掌編【辺加直の鏡像】
辺 加直(のべ かなお)、25歳。
彼女の今の肩書きは、寂れた駅前の寂れた通りにある寂れた商店街の中腹に構える【辺金物店】の店主『代理』だった。
黒髪を簡潔なショートカットにし後頭部をゴムで結わえ、黒いフレームの眼鏡をかけた顔は、『人畜無害でどこにでもいそうな普通の若年層に見える』よう、常に薄い化粧で整えられている。化粧は彼女を魅せる武装ではなく、『今の本当の彼女』を韜晦する隠蔽工作だった。
そんな彼女が店番をする、小さな金物屋の静寂な昼下がりは、彼女にとって安息の時ではない。経営者代理としてではなく、彼女の備えた能力の問題だ。
「ちくしょう、まただ……」
釘やネジが並ぶの陳列棚の奥で、加直は奥歯を噛んで、小さく呟きながら左の掌を軽く握りしめた。
加直の視線の先……やや遠めの斜向かいの通りのコンビニから出てきた年老いた男性が、段差につまづき、膝を折って倒れた折、掌を突っ張って地面への直撃を回避したが、缶コーヒーを落とした。
その一部始終を目撃した瞬間、左掌全体に、じんわりと、鈍い衝撃が……あたかも熱い液体が皮膚を走るような感覚が、共感覚としてフィードバックされたのだ。
加直の左掌を襲った鈍痛を伴う不快感はすぐに引いたが、一日のうちに何回、何十回と、このような【他者の不快な感覚の粒】が、波のように彼女を襲う。
これが……加直が存命の全人類の中でも1.6%ほどの人間しか具えていない【ミラータッチ共感覚】を自覚して以来、背負い続けている現実だった。
この面倒な共感覚を自覚したのは、ちょうど三年前。
父親が経営する金物屋に強盗が押し入って負傷させられたのを機に取得したコンシールド許可証。
父親が深い傷を負い、命に別状はなかったが、年老いた祖父と店と身を護るために取得した、【護身用拳銃の所持と携行と緊急避難的発砲が合法で可能】になる許可証。
――それと、許可証を取得した翌日に買ったばかりのS&W M351cを、あろうことか初めて発砲した時だ。……その日の深夜に店舗兼住宅の勝手口から強盗が押し入り、結果的に発砲に至った。
その夜、店に押し入った一人の強盗が振り上げたバールを避けるため、加直は咄嗟にレジ前に滑りこみ、レジ下の棚に手を差し込んでそこに収納していたS&W M351cを引きずり出し、コンシールド許可証を持つ者の義務通りに、警告の言葉を発してから引き金を躊躇なく引いた。
二回引いた。
弾丸――40グレインの.22 WMR。ホーナディ・クリティカルディフェンスが、相手の右腕に命中した。
彼我の距離は4m。
十分な習熟訓練を受けていない加直は無我夢中で引き金を引いたのだ。「眼の前の悪漢を排除しなければならない」という冷静な思考と選択と判断もできないほど生命を脅かされていた。
「──があっ!」
喉から吹き出すようなそれは、目の前の強盗が挙げた悲鳴だけではなかった。
加直自身の右腕が、骨が砕け、肉が裂けるかのような、絶叫を発するしかない激痛に襲われたのだ。
店内の薄暗い常夜灯の下、目の前の男と思しき強盗の右上腕部から細かな血飛沫が飛散して壁や廊下や商品を汚すのを見て、彼女は自分自身の血管が破裂したような激痛を感じたのだ。
強盗が隠し持っていた拳銃で撃たれたのかと思った。
強盗が負傷箇所を押さえて地面にバールを放り出し、呻き声を挙げ店から遁走した。
白目をむいた加直の身体はその場に崩れ落ち、痙攣しながら失禁し、気絶した。
あの瞬間、彼女は『銃の威力』を身を以て知ると同時に、『自分の身体が他人の痛みを写し取る鏡であること』を知った。
後日、強盗は逮捕され、加直は正当防衛が証明されてコンシールド許可証と紐づけされたマイナンバーカードに【発砲歴あり】とデータ上で記録された。
発砲した場合は命中如何を問わずに警察に通報し、最寄りの簡易裁判所から『正当防衛による発砲を証明する』旨が書かれた封筒が届くまで――通常一週間程度の期間――は銃を携行してはいけないと法律で明記されている。
その一週間を以てしても、彼女の心は深部に切り裂かれたままだ。
銃は彼女を守ったが、同時に『彼女の精神を破壊したのだ。』
金物屋の奥、彼女のプライベートルームのドレッサーの引き出しには、S&W M351cと、市販の睡眠薬のストック、そして予備の弾薬30発が仕舞われている。
────苦痛だけど、銃が要る。銃が要るけど、苦痛……。
その板挟みが、彼女を不眠症に追い込んだ。
一度でも犯罪の被害に遭えば、誰しも心に傷を追う。
加直は『自分で銃で相手を負傷させて撃退した』というショックを受けた。
銃で命や家財を守るとはこういうことなのだ。
銃に助けられると銃を手放せなくなる。いつもの風景に銃がないと安心できない。
毎晩、激痛のフラッシュバックと、「もし次に撃ったら、今度こそ相手を殺して、その死の苦痛を自分が負うのではないか」という恐怖が、脳を支配する。
眠るためには、市販の睡眠薬に頼るしかなかった。睡眠不足による目の下のクマや肌の荒れを黒いフレームの眼鏡と化粧で隠すようになった。
彼女はメンタルクリニックに行くことも、誰かに相談することもできない。
コンシールド許可証が剥奪される恐怖があるからだ。
精神的な問題は、コンシールド許可証を失う最も直接的な理由となる。
武装強盗や凶悪事件が右肩上がりになるこの国で、この自治体で、この街で、唯一の護身手段を失えば、彼女は再び、あの無力な恐怖に晒される。
銃無しでは生きられない。
だから、加直は誰にも秘密を打ち明けられない。
誰にも『病んだ姿』を見せるわけにはいかないのだ。
悟られるわけにはいかないのだ。
彼女は自分の周囲にコンフォートゾーンと呼ばれる、目に見えない防御壁を築いた。自分だけの、自分だけが安心できる心理的空間や時間を常に探しては確保に勤しでいる。
この街から必要以上に出ない。
店に来る客も、必要最低限の会話で追い返す。商売柄、様々な人間が来店する。様々な人間が店の前を往来するのを見る。……新しい人間関係は、予測不能な要素を増やすため、人脈の構築には細心の注意を払う。
その防御壁を維持するために、彼女の共感覚は逆説的に『能力』へと昇華した。
他人の顔色や表情の変化、呼吸のリズム、瞳孔の僅かな収縮、足の重心の変化、会話のテンポが放つノイズなど──それら全てのノンバーバル(非言語的)な仕草を、彼女は無意識のうちに解析する『能力』を得た。更にネガティビティバイアスが加速して、社会や世間の動向(情報)を逸早く量に捉えて如何に無害なまま市井に紛れるかと考えるようになった。過剰なまでのインプットの解析が、社会や集団や群衆やコミュニティの流動性や傾向を読み解いてしまう『能力』となった。
他者の心理や思考を、本人が自覚するよりも早く読み取る。それは共感からではなく、『痛みを避けるための計算』から生まれた、冷徹な生存術だった。
左手首の腕枷のように大きい紳士用のクロノグラフ腕時計を見る。午後三時を回り小腹空いてきたのを覚えた時、店内に二人の男が入ってきた。
一人は40代半ばで紫のスウェット姿の太った男。──人相が悪い。
もう一人は30代前半で、ジャージーの右袖口からオリエンタルなタトゥーがのぞく、目つきの鋭い男だ。
太った男は店の入り口辺りで「ワイヤーのコーナーは何処だ?」と酒に焼けた声を挙げ、愛想よく話しかけてくる。……だが、加直の視線は店内に入り、迷わない足取りでレジ前まで来ているタトゥーの男に釘付けになっていた。
────声のトーンは明るい。手の動きは自然で脱力気味。だけど、呼吸が浅い。喉仏と胸鎖乳突筋に緊張……。
加直は向こうにいる男を一瞥する何気ない仕草を顔に浮かべて脳内で解析。数秒後に、愛想よく笑顔で「今行きますのでお待ち下さーい」と客を歓迎する声の演技で応対しながら、タトゥーの男に営業の顔で視線を移して観察した。
レジカウンターを挟んで不自然なほどに、その4m先で死んだ魚の目で加直を見るタトゥーの男。
ガムでも噛んでいるかのようにコメカミが動いている。
呼吸が浅いのは、緊張か、興奮の証拠だ。男の左足の裏側、爪先に重心が乗っている。戦闘態勢ではないが、いつでも踏み出して動ける準備の姿勢だ。
決定的だったのは、太った男が加直と会話している間、タトゥーの男の視線が、レジの下の、彼女のS&W M351cが隠されているであろう位置を二度、一瞬だけ視線だけで確認したことだ。……恐らく、隠している銃に気が付いたのではなく、レジに幾ら現金があるか算段している顔だ。
────囮役のワイヤーは口実。レジが本命。こいつら……探りから強奪に『スムーズ』に切り替わったな。
後頭部に寒気が這う。加直のHPA軸がストレスを伝達する。警戒を密にせよ! と。
必要以上の共感性が、タトゥーの男が持つであろう潜在的な暴力とその『痛みの予兆』を、身体の奥底に流れ込ませようとしている。その男の掌の傷跡を見ただけで自分の左掌に薄っすらと疼痛を覚えるほどだ。
加直の右上腕部は、あの日の激痛を予感して、すでに硬直しかけていた。自然呼吸より少し深めの腹式呼吸で筋肉の強張りに対してささやかな抵抗を試みる。
「ワイヤーならそちらの通路にございます。必要な長さがあれば、声を掛けてください。すぐに切断いたしますのでー」
加直はできる限り冷静を装う。声のトーンや仕草、営業の笑顔を維持しようと務める。
向こうに居る太った男をその場より向こうへ遠ざけようとした。
彼らをコンフォートゾーンから少しでも早く遠くへ追い出し、凶行の機会を奪うためだ。
「ああ、悪いね。ちょっと見てくるよ」
太った男はワイヤーの棚が有る通路へ向かった。
だが、目の前のタトゥーの男は動かなかった。
彼は薄く笑い、加直のパーソナルスペース──心理的に安心できる自分だけの空間や物理的距離──を侵すように、レジカウンターに左肘をついた。
「姉さん、その眼鏡、度が入ってないでしょう。俺の顔をよく見たいなら、外しちまったほうがいいぜ」
その瞬間、男の右手が僅かに引き、袖口の下で何かが光った。
ナイフだ。
それもご禁制のダガーナイフ。刃渡り15cmほどの安っぽい鈍い色のブレードだ。
加直は、このコンマ数秒間に起こるであろう『痛みを予測した』。
ナイフが皮膚を切り裂く痛み、彼らが抵抗する自分を殴打する鈍い衝撃、そして彼女が発砲することで彼らが受ける、二重の激痛。
────今だ……。逃げられない。
「ごめんなさい。ナイフを下してください」
加直は小さく囁くと、一瞬でレジカウンターの下に手を滑らせた。
タトゥーの男の右手のナイフがアイスピックを握るように構えられ、大きく上段に振り上げられる。その反対の左手は加直の襟元を掴もうと伸ばしてくる。
五指でS&W M351cのグリップを握りしめ、レジ下の棚から抜き放った艶消し黒い肌をした小さな拳銃をカウンター越しに突きつける。
ハンマーレスのS&W M351cは、いつも通りに異様に軽く、どこにもに引っかかる事なく、一瞬で彼女の手に収まった。
銃口が、タトゥーの男の右大腿部に向けられた。
銃口は男の足を捉え、加直の獰猛さを孕んだ視線は男の視線を捉えた。……真正面から。彼女の禍々しい視線は最初の銃弾だ。この狂暴そうなはったりで引いてくれることを強く願っている。その為に、大方の人間が危険や不快や嫌悪と言ったネガティブな印象を持って敬遠する表情や視線や仕草も覚えた。
両者は膠着する。
タトゥーの男のナイフは突然の悪意ある視線で射貫かれて、振り下ろされるモーションのまま停止し、彼女に届く寸前だった左手も停止して小刻みに震えていた。彼の目には目の前の彼女が突然仮面をはいだように見えたのだろう。
致命傷を避けるための、唯一の選択肢としての警告ではない。コンシールド許可証を『行使』する時は必ず正当な手順を踏んでから用いないと裁判で不利になるのだ。そのうちの一つが警告だ。これを先に発すれば次は引き金を引くのみだ。
その警告を静かに噛むようにゆっくり言う。
「動かないで」
加直の声は、震えていなかった。普段からのマインドセッティングの賜物だ。反して、彼女の脳内では過度のストレスに晒されて扁桃体がノルアドレナリンに支配されそうだ。僅かな腹式呼吸の効果も消し飛んでしまった。
もうすぐ味わうであろう激痛への恐怖が、胃を締め付けていた。
精神の不安定は消化器官の運動と直結している。人間は心のバランスが急激に崩れればたった数分で機能性ディスペプシアを発症する脆い生き物なのだ。
タトゥーの男はナイフを振り下ろすモーションのまま、動きを止め、凍り付いている。
明らかな動揺。この店の情報はあらかじめ大雑把に掴んでいた。何かしらの強盗対策をしてあるのは計算のうちだった。……まさか、女の店主代理が、コンシールド許可証取得者で手元に拳銃を置いているとは思わなかった。
……そして、躊躇なく、これほど早く銃を抜くとは思っていなかったのだ。
「いいか、動くな。僕に撃たせるな。こんな豆鉄砲でもまともに当たれば、あんたの大腿骨が砕ける。内股に当たれば大動脈を傷つけて大出血だ。『銃創だと病院に駆け込むのも一苦労だろ?』 だが、僕はあんたをこの店の店主として止めないといけない。……お願い。撃たせないで」
静かに、唸るような恫喝をタトゥーの男にだけ向けて放つ。
そして、どうか自分のためにも撃たせないでと懇願する。
タトゥーの男の瞳孔が開き、彼の呼吸が大きく乱れた。
動揺の感覚が、染み込む冷水のように加直の胸に流れ込む。男の視線や表情筋の動きから彼の動揺や焦りや恐怖が加直の共感覚が共鳴している。
ワイヤー棚から太った男が戻ってくる気配があった。
加直はまだ引き金を引かなかった。
引き金を引く直前の、この極限の緊張状態を、彼女のノンバーバル技術は計算していた。「この距離と状況なら、発砲前に相手を屈服させられる」という可能性に賭けたのだ。
……そして、その賭けは成立した。
タトゥーの男はナイフを振り上げるモーションを解いて、右手にだらりと下げた。
左掌を加直に見せて後ずさる。まるで、凶暴な犬をその場に落ち着かせて後退する子供のようだ。
「離せ!」
突然、太った男が出刃包丁を床に落として激しく抵抗する声がした。
太った男は拳銃には対抗できないと知り、逸早く遁走を図ろうとして店の外に出たが、そこに待機していた警官たちに呆気なく捕縛されていた。……階下の店舗の異変に気がついた祖父が通報したのだろう。
二人を連行するまで、加直はS&W M351cをレジ台の上に起き、これから始まる警察の聴取を待った。……コンシールド許可証取得者は発砲すれば、弾が命中しようがするまいが、警察に通報する義務があり、これを怠るとペナルティが課せられる。これで警察に通報する手間が省けた。今回は発砲していないが、銃を抜いたのは事実なのでその経緯を説明しないわけにはいかないだろう。
激痛の予兆に耐え続けたストレスは膨大な負担となり、加直の心身にのしかかる。
────ああ。『また行かなきゃ』……。
事件後の警察の事情聴取は、いつも通り『「完璧な健常者」の加直』が対応した。
『心神喪失やパニックの兆候なし』『冷静な判断と正確な行動による模範的な護身行為』。
誰も、彼女が今、全身に打撲と骨折の錯覚による隠された理不尽な痛みを覚え、さらに精神が極度の疲労に晒されていることには気付かない。
全てが落着した夜。
加直は静かにS&W M351cを拭き、引き出しに仕舞い込んだ。
銃は彼女を救った。だが、その代償は、彼女の人生に対して、重く押し潰さんばかりに覆いかぶさっている。
窓の外では、寂れた街に遠くの喧騒が続く。
また誰かが、どこかで、様々な痛みを感じているだろう。痛みの微細な粒が、共感覚として彼女の身体に入り込み、健やかな眠りを遠ざける。夜は想像力が働く時間ゆえに、感じる痛みも大きくなっている気がする。
就寝前に加直は、市販の睡眠薬を飲み込んだ。
明日もまた、この苦痛と矛盾に満ちた日常を生き抜くために、冷徹な生存技術を発揮させる準備をする。
眠れない眠りを習慣的行為として行うのは、それ自体が今日の終わりではなく、明日への準備だと信じているからだ。
臆病者でありながら、最も強い覚悟を強いられるに至った、辺加直という『普通の庶民」の内向的な闘争は、誰にも知られることなく、静かに、深く、熾火のごとく続く……。
≪♯001・了≫
彼女の今の肩書きは、寂れた駅前の寂れた通りにある寂れた商店街の中腹に構える【辺金物店】の店主『代理』だった。
黒髪を簡潔なショートカットにし後頭部をゴムで結わえ、黒いフレームの眼鏡をかけた顔は、『人畜無害でどこにでもいそうな普通の若年層に見える』よう、常に薄い化粧で整えられている。化粧は彼女を魅せる武装ではなく、『今の本当の彼女』を韜晦する隠蔽工作だった。
そんな彼女が店番をする、小さな金物屋の静寂な昼下がりは、彼女にとって安息の時ではない。経営者代理としてではなく、彼女の備えた能力の問題だ。
「ちくしょう、まただ……」
釘やネジが並ぶの陳列棚の奥で、加直は奥歯を噛んで、小さく呟きながら左の掌を軽く握りしめた。
加直の視線の先……やや遠めの斜向かいの通りのコンビニから出てきた年老いた男性が、段差につまづき、膝を折って倒れた折、掌を突っ張って地面への直撃を回避したが、缶コーヒーを落とした。
その一部始終を目撃した瞬間、左掌全体に、じんわりと、鈍い衝撃が……あたかも熱い液体が皮膚を走るような感覚が、共感覚としてフィードバックされたのだ。
加直の左掌を襲った鈍痛を伴う不快感はすぐに引いたが、一日のうちに何回、何十回と、このような【他者の不快な感覚の粒】が、波のように彼女を襲う。
これが……加直が存命の全人類の中でも1.6%ほどの人間しか具えていない【ミラータッチ共感覚】を自覚して以来、背負い続けている現実だった。
この面倒な共感覚を自覚したのは、ちょうど三年前。
父親が経営する金物屋に強盗が押し入って負傷させられたのを機に取得したコンシールド許可証。
父親が深い傷を負い、命に別状はなかったが、年老いた祖父と店と身を護るために取得した、【護身用拳銃の所持と携行と緊急避難的発砲が合法で可能】になる許可証。
――それと、許可証を取得した翌日に買ったばかりのS&W M351cを、あろうことか初めて発砲した時だ。……その日の深夜に店舗兼住宅の勝手口から強盗が押し入り、結果的に発砲に至った。
その夜、店に押し入った一人の強盗が振り上げたバールを避けるため、加直は咄嗟にレジ前に滑りこみ、レジ下の棚に手を差し込んでそこに収納していたS&W M351cを引きずり出し、コンシールド許可証を持つ者の義務通りに、警告の言葉を発してから引き金を躊躇なく引いた。
二回引いた。
弾丸――40グレインの.22 WMR。ホーナディ・クリティカルディフェンスが、相手の右腕に命中した。
彼我の距離は4m。
十分な習熟訓練を受けていない加直は無我夢中で引き金を引いたのだ。「眼の前の悪漢を排除しなければならない」という冷静な思考と選択と判断もできないほど生命を脅かされていた。
「──があっ!」
喉から吹き出すようなそれは、目の前の強盗が挙げた悲鳴だけではなかった。
加直自身の右腕が、骨が砕け、肉が裂けるかのような、絶叫を発するしかない激痛に襲われたのだ。
店内の薄暗い常夜灯の下、目の前の男と思しき強盗の右上腕部から細かな血飛沫が飛散して壁や廊下や商品を汚すのを見て、彼女は自分自身の血管が破裂したような激痛を感じたのだ。
強盗が隠し持っていた拳銃で撃たれたのかと思った。
強盗が負傷箇所を押さえて地面にバールを放り出し、呻き声を挙げ店から遁走した。
白目をむいた加直の身体はその場に崩れ落ち、痙攣しながら失禁し、気絶した。
あの瞬間、彼女は『銃の威力』を身を以て知ると同時に、『自分の身体が他人の痛みを写し取る鏡であること』を知った。
後日、強盗は逮捕され、加直は正当防衛が証明されてコンシールド許可証と紐づけされたマイナンバーカードに【発砲歴あり】とデータ上で記録された。
発砲した場合は命中如何を問わずに警察に通報し、最寄りの簡易裁判所から『正当防衛による発砲を証明する』旨が書かれた封筒が届くまで――通常一週間程度の期間――は銃を携行してはいけないと法律で明記されている。
その一週間を以てしても、彼女の心は深部に切り裂かれたままだ。
銃は彼女を守ったが、同時に『彼女の精神を破壊したのだ。』
金物屋の奥、彼女のプライベートルームのドレッサーの引き出しには、S&W M351cと、市販の睡眠薬のストック、そして予備の弾薬30発が仕舞われている。
────苦痛だけど、銃が要る。銃が要るけど、苦痛……。
その板挟みが、彼女を不眠症に追い込んだ。
一度でも犯罪の被害に遭えば、誰しも心に傷を追う。
加直は『自分で銃で相手を負傷させて撃退した』というショックを受けた。
銃で命や家財を守るとはこういうことなのだ。
銃に助けられると銃を手放せなくなる。いつもの風景に銃がないと安心できない。
毎晩、激痛のフラッシュバックと、「もし次に撃ったら、今度こそ相手を殺して、その死の苦痛を自分が負うのではないか」という恐怖が、脳を支配する。
眠るためには、市販の睡眠薬に頼るしかなかった。睡眠不足による目の下のクマや肌の荒れを黒いフレームの眼鏡と化粧で隠すようになった。
彼女はメンタルクリニックに行くことも、誰かに相談することもできない。
コンシールド許可証が剥奪される恐怖があるからだ。
精神的な問題は、コンシールド許可証を失う最も直接的な理由となる。
武装強盗や凶悪事件が右肩上がりになるこの国で、この自治体で、この街で、唯一の護身手段を失えば、彼女は再び、あの無力な恐怖に晒される。
銃無しでは生きられない。
だから、加直は誰にも秘密を打ち明けられない。
誰にも『病んだ姿』を見せるわけにはいかないのだ。
悟られるわけにはいかないのだ。
彼女は自分の周囲にコンフォートゾーンと呼ばれる、目に見えない防御壁を築いた。自分だけの、自分だけが安心できる心理的空間や時間を常に探しては確保に勤しでいる。
この街から必要以上に出ない。
店に来る客も、必要最低限の会話で追い返す。商売柄、様々な人間が来店する。様々な人間が店の前を往来するのを見る。……新しい人間関係は、予測不能な要素を増やすため、人脈の構築には細心の注意を払う。
その防御壁を維持するために、彼女の共感覚は逆説的に『能力』へと昇華した。
他人の顔色や表情の変化、呼吸のリズム、瞳孔の僅かな収縮、足の重心の変化、会話のテンポが放つノイズなど──それら全てのノンバーバル(非言語的)な仕草を、彼女は無意識のうちに解析する『能力』を得た。更にネガティビティバイアスが加速して、社会や世間の動向(情報)を逸早く量に捉えて如何に無害なまま市井に紛れるかと考えるようになった。過剰なまでのインプットの解析が、社会や集団や群衆やコミュニティの流動性や傾向を読み解いてしまう『能力』となった。
他者の心理や思考を、本人が自覚するよりも早く読み取る。それは共感からではなく、『痛みを避けるための計算』から生まれた、冷徹な生存術だった。
左手首の腕枷のように大きい紳士用のクロノグラフ腕時計を見る。午後三時を回り小腹空いてきたのを覚えた時、店内に二人の男が入ってきた。
一人は40代半ばで紫のスウェット姿の太った男。──人相が悪い。
もう一人は30代前半で、ジャージーの右袖口からオリエンタルなタトゥーがのぞく、目つきの鋭い男だ。
太った男は店の入り口辺りで「ワイヤーのコーナーは何処だ?」と酒に焼けた声を挙げ、愛想よく話しかけてくる。……だが、加直の視線は店内に入り、迷わない足取りでレジ前まで来ているタトゥーの男に釘付けになっていた。
────声のトーンは明るい。手の動きは自然で脱力気味。だけど、呼吸が浅い。喉仏と胸鎖乳突筋に緊張……。
加直は向こうにいる男を一瞥する何気ない仕草を顔に浮かべて脳内で解析。数秒後に、愛想よく笑顔で「今行きますのでお待ち下さーい」と客を歓迎する声の演技で応対しながら、タトゥーの男に営業の顔で視線を移して観察した。
レジカウンターを挟んで不自然なほどに、その4m先で死んだ魚の目で加直を見るタトゥーの男。
ガムでも噛んでいるかのようにコメカミが動いている。
呼吸が浅いのは、緊張か、興奮の証拠だ。男の左足の裏側、爪先に重心が乗っている。戦闘態勢ではないが、いつでも踏み出して動ける準備の姿勢だ。
決定的だったのは、太った男が加直と会話している間、タトゥーの男の視線が、レジの下の、彼女のS&W M351cが隠されているであろう位置を二度、一瞬だけ視線だけで確認したことだ。……恐らく、隠している銃に気が付いたのではなく、レジに幾ら現金があるか算段している顔だ。
────囮役のワイヤーは口実。レジが本命。こいつら……探りから強奪に『スムーズ』に切り替わったな。
後頭部に寒気が這う。加直のHPA軸がストレスを伝達する。警戒を密にせよ! と。
必要以上の共感性が、タトゥーの男が持つであろう潜在的な暴力とその『痛みの予兆』を、身体の奥底に流れ込ませようとしている。その男の掌の傷跡を見ただけで自分の左掌に薄っすらと疼痛を覚えるほどだ。
加直の右上腕部は、あの日の激痛を予感して、すでに硬直しかけていた。自然呼吸より少し深めの腹式呼吸で筋肉の強張りに対してささやかな抵抗を試みる。
「ワイヤーならそちらの通路にございます。必要な長さがあれば、声を掛けてください。すぐに切断いたしますのでー」
加直はできる限り冷静を装う。声のトーンや仕草、営業の笑顔を維持しようと務める。
向こうに居る太った男をその場より向こうへ遠ざけようとした。
彼らをコンフォートゾーンから少しでも早く遠くへ追い出し、凶行の機会を奪うためだ。
「ああ、悪いね。ちょっと見てくるよ」
太った男はワイヤーの棚が有る通路へ向かった。
だが、目の前のタトゥーの男は動かなかった。
彼は薄く笑い、加直のパーソナルスペース──心理的に安心できる自分だけの空間や物理的距離──を侵すように、レジカウンターに左肘をついた。
「姉さん、その眼鏡、度が入ってないでしょう。俺の顔をよく見たいなら、外しちまったほうがいいぜ」
その瞬間、男の右手が僅かに引き、袖口の下で何かが光った。
ナイフだ。
それもご禁制のダガーナイフ。刃渡り15cmほどの安っぽい鈍い色のブレードだ。
加直は、このコンマ数秒間に起こるであろう『痛みを予測した』。
ナイフが皮膚を切り裂く痛み、彼らが抵抗する自分を殴打する鈍い衝撃、そして彼女が発砲することで彼らが受ける、二重の激痛。
────今だ……。逃げられない。
「ごめんなさい。ナイフを下してください」
加直は小さく囁くと、一瞬でレジカウンターの下に手を滑らせた。
タトゥーの男の右手のナイフがアイスピックを握るように構えられ、大きく上段に振り上げられる。その反対の左手は加直の襟元を掴もうと伸ばしてくる。
五指でS&W M351cのグリップを握りしめ、レジ下の棚から抜き放った艶消し黒い肌をした小さな拳銃をカウンター越しに突きつける。
ハンマーレスのS&W M351cは、いつも通りに異様に軽く、どこにもに引っかかる事なく、一瞬で彼女の手に収まった。
銃口が、タトゥーの男の右大腿部に向けられた。
銃口は男の足を捉え、加直の獰猛さを孕んだ視線は男の視線を捉えた。……真正面から。彼女の禍々しい視線は最初の銃弾だ。この狂暴そうなはったりで引いてくれることを強く願っている。その為に、大方の人間が危険や不快や嫌悪と言ったネガティブな印象を持って敬遠する表情や視線や仕草も覚えた。
両者は膠着する。
タトゥーの男のナイフは突然の悪意ある視線で射貫かれて、振り下ろされるモーションのまま停止し、彼女に届く寸前だった左手も停止して小刻みに震えていた。彼の目には目の前の彼女が突然仮面をはいだように見えたのだろう。
致命傷を避けるための、唯一の選択肢としての警告ではない。コンシールド許可証を『行使』する時は必ず正当な手順を踏んでから用いないと裁判で不利になるのだ。そのうちの一つが警告だ。これを先に発すれば次は引き金を引くのみだ。
その警告を静かに噛むようにゆっくり言う。
「動かないで」
加直の声は、震えていなかった。普段からのマインドセッティングの賜物だ。反して、彼女の脳内では過度のストレスに晒されて扁桃体がノルアドレナリンに支配されそうだ。僅かな腹式呼吸の効果も消し飛んでしまった。
もうすぐ味わうであろう激痛への恐怖が、胃を締め付けていた。
精神の不安定は消化器官の運動と直結している。人間は心のバランスが急激に崩れればたった数分で機能性ディスペプシアを発症する脆い生き物なのだ。
タトゥーの男はナイフを振り下ろすモーションのまま、動きを止め、凍り付いている。
明らかな動揺。この店の情報はあらかじめ大雑把に掴んでいた。何かしらの強盗対策をしてあるのは計算のうちだった。……まさか、女の店主代理が、コンシールド許可証取得者で手元に拳銃を置いているとは思わなかった。
……そして、躊躇なく、これほど早く銃を抜くとは思っていなかったのだ。
「いいか、動くな。僕に撃たせるな。こんな豆鉄砲でもまともに当たれば、あんたの大腿骨が砕ける。内股に当たれば大動脈を傷つけて大出血だ。『銃創だと病院に駆け込むのも一苦労だろ?』 だが、僕はあんたをこの店の店主として止めないといけない。……お願い。撃たせないで」
静かに、唸るような恫喝をタトゥーの男にだけ向けて放つ。
そして、どうか自分のためにも撃たせないでと懇願する。
タトゥーの男の瞳孔が開き、彼の呼吸が大きく乱れた。
動揺の感覚が、染み込む冷水のように加直の胸に流れ込む。男の視線や表情筋の動きから彼の動揺や焦りや恐怖が加直の共感覚が共鳴している。
ワイヤー棚から太った男が戻ってくる気配があった。
加直はまだ引き金を引かなかった。
引き金を引く直前の、この極限の緊張状態を、彼女のノンバーバル技術は計算していた。「この距離と状況なら、発砲前に相手を屈服させられる」という可能性に賭けたのだ。
……そして、その賭けは成立した。
タトゥーの男はナイフを振り上げるモーションを解いて、右手にだらりと下げた。
左掌を加直に見せて後ずさる。まるで、凶暴な犬をその場に落ち着かせて後退する子供のようだ。
「離せ!」
突然、太った男が出刃包丁を床に落として激しく抵抗する声がした。
太った男は拳銃には対抗できないと知り、逸早く遁走を図ろうとして店の外に出たが、そこに待機していた警官たちに呆気なく捕縛されていた。……階下の店舗の異変に気がついた祖父が通報したのだろう。
二人を連行するまで、加直はS&W M351cをレジ台の上に起き、これから始まる警察の聴取を待った。……コンシールド許可証取得者は発砲すれば、弾が命中しようがするまいが、警察に通報する義務があり、これを怠るとペナルティが課せられる。これで警察に通報する手間が省けた。今回は発砲していないが、銃を抜いたのは事実なのでその経緯を説明しないわけにはいかないだろう。
激痛の予兆に耐え続けたストレスは膨大な負担となり、加直の心身にのしかかる。
────ああ。『また行かなきゃ』……。
事件後の警察の事情聴取は、いつも通り『「完璧な健常者」の加直』が対応した。
『心神喪失やパニックの兆候なし』『冷静な判断と正確な行動による模範的な護身行為』。
誰も、彼女が今、全身に打撲と骨折の錯覚による隠された理不尽な痛みを覚え、さらに精神が極度の疲労に晒されていることには気付かない。
全てが落着した夜。
加直は静かにS&W M351cを拭き、引き出しに仕舞い込んだ。
銃は彼女を救った。だが、その代償は、彼女の人生に対して、重く押し潰さんばかりに覆いかぶさっている。
窓の外では、寂れた街に遠くの喧騒が続く。
また誰かが、どこかで、様々な痛みを感じているだろう。痛みの微細な粒が、共感覚として彼女の身体に入り込み、健やかな眠りを遠ざける。夜は想像力が働く時間ゆえに、感じる痛みも大きくなっている気がする。
就寝前に加直は、市販の睡眠薬を飲み込んだ。
明日もまた、この苦痛と矛盾に満ちた日常を生き抜くために、冷徹な生存技術を発揮させる準備をする。
眠れない眠りを習慣的行為として行うのは、それ自体が今日の終わりではなく、明日への準備だと信じているからだ。
臆病者でありながら、最も強い覚悟を強いられるに至った、辺加直という『普通の庶民」の内向的な闘争は、誰にも知られることなく、静かに、深く、熾火のごとく続く……。
≪♯001・了≫
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