掌編【辺加直の鏡像】

 全てが落着した夜より一夜明けて。現在、午前7時。
 全身が重い。頭重。倦怠感。頭に霞がかかったように思考が働かない。……明らかな脳疲労だ。

 昨夜。
 昼間に加直は、店から連行されていく二人組の強盗の後ろ姿を見送り、現場である【辺金物屋】で警察の聴取が終わるのを待った。
 彼女は模範的な対応を終え、警官たちの前では常に『完璧な健常者』であり続けた。営業用の笑顔を消し、被害に遭った可哀想な店の主人代理の仮面を被る。
 実際に被害に遭ったのだから態々、演技の仮面を被る必要はないはずだが、彼女にとっては……自分のコンシールド許可証を問答無用で剥奪する権利を持つ警官やその関係者は強盗以上に強敵だったのだ。
 故に、完璧な『可哀想な人間』を演じて、『心に傷を持つ欠片すら感じ取られてはいけない』。
 駆けつけてくれた四人の警官たちの顔や体勢を細かく注意深く視る。人間は口と目だけでは喋らない。全身で感情や思考を語る動物だ。この働きこそが、人間が大脳辺縁系を古い脳と呼んで、大脳新皮質を新しい脳だと評価する所以だ。
 大脳辺縁系は食欲、性欲、快不快、喜怒哀楽、反射的情動、五感からの短期記憶などを司る。太古の祖先が最も望んだ機能が詰まった部位だ。
 大脳新皮質は知覚、運動、思考、記憶、学習、注意、判断などの高次な機能を担う。現代人にとっては最も有り難い機能が詰まった部位だ。
 古い機能と新しい機能が現在も稼働しているがゆえに様々な感情や認知の歪みやバイアスやヒューリスティックな問題や精神疾患が生まれてしまいやすい。
 毎晩、睡眠薬の世話になっている加直としては常に軽度の脳疲労で睡眠不足の、活力と覇気のない顔を警官たちに晒すわけにいかなかった。だから『被害者の仮面』を被り直す。
 その完璧な演技の裏で、体中に走る打撲や骨折の残響、そして精神的な極度の疲労が、加直の全エネルギーを食い尽くしていた。
 肉体疲労の根源は脳疲労だと言われるように、肉体がどれだけ疲労困憊でも脳が健常ならば昔ながらの気合や根性や努力である程度挽回できる。……今の彼女のエネルギーは脳が食い尽くして気を抜くと倒れそうなほど消耗していた。
 四人の警官たち。四人分のノンバーバルを読み取るのは想像を絶するほどの重労働だ。
 そんな時にいつも思う。

────ああ。『また行かなきゃ』……。

 と。そして一夜が明けて午前7時。
 食べなければ何も始まらない。こんな時は大脳辺縁系の存在意義がいかんなく発揮されてしまう。
 大脳辺縁系は飢餓、感染症、負傷に対しての防御や警戒に特化した脳でもある。多くの現代人が望む、ガン、心不全、脳卒中に対抗する機能は備えていない。大脳辺縁系は『今日を生きるために必要な思考』をする部位なのだ。
 重い体を引きずり、布団から這い出ると、のそのそとパジャマから普段着──水色のトレーナー、灰色の綿のスラックス──に着替えて、洗面や韜晦の化粧を済ませる。目の下のクマを隠す、黒いフレームの眼鏡をかける。自室を出る前にスマホや腕時計、EDCのブレードレスのアーミーナイフ、コンシールド許可証と紐付けられたマイナンバーカードがスラックスのポケットにちゃんと収納されているか確認し、クリップで止めるタイプのIWBホルスターを右腹のベルトの内側に引っ掛けてS&W M351cを差し込む。
 そして、10発の予備弾。
 日本向けに厳重にパッケージされた22WMRのブリスターパックをポケットに押し込む。
 この一箱に、税金という名の『喜捨』がどれだけ上乗せされているのか。その維持コストが、銃を『護身の希望』ではなく『逃れられない債務』に変えている。
 コンシールド許可証を持っていても、自分の銃以外の銃は撃つことも触ることもできない。それをすればその瞬間に『銃を奪い取ろうとした』と見做されて、即、コンシールド許可証と銃は剥奪、後に、刑事罰として裁かれる。更に、コンシールド許可証と紐付けされたマイナンバーカードを不携帯で銃を所持していた場合、発砲の如何は問わずに『銃砲刀不法所持』が適用されて銃と許可証の剥奪だけでなく刑事罰を受ける。
 通称コンシールド法の施行は『銃を持たせないために銃を持たせる法律』と揶揄されるのも頷ける。『それほどに弱者に優しくない』。
 銃は一人一丁しか所持できず、線状痕と製造番号と所持者の指紋が公安に登録される。銃は一括払いのみで中古品は法律上存在しないので、店頭で新品の銃の入手は簡単でも『自分に合った銃』の入手は難しい。更に国内の販売価格はメーカーの正規販売価格の1.5倍の値段で販売されている。おまけに日本政府が指定したメーカーの銃しか購入できない。ホルスターやクリーニングキットなどのアクセサリーは消費税が特別税の名目で30%も取られる。予備の弾倉やスピードローダーは更に個別に税金が発生する。……誰も彼もが自由に銃を手にできるほどカジュアルな法律ではないのだ。
 通称コンシールド法──正式名称・包括的秘匿所持法──は国民の命と財産と慮った最後の手段という触れ込みだったが、取得後の維持が難しく、早々にコンシールド許可証を銃と一緒に返納する人達も多い。
 台所で、同居する祖父の朝食を作り置き、自宅兼店舗の勝手口からそっと外に出た。
 勝手口から出るとそこは軽四車両一台程度なら十分に停められる庭が有った。組み立て式の物置と犬小屋が有る。
 庭の片隅に犬小屋があるが、主人が居ても強盗が居てもワンとも吠えない、番犬に不向きな雑種の可愛い駄犬「トメ」が寝息を立てている。
 加直は、左手首のクロノグラフを一瞥した。
 時刻は午前八時半。
 この時間に営業を始める、『困った時』の目的地へ向かう。
 彼女の脳は、ミラータッチ共感覚による無数の痛みのシミュレーションと、非言語的解析による生存戦略の計算を常時実行している──できるだけ無関心でいようと努力はしている。──ため、膨大なグルコースを消費していた。
 昨日昼間の強盗との対峙は、その負荷を限界まで引き上げた。即ち、空腹だ。
 イメージ的には飢餓の状態に近い。
 それこそドカ食いすれば即座にリフィーディング症候群で致死するのではないかと錯覚する。
 一刻も早く、純粋で、何の雑味もない、高カロリーのエネルギーを補給しなければ、彼女の『防御壁』は崩壊する。……崩壊するような気がした。
 向かう先は、【辺金物屋】がある商店街の並びにある、レトロな雰囲気のフルーツパーラー『月見里』(やまなし)だ。
 ドアを開けると、店内には甘く濃厚な砂糖と、熟した果実のフレッシュな香りが満ちていた。そこへふんわり珈琲の匂い。
 ここの香りは、加直が日常的に感じる、他者の不快な感覚の粒を一時的に掻き消してくれる、救済の香りだった。その効果たるや、まさに甘いモルヒネだった。そう表現したくなるほど、この店のメニューには助けられている。
「いらっしゃいませ。おや、辺さん、『今日も?』」
「はい、マスター。いつもの」
 五席のストゥールが並んでいるカウンター席に座り、簡潔に中年男性の痩せたマスターに告げる。
 加直が「いつもの」と注文するのは、生クリームと小倉とバターをふんだんに使い、更にこの店自慢の蜂蜜を最初から垂らしてある、メニューの中でも最もハイカロリーな部類に入る『大きな小倉トースト』だ。
 そのメニュー名に偽り無し。トーストというにはあまりにも大雑把な暴力的なグルテンの塊が鬼のサイコロのようにプレートの真ん中で鎮座している。
 モーニングメニューで先着五名まで。だが、常連で一人で完食する猛者は指で数えられる程度しか居ない。
 その指折りの一人が加直だ。
 そしてマスターも十分に承知したもので、顔色が優れない加直が「いつもの」と言えば、この『大きな小倉トースト』しか供しない。それほど、この店でエネルギーを頻繁に補給しているのだ。
 十分後。目の前に運ばれてきた『大きな小倉トースト』は、まるで小さな塔のようだった。
 大皿というよりプレートに載せられたそれ。
 濃密な生クリームと小倉あんのコントラストが、バカが想像する厚切りトーストの上で燦然と輝き、黄金の蜂蜜を纏いながら存在を誇示。何よりも特徴的なのが、プレートの周りを飾り立てるように並べられた厚切りベーコン。
 ベーコンはフライパンで程よく火が通され、塩コショウだけで味付けされている。……小倉トーストの甘さをリセットするための塩分なのだが、発想が男子小学生だ。
 加直は黒いフレームの眼鏡を外し、折りたたんで首元に引っ掛ける。元から伊達メガネなので眼鏡はなくとも不自由しない。目元のクマを隠すための道具でしかない。
 普段の彼女の顔を隠す武装を解く瞬間だった。
 ナイフとフォークを手に取り、躊躇なく、頂点の生クリームを大きくすくい上げ、口に運ぶ。蜂蜜が糸を引く。
「……ん」
 とろける冷たさと、爆発的な甘さ。
 それは脳の奥底に直接打ち込まれた、思わず打ち震えてしまう、純粋な幸福感だった。
 枯渇していたエネルギーが急速に補給されるのを体感する。
 小倉トーストを食べ始めた瞬間、世界から一切の喧噪が消えた。
 他者の皮膚が切れる痛みも、骨が軋む鈍い衝撃も、心臓が脈打つ速さも、この圧倒的な、語彙力を失くす甘さの暴力の前には無力だった。
 今、加直の脳が全身に対してフィードバックしているのは、彼女自身の舌が感じる最高の快楽と、飢餓状態の細胞が貪るようにエネルギーを吸収する、ただそれだけの感覚だ。
 生クリーム、小倉の山と一緒に表面だけに薄っすらと焦げ目がついた特大の直方体トーストをナイフとフォークで一口ごとに切り崩して口に押し込んで、その爆ぜる甘味を味わう。トーストのパン自体もカスタードとチョコレートが練り込まれた特製のもの。そして、トーストの中には、糖度が糖尿病患者には絶対禁止の数値を誇る甘さの季節のフルーツがカットされて詰め込まれている。フルーツの隙間はバニラクリームで埋められている徹底ぶりだ。
 ストレスにより彼女の硬直していた首筋の筋肉が緩み、張り詰めていた眉間の皺が伸びていく。
 激痛の予感に怯えて『備えるために』、常に硬くなっていた右腕も、今はただバニラクリームまみれのフルーツを掬うスプーンを持つという穏やかな動作に専念している。
 目の前の甘味は、何の矛盾も、何の痛みも伴わない。 これは、加直の能力を維持するために不可欠な燃料補給であり、同時に心の傷を癒すための対処療法的な精神安定剤でもあった。
 加直にとって、この甘い特大のトーストを味わう十数分間こそが、『今、自分が、辺加直という一人の人間として、痛みから完全に解放されている』ことを確認できる、ささやかな幸せな時間だった。
 加直は、一口、また一口と、爆発するような甘さを貪り、体内のあらゆるセンサーが潤って快楽に乗っ取られていくのをニューロンレベルで感じていた。
 この時間だけは彼女の脳は「痛み」ではなく「幸福」を最優先事項として全身に伝達する。
 三口目を口に運び、眦を下げて目を閉じた、まさにその時だった。
「……マスター。ちょっと、金を貸してくれねぇか」
 低く、掠れた、それでいて明確な、絶望のトーンを持つ声が、店内の静寂に対して、濡れた紙をゆっくりと引き裂くように冷たい空気が入り込むのを感じる。
 加直の安息の泡が一瞬で弾け飛ぶ。満足そうな瞑目が硬直し、ゆっくりと開かれる。
 目を開くと、カウンターの端、彼女から最も遠い席に、一人の若い男が立っていた。
 年齢は二十代前半。清潔感はあるが、眼窩が落ち込み、瞳孔は不安定に揺れている。何度も喉仏が上下する。肩が少し吊り上がり、右手はスウェットのポケットに突っ込まれているのか? この位置からでは、加直は彼の左側面しか視界に捉えられない。
 彼の全身から発せられる微細な信号は、昨日の強盗が持っていた悪意とは異なる。『破滅』的な表情が横顔が伺える。
 加直の全身に、熱を持つ疼痛を伴う不快感が駆け巡り始める。
 熱くも、冷たく、言語化が難しい不快な感覚だった。

────ヤケを起こさないで! この店でだけは何もしないで! 『何も起きないで!』

 加直のノンバーバルなプロファイルの経験上、あの表情をした人間はスラングで言うところの無敵の人に分類される傾向が高い。
 マスターの返答を問わずに辺りを『全て巻き込んで』道連れにするつもりだ。……人の殺傷や器物破損だけが危害とは限らない。
 この手の口調と表情、呼吸のパターンは……多大な不快感を撒き散らしてその場の空気を最悪にして精神的なダメージを追わせることで、自分の存在を覚えさせるタイプに分類されやすい。
 やや肩が前方に巻き込み気味。ストレートネック。スマートフォンの情報に飲み込まれてドゥームスクローリングが止められなくなった結果、ネガティブ思考が強化されたのか。……小さな板切れの中の膨大な情報の中の僅かな輝きだけを見ていれば妬みが生まれ、そこで生まれた認知的不協和はこの世の理を覆す方法を逃げるように探索する。小さな『嫌な感情』が複合的、多面的、多層的な理由が重なって認知を歪めることは全く珍しくない。
 男の肩は小刻みに震えだす。左足の重心は、逃走ではなく、『その場に崩れ落ちることを望んでいる』証拠だ。しかし、それに反して、おもむろにポケットから抜かれた彼の右手には、隠し持っていたであろう、鈍く光る木工用カッターナイフが握られていた。
 刃は最も長い位置で固定されている。
「申し訳ないね、お客さん。うちじゃそういうご要望にはお応えできかねます」
 マスターは彼を真正面から見据えて、少しトーンを落として落ち着いた声で返しつつも、その痩せた肩が僅かに硬直しているのを加直は見逃さなかった。
 男はマスターの返答を聞かず、感情の発露のようにカッターナイフのグリップエンドをカウンターに無言で叩きつけた。
 派手な衝突音を機に、店内の三人ほど居た客は我先にと逃げ出す。逃げた人数は数えていないが、足音で人数や性別や年齢が分かる。
 カッターの刃先をマスターに突き出して、脅す。
「ふざけんな! 俺はもう終わりなんだ! 『お前の店も、終わりなんだよ!』」
「あんたは今日初めて見る顔だが、私になにか恨みでも?」
 マスターは峻厳な目で男を睨み返しながら抑揚を感じさせない声でカッターナイフの男に問い返す。
 男は叫び、ナイフを握ったままカウンターを乗り越えようと、体勢を変えた。
 次の瞬間、艶消し黒の小さな拳銃が、カウンターの上にゴトリと置かれた。……小さく重い異質な音がその場の空気を違う化学変化で凍てつかせる。
 小倉トーストの山を半分ほど胃袋に収めた黒いフレームの眼鏡を掛けた若い女の右手側に小さな、しかし十分に異質な恐怖をアピールできる物体が鎮座していた。
 その女──辺加直──は男に視線を突き刺すように睨む。
 加直はカトラリーを置き、右手をそっとS&W M351cのグリップに置く。握る気配だけをわざと悟らせる。
「動かないで」
 加直の声は静謐を湛えていた。一切の感情が乗っていない。……彼女の瞳は、得体の知れない深淵を想起させる虚無の陰りを帯びていた。
 男の動きが凍り付く。『彼女の目は怖い』。男の心に叢雲のように恐怖が湧き起こる。
 彼の目は、銃口から、その銃をゆっくりと握る加直の目へと移った。
 左手で黒いフレームの眼鏡を襟元から取り、片手でフレームを一振りして眼鏡をかける。
 甘味の歓喜に浮いていた感情を完全に覆い尽くす武装を纏った顔。
「『あんたの狙いは金じゃない。自己破壊だ』」
 加直は冷徹に言い放った。
 ゆらりと彼に向けようとする銃口。
 まだ警告は発していない。今の段階で銃口を向けると違法だ。銃口はいつでも向けられる。警告を発し、それを証明してくれるマスターも居る。
「あんたの瞳孔の収縮と、喉仏の上下、それと頻繁に下唇を舌や歯で触れるのは、身体が『生存』を望んでいる証拠だ。『心の中でなにかの葛藤や齟齬が発生しているのだろうな』。だが、左足の重心と、このカッターナイフの握り方は、攻撃……『破滅』に傾倒している。明らかに危害を加える人間の力み方だ。それも初めて人に危害を与えようとする人間特有のこわばりがある。この矛盾が現れるということは、端的に言えば、あんたは『あんたを追い詰めている』」
 男は言葉を口を噤んだまま顔を土気色に変える。
 まるで自分の内面をレントゲンで透視されたかのような、見抜かれた感覚に襲われている。
 否、それ以上に自分でも訳が分からないことを、自分よりも分かりやすく言葉にして突きつけてきた。
「今、あんたが取る行動の選択肢は二つしかない。一つは、僕に発砲させること。この距離なら、あんたのバイタルゾーンを外し、確実に四肢を機能停止させられる。もう一つは、僕を無視して『自傷行為』をすることだ」
 加直は、左手でトーストに添えられたナイフとフォークとスプーンを、プレートの端でカチリと音を立てて揃えた。
「どちらを選んでも、あんたの絶望は終わらない。警官が来るまでの間に、あんたは『痛み』か『後悔』しか得られない」
 彼女は、銃口を向けず、グリップを握ったまま、まるで彼の絶望を鑑別する内科医のように言葉を続ける。
「あんたが本当に欲しいのは、痛みでも、金でもない。『くそったれなシステムのリセットだろう?』……マスター」
 加直はマスターに静かに呼びかけた。
 『くそったれなシステム』。【この世間とその仕組み】。
 「通報してください。……『動くな。動くと撃つ。眼の前で人が刺されようとしているから緊急避難として引き金を引くかもしれない』」
 加直はわざと『引き金を引くかもしれない状況』をマスターに説明した。『男に警告し、自分に代わって通報してもらう依頼』を明確に口頭で述べた。これでいつでも発砲できる。
 かくして、男は、膝から崩れ落ちた。
 論理的な逃げ道を全て塞がれ、感情が覚めるほど、自分の動機を分析されたことで、彼の抵抗の意思は打ち砕かれた。
 彼はカッターナイフを床に落とし、両手で顔を覆い、しゃくりあげるような嗚咽を漏らした。
 加直は警官が到着するまで銃口をレストマシーンに固定したように男の右脇腹を狙っていた。彼女自身も撃たれた衝撃を予想してしまい、精神衛生に良くない状況だ。
 ……早く警察が駆けつけてきてくれないものか。
 熱を失いつつある小倉トーストに時々視線を投げて、体に入り込むミラータッチ共感覚の不快感を打ち消そうと試みる。
 この後、警察に彼が連行されて聴取が終わるまで二時間も経過した。

 男がその場に崩れ落ち、連行された。
 警官の聴取に二時間を費やし、スマートフォンの向こうで祖父の怒りが耳鳴りがしそうなノイズとなる中、エネルギー補給を阻害された加直の視線がカウンターの小倉トーストに何度も視線が向けられる。
 加直は冷え切った小倉トーストのひと切れを口に運んだ。先に聴取が終わっていたマスターがサービスでいつも糖分補給の最中に注文するコーヒーを淹れてくれる。
 甘さの値打ちは薄れても、これは心の防御壁を維持するための不可欠な燃料だ。
 脳が予想する痛み良き不安が遠退き、幸福ではなく無味無臭で乾燥した静寂が脳内に訪れる。
伊達眼鏡という武装をかけ直し、彼女はストゥールに座り直す。
「……今日も一日」
彼女は、そう独りごちると、終わりのない生存タスクの重圧を背負い込んだ顔で、疲れを帯びた顔で、静かにコーヒーカップを手にした。
 淹れたての湯気が立つコーヒーの熱が日常を、漸く返却してくれた。

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