鍵穴への接着剤注入、緩められた丁番、無言電話などなど。古典的で地味だが今でも通用する手法だ。
加直が持つS&W M351cは、法律という厳格な制限が課せられて無力だ。発砲が許されるのは、生命の危機が確定した瞬間のみ。
更に、彼女の能力であるミラータッチ共感覚も、この状況では有用ではない。この共感覚は他者の身体的な苦痛を疑似的に共有するが、この種の精神的な嫌がらせには何の『痛み』も共感できない。つまり『苦痛の予兆』を知る事さえ叶わない。
加直に残された手段とリソースは、彼女の頭脳と、金物屋の知識だけだった。
連中は、加直が『動けない』ことを知っている。法の制約を計算し尽くしている。
溜息を吐くと、冷たい精気の宿る目でコーヒーのマグカップに視線を落とした。
────考え方を変えたほうがいいな……。
ノートに修正を加えながら脳内で思考の軸を変更する。
暴力には知識で対抗し、連中のロジックで弾き出される計算を破綻させるのが最適だと判断していた。
ノートにさらにボールペンを走らせると、加直は立ち上がった。
祖父の恵悟から譲り受けた水色のブルゾン型の作業服のポケットに、スケールとシャープペンシルを滑り込ませる。
彼女の動きには迷いがない。
脳内には、既に完璧な防御と心理的攻撃の設計図が、CADデータのように展開されていた。
先程まで加直が書いていたノートの最初の方には、『今回の一件』の構造的な急所と【辺金物屋】の価値と時系列順の分析が書かれていた。
【辺金物屋】が、この再開発計画において、何故ピンポイントで狙われているのか? ……単に地権者の父とその長女の加直が退去を拒否しているからではない。
この商店街区画全体を買い占め、高層ビルを建てる計画に於いて、【辺金物屋】の敷地は都市計画上、避けられないボトルネックを形成していた。
【辺金物屋】は敷地自体は小さいものの、両隣の倉庫、その裏の路地を含めた登記上の権利が、『敷地全体を縦断する主要な公道への唯一のアクセスルート』――いわゆる地役権――に面していたのだ。
加直の脳内で、開発計画の図面が展開される。
────この土地は開発予定地の北東角に位置してる。この角が全区画の上下水道、電気、ガスの幹線への接続点でオマケに大型建築機材を搬入するための唯一の公道との接点になってる。
────この店が立ち退かなければ連中は計画全体を大幅に縮小するか、違法なインフラ接続に頼るか、膨大な迂回費用を払うしかない。つまりこの店は『法的に最も費用対効果が高い』。
【辺金物屋】の退去が遅れれば遅れるほど開発業者が被る遅延損害金は跳ね上がる。だからこそ、連中の嫌がらせは逮捕のリスクを冒さずに、いかに迅速に辺家の精神を摩耗させるか? という一点に集中している。
加直のアプローチはこの急所──【辺金物屋】──を防御することで、相手の費用対効果から算出される数値を破綻させることを目指した。
ノートの次のページには時系列分析に続き、投入されるであろう具体的な人員予測による最適解の導出が殴り書きされていた。
加直は店の古い帳簿と父が残した地元建設業界の動向に関するメモと地域の警察のパトロール記録を照合し、実際に襲撃されるならば「最適な時間」と「最適な人数」をある程度まで導き出していた。
────開発業者の契約書には、来月1日から基礎工事開始の遅延一日につき、莫大な違約金が発生する条項がある。連中に残された『手段』による最終通告の猶予は、本日を含む三日間だろうなぁ……。
今日は27日。
彼らが最も追い詰められ、感情的ヒューリスティックに陥り易いのは、猶予の終わりに近い『本日』の深夜だと逆算できた。
加直は、襲撃の中心点を住民の通行が途絶え、警察のパトロールが緩慢になり始める深夜帯の午後十一時四十五分辺りだと大方の目安を定めた。
次に彼女の脳内では、襲撃側の費用対効果に基づいた「最適人数2名」の予測が確定していた。
根拠の第一に、目的の最小要件と役割分担──効率性──だ。目的は物理的な損壊と心理的威圧であり、加直との直接戦闘ではない。
このタスク達成に必要な最小限の役割は、破壊工作の『実行役』と逃走経路の確保や工具の受け渡しを行う『監視・補助役』の二つで十分だった。
根拠の第二に、コストとリスクのトレードオフだ。人員を増やす事はコストを直線的に増加させるだけでなく、リスクを指数関数的に増大させる。
三人目からは、逃走時の目撃情報や逮捕された際に共犯として立件されるリスクが急増する。特に加直がコンシールド許可証を持っているという情報は当然相手も知っている前提がある以上、組織は不測の事態──発砲事件──が起きた際の連帯責任を最小限に抑えたい。
合理的な組織であればこの種の市民に対する『見せしめ』行為に三人以上を投入し、リスク対成果の比率を悪化させることはしない。
根拠の第三に、法的証拠の希薄化と匿名性。少人数であれば警察に発見されても『単独の器物損壊』として処理される可能性が高いが、人数が増えれば自動的に組織的威力業務妨害として捜査の優先度が上がる。
最適人数は二名。この投入できる最大にして最小の数こそが、『連中の脆弱な構造』を示す。
相手の法的制約や心理を念頭に、加直は襲撃チームの構成を『最適人数二名』と確信していた。
※ ※ ※
加直が店舗兼住宅を要塞化に着手する際、祖父恵悟は一度も口出しをしなかった。
元来、頑固で保守的な商売人である恵悟が、なぜ、二十代の孫娘に店の命運を託したのか。
恵悟が加直に示した信頼は、恵悟自身の人生の経験から来るものだった。
加直が金物屋に戻ってきてからの三年間で、彼女の頭脳は既に証明されていた。
父が凶行の負傷に倒れ、店が休業状態に陥った際、加直はまず金物屋の財政状況を立て直した。
彼女は古い帳簿をデジタル化し、商品の売れ行きや季節変動を統計的に分析した。
彼女の分析は市場の変動と在庫のリスクを完璧に読み解いた。それらの読み解き方や計算の仕方は……教えてはいない。どこで覚えたのかも知らない。それ以前に恵悟の知らぬ技術だ。
「この棚の南京錠は、仕入れ値に対して回転率が低すぎるねー。これは在庫の出血だよ。代わりにディンプルキーのシリンダーを強化して世間様のニーズに応えよう。……先ずは最適発注量を計算しないと」
彼女は感覚と経験で成り立っていた金物屋の経営状況を、統計や経済学的なデータに基づいた効率的なシステムへと変貌させた。店の赤字は止まり、利益率は開店以来の過去最高を記録した。(ここで赤字で倒産していたのなら得体の知れない組織に狙われる事も無かったのだろうが……)
恵悟は、加直の経営手腕を見て彼女の能力が、銃や妙な体質──ミラータッチ共感覚──といった特異なものだけに留まらない、本質的な問題解決の能力であると見抜いていた。
恵悟は加直の真の武器が、問題の構造を把握し、それを最小のリソースで解決する頭脳だと理解していた。
恵悟から見て、孫を可愛がるばかりにハロー効果を抱いていたわけではない。
彼女の特異な能力に惑わされたのではなく、彼女が実践した体系的な合理性に信頼を置いていたのだ。
「この子はこの世の暴力の本質が『切った張った』ではなく、相手の『勘定の番狂わせ』にあると知っている。ゲンコツが防げねぇのなら、相手にゲンコツが振るえない算盤間違いを起こさせればいい。それが、この子の……なんだ、原則? ってやつか!?」
だからこそ恵悟はただ黙って、自分の休憩スペースが鋼鉄のボルトで要塞化されるのを見届け、二階部分へと階段を登り、耳栓をして待つことを選んだ。
加直の勝負への信頼であり、同時に、加直に全てを任せるある種のネグレクトだった。
※ ※ ※
ノートの次のページには『要塞化とリスク計算』『リソースの把握と活用』と書かれていた。
加直は在庫の山に分け入り、何度も店舗部分と隣の敷地に借りた倉庫部分を何度も往復した。裏手口近辺から罠を張り巡らせる。
常夜灯の下。薄暗い棚が並ぶ中、彼女の迎撃体勢は侵入者の人数という『変数の変化』に応じ、その目標と行動原則を瞬時に切り替えるよう、レジリエンスが高い設計がなされていた。
裏の勝手口の古い鍵を外し、最新のディンプルキー・シリンダー錠へ交換する。ドアノブの真上に、シリンダーがあっても手応えはあるがノブと連動しない、空回りするダミーの錠前を取り付けた。それを『見え難い部分や隠した部分に合計三個』。
────侵入するなら最初に、簡単そうに見える錠前を標的とするだろうなぁ。
ドアノブ如きで無駄な時間と労力を消費させる。これは心理学でいう『非合理な固執』を引き起こすための罠だ。
次に路地。加直は塗装ローラーで透明な特殊シリコン樹脂を薄く塗布した。この目に見えない樹脂は、侵入者の靴底のパターンを微細な凹みとして確実に記録する。
────電子機器による監視は電源が切られたり、法的な議論の余地が生じる可能性があるからねー。
この樹脂が残す『非接触型の確固たる物理的証拠』は法廷での立証を可能にする。後ろ暗い人間は証拠を残す行為を最も嫌う。
窓の内側には強力な粘着力を持つ強化プラスチック製防犯フィルムを貼った。裏手口の路地の足元には細く強靭なステンレス製ワイヤー線を、地上高五cmから五十cmの高さに複数箇所、張り巡らせた。ピアノ線は、軒下に設置された真鍮製の釣り鐘型ベルやパーティー用クラッカー、大音量防犯ブザーのピンに繋がっている。
一番の肝は『このワイヤーは目を凝らせば簡単に見つけられて、簡単に無力化できること』だ。簡単に無力化できるワイヤーが不規則な位置と高さに張り巡らされているだけで人間の思考と集中力は分散させられ判断力を削られる。
そして最終防衛線。
帳場横の休憩スペースの出入口を鋼鉄製ボルトと接着剤で完全に要塞化した。連中は確実に裏手口から侵入するが、バカな飼い犬は絶対に吠えない。店舗部分レジ前と奥……6畳座敷の休憩スペースの中程の床に太く赤いテープで赤線を引いた。
この線を超えた者は加直の思考の『正当な構造に含まれてしまう』。即ち……警告の後、発砲する。
生命の危機が成立し、コンシールド許可証の権利を行使するラインがその赤線だ。
ノートの欄外に、『人数別の行動』と書かれていた。
彼女の脳内には、三つの前提が確立されていた。
前提A。二名の場合。……最適人数の場合。
この目標は連続的な遅延と心理的負荷により、侵入者を『費用対効果の悪化』で自発的に撤退させること。罠の全ての部品がこの目標のために連携する。発生確率は90%以上と見込む。
前提B。3名の場合。......想定外の人数の場合。
この目標は撤退目標は変わらないが、証拠確保と法的な打撃の最大化を最優先にする。三人分の証拠樹脂による足跡を確保し、集団的住居侵入未遂として、組織が負う法的な打撃を決定的に超えさせる。
前提C。10名以上の場合。…… 圧倒的多数の場合。
これは組織の合理性を完全に無視した『非合理的な暴力』と断定し、目標は即座に生命の保護に切り替わる。躊躇なく『赤線』を発動し、コンシールド法に従い銃を抜いて防御に徹する。
概要上の要塞と戦線化は完了していた。
彼女の理論の上では、金物屋の道具(商品類)を通じて、この家の全ての境界線──地権が及ぶ範囲──に具現化された。
本日。三日目の夜、時刻は午後十一時四十分を回った。
加直は店舗兼住宅の二階で恵悟の隣に座っていた。恵悟は既に耳栓を装着し、静かに目を閉じて布団の中で静かにしている。恵悟が眠っているかのようにおとなしい間に全てが終わりますようにと願って三日目だ。
加直は右腹の銃に手をやり、神経の全てを裏の路地の音に集中させる。元から不眠症なので深夜の行動は大した苦痛ではない。
外の静寂が、まるで極限まで張り詰めた神経の糸のように感じられた。
十一時四十七分。
クロノグラフの腕時計をちらりと見た。その時、静寂を小さく小さく切り裂いて、小さな小さな甲高い音が鼓膜に届いた。
チリーン……。
軒下の真鍮ベルが、路地の空気に反響する。
加直はすうっと眼を閉じ、脳内に路地の見取り図と侵入者の映像を展開する。
────侵入者Aがワイヤーに接触。靴先がステンレスピアノ線に触れ、真鍮ベルとブザーを起動させた。
────人数は2名。今のところ前提Aのシミュレーション通りに進行している。
自宅近辺で車両のエンジン音は聞こえなかった。増援の心配は無し。今のところ計算通り。
加直の脳内では、侵入者の行動が分析されて脳内にマッピングされる。
────音による即時中断の気配。ワイヤーが堪えてるな。あれは心理的障壁だ。突然のベルの音は侵入の成功確率の低下を誘発させてくれる……。
ワイヤーと連動したベルや防犯ブザーやパーティ用クラッカーは初期段階でのネガティブな条件付けだ。
最初のステップで音を立てたことで、連中の行動は既に高いストレス下にある。
ベルに続き、ブザーの音。それはすぐに止まったが加直とて人間だ。緊張は残る。
次の音は鍵穴付近の「ガチャガチャ」という苛立った金属音。
────侵入者Aが工具で、脆弱に見えるダミーの錠前を壊そうとしているな……。
加直は小さく口角を上げる。奴はワイヤーでの失敗をここで取り返そうと焦っている。
加直は静かに息を吐いた。さあ、ここが最初の罠だ。黒いフレームのメガネを正すと、彼女は手元のテーブルの上に置いてあった板チョコを取り、一塊を無造作に齧った。苦味と甘さが緊張で研ぎ澄まされた神経に一瞬の弛緩を与えてくれる。
じわりじわりと緊張が連中を締め付ける。……締め付けているはずだ。神経の摩耗と認知資源の浪費をこれでもかと誘ったのだ。
────人間は、無駄な労力を最も嫌う。特に犯罪において、時間とはリスクだ。
連中が空回りするダミー錠に費やす時間は、サンクコストを生む。労力に対する成果がゼロだと判明した瞬間、連中は極度の焦燥感と怒りを感じ、冷静な判断力──リスクを計算する能力──を失う。これは感情的ヒューリスティックを誘発させるための最も非暴力的な先制攻撃だ。物理的な暴力だけが暴力ではない。
ダミー錠に対する侵入者Aの苛立ちは、金属を引っかくような音となって常夜灯に照らされた二階居住部分まで伝わってくる。
約四分間の無駄な格闘の後、工具の音が止まり、低い罵声が聞こえた。
次に破壊工作役である侵入者Bが動いた気配。
今度は「キーーーン!」という高周波の摩擦音が響いた。
────ほう。侵入者Bか。ドリルで『ウチで一番硬い』超硬質ステンレス合金製南京錠を破壊しようとしているな。
焦りから最も力任せの手段を選んだようだ。電動工具は深夜の隠密作業には不向きだという鉄則すら守れないのか? それとも知らないのか?
そろそろ自分たちの失敗コストの確定と認知的不協和が、心の中で矛盾か葛藤を生むはずだ。
────南京錠の素材は、市販の電動工具の限界を超えている。要所を閉じる南京錠は連中に『時間と労力を無限に費やしても突破は不可能』という思い込みを叩き込むためのものだ。……冷静になれば手段は幾らでもあるしそれを阻止する仕掛けもあるけどね。
加直の口角は更に吊り上がる。電動ドリルが効かないという事実は、連中の『自分では手に負えない』という諦念と『現実として鍵が破れない』という事実の間に深刻な認知的不協和を生む。この失敗は連中が所属する組織の損益分岐点に直接影響する。
ドリルの作動音は五分ほどで金属が熱で歪む音と共に、諦めの音へと変わった。
二人の人間が路地に出て口論しているのが聞こえる。
「あの錠前はなんだ!聞いてないぞ!」
「知るか! 早く窓を破れ!」
彼らは店舗右手側の採光用の大窓へと移動した。
「カチッ……キキッ……」というガラスカッターの音の後、ドスン! という鈍い衝撃音。
────お、連中、窓に貼られた『バカみたいに広い強化プラスチック製フィルム』の存在を予想していなかったな。
窓を破ろうと体当たりを仕掛けたようだ。
予測不能な遅延による合理性の崩壊が、連中のモチベーションをとことん下げる。
────ガラスを割ればすぐに侵入できる、冴えたやり方だと思いこんでいたのか。
フィルムの粘性が侵入時間を大幅に遅延させる。
これだけの失敗を積み重ねた後で、さらに追加の時間を要求された事で彼らの合理的な判断基準は完全に超越した。
この時間帯で物音に気付く住民や通報する住民、警邏の警官に遭遇する確率は、連中の組織が許容できるレベルを超えているはずだ。
連中の次の行動は……マニュアルが有るのなら、速やかな撤退以外にありえない。
加直は防犯カメラの代わりに買い込んでいた複数台の中古スマホをWiーfiで接続し外部カメラとして設置しており、ライブ映像を確認する。
焦燥に追い立てられた二人の男が道具を落としては拾いを繰り返して、互いに罵り合いながら、路地裏を全速力で逃げていく姿が映っていた。
連中は物理的な恐怖ではなく合理的な損失計算の結果として、撤退を選んだのだ。……連中の上の組織は割と理性的に損得勘定ができるタイプなようだ。
心理学を学んだことのない者の心理学で……加直の弾き出した計算が上乗せされて、彼らの行動を非合理な『逃走』へと誘導した。
逃走を確認した後、加直は警戒を解かず二階に一時間ほど留まった。
午前一時をクロノグラフが報せる。
辺りが完全に静まり返った事を確認し、ボルトと接着剤で固められた出入口を、専用の工具と溶剤でゆっくりと解除する。
外に出た加直は、逃げ込むように階下のミニキッチン――休憩スペースと併設――へ向かい、先ず熱いコーヒーを淹れた。……その香りを深く吸い込んで、一口舐めるように唇をマグカップの淵に付けて熱々のコーヒーを堪能する。
換気扇を作動させて、見慣れた赤い紙の箱からハーフコロナを取り出し、使い捨てライターで先端を火で炙りながら吸う。
紫煙が、彼女の唇から細く長く静かに吐き出される。
深夜の張り詰めた冷気が、安息する葉巻の煙と温かいコーヒーの香りと混ざり合う。……この嗜好品が彼女の神経をもう一仕事と言わんばかりに、脳の外側前頭皮質、外側眼窩前頭皮質と内側前頭皮質を分析をするためのモードへと移行させた。
翌朝。日の出前。
加直は裏の勝手口へ向かった。まだ辺りは薄暗い。
全ての防御が機能し、本命の錠前は無傷。
紫外線ライトを路地の床に当てると、特殊シリコン樹脂には、侵入者の靴底の滑り止めのパターンが鮮明に浮かび上がっていた。恰も石膏のように完璧な、二種類の靴底の型。これは紛れもなく、法廷で通用する確固たる証拠だ。
実のところ、加直の緻密な計算は、この『襲撃と撃退しての逃走』を一時的なものとして処理していた。即ち、本戦はこれからだ。
連中の組織の構造的欠陥そのものを攻撃しなければ、脅威は形を変えて再び現れる。
彼女の目標は、このような一時的な防御戦術ではなく脅威の根絶だった。
加直は前夜に採取した侵入者の靴底パターンと、これまでの嫌がらせの記録────接着剤の成分分析、丁番の緩め方など────を、全てデータとして記して整理した。キーボードで打ち込み、数枚のA4用紙をプリントアウト。
これは単なる業務妨害の証拠ではない。
連中がこの店の退去をこれほど焦って逮捕のリスクを冒すのは、『開発計画の資金繰りに致命的な問題』があるからに他ならない。
今回の侵入行為は、組織が瀬戸際にあることの裏付けだ。……加直は最初からその脆弱な部位を叩くつもりで居た。
強固な物理的証拠と、彼女自身の構造分析を簡潔にまとめた数枚のA4用紙を、普段から懇意にしている――主に発砲の通報で――最寄りの警察署の刑事部の窓口に匿名で送付した。
地列が印刷されたA4用紙には、侵入に使用された工具の特殊性や、侵入してきた連中────背後に巨大組織の影を感じているが、敢えてそこには触れないで何かしらの組織が関与している、という匂わせを記した────が、『最近の近隣の嫌がらせが関与している場合』の「資金源の出どころ」に関する彼女の分析が事務的に感情を乗せずに、簡潔に記されていた。
口語的に表現するのならば、『不審な連中は何処かの誰かに操られているだけなのかもしれませんよ』と記したのだ。
※ ※ ※
1週間後。午後二時。
庭の日当たりのいい場所に折りたたみ椅子を持ち出し、ハーフコロナの葉巻を銜えながら新聞を読む加直が居た。
加直が提供した匿名の封筒。それは警察にとって、長年目を付けていた暴力団のフロント企業への捜査の口実となった。
直近の事件……【辺金物屋】の件を突破口として、警察は即座に大規模な手入れを敢行。
組織の隠れ蓑となっていた複数の事務所が武器準備罪や大規模な違法賭博、不正な資金洗浄の容疑で一斉捜索された。……この警察の初動に関して、【辺金物屋】従業員一同総勢二名は全く知らぬ存ぜぬを貫いた。自分たちは唯の被害者で怖くて何もできなかった。何もしていない。
警察は直近の事件を探していただけ。その当事者が匿名の封筒を送付したとは警察は特定に至らずだった。(もしかすると使える情報源だと見なして、追跡をしなかったのかもしれない)
主要な幹部が一網打尽となり、組織は瞬く間に解散を迎えた。
芋蔓式にその組織に開発計画の強引な推進を依頼し、裏金を提供していた地元の市議会議員が贈収賄の容疑で緊急逮捕された。
【辺金物屋】を排除しようとした背後の勢力そのものが、この地域の権力の中枢から消滅したのだ。
新聞の一面を飾るそのニュースを、加直は淡々と眺める。
紙面には【不正な資金の流れが焦点】という見出しが踊っていた。
彼女の計算と金物屋の道具がもたらした勝利は、二人のチンピラの撃退だけに留まらなかった。
物理的な防御を基点として、経済的な費用対効果を操作し、最終的に法執行の構造にまで介入することで、脅威の発生源そのものを根絶した。
加直は事件当日、連中の脅威が去った後ノートに今回の防御に使った道具のリストを書き記し、その横に『リスク評価:ゼロ』と追記していた。
再びハーフコロナを銜え、深く吸い込む。
葉巻の煙が朝日の中で細く、長く空へと舞い上がり消えてゆく。
「鍵、ワイヤー、そして錠前。これらは境界線ではない。原則の延長線だ」
彼女は、知識と道具で築いた城壁の中で、真の静寂を味わった。
もう、この脅威にストレスを感じる必要はない。
全ては計算通り。
【辺金物屋】の朝が静かに始まった。
«♯004・了»
加直は帳場の隅で、冷めたコーヒーを啜りながら、店舗の休憩スペースで、テーブルの上のノートに書きつけた。
彼女の背後……真鍮の蝶番やステンレスのボルトが詰まった古い棚が、薄暗い電灯の下で何も言わずに静かに光っている。
彼女のその文字には、沈着な分析的思考とは裏腹に、ある種の焦燥感が滲んでいた。
なし崩し的に金物屋の店主代理となった25歳の彼女を追い詰めているのは、入院している父の容態だけではない。
この古い商店街の再開発を巡る、背後に暴力団が控える開発業者の圧力。
連中は巧妙だった。
決して法を破らない。その上、確実に加直の精神を削る嫌がらせを仕掛けてきた。鍵穴への接着剤注入、緩められた丁番、無言電話などなど。古典的で地味だが今でも通用する手法だ。
加直が持つS&W M351cは、法律という厳格な制限が課せられて無力だ。発砲が許されるのは、生命の危機が確定した瞬間のみ。
更に、彼女の能力であるミラータッチ共感覚も、この状況では有用ではない。この共感覚は他者の身体的な苦痛を疑似的に共有するが、この種の精神的な嫌がらせには何の『痛み』も共感できない。つまり『苦痛の予兆』を知る事さえ叶わない。
加直に残された手段とリソースは、彼女の頭脳と、金物屋の知識だけだった。
連中は、加直が『動けない』ことを知っている。法の制約を計算し尽くしている。
溜息を吐くと、冷たい精気の宿る目でコーヒーのマグカップに視線を落とした。
────考え方を変えたほうがいいな……。
ノートに修正を加えながら脳内で思考の軸を変更する。
暴力には知識で対抗し、連中のロジックで弾き出される計算を破綻させるのが最適だと判断していた。
ノートにさらにボールペンを走らせると、加直は立ち上がった。
祖父の恵悟から譲り受けた水色のブルゾン型の作業服のポケットに、スケールとシャープペンシルを滑り込ませる。
彼女の動きには迷いがない。
脳内には、既に完璧な防御と心理的攻撃の設計図が、CADデータのように展開されていた。
先程まで加直が書いていたノートの最初の方には、『今回の一件』の構造的な急所と【辺金物屋】の価値と時系列順の分析が書かれていた。
【辺金物屋】が、この再開発計画において、何故ピンポイントで狙われているのか? ……単に地権者の父とその長女の加直が退去を拒否しているからではない。
この商店街区画全体を買い占め、高層ビルを建てる計画に於いて、【辺金物屋】の敷地は都市計画上、避けられないボトルネックを形成していた。
【辺金物屋】は敷地自体は小さいものの、両隣の倉庫、その裏の路地を含めた登記上の権利が、『敷地全体を縦断する主要な公道への唯一のアクセスルート』――いわゆる地役権――に面していたのだ。
加直の脳内で、開発計画の図面が展開される。
────この土地は開発予定地の北東角に位置してる。この角が全区画の上下水道、電気、ガスの幹線への接続点でオマケに大型建築機材を搬入するための唯一の公道との接点になってる。
────この店が立ち退かなければ連中は計画全体を大幅に縮小するか、違法なインフラ接続に頼るか、膨大な迂回費用を払うしかない。つまりこの店は『法的に最も費用対効果が高い』。
【辺金物屋】の退去が遅れれば遅れるほど開発業者が被る遅延損害金は跳ね上がる。だからこそ、連中の嫌がらせは逮捕のリスクを冒さずに、いかに迅速に辺家の精神を摩耗させるか? という一点に集中している。
加直のアプローチはこの急所──【辺金物屋】──を防御することで、相手の費用対効果から算出される数値を破綻させることを目指した。
ノートの次のページには時系列分析に続き、投入されるであろう具体的な人員予測による最適解の導出が殴り書きされていた。
加直は店の古い帳簿と父が残した地元建設業界の動向に関するメモと地域の警察のパトロール記録を照合し、実際に襲撃されるならば「最適な時間」と「最適な人数」をある程度まで導き出していた。
────開発業者の契約書には、来月1日から基礎工事開始の遅延一日につき、莫大な違約金が発生する条項がある。連中に残された『手段』による最終通告の猶予は、本日を含む三日間だろうなぁ……。
今日は27日。
彼らが最も追い詰められ、感情的ヒューリスティックに陥り易いのは、猶予の終わりに近い『本日』の深夜だと逆算できた。
加直は、襲撃の中心点を住民の通行が途絶え、警察のパトロールが緩慢になり始める深夜帯の午後十一時四十五分辺りだと大方の目安を定めた。
次に彼女の脳内では、襲撃側の費用対効果に基づいた「最適人数2名」の予測が確定していた。
根拠の第一に、目的の最小要件と役割分担──効率性──だ。目的は物理的な損壊と心理的威圧であり、加直との直接戦闘ではない。
このタスク達成に必要な最小限の役割は、破壊工作の『実行役』と逃走経路の確保や工具の受け渡しを行う『監視・補助役』の二つで十分だった。
根拠の第二に、コストとリスクのトレードオフだ。人員を増やす事はコストを直線的に増加させるだけでなく、リスクを指数関数的に増大させる。
三人目からは、逃走時の目撃情報や逮捕された際に共犯として立件されるリスクが急増する。特に加直がコンシールド許可証を持っているという情報は当然相手も知っている前提がある以上、組織は不測の事態──発砲事件──が起きた際の連帯責任を最小限に抑えたい。
合理的な組織であればこの種の市民に対する『見せしめ』行為に三人以上を投入し、リスク対成果の比率を悪化させることはしない。
根拠の第三に、法的証拠の希薄化と匿名性。少人数であれば警察に発見されても『単独の器物損壊』として処理される可能性が高いが、人数が増えれば自動的に組織的威力業務妨害として捜査の優先度が上がる。
最適人数は二名。この投入できる最大にして最小の数こそが、『連中の脆弱な構造』を示す。
相手の法的制約や心理を念頭に、加直は襲撃チームの構成を『最適人数二名』と確信していた。
※ ※ ※
加直が店舗兼住宅を要塞化に着手する際、祖父恵悟は一度も口出しをしなかった。
元来、頑固で保守的な商売人である恵悟が、なぜ、二十代の孫娘に店の命運を託したのか。
恵悟が加直に示した信頼は、恵悟自身の人生の経験から来るものだった。
加直が金物屋に戻ってきてからの三年間で、彼女の頭脳は既に証明されていた。
父が凶行の負傷に倒れ、店が休業状態に陥った際、加直はまず金物屋の財政状況を立て直した。
彼女は古い帳簿をデジタル化し、商品の売れ行きや季節変動を統計的に分析した。
彼女の分析は市場の変動と在庫のリスクを完璧に読み解いた。それらの読み解き方や計算の仕方は……教えてはいない。どこで覚えたのかも知らない。それ以前に恵悟の知らぬ技術だ。
「この棚の南京錠は、仕入れ値に対して回転率が低すぎるねー。これは在庫の出血だよ。代わりにディンプルキーのシリンダーを強化して世間様のニーズに応えよう。……先ずは最適発注量を計算しないと」
彼女は感覚と経験で成り立っていた金物屋の経営状況を、統計や経済学的なデータに基づいた効率的なシステムへと変貌させた。店の赤字は止まり、利益率は開店以来の過去最高を記録した。(ここで赤字で倒産していたのなら得体の知れない組織に狙われる事も無かったのだろうが……)
恵悟は、加直の経営手腕を見て彼女の能力が、銃や妙な体質──ミラータッチ共感覚──といった特異なものだけに留まらない、本質的な問題解決の能力であると見抜いていた。
恵悟は加直の真の武器が、問題の構造を把握し、それを最小のリソースで解決する頭脳だと理解していた。
恵悟から見て、孫を可愛がるばかりにハロー効果を抱いていたわけではない。
彼女の特異な能力に惑わされたのではなく、彼女が実践した体系的な合理性に信頼を置いていたのだ。
「この子はこの世の暴力の本質が『切った張った』ではなく、相手の『勘定の番狂わせ』にあると知っている。ゲンコツが防げねぇのなら、相手にゲンコツが振るえない算盤間違いを起こさせればいい。それが、この子の……なんだ、原則? ってやつか!?」
だからこそ恵悟はただ黙って、自分の休憩スペースが鋼鉄のボルトで要塞化されるのを見届け、二階部分へと階段を登り、耳栓をして待つことを選んだ。
加直の勝負への信頼であり、同時に、加直に全てを任せるある種のネグレクトだった。
※ ※ ※
ノートの次のページには『要塞化とリスク計算』『リソースの把握と活用』と書かれていた。
加直は在庫の山に分け入り、何度も店舗部分と隣の敷地に借りた倉庫部分を何度も往復した。裏手口近辺から罠を張り巡らせる。
常夜灯の下。薄暗い棚が並ぶ中、彼女の迎撃体勢は侵入者の人数という『変数の変化』に応じ、その目標と行動原則を瞬時に切り替えるよう、レジリエンスが高い設計がなされていた。
裏の勝手口の古い鍵を外し、最新のディンプルキー・シリンダー錠へ交換する。ドアノブの真上に、シリンダーがあっても手応えはあるがノブと連動しない、空回りするダミーの錠前を取り付けた。それを『見え難い部分や隠した部分に合計三個』。
────侵入するなら最初に、簡単そうに見える錠前を標的とするだろうなぁ。
ドアノブ如きで無駄な時間と労力を消費させる。これは心理学でいう『非合理な固執』を引き起こすための罠だ。
次に路地。加直は塗装ローラーで透明な特殊シリコン樹脂を薄く塗布した。この目に見えない樹脂は、侵入者の靴底のパターンを微細な凹みとして確実に記録する。
────電子機器による監視は電源が切られたり、法的な議論の余地が生じる可能性があるからねー。
この樹脂が残す『非接触型の確固たる物理的証拠』は法廷での立証を可能にする。後ろ暗い人間は証拠を残す行為を最も嫌う。
窓の内側には強力な粘着力を持つ強化プラスチック製防犯フィルムを貼った。裏手口の路地の足元には細く強靭なステンレス製ワイヤー線を、地上高五cmから五十cmの高さに複数箇所、張り巡らせた。ピアノ線は、軒下に設置された真鍮製の釣り鐘型ベルやパーティー用クラッカー、大音量防犯ブザーのピンに繋がっている。
一番の肝は『このワイヤーは目を凝らせば簡単に見つけられて、簡単に無力化できること』だ。簡単に無力化できるワイヤーが不規則な位置と高さに張り巡らされているだけで人間の思考と集中力は分散させられ判断力を削られる。
そして最終防衛線。
帳場横の休憩スペースの出入口を鋼鉄製ボルトと接着剤で完全に要塞化した。連中は確実に裏手口から侵入するが、バカな飼い犬は絶対に吠えない。店舗部分レジ前と奥……6畳座敷の休憩スペースの中程の床に太く赤いテープで赤線を引いた。
この線を超えた者は加直の思考の『正当な構造に含まれてしまう』。即ち……警告の後、発砲する。
生命の危機が成立し、コンシールド許可証の権利を行使するラインがその赤線だ。
ノートの欄外に、『人数別の行動』と書かれていた。
彼女の脳内には、三つの前提が確立されていた。
前提A。二名の場合。……最適人数の場合。
この目標は連続的な遅延と心理的負荷により、侵入者を『費用対効果の悪化』で自発的に撤退させること。罠の全ての部品がこの目標のために連携する。発生確率は90%以上と見込む。
前提B。3名の場合。......想定外の人数の場合。
この目標は撤退目標は変わらないが、証拠確保と法的な打撃の最大化を最優先にする。三人分の証拠樹脂による足跡を確保し、集団的住居侵入未遂として、組織が負う法的な打撃を決定的に超えさせる。
前提C。10名以上の場合。…… 圧倒的多数の場合。
これは組織の合理性を完全に無視した『非合理的な暴力』と断定し、目標は即座に生命の保護に切り替わる。躊躇なく『赤線』を発動し、コンシールド法に従い銃を抜いて防御に徹する。
概要上の要塞と戦線化は完了していた。
彼女の理論の上では、金物屋の道具(商品類)を通じて、この家の全ての境界線──地権が及ぶ範囲──に具現化された。
本日。三日目の夜、時刻は午後十一時四十分を回った。
加直は店舗兼住宅の二階で恵悟の隣に座っていた。恵悟は既に耳栓を装着し、静かに目を閉じて布団の中で静かにしている。恵悟が眠っているかのようにおとなしい間に全てが終わりますようにと願って三日目だ。
加直は右腹の銃に手をやり、神経の全てを裏の路地の音に集中させる。元から不眠症なので深夜の行動は大した苦痛ではない。
外の静寂が、まるで極限まで張り詰めた神経の糸のように感じられた。
十一時四十七分。
クロノグラフの腕時計をちらりと見た。その時、静寂を小さく小さく切り裂いて、小さな小さな甲高い音が鼓膜に届いた。
チリーン……。
軒下の真鍮ベルが、路地の空気に反響する。
加直はすうっと眼を閉じ、脳内に路地の見取り図と侵入者の映像を展開する。
────侵入者Aがワイヤーに接触。靴先がステンレスピアノ線に触れ、真鍮ベルとブザーを起動させた。
────人数は2名。今のところ前提Aのシミュレーション通りに進行している。
自宅近辺で車両のエンジン音は聞こえなかった。増援の心配は無し。今のところ計算通り。
加直の脳内では、侵入者の行動が分析されて脳内にマッピングされる。
────音による即時中断の気配。ワイヤーが堪えてるな。あれは心理的障壁だ。突然のベルの音は侵入の成功確率の低下を誘発させてくれる……。
ワイヤーと連動したベルや防犯ブザーやパーティ用クラッカーは初期段階でのネガティブな条件付けだ。
最初のステップで音を立てたことで、連中の行動は既に高いストレス下にある。
ベルに続き、ブザーの音。それはすぐに止まったが加直とて人間だ。緊張は残る。
次の音は鍵穴付近の「ガチャガチャ」という苛立った金属音。
────侵入者Aが工具で、脆弱に見えるダミーの錠前を壊そうとしているな……。
加直は小さく口角を上げる。奴はワイヤーでの失敗をここで取り返そうと焦っている。
加直は静かに息を吐いた。さあ、ここが最初の罠だ。黒いフレームのメガネを正すと、彼女は手元のテーブルの上に置いてあった板チョコを取り、一塊を無造作に齧った。苦味と甘さが緊張で研ぎ澄まされた神経に一瞬の弛緩を与えてくれる。
じわりじわりと緊張が連中を締め付ける。……締め付けているはずだ。神経の摩耗と認知資源の浪費をこれでもかと誘ったのだ。
────人間は、無駄な労力を最も嫌う。特に犯罪において、時間とはリスクだ。
連中が空回りするダミー錠に費やす時間は、サンクコストを生む。労力に対する成果がゼロだと判明した瞬間、連中は極度の焦燥感と怒りを感じ、冷静な判断力──リスクを計算する能力──を失う。これは感情的ヒューリスティックを誘発させるための最も非暴力的な先制攻撃だ。物理的な暴力だけが暴力ではない。
ダミー錠に対する侵入者Aの苛立ちは、金属を引っかくような音となって常夜灯に照らされた二階居住部分まで伝わってくる。
約四分間の無駄な格闘の後、工具の音が止まり、低い罵声が聞こえた。
次に破壊工作役である侵入者Bが動いた気配。
今度は「キーーーン!」という高周波の摩擦音が響いた。
────ほう。侵入者Bか。ドリルで『ウチで一番硬い』超硬質ステンレス合金製南京錠を破壊しようとしているな。
焦りから最も力任せの手段を選んだようだ。電動工具は深夜の隠密作業には不向きだという鉄則すら守れないのか? それとも知らないのか?
そろそろ自分たちの失敗コストの確定と認知的不協和が、心の中で矛盾か葛藤を生むはずだ。
────南京錠の素材は、市販の電動工具の限界を超えている。要所を閉じる南京錠は連中に『時間と労力を無限に費やしても突破は不可能』という思い込みを叩き込むためのものだ。……冷静になれば手段は幾らでもあるしそれを阻止する仕掛けもあるけどね。
加直の口角は更に吊り上がる。電動ドリルが効かないという事実は、連中の『自分では手に負えない』という諦念と『現実として鍵が破れない』という事実の間に深刻な認知的不協和を生む。この失敗は連中が所属する組織の損益分岐点に直接影響する。
ドリルの作動音は五分ほどで金属が熱で歪む音と共に、諦めの音へと変わった。
二人の人間が路地に出て口論しているのが聞こえる。
「あの錠前はなんだ!聞いてないぞ!」
「知るか! 早く窓を破れ!」
彼らは店舗右手側の採光用の大窓へと移動した。
「カチッ……キキッ……」というガラスカッターの音の後、ドスン! という鈍い衝撃音。
────お、連中、窓に貼られた『バカみたいに広い強化プラスチック製フィルム』の存在を予想していなかったな。
窓を破ろうと体当たりを仕掛けたようだ。
予測不能な遅延による合理性の崩壊が、連中のモチベーションをとことん下げる。
────ガラスを割ればすぐに侵入できる、冴えたやり方だと思いこんでいたのか。
フィルムの粘性が侵入時間を大幅に遅延させる。
これだけの失敗を積み重ねた後で、さらに追加の時間を要求された事で彼らの合理的な判断基準は完全に超越した。
この時間帯で物音に気付く住民や通報する住民、警邏の警官に遭遇する確率は、連中の組織が許容できるレベルを超えているはずだ。
連中の次の行動は……マニュアルが有るのなら、速やかな撤退以外にありえない。
加直は防犯カメラの代わりに買い込んでいた複数台の中古スマホをWiーfiで接続し外部カメラとして設置しており、ライブ映像を確認する。
焦燥に追い立てられた二人の男が道具を落としては拾いを繰り返して、互いに罵り合いながら、路地裏を全速力で逃げていく姿が映っていた。
連中は物理的な恐怖ではなく合理的な損失計算の結果として、撤退を選んだのだ。……連中の上の組織は割と理性的に損得勘定ができるタイプなようだ。
心理学を学んだことのない者の心理学で……加直の弾き出した計算が上乗せされて、彼らの行動を非合理な『逃走』へと誘導した。
逃走を確認した後、加直は警戒を解かず二階に一時間ほど留まった。
午前一時をクロノグラフが報せる。
辺りが完全に静まり返った事を確認し、ボルトと接着剤で固められた出入口を、専用の工具と溶剤でゆっくりと解除する。
外に出た加直は、逃げ込むように階下のミニキッチン――休憩スペースと併設――へ向かい、先ず熱いコーヒーを淹れた。……その香りを深く吸い込んで、一口舐めるように唇をマグカップの淵に付けて熱々のコーヒーを堪能する。
換気扇を作動させて、見慣れた赤い紙の箱からハーフコロナを取り出し、使い捨てライターで先端を火で炙りながら吸う。
紫煙が、彼女の唇から細く長く静かに吐き出される。
深夜の張り詰めた冷気が、安息する葉巻の煙と温かいコーヒーの香りと混ざり合う。……この嗜好品が彼女の神経をもう一仕事と言わんばかりに、脳の外側前頭皮質、外側眼窩前頭皮質と内側前頭皮質を分析をするためのモードへと移行させた。
翌朝。日の出前。
加直は裏の勝手口へ向かった。まだ辺りは薄暗い。
全ての防御が機能し、本命の錠前は無傷。
紫外線ライトを路地の床に当てると、特殊シリコン樹脂には、侵入者の靴底の滑り止めのパターンが鮮明に浮かび上がっていた。恰も石膏のように完璧な、二種類の靴底の型。これは紛れもなく、法廷で通用する確固たる証拠だ。
実のところ、加直の緻密な計算は、この『襲撃と撃退しての逃走』を一時的なものとして処理していた。即ち、本戦はこれからだ。
連中の組織の構造的欠陥そのものを攻撃しなければ、脅威は形を変えて再び現れる。
彼女の目標は、このような一時的な防御戦術ではなく脅威の根絶だった。
加直は前夜に採取した侵入者の靴底パターンと、これまでの嫌がらせの記録────接着剤の成分分析、丁番の緩め方など────を、全てデータとして記して整理した。キーボードで打ち込み、数枚のA4用紙をプリントアウト。
これは単なる業務妨害の証拠ではない。
連中がこの店の退去をこれほど焦って逮捕のリスクを冒すのは、『開発計画の資金繰りに致命的な問題』があるからに他ならない。
今回の侵入行為は、組織が瀬戸際にあることの裏付けだ。……加直は最初からその脆弱な部位を叩くつもりで居た。
強固な物理的証拠と、彼女自身の構造分析を簡潔にまとめた数枚のA4用紙を、普段から懇意にしている――主に発砲の通報で――最寄りの警察署の刑事部の窓口に匿名で送付した。
地列が印刷されたA4用紙には、侵入に使用された工具の特殊性や、侵入してきた連中────背後に巨大組織の影を感じているが、敢えてそこには触れないで何かしらの組織が関与している、という匂わせを記した────が、『最近の近隣の嫌がらせが関与している場合』の「資金源の出どころ」に関する彼女の分析が事務的に感情を乗せずに、簡潔に記されていた。
口語的に表現するのならば、『不審な連中は何処かの誰かに操られているだけなのかもしれませんよ』と記したのだ。
※ ※ ※
1週間後。午後二時。
庭の日当たりのいい場所に折りたたみ椅子を持ち出し、ハーフコロナの葉巻を銜えながら新聞を読む加直が居た。
加直が提供した匿名の封筒。それは警察にとって、長年目を付けていた暴力団のフロント企業への捜査の口実となった。
直近の事件……【辺金物屋】の件を突破口として、警察は即座に大規模な手入れを敢行。
組織の隠れ蓑となっていた複数の事務所が武器準備罪や大規模な違法賭博、不正な資金洗浄の容疑で一斉捜索された。……この警察の初動に関して、【辺金物屋】従業員一同総勢二名は全く知らぬ存ぜぬを貫いた。自分たちは唯の被害者で怖くて何もできなかった。何もしていない。
警察は直近の事件を探していただけ。その当事者が匿名の封筒を送付したとは警察は特定に至らずだった。(もしかすると使える情報源だと見なして、追跡をしなかったのかもしれない)
主要な幹部が一網打尽となり、組織は瞬く間に解散を迎えた。
芋蔓式にその組織に開発計画の強引な推進を依頼し、裏金を提供していた地元の市議会議員が贈収賄の容疑で緊急逮捕された。
【辺金物屋】を排除しようとした背後の勢力そのものが、この地域の権力の中枢から消滅したのだ。
新聞の一面を飾るそのニュースを、加直は淡々と眺める。
紙面には【不正な資金の流れが焦点】という見出しが踊っていた。
彼女の計算と金物屋の道具がもたらした勝利は、二人のチンピラの撃退だけに留まらなかった。
物理的な防御を基点として、経済的な費用対効果を操作し、最終的に法執行の構造にまで介入することで、脅威の発生源そのものを根絶した。
加直は事件当日、連中の脅威が去った後ノートに今回の防御に使った道具のリストを書き記し、その横に『リスク評価:ゼロ』と追記していた。
再びハーフコロナを銜え、深く吸い込む。
葉巻の煙が朝日の中で細く、長く空へと舞い上がり消えてゆく。
「鍵、ワイヤー、そして錠前。これらは境界線ではない。原則の延長線だ」
彼女は、知識と道具で築いた城壁の中で、真の静寂を味わった。
もう、この脅威にストレスを感じる必要はない。
全ては計算通り。
【辺金物屋】の朝が静かに始まった。
«♯004・了»
