♯004【昏いうた】(2025.8.13)
今時珍しい、喫煙が可能な喫茶店でシガリロを吸いながら、松山巴(まつやま ともえ)は紳士用クロノグラフの腕時計に目をやった。腕枷のように重々しいシルバーのそれ。
待ち合わせの時間はもう過ぎている。2分も遅れている。この世界では『指定した時間にやってくるか否か?』……それだけで駆け引きと見做されるのだ。ただの遅刻では言い訳できない場合などは日常茶飯事だ。
依頼人から指定された今回のブツの引受。
状況から鑑みるに、昼間の喫茶店で、人前でやりとりしても見た目に問題がないブツを運ぶのだろう。
松山巴。30歳。表向きは自称無職。実際には闇社会の運び屋として糊口を凌いでいる。
何でもかんでもがデジタルで管理される時代になっても、最前線で働くのはマンパワーだ。裏の世界ほどマンパワーを欲する世界はない。
旧い世代の上層部や指導者がどんなに新世代のテクノロジーの利便性を理解しても、それを自分で使いこなすのではない。使いこなせる人間を集めてくるのが仕事だ。そして、使いこなせる人間をスカウトできるほどの交渉術の達人を雇うのも職掌のうち。……どんなにデジタルだのAIだのが幅を利かせても、意思で以て決定するのはまだまだ人間だ。……尤も、最近旗揚げしている新興勢力はAIエージェントなるモノを導入して組織や人員の管理と運用も丸投げをして上前を堂々と跳ねているらしい。
この裏の世界もそろそろIT強者によって勢力図が塗り替えられそうな、そんな厭世的な雰囲気すら漂っている。
「…………」
シガリロの煙に目を細める。彼女の視線が鋭く絞られる。獲物を見つけたというよりは喰えるか否かを判断している目だ。
巴の視線の先……喫茶店の入り口に、中年手前の小太りの男が不安げに立っていた。紺色のスーツに身を包んだうだつの上がらないサラリーマン風で額に脂汗を浮かせている。まだまだ暑い時期だ。暑さで汗をかいているのか。
……いや違う。
緊張の汗だ。
距離5m。垂れる汗の質を観察。暑さでの汗ではない。脂汗だが、頭から湧くような滴り方ではなく、汗の玉がとろとろと額や顔を垂れている。
緊張の汗に多いタイプだ。
どうやらこの男が今日の依頼主らしい。厳密には依頼主のメッセンジャーだろう。だとすれば汗も納得だ。メッセンジャーは依頼人の敵だけでなく、依頼をすべき運び屋の機嫌を損ねて破談にされるリスクの高い交渉も職掌として含んでいる。しかも割に合わない話しで、この場合は概ねして、下っ端の仕事なのだ。
中年期に差し掛かろうというのに落ち着きがなく、挙動不審。裏の世界の人間として成功できないタイプだろう。成功できずに、知らぬまに表の世界で細々と生き延びているタイプだろう。
巴はシガリロを灰皿に押し付けると、ゆっくりと立ち上がった。
男は巴の姿を確認すると会釈をして彼女のテーブルまでいそいそとやってきた。彼は小声で社交辞令的な挨拶を交わすと、巴と共に席につき、辺りを一瞥した後に、スーツのハンドウォームからクラフトペーパーで作られたポチ袋を取り出した。お年玉でお馴染みのポチ袋だ。
ふざけてんのか? と巴は凶相を作り睨みつける。彼は今度は汗が引かんばかりに顔を青褪めさせて、萎縮しながら、背中を丸め気味にして話しだした。
「これです……。中身はUSBメモリです。指定の場所まで届けていただきたい」
依頼を受ける前に彼の上層部、つまりクライアントの組織や個人を調べた。そうしないと報酬の交渉もできないし仕事の危険度も測れないからだ。ありとあらゆる方向から検討してこの仕事を前金と後金で受けることにした。
その時点では電子メールで隠語多用の『依頼内容』が送信されており、大方の仕事内容は把握していた。電子メールを盗み見ても、隠語を解読されても大して困らないというクライアントの自信の表れでもある。
彼は自分の汗を気にしているのか、始終、ハンカチ越しにポチ袋に触れており、それを巴に手渡した。
ごくありふれた、何の変哲もない小さな紙袋だ。クラフトペーパー自体も百円均一ショップで買えるような質で、逆に心配になった。巴はホチキスで簡易的に止められたポチ袋を開封せずに掌で確かめて、男に尋ねた。
「報酬は?」
「そちらについては、無事に届けば後金をすぐに振り込まれます。どうか、お願いします」
男はそれだけ言うと、そそくさと喫茶店を出ていった。何も注文せずに出ていった彼の非礼を詫びるように、巴はアイスコーヒーをもう一杯注文した。
巴は雑踏に紛れゆく彼の背中を見送りながら、ポチ袋をジャケットの内ポケットにしまった。
「さて……」
シガリロを取り出して火を点けると、細く長く紫煙を吐きながら腕時計に視線を落とした。彼を確認して、彼が出ていって……まだ10分も経過していない。
幼い頃、巴は正義の味方になりたかった。
悪を懲らしめ、困っている人を助ける。
そんなヒーローに憧れた。
しかし、成長するにつれて、世の中は善と悪が単純に分かれるものではないと知った。
そして、身に起きた不幸を切っ掛けに、裏の世界で「運び屋」として生きるようになった。
正義とは程遠い仕事だ。
それでも、幼い頃の憧れは、心の片隅にいつもあった。
翌日早朝。
今日も快晴らしい。まだまだ殺人的な猛暑は続くらしい。来月まで恵みの雨が期待できないとの予報に辟易した。
巴は愛車の赤いホンダフィットに乗り込み、エンジンをかけた。
目的地は、隣県の山間部にある廃墟となったリゾートホテル。
ナビに住所を入力し、アクセルを踏み込む。
────!!
その瞬間、巴の背筋に鋭く冷たい警告を感じた。
直ぐに辺りを警戒する真似はしない。経験上、『こちらが何か勘付いた』と悟られると、相手は強硬な手段に出やすい。これは相手の正体や敵意の有無は関係ない。『必要以上に賢い人間』であることをアピールしないほうが賢いと判断したのだ。
────誰かに見られている。
自然な動作でシートベルトを確認しながら、『バックミラーに映る車』に注意を払う。
一台の黒いセダンが、そこで待機するように停車していた。……『いつから其処に居た?』
巴は何も気がついていないふりをして、フィットを走らせた。
付かず離れずの距離を保って巴の車を追跡している。巴も焦りを見せずに遵法精神を発揮して交通法規と速度を守る。
巴はシガリロに火をつけ、深く吸い込んだ。どうやら、今回の依頼はただの「運び屋」ではないらしい。
運び屋を追跡する輩は大別すると2つ。
クライアントの敵組織が監視している場合。
もう一つはクライアントが運び屋が仕事を全うするか監視している場合だ。
前者の場合、依頼や計画がバレている可能性があるのでレジリエンス豊かな対応が求められる。
後者の場合、授業参観の子供よろしく真面目に職掌に励んでいる姿を見せるだけだ。
────とはいえ……全く気づかないふりを通すのも、ねぇ。
────「私は愚鈍です」って言ってるみたいでヤだな。
巴は追い抜き車線を使い、フィットの速度を上げた。
黒いセダンも同じように加速する。冷たい目になっている巴はシガリロを咥えたまま、静かにデホーンドハンマーのS&W M10 FBIをジャケットの左脇から取り出した。鉄火場になる前に抜いておく。火蓋が切られると、シートベルトが邪魔で銃が抜きにくいからだ。カーチェイスでは基本的にバディが居ないと銃撃戦は不利なのだ。
都市部を抜け、高速道路に乗ると、追跡者は二台に増えた。一台は黒いセダン、もう一台は黒いワンボックスだ。
二台は巴の車を挟み込むようにして、速度を上げる。
「来たか……」
巴は呟き、シガリロをカップホルダーの灰皿に押し込むように捨てた。
彼女の中の『幼い彼女』は正義の味方でありたいと願っていたが、今は『大人の彼女』がプロとしての矜持を保っていた。
依頼されたものは、何があっても届けなければならない。この業界は信用看板だ。今の仕事が名刺となって次の仕事に繋がる。
黒いセダンが巴の車に横付けした。助手席の窓が開き、男がサプレッサー付きのイングラムを構えているのが見える。
ヒュッと喉を鳴らした巴はハンドルを切り、セダンとの距離を離そうとする。しかし、黒いワンボックスが巴の背後から迫り、道を塞いだ!
巴はS&W M10 FBIを握り締め、窓を開ける。こちらから先制を仕掛けて隙間を無理にこじ開けようと目論む。
「!!」
巴、急ブレーキ。イングラムの発砲音と同時に、巴の車のフロントガラスの端にヒビが入った。最初の一連射の洗礼を負傷せず回避。巴は身をかがめ、ハンドルを切りながら反撃に出る。S&W M10 FBIの銃口をセダンに向け、引き金を引いた。
街中での発砲ではなく、運転しながらの発泡は38口径の銃声が酷く頼りなく聞こえた。
一発。二発。巴の放った弾丸は、セダンの助手席の男の肩と腕に命中した。男は悲鳴を上げ、イングラムを道路へと落とす。しかし、今度はワンボックスの男が窓から身を乗り出し、アサルトライフルを構えた。流石に急激に顔が青ざめる巴。
巴は再びハンドルを切り、ワンボックスの車体にフィットの側面をぶつけた。火花が散り、両者の車体が大きく揺れる。
その隙に、巴はアクセルを全力で踏み込み、ワンボックスとの距離を一気に引き離すのに成功した。
アサルトライフルは結局、発砲することはなかった。
恐らく一連の銃撃戦とカーチェスは衆人環視により、拡散されているだろう。これからは営業が難しくなる。何より、人の目が多い時間帯でも構わずに短機関銃をブッ放す思い切りの良さが連鎖的に悪い予感を呼び込む。
第三者が多数走る道路で短機関銃を撃ち、体当たりを敢行してくるのは、三下の間違えた判断だとは思えない。
国道を逸れ、山間部の道をひたすら走り、巴は『追跡を撒くための目的地』である廃墟のリゾートホテルにたどり着いた。本当の目的地に得体の知れない連中を連れて行くわけにいかない。
ここへ来るまでに銃撃こそなかったが、追跡を警戒して、走る必要のない国道や一般道を出鱈目に走ってきた。その出鱈目に付き合う車の影は目視の限りでは確認できなかった。
呼吸が短く浅い。
アドレナリンが沸騰している。
喉が渇く。視野狭窄気味。腋に脂っぽい汗をかいているのか、嫌な匂いがした。唇を何度も舐める。
アドレナリンは闘争と興奮を司るホルモンだ。似た名前のノルアドレナリンと違い、アドレナリンはフィジカルの制御に主に関与する。ノルアドレナリンは脳内での決断を迫る脳内物質だが、アドレナリンはノルアドレナリンに呼応するように体を戦闘モードへシフトさせる働きをする。沢山の酸素が必要だから呼吸が浅く短く早い。血圧が上がり、拍動も増える。血中には負傷に備えて血小板が分泌される。人間が物理的に戦う時に必要なものを揃える働きをするのだ。
ホテルは山の斜面に建っており、廃墟らしい不気味な雰囲気を醸し出している。かつては賑わいを見せたのだろう……という雰囲気が感じられない。それもそのはずで国が保養所として取り敢えず作った、所謂『箱物』だ。交通の利便性やアクセスのサポートなどは殆ど考慮されていない、その上、観光にしても立地が悪く、山の中を開いて見た目がリゾートホテルであるだけの無用の長物なのだ。
今ではその無用の長物の成れの果てである廃墟のホテルは心霊スポットさながらで、殆ど全ての窓ガラスは割れるかヒビが入り、外観の壁自体も塗装が崩落し、周辺には雑草が背丈に届くほど覆い茂っていた。
巴はフィットを建物の駐車場を一廻りして駐車場や其処に通じるまともな通路や道路を観察し、頭に叩き込む。いずれの道も廃材やガラクタが散乱している。暴走族や浮浪者のたまり場として、また心霊スポットを撮影しにきた動作撮影者などによって無秩序に『まともに走れそうな道は』荒らされている。
駐車場からやや離れた、屋根付き駐輪場付近の裏手にフィットを滑り込ませるように隠した。ここへ至るまでの道以外を走れば、釘でも踏み抜いてパンクしそうな道ばかりだった。
巴は静かに車を降りた。
気がつけば腕や手首や頬に細かなかすり傷がたくさんできていた。国道でイングラムの洗礼を受けた折にフロントガラスの端の一部に穴を開けられたが、その時の破片が予想以上に車内に広範囲に散らばって肌を浅く切り裂いていたらしい。ガラスの破片が目に飛び込んでいたらと思うと背筋が冷たくなる。
体は既に倦怠感を訴えていた。認知力の低下を自覚する。イメージ的には満身創痍だった。まさか連中が朝のラッシュが始まる前の一般道のど真ん中で短機関銃をブッ放すとは思わなかった。短機関銃──イングラム──の使い手はS&W M10 FBIで無力化させたものの、それで危機が去ったわけではない。
最大の危機は、『この仕事が終わったら火消しに莫大な金を投じなければ手が後ろに回る』ということだ。早い時間にカタギの目がある場所での銃撃戦とカーチェイス。……これを完全に火消しするのは不可能だ。巴の頭の中では次の仕事への転職が組み立てられている。暫くは運び屋の仕事は無理だろう。
そんな事を考えながら、愛車の傍でS&W M10 FBIのシリンダーを開き、イングラムの使い手を黙らせた時に消費した二個の空薬莢を爪で掻き出して、新しいバラ弾を二発、落とし込む。シリンダーを押し込む。ラッチが噛み合う心地よい音と感触。
装填しているのはスピアー社のゴールドドット・ショートバレル38spl+Pだ。名前の通りに短銃身で最高のパフォーマンスを発揮するように設計された弾薬だ。弾頭はソフトポイント。スペック的にはローベロシティの9mmパラベラムに相当する。確実な停止力を提供して相手を致死たらしめるのが目的ではない。負傷させて無力化や戦線離脱させることだけを考えている。
待ち合わせの時間はもう過ぎている。2分も遅れている。この世界では『指定した時間にやってくるか否か?』……それだけで駆け引きと見做されるのだ。ただの遅刻では言い訳できない場合などは日常茶飯事だ。
依頼人から指定された今回のブツの引受。
状況から鑑みるに、昼間の喫茶店で、人前でやりとりしても見た目に問題がないブツを運ぶのだろう。
松山巴。30歳。表向きは自称無職。実際には闇社会の運び屋として糊口を凌いでいる。
何でもかんでもがデジタルで管理される時代になっても、最前線で働くのはマンパワーだ。裏の世界ほどマンパワーを欲する世界はない。
旧い世代の上層部や指導者がどんなに新世代のテクノロジーの利便性を理解しても、それを自分で使いこなすのではない。使いこなせる人間を集めてくるのが仕事だ。そして、使いこなせる人間をスカウトできるほどの交渉術の達人を雇うのも職掌のうち。……どんなにデジタルだのAIだのが幅を利かせても、意思で以て決定するのはまだまだ人間だ。……尤も、最近旗揚げしている新興勢力はAIエージェントなるモノを導入して組織や人員の管理と運用も丸投げをして上前を堂々と跳ねているらしい。
この裏の世界もそろそろIT強者によって勢力図が塗り替えられそうな、そんな厭世的な雰囲気すら漂っている。
「…………」
シガリロの煙に目を細める。彼女の視線が鋭く絞られる。獲物を見つけたというよりは喰えるか否かを判断している目だ。
巴の視線の先……喫茶店の入り口に、中年手前の小太りの男が不安げに立っていた。紺色のスーツに身を包んだうだつの上がらないサラリーマン風で額に脂汗を浮かせている。まだまだ暑い時期だ。暑さで汗をかいているのか。
……いや違う。
緊張の汗だ。
距離5m。垂れる汗の質を観察。暑さでの汗ではない。脂汗だが、頭から湧くような滴り方ではなく、汗の玉がとろとろと額や顔を垂れている。
緊張の汗に多いタイプだ。
どうやらこの男が今日の依頼主らしい。厳密には依頼主のメッセンジャーだろう。だとすれば汗も納得だ。メッセンジャーは依頼人の敵だけでなく、依頼をすべき運び屋の機嫌を損ねて破談にされるリスクの高い交渉も職掌として含んでいる。しかも割に合わない話しで、この場合は概ねして、下っ端の仕事なのだ。
中年期に差し掛かろうというのに落ち着きがなく、挙動不審。裏の世界の人間として成功できないタイプだろう。成功できずに、知らぬまに表の世界で細々と生き延びているタイプだろう。
巴はシガリロを灰皿に押し付けると、ゆっくりと立ち上がった。
男は巴の姿を確認すると会釈をして彼女のテーブルまでいそいそとやってきた。彼は小声で社交辞令的な挨拶を交わすと、巴と共に席につき、辺りを一瞥した後に、スーツのハンドウォームからクラフトペーパーで作られたポチ袋を取り出した。お年玉でお馴染みのポチ袋だ。
ふざけてんのか? と巴は凶相を作り睨みつける。彼は今度は汗が引かんばかりに顔を青褪めさせて、萎縮しながら、背中を丸め気味にして話しだした。
「これです……。中身はUSBメモリです。指定の場所まで届けていただきたい」
依頼を受ける前に彼の上層部、つまりクライアントの組織や個人を調べた。そうしないと報酬の交渉もできないし仕事の危険度も測れないからだ。ありとあらゆる方向から検討してこの仕事を前金と後金で受けることにした。
その時点では電子メールで隠語多用の『依頼内容』が送信されており、大方の仕事内容は把握していた。電子メールを盗み見ても、隠語を解読されても大して困らないというクライアントの自信の表れでもある。
彼は自分の汗を気にしているのか、始終、ハンカチ越しにポチ袋に触れており、それを巴に手渡した。
ごくありふれた、何の変哲もない小さな紙袋だ。クラフトペーパー自体も百円均一ショップで買えるような質で、逆に心配になった。巴はホチキスで簡易的に止められたポチ袋を開封せずに掌で確かめて、男に尋ねた。
「報酬は?」
「そちらについては、無事に届けば後金をすぐに振り込まれます。どうか、お願いします」
男はそれだけ言うと、そそくさと喫茶店を出ていった。何も注文せずに出ていった彼の非礼を詫びるように、巴はアイスコーヒーをもう一杯注文した。
巴は雑踏に紛れゆく彼の背中を見送りながら、ポチ袋をジャケットの内ポケットにしまった。
「さて……」
シガリロを取り出して火を点けると、細く長く紫煙を吐きながら腕時計に視線を落とした。彼を確認して、彼が出ていって……まだ10分も経過していない。
幼い頃、巴は正義の味方になりたかった。
悪を懲らしめ、困っている人を助ける。
そんなヒーローに憧れた。
しかし、成長するにつれて、世の中は善と悪が単純に分かれるものではないと知った。
そして、身に起きた不幸を切っ掛けに、裏の世界で「運び屋」として生きるようになった。
正義とは程遠い仕事だ。
それでも、幼い頃の憧れは、心の片隅にいつもあった。
翌日早朝。
今日も快晴らしい。まだまだ殺人的な猛暑は続くらしい。来月まで恵みの雨が期待できないとの予報に辟易した。
巴は愛車の赤いホンダフィットに乗り込み、エンジンをかけた。
目的地は、隣県の山間部にある廃墟となったリゾートホテル。
ナビに住所を入力し、アクセルを踏み込む。
────!!
その瞬間、巴の背筋に鋭く冷たい警告を感じた。
直ぐに辺りを警戒する真似はしない。経験上、『こちらが何か勘付いた』と悟られると、相手は強硬な手段に出やすい。これは相手の正体や敵意の有無は関係ない。『必要以上に賢い人間』であることをアピールしないほうが賢いと判断したのだ。
────誰かに見られている。
自然な動作でシートベルトを確認しながら、『バックミラーに映る車』に注意を払う。
一台の黒いセダンが、そこで待機するように停車していた。……『いつから其処に居た?』
巴は何も気がついていないふりをして、フィットを走らせた。
付かず離れずの距離を保って巴の車を追跡している。巴も焦りを見せずに遵法精神を発揮して交通法規と速度を守る。
巴はシガリロに火をつけ、深く吸い込んだ。どうやら、今回の依頼はただの「運び屋」ではないらしい。
運び屋を追跡する輩は大別すると2つ。
クライアントの敵組織が監視している場合。
もう一つはクライアントが運び屋が仕事を全うするか監視している場合だ。
前者の場合、依頼や計画がバレている可能性があるのでレジリエンス豊かな対応が求められる。
後者の場合、授業参観の子供よろしく真面目に職掌に励んでいる姿を見せるだけだ。
────とはいえ……全く気づかないふりを通すのも、ねぇ。
────「私は愚鈍です」って言ってるみたいでヤだな。
巴は追い抜き車線を使い、フィットの速度を上げた。
黒いセダンも同じように加速する。冷たい目になっている巴はシガリロを咥えたまま、静かにデホーンドハンマーのS&W M10 FBIをジャケットの左脇から取り出した。鉄火場になる前に抜いておく。火蓋が切られると、シートベルトが邪魔で銃が抜きにくいからだ。カーチェイスでは基本的にバディが居ないと銃撃戦は不利なのだ。
都市部を抜け、高速道路に乗ると、追跡者は二台に増えた。一台は黒いセダン、もう一台は黒いワンボックスだ。
二台は巴の車を挟み込むようにして、速度を上げる。
「来たか……」
巴は呟き、シガリロをカップホルダーの灰皿に押し込むように捨てた。
彼女の中の『幼い彼女』は正義の味方でありたいと願っていたが、今は『大人の彼女』がプロとしての矜持を保っていた。
依頼されたものは、何があっても届けなければならない。この業界は信用看板だ。今の仕事が名刺となって次の仕事に繋がる。
黒いセダンが巴の車に横付けした。助手席の窓が開き、男がサプレッサー付きのイングラムを構えているのが見える。
ヒュッと喉を鳴らした巴はハンドルを切り、セダンとの距離を離そうとする。しかし、黒いワンボックスが巴の背後から迫り、道を塞いだ!
巴はS&W M10 FBIを握り締め、窓を開ける。こちらから先制を仕掛けて隙間を無理にこじ開けようと目論む。
「!!」
巴、急ブレーキ。イングラムの発砲音と同時に、巴の車のフロントガラスの端にヒビが入った。最初の一連射の洗礼を負傷せず回避。巴は身をかがめ、ハンドルを切りながら反撃に出る。S&W M10 FBIの銃口をセダンに向け、引き金を引いた。
街中での発砲ではなく、運転しながらの発泡は38口径の銃声が酷く頼りなく聞こえた。
一発。二発。巴の放った弾丸は、セダンの助手席の男の肩と腕に命中した。男は悲鳴を上げ、イングラムを道路へと落とす。しかし、今度はワンボックスの男が窓から身を乗り出し、アサルトライフルを構えた。流石に急激に顔が青ざめる巴。
巴は再びハンドルを切り、ワンボックスの車体にフィットの側面をぶつけた。火花が散り、両者の車体が大きく揺れる。
その隙に、巴はアクセルを全力で踏み込み、ワンボックスとの距離を一気に引き離すのに成功した。
アサルトライフルは結局、発砲することはなかった。
恐らく一連の銃撃戦とカーチェスは衆人環視により、拡散されているだろう。これからは営業が難しくなる。何より、人の目が多い時間帯でも構わずに短機関銃をブッ放す思い切りの良さが連鎖的に悪い予感を呼び込む。
第三者が多数走る道路で短機関銃を撃ち、体当たりを敢行してくるのは、三下の間違えた判断だとは思えない。
国道を逸れ、山間部の道をひたすら走り、巴は『追跡を撒くための目的地』である廃墟のリゾートホテルにたどり着いた。本当の目的地に得体の知れない連中を連れて行くわけにいかない。
ここへ来るまでに銃撃こそなかったが、追跡を警戒して、走る必要のない国道や一般道を出鱈目に走ってきた。その出鱈目に付き合う車の影は目視の限りでは確認できなかった。
呼吸が短く浅い。
アドレナリンが沸騰している。
喉が渇く。視野狭窄気味。腋に脂っぽい汗をかいているのか、嫌な匂いがした。唇を何度も舐める。
アドレナリンは闘争と興奮を司るホルモンだ。似た名前のノルアドレナリンと違い、アドレナリンはフィジカルの制御に主に関与する。ノルアドレナリンは脳内での決断を迫る脳内物質だが、アドレナリンはノルアドレナリンに呼応するように体を戦闘モードへシフトさせる働きをする。沢山の酸素が必要だから呼吸が浅く短く早い。血圧が上がり、拍動も増える。血中には負傷に備えて血小板が分泌される。人間が物理的に戦う時に必要なものを揃える働きをするのだ。
ホテルは山の斜面に建っており、廃墟らしい不気味な雰囲気を醸し出している。かつては賑わいを見せたのだろう……という雰囲気が感じられない。それもそのはずで国が保養所として取り敢えず作った、所謂『箱物』だ。交通の利便性やアクセスのサポートなどは殆ど考慮されていない、その上、観光にしても立地が悪く、山の中を開いて見た目がリゾートホテルであるだけの無用の長物なのだ。
今ではその無用の長物の成れの果てである廃墟のホテルは心霊スポットさながらで、殆ど全ての窓ガラスは割れるかヒビが入り、外観の壁自体も塗装が崩落し、周辺には雑草が背丈に届くほど覆い茂っていた。
巴はフィットを建物の駐車場を一廻りして駐車場や其処に通じるまともな通路や道路を観察し、頭に叩き込む。いずれの道も廃材やガラクタが散乱している。暴走族や浮浪者のたまり場として、また心霊スポットを撮影しにきた動作撮影者などによって無秩序に『まともに走れそうな道は』荒らされている。
駐車場からやや離れた、屋根付き駐輪場付近の裏手にフィットを滑り込ませるように隠した。ここへ至るまでの道以外を走れば、釘でも踏み抜いてパンクしそうな道ばかりだった。
巴は静かに車を降りた。
気がつけば腕や手首や頬に細かなかすり傷がたくさんできていた。国道でイングラムの洗礼を受けた折にフロントガラスの端の一部に穴を開けられたが、その時の破片が予想以上に車内に広範囲に散らばって肌を浅く切り裂いていたらしい。ガラスの破片が目に飛び込んでいたらと思うと背筋が冷たくなる。
体は既に倦怠感を訴えていた。認知力の低下を自覚する。イメージ的には満身創痍だった。まさか連中が朝のラッシュが始まる前の一般道のど真ん中で短機関銃をブッ放すとは思わなかった。短機関銃──イングラム──の使い手はS&W M10 FBIで無力化させたものの、それで危機が去ったわけではない。
最大の危機は、『この仕事が終わったら火消しに莫大な金を投じなければ手が後ろに回る』ということだ。早い時間にカタギの目がある場所での銃撃戦とカーチェイス。……これを完全に火消しするのは不可能だ。巴の頭の中では次の仕事への転職が組み立てられている。暫くは運び屋の仕事は無理だろう。
そんな事を考えながら、愛車の傍でS&W M10 FBIのシリンダーを開き、イングラムの使い手を黙らせた時に消費した二個の空薬莢を爪で掻き出して、新しいバラ弾を二発、落とし込む。シリンダーを押し込む。ラッチが噛み合う心地よい音と感触。
装填しているのはスピアー社のゴールドドット・ショートバレル38spl+Pだ。名前の通りに短銃身で最高のパフォーマンスを発揮するように設計された弾薬だ。弾頭はソフトポイント。スペック的にはローベロシティの9mmパラベラムに相当する。確実な停止力を提供して相手を致死たらしめるのが目的ではない。負傷させて無力化や戦線離脱させることだけを考えている。
