掌編【辺加直の鏡像】

 晩秋の朝八時。
 港湾部からの冷気が遥か向こうの山間部へと向かうように吹き抜け、アーケードの下を乾燥気味な涼しい風が通り過ぎていく。この商店街は第一商店街ほど賑わいはないが、第三商店街ほど売れてはおらず、古い常連客が開店を待つ、静かで穏やかな時間が流れていた。良い解釈をすれば旧き良き町並みと懐古的なテンポが連なる昭和レトロな、実稼働している博物館だった。
 【辺金物屋】の店舗の裏庭。加直は、水色の作業用ブルゾンと黒いトレーナー、デニムパンツといういつもの装いで作業をしていた運び込まれた商品と処分する商品の仕分け作業だ。腰痛持ちの祖父・恵悟の朝食を準備し終えたあとのルーティンでもある。
 加直は、まずサーモマグから淹れたばかりの熱いブラックコーヒーを景気づけのように一口飲んだ。いつもの苦味が、不眠と多動思考で散漫になりがちな意識に渇を入れてくれる。
 先ほど、左手首のクロノグラフで時間を確認した時に、ついでに文字盤を占めるデイデイトカレンダーは、今日の日付を正確に示し、小さな窓のムーンフェイズは、夜の月の満ち欠けの情報を映していた。彼女にとって、このアナログな確認方法は、ほんの数秒だけ『心を今ここに』集中させる儀式のようなものだった。
 今日も普通の日が始まる。ありふれた『普通の日』が。
 そうであって貰わないと困る。先日の発砲でまだ愛銃のS&W M351cにはロックがかかっている。この間に過去に加直に撃退された犯罪者や社会不適格者がお礼参りに来る可能性は常に存在する。先日の発砲では全弾一人の人間に至近距離から胸部へ命中させたのに、『死亡には到らなかった』。気絶しただけだったそうだ。ミラータッチ共感覚の激痛で死にそうな思いをしたのに、撃たれたあの麻薬中毒患者は今では拘束されたまま入院しているだけらしい。22マグナムの非力さを恨むと同時に、やはり、22マグナムで良かったと思う。それ以上に強力だと、相手の絶命を想像してしまい、こちらの心臓がショックで停止しそうだ。そのリスクを再認識した。


 午前十一時過ぎ。商店街の往来が最も増える時間帯。
 祖父の恵悟が、加直に声をかけた。
「加直。さっきな、【ワコー】の美里ちゃんが、店の客のことで困っとるって、わざわざうちの裏口まで来たんやけど」
 【ワコー】は金物屋から少し離れている喫茶店で、そこでパートで働く美里と恵悟は顔なじみだった。
 美里は、加直が人前に出ることを避ける性分を理解しているため、直接加直を煩わせることを避け、加直の祖父に相談を持ちかけるという、商店街の非公式なネットワークが働いていた。実に迷惑な話だが、加直の具体的な問題解決能力は、彼女の意図とは裏腹に、地域内でひそかに頼られていた。……その裏で組合長が加直の知恵や『働き』を材料に組合長選挙の票の獲得材料にしているのも分かってはいるが、敢えて、何も知らないふりをしている。何もかもを見通した顔や態度で接すると波風が立つような気がした。
 美里さんからの伝言は、こうだった。 
 「最近、毎日、同じ時間に来て、同じメニューを頼み、同じルートで帰る『誰か』に、バイトの藤野さんが付きまとわれている。美里さんは、それがストーカーだと確信し、警察に相談する前に、客同士のトラブルに詳しい金物屋の店主(恵悟)に相談に来た」のだ。
 休憩スペースでサーモマグのコーヒーを飲んでいた加直は、両腕を組み、軽く握った左手で口元を覆った。取り敢えず主観と客観を分けて考える。……『これは、単なるストーカーであってほしい』。そうであれば警察に通報するだけで解決する。
 加直は、美里さんの伝言を受けた直後、ちょうど金物屋の前を不安そうに通り過ぎる被害者、藤野さんを目で追った。三十歳かそこらの見た目の、普通ならエネルギッシュな雰囲気のお姐さんだが、今は少し顔が曇っている。
「……?」
 約三十秒後、藤野さんの後を追うように、一人の女性――黒髪ロングヘア、ツイード生地のコート――が、藤野さんと全く同じ速度、同じ足幅、同じ背筋で肩に掛けたトートバッグをかけ直す動作で通り過ぎた。
 何か強烈な違和感を覚えながらも、言語化できないことに煩悶とした加直は、レジの下からビターチョコレートのアソートを取り、無言で口に放り込んだ。脳のエネルギーを、この異常な模倣現象の解析に集中させる。……何がどのように異常なのかは分からないが、『異常である』ことは分かっている。
 加直は眼鏡を外し、眉根を揉んだ。
 加直のミラータッチ共感覚は、コートの女性の行動を直視した瞬間、激しい信号を受け取った。それは事実だ。不快だが、『何か違う』。ミラータッチ共感覚は他人の喜怒哀楽を全て、それぞれ質の違う不快感として神経に信号を注ぎ込む。
 この場合で言うと、悪意や敵意と同時に焦りや不安や……喜びまで含まれている。コートの女性の顔を真正面から見て微表情を解析すればもっと情報が得られるだろうが、加直にはそこまで積極的にこの件に絡んでいく動機がない。モチベーションも無い。
 その信号は、加直の嫌いなタイプの苦痛……『対象との同調による満たされない自己の補完』という、粘着質で依存的な非常に歪んだ渇望感だった。
 その女性が、被害者の行動を完璧に模倣する度、被害者の脳内にあるミラーニューロンが異常に刺激される。これは共感の強制であり、被害者に「自分の行動は全て見透かされ、自分と相手の境界が曖昧になっている」という逃げ場のない恐怖を植え付け、徐々に心理的圧迫を加えて、心を蝕んでいくタイプの『嫌な行動』だ。ともすればミラーリングの悪用とも解釈できる。
 加直のミラータッチ共感覚は、この模倣行動が精神的な暴力であると同時に、もし自分がこの模倣行動を止めようと物理的な制圧を試みれば、相手の自己欠損の苦痛と羞恥心という、より複雑で深い痛み。……つまり精神的な激痛を伴って自分に返ってくることが簡単に予見できた。

――――どうして他人のために、僕がこの激痛を甘んじて受けなきゃならないんだ?

 加直は、天井に向けて呟いた。
 他人のための介入は、事勿れ主義を貫きたい加直にとって、最も避けたい行為だ。ましてや、積極的に真相や事件の解明に乗り出す事は、コンシールド許可証剥奪の危険性を孕む。都道府県知事から調査業の認可を貰っていない人間が、非常に犯罪性の高い事態に首を突っ込むのはどう考えても賢くない。
 その一方で、加直の外観把握の能力はこの模倣犯の微表情――口角が僅かに下がり、眉間に力が入り、瞳孔が不規則に変動する様子――から、模倣の失敗や拒絶が、一瞬で制御不能な攻撃衝動へと転化するという、危機的状況の必然性を読み取っていた。膨らんだ風船は必ずしも萎むとは限らない。
 この状況で、非力な市民である加直が、暴発寸前の狂気を宥めたり制圧するためには、分かり易い物理的な力――ロックされ、使えないS&W M351c――を携行し、『もしもの時の強制停止』という選択肢を持つ必要がある。法的なリスクと他者の生命を天秤にかけ、加直は、『奥ゆかしい辺さんのペルソナ』を心に仕舞うか否か悩んでいた。
 彼女の多動思考が内側前頭皮質と外側前頭皮質を高速で反復し、思考が混沌とする……。

 ※ ※ ※

 翌日。結局、加直は自分の正義感。……ではなく、脳内の絡まった糸――言語化できない不快感――を解消すべく、喫茶【ワコー】へ向かった。
 知らなければ知らないで済んだ事なのに、知ってしまったがゆえに脳内に居座った謎や疑問は反芻思考に発展し、普段から不足気味な彼女のワーキングメモリを圧迫し、それを自力で解消できない苦痛に頭がおかしくなりそうだった。
 ワーキングメモリが圧迫しているのを自覚できないほどに認知機能が低下している事実を把握できていない時点で、今の加直はかなり視野が狭い判断しかできない。……即ち、問題解決のために、情動的な行動として、喫茶【ワコー】へやってきたのだ。
 昼3時の休憩の珈琲を【ワコー】で飲むと言い残し、一時間程、店番を祖父の恵悟に任せた。
 
――――コートの女が単なるストーキングではなく、自己欠損の報酬系が暴走している結果の行動……。
――――……くらいしか、解決の糸口が見つからないんだよね。
――――もっと『サンプル』が必要だなー。

 コートの女が、自身の自己同一性が欠損しているため、他者(藤野)の行動を完璧に真似ることで、他者の人生を生きているかのような錯覚を脳の報酬系に送っている。……と仮定した場合、犯罪性は非常に低い。少なくとも刑事罰の対象にはなり難い。精々、条例違反か軽犯罪法に抵触する程度だろう。
 この行為は、ミラーニューロンの活動を異常に高め、模倣の対象である藤野さんへの依存――他者になりきる快感――を加速させていた。  【ワコー】のバイトである藤野さんが具体的な被害に遭ったと証明するのは難しい。
 藤野さんが「嫌なものは嫌だから止めてほしい」と口頭で注意するだけに留まるのが妥当な落し処だろう。
 面倒なのは、この強固な心理的依存を断ち切るには、対象を完全に消失させる危険な手段に出るか、あるいは藤野さんと同レベルの強力な鏡像をぶつけて、コートの女の認知を錯乱させるしかないことだろう。
 加直は、【ワコー】に入るなり美里さんの方を見て、常連客の顔で「コーヒーとチョコケーキのセットを」と注文した。藤野さんは営業用よりも親しみのある愛嬌を振りまいて加直の注文を厨房に届けに行く。
 店長の美里さん――五十代のふっくらとした中年女性。恵比須顔に似た笑顔が特徴的――が加直の注文を運んできて、その折に加直は小さな声で美里さんに言う。
「美里さん。警察への相談は、まだ待ってください」
 加直は切り出した。
「これは、一般的なストーカーではないと思います。詳しくは省きますが、『相手の女』はちょっと『拗らせているタイプ』みたいですので……このままでは、藤野さんは精神的に追い詰められ、『相手の女』は何をするか分かりません」
 一瞬だけ『常連客のペルソナ』を外した加直は美里さんに、藤野さんの過去の人間関係について尋ねた。
「美里さんが知っている範囲で構いません。藤野さんが以前働いていた場所で、藤野さんに強く依存していたり、『藤野さんのようになりたい』と口にしていた人物はいませんでしたか? 特に、藤野さんが退職してから精神的に不安定になった人物です。……藤野さんが褒められたり認められたりすればするほど、『相手の女』には『自分の手柄や実力』として、承認欲求の代替品になっていた可能性があります」
 美里さんは、当初、加直の言う言葉が突拍子も無さ過ぎで、何を言っているのか分からない表情のまま、口をぽかんと開けていた。加直はその間の抜けた顔を見て、美里さんの困惑や混乱がノイズを形成して自分の体内の神経群を不快に奮わせるのを感じている。
 一分程して、漸く事態が飲み込めたのか、加直の言葉を辿ることができたのか、美里さんは営業用の笑顔を無理に貼り付けて、「まあまあ、こちらに来ませんか?」と、加直をカウンター席に案内しようとした。加直の話を聞く気になったようだ。
 個人情報に触れる話なので躊躇したが、美里さんに藤野さんの昔の話を前置き無しで聞いてよかったと思っている。
 レジカウンターに移動して直ぐに「これは、万が一を未然に防ぎ、藤野さんを守るための推論です」と、美里さんに訴えかけると、美里さんは協力に応じた。美里さんの顔からいくつもの微表情が伺える。『驚き』や『不安』や『嫌悪』が次々と現れる。それを裏付けるように美里さんの感情のノイズも変化する。
 美里さんは、藤野さんが以前勤めていた中堅企業での、元同僚・高橋のことを思い出しながら話してくれた。どうやらその高橋何某という人物が心当たりのある人物らしい。美里さんの口調だとコートの女とは断定していない。
「高橋さんっていう人が居まして……。いつも不安そうで、自分の行動に自信が持てないって言ってる人で。でも、藤野さんが言っていましたけど、傍で見ていると普通の人で、何も変わらない人だって言ってました」

――――つまり藤野さんは高橋何某につけられているのを何とも思っていなくて、高橋何某の雰囲気が異常だからなんとかしてくれ、とのことか。
――――美里さん、そりゃ偏見が過ぎるよ。
――――とはいえ、心理的圧迫を藤野さんが感じ始めたのなら……。そろそろ危ないかな。

 加直は話を聞きながらフォークだけを動かして口に切り分けたチョコケーキを運ぶ。今加直の脳内はフル稼働状態でグルコースを大量に消費している状態だ。

――――藤野さんが持っていた『自然な自信』……。『努力せずとも周囲から肯定される雰囲気とかカリスマ』……か?
――――高橋何某とやらは、それこそが自分に欠けている自己だと投影したのか?

 美里さんは、辺りに聞こえないように声を落として続けた。藤野さんは店内を右往左往してテーブルと厨房を楽しそうに往復している。
「藤野さんが退職した時、高橋さんは『自分の心に穴があいた』と泣いていて大変だったらしいですよ」

――――? ……高橋何某にとって藤野さんは、ただの同僚ではなく、自分が存在するために必要な『輪郭』だった? 
――――だから、藤野さんを職場から失ったことは、高橋何某にとって心を病むほどの、存在理由の剥奪だと認識した?

 高橋何某は、藤野さんの退職後、「生きる張り合いがない」と漏らし、精神的に不安定になっていたという。藤野さんの退職(喪失)は、高橋何某にとって自己の承認システムそのものの崩壊を意味していた? ……だとすればその強い執着は何だ? と、加直は心の中で首を傾げる。
「まあ、フジ(藤野)ちゃんとか人からのまた聞きとか噂話とか。全部まとめて話したけど役に立てた?」
「ええ。それなりに……」
 加直は曖昧な笑顔でケーキを平らげ、少しぬるくなったコーヒーで口内を洗う。
 そして、「これは推測ですが」と付け足し、高橋何某が藤野さんの行動パターンを模倣していることを美里さんに説明し、「藤野さんがいつもの時間に【ワコー】に来店し、高橋がその近くの席に座るというパターン」を利用することを提案した。

 翌日。午後三時。
 加直は【ワコー】のカウンターの隅に座り、敢えて藤野さんが好きだというこの店のメニューの一つ、イチゴとピスタチオのフルーツパフェを注文した。
 加直は、『静かに、合理的思考に戻れ』という、冷徹な執行者のペルソナを被り、両腕を組み、カウンター越しにパフェを待った。
 やがて、藤野さんがホールに出てきていつものようにカウンターやテーブルの間を泳ぐように注文を取り厨房に戻り、その隙にテーブルを拭く。
 数分後、コートの女――やはり、高橋何某だった!――が来店し、藤野さんが一番よく通るテーブル席に、『いつもと同じように座った』。この日のこの時間、この席にコートの女こと高橋何某が座るのは美里さんから聞いていた。
 高橋何某の視線は、藤野さんに吸い付いている。視線や微表情から様々なポジティブな感情を感じ取ることができる。非常に温かい不快なノイズだ。敵意や悪意が発するノイズではない。
 加直は、パフェの銀色のスプーンを手に取り、一口食べた。甘さが脳の警戒心を鎮める。その時、高橋何某が、カウンター席に座る加直の存在に気づいた。
 高橋何某の顔が、困惑と錯乱で歪んだ。藤野さんが好きなパフェを食べている、黒フレームの眼鏡の女性。
 高橋何某の脳は、模倣の対象が「藤野さんと加直」という二つの鏡像に分裂したことによる、認知的不協和に陥った。
 その誘導は非常に簡単だ。加直が食べているパフェ、イチゴとピスタチオのフルーツパフェが観察する側からすれば、『特徴的なアイコン』だったからだ。
 このパフェは、美里さんに訊いたところ、『藤野さんしか注文して食べていない、不人気なメニュー』なのだ。普通にメニューリストに並んではいるが、注文して食べているのは休憩中の藤野さんだけで、その藤野さんが食べている姿を見ているのは高橋何某だけで、高橋何某にとっては『藤野さんとイチゴとピスタチオのフルーツパフェ』が幸せな空間を形成する絶対に必要な条件だった。 
 認知が歪んでしまい嗜好の対象まで変化するのは珍しいことではない。そして、『認知が歪む条件』が形成されるのも珍しいことではない。
 藤野さんの前職の中堅企業。【ワコー】での藤野さん。藤野さんだけが『愛している物』。
 普通の視点ならば何も紐づいていないので、この情報から何かを得るのは難解だ。
 高橋何某は、この情報から藤野さんを『自分が思っていた通りの藤野さん』がここに居たと歓喜して、理想が裏切られなかった喜びが心に補正をかけて更に藤野さんを奉る対象に格上げした。
 その『私の藤野さんの食べ物』であるイチゴとピスタチオのフルーツパフェを(容赦なくやや下品に)食べている加直はさぞや不快な存在に見えただろう。加直は自分の背中にノイズの刃が突き刺さったような不快感を感じた。あからさまな敵意。悪意。そして混乱と驚愕。
 背中にドライアイスを這わされたような強烈な激痛を感じる。

――――そろそろか。
――――『思いのほか、単純よねー』。それだけ盲目なのか、視野が狭いのかね?

 加直は顔色には出さなかったが、自分を襲う感情のノイズに圧し潰されそうだった。
 高橋何某は、混乱と嫉妬から、錯乱した表情で店員として仕事をしていた藤野さんに歩み寄り、突如、「あなたは私のものよ!」と甲高い興奮した声で叫び、藤野さんの右手首を掴んで自分の体に引き寄せた。藤野さんには予め、事態の予想は聞かせていたが、その幾つかのパターンの一つがこうも的確に的中すると、それを知る藤野さんであっても、心の準備ができていたとしても……相当な恐怖だったろう。
 加直は、即座に動いた! 決め手は高橋何某の武器だ。
 彼女は、左手側に折り畳み傘を握っていた。藤野さん愛用と同じデザインのトートバッグにでも仕舞っていたのだろう。それが彼女の最大の暴力の顕現なのだろう。
 加直は、自身の、身長百六十七センチの体躯から繰り出される全運動エネルギーを、高橋何某の背中の体幹に、自分の左肩甲骨から体当たりを敢行し、『暴力的行為に見えない制圧の動作』を辺りの客に対してアピールする。警官の聴取に際して、加直の暴力的な振る舞いが刑法に抵触すればコンシールド許可証を剥奪されるリスクが有ったからだ。第一、加直自身は腕っぷしでの制圧は大の苦手だ。
 そして、『密閉された室内で、多数の他人に不快な感情を湧きあがらせる行動も苦手だ』。
 その瞬間、加直のミラータッチ共感覚は、高橋何某の羞恥心と自己崩壊の激痛を一気に受け止めてしまう。
 左肩甲骨の衝突の痛みとは全く違う痛み。全身の内部、骨格が軋むような痛みと、『誰にもなれない自己』の絶望感、そして『模倣の対象を永久に失う』という存在理由の剥奪の恐怖が、感情のプレス機となって加直を襲う。それはあたかも、鏡が割れた瞬間の、高橋何某の魂の断末魔だった。
 加直はミラータッチ共感覚の苦痛を、他者の生命を守るという事実によって押し殺した。体当たりは、高橋何某の攻撃衝動を完全に逸らし、そのはずみで高橋何某は床に倒れ、物理的な制圧を可能にした。
 立ち上がろうとする高橋何某を前にして初めて、加直は『この店内で、黒フレームのいつもの眼鏡をかけ、掻き上げていた前髪を下した。いつもの作業着ではない、青いカーディガンに白いスラックスの……藤野さんと酷似した衣服のコーディネートで【ワコー】で居た』。
 外見の衣服と特定の一人しか食べないパフェ。
 それが藤野さんの強烈なアイコンとして認識してしまっていた高橋何某からすれば、自分のコンフォートゾーンに非常に不快な存在が紛れ込み尚且つ、自分が投影する対象と同じ衣服を着て同じものを食べているという事実が同時に視界に飛び込むと、彼女は自分の認知が生み出す怨念が混じる被害妄想に陥り、後先考えない感情的な行動に出るのは充分に想像できた。
 加直はわざとそれを誘った。高橋何某に『刑法に抵触する行動』を行わせる、実にグレーな心理的誘導だ。
 ただ、高橋何某の、その行動がどんな手段なのかが判断できなかったので、加直は手元に銃が無い事を最後まで危惧していた。……決断が早かったのは、藤野さんを掴んだ高橋何某の左手に折り畳み傘が握られていたので、普段から誰かを害するための道具は持ち歩いていないと判断し、体当たりを敢行したのだ。衝動的に何をするのか分からない人間というのは、高確率で『空いている方の手』を攻撃的な動作のために活用する。空いている方の手に持っていたのが折り畳み傘だったので『安心してグレーな体当たりが敢行できた。』
 事件発生から約二十分後。
 高橋何某は警察に連行され、藤野さんと美里さんが同席する形で、加直は警官の聴取を受けていた。高橋何某はおとなしくしていれば注意だけで済んだだろうに、感情的になりすぎて、警官に対して殴りかかったまではまだ許せたが、警官の拳銃のホルスターに手が触れてしまったのは良くなかった。
 今回の加直の行動は第三者として善意から『現場で咄嗟に他人を生命を擲って守った』と解釈され、いつものような論理的展開を並べる必要は無かった。

 クロノグラフの時刻はきっかり一時間経過したことを告げていた。金物屋の店先に戻り、店番をしていた恵悟に「帰ったよ」と声を掛けて何事も無かった顔でカウンターにもたれかかった。
 何事も無かったなんて勿論、嘘だ。事件の残滓がまだ全身を駆け巡っている。認知が歪んだ人間の、歪んだ欲求が不快感として全身を侵食している。【ワコー】での出来事が……注意残余が立ち切れていない。

 ※ ※ ※

 夜十時。ベランダにて。シャツの胸ポケットから、差していたハーフコロナと使い捨てライターを取り出し、ゆっくりと火を灯した。深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。苦い煙の匂いが、昼間の【ワコー】での一件を自然と反芻する。

 聴取していた警官の一人は、加直の迅速な行動には感謝しつつも、体当たり制圧について尋ねた。「彼女になぜ、強引な体当たりで制圧する必要が?」
 加直は、黒フレームの眼鏡を正しながら言った。
「彼女の凶器は傘でしたが、本当の危険はその衝動かと。彼女の行動は、傍目に見ても常軌を逸していました。彼女が何をするか分かりませんが、僕は咄嗟に体が動いて体当たりしていました」
 同席していた美里さんと藤野さんが、加直の冷静な説明に深く頷いて加直から見えない角度からの情報を付加して証言の信用を厚くしてくれる。
 藤野さんが、静かに「辺さんのおかげで、助かりました」と、絞り出すように言った。その切実な声が一押しなったかどうかは分からないが、警官は、これ以上の追求は必要無しと判断し、クリップボードを閉じた。
 「お疲れ様です」と加直は警官に労いの言葉を言い、警官は無言で頷き、去っていくのを静かに見送った。

 ※ ※ ※

 ……と、いう顛末の後。事件の緊張と、ミラータッチ共感覚が受けた高橋何某の自己崩壊の激痛は、加直の脳を深く侵していた。
 加直は深夜に吸う、一日の振り返りのための、いつものハーフコロナを吸い終えて、自宅の浴槽に熱い湯を張り、静かに体を沈めた。
 湯気が、不眠症で荒れた肌と目の下のクマを優しく包む。
 加直は、力を抜いて天井を見つめた。
 ミラータッチ共感覚の激痛による緊張が湯にしみ出すように解ける心地よさを感じる。心地よい倦怠感が全身を支配していく。……バスルームやトイレは基本的に密閉空間で視覚や聴覚で拾う情報が極端に少なく、誰にも見られないし誰も見えないので、他者の感情のノイズを受信し難い安全地帯でもある。
 入浴中に度々訪れる深いリラックス状態こそ、加直のデフォルトモードネットワークが最も活性化する時間だ。それは、複雑な問題を処理し、過去の経験と知識を結びつけ、彼女の知覚推理や外観把握を支えるための、脳の静かなデフラグ活動だ。
 風呂が有難い季節になってきた。
 湯船から上がり、タオルで水気を拭き取る頃、アハ体験の如く、デフォルトモードネットワークの活動が今日の事件の皮肉な結末を、一つの結論として今頃になって、勝手に導き出した。

――――ああ、またこれだ。いつもこのパターンだな……。

 思考が、静かに脳内で響く。

――――僕は、事なかれ主義を貫きたかった。

 誰の人生にも介入せず、ミラータッチ共感覚の苦痛からも逃れたかった。それなのに自分の不快を解消したいだけという自分勝手な動機で事件に首を突っ込んで無理に解決してしまった。
 これは加直にとって、感謝と人脈という、最も避けたい報酬を得てしまった事を意味していた。
 人の意識に止まれば止まるほど、人脈が広がれば広がるほど、苦痛に直面する機会は指数関数的に増えるのは明白だ。
 加直は、窓の外の深い夜空を見上げた。
 月は、少しずつ満ちていた。クロノグラフのムーンフェイズの月齢通りだ。
 自分が世の中を上手く生きるための標準装備として、『奥ゆかしいペルソナ』と『覚悟を決めた強かなペルソナ』の間で、VUCAのような世界が心の中で広がっている感覚に、静かに揺れ動いていた。

――――『クソッたれなシステム』が自分の中にもある……。

≪♯011・了≫
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