掌編【辺加直の鏡像】

 昼二時を過ぎ、商店街はようやく本格的な活動を始めた。
 第一商店街が華やかな活気に満ちているのに対し、第二商店街は穏やかというよりは閑散としている。風が強く、時折古い建物の間に埃を巻き上げる。
 加直が首をついと上げたその時、店の外からけたたましいサイレンの音が近づいてきた。救急車とパトカーだ。サイレン音から鑑みるに、商店街の角を曲がり、駅とは反対方向の国道方面へ向かう。
「また事故かねぇ。この辺は年寄りが多いからねぇ」と、買い物に来ていた常連の老婆が言う。「ああ、いやだね」と、加直は相槌を打ちつつ、心は事なかれ主義を貫こうとするが、脳がロアスタシスの挙動を見せる。……「何か起きる」事を前提とした予期不安を伴うストレス。
 サイレンの音は一つではない。複数台のパトカーが現場に向かっている。ただの物損事故や単なる老人の転倒ではあり得ない規模だ。
 反射的に、加直の『焦燥のペルソナ』が表出する。
 眼鏡を外して眉根を揉む。新しい問題の発生。――このノイズは、なんとかして鎮めなければならない。少なくとも軽減させねば。
 今回のサイレンが運んできたのは、物理的な騒音だけではなかった。
 それは「強烈な恐怖と、それを覆い隠す冷酷な安堵」という、異質な感情の奔流だった。
 ミラータッチ共感覚がその不協和音を皮膚を通して受け取り、神経を不快に撫で上げる。
 加直の多動思考は、制御不能な疼痛と激痛が混じった感覚と共に発動した。常連客の老婆がくわばらくわばらと呟いて店から出た後に加直は店の奥の休憩スペースに向かって声を掛けた。
「ちょっと出てくる。『なんだか気持ち悪い』」
 と、祖父の恵悟に声をかけ、加直は金物屋の裏庭から路地を抜けて国道へ向かった。
 恵悟はその声色から察したのか、「ああ、気を付けて」と返答しながら、店の奥から出てきてレジカウンターの席に座り込んだ。
 加直が行動に出た動機は、精神的平穏を取り戻すため。心を乱す歪みを特定し、外部へ切り離す――不快を解消――ことだ。
 現場は辺金物屋がある【室中センター第二商店街】と【室中センター第三商店街】との境界近く――競合しない程度に開いた距離――にある交差点だった。
 人通りは少ないが、制服警官が規制線を張り、数台の車両が停まっている。
 加直が到着した時には既に事故処理が進められており、一見して交通事故だと判明した。
 乗用車が電柱に突っ込み、その手前で自転車が横転している。
 自転車を運転していた人物は既に救急車で運ばれたようだ。地面に生々しい血痕が有るが大量の出血ではない。……尤も、頭部を負傷していればどのように事態が転がるか分からないが。
 加直は規制線の外側……野次馬の最後尾に立って状況を観察した。様々な感情が渦巻き、ノイズが物理的圧力となって加直を押し返さんばかりに、見えない壁を作っているのかと錯覚する。
 警察官が事故の関係者と思われる、二人の男性から事情聴取をしているのが、遠くに見えた。どちらが運転手でどちらが同乗者だ? いや目撃者か? ここでは判断が付かない。
 加直は、彼らの「言葉」そのものには殆ど注意を払わなかった。
 人間の言葉は、自己防衛や社会的な適合性のために、常に意識的な検閲が加えられ、真実がねじ曲げられやすいことを経験から知っている。彼女が読み取るのは、深層心理が発する非言語的な信号だ。姿勢や指先、爪先から言葉の下に韜晦しているかもしれない情報を読み取ろうと目を細める。
 加直にとっては非言語情報を読み取るために集中に埋没すると、ドーパミンが側坐核を刺激してその余波で、恰も麻酔が効いたようにミラータッチ共感覚の雑多な不快なノイズが薄れるのだ。……勿論、集中力が視線の先に固定されるために、その集中を解いた瞬間に脳の恒常性が働いて、疲労感を覚えてしまう。
 警官が免許証を見ながら男を見た。中年。50歳くらい。やせ型。恐らく、車の運転手だろう。事故の状況を説明しているのだろうか。
 彼はしきりに左手の人差し指と親指で顔の鼻から上を覆い隠そうとした。これは『隠蔽』に分類される仕草で、加直の経験上、これは何かを見たくない、あるいは隠したいという潜在意識の表れだと感じた。
 また、同乗者或いは目撃者と思われる男性は、質問を受けるたびに、無意識に左足の爪先を車の運転手とは逆の方向に向けた。これは逃走の意図、つまりこの場から早く立ち去りたい、あるいはこの人物――運転手か? 警官か?――との関わりを断ちたいという強い願望を示している。
 さらに、二人の会話のピッチとトーンは、喉仏や胸鎖乳突筋、唇の動きから察するに、表向きは事故に対する動揺と悲嘆を示しているが、その根底に流れるリズムは奇妙なほど一貫して平坦だった。
 これは、感情的な衝撃を受けた人間が通常見せる混乱や脈絡の欠如とは異なり、事前の計画やリハーサルによって感情の起伏が抑圧されている状態を強く示唆していた。
 感情的になったり衝撃的な体験をするとHPA軸がストレスを発しノルアドレナリンとアドレナリンを分泌する。すると呼吸が浅くなり、早くなる。そうなれば、一息分の呼吸で一文を一気に話さないと息が持たないので、早口で感情的な声になる。
 声が聞こえなくとも、唇の動きで分かる。日本人の会話での一分間の平均的な字数は三百字。あの二人はその三百字分にも満たないスローな速度で警官と話をしている。『明らかに用意していた文言を思い出して再生している』。
 加直は、この二人の非言語的行動と、事故現場のあまりに定型的な配置を照合した。

――――これは……事故ではない?
――――仕組まれた、か?

 違和感と不審を覚えた加直は、両腕を組んだまま、軽く握った左手で口元を覆った。……彼女は無意識に『思考のペルソナ』を被る。
 被害者は病院へ運ばれた。乗用車は電柱に突っ込んでいる。運転手と同乗者或いは目撃者と思われる男――中年男性。60歳近い。やや小太り――は共犯の可能性が高い。
 問題は、なぜ、そしてどのように。
 現場からして『自転車が突然飛び出してきた』と解釈させるに足る痕跡があった。
 実際の供述は全て聞いていないので何とも判断できない。加直の知覚推理は、現場のブレーキ痕と、乗用車が電柱に突っ込んだ角度、そして自転車の損傷具合から、運転手が警官に『ジェスチャー』交じりで主張するような「自転車が急にハンドルを切ったので避け損なった」のではないと疑い始めていた。
  左手の人差し指と中指で、黒縁眼鏡を正す。思考の方向がまとまってきた。それは方向であって『進路』ではない。民間人の加直が個人的な不快を解消するために、警察のように捜査するのも苦痛を堪えながらここで長居するのも間違いであるのは分かっていた。
 加直が注目したのは、もう一人の立場不明の中年男性。……目撃者だと判明した中年の証言内容の『完全性』だった。
 事故という非日常的な強い情動を伴う出来事の記憶は、本質的な部分は残るものの、周辺情報は容易に変質し、証言者にとって都合の良い解釈へと無意識に置き換えられることが知られている。
 真実の目撃者は、細部において自信がない箇所には、曖昧な感情表現を示すものだ。
 しかし、あの目撃者が証言する『姿』――背筋、顎の向き、膝と肘の安定――は、あまりにも平静が保たれ、感情的な揺れがなかった。
 この完璧さは、寧ろ記憶が生きた経験ではなく、事前に準備されたスクリプトとして脳内に定着している可能性が高いことを示している。
 人間の脳は、自身の行動を正当化するため、無意識下で矛盾する情報を排除し、自己を守るためのストーリーを再構築する傾向がある。『共犯者』にとって、それは「被害者を事故に見せかけて排除する」という目的を達成するための、唯一無二の物語でなければならなかった。
 加直は何度か、自分の認識を正した。
 勝手にこの事故を事件だと決めつけていないか?
 勝手に容疑者と被害者が存在する事件に仕立て上げていないか?
 自分の能力を誇大性で評価していないか?
 それらを何度も多角的に観察して、可能な限り確率的に正した上で、加直はこの事故は怪しいと判断した。
 加直は恵悟に「少し疲れた。少し休んでくる」とスマートフォンでメッセージを送信し、踵を返していきつけのフルーツパーラー【月見里】へ向かった。
 事故の現場である商店街の境目の通りから離れているが、ここのスイーツは多動思考のエネルギー補給に最適だった。店内はいつもの落ち着いた雰囲気でコーヒーの香りが加直を歓迎してくれた。加直はいつものコーヒーとチョコケーキセットの注文を店主に投げかけながら、テーブル席に座る。雑記や備忘に使っているメモ帳を開いて、ボールペンを手に取り、さて、と思考を整理することに集中する。指先から伝わるペン先の心地よい感触が加直を少しだけ安息させる。
 加直は、積極的に情報を探ることはしない。それは警察の役割だ。彼女はただ、ミラータッチ共感覚によって感じた『偽りの感情』がなぜ発生したのか? という、論理的な理由だけを知りたい。
 自分に理屈で説明できる状態に収束すると、脳はその出来事を『終わった案件』として記憶から処理する性質を持っている。その案件が終わっていないといつまで経っても脳内の端を占拠してしまい、ワーキングメモリが低下するだけでなく、他人の感情のノイズの影響を受けやすい状態になる。……早い話が、不安定なままの放置は文字通り、精神衛生に良くないのだ。一般的にツァイガルニック効果と呼ばれている心理的効果が悪い影響を及ぼしている。
 事件を解決するつもりはないが、自分の悩みを解消したいので、自分の可処分時間を犠牲にしている状態だ。
 この悪循環は何とかしたと思っている。
 自分の精神衛生を守りたいだけという、自己中心的な思考が結果的に近所の様々な事件やトラブルを解決してしまい、組合長に都合のいい政治の道具に使われてしまう始末。
 一時間ほど【月見里】で脳内の混雑を紙に書き出し、バイトの辰野茉莉をコーヒーを飲みながら愛でて、心のささくれを処理する。
 結局のところ、今日はこれ以上の収穫も進展もなく終わった。
 加直としては正直なところ、このまま一夜明けたら、全て記憶の外に放り出されて、昨夜の事件か事故か判然としない時に感じた野次馬のノイズも忘れていればどんなに楽だろうと思っている。
 事件は解決していないが、ノイズの発生源とその不快感を忘却できれば、加直の悩みは消える。悩みを消す事がそもそもの動機なのだから。

 ※ ※ ※

 事件発生から三日後の金曜日。
 午後三時の休憩時間。
 加直は【月見里】で旬のパフェを細長いスプーンで形状の保持に細心の注意を払って突きながら、隣席の地元のマダムたちが交わす、ローカルな噂話に耳を傾けていた。
「あの土建屋の社長さん、大変なことになっちゃったわね。事故だっていうけど、やっぱり色々恨み買ってたみたいよ」
「ええ、聞いたわ。特に酷かったのが、あの社員だった小野さん。あれ、社長から濡れ衣を着せられて、退職金もまともに貰えずに訴訟してたんでしょう?」
「そうそう。あと、第三商店街の電器屋の主人もね。昔、社長と仕事で揉めて、大きな損失出してたって」
 加直は、パフェを食べる手を止め、静かにスマホを操作した。
 マダムの噂話が気になったのと同時に、マダムの会話の熱の変化がノイズになり、加直の肩や背中をまさぐるように這い出したのだ。
 ローカルニュースサイトや経済新聞の小さな記事を過去に遡って検索する。
 個人情報ではなく、公に報道された「土建屋社長の訴訟と係争中の相手」という情報だけを抽出する。
 三日前の自転車を巻き込んだ事故の運転手――小野一(おの はじめ)というらしい――と目撃者が、被害者と過去に対立があった電器屋の主人だと推測できた。
 彼らは、被害者を亡き者にし、それを交通事故に見せかける動機を共有していた。『今の時代では特に珍しくない殺害動機』だ。

――――動機はアリか……。
――――問題は、どうやって人通りで事故を偽装したかだよね。
――――そもそも、偽装というほど……大袈裟な絡繰りはない可能性が高いよね?
――――場当たり的というか……事故を偽装をするには不確定要素が多過ぎるなぁ。野次馬が集まるのを計算していなかったわけではないでしょうに。
 加直は、眼鏡をずらして眉根を揉みながら、事故現場の交差点に改めて思考を飛ばす。
 現場は、被害者が自宅へ帰る際のルート上にある。
 事故の瞬間の情景を脳内で再構築した。
  運転手は「自転車の飛び出し」を主張。ブレーキ痕は短い。 これは、被害者が飛び出したのではなく、止まるべき場所で止まらなかったのだ。……一応、その仮説は通る。
 事故の発生は昼間二時近かった。人通りは少なめ。この状況の設定ならば、大胆な偽装が辛うじて可能だ。交差点の信号が変わるまでの一瞬だが。そして、『人だかりができるまでに、小野という被害者に重体に近い重傷を負わせれば』あとは、衆人環視に晒されても問題は低い。都市部のでの歩きスマホによる不注意な事故から求めた計算によると、全年齢を平均して約四割超の人間が視界の情報をスマホに向けながら歩いている。人口密度が高くない街での衆人環視下での事故の偽装を工作するのには十分な割合だ。その割合に頼った、実に脆い作戦であるが……。
 加直の推理としては、この偽装計画の真の目的は、殺害ではなく、『法的な痕跡を残さずに、重篤な外傷を負わせ、意識を奪うこと』にあるのではないか? という点に焦点が絞られている。
 運転手は、自転車に乗る被害者が交差点に差し掛かるタイミングを見計らって、わざとゆっくりと車を動かし、被害者の進路を妨害する。
 被害者が進行を妨げられ、自転車を停止させ、苛立ちを覚える。
 その刹那、目撃者の田村が背後から被害者に近づき、被害者の小野に声を掛けるなり自転車の荷台を引くなどの方法で、こちらを振り向かせ、小野の視線と意識が分散した一瞬に鈍器で後頭部を一撃――後頭部でなくとも、意識をなくすほどの重症なら何処を負傷させてもよかったのかもしれない――し、意識を奪って自転車ごと倒す。
 直後、運転手が車を急発進させ、電柱に突っ込み、事故を偽装した。自転車は車に轢かれたようには見えないが、倒れた被害者の頭部を車輪でかすめるか、あるいは衝突の衝撃で、被害者は重篤な外傷を負う。……負ったかのように見える。
 この方法なら、証言は「突然自転車が飛び出してきて、急ブレーキを踏んだが避けきれずに電柱に突っ込んだ」というストーリーが一応成立する。そして、車の運転手は電柱にぶつかったショックで動揺しているという演技ができ、頭を覆う仕草も自然に見える。目撃者は駆けつけるであろう警官に対して説目を果たせば、『事故を見て証言をした善良な通行人』として立ち去る機会を得る。
 加直の脳内でパズルのピースが微妙に嵌らない。考え事がまとまりそうでまとまらない。否、まとまり過ぎるのだ。素うどんのようにシンプルで捻りがない。勿論世の中の悪人や犯罪者やその予備軍全てが高知能者で、綿密な計画を立てて緻密に実行するわけがない。
 簡単に筋書きが読めてしまうので、自分の見落としを警戒して何度も『この事件のブラックボックス』を無理に探そうとする。思い切ってハンロンの剃刀で思考しても、逆にヒッカムの格言を当て嵌めても、司法権の無い加直には、越えられない情報の壁が存在する。それこそ下手の考え休むに似たり、とまで考えが及ぶ始末。
 彼女の思考の停滞気味を表すように、左手の人差し指と中指は眼鏡を何度も正した。

――――他に考えるのは……鈍器の処理と、二人が接触した証拠なんだけどねぇ。

 加直は、目撃者――田村正介(たむら しょうすけ)。電器屋の主人――に対面する必要性を感じた。……今の加直は、悩みの解消が先走ってしまい、視野が狭くなっている。
 結局、加直は事件解決のための名目を誇大し、自分の行動の正当性を、自分の狭い世界の正義で自己弁護した。

 彼の家は港湾部寄りの古い住宅街にあった。加直は、地元の商工会名簿や古い電話帳のデータを照合することで、彼の住所を知ることができた。
 夜8時。店の前と店内の片づけを終えて、金物屋のシャッターを締めて、家中の戸締りをする。祖父の恵悟には心配させないために、港の倉庫を見に行くと告げ、社用車のワゴンで走る。
 日はとうに落ち、辺りは暗い。港湾部特有の潮の匂いが混じった風が吹いている。この付近に辺金物屋が所有する倉庫が有るので、恵悟には『大きな嘘は言っていない』。

 目撃者である田村正介の自宅を、はす向かいの電柱の影から伺う。
 今では珍しくもなんともない寂れた住宅街の一角。空き家こそは確認できないが、築年数四十年越えの住宅が圧倒的に多い。昨今の狂犬病を持った野良犬騒ぎで、少しばかり地方紙で有名になった程度の地区。それはここだけの、この地区やこの街だけの問題ではなかった。
 人通りは皆無。注意すべきは人よりも狂犬病を持っている野良犬の存在だ。
 加直は、その自宅の近くにある地区のゴミ捨て場に、古い作業着の切れ端が捨てられているのを発見した。
「……これは!?」
 加直が経営する金物屋で扱っているものと同じ、特殊な錆止め塗料の匂いが微かに残っている。この塗料は使い道は一般的ではないが、その方面の業界では常套のように使われるものだ。辺金物屋でも小売りで扱っている。

――――まさかね……。

 脳裏にふと、被害者の小野一が勤めていた会社が土建屋だったことが浮上する。土建の現場でも使われているが、関連性を決定づける断定材料にはやや遠い。
 加直がその切れ端を指でつまんで採取しようと屈んだ瞬間、背後の空気の『歪み』をミラータッチ共感覚が捉えた!
 不快なものを細分化することに関しては天賦の才とでも言わんばかりに発達したミラータッチ共感覚の持ち主である加直には、ノイズの性質だけで性別が分かる。
 男の感情から発せられるノイズ。
 まるで熱した剣山のように加直の皮膚を内側から突き刺す。そこから伺い知れるそれは、『秘密を知られたことによる極度の恐怖』と、それを打ち消すための『瞬間的な排除の焦燥』だった。
 激しい頭痛と吐き気が加直を襲う。
 全身の不快感を嚥下した顔になる加直。
 「君、何をしている?」
  振り返ると、そこにいたのは、あの事故現場で目撃者として供述していた男だった。中年男性。六十歳くらい。やや小太り。……田村正介。
 彼の顔はあの時の『動揺した善良な通行人』のそれとは全く異なり、冷たい警戒心に満ちていた。
 ミラータッチ共感覚が告げる感情の荒いノイズは、加直の存在を『排除すべき脅威』と認識……否、『認定』している。
「ああ、すみません。ここのゴミ捨て場から、仕事場で使っているモノと同じ匂いがしたものですから」
 加直は普段の『奥ゆかしいペルソナ』を保ちながら、曖昧な言葉を選んでへらっとした微笑を浮かべて、申し訳なさそうにも見える愛想笑いで答える。
「ただの仕事上の興味です。この辺りは、珍しい塗料の匂いがしますね」
 加直の言葉が田村の警戒すべき部分を突いた。態と同じワードを何度も被せたので『何れかに引っかかるだろうと思っていた』。
 田村は瞬時に顔色を変え、顎先を擦るように右手親指の先端で撫でた。
 全身から発する感情のノイズが、『動揺』から『敵意』へと切り替わるのを加直は皮膚で感じる。
 人間は認知と感情が変化すると、脳内伝達物質を通じて行動と身体活動に連動した変化が現れる。虚を突かれて驚くとアドレナリンが分泌しロアスタシスが働き、血圧が変化する。すると毛細血管が収縮し、迷走神経が走っている部位――鼻や鼻の周辺、耳朶、顎先、顎関節周辺など――に僅かな痒みや違和感を覚えて、無意識に触れてしまうのだ。
「知ったことか。とっとと失せろ、この出しゃばりめ」
 田村はそう言いながら、肩を怒らせ、ポケットに右手を深く差し込んだ。
「『出しゃばりめ』。ですか?」
 加直は底意地の悪そうな顔で――勿論この演技をするのにも相当なストレスを胸の内に押し込んだ――やや上目遣いに自分と身長が変わらぬ田村の顔を覗き込んだ。
 加直の眼には「今、なんと言った?」という、確認の意味を込めた興味深そうな色が浮かんでいる。……浮かべている。
 加直の脳裏に、田村が右手をポケットに突っ込んだのを目視しているので、コンシールド許可証剥奪のトラウマが自動的にフラッシュバックする。
 しかし、ミラータッチ共感覚が伝える『即時的な生命の危機』が、法的な制約よりも優先された。
 加直は右腋を軽く開いて左軸足に重心を移す。
 彼我の距離四m。
 脳内で、即座に右腹のIBWホルスターへ右手を伸ばし、S&W M351cを抜くシミュレーションを生体電流の速さで何度も繰り返す。
 このシミュレーションは多動思考ゆえに、神経可塑性によって鍛えられているので、少ない認知資源で難なく行える。
 行えなければ自分が死ぬという恐怖が付きまとうからだ。
 強迫観念的なハビットが彼女を助けているのだが、彼女自身はそれに自覚がない。
 その時に備え、「動なないで! じっとしていて! お願いです!」と、加直は、非常時に投げかける文言を脳内で選択して口の奥に用意する。
 『その時』が来れば。
 平坦だが芯のある声で警告しようと筋書きを描く。
 これもまた、彼女が生きるのに閉塞している理由の一つだ。自分で勝手にこれから先のストーリーやセリフや展開を用意し、その通りに進まず、予想外の展開になると、直ぐに修正する能力に認知資源が大幅に割かれて思考にラグが発生する。……彼女の読みが『大方、当たっているので、大きなパニックを誘発していないだけだ』。
 田村はたじろいだ。
 加直の持つ双眸が、その瞳が訴える本質が、非常に危険であることに気づいたのだ。
 しかし、彼にとって秘密の露呈は、自らの人生の終わりを意味する。田村はポケットから黄色い樹脂グリップの木工カッターナイフを取り出そうと、右手を引き抜く。
 加直は躊躇しなかった。警告はした。敵対行動も明白だ。 田村との距離は約四m。
「!」
「『動なないで! じっとしていて! お願いです!』」
 両者の狭間に無限の闇が広がる。
 加直はIBWホルスターからS&W M351cを抜き、右腰の辺りで銃を右手だけで保持して、田村の澱む目を凶眼で射貫く。
 加直の『相手を恫喝するペルソナ』……自分のあらゆる意思を抑え込み、苛烈な不快を嚥下し、苦手な『獰猛な演技の容貌』で相手を圧倒する。
 コンシールドキャリーとして銃を持っていながら、加直の事実上の最終兵器であるペルソナだ。
 危害を加える者には容赦しない意思を表明している。
 同時に大量のグルコースを消費するために、二十四時間以内に反動で酷い精神運動抑制を招き、文字通り動けなくなる。
 銃口を構える彼女の顔こそは凶悪極まりないが、銃口が実際に捉えているのは非致死性の領域、つまり相手の左脇腹の贅肉だ。この辺りに銃弾が命中すれば血液は派手に噴出するだろうが、生命維持に重要な器官は無いので、ミラータッチ共感覚での『激痛』を耐えるだけでいい。奥歯がひび割れるほどの咬合力で我慢すればいい。
「そのカッターナイフから手を放して。お願いします。……そのカッターナイフ、うちでも扱ってる商品だし、仕事道具でも使ってるから、『結構、分かるのよね』。あなたもそれで拳銃に勝てるとは思っていないでしょう?」
「……拳銃!? お前、恵悟の孫か」
 田村は絞り出すように呻く。
 犯罪者と思しき人物に、身内の名前を呼ばれるのはかなり精神的にストレスがかかるものだ。……そのストレスもグッと飲み込んで、『獰猛なペルソナ』を維持する。
「! まさか、みなし公務員! 警察に雇われていたのか! 卑怯者!!」
 田村は脂汗を浮かべながら、銃口と加直の顔を交互に見ながら勝手な思い込みを披露するが、今はそう勘違いしてくれていた方が都合がいい。
 加直が一人で自己中心的な理由で調査をしているだけなのに、加直の背後に司直が控えていると勘違いしてくれていると、田村の判断も鈍くなるのは明白だ。
 この間も次々と複雑で不明瞭で言語化が難しい不快感が脊髄を経由して全身に行き渡る。ミラータッチ共感覚が正常に作動している。今日も神経系統は忌々しいくらいに働いている。
 このまま銃口を向け続けているとトラウマのフラッシュバックを起こしかねない。かつてのトラウマは今でも不意に脳裏に浮かぶので、不本意にも、引き金を引く際の心の安全装置の役目を果たしている。
 意識が飛びそうになるが、加直は必死に不快感を堪え、銃口を田村に向けたまま、左手でスマートフォンを取り出し、北川上署へ通報した。
 勿論、正当防衛として銃を抜いたが、発砲に至っていない旨を強調した。

 通報から数分で警察が到着し、田村は身柄を拘束された。その際に田村は漸く気が付いたのか、加直が単独で調査していただけで、事態を拡大してしまったのは、田村本人が臆病風に吹かれ過ぎたのが原因だったことを理解したようだ。
 その上で尚も「卑怯者!」と叫ぶのだから、ノイズが握り拳となって加直に直撃し、数時間以内に襲い来るであろうホメオスタシスのギャップに怯え、加直は、金属甲冑を着こんだように、その場に崩れて、震える膝を抱えて不快な痛みに耐えていた。
 警察が到着した際、加直が護身のために銃を抜いたこと、そして田村のポケットからカッターナイフが発見されたことは、田村の怒声で気が付いて窓から見ていた近隣住民の目撃証言によって補強された。
 加直の供述は、『表向き』は論理的かつ冷静だった。
 今は別の事に意識を逸らさないと気が遠のいて倒れそうだ。
 相変わらず、警察の聴取はノルアドレナリンの大量分泌を促すような、不快極まる質問攻めだったが、不躾を承知でポケットからチョコレートのアソートパックを取り出して、口に放り込む。この場は乗り切ることができても無事に帰宅できる自信が無かった。
 加直が提供した証拠らしきもの。
 すなわち、目撃者の自宅で見つけた塗料の匂いが付着した作業着の切れ端、そして聴取の際に担当の警官に『匂わせ』た、加直の『態と後付け風に警官に吹き込んだ素人推理』が、警察の捜査を大きく動かした。
 疲労に打ちひしがれる頭脳に鞭を打って、警官を観察し、何に対して快不快を感じるか? どんなワードに対してどのような微表情を浮かべるかサンプリングした後に、聴取を自然と打ち切るように『話を締める』言葉を何度も用いて、職務で軽い疲労が浮かぶ警官に対してテンション・リダクションを応用した話題の盛り返しでしつこく『加直の推理の断片』を警官の意識に埋め込んだ。
 テンション・リダクション。人間が一番、無防備になる瞬間のことだ。人は話が一段落すると、その話が仕事でもプライベートでも楽しくても不快でも、「会話が終わった」と脳が認識して、溜息のような呼吸を吐き、生理的反応で全身の筋肉を弛緩させる。この時、心の警戒まで緩み切ってしまう。名探偵が聞き込みの直後に事件関係者に「あ、もう一つだけいいですか?」と突然踵を返して質問し、質問された相手は完全に虚を突かれて無警戒のまま、自ずと本心や真意を語ってしまうシーンが典型例だ。
 これを何度か繰り返して、聴取担当の警官の意識下に、推理の要点が残るように『刷り込み』を仕掛けたのだ。勿論、相手を観察して、会話と呼吸を読み、話術を披露したのだから反動はさらに激化するだろう。
 目撃者役の田村はカッターナイフの所持が銃砲刀違反に抵触し、軽犯罪法違反として処理されたが、加直に向けて激昂していた感情が高ぶり過ぎたのか、加直を指さそうとした手が警官の体に当たり、公務執行妨害で『署の方で詳しく話を聞き出される』羽目になった。その時の警察官の待ってました! と言わんばかりの挙動の速さは加直ですら目を丸くした。
 加直は銃を抜いたが、発砲はしていないのでロックをかけられることは無く、正当防衛についても論理的に破綻していないので追加の措置はなかった。

 ※ ※ ※

 加直は祖父の恵悟に申し訳ないと何度も心の中で謝りながら、自己肯定感がどん底まで低下し、泥沼の底に沈むように布団の中で丸くなって泣いていた。この世で自分ほど価値のない人間はいないと念仏のように繰り返しながら嗚咽する。
 ミラータッチ共感覚の反動は倦怠感や無気力、認知機能の低下という、精神運動抑制の症状が溢れるように表出し、その症状の中に、自己肯定感の低下があった。
 いわゆる、うつ状態。
 セロトニンの欠乏に似た症状なので、入浴も着替えも食事も、生理的活動すら困難になる。今の精神状態は罪業妄想の渦中にあり、下手をすると希死念慮に悩まされる。
 コンシールド許可証を守るためにも、精神科や心療内科へ通うことはできない。薬物療法なしで、生活療法とネットで齧った認知行動療法で対処しているだけだ。
 今の加直には破滅の音しか聞こえない……。
 そんな加直の布団の傍に置いてあったスマートフォンがプッシュ通知で何事かを報せる。
「…………」
 尿意を催して布団から起きたがっていた加直は、プッシュ通知の音が背中を押したように布団から這い出た。そして、スマートフォンを手に取る。

――――あー、そう……。

 プッシュ通知は加直が住む自治体のニュースを届けるニュースアプリの通知だった。
 加直にとって重要な事が書かれていたのに、今の加直は感情と興味の消失であるアンヘドニアの最中にあったので、ニュース内容を流し読みすると、スマートフォンを置いて、トイレに向かった。早く用を足さないと漏らしそうなのに、あたかも鉛を流し込まれたように全身が重い。そして頭もボーリング玉のように重い。
 尚、ニュースアプリの記事によると……。
 先日の自転車巻き込み事故の運転手と証言していた目撃者・田村正介は、共犯関係を認め、被害者・小野一の元社員だった、偽装事故を起こした運転手・羽山尚美(はやま なおみ)が、小野一への復讐と金銭的な利得のために計画を主導したことを自供したらしい。
 当初、単なる交通事故として処理されかけていた事案は、殺人未遂事件として立件された。
 精神運動抑制から回復した加直が、後に記事を読み返して薄っすらと感じていた事は、田村正介が公務執行妨害という『別件』が何処のどんなニュースサイトでも触れられていなかったことだ。
 偽装された事故は、事故としてではなく事件発生が前提として処理されていた可能性を感じていた。
 飽く迄、加直の推測だが、遅かれ早かれ、事故を起こさせてから捜査するという大義名分で、犯人は何らかの形で突き止められていたのかもしれない。
 田村正介が凶行に及ぶのを感知していた人物ないし組織、警察が小野一が被害に遭う事を望んでいた節さえ感じる。
 加直はその時……精神運動抑制が回復し始めた、まだ万全でない頭脳を覚ますべく、頭を左右に振ったのを思い出した。
 人間はネガティブな話題が大好きだ。
 そしてどんな人間もネガティブな想像だけは大いにはばたく。
 このままだと自分のメンタルが再び抑うつに戻ると危機を覚えて、事件なのか事故なのか、今となっては判然としない出来事は忘れる事にした。
 それに、事件や事故で人が死んでも、その出来事に評価や価値はない。
 『その事態を耳目にしてどのように認知して、感情が動き、具体的にどのように活動して、どんな身体反応が起きていたのか?』という生理的反応で、その事態が自分自身にとってどれくらいの重要度なのかが初めて判明する。
 それを踏まえて、加直は事故が生んだ野次馬のノイズを払拭することに成功したので、一応の解決とした。解決したと、心の中で処理した。
 その代償として支払うものが大きすぎて、寝込む程のメンタルダウンを引き起こしたのだから、どちらかというと割に合わない結果を招いた。
 加直の評価としては、今回の能動的な悩み解消工作は失敗ではないが、変数が多過ぎて自分の認知的負荷が計算できなかったのが、フィードバックすべき点として『実質的勝利』と位置づけて自分を納得させた。
 正当な抜銃が成立し、事実としてコンシールド許可証の剥奪は免れた。
 聴取の最中の酷いワーキングメモリ低下にあっても、聴取担当の警官に法的義務を論理的に説明できた自分を褒めたい。

 ※ ※ ※

 事件から二週間後。午後八時。
 辺金物屋の裏庭。
 ミラータッチ共感覚由来のメンタルダウンから、一応の回復を遂げた加直は、愛犬トメの頭を撫でながら、月明かりが優しい穏やかな夜空を見上げていた。
 事件の顛末は、地元のローカルニュースの電子版で少々賑わった程度で直ぐに風化した。
 今の時世では珍しくもない事件として、誰の記憶にも残らない殺人事件。
 立件されるに至るドラマティックな展開など、そして共犯者二人の動機と心の闇やその関連性などの興味は来週には影も形も無いだろう。……勿論、加直の関与を示す情報は一切ない。
 そしてこの事件の不明瞭で不明確で曖昧な部分は、直接の司法従事者以外に知る者は居ない。加直も例外なく、この事件の全てを知ることは無かった。
 身近に潜む、そして日常と関わりのあるVUCAな出来事として片付けるしかなかった。
 時には知らぬ存ぜぬと、自分に言い聞かせる事が最優先される事もある。
 事件は法律上解決したが、加直の不眠症に変化はない。いつも通りに睡眠薬を飲まずには眠れない夜が続いている。
 発砲こそしなかったものの、銃を抜くのは『取り返しのつかない事態の直前』で、その緊張感は胃に穴が開きそうだ。
 実際にストレスがトリガーになって加直は機能性ディスペプシアを何度も再発している。
 銃弾というのは、撃発した瞬間に『射撃者の力でコントロールできない物体』になる。
 その物体が人間を殺傷すれば、論理的には『物体が物理エネルギーで生命活動を脅かす損壊をもたらした』だけだが、法的には『射手が物体の責任の所在であるので、物体が破壊した物は射手の責任』になる。……どのような理屈をこねても、コンシールド許可証を持っていても、自由に他人を無責任に傷つける事が許されたわけではない。
 自分が他人の人生に終止符を打つというストレスは、想像の範疇を越える重量となり、加直を圧し潰そうとする。
 激痛のトラウマは、容易に消えそうにない。
 だから激痛のノイズを消すために激痛のノイズを浴びる。
 加直はトメの頭を左手で撫でながら、胸ポケットからいつものハーフコロナを一本引き抜き、使い捨てライターでゆっくりと火をつけた。深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。
 煙を吐き出すたびに、心の奥底にある淀みと、人前に出るのが苦手な『人見知りのペルソナ』が、ゆっくりと修復されていくのを感じる。
「僕の役目は終わったよ、トメ。また、静かになった」
 加直はトメに、寂寞を含んだトーンで語りかける。トメは尻尾を振り、加直の膝に顎を乗せた。
 加直の世界は、再び、彼女が眠るに足る、静かな自己中心的な秩序を取り戻していた。
 環境は万全なのに、不眠症なのは、仕方がない。


 仕方がないで済まさなければ、仕方がない。

≪♯013・了≫
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