掌編【辺加直の鏡像】
防犯を呼び掛ける北川上警察署作成ポスターが掲示板から剥がれて風に舞う大月島市。
もうそろそろ冬が手前のはずだ。気候変動がここ十年ほどで異常な速度で加速して、日本の春と秋という季節が形骸化して久しい。
室中センター第二商店街。
気圧の変動で耳鳴りがうるさい一日だった。午後九時。恰も、商店街の入り口から這い上るように、港湾部からの潮風が湿った空気を運んでいた。商店街は漸く静まり返り、通りは深い夜の帳に包まれようとしていた。
辺金物屋の店内。加直は水色の作業用ブルゾンを脱ぎ、黒いトレーナー姿で一人、翌日の仕入れ伝票の最終チェックをしていた。
加直は寸暇の休憩と言わんばかりに近くに置いてあったサーモマグから抽出したばかりの熱いブラックコーヒーを一口飲んだ。睡眠薬に頼る不眠症の彼女にとって、この苦味は散漫になりがちな多動思考を一つに集中させるために、必須の嗜好品だった。
左腕のクロノグラフを傾け、時間を確認。今夜もまた夜遅くの就寝になりそうだ。
加直は衣服の上から右腹に触れた。IBWホルスターに潜むS&W M351Cの硬質な感触。……それは、彼女が『奥ゆかしくて人前に出るのが苦手な辺さん』というペルソナを守るための存在だった。自分の心の安全具合を測る物理的な試験紙の役目を果たす。
――――『錯乱』!
次の瞬間。加直が愛銃に手を伸ばした理由。それは直感の読み違いであって欲しかった。
それを以てしても対処できない、『得体の知れない何か』が『人間の感情を真似て混濁した意識』でこちらにやってくる予感がした。
直後、店先の自動ドアに、鈍く、破壊的な衝撃音が響いた。金属とガラスが軋む、乱暴で暴力的な、不協和音。
加直の体が驚きのあまり硬直し、背中にびっしりと冷たい汗が浮く。大脳基底核や前頭前野など が異常を感知して過去の経験と照らし合わせて、それがどれほど危険であるのかを算出している。
結論から言えば、初めて対峙するタイプの『異常者』。……年齢二十代前半の青年で、土気色の顔色をしており、灰色のジャンパーと黄土色のカーゴパンツを穿いた『人の形をした何か』だった。
加直が振り向いた時、その人物は自動ドアを破壊しきれずに自動ドアの向こうで立っていた。いつもなら早くにシャッターを閉めるのだが、今夜は商品の運搬があったのでシャッターは解放したままだった。
加直の脳内に、ミラータッチ共感覚の激しい信号が、津波のように押し寄せてきた。それは、過去に発砲した時に感じた、あのトラウマ的な激痛の予兆だった。……ただ、違和感があった。これまでに対峙してきた犯罪者や社会不適合者とは似て異なるノイズだった。
苦痛というより、吐き気を催すような不快感しかないノイズ。それが脳の天辺から注がれて脊髄を通過して全身に広がっていくような、虫唾が走るような不快感。
半壊した自動ドアのガラスを金槌で叩き壊して店内にのそりと侵入してきた青年は、全身を震わせて瞳孔が異常に拡大していた。
彼の非言語的な手がかりは何も感じ取れない。
体が硬直して銃を抜き放つ動作すら忘れた一瞬であっても、まともな人間なら、その顔を見ただけで微表情から感情を読み取り、ミラータッチ共感覚が修正を加え、高い確率でその人間の次の動作や情動的行動を読み取ることができるが、『目の前の人間』からは何も感じ取られない。
彼我の距離、五m。
今すぐ銃を抜いて警告、発砲しても充分に正当防衛が成立する。店内の防犯カメラが証拠として有利に働いてくれるだろう。
加直が動けなかったもう一つの理由……。
それは、ミラータッチ共感覚が『目の前の人間』を人間だと認識している一方で、ノイズがブツリブツリと途切れるのだ。加直の経験では、他人の感情のノイズが途切れる時……。即ち、その人間が生命活動を停止した時だけだった。
『過去の経験上、人間の死体や完全に意識を失った人間からは何のノイズも感じられない』。それはまだ理屈抜きにしても理解できる。その理屈抜きで考えても有り得ない光景を目の当たりにしていたので、加直は銃のグリップを強く握っていたはずなのに、抜くことができずに体が硬直して動けなかった。
……それは、言うなれば、加直は驚愕ではなく、恐怖で動けなかった。
――――『コレでは倒せない!!』
加直の側頭葉の奥深くに刻まれていた知識と現在の状況が一致する。そして、S&W M351Cを購入する時に政府指定銃砲店の店主が言ったように、三八口径にしておくべきだったと同時に激しい後悔が襲う。
無い物は仕方ない。
今のカードで勝負するのみ。
勝負とは戦う事だけでなく、家財生命を守るための行動すべてを指す。勿論、闘争という選択肢もあったが、祖父の恵悟を放っておいてはいけない。
背後で、レジカウンターの向こうの休憩スペースに面する階段から恵悟が急いで降りて来る足音がしたが、加直は「来るな!」と怒鳴り、続けて「通報して!」と言葉を絞り出すのが精一杯だった。恵悟の足音が階段を戻るのを聞いている間も、加直は『目の前の人の形をした何か』を睨んでいた。
睨んでいたが威嚇を目的とした凶相のペルソナではない。
そいつにはそんなものは通用しない。そんな気がした。
何故なら。
薬物中毒、だから。
毎月開催されるコンシールドキャリー許可証取得者の義務である講座への出席。その場で聞いたことがある。
薬物中毒者は感覚が麻痺しているだけでなく、衝動性を制御する箍が働いていない場合が多く、殆どが、本人の意識とは無関係に深層心理の何かが大脳辺縁系を操作して『特定の行動』を行わせているだけ。
従って、説得も警告も到底受け入れられる状態ではない。それでも法律上、コンシールド許可証取得者は警告を行ってから緊急避難の発砲を行わなければならない。その僅かな隙間に自分の生命が危機に晒されようとも、法律が優先される原則が有る。
薬物によって痛覚受容体が完全に麻痺し、生存本能のみを司る脳の中核部が乗っ取られていることを示していた。ミラータッチ共感覚がキャッチしたのは、『絶望』や『盗みへの焦燥』といった論理的な感情ではない。
痛みへの恐怖が完全に欠落し、攻撃衝動のみが肥大化した『激しいパニックと高揚感』の混合だった。
麻薬中毒。それならば、不快極まりないノイズの正体や、途切れるノイズも理解できる。
脳科学的に正常に作動していないのだから、微表情や仕草で先手を打つ事や感情を読み取ることもできなくて当たり前だ。
加直が麻薬中毒患に関しての情報と、政府指定の銃砲店での記憶が結びついたのは、銃砲店の店主が「38スペシャル+Pなら麻薬中毒患者でも一発だ」という文言と講座で習った麻薬中毒患者の特徴と対処が奇跡的に結びついたのだ。
彼の脳内は、化学物質によって扁桃体がオーバーライドされ、22マグナムの停止力の限界を予感させる異質な信号を発していた。
加直は恐怖で硬直する体を切り離すように、思考だけを働かせる。非常事態下での感情と事実の分離。
この状況では、最小口径弾のS&W M351Cでは、『命を奪うこと』と『活動を強制停止させること』がほぼ同義になる。そして、そのどちらもが彼女自身の激痛とトラウマの再燃を意味する。
青年はどこかで手に入れたらしい、血で汚れた金槌をゆっくりと振り上げようとしている。力が入らないのか、動作が緩慢だ。
急激な空腹を覚える。想像以上に脳がエネルギーを消費している。このままでは他人事のような解離症状がおきてしまう。危険なので逃げたいが逃げられないゆえに、現実逃避してしまう心理が強く働く。……彼女はコンシールド許可証と銃を所持しているだけのか弱い市民でしかない。
多段防御と停止力の限界……そんな不吉な文言ばかりが予期不安を煽る。『迫る判断と倫理的な葛藤』が加直の心を圧縮せんばかりに圧し潰す。 男はハンマーを振り上げ、加直に一直線に突進してきた。距離は五m。
加直は悲壮な顔で引き金を引く直前、一瞬の躊躇を覚えた。
ミラータッチ共感覚が予知する、弾丸が皮膚を貫通する激痛と、人を傷つけることへのトラウマが、脳の判断を妨げたからだ。しかし、青年の狂気の突進速度が、その躊躇を打ち砕く。蹴散らしてしまう。
加直は警告を発しながら銃を抜き、葛藤で焦点が定まらぬ目で青年の左太腿、大腿骨を狙い、引き金を引いた。
発砲音と共に、加直自身の左脚に激しい痛みが走った。鋭く熱い針で神経を焼かれるような、過去にも経験が有るトラウマの熱波だった。彼女は呻きを噛み殺した。一瞬、照準が大きくブレた。
銃声と弾丸の着弾は、薬物によって痛覚が遮断された青年の脳に、通常の人間が感じるような外部情報による停止信号を送ることができなかった。即ち顔色すら変わらない。
彼は微かに身体のバランスを崩し、脚部から鮮血が飛び散ったものの、攻撃の目的と行動のプログラムは継続されていた。
青年の中枢神経系は致命的な損傷を伴わない限り、運動を強制停止しない。彼は怯むことなく、僅かに速度を落としただけで、ハンマーを再び振り上げようとしていた。
加直は、共感による左脚の激痛で、再度、引き金を引くことに強い抵抗を覚えた。
「止まれ! お願い! 止まって!!」
加直が叫ぶ。
この一秒の躊躇が命取りになる。
彼女の脳は、誰かを傷つける自分の痛覚を優先してしまう。
青年がハンマーを振り下ろすまでの時間は、あとコンマ数秒。
加直は、それまで威嚇の意味を込めて彼の顔面に向けていた銃口をグッと下げて、腹部のへそ下を狙って発射した。
これは、ハイドロスタティック・ショック――血液などの体液に水分を多量に含む組織に高速の物体が侵徹すると、その部分から離れた位置まで、流体を通じ、衝撃が伝導する現象――によって内臓に一瞬の衝撃を与えて活動を一時的に中断させることを狙った、最後の非致命的な試みだった。それが素人ゆえの甘い判断でもある。……22WMRの弾頭は『非常に軽いのだ』。
加直の腹部に激しい打撃と貫通の痛みが襲いかかった。二発目の痛みの津波に、彼女は思わず床に膝をつきそうになったが、現場に臨んでいる者としてそれを許さなかった。
青年は、腹部に熱い衝撃を受け一瞬、呻き声を上げて動きが怯んだ。それは一秒にも満たない遅延に過ぎない。
彼の自律神経系はこの損傷を無視し、再び加直に向かってハンマーを構え直した。
加直の脳裏に、『命を奪うことへの倫理的葛藤』と『祖父と自身の生命を守る義務』が、激しく衝突した。
ミラータッチ共感覚の激痛に加えて、『非力』という銃の最大の欠点が、結果的に最大の殺意を要求するという、皮肉な現実に直面していた。
男との距離は、すでに二メートルを切っている。
加直はこの男を止めなければ、祖父と自分が殺されるという事実を選択した。
諦めの境地に近くなっていた。
加直は、男の動きを最後の抵抗を表現するように、彼の上胸部、胸骨の真ん中に、残弾を全て撃ち込んだ。撃ち込んだ後も何度も引き金を引き内蔵された撃鉄が使用済み薬莢の尻を叩いていた。加直の叫びの轟きのようだ。
青年は弾丸を全て胸で受けた途端、狂気に満ちた動きをピタリと止めた。
同時に、加直の胸部に、肺が潰れるような息苦しい、最も重い激痛が襲いかかった。
彼女は呼吸を忘れるほどの苦痛に耐え、青年の身体が、まるで糸が切れた人形のようにゆっくりと床に倒れ込むのを見届けた。
静寂が戻った店内に、ただ激痛を噛み殺せずに喚く加直の声が響き、壁に染み入り、消える。
青年が倒れ込んで、S&W M351Cを静かに見つめ、両腕を組み、震える左手で口元を覆ったまま、立ち尽くした。足がマラリアのように震えだし……脱力してその場に座り込んでしまう。
恵悟の通報から十数分。
警官がパトカーで現場に到着し、無力化された襲撃者は早々にストレッチャーで運び出され、床に致命傷には到らないであろう血の跡を残していた。
警官は加直を思いやる言葉も無しに義務的に聴取を始めた。唇を小さく震わせて、青ざめたままの加直の顔を見て警官は頬をほんの僅かに緩める。
それを見逃す加直ではない。『この警官は、加直の精神状況では正当な発砲を論理的に証明することができないはずだから、必ず聴取内容は破綻して、法に抵触する発言をしてコンシールド許可証を簡単に奪える』と加直は直ぐに悟る。それを補強するかのように警官の『喜びの感情』特有の不快なノイズが加直の神経に流れ込む。目の前の警官は、もう既に加直からコンシールド許可証を剥奪した妄想にでも浸っているのだろう。
――――ああ。胸糞の悪い……。
加直は、力の入らぬ体を店の奥の休憩スペースまで自力で歩き、そこで警官と聴取をしていた。
警官は、合計七発もの発砲に至った経緯について、厳しい表情で尋ねた。
その表情の僅かな隙に、喜びの微表情が浮かんでいる。
加直が下手な応対をするのを待っている。加直の破綻を喜んでいるジェスチャーだ。
「辺さん。なぜ七発も撃った。足への一発で、対処できなかったのか?」
加直は、テーブルの上に放りだしたままの板チョコをゆっくり掴んで、ゆっくり包装を解きながら、体内に残る激痛の残滓を分散させていた。一口齧り、嚥下して初めて警官の言葉に反応した。
加直は、一切の感情を交えず、引っ込み思案な市民のペルソナを被り直す。僅かな糖分補給で認知機能が少しはまともに稼働を始めた。
「……僕は非致命的な足を狙って発砲しました。だけどあいつは止まりませんでした。見たでしょう? 薬物中毒ですよ! 痛覚が効かない異様な状態で、ハンマーで僕の頭部を狙って突進してきました! その時、僕は切迫していたことは監視カメラで明らかです!」
加直は、続けて畳みかけるように説明した。
コンシールド法を行使した時の警官の聴取は、はっきり言ってカードゲームだ。適切な場に適切な文言を先に置き、後でその文言を回収して理路整然と文法と語彙の意味が整っていれば問題ない。
この攻略法はコンシールド法に詳しい様々な弁護士たちが書いた書籍でほぼ共通して触れられている『鉄板のルール』だった。
「警察(プロ)ならご存知でしょう。僕の銃は二十二口径です。一発や二発で興奮状態の男を止める力はありません。僕は自分と祖父の生命を守るために、彼をなんとかして停止させるという、必要な措置を取らざるを得ませんでした。七発の発砲は停止力の不足を補うための、必要な弾数です。それでも足りるかどうかわかりませんでした」
加直はやや感情的になりながら警官の聴取に対して説明をする。もう少しで「コンシールド許可証の剥奪を目論むのは、お門違いではないでしょうか?」という皮肉を言い放ってしまうところだった。
加直は、警官の目をまっすぐ見据える。
その警官は『不快』『嫌悪』の微表情を浮かべていた。ノイズもそれを裏付けるように警官の心の中の舌打ちを拾った。
警官の顔に出さない反応……ノンバーバルな反応を見て、加直の論理が物理的な事実と行動分析に裏打ちされていることに、一切の反論の余地がないことを悟った。
「分かりました。現場の状況とあなたの発砲は、彼の行動が切迫した脅威であったことを『一応』裏付けています。今回の措置は裁判所の通知をお待ちください。では銃をロックさせてもらいます」
聴取を終えた警官はそう結論づけた。
加直はご苦労様でしたと心にも無い労いの言葉を述べて、警官が去っていくのを静かに見送った。手元にはワイヤーで使用が制限された愛銃がぽつんと鎮座している。
事件は終結したが、特異なミラータッチ共感覚の反応と、それが感じ取った七発の激痛と、そこに至るまでの認知的負荷は、加直の脳を深く侵していた。最近の不眠症による目の下のクマは、化粧の下でも隠しきれないほど濃くなっている気がする。
彼女は布団を敷くと、早めに市販の睡眠薬を水で飲み込んだ。恵悟に対する顛末の説明は明日にする事にした。
このような理不尽な襲撃や侵入を受けるのは辺金物屋だけではない。商店街のどこの店舗でも年に数回はこのような犯罪の標的になっている。加直が偶々、コンシールド許可証を取得していただけだ。
胸が痛い。
神経学的な意味で。
七発も目の前の男に銃弾を叩き込んだのだ。加直が想像力豊かな芸術家気質なら、想像の羽ばたきが止まらなくなって、激痛が倍増し心臓麻痺を起こしていたかもしれない。
恐怖と葛藤の狭間で異様に重い引き金を何度も引き絞った今夜の出来事は忘れられないだろう。そして二十二口径の限界を知った。そして二十二口径で良かったと思った。
三十八口径なら自分はショックで死んでいただろう。更に言うのなら、二十二口径の七連発で良かったと思っている。最後の一発が彼を停止させる決定打になったのは確かだ。その一発が無かったら今の自分はここで呼吸をしていないだろう。
加直は見慣れた赤い箱からハーフコロナを引き抜き、咥え、そのままベランダに出た。市販の睡眠薬は医療機関で処方される睡眠薬より効きが遅く、緩く、呼吸法をや瞑想を併用しないと簡単に眠りに落ちない。
ベランダに出るとハーフコロナのフットを使い捨てライターで炙りながら深く吸い込んだ。
苦い煙が、内面の多動と思考の激痛をゆっくりと解きほぐす。彼女は、静かに頭上の月を見つめた。
もうすぐ、寒い季節がやってくる。
≪♯010・了≫
もうそろそろ冬が手前のはずだ。気候変動がここ十年ほどで異常な速度で加速して、日本の春と秋という季節が形骸化して久しい。
室中センター第二商店街。
気圧の変動で耳鳴りがうるさい一日だった。午後九時。恰も、商店街の入り口から這い上るように、港湾部からの潮風が湿った空気を運んでいた。商店街は漸く静まり返り、通りは深い夜の帳に包まれようとしていた。
辺金物屋の店内。加直は水色の作業用ブルゾンを脱ぎ、黒いトレーナー姿で一人、翌日の仕入れ伝票の最終チェックをしていた。
加直は寸暇の休憩と言わんばかりに近くに置いてあったサーモマグから抽出したばかりの熱いブラックコーヒーを一口飲んだ。睡眠薬に頼る不眠症の彼女にとって、この苦味は散漫になりがちな多動思考を一つに集中させるために、必須の嗜好品だった。
左腕のクロノグラフを傾け、時間を確認。今夜もまた夜遅くの就寝になりそうだ。
加直は衣服の上から右腹に触れた。IBWホルスターに潜むS&W M351Cの硬質な感触。……それは、彼女が『奥ゆかしくて人前に出るのが苦手な辺さん』というペルソナを守るための存在だった。自分の心の安全具合を測る物理的な試験紙の役目を果たす。
――――『錯乱』!
次の瞬間。加直が愛銃に手を伸ばした理由。それは直感の読み違いであって欲しかった。
それを以てしても対処できない、『得体の知れない何か』が『人間の感情を真似て混濁した意識』でこちらにやってくる予感がした。
直後、店先の自動ドアに、鈍く、破壊的な衝撃音が響いた。金属とガラスが軋む、乱暴で暴力的な、不協和音。
加直の体が驚きのあまり硬直し、背中にびっしりと冷たい汗が浮く。大脳基底核や前頭前野など が異常を感知して過去の経験と照らし合わせて、それがどれほど危険であるのかを算出している。
結論から言えば、初めて対峙するタイプの『異常者』。……年齢二十代前半の青年で、土気色の顔色をしており、灰色のジャンパーと黄土色のカーゴパンツを穿いた『人の形をした何か』だった。
加直が振り向いた時、その人物は自動ドアを破壊しきれずに自動ドアの向こうで立っていた。いつもなら早くにシャッターを閉めるのだが、今夜は商品の運搬があったのでシャッターは解放したままだった。
加直の脳内に、ミラータッチ共感覚の激しい信号が、津波のように押し寄せてきた。それは、過去に発砲した時に感じた、あのトラウマ的な激痛の予兆だった。……ただ、違和感があった。これまでに対峙してきた犯罪者や社会不適合者とは似て異なるノイズだった。
苦痛というより、吐き気を催すような不快感しかないノイズ。それが脳の天辺から注がれて脊髄を通過して全身に広がっていくような、虫唾が走るような不快感。
半壊した自動ドアのガラスを金槌で叩き壊して店内にのそりと侵入してきた青年は、全身を震わせて瞳孔が異常に拡大していた。
彼の非言語的な手がかりは何も感じ取れない。
体が硬直して銃を抜き放つ動作すら忘れた一瞬であっても、まともな人間なら、その顔を見ただけで微表情から感情を読み取り、ミラータッチ共感覚が修正を加え、高い確率でその人間の次の動作や情動的行動を読み取ることができるが、『目の前の人間』からは何も感じ取られない。
彼我の距離、五m。
今すぐ銃を抜いて警告、発砲しても充分に正当防衛が成立する。店内の防犯カメラが証拠として有利に働いてくれるだろう。
加直が動けなかったもう一つの理由……。
それは、ミラータッチ共感覚が『目の前の人間』を人間だと認識している一方で、ノイズがブツリブツリと途切れるのだ。加直の経験では、他人の感情のノイズが途切れる時……。即ち、その人間が生命活動を停止した時だけだった。
『過去の経験上、人間の死体や完全に意識を失った人間からは何のノイズも感じられない』。それはまだ理屈抜きにしても理解できる。その理屈抜きで考えても有り得ない光景を目の当たりにしていたので、加直は銃のグリップを強く握っていたはずなのに、抜くことができずに体が硬直して動けなかった。
……それは、言うなれば、加直は驚愕ではなく、恐怖で動けなかった。
――――『コレでは倒せない!!』
加直の側頭葉の奥深くに刻まれていた知識と現在の状況が一致する。そして、S&W M351Cを購入する時に政府指定銃砲店の店主が言ったように、三八口径にしておくべきだったと同時に激しい後悔が襲う。
無い物は仕方ない。
今のカードで勝負するのみ。
勝負とは戦う事だけでなく、家財生命を守るための行動すべてを指す。勿論、闘争という選択肢もあったが、祖父の恵悟を放っておいてはいけない。
背後で、レジカウンターの向こうの休憩スペースに面する階段から恵悟が急いで降りて来る足音がしたが、加直は「来るな!」と怒鳴り、続けて「通報して!」と言葉を絞り出すのが精一杯だった。恵悟の足音が階段を戻るのを聞いている間も、加直は『目の前の人の形をした何か』を睨んでいた。
睨んでいたが威嚇を目的とした凶相のペルソナではない。
そいつにはそんなものは通用しない。そんな気がした。
何故なら。
薬物中毒、だから。
毎月開催されるコンシールドキャリー許可証取得者の義務である講座への出席。その場で聞いたことがある。
薬物中毒者は感覚が麻痺しているだけでなく、衝動性を制御する箍が働いていない場合が多く、殆どが、本人の意識とは無関係に深層心理の何かが大脳辺縁系を操作して『特定の行動』を行わせているだけ。
従って、説得も警告も到底受け入れられる状態ではない。それでも法律上、コンシールド許可証取得者は警告を行ってから緊急避難の発砲を行わなければならない。その僅かな隙間に自分の生命が危機に晒されようとも、法律が優先される原則が有る。
薬物によって痛覚受容体が完全に麻痺し、生存本能のみを司る脳の中核部が乗っ取られていることを示していた。ミラータッチ共感覚がキャッチしたのは、『絶望』や『盗みへの焦燥』といった論理的な感情ではない。
痛みへの恐怖が完全に欠落し、攻撃衝動のみが肥大化した『激しいパニックと高揚感』の混合だった。
麻薬中毒。それならば、不快極まりないノイズの正体や、途切れるノイズも理解できる。
脳科学的に正常に作動していないのだから、微表情や仕草で先手を打つ事や感情を読み取ることもできなくて当たり前だ。
加直が麻薬中毒患に関しての情報と、政府指定の銃砲店での記憶が結びついたのは、銃砲店の店主が「38スペシャル+Pなら麻薬中毒患者でも一発だ」という文言と講座で習った麻薬中毒患者の特徴と対処が奇跡的に結びついたのだ。
彼の脳内は、化学物質によって扁桃体がオーバーライドされ、22マグナムの停止力の限界を予感させる異質な信号を発していた。
加直は恐怖で硬直する体を切り離すように、思考だけを働かせる。非常事態下での感情と事実の分離。
この状況では、最小口径弾のS&W M351Cでは、『命を奪うこと』と『活動を強制停止させること』がほぼ同義になる。そして、そのどちらもが彼女自身の激痛とトラウマの再燃を意味する。
青年はどこかで手に入れたらしい、血で汚れた金槌をゆっくりと振り上げようとしている。力が入らないのか、動作が緩慢だ。
急激な空腹を覚える。想像以上に脳がエネルギーを消費している。このままでは他人事のような解離症状がおきてしまう。危険なので逃げたいが逃げられないゆえに、現実逃避してしまう心理が強く働く。……彼女はコンシールド許可証と銃を所持しているだけのか弱い市民でしかない。
多段防御と停止力の限界……そんな不吉な文言ばかりが予期不安を煽る。『迫る判断と倫理的な葛藤』が加直の心を圧縮せんばかりに圧し潰す。 男はハンマーを振り上げ、加直に一直線に突進してきた。距離は五m。
加直は悲壮な顔で引き金を引く直前、一瞬の躊躇を覚えた。
ミラータッチ共感覚が予知する、弾丸が皮膚を貫通する激痛と、人を傷つけることへのトラウマが、脳の判断を妨げたからだ。しかし、青年の狂気の突進速度が、その躊躇を打ち砕く。蹴散らしてしまう。
加直は警告を発しながら銃を抜き、葛藤で焦点が定まらぬ目で青年の左太腿、大腿骨を狙い、引き金を引いた。
発砲音と共に、加直自身の左脚に激しい痛みが走った。鋭く熱い針で神経を焼かれるような、過去にも経験が有るトラウマの熱波だった。彼女は呻きを噛み殺した。一瞬、照準が大きくブレた。
銃声と弾丸の着弾は、薬物によって痛覚が遮断された青年の脳に、通常の人間が感じるような外部情報による停止信号を送ることができなかった。即ち顔色すら変わらない。
彼は微かに身体のバランスを崩し、脚部から鮮血が飛び散ったものの、攻撃の目的と行動のプログラムは継続されていた。
青年の中枢神経系は致命的な損傷を伴わない限り、運動を強制停止しない。彼は怯むことなく、僅かに速度を落としただけで、ハンマーを再び振り上げようとしていた。
加直は、共感による左脚の激痛で、再度、引き金を引くことに強い抵抗を覚えた。
「止まれ! お願い! 止まって!!」
加直が叫ぶ。
この一秒の躊躇が命取りになる。
彼女の脳は、誰かを傷つける自分の痛覚を優先してしまう。
青年がハンマーを振り下ろすまでの時間は、あとコンマ数秒。
加直は、それまで威嚇の意味を込めて彼の顔面に向けていた銃口をグッと下げて、腹部のへそ下を狙って発射した。
これは、ハイドロスタティック・ショック――血液などの体液に水分を多量に含む組織に高速の物体が侵徹すると、その部分から離れた位置まで、流体を通じ、衝撃が伝導する現象――によって内臓に一瞬の衝撃を与えて活動を一時的に中断させることを狙った、最後の非致命的な試みだった。それが素人ゆえの甘い判断でもある。……22WMRの弾頭は『非常に軽いのだ』。
加直の腹部に激しい打撃と貫通の痛みが襲いかかった。二発目の痛みの津波に、彼女は思わず床に膝をつきそうになったが、現場に臨んでいる者としてそれを許さなかった。
青年は、腹部に熱い衝撃を受け一瞬、呻き声を上げて動きが怯んだ。それは一秒にも満たない遅延に過ぎない。
彼の自律神経系はこの損傷を無視し、再び加直に向かってハンマーを構え直した。
加直の脳裏に、『命を奪うことへの倫理的葛藤』と『祖父と自身の生命を守る義務』が、激しく衝突した。
ミラータッチ共感覚の激痛に加えて、『非力』という銃の最大の欠点が、結果的に最大の殺意を要求するという、皮肉な現実に直面していた。
男との距離は、すでに二メートルを切っている。
加直はこの男を止めなければ、祖父と自分が殺されるという事実を選択した。
諦めの境地に近くなっていた。
加直は、男の動きを最後の抵抗を表現するように、彼の上胸部、胸骨の真ん中に、残弾を全て撃ち込んだ。撃ち込んだ後も何度も引き金を引き内蔵された撃鉄が使用済み薬莢の尻を叩いていた。加直の叫びの轟きのようだ。
青年は弾丸を全て胸で受けた途端、狂気に満ちた動きをピタリと止めた。
同時に、加直の胸部に、肺が潰れるような息苦しい、最も重い激痛が襲いかかった。
彼女は呼吸を忘れるほどの苦痛に耐え、青年の身体が、まるで糸が切れた人形のようにゆっくりと床に倒れ込むのを見届けた。
静寂が戻った店内に、ただ激痛を噛み殺せずに喚く加直の声が響き、壁に染み入り、消える。
青年が倒れ込んで、S&W M351Cを静かに見つめ、両腕を組み、震える左手で口元を覆ったまま、立ち尽くした。足がマラリアのように震えだし……脱力してその場に座り込んでしまう。
恵悟の通報から十数分。
警官がパトカーで現場に到着し、無力化された襲撃者は早々にストレッチャーで運び出され、床に致命傷には到らないであろう血の跡を残していた。
警官は加直を思いやる言葉も無しに義務的に聴取を始めた。唇を小さく震わせて、青ざめたままの加直の顔を見て警官は頬をほんの僅かに緩める。
それを見逃す加直ではない。『この警官は、加直の精神状況では正当な発砲を論理的に証明することができないはずだから、必ず聴取内容は破綻して、法に抵触する発言をしてコンシールド許可証を簡単に奪える』と加直は直ぐに悟る。それを補強するかのように警官の『喜びの感情』特有の不快なノイズが加直の神経に流れ込む。目の前の警官は、もう既に加直からコンシールド許可証を剥奪した妄想にでも浸っているのだろう。
――――ああ。胸糞の悪い……。
加直は、力の入らぬ体を店の奥の休憩スペースまで自力で歩き、そこで警官と聴取をしていた。
警官は、合計七発もの発砲に至った経緯について、厳しい表情で尋ねた。
その表情の僅かな隙に、喜びの微表情が浮かんでいる。
加直が下手な応対をするのを待っている。加直の破綻を喜んでいるジェスチャーだ。
「辺さん。なぜ七発も撃った。足への一発で、対処できなかったのか?」
加直は、テーブルの上に放りだしたままの板チョコをゆっくり掴んで、ゆっくり包装を解きながら、体内に残る激痛の残滓を分散させていた。一口齧り、嚥下して初めて警官の言葉に反応した。
加直は、一切の感情を交えず、引っ込み思案な市民のペルソナを被り直す。僅かな糖分補給で認知機能が少しはまともに稼働を始めた。
「……僕は非致命的な足を狙って発砲しました。だけどあいつは止まりませんでした。見たでしょう? 薬物中毒ですよ! 痛覚が効かない異様な状態で、ハンマーで僕の頭部を狙って突進してきました! その時、僕は切迫していたことは監視カメラで明らかです!」
加直は、続けて畳みかけるように説明した。
コンシールド法を行使した時の警官の聴取は、はっきり言ってカードゲームだ。適切な場に適切な文言を先に置き、後でその文言を回収して理路整然と文法と語彙の意味が整っていれば問題ない。
この攻略法はコンシールド法に詳しい様々な弁護士たちが書いた書籍でほぼ共通して触れられている『鉄板のルール』だった。
「警察(プロ)ならご存知でしょう。僕の銃は二十二口径です。一発や二発で興奮状態の男を止める力はありません。僕は自分と祖父の生命を守るために、彼をなんとかして停止させるという、必要な措置を取らざるを得ませんでした。七発の発砲は停止力の不足を補うための、必要な弾数です。それでも足りるかどうかわかりませんでした」
加直はやや感情的になりながら警官の聴取に対して説明をする。もう少しで「コンシールド許可証の剥奪を目論むのは、お門違いではないでしょうか?」という皮肉を言い放ってしまうところだった。
加直は、警官の目をまっすぐ見据える。
その警官は『不快』『嫌悪』の微表情を浮かべていた。ノイズもそれを裏付けるように警官の心の中の舌打ちを拾った。
警官の顔に出さない反応……ノンバーバルな反応を見て、加直の論理が物理的な事実と行動分析に裏打ちされていることに、一切の反論の余地がないことを悟った。
「分かりました。現場の状況とあなたの発砲は、彼の行動が切迫した脅威であったことを『一応』裏付けています。今回の措置は裁判所の通知をお待ちください。では銃をロックさせてもらいます」
聴取を終えた警官はそう結論づけた。
加直はご苦労様でしたと心にも無い労いの言葉を述べて、警官が去っていくのを静かに見送った。手元にはワイヤーで使用が制限された愛銃がぽつんと鎮座している。
事件は終結したが、特異なミラータッチ共感覚の反応と、それが感じ取った七発の激痛と、そこに至るまでの認知的負荷は、加直の脳を深く侵していた。最近の不眠症による目の下のクマは、化粧の下でも隠しきれないほど濃くなっている気がする。
彼女は布団を敷くと、早めに市販の睡眠薬を水で飲み込んだ。恵悟に対する顛末の説明は明日にする事にした。
このような理不尽な襲撃や侵入を受けるのは辺金物屋だけではない。商店街のどこの店舗でも年に数回はこのような犯罪の標的になっている。加直が偶々、コンシールド許可証を取得していただけだ。
胸が痛い。
神経学的な意味で。
七発も目の前の男に銃弾を叩き込んだのだ。加直が想像力豊かな芸術家気質なら、想像の羽ばたきが止まらなくなって、激痛が倍増し心臓麻痺を起こしていたかもしれない。
恐怖と葛藤の狭間で異様に重い引き金を何度も引き絞った今夜の出来事は忘れられないだろう。そして二十二口径の限界を知った。そして二十二口径で良かったと思った。
三十八口径なら自分はショックで死んでいただろう。更に言うのなら、二十二口径の七連発で良かったと思っている。最後の一発が彼を停止させる決定打になったのは確かだ。その一発が無かったら今の自分はここで呼吸をしていないだろう。
加直は見慣れた赤い箱からハーフコロナを引き抜き、咥え、そのままベランダに出た。市販の睡眠薬は医療機関で処方される睡眠薬より効きが遅く、緩く、呼吸法をや瞑想を併用しないと簡単に眠りに落ちない。
ベランダに出るとハーフコロナのフットを使い捨てライターで炙りながら深く吸い込んだ。
苦い煙が、内面の多動と思考の激痛をゆっくりと解きほぐす。彼女は、静かに頭上の月を見つめた。
もうすぐ、寒い季節がやってくる。
≪♯010・了≫
