掌編【辺加直の鏡像】
大月島市、室中センター第二商店街の早朝は、港湾部の湿った風に乗せて潮の匂いを運んでくる。冬直前を知らせる風だ。
午前七時。
加直が辺金物屋のシャッターを開け、店先で朝の清掃を始めたその時、通りは異様な熱気と、けたたましいサイレンの咆哮に包まれた。
首を廻らせてその方向を見ると、現場は、第二商店街の入り口付近で、廃業した中華料理店の空き店舗前に人だかりができている。
人だかりから逃れるように中央突破を果たした住民のおばさんたちの会話から、電器屋【大和電機】の主人、大和善治――六十三歳。記憶にある限りではやや小太りで薄めの頭髪で、人当たりのよさそうな顔の人物――が、腹部を刺された状態で発見されたらしい。
おばさんたちの噂話の裏に渦巻く感情が爽やかな朝にいつもの不快感を添えてくれる。
辺金物屋の出入り口付近で毎朝の清掃をしていた加直は、冬用の水色の作業用ブルゾンを羽織り、覗き見るように、その騒ぎを観察していた。人だかりの向こうには規制線が張られているのか、通行が一時制限されているらしい。黒フレームの眼鏡の奥で、現場の警察官たちの動きを静かに追っていた。
清掃を終え、店内に戻った加直は、サーモマグから熱いブラックコーヒーを一口飲んだ。いつもの苦味。特に気に入っているわけではないが、値段の割に及第点をクリアした味なので、いつも店に出る時はこのコーヒーを淹れる。それに味覚情報やコーヒーの鎮静作用は微々たるものではあるが、多動思考の奔流を緩やかにし、彼女を現実に繋ぎ止める。
加直は左腕のクロノグラフを傾け、時間を確認した。ついでにデイデイトカレンダーを見る。今日が火曜日であることを示していた。
店内BGM代わりのラジオでは朝のニュース速報で、件の大和善治が腹部を二か所刺されていたと伝えていた。警察の初期見立ては、二か所も刺す行為は深い怨恨によるものとして、捜査を電器屋主人の人間関係、特に金銭的なトラブルに集中させているという。……朝のローカルニュースのヘッドラインに今しがたの事件が早くもメディアに露出するのは、新鮮なソース優先のメディア論としては正しいが、裏付けが曖昧な状態での報道はリテラシーとしてどうかと思うが、加直は特に何の疑問にも思わなかった。
加直は『最近の若者』だ。警察やメディア媒体が懇ろになり、警察――捜査担当の誰か――が小遣い稼ぎのために仲の良いメディア関係者に情報を横流しするのは珍しい事でもない。
祖父の恵悟は警察の堕落やメディアの過熱報道を度々非難していたが、加直は『旧き良き時代の日本』を知らないので恵悟の怒りが半分ほどしか理解できないでいた。
現場検証と規制線の熱狂はまだ続いている。
加直は、苦虫を噛み潰したような顔で、カウンターの中に身体を押し込んでいた。
往来する人たちから溢れる、現場から湧き上がる激しい感情のノイズ……怒り、興奮、好奇心、そして刑事たちの苛立ちと疲労。それらは加直のミラータッチ共感覚を通じて、まるで金属束子で皮膚を内側から掻きむしられるような小癪な痛覚として処理された。
激しい感情の波は、加直の多動思考をさらに加速させ、意識を麻痺させるほどの激痛を与える。自動的に働く多動思考は無為に認知資源を消費してワーキングメモリを低下させて、視野狭窄と反芻思考を招く。
――――あー! 耐えられない!
騒音(ノイズ)の元凶である野次馬や、無能な警察の行動をこれ以上容認することはできない。加直のコンフォートゾーンが侵害されている。このノイズの発生源を断ち切らなければ、今夜も眠れない。極端にそう考えてしまうほど、加直の視野狭窄が加速する。手が自然とレジカウンターしたのアソートチョコレートの山から一つ摘まんで、包装を破り、口に放り込む。
「……?」
加直の店の隣の隣――両隣は辺金物屋の荷物置き場として買い取った廃店舗と倉庫――には、大きな立て看板を立て始めた食料品店があった。
食料品店の入り口のその遮蔽性の高い立て看板の陰に、数人の刑事が集まり、職務を半ば放棄して休憩を取り始めた。
彼らは、現代の警察機構の人間らしく、誰も見ていないところで要領よく手を抜く技術を身に着けた者たちだった。
「クソッ、疲れるなー。検死官からの初期所見だぞ、これ」
一人の刑事が煙草を吸いながら、手元のクリップボードを見て、隣の刑事に愚痴る。
「二つの傷の件、検死官は二本が『非常に異質なもの』だと。刃渡りが長く、深さがあるが幅が狭い、綺麗な刺傷。致命傷とは断定できない、だってよ」
もう一人の刑事が煙草の灰を地面に遠慮なく落しながら言う。……この商店街は禁煙エリアなのに。
「で、もう一つは刃渡りは同じくらいで、やや幅が広くて深く、一番出血が多い刺傷か。こちらは別の凶器か……違う種類の刃物か。怨恨が『モト』の衝動的な『ヤリ口』とは言いきれないなー」
「でもよぉ、これ、『ホシは単独で怨恨』でカタを付けたがってるぜ」
特に聞く気はなかったが、加直は店先に置き忘れた清掃道具を片付けている最中にそのような愚痴交じりの情報を聞く。
レジカウンターへ戻り両腕を組み、軽く握った左手で口元を覆った。
加直とて金物屋である。一般的な刃物の知識は彼女の商売上の知識として脳裏に焼き付いている。
刺し傷は二か所。
刑事たちの話だと、警察は怨恨として一括りにしたが、この程度の事実は捜査の初期段階で判明するだろう。だが、警察がそれを重要視していないのが問題だ。
一つ目の傷は、深さはあるが幅が狭い。これは即座に致命傷に至る傷かどうか不明。二つ目の傷は、幅が広く、深く、大量の出血を伴う。致命傷だろうと目されている。
刃渡りは同じで、二つの傷が異なる凶器、異なる意図によってつけられた可能性は無きにしも非ず。加直の知覚推理が働くには十分な情報だが、それを用いてこの事件にどのように介入しようとか、解決してやろうと等とは微塵も思わなかった。
――――とはいえ……商店街には現実に、嫌な雰囲気が漂ってる。
――――正直、この事件はノイズでしかない。
どうしたものかと憂鬱そうにレジカウンターに頬杖を突く。
二つの傷が語る事実は、衝動と計画という、全く違う感情の流れを示している。警察はそれを怨恨という一つの動機で片付け、この歪な真実を放置或いは無視し、捜査を短絡的な解決の方向に導こうとしている。
論理的な事実を、感情という曖昧な毒で汚染する警察の浅薄さには辟易する方向だろう。嘗ての警察はどうかは知らないが、納税分だけの働きはしてほしいものだ。
加直は、今日は大勢の他者の感情という毒に触れないため、自分をカウンターの中に閉じ込めて、事勿れ主義という防音壁で精神安定を計ろうと誓う。
この事件が原因で表通りを席巻する感情的な不協和音は、その防音壁を度々突き破っては、加直の思考を絶え間なく揺さぶる。
このノイズを緩和或いは軽減し、彼女の世界に静寂を取り戻さない限り、多動思考を刺激するミラータッチ共感覚の不快感は続く。
加直は、ただ静かに、深く眠りたい。
――――そのために……この歪みを正す必要がある。
――――……誰にも気取られずに。
これが、加直が自らの事勿れ主義のペルソナを脱ぎ捨てず、しかし誰にも頼まれていない、隠された問題に、独自で取り組まざるを得なかった直接の動機となった。
自分中心な考え。自分を中心に考えないと自分が守れない考えで、彼女の赤裸々な動機を知る人間は必ず彼女と一線を引くだろう。
……とはいえ、商店街の表通りは警官や人だかりが減ったとはいえ、往来は華やかだ。その渦の中に身を投じるのはゴメン被りたい。
商店街が注目されると聞いて、組合長がまたも人の心が無い、思い付きの企画を打ち出す前になんとかせねば。……次の組合長の選挙では絶対にあの組合長には投票しないでおこうと強く誓う。
加直の調査は、金物屋のカウンターの中から一歩も外に出ない、受動的な情報収集に徹した。これは、ミラータッチ共感覚によって外の世界の感情ノイズに晒されることを避けるためと、何よりも彼女のコンシールド許可証を警察の追及から守り抜くためだった。
彼女はまず、疲労と緊張で脈打つ眉根を揉みながら、事件とそれを取り巻く環境の複雑な問題解決のための思考の再起動としてチョコレートを一かけらを口に放り込み、サーモマグのコーヒーで舌を洗った。
「……さて、と」
加直は腕を組んで左手の甲を口元にあてた。
事件発生日の夜。午後七時頃。
店の片付けをしている最中、第一商店街に店を構える祖父恵悟の友人の花屋の店主が、世間話をするために来店した。彼は携帯電話で誰かと話し終えたばかりで、辺金物屋の入り、加直の前で電話を切ると、やれやれといった顔でため息をついた。
「いやぁ、捕まったんだってね。犯人らしき奴が」
花屋の店主は、夜の第一商店街の自警団の集会所で聞いた噂を披露した。
――――そんなことより、第一商店街でも自警団が組織されていたのは初耳だー。
花屋の主人によると、犯人は、電器屋に恨みを持っていた元従業員で、すぐに特定され、逃走中に確保されたという。
「警察署の地域課の知り合いから聞いた話だけど、使ったナイフも押収したらしいよ。切っ先が折れて、被害者の体内に残ってたんだってなー」
ふと心の中で好奇心の首を擡げる加直。この断片的な情報が、二つの傷の非対称性を補完する。
――――切っ先が折れたナイフ。
もし、一本目の傷が、刃零れで切っ先が折れたナイフによるものだと仮定する。このナイフでは、致命傷となった二本目の傷が『綺麗な幅広の刺し傷』であることは説明できない。
『犯人は二人いる』仮説が補強される。
加直は、左手の人差し指と中指で眼鏡を正した。
彼女の脳内で、何かが『何かに近づいた』事を報せていた。
事件発生の翌日、水曜日の昼下がり。
店のシャッター修理の見積もりを依頼に来た年配の組合員が、電話で家族と話すのを、加直は修理見積の書類を見ながら聞いていた。
「ああ、そうさ。大和さん、そりゃあ恨まれても仕方ないだろう。あの件で、山岸さんの娘さんがどれだけ苦しんだか。……あの娘さんの店を潰しておいて、知らんぷりだ。まあ、もうあの従業員が捕まったからいいけどな」
加直はこの山岸という聞き慣れない名前に、思考を集中させた。
軽く調べたところ、大和電機は、近年、商店街の組合内でも孤立気味だった。その理由は、強引な取引や、下請けに対する不当な扱いだった。
そこへ花屋の情報を加える。
特に山岸の娘は、大和電機の強引な契約解除と仕入れ先変更により、長年経営していた小さなアトリエを潰され、一家は困窮していた。……年配の組合員の話を総合するとそのような悲劇がこの商店街の身内の中で繰り広げられていたらしい。
金銭的なトラブルというより、人生を破滅させたことに対する深い、個人的な怨恨としての動機は強い。まだ証拠不十分な段階だが。
加直は、山岸という人物が第二の犯人の手がかりだと位置付ける。
一人目の犯人は元従業員。彼の動機は即時的な金銭トラブルと憤怒によるものだ。
対して山岸の娘さん乃至関係者は、時間をかけて熟成された、冷たい復讐心を抱えている。
事件発生の翌日、水曜日の深夜零時。
辺金物屋は完全に静寂に包まれていた。祖父は二階で深い眠りについている。
加直は、照明を落としたカウンターで、収集した情報をコピー裏にボールペンで情報を書き出して可視化して事態と事件を整理していた。
一人目の犯人(元従業員)の刺し傷は、衝動的な行動の結果で間違いないだろう。彼のナイフは切っ先が折れ、攻撃は興奮とパニックに満ちていたと推測できる。
では、二人目の犯人、山岸に関係する人物はどうか。「山岸さんの娘さんがどれだけ苦しんだか」という情報は、積年の恨みに近く、冷たく、深い、個人的な復讐心を感じる。……ただ、これは感情ではなく、計算された論理的な殺意かどうかの決定打に欠ける。
都合よく大和善治が刺された場所に山岸やその関係者が待機していたのか? 誰かが元従業員を唆した可能性もある。
加直は、ふとレジカウンターの方を見てそこに鎮座するS&W M351Cの存在を確認した。彼女の広がりつつある外観把握は、復讐心から発せられるであろう『論理的な殺意』を危険と見做している。
彼女は、両腕を組み、軽く握った左手で口元を覆った。
一人目の犯行が起きた時、現場に居合わせた山岸の関係者が、止めを刺したと仮定した。 山岸の関係者は、衝動的な元従業員とは異なり、犯行のための適切な武器を用意していた可能性が高い。その武器が、幅広く深く、そして綺麗な刺し傷を残すことができた。
加直の脳内で、『元従業員を唆した人物像』が構築される。
元従業員は、日頃から酒場やSNSなどで、大和善治への恨みを公言していたはず。誰にも何処にも何も表明せずおとなしくているタイプの人間は即攻撃するか、恨み節を垂れるのみだ。大和善治のネガティブな情報は金銭関係のもめ事から幾らでも罵詈雑言が被害者たちのSNSやブログから拾えそうだ。
山岸の関係者は、山岸の事業を破綻させた大和善治への冷たい復讐心を抱え、その動向を長期間にわたって監視していた。そして、元従業員が犯行を決行するであろうタイミング、あるいはその場所を、間接的な情報――例えばSNSの投稿、酒場での噂――から掴み、使用するであろう『適切な凶器』を携えて現場付近で待機していた。
山岸の関係者は、元従業員が起こした衝動的な未遂の犯行を、自分自身が手を汚して逮捕されるリスクを犯さずに復讐を完遂させる、偶然の復讐の機会として利用したのだ。勿論、偶然を装った状況だが。
山岸の関係者は電器屋から受けた損害に対し、法的措置ではなく『個人的な正義』を選択する冷酷なレジリエンスを持っていた。
山岸の関係者は、一人目の犯人がやり残したことを利用し、計画的に『完了』させた。山岸の関係者にとって、現場に居合わせたことは、傍から見れば、神が与えた復讐の機会だった。(……とは加直は短絡的に考えていない。造られた状況だと認識している)
怨恨の計画は実に執拗なものだ。そんな偶然に頼った計画は最初から除外される。
この『二人の犯人が、面識なく、同じ被害者を別の動機で同時に襲った』という構図が、警察の捜査を攪乱している、或いは思考停止させている最大の原因だった。
加直は、山岸の娘さんが、父親の事業破綻後、生活のために日用雑貨の小売店に勤務していたという情報を、商店街組合の電子掲示板の過去ログや、地元の経済新聞のアーカイブ記事から間接的に知る。
加直はレジカウンターの奥から休憩スペースの有る座敷を抜けて庭に出た。 ポケットからハーフコロナの紙箱を取り出し、それから一本抜き取り、ゆっくりと火を灯した。深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。
加直のやや疲れた横顔。二重の動機と二種類の凶器という構図が、警察の捜査を『怨恨の単独犯』という短絡的な結論に導かれつつあるのをなんとかしたい。攪乱している原因を正さないとダメだろうな……。
――――釈然としない。
――――元従業員を唆した人物がいる。それは山岸の関係者だろうが、情報が少なすぎる。
――――ここまでの情報で警察は動いてくれるか?
――――ちょっと揺さぶりをかけてみるか。
事件発生から三日後の深夜。
加直は、自らの金物屋の店内で、ノートパソコンで静かに文章を打っていた。内容は、感情を排した客観的な物理的な事実の矛盾を指摘するものだった。
二つの傷の非対称性と、初期所見の公開情報。
一人目のナイフの破損情報と、致命傷となった二本目の傷の形状の論理的な矛盾。
大和善治に深い恨みを抱く「山岸」という姓の関係者が存在すること。
この山岸の関係者が、元従業員の衝動的な犯行を復讐の機会として利用した可能性。
加直は、『3.大和善治に深い恨みを抱く「山岸」という姓の関係者が存在すること。』に注目してくれることを期待した。そのために1、2、4という素人でも推理できる浅い文言を書いた。
その匿名の手紙を封筒に入れ、地元の警察署宛に、一市民からの情報として郵送した。
数日後。
店内のラジオのニュース速報が、加直の行動が正しかったことを裏付けた。《……大月島市の繁華街で起きた刺殺事件の容疑者として、被害者と金銭トラブルを抱えていた山岸孝雄容疑者を本日、逮捕しました》
――――意外と『近い人物』だったなー。
山岸孝雄。今回の『主犯』だ。山岸の関係者は孝雄という名前だったのか。
加直は今更ながらに僅かに興味を持つ。
これはのちに判明したことだが……。
現在行方不明で画商山岸の元経営者・山岸孝一は小さな画商を経営しており、娘が画家でほぼ家族経営の小さな商店だったという。
四人家族のうち、父親で画商で経営者の山岸孝一は知人の間柄だった大和電機経営者の大和善治に、傾きつつある画商山岸の経営資金を融通してもらい画商として息を吹き返すが、その際に交わした書類を公証役場の印と共に収めたが、公証役場の役人と大和善治は立場を悪用し書類の改竄をして、画商山岸に不利な条件として改められていた。
公式書類を作成する公証役場の役人が造るのだから本物の書類と見做されてしまい、裁判を起こすも却下。山岸孝一は徐々に経営が傾き――経営自体が傾くように細工したのも大和善治――、融資の当てが無くなり、破産宣告の後、一家離散。
この時に娘のアトリエも売りに出され、孝一と妻は行方不明。孝雄は既に家を出て海外を放浪していたが、実家の窮地を知り帰国するも、その時には一家離散後で、妹の友里恵――画家で画商山岸併設アトリエ経営者――に事態を詳しく聞き、殺害に及ぶ。
……が、殺害に及ぶまでに様々な法的サービスを頼り、弁護士や救済措置も模索していた形跡があり、短絡的に殺害には及んでいない。
言うなれば、正答の無い問題をいつまでも独りで反芻的に考えてしまい、視野が狭くなっての殺人に発展した。昨今では普通に起きる、普通の殺人事件だ。
加直は、この事件には、『殺害を唆した人間』がいたと思っていたが、唆したのではなく、妹の友里恵の情報を元に身を粉にして解決の奔走した結果疲れてしまった人間である孝雄の破滅的な選択だった。
山岸夫妻は現在も行方不明。
兄妹で大和善治の情報を集めて、実際に手を汚したのは兄の孝雄だろう。
大和電機の元従業員に大和善治のルーティンやリアルタイムな情報を提供していたのは……今となっては兄・孝雄か妹・友里恵か、判然としない。
……ここまでが後に知ることになる情報と顛末だ。
孝雄が計画した内容は恐らく、加直の読みと大きく外れていない。
恨みを募らせる大和電機の元従業員に、大和善治が一人で出歩く人通りの少ない時間や道を匿名で知らせるだけでよかった。その従業員を監視するだけで良かった。
元従業員が凶行に及ぶ時が、殺人を決行する時だ。従業員の最初の一刺しで絶命する可能性もあった。それでも大和善治に『直接、凶器を突き立てた』という事実を得たかった。死体同然の大和善治であっても、『憎い物体』を損壊させた事実を得る事が目的になっていたのかもしれない。
視野狭窄からの反芻思考。それを加速させた認知の歪み。
加直に捜査権が有れば何も問題なく分かりそうな、何処にでもある事件だ。日本国内の殺人事件は大雑把に分別すると『金か愛か』で殺人事件に発展する。
その日の夕方。
一人の警察官――古藤文亮(ことう ふみあき)。三十歳。北川上署北町交番勤務――が、一人で辺金物屋を訪ねてきた。
彼は、加直のカウンターに寄りかかり、小さな声で言った。
「辺さん。あんたの店から、何か手がかりが出たか?」
その目は警官特有の、「俺は何でも知っているぞ。今のうちに全部吐け」という、実に不遜で雄弁な目つきをしていた。……そして、この人物こそが、今までに何度か加直のコンシールド許可証を法的に剥奪しようと目論むも加直に一枚上手を回られて、退散している体制の犬である。
加直は、『奥ゆかしくて人前に出るのが苦手な市民のペルソナ』を深く被る。
「これはこれは『古藤さん』。僕はただ、カウンターの中にいた、か弱い一市民でしかありません。事件に関しては、特に変わったことは知りません」
加直は芝居がかった仕草とセリフで古藤に対応した。
経験上、このような人物は舐めた態度を取った方がボロが出やすいので、付け入る隙が見付けやすい。勿論その際の不快なノイズには歯を食いしばらなければならないが。
古藤は、加直の目を鋭く見つめた。
「しかし『あの匿名の情報』は非常に具体的だった。二つの傷が別の刃物によるものだというハナシですよ。それから第二の犯人の動機が、『公開されている範囲』の情報だけで正確に分析されていた。あんた以外に、『この商店街』でそんなアタマを持った人間はいない」
――――おっと。バカじゃないのは流石だね。古藤さん。
『あの匿名の情報』と『この商店街』というあやふやな文言でこちらの自爆を誘うワードを布石として古藤は繰り出した。それを軽く驚く加直。だが、焦らない。
加直は、表情一つ変えず、穏やかに答えた。
「僕は、ただの金物屋の店主代理です。お客さんの噂話や、商店街組合の電子掲示板を見ていただけです。僕は、ずっと、騒ぎが早く収まって欲しいと思っていただけです」
加直の返答には、一切の感情が交じらない。法的に彼女を追い詰める隙はなかった。実際に「思っていただけです」と、感想を述べているに過ぎない。
古藤は、これ以上の追及は無意味だと判断し、こいつに睨みを利かせるのはここまでだと苛立ちを隠して立ち去った。彼の微表情は嫌悪や侮蔑を浮かべていた。警官が市民に対して抱いてもいい感情ではない。
彼は去り際に、小さな声で警告した。
「辺さん。『あんまり変な動きはしないでくれよ』」
加直は、無言で頷き、古藤が去っていくのを静かに見送った。彼女の『自分の秩序を守る者のペルソナ』は、今回も、誰にも気づかれることなく終わった。……それにしても不快なノイズをばら撒く警察官だ。ヒステリー球が出そうだ。
辺金物屋の正面口に『警察官立寄り所』というお守り代わりの標識を掲げているが、警察官の方が厄介な存在だ。……今のように特に理由もなくふらっとやってきて圧力をかける真似をするのだ。
事件は終結したが、加直の脳の疲労は極限に達していた。特に、冷酷な復讐心という論理的な殺意を感情ではなく構造として分析した作業が、彼女の精神を深く削っていた。
午後十時過ぎ。加直は、部屋の照明を消し、静かにベランダに出た。
夜の湿った風が、疲れた肌を撫でていく。
彼女は、ポケットからハーフコロナを取り出し、ゆっくりと火を灯した。深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。
商店街は完全に静まり返りミラータッチ共感覚に届く感情のノイズは、皆無だ。
加直は、瞑目し、夜風と甘苦い煙だけを堪能した。自分のコンフォートゾーンを守る為に少しばかり脳を働かせた代償は、目の下の濃いクマと、脳疲労だ。その甲斐あって加直の世界は再び、彼女が眠るに足る、静かな夜を取り戻していた。
遠くでパトカーのサイレンに交じって発砲音が聞こえる。
あれは今の加直には直背関係の無い、ただの聴覚的ノイズに過ぎない。
≪♯012・了≫
午前七時。
加直が辺金物屋のシャッターを開け、店先で朝の清掃を始めたその時、通りは異様な熱気と、けたたましいサイレンの咆哮に包まれた。
首を廻らせてその方向を見ると、現場は、第二商店街の入り口付近で、廃業した中華料理店の空き店舗前に人だかりができている。
人だかりから逃れるように中央突破を果たした住民のおばさんたちの会話から、電器屋【大和電機】の主人、大和善治――六十三歳。記憶にある限りではやや小太りで薄めの頭髪で、人当たりのよさそうな顔の人物――が、腹部を刺された状態で発見されたらしい。
おばさんたちの噂話の裏に渦巻く感情が爽やかな朝にいつもの不快感を添えてくれる。
辺金物屋の出入り口付近で毎朝の清掃をしていた加直は、冬用の水色の作業用ブルゾンを羽織り、覗き見るように、その騒ぎを観察していた。人だかりの向こうには規制線が張られているのか、通行が一時制限されているらしい。黒フレームの眼鏡の奥で、現場の警察官たちの動きを静かに追っていた。
清掃を終え、店内に戻った加直は、サーモマグから熱いブラックコーヒーを一口飲んだ。いつもの苦味。特に気に入っているわけではないが、値段の割に及第点をクリアした味なので、いつも店に出る時はこのコーヒーを淹れる。それに味覚情報やコーヒーの鎮静作用は微々たるものではあるが、多動思考の奔流を緩やかにし、彼女を現実に繋ぎ止める。
加直は左腕のクロノグラフを傾け、時間を確認した。ついでにデイデイトカレンダーを見る。今日が火曜日であることを示していた。
店内BGM代わりのラジオでは朝のニュース速報で、件の大和善治が腹部を二か所刺されていたと伝えていた。警察の初期見立ては、二か所も刺す行為は深い怨恨によるものとして、捜査を電器屋主人の人間関係、特に金銭的なトラブルに集中させているという。……朝のローカルニュースのヘッドラインに今しがたの事件が早くもメディアに露出するのは、新鮮なソース優先のメディア論としては正しいが、裏付けが曖昧な状態での報道はリテラシーとしてどうかと思うが、加直は特に何の疑問にも思わなかった。
加直は『最近の若者』だ。警察やメディア媒体が懇ろになり、警察――捜査担当の誰か――が小遣い稼ぎのために仲の良いメディア関係者に情報を横流しするのは珍しい事でもない。
祖父の恵悟は警察の堕落やメディアの過熱報道を度々非難していたが、加直は『旧き良き時代の日本』を知らないので恵悟の怒りが半分ほどしか理解できないでいた。
現場検証と規制線の熱狂はまだ続いている。
加直は、苦虫を噛み潰したような顔で、カウンターの中に身体を押し込んでいた。
往来する人たちから溢れる、現場から湧き上がる激しい感情のノイズ……怒り、興奮、好奇心、そして刑事たちの苛立ちと疲労。それらは加直のミラータッチ共感覚を通じて、まるで金属束子で皮膚を内側から掻きむしられるような小癪な痛覚として処理された。
激しい感情の波は、加直の多動思考をさらに加速させ、意識を麻痺させるほどの激痛を与える。自動的に働く多動思考は無為に認知資源を消費してワーキングメモリを低下させて、視野狭窄と反芻思考を招く。
――――あー! 耐えられない!
騒音(ノイズ)の元凶である野次馬や、無能な警察の行動をこれ以上容認することはできない。加直のコンフォートゾーンが侵害されている。このノイズの発生源を断ち切らなければ、今夜も眠れない。極端にそう考えてしまうほど、加直の視野狭窄が加速する。手が自然とレジカウンターしたのアソートチョコレートの山から一つ摘まんで、包装を破り、口に放り込む。
「……?」
加直の店の隣の隣――両隣は辺金物屋の荷物置き場として買い取った廃店舗と倉庫――には、大きな立て看板を立て始めた食料品店があった。
食料品店の入り口のその遮蔽性の高い立て看板の陰に、数人の刑事が集まり、職務を半ば放棄して休憩を取り始めた。
彼らは、現代の警察機構の人間らしく、誰も見ていないところで要領よく手を抜く技術を身に着けた者たちだった。
「クソッ、疲れるなー。検死官からの初期所見だぞ、これ」
一人の刑事が煙草を吸いながら、手元のクリップボードを見て、隣の刑事に愚痴る。
「二つの傷の件、検死官は二本が『非常に異質なもの』だと。刃渡りが長く、深さがあるが幅が狭い、綺麗な刺傷。致命傷とは断定できない、だってよ」
もう一人の刑事が煙草の灰を地面に遠慮なく落しながら言う。……この商店街は禁煙エリアなのに。
「で、もう一つは刃渡りは同じくらいで、やや幅が広くて深く、一番出血が多い刺傷か。こちらは別の凶器か……違う種類の刃物か。怨恨が『モト』の衝動的な『ヤリ口』とは言いきれないなー」
「でもよぉ、これ、『ホシは単独で怨恨』でカタを付けたがってるぜ」
特に聞く気はなかったが、加直は店先に置き忘れた清掃道具を片付けている最中にそのような愚痴交じりの情報を聞く。
レジカウンターへ戻り両腕を組み、軽く握った左手で口元を覆った。
加直とて金物屋である。一般的な刃物の知識は彼女の商売上の知識として脳裏に焼き付いている。
刺し傷は二か所。
刑事たちの話だと、警察は怨恨として一括りにしたが、この程度の事実は捜査の初期段階で判明するだろう。だが、警察がそれを重要視していないのが問題だ。
一つ目の傷は、深さはあるが幅が狭い。これは即座に致命傷に至る傷かどうか不明。二つ目の傷は、幅が広く、深く、大量の出血を伴う。致命傷だろうと目されている。
刃渡りは同じで、二つの傷が異なる凶器、異なる意図によってつけられた可能性は無きにしも非ず。加直の知覚推理が働くには十分な情報だが、それを用いてこの事件にどのように介入しようとか、解決してやろうと等とは微塵も思わなかった。
――――とはいえ……商店街には現実に、嫌な雰囲気が漂ってる。
――――正直、この事件はノイズでしかない。
どうしたものかと憂鬱そうにレジカウンターに頬杖を突く。
二つの傷が語る事実は、衝動と計画という、全く違う感情の流れを示している。警察はそれを怨恨という一つの動機で片付け、この歪な真実を放置或いは無視し、捜査を短絡的な解決の方向に導こうとしている。
論理的な事実を、感情という曖昧な毒で汚染する警察の浅薄さには辟易する方向だろう。嘗ての警察はどうかは知らないが、納税分だけの働きはしてほしいものだ。
加直は、今日は大勢の他者の感情という毒に触れないため、自分をカウンターの中に閉じ込めて、事勿れ主義という防音壁で精神安定を計ろうと誓う。
この事件が原因で表通りを席巻する感情的な不協和音は、その防音壁を度々突き破っては、加直の思考を絶え間なく揺さぶる。
このノイズを緩和或いは軽減し、彼女の世界に静寂を取り戻さない限り、多動思考を刺激するミラータッチ共感覚の不快感は続く。
加直は、ただ静かに、深く眠りたい。
――――そのために……この歪みを正す必要がある。
――――……誰にも気取られずに。
これが、加直が自らの事勿れ主義のペルソナを脱ぎ捨てず、しかし誰にも頼まれていない、隠された問題に、独自で取り組まざるを得なかった直接の動機となった。
自分中心な考え。自分を中心に考えないと自分が守れない考えで、彼女の赤裸々な動機を知る人間は必ず彼女と一線を引くだろう。
……とはいえ、商店街の表通りは警官や人だかりが減ったとはいえ、往来は華やかだ。その渦の中に身を投じるのはゴメン被りたい。
商店街が注目されると聞いて、組合長がまたも人の心が無い、思い付きの企画を打ち出す前になんとかせねば。……次の組合長の選挙では絶対にあの組合長には投票しないでおこうと強く誓う。
加直の調査は、金物屋のカウンターの中から一歩も外に出ない、受動的な情報収集に徹した。これは、ミラータッチ共感覚によって外の世界の感情ノイズに晒されることを避けるためと、何よりも彼女のコンシールド許可証を警察の追及から守り抜くためだった。
彼女はまず、疲労と緊張で脈打つ眉根を揉みながら、事件とそれを取り巻く環境の複雑な問題解決のための思考の再起動としてチョコレートを一かけらを口に放り込み、サーモマグのコーヒーで舌を洗った。
「……さて、と」
加直は腕を組んで左手の甲を口元にあてた。
事件発生日の夜。午後七時頃。
店の片付けをしている最中、第一商店街に店を構える祖父恵悟の友人の花屋の店主が、世間話をするために来店した。彼は携帯電話で誰かと話し終えたばかりで、辺金物屋の入り、加直の前で電話を切ると、やれやれといった顔でため息をついた。
「いやぁ、捕まったんだってね。犯人らしき奴が」
花屋の店主は、夜の第一商店街の自警団の集会所で聞いた噂を披露した。
――――そんなことより、第一商店街でも自警団が組織されていたのは初耳だー。
花屋の主人によると、犯人は、電器屋に恨みを持っていた元従業員で、すぐに特定され、逃走中に確保されたという。
「警察署の地域課の知り合いから聞いた話だけど、使ったナイフも押収したらしいよ。切っ先が折れて、被害者の体内に残ってたんだってなー」
ふと心の中で好奇心の首を擡げる加直。この断片的な情報が、二つの傷の非対称性を補完する。
――――切っ先が折れたナイフ。
もし、一本目の傷が、刃零れで切っ先が折れたナイフによるものだと仮定する。このナイフでは、致命傷となった二本目の傷が『綺麗な幅広の刺し傷』であることは説明できない。
『犯人は二人いる』仮説が補強される。
加直は、左手の人差し指と中指で眼鏡を正した。
彼女の脳内で、何かが『何かに近づいた』事を報せていた。
事件発生の翌日、水曜日の昼下がり。
店のシャッター修理の見積もりを依頼に来た年配の組合員が、電話で家族と話すのを、加直は修理見積の書類を見ながら聞いていた。
「ああ、そうさ。大和さん、そりゃあ恨まれても仕方ないだろう。あの件で、山岸さんの娘さんがどれだけ苦しんだか。……あの娘さんの店を潰しておいて、知らんぷりだ。まあ、もうあの従業員が捕まったからいいけどな」
加直はこの山岸という聞き慣れない名前に、思考を集中させた。
軽く調べたところ、大和電機は、近年、商店街の組合内でも孤立気味だった。その理由は、強引な取引や、下請けに対する不当な扱いだった。
そこへ花屋の情報を加える。
特に山岸の娘は、大和電機の強引な契約解除と仕入れ先変更により、長年経営していた小さなアトリエを潰され、一家は困窮していた。……年配の組合員の話を総合するとそのような悲劇がこの商店街の身内の中で繰り広げられていたらしい。
金銭的なトラブルというより、人生を破滅させたことに対する深い、個人的な怨恨としての動機は強い。まだ証拠不十分な段階だが。
加直は、山岸という人物が第二の犯人の手がかりだと位置付ける。
一人目の犯人は元従業員。彼の動機は即時的な金銭トラブルと憤怒によるものだ。
対して山岸の娘さん乃至関係者は、時間をかけて熟成された、冷たい復讐心を抱えている。
事件発生の翌日、水曜日の深夜零時。
辺金物屋は完全に静寂に包まれていた。祖父は二階で深い眠りについている。
加直は、照明を落としたカウンターで、収集した情報をコピー裏にボールペンで情報を書き出して可視化して事態と事件を整理していた。
一人目の犯人(元従業員)の刺し傷は、衝動的な行動の結果で間違いないだろう。彼のナイフは切っ先が折れ、攻撃は興奮とパニックに満ちていたと推測できる。
では、二人目の犯人、山岸に関係する人物はどうか。「山岸さんの娘さんがどれだけ苦しんだか」という情報は、積年の恨みに近く、冷たく、深い、個人的な復讐心を感じる。……ただ、これは感情ではなく、計算された論理的な殺意かどうかの決定打に欠ける。
都合よく大和善治が刺された場所に山岸やその関係者が待機していたのか? 誰かが元従業員を唆した可能性もある。
加直は、ふとレジカウンターの方を見てそこに鎮座するS&W M351Cの存在を確認した。彼女の広がりつつある外観把握は、復讐心から発せられるであろう『論理的な殺意』を危険と見做している。
彼女は、両腕を組み、軽く握った左手で口元を覆った。
一人目の犯行が起きた時、現場に居合わせた山岸の関係者が、止めを刺したと仮定した。 山岸の関係者は、衝動的な元従業員とは異なり、犯行のための適切な武器を用意していた可能性が高い。その武器が、幅広く深く、そして綺麗な刺し傷を残すことができた。
加直の脳内で、『元従業員を唆した人物像』が構築される。
元従業員は、日頃から酒場やSNSなどで、大和善治への恨みを公言していたはず。誰にも何処にも何も表明せずおとなしくているタイプの人間は即攻撃するか、恨み節を垂れるのみだ。大和善治のネガティブな情報は金銭関係のもめ事から幾らでも罵詈雑言が被害者たちのSNSやブログから拾えそうだ。
山岸の関係者は、山岸の事業を破綻させた大和善治への冷たい復讐心を抱え、その動向を長期間にわたって監視していた。そして、元従業員が犯行を決行するであろうタイミング、あるいはその場所を、間接的な情報――例えばSNSの投稿、酒場での噂――から掴み、使用するであろう『適切な凶器』を携えて現場付近で待機していた。
山岸の関係者は、元従業員が起こした衝動的な未遂の犯行を、自分自身が手を汚して逮捕されるリスクを犯さずに復讐を完遂させる、偶然の復讐の機会として利用したのだ。勿論、偶然を装った状況だが。
山岸の関係者は電器屋から受けた損害に対し、法的措置ではなく『個人的な正義』を選択する冷酷なレジリエンスを持っていた。
山岸の関係者は、一人目の犯人がやり残したことを利用し、計画的に『完了』させた。山岸の関係者にとって、現場に居合わせたことは、傍から見れば、神が与えた復讐の機会だった。(……とは加直は短絡的に考えていない。造られた状況だと認識している)
怨恨の計画は実に執拗なものだ。そんな偶然に頼った計画は最初から除外される。
この『二人の犯人が、面識なく、同じ被害者を別の動機で同時に襲った』という構図が、警察の捜査を攪乱している、或いは思考停止させている最大の原因だった。
加直は、山岸の娘さんが、父親の事業破綻後、生活のために日用雑貨の小売店に勤務していたという情報を、商店街組合の電子掲示板の過去ログや、地元の経済新聞のアーカイブ記事から間接的に知る。
加直はレジカウンターの奥から休憩スペースの有る座敷を抜けて庭に出た。 ポケットからハーフコロナの紙箱を取り出し、それから一本抜き取り、ゆっくりと火を灯した。深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。
加直のやや疲れた横顔。二重の動機と二種類の凶器という構図が、警察の捜査を『怨恨の単独犯』という短絡的な結論に導かれつつあるのをなんとかしたい。攪乱している原因を正さないとダメだろうな……。
――――釈然としない。
――――元従業員を唆した人物がいる。それは山岸の関係者だろうが、情報が少なすぎる。
――――ここまでの情報で警察は動いてくれるか?
――――ちょっと揺さぶりをかけてみるか。
事件発生から三日後の深夜。
加直は、自らの金物屋の店内で、ノートパソコンで静かに文章を打っていた。内容は、感情を排した客観的な物理的な事実の矛盾を指摘するものだった。
二つの傷の非対称性と、初期所見の公開情報。
一人目のナイフの破損情報と、致命傷となった二本目の傷の形状の論理的な矛盾。
大和善治に深い恨みを抱く「山岸」という姓の関係者が存在すること。
この山岸の関係者が、元従業員の衝動的な犯行を復讐の機会として利用した可能性。
加直は、『3.大和善治に深い恨みを抱く「山岸」という姓の関係者が存在すること。』に注目してくれることを期待した。そのために1、2、4という素人でも推理できる浅い文言を書いた。
その匿名の手紙を封筒に入れ、地元の警察署宛に、一市民からの情報として郵送した。
数日後。
店内のラジオのニュース速報が、加直の行動が正しかったことを裏付けた。《……大月島市の繁華街で起きた刺殺事件の容疑者として、被害者と金銭トラブルを抱えていた山岸孝雄容疑者を本日、逮捕しました》
――――意外と『近い人物』だったなー。
山岸孝雄。今回の『主犯』だ。山岸の関係者は孝雄という名前だったのか。
加直は今更ながらに僅かに興味を持つ。
これはのちに判明したことだが……。
現在行方不明で画商山岸の元経営者・山岸孝一は小さな画商を経営しており、娘が画家でほぼ家族経営の小さな商店だったという。
四人家族のうち、父親で画商で経営者の山岸孝一は知人の間柄だった大和電機経営者の大和善治に、傾きつつある画商山岸の経営資金を融通してもらい画商として息を吹き返すが、その際に交わした書類を公証役場の印と共に収めたが、公証役場の役人と大和善治は立場を悪用し書類の改竄をして、画商山岸に不利な条件として改められていた。
公式書類を作成する公証役場の役人が造るのだから本物の書類と見做されてしまい、裁判を起こすも却下。山岸孝一は徐々に経営が傾き――経営自体が傾くように細工したのも大和善治――、融資の当てが無くなり、破産宣告の後、一家離散。
この時に娘のアトリエも売りに出され、孝一と妻は行方不明。孝雄は既に家を出て海外を放浪していたが、実家の窮地を知り帰国するも、その時には一家離散後で、妹の友里恵――画家で画商山岸併設アトリエ経営者――に事態を詳しく聞き、殺害に及ぶ。
……が、殺害に及ぶまでに様々な法的サービスを頼り、弁護士や救済措置も模索していた形跡があり、短絡的に殺害には及んでいない。
言うなれば、正答の無い問題をいつまでも独りで反芻的に考えてしまい、視野が狭くなっての殺人に発展した。昨今では普通に起きる、普通の殺人事件だ。
加直は、この事件には、『殺害を唆した人間』がいたと思っていたが、唆したのではなく、妹の友里恵の情報を元に身を粉にして解決の奔走した結果疲れてしまった人間である孝雄の破滅的な選択だった。
山岸夫妻は現在も行方不明。
兄妹で大和善治の情報を集めて、実際に手を汚したのは兄の孝雄だろう。
大和電機の元従業員に大和善治のルーティンやリアルタイムな情報を提供していたのは……今となっては兄・孝雄か妹・友里恵か、判然としない。
……ここまでが後に知ることになる情報と顛末だ。
孝雄が計画した内容は恐らく、加直の読みと大きく外れていない。
恨みを募らせる大和電機の元従業員に、大和善治が一人で出歩く人通りの少ない時間や道を匿名で知らせるだけでよかった。その従業員を監視するだけで良かった。
元従業員が凶行に及ぶ時が、殺人を決行する時だ。従業員の最初の一刺しで絶命する可能性もあった。それでも大和善治に『直接、凶器を突き立てた』という事実を得たかった。死体同然の大和善治であっても、『憎い物体』を損壊させた事実を得る事が目的になっていたのかもしれない。
視野狭窄からの反芻思考。それを加速させた認知の歪み。
加直に捜査権が有れば何も問題なく分かりそうな、何処にでもある事件だ。日本国内の殺人事件は大雑把に分別すると『金か愛か』で殺人事件に発展する。
その日の夕方。
一人の警察官――古藤文亮(ことう ふみあき)。三十歳。北川上署北町交番勤務――が、一人で辺金物屋を訪ねてきた。
彼は、加直のカウンターに寄りかかり、小さな声で言った。
「辺さん。あんたの店から、何か手がかりが出たか?」
その目は警官特有の、「俺は何でも知っているぞ。今のうちに全部吐け」という、実に不遜で雄弁な目つきをしていた。……そして、この人物こそが、今までに何度か加直のコンシールド許可証を法的に剥奪しようと目論むも加直に一枚上手を回られて、退散している体制の犬である。
加直は、『奥ゆかしくて人前に出るのが苦手な市民のペルソナ』を深く被る。
「これはこれは『古藤さん』。僕はただ、カウンターの中にいた、か弱い一市民でしかありません。事件に関しては、特に変わったことは知りません」
加直は芝居がかった仕草とセリフで古藤に対応した。
経験上、このような人物は舐めた態度を取った方がボロが出やすいので、付け入る隙が見付けやすい。勿論その際の不快なノイズには歯を食いしばらなければならないが。
古藤は、加直の目を鋭く見つめた。
「しかし『あの匿名の情報』は非常に具体的だった。二つの傷が別の刃物によるものだというハナシですよ。それから第二の犯人の動機が、『公開されている範囲』の情報だけで正確に分析されていた。あんた以外に、『この商店街』でそんなアタマを持った人間はいない」
――――おっと。バカじゃないのは流石だね。古藤さん。
『あの匿名の情報』と『この商店街』というあやふやな文言でこちらの自爆を誘うワードを布石として古藤は繰り出した。それを軽く驚く加直。だが、焦らない。
加直は、表情一つ変えず、穏やかに答えた。
「僕は、ただの金物屋の店主代理です。お客さんの噂話や、商店街組合の電子掲示板を見ていただけです。僕は、ずっと、騒ぎが早く収まって欲しいと思っていただけです」
加直の返答には、一切の感情が交じらない。法的に彼女を追い詰める隙はなかった。実際に「思っていただけです」と、感想を述べているに過ぎない。
古藤は、これ以上の追及は無意味だと判断し、こいつに睨みを利かせるのはここまでだと苛立ちを隠して立ち去った。彼の微表情は嫌悪や侮蔑を浮かべていた。警官が市民に対して抱いてもいい感情ではない。
彼は去り際に、小さな声で警告した。
「辺さん。『あんまり変な動きはしないでくれよ』」
加直は、無言で頷き、古藤が去っていくのを静かに見送った。彼女の『自分の秩序を守る者のペルソナ』は、今回も、誰にも気づかれることなく終わった。……それにしても不快なノイズをばら撒く警察官だ。ヒステリー球が出そうだ。
辺金物屋の正面口に『警察官立寄り所』というお守り代わりの標識を掲げているが、警察官の方が厄介な存在だ。……今のように特に理由もなくふらっとやってきて圧力をかける真似をするのだ。
事件は終結したが、加直の脳の疲労は極限に達していた。特に、冷酷な復讐心という論理的な殺意を感情ではなく構造として分析した作業が、彼女の精神を深く削っていた。
午後十時過ぎ。加直は、部屋の照明を消し、静かにベランダに出た。
夜の湿った風が、疲れた肌を撫でていく。
彼女は、ポケットからハーフコロナを取り出し、ゆっくりと火を灯した。深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。
商店街は完全に静まり返りミラータッチ共感覚に届く感情のノイズは、皆無だ。
加直は、瞑目し、夜風と甘苦い煙だけを堪能した。自分のコンフォートゾーンを守る為に少しばかり脳を働かせた代償は、目の下の濃いクマと、脳疲労だ。その甲斐あって加直の世界は再び、彼女が眠るに足る、静かな夜を取り戻していた。
遠くでパトカーのサイレンに交じって発砲音が聞こえる。
あれは今の加直には直背関係の無い、ただの聴覚的ノイズに過ぎない。
≪♯012・了≫
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