掌編【辺加直の鏡像】
「動くな! 撃つぞ!」
加直は絶叫に近い大声を張り挙げて引き金を引いた。
無我夢中で引いた。警告を義務として発したが、それを怠っても緊急避難で許される場な状況だった。……少なくとも加直は生命の危機を悟った。
彼女らしくない。
引き金をろくに狙わずに三回引いた。
22WMRの咆哮が夜の寂れた路地に短く響く。豆鉄砲でも静寂が席巻する夜の世界ではカメラのフラッシュのような効果を生み、頼りない銃声もご禁制の大口径マグナム拳銃を彷彿とさせる大音響だ。
確実に命中した! 手応えはいつもと違い、何も報せない。
即ち、ミラータッチ共感覚の激痛が、『アイツ』に命中したのに加直の体のどこにも焼けた火箸を刺されるような激痛が走らなかったのだ。
『アイツ』をしっかり視認している暇がなかったからか?
『アイツ』の姿が見えなかったからか?
違う。
暗闇の中から獰猛な唸り声とともに襲いかかってきたので、咄嗟に警告を発してその言葉が終わると同時に必死の銃撃を浴びせた。
『アイツ』は認識を阻害する姿をしていた。それだけ脅威だった。
『アイツの同類なら知っている。いつも見ている』。だが、しかし、それでも、見知っている顔とは顔つきも体格も性格も何もかも違う、別の種類の種族であるかのように恐ろしかった。
人間に限らず哺乳類の殆どは二つの事象に対して根源的恐怖を生まれつき抱く。
一つは高所。赤ん坊は階段を登ることを先に覚えるが、階段を降りることを覚えるのには時間がかかる。高い場所が怖いからだ。
そして二つ目。それは音。大音響、不快な音、叫び声、人間の可聴域の中で人間が不快だと認識した音域など。お化け屋敷で何の仕掛けも無いのに突然の音響に驚く人間が多いのもこの心理が働いているからだ。
根源的恐怖。
少なくとも腹の底から吐き出されたような咆哮に加直は怯えて、『アイツ』に対していつもの論理的思考を働かせる暇もなかった。その上、得意の論理的思考では解決が導き出せない相手だと瞬間的に悟っていたから反射的に右腹のズボンの内側にねじ込んでいたIBWホルスターからS&W M351cを抜き放つなり、警告し発砲した。
正直なところを言うと、遁走は無駄と思ったので警告も何もなしで即座に前段撃ち尽くしたかった。
22口径のマグナムを全弾叩き込んでもあれだけ興奮した『アイツ』にはどれだけ通用するか。あんなに大きな体躯をした質量に対して7発の40グレインの弾頭でどこまで対抗できるか疑問が大きく残る。
結果として、闇夜の襲撃者は体の何処かに被弾したらしく甲高い声で喚き散らしながら夜陰の向こうへと全力で逃げていった。
「…………助かった」
右手に構えたいつものスナブノーズの銃口から薄っすらと硝煙が立ち上る。
こんな短時間で三発も発砲したのは初めてのことだったので彼女自身が驚いている。
何もかもが驚きの連続の夜。
左手首のクロノグラフは午後九時半を経過したことを報せていた。
コンビニへ買い物に行ってその帰り道に襲われたのだが、『アイツ』は第一の目標であったであろう強奪には成功していた。……熱々の豚まんとピザまんが入ったレジ袋が奪われてしまった。
「忌々しい……『こんなところまで来やがったのか』……」
ズレた黒いフレームの眼鏡を直す。トレーナーの裾をめくり、S&Wをホルスターに戻す。
『アイツ』は負傷した。
地面に赤い血の跡が点々と見える。その血痕を辿れば追跡も容易だろう。だが、追跡して捉えるのは善良な市民の義務でも使命でもない。
今、加直が真っ先にすべきことは……。
「もしもし……正当防衛での発砲の件で通報したのですが」
最寄りの警察署へ、コンシールド許可証と銃を携行する国民として、通報の義務を果たすことだった。
今頃になってアドレナリンとノルアドレナリンが引き、脳機能が恒常性を保とうと脳内物質の調整にフル稼働を始め、最高潮の興奮が覚めれば覚めるほど、体に鉛を流し込まれたような倦怠感を覚える。
ここへ駆けつけるであろう警官が来て聴取が終わったら、またコンビニへ行って買い物をしよう。
今度は山のようなスイーツを買ってストレスを少しでも緩和させたい。
今夜は興奮の残余でいつもより眠りは浅いだろう。睡眠薬を飲んでさっさと寝るつもりだが、経験上、明日の朝には興奮の反動で低血糖を起こして速やかな甘味の補給を体が求めるに違いない。それに備えて山のようにスイーツを買い込むつもりだ。
通報の義務を果たし、警官の到着を待つ。
────この聴取が毎回面倒なんだなあ……。
複合的、多層的、多面的に事態が重なり、風雲急を告げる時代の潮流は人間社会を暗い世相へと向かわせる。
国内の失政だけが原因ならば事態はその程度で済む。だが世界は何が悪くて何が良いという白黒思考で解決する問題は一つとして無い。
地球全体がこのような暗雲立ち込める時代に突入しているのだから、こんな小さな寂れた商店街だけが例外というわけではない。寧ろ、文字通りに吹けば飛ぶような古い住宅兼店舗が軒を連ねているだけの商店街が現在でも退去区画に指定されていないだけでも奇跡なのだ。
その商店街に店を構える【辺金物屋】。辺加直はその店の店主代理として経営者の顔をしている。
年老いた祖父と当代の店主こと入院中の父親、そして父親の面倒を見るために、自宅の金物屋から離れた位置にある総合病院の近くでワンルームマンションを借りて住んでいる母親。それと、二つ年下の妹が企業勤めで隣県で一人暮らし。
元から裕福でない家庭。幼い頃から体験を通じて財政状況を理解していた加直は、大学へは進学せず、高卒で地元の中小企業で働くが、父親の凶報を知って家に戻る。店主代理を務めるはずだった祖父の腰痛が悪化し、なし崩し的に加直が店主代理となる。
数年前から施行されたばかりの通称コンシールド法を知り、自分までも物騒な時勢の中で被害に遭うわけにはいかないと奮起してコンシールド許可証を取得、清水の舞台から飛び降りる覚悟で非常に高額な銃を買う。
当初は銃砲店の店主が言うようにS&Wの38口径5連発のスナブノーズが最適だと思っていた。自分もそれを買うつもりだった。
たまたま、店頭で見たハンマーレスのS&Wが目に止まり、それを買うことにした。
それが手元のS&W M351cだ。
選んだ理由はハンマーがないことだ。
ハンマーがないと選択肢が絞られる。
土壇場で考える時間を節約できる。
「この銃は引き金を引くことしかできない」と普段から心掛けていれば咄嗟の場面でも、脅すために撃鉄を起こすか、精密に狙うか、などという思考に時間と認知資源を割く必要がない。適切でない場面ならば、抜かなければいいのだ。
38口径でない理由はもっと単純だった。
店主の助言だと、相手がヤク中で神経が麻痺していても38スペシャル+Pならば一発で黙らせることができるとのことだが、事実として、ヤク中患者を見たことがないのでイメージが湧きにくかったのと、『店で売られている銃なのだから、どの銃も同じようなものでしょ』という素人ならではの、言うなれば、『38スペシャルよりも22口径『マグナム』の22WMRだから威力は似たりよったりでしょ』という、プロからすれば想像もできない、素人すぎる発想のなせる選択だった。
更に決め手となったのは店頭のハンマー露出の38口径5連発モデルよりも弾が2発多く装填できるのが魅力的に見えた。
38口径と22口径。
少し勉強すれば明らかな違いが分かるのにそれを全く軽視して、勉強していない。
……これは加直だけの問題ではなく……あらかじめ銃を勉強しないのは、加直だけの問題ではなく、『コンシールド許可証を無事に取得できた日本国民の傾向』だった。
趣味人や愛好家、マニアやオタク気質な人間はコンシールド許可証取得以前の、座学や実技以外で数回実施される抜き打ちの精神鑑定と倫理道徳や社会通念を盛り込んだ対面の数回にわたる口頭試験で不適合として脱落し、結果として、常識人ではあるが暴力とは程遠い世界の人間が銃を所持する結果となる。
……そして実際に発砲し、実際に相手を傷つけ、その精神的ショックから折角のコンシールド許可証と銃を返納してしまい、銃に忌避感を持ってしまう人も多い。
銃を持ちたい人間は持てなくて、銃を持てる人間は進んで銃を手放す。……そんな捻れたジレンマが社会的に発生している。
現場に駆けつけた二人の警官は、弾を抜いた銃を受け取る前に、真っ先に加直の両手、特に両手の甲と袖口に、大きな綿棒のようなものでしつこく接触させた。これは、発砲の際に付着するGSR(硝煙反応)を採取するためだ。
「えー、では辺さん。包括的秘匿所持法について十分ご存知かと思いますが、この聴取の過程で『緊急避難の要件』が一つでも崩れれば、あなたの許可証は即時剥奪、銃は没収、そしてあなたは銃砲刀不法所持、あるいは傷害罪で裁かれる可能性があることを理解してください」
中年の警官の言葉は厳粛だった。声のトーンはあくまで事務的で冷徹なのに、発せられる言葉は、加直の存在そのものを否定する鋭利さを持っている。まるで、加直が自らの正当防衛を立証するのではなく、自分が法を犯していないことを証明する義務があるかのように響く。警官の語り口調は、アメリカ映画でよく見るミランダ原則を想起する。
場所をパトカーの静かな後部座席に移し、聴取が始まった。尋問の焦点は、「必要性」と「警告の明確性」に絞られた。
「まず、警告について。あなたは『動くな!撃つぞ!』と叫んだと証言しました。その時、相手の攻撃はどの段階でしたか? 警告を発する時間的な猶予は、本当にゼロでしたか?」
「『アイツ』は暗闇から恫喝する声を挙げ、猛スピードで襲いかかってきました。僕が警告の言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、体が衝突する距離まで迫っていました。警告は、僕の理性的な判断ではなく、法的な義務を反射的に遂行したものです。僕に猶予があったとすれば、それは『アイツ』に致命的な優位性を与えるための時間の浪費に過ぎません」
加直の回答は一語一句、理路整然とし感情を排していた。
彼女の脳は全力で、『反射的な行動』を『法的に正当化された必然性』へと変換していた。
「次に、逃走の可能性です。あなたの証言では、現場から向こう、少し離れた位置にご自宅の勝手口がありますね。路地幅が狭いとはいえ、自宅へ逃げ込み、施錠するという選択肢が完全に不可能であったことを立証する必要があります」
この問いこそ、コンシールド法の最も非現実的な要件だった。
「逃走は不可能と判断しました。理由は法的防御の境界線にあります。自宅へ逃げ込めば、犯人の住居侵入を招き、家族に危害が及ぶ可能性が極めて高い。僕は、自分だけでなく他への危害を未然に防ぐ義務を優先しました。今回の発砲の件は、路地で終わらせたかったのです。自宅に逃げ込むという行為は、家族の命を侵害するリスクを内包します。後の事を考えた回避行動とはなり得ません」
加直の回答は、単純な「逃げられなかった」ではなく、「逃げることは法的に不適切だった」という、発砲事案で聴取に慣れた警官すら唸らせる反論だった。
警官は一瞬、体幹を硬直させた。この緊張は、加直の理屈が、法の要求水準を一時的に上回っていることを示している。加直のノンバーバルを読み取る力が細かく警官の所作を読み解く。……今のところ、失点はないはずだ。
最後の問いは、銃器の選択と発砲の目的についてだった。
「使用した銃はS&W M351c、22WMR弾ですね。三発発砲した目的は、致命傷を与えることでしたか? 過剰防衛ではないことを、結果ではなく意図として証明してもらいたい」
「発砲の意図は生命の危機を排除することだけです。『アイツ』の体格と興奮から、単なる威嚇では不可能であり、一発で行動を停止させることを目指しました。三発発砲したのは、最初の二発で相手の行動が停止しなかったためであり、結果として『アイツ』が何処かを負傷し、怯んで逃走したため、行為の結果は過剰防衛ではなかったと判断しています」
聴取は、一時間近くに及んだ。その間、加直は一切の感情を表に出さなかった。
彼女の脳は、恐怖と疲労による混乱を、絶対的なロジカルという盾で覆い尽くしていた。心の内側では、『アイツ』との邂逅でエネルギーの枯渇と、ミラータッチ共感覚の不在という未知の恐怖が、脳の深部を削り続けていた。
「わかりました。今回の事案は、緊急避難の要件を満たす可能性が高いと判断しますが、血痕があるので、銃の登録データを照合して、鑑識での製造番号と線状痕の照合と確認、そして正当防衛成立の通知が裁判所から届くまで一週間ほど……銃の携行、発砲は禁止です。この証拠品受理書を必ず保管してください。許可証の剥奪については、今回の報告書と捜査結果を鑑みて、後日、裁判所から通知される封書を確認してください」
警官は、最終的な判断を保留し、最も痛烈な処置を施した。銃の携行禁止。その具体的な処置が加直の目の前で行われる。
抜弾した銃の銃口からワイヤーを差し込み、銃口後端から飛び出たそのワイヤーの先端を小さな錠前に差し込む。銃を使えなくするための専用のロックだ。リボルバーでもオートマチックでもこのように銃口と薬室をワイヤーで阻害されれば、装填も発砲もできない。これを解除するのは『何も問題がなかったことが証明された時』だけだ。その時は最寄りの警察署でロックの解除を申請する。
加直の命綱が宙に浮いた。これこそが、コンシールド法を行使した際の最大の厳しさだった。
この非武装期間を狙って犯罪者の仲間が『お礼参り』に来るケースが多いのだ。加直でなくとも眠れない日が続く。『お礼参り』の被害に遭って殺害された例は枚挙にいとまがない。
警官に深々と頭を下げた加直は、自宅への帰路に就くことなく、来た道に戻り始めた。左手首のクロノグラフは、午後十時半を指していた。
体が鉛のように重い。思考が、霞がかったようにぼやける。
グルコース。燃料。今すぐ、エネルギー補給!
現場での聴取という、極度の精神的緊張の解放は、却って彼女の脳を疲労の極致へと追いやった。
その足は、今しがた『アイツ』に襲われた路地を避け、遠回りして、少し離れたコンビニエンスストアへと向かっていた。
加直の背中には、論理戦闘の勝利と引き換えに支払った、途方もない疲労の総量が、濡れた黒い毛布のように張り付いていた。
一週間後の午後二時。晴天。
【辺金物屋】の店番は祖父が交代してくれ、加直は帳場の隅にある休憩スペースで、熱いコーヒーを啜っていた。
穏やかな昼下がりの日光が窓から差し込む。
この一週間、加直の神経は擦り減る一方だった。
いつ、今までに銃口を向けてきた社会不適合者による『お礼参り』が訪れるか心配だった。
コンシールド許可証を持ち、銃を正当な理由があって、人に向けて発砲した後、この非武装期間を狙って『銃口を向けられた人』の仲間が報復に来るという事例は、許可証取得者の間では大きなジレンマとして存在する。
銃は、目の前にある。
S&W M351cは、誰も触れないように施錠された手提げ金庫のような金属製のガンケースの中。
裁判所の判断が下るまで、銃の携行は勿論、自宅での発砲さえも禁じられている。もし襲撃者が現れ、生命家財を守るためにガンケースから銃を取り出し、なんとかしてワイヤーを強引に外し、発砲すれば、その行為は即座に銃砲刀不法所持と見なされ、重罪人となる。
『目の前に拳銃が有るのに、お礼参りに対して発砲できない理不尽』……この法的整備が不十分なジレンマは、多くのコンシールド許可証取得者の精神を削り続けた。加直もまた、この一週間、その理不尽な状況に囚われ、夜も眠れずにいた。
そんな息苦しい一週間だった。
店舗の休憩スペース。静かな昼下がりに郵便受けに投函された、裁判所からの薄茶色の封筒がテーブルに置かれていた。
加直は精神統一のように口に咥えたハーフコロナの煙をゆっくりと吐き出し、眼鏡の奥で薄く目を見開いて、その封筒を手に取った。EDCのヴィクトリノックス──ヴィクトリノックス・コンパニオンコレクション──のハサミを展開してそれの刃を大きく広げる。先端を錐のように尖らせて、ハサミの刃はナイフのように研ぎ上げているのでペーパーナイフとして十分に機能する。それでもって開封する。
胃が冷える。否決の通知なのは確かだ。
無機質な紙製のそれを丁寧に開封し、中から書類を取り出した。
【正当防衛行為の合法性確認及び銃砲携行許可証に関する通知】
・当職は、提出された証拠及び供述記録を鑑み、本件発砲行為は、生命の危機が差し迫った状況下における緊急避難の要件を満たすものと判断する。
その瞬間、体から一週間分の精神的疲労の塊が一瞬で抜け落ちるような、純粋で絶対的な安堵が押し寄せた。
歓喜が彼女を包む。いつものことながらこの瞬間までは生きた心地がしない。
法的な結論が確定したことによる、勝利宣言。
彼女は震える指先で書類を読み進める。
そこには、コンシールド許可の継続が明記され、重要な一文が記されていた。
【上記決定に基づき、辺加直氏の銃砲携行及び発砲の禁止措置は、本通知に記された日付をもって解除される。】
本日付の日付と、裁判所の重厚なハンコ。
書類を握りしめながら、加直は小躍りして歓喜した。もう、理不尽な制限はない。命綱は、再び彼女の支配下に戻ったのだ。
その書類を脇に置き、暫し瞑目。喜びを噛み締める。
やがて開かれた加直の視線が、テーブルに放り出されていた地方版の新聞に移る。
昨日の日付の欄外、生活欄に小さなベタ記事を見つけた。
【狂犬病を持つ雑種犬を捕獲、周辺住民に安堵広がる】
先週12日より、多間町付近で、右前足に銃弾によるものと見られる軽傷を負った大型の雑種犬が発見され、保護されました。この犬は、近隣の自治会、町内会でも狂犬病の疑いがあるとして注意喚起と目撃情報が呼びかけられていた個体です。
負傷により逃走できず、自治体の動物愛護管理センターの職員が捕獲に成功。センターによると、狂犬病の検査結果は陽性であり、周辺住民は一連の騒動の収束に安堵しています。
加直はゆっくりと眼鏡を外し、眉間を揉みながら片手で新聞を畳んだ。
唇からハーフコロナの葉巻を取り灰皿に置く。その手で熱を失ったコーヒーカップにそっと触れる。
……『アイツ』は、人間ではなく、狂犬病を患った犬だった。
彼女の頭の中で、全てのピースが結合する。
まず、あの夜。加直は路地に残された、赤い血の跡を確認している。熱々の豚まんとピザまんを強奪した『アイツ』が被弾したことの証拠だった。そして今、新聞には、「一週間前、この場所の近くで、銃弾による軽傷を負った狂犬病の犬が捕獲された」とある。
この寂れた商店街やその近辺の市町で、一週間の間に、銃で撃たれて負傷した狂犬病を持つ大型雑種犬が二匹存在した確率は、ゼロに等しい。
「右前足の軽傷」こそが、加直が放った三発の22WMR弾のうち、少なくとも一発が命中した場所であり、血痕の源であったと簡単に想像できる。
加直は確信する。あの晩の襲撃犬と、新聞記事の犬は、完全に同一の個体だと。
『アイツの同類なら知っている。いつも見ている』──自宅で飼う愛犬と同じ「種」でありながら、『見知っている顔とは顔つきも体格も性格も何もかも違う、別の種類の種族であるかのように恐ろしかった』。
その異質なまでの狂暴性は、狂犬病というウィルスの仕業だった。
『こんなところまで来やがったのか』という内心の苛立ちは、住民が怯える狂犬病の犬が、よりによって自分の生活圏に侵入してきたことへの憤りだった。加直も人間だ。異質な存在を知ると、感情で快か不快かでしか判断できなくなる。
そして、ミラータッチ共感覚の発現しない理由。……相手が人間(同種)ではないと瞬時に認識したため、脳がフィードバックの反応を起こさなかった。
彼女は咄嗟の瞬間に思考を停止させられ、根源的な恐怖によって反射的に発砲したが、本能的な行動の裏側で、彼女の共感覚は正確に相手を『非・人間』と判定していたのだ。
加直は冷めたコーヒーを一口飲んだ。
この一週間、彼女を非武装にして、精神的に追い詰めた、【過去の発砲例による『お礼参りの恐怖』】は狂犬病の犬という、人の理屈が通用しない、あまりにも卑近な脅威のせいで生じた理不尽な精神的被害だった。
そして、その直接的な脅威は、彼女の銃ではなく、地方自治体の動物愛護管理センターの職員によって既に排除されていた。
法律上の勝利は確定した。命綱──S&W M351c──を使用する権利も戻ってきた。
それでも彼女は、理屈では制御できないほどの疲労を負った。
彼女は手を伸ばし、ハーフコロナの赤い紙箱の隣に置いていた食べかけの板チョコを手に取る。次にコンビニへ行くときは、山のようなスイーツを買い込もう。
加直が甘味を欲するのはただの糖分によるエネルギー補給だけでなく、『自己の生命の価値を証明するための等価』の精算でもある。
«♯003・了»
加直は絶叫に近い大声を張り挙げて引き金を引いた。
無我夢中で引いた。警告を義務として発したが、それを怠っても緊急避難で許される場な状況だった。……少なくとも加直は生命の危機を悟った。
彼女らしくない。
引き金をろくに狙わずに三回引いた。
22WMRの咆哮が夜の寂れた路地に短く響く。豆鉄砲でも静寂が席巻する夜の世界ではカメラのフラッシュのような効果を生み、頼りない銃声もご禁制の大口径マグナム拳銃を彷彿とさせる大音響だ。
確実に命中した! 手応えはいつもと違い、何も報せない。
即ち、ミラータッチ共感覚の激痛が、『アイツ』に命中したのに加直の体のどこにも焼けた火箸を刺されるような激痛が走らなかったのだ。
『アイツ』をしっかり視認している暇がなかったからか?
『アイツ』の姿が見えなかったからか?
違う。
暗闇の中から獰猛な唸り声とともに襲いかかってきたので、咄嗟に警告を発してその言葉が終わると同時に必死の銃撃を浴びせた。
『アイツ』は認識を阻害する姿をしていた。それだけ脅威だった。
『アイツの同類なら知っている。いつも見ている』。だが、しかし、それでも、見知っている顔とは顔つきも体格も性格も何もかも違う、別の種類の種族であるかのように恐ろしかった。
人間に限らず哺乳類の殆どは二つの事象に対して根源的恐怖を生まれつき抱く。
一つは高所。赤ん坊は階段を登ることを先に覚えるが、階段を降りることを覚えるのには時間がかかる。高い場所が怖いからだ。
そして二つ目。それは音。大音響、不快な音、叫び声、人間の可聴域の中で人間が不快だと認識した音域など。お化け屋敷で何の仕掛けも無いのに突然の音響に驚く人間が多いのもこの心理が働いているからだ。
根源的恐怖。
少なくとも腹の底から吐き出されたような咆哮に加直は怯えて、『アイツ』に対していつもの論理的思考を働かせる暇もなかった。その上、得意の論理的思考では解決が導き出せない相手だと瞬間的に悟っていたから反射的に右腹のズボンの内側にねじ込んでいたIBWホルスターからS&W M351cを抜き放つなり、警告し発砲した。
正直なところを言うと、遁走は無駄と思ったので警告も何もなしで即座に前段撃ち尽くしたかった。
22口径のマグナムを全弾叩き込んでもあれだけ興奮した『アイツ』にはどれだけ通用するか。あんなに大きな体躯をした質量に対して7発の40グレインの弾頭でどこまで対抗できるか疑問が大きく残る。
結果として、闇夜の襲撃者は体の何処かに被弾したらしく甲高い声で喚き散らしながら夜陰の向こうへと全力で逃げていった。
「…………助かった」
右手に構えたいつものスナブノーズの銃口から薄っすらと硝煙が立ち上る。
こんな短時間で三発も発砲したのは初めてのことだったので彼女自身が驚いている。
何もかもが驚きの連続の夜。
左手首のクロノグラフは午後九時半を経過したことを報せていた。
コンビニへ買い物に行ってその帰り道に襲われたのだが、『アイツ』は第一の目標であったであろう強奪には成功していた。……熱々の豚まんとピザまんが入ったレジ袋が奪われてしまった。
「忌々しい……『こんなところまで来やがったのか』……」
ズレた黒いフレームの眼鏡を直す。トレーナーの裾をめくり、S&Wをホルスターに戻す。
『アイツ』は負傷した。
地面に赤い血の跡が点々と見える。その血痕を辿れば追跡も容易だろう。だが、追跡して捉えるのは善良な市民の義務でも使命でもない。
今、加直が真っ先にすべきことは……。
「もしもし……正当防衛での発砲の件で通報したのですが」
最寄りの警察署へ、コンシールド許可証と銃を携行する国民として、通報の義務を果たすことだった。
今頃になってアドレナリンとノルアドレナリンが引き、脳機能が恒常性を保とうと脳内物質の調整にフル稼働を始め、最高潮の興奮が覚めれば覚めるほど、体に鉛を流し込まれたような倦怠感を覚える。
ここへ駆けつけるであろう警官が来て聴取が終わったら、またコンビニへ行って買い物をしよう。
今度は山のようなスイーツを買ってストレスを少しでも緩和させたい。
今夜は興奮の残余でいつもより眠りは浅いだろう。睡眠薬を飲んでさっさと寝るつもりだが、経験上、明日の朝には興奮の反動で低血糖を起こして速やかな甘味の補給を体が求めるに違いない。それに備えて山のようにスイーツを買い込むつもりだ。
通報の義務を果たし、警官の到着を待つ。
────この聴取が毎回面倒なんだなあ……。
複合的、多層的、多面的に事態が重なり、風雲急を告げる時代の潮流は人間社会を暗い世相へと向かわせる。
国内の失政だけが原因ならば事態はその程度で済む。だが世界は何が悪くて何が良いという白黒思考で解決する問題は一つとして無い。
地球全体がこのような暗雲立ち込める時代に突入しているのだから、こんな小さな寂れた商店街だけが例外というわけではない。寧ろ、文字通りに吹けば飛ぶような古い住宅兼店舗が軒を連ねているだけの商店街が現在でも退去区画に指定されていないだけでも奇跡なのだ。
その商店街に店を構える【辺金物屋】。辺加直はその店の店主代理として経営者の顔をしている。
年老いた祖父と当代の店主こと入院中の父親、そして父親の面倒を見るために、自宅の金物屋から離れた位置にある総合病院の近くでワンルームマンションを借りて住んでいる母親。それと、二つ年下の妹が企業勤めで隣県で一人暮らし。
元から裕福でない家庭。幼い頃から体験を通じて財政状況を理解していた加直は、大学へは進学せず、高卒で地元の中小企業で働くが、父親の凶報を知って家に戻る。店主代理を務めるはずだった祖父の腰痛が悪化し、なし崩し的に加直が店主代理となる。
数年前から施行されたばかりの通称コンシールド法を知り、自分までも物騒な時勢の中で被害に遭うわけにはいかないと奮起してコンシールド許可証を取得、清水の舞台から飛び降りる覚悟で非常に高額な銃を買う。
当初は銃砲店の店主が言うようにS&Wの38口径5連発のスナブノーズが最適だと思っていた。自分もそれを買うつもりだった。
たまたま、店頭で見たハンマーレスのS&Wが目に止まり、それを買うことにした。
それが手元のS&W M351cだ。
選んだ理由はハンマーがないことだ。
ハンマーがないと選択肢が絞られる。
土壇場で考える時間を節約できる。
「この銃は引き金を引くことしかできない」と普段から心掛けていれば咄嗟の場面でも、脅すために撃鉄を起こすか、精密に狙うか、などという思考に時間と認知資源を割く必要がない。適切でない場面ならば、抜かなければいいのだ。
38口径でない理由はもっと単純だった。
店主の助言だと、相手がヤク中で神経が麻痺していても38スペシャル+Pならば一発で黙らせることができるとのことだが、事実として、ヤク中患者を見たことがないのでイメージが湧きにくかったのと、『店で売られている銃なのだから、どの銃も同じようなものでしょ』という素人ならではの、言うなれば、『38スペシャルよりも22口径『マグナム』の22WMRだから威力は似たりよったりでしょ』という、プロからすれば想像もできない、素人すぎる発想のなせる選択だった。
更に決め手となったのは店頭のハンマー露出の38口径5連発モデルよりも弾が2発多く装填できるのが魅力的に見えた。
38口径と22口径。
少し勉強すれば明らかな違いが分かるのにそれを全く軽視して、勉強していない。
……これは加直だけの問題ではなく……あらかじめ銃を勉強しないのは、加直だけの問題ではなく、『コンシールド許可証を無事に取得できた日本国民の傾向』だった。
趣味人や愛好家、マニアやオタク気質な人間はコンシールド許可証取得以前の、座学や実技以外で数回実施される抜き打ちの精神鑑定と倫理道徳や社会通念を盛り込んだ対面の数回にわたる口頭試験で不適合として脱落し、結果として、常識人ではあるが暴力とは程遠い世界の人間が銃を所持する結果となる。
……そして実際に発砲し、実際に相手を傷つけ、その精神的ショックから折角のコンシールド許可証と銃を返納してしまい、銃に忌避感を持ってしまう人も多い。
銃を持ちたい人間は持てなくて、銃を持てる人間は進んで銃を手放す。……そんな捻れたジレンマが社会的に発生している。
現場に駆けつけた二人の警官は、弾を抜いた銃を受け取る前に、真っ先に加直の両手、特に両手の甲と袖口に、大きな綿棒のようなものでしつこく接触させた。これは、発砲の際に付着するGSR(硝煙反応)を採取するためだ。
「えー、では辺さん。包括的秘匿所持法について十分ご存知かと思いますが、この聴取の過程で『緊急避難の要件』が一つでも崩れれば、あなたの許可証は即時剥奪、銃は没収、そしてあなたは銃砲刀不法所持、あるいは傷害罪で裁かれる可能性があることを理解してください」
中年の警官の言葉は厳粛だった。声のトーンはあくまで事務的で冷徹なのに、発せられる言葉は、加直の存在そのものを否定する鋭利さを持っている。まるで、加直が自らの正当防衛を立証するのではなく、自分が法を犯していないことを証明する義務があるかのように響く。警官の語り口調は、アメリカ映画でよく見るミランダ原則を想起する。
場所をパトカーの静かな後部座席に移し、聴取が始まった。尋問の焦点は、「必要性」と「警告の明確性」に絞られた。
「まず、警告について。あなたは『動くな!撃つぞ!』と叫んだと証言しました。その時、相手の攻撃はどの段階でしたか? 警告を発する時間的な猶予は、本当にゼロでしたか?」
「『アイツ』は暗闇から恫喝する声を挙げ、猛スピードで襲いかかってきました。僕が警告の言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、体が衝突する距離まで迫っていました。警告は、僕の理性的な判断ではなく、法的な義務を反射的に遂行したものです。僕に猶予があったとすれば、それは『アイツ』に致命的な優位性を与えるための時間の浪費に過ぎません」
加直の回答は一語一句、理路整然とし感情を排していた。
彼女の脳は全力で、『反射的な行動』を『法的に正当化された必然性』へと変換していた。
「次に、逃走の可能性です。あなたの証言では、現場から向こう、少し離れた位置にご自宅の勝手口がありますね。路地幅が狭いとはいえ、自宅へ逃げ込み、施錠するという選択肢が完全に不可能であったことを立証する必要があります」
この問いこそ、コンシールド法の最も非現実的な要件だった。
「逃走は不可能と判断しました。理由は法的防御の境界線にあります。自宅へ逃げ込めば、犯人の住居侵入を招き、家族に危害が及ぶ可能性が極めて高い。僕は、自分だけでなく他への危害を未然に防ぐ義務を優先しました。今回の発砲の件は、路地で終わらせたかったのです。自宅に逃げ込むという行為は、家族の命を侵害するリスクを内包します。後の事を考えた回避行動とはなり得ません」
加直の回答は、単純な「逃げられなかった」ではなく、「逃げることは法的に不適切だった」という、発砲事案で聴取に慣れた警官すら唸らせる反論だった。
警官は一瞬、体幹を硬直させた。この緊張は、加直の理屈が、法の要求水準を一時的に上回っていることを示している。加直のノンバーバルを読み取る力が細かく警官の所作を読み解く。……今のところ、失点はないはずだ。
最後の問いは、銃器の選択と発砲の目的についてだった。
「使用した銃はS&W M351c、22WMR弾ですね。三発発砲した目的は、致命傷を与えることでしたか? 過剰防衛ではないことを、結果ではなく意図として証明してもらいたい」
「発砲の意図は生命の危機を排除することだけです。『アイツ』の体格と興奮から、単なる威嚇では不可能であり、一発で行動を停止させることを目指しました。三発発砲したのは、最初の二発で相手の行動が停止しなかったためであり、結果として『アイツ』が何処かを負傷し、怯んで逃走したため、行為の結果は過剰防衛ではなかったと判断しています」
聴取は、一時間近くに及んだ。その間、加直は一切の感情を表に出さなかった。
彼女の脳は、恐怖と疲労による混乱を、絶対的なロジカルという盾で覆い尽くしていた。心の内側では、『アイツ』との邂逅でエネルギーの枯渇と、ミラータッチ共感覚の不在という未知の恐怖が、脳の深部を削り続けていた。
「わかりました。今回の事案は、緊急避難の要件を満たす可能性が高いと判断しますが、血痕があるので、銃の登録データを照合して、鑑識での製造番号と線状痕の照合と確認、そして正当防衛成立の通知が裁判所から届くまで一週間ほど……銃の携行、発砲は禁止です。この証拠品受理書を必ず保管してください。許可証の剥奪については、今回の報告書と捜査結果を鑑みて、後日、裁判所から通知される封書を確認してください」
警官は、最終的な判断を保留し、最も痛烈な処置を施した。銃の携行禁止。その具体的な処置が加直の目の前で行われる。
抜弾した銃の銃口からワイヤーを差し込み、銃口後端から飛び出たそのワイヤーの先端を小さな錠前に差し込む。銃を使えなくするための専用のロックだ。リボルバーでもオートマチックでもこのように銃口と薬室をワイヤーで阻害されれば、装填も発砲もできない。これを解除するのは『何も問題がなかったことが証明された時』だけだ。その時は最寄りの警察署でロックの解除を申請する。
加直の命綱が宙に浮いた。これこそが、コンシールド法を行使した際の最大の厳しさだった。
この非武装期間を狙って犯罪者の仲間が『お礼参り』に来るケースが多いのだ。加直でなくとも眠れない日が続く。『お礼参り』の被害に遭って殺害された例は枚挙にいとまがない。
警官に深々と頭を下げた加直は、自宅への帰路に就くことなく、来た道に戻り始めた。左手首のクロノグラフは、午後十時半を指していた。
体が鉛のように重い。思考が、霞がかったようにぼやける。
グルコース。燃料。今すぐ、エネルギー補給!
現場での聴取という、極度の精神的緊張の解放は、却って彼女の脳を疲労の極致へと追いやった。
その足は、今しがた『アイツ』に襲われた路地を避け、遠回りして、少し離れたコンビニエンスストアへと向かっていた。
加直の背中には、論理戦闘の勝利と引き換えに支払った、途方もない疲労の総量が、濡れた黒い毛布のように張り付いていた。
一週間後の午後二時。晴天。
【辺金物屋】の店番は祖父が交代してくれ、加直は帳場の隅にある休憩スペースで、熱いコーヒーを啜っていた。
穏やかな昼下がりの日光が窓から差し込む。
この一週間、加直の神経は擦り減る一方だった。
いつ、今までに銃口を向けてきた社会不適合者による『お礼参り』が訪れるか心配だった。
コンシールド許可証を持ち、銃を正当な理由があって、人に向けて発砲した後、この非武装期間を狙って『銃口を向けられた人』の仲間が報復に来るという事例は、許可証取得者の間では大きなジレンマとして存在する。
銃は、目の前にある。
S&W M351cは、誰も触れないように施錠された手提げ金庫のような金属製のガンケースの中。
裁判所の判断が下るまで、銃の携行は勿論、自宅での発砲さえも禁じられている。もし襲撃者が現れ、生命家財を守るためにガンケースから銃を取り出し、なんとかしてワイヤーを強引に外し、発砲すれば、その行為は即座に銃砲刀不法所持と見なされ、重罪人となる。
『目の前に拳銃が有るのに、お礼参りに対して発砲できない理不尽』……この法的整備が不十分なジレンマは、多くのコンシールド許可証取得者の精神を削り続けた。加直もまた、この一週間、その理不尽な状況に囚われ、夜も眠れずにいた。
そんな息苦しい一週間だった。
店舗の休憩スペース。静かな昼下がりに郵便受けに投函された、裁判所からの薄茶色の封筒がテーブルに置かれていた。
加直は精神統一のように口に咥えたハーフコロナの煙をゆっくりと吐き出し、眼鏡の奥で薄く目を見開いて、その封筒を手に取った。EDCのヴィクトリノックス──ヴィクトリノックス・コンパニオンコレクション──のハサミを展開してそれの刃を大きく広げる。先端を錐のように尖らせて、ハサミの刃はナイフのように研ぎ上げているのでペーパーナイフとして十分に機能する。それでもって開封する。
胃が冷える。否決の通知なのは確かだ。
無機質な紙製のそれを丁寧に開封し、中から書類を取り出した。
【正当防衛行為の合法性確認及び銃砲携行許可証に関する通知】
・当職は、提出された証拠及び供述記録を鑑み、本件発砲行為は、生命の危機が差し迫った状況下における緊急避難の要件を満たすものと判断する。
その瞬間、体から一週間分の精神的疲労の塊が一瞬で抜け落ちるような、純粋で絶対的な安堵が押し寄せた。
歓喜が彼女を包む。いつものことながらこの瞬間までは生きた心地がしない。
法的な結論が確定したことによる、勝利宣言。
彼女は震える指先で書類を読み進める。
そこには、コンシールド許可の継続が明記され、重要な一文が記されていた。
【上記決定に基づき、辺加直氏の銃砲携行及び発砲の禁止措置は、本通知に記された日付をもって解除される。】
本日付の日付と、裁判所の重厚なハンコ。
書類を握りしめながら、加直は小躍りして歓喜した。もう、理不尽な制限はない。命綱は、再び彼女の支配下に戻ったのだ。
その書類を脇に置き、暫し瞑目。喜びを噛み締める。
やがて開かれた加直の視線が、テーブルに放り出されていた地方版の新聞に移る。
昨日の日付の欄外、生活欄に小さなベタ記事を見つけた。
【狂犬病を持つ雑種犬を捕獲、周辺住民に安堵広がる】
先週12日より、多間町付近で、右前足に銃弾によるものと見られる軽傷を負った大型の雑種犬が発見され、保護されました。この犬は、近隣の自治会、町内会でも狂犬病の疑いがあるとして注意喚起と目撃情報が呼びかけられていた個体です。
負傷により逃走できず、自治体の動物愛護管理センターの職員が捕獲に成功。センターによると、狂犬病の検査結果は陽性であり、周辺住民は一連の騒動の収束に安堵しています。
加直はゆっくりと眼鏡を外し、眉間を揉みながら片手で新聞を畳んだ。
唇からハーフコロナの葉巻を取り灰皿に置く。その手で熱を失ったコーヒーカップにそっと触れる。
……『アイツ』は、人間ではなく、狂犬病を患った犬だった。
彼女の頭の中で、全てのピースが結合する。
まず、あの夜。加直は路地に残された、赤い血の跡を確認している。熱々の豚まんとピザまんを強奪した『アイツ』が被弾したことの証拠だった。そして今、新聞には、「一週間前、この場所の近くで、銃弾による軽傷を負った狂犬病の犬が捕獲された」とある。
この寂れた商店街やその近辺の市町で、一週間の間に、銃で撃たれて負傷した狂犬病を持つ大型雑種犬が二匹存在した確率は、ゼロに等しい。
「右前足の軽傷」こそが、加直が放った三発の22WMR弾のうち、少なくとも一発が命中した場所であり、血痕の源であったと簡単に想像できる。
加直は確信する。あの晩の襲撃犬と、新聞記事の犬は、完全に同一の個体だと。
『アイツの同類なら知っている。いつも見ている』──自宅で飼う愛犬と同じ「種」でありながら、『見知っている顔とは顔つきも体格も性格も何もかも違う、別の種類の種族であるかのように恐ろしかった』。
その異質なまでの狂暴性は、狂犬病というウィルスの仕業だった。
『こんなところまで来やがったのか』という内心の苛立ちは、住民が怯える狂犬病の犬が、よりによって自分の生活圏に侵入してきたことへの憤りだった。加直も人間だ。異質な存在を知ると、感情で快か不快かでしか判断できなくなる。
そして、ミラータッチ共感覚の発現しない理由。……相手が人間(同種)ではないと瞬時に認識したため、脳がフィードバックの反応を起こさなかった。
彼女は咄嗟の瞬間に思考を停止させられ、根源的な恐怖によって反射的に発砲したが、本能的な行動の裏側で、彼女の共感覚は正確に相手を『非・人間』と判定していたのだ。
加直は冷めたコーヒーを一口飲んだ。
この一週間、彼女を非武装にして、精神的に追い詰めた、【過去の発砲例による『お礼参りの恐怖』】は狂犬病の犬という、人の理屈が通用しない、あまりにも卑近な脅威のせいで生じた理不尽な精神的被害だった。
そして、その直接的な脅威は、彼女の銃ではなく、地方自治体の動物愛護管理センターの職員によって既に排除されていた。
法律上の勝利は確定した。命綱──S&W M351c──を使用する権利も戻ってきた。
それでも彼女は、理屈では制御できないほどの疲労を負った。
彼女は手を伸ばし、ハーフコロナの赤い紙箱の隣に置いていた食べかけの板チョコを手に取る。次にコンビニへ行くときは、山のようなスイーツを買い込もう。
加直が甘味を欲するのはただの糖分によるエネルギー補給だけでなく、『自己の生命の価値を証明するための等価』の精算でもある。
«♯003・了»
