♯003『裏側俯瞰図』

 相手は生存を望んでいない。相手は利得を求めていない。純粋に勝つということも考えていない。
 コウの目的は、私という生活基盤にかかるシステムの『完全な破綻』そのもの。それを、彼は……。
 私を直接否定するよりも、私の成果物をそれ以上の『つまらない、幾つかの小技』を私以上に活用して、その上でその成果を『私に譲って』、得たくもない勝利を私が得る。
 屈辱。
 だが、魅力的過ぎる屈辱なのだ。
 彼の思うとおりに、彼の作った勝利を受け取れば私は、この件築年数の古い共用住宅で今まで通りに生活できる。私は自分で計算した以上に、【八坂通運】の興味の範囲外に押し出される。
 アンダーグラウンドからの足抜けの方法で一番安全な手は『相手の興味を失う』ことだ。「使えない奴」「うま味の無い奴」「箸にも棒にもかからない奴」という烙印を押されることだ。
 合理性という前提が消失した。その時点で私の得意分野が無力化した。コウという人間は、自分の命すら盤上の捨て駒として躊躇なく差し出してくるのだ。
「詰み、だよ。三種さん」
 コウがカッターを構え、一歩踏み出した。コウは意図の分からないナイフを構える……。
 ふと、脳裏に何かがよぎる。
 私は、『笑った』。引き攣った笑いだ。
 『これも、私が新人の時に散々教えられたことだ』。相手の気が動転している間に……酷い動転の状態でも理解できる情報の断片をランダムに提示。その後、相手は助かろうとして反射的に情報を整理しだす。そうなると相手は目の前の情報を並べ替え、『自分の都合が良くて、理解できるナラティブ』を作ろうとするが、それ以上の速さで、相手の望む通りのナラティブを造り、提示する。その鮮やかさに呑み込まれて認知的完結欲求が閉じて自動的に思考停止する。その一方で使われなかった情報がいつまでもネガティブケイパビリティとして強烈に記憶に残り、思考のエネルギーが分散される。……この場合では、コウの意図不明のカッターナイフが『使われなかった情報』だ。カッターナイフに意味はない!
「……ハハ、ハハハハハ!」
 喉の奥から、乾いた笑いが込み上げてきた。自分でも驚くほど、不気味で、しゃがれた笑い声だった。
 コウの足が止まる。その瞳に、初めて人間らしい動揺が走った。
「何……笑ってんの……?」
「ねえ、コウ。あなたは私を『神』と呼んで、私の裏をかいたつもりでいるのかな? 私が合理的な最適解しか選べない『論理の奴隷』だと高をくくっていたのかな?」
 私は薄い笑顔でショートホープを銜えて火を点ける。
「だけどね……相手が合理性を捨てたなら、取るべきは『最適解』ではないのよね。昔風の戦術なのよ。あなたが私を『論理の奴隷』だと高をくくっていたように、あなた自身も自分の仕掛けた美しいシナリオに酔い痴れていたんじゃない?」
 その指摘は正確だったらしく、コウは顎を引いた。
 私はゆらりと立ち上がると、膝の上から卓上へ、ノートパソコンを置いた。 
「ねえ、コウ。あなたは私を『神』と呼んで、私の裏をかいたつもりでいるのかな? 私が合理的な最適解しか選べない『論理の奴隷』だと高をくくっていたのかな?」
 私は挑発するように全く同じことを言う。安い挑発過ぎて少し恥ずかしい。
 コウの口角がへの字に歪み、カッターナイフを握る手に力が入る。
「言ったでしょ、三種さん。どんな言い訳をしたって、もう……」
「あなたが改竄したログのルートだけど」
 私は卓上のノートパソコンの画面を敢えてコウの方へ向けた。
「あなたは【八坂通運】の本部事務所へターゲットを書き換える際、私の『過去の癖』の、プロキシの暗号化パターンをそのまま使って踏み台にしたわね。……自分なら私の手口を完璧に模倣できる、という全能感に酔いながらね」
 『実行の命令は受け付ける』が『変更に関する命令だけを受け付けない』。
 先ほど、画面にカウントダウンの表示が現れた時に、この挙動だけが理解できなかった。『実行はできて変更はできない』。
 コウの表情がピタリと凍りつく。
「あなたは私を部屋に縛り付け、名越と警察をぶつけて高みの見物を決め込むつもりだった。だけど、あなたが踏み台にしたそのプロキシサーバー……私が3日目で組み上げた段階で、既に『二重のハニーポット』として警察のサイバー課へ自動バックアップされる設定にしてあったとしたらどうでしょうね?」
 意図的に脆弱性を持たせたり、侵入しやすく見せかけたりした「おとり」のコンピュータやシステムのことを私は言っている。それが即座に理解できたのか彼の顔色がサッと白くなる。コウは『実行の命令は受け付ける』が『変更に関する命令だけを受け付けない』という意味の本質の半分以上を顔で物語っていた。
「な……に……?」
「あなたは私を誘導したつもりで、自分自身がログを改竄した瞬間の生データと、あなたのそのスマホのIMEI(固有識別番号)を、私のアカウント経由で警視庁に送信し続けていた。あなたがこの部屋のドアを開けた瞬間には、既に詰んでいた。監視をする人が必ず居る、そう思いながらね。だから、接触してくるIMEIは全て紐づけるようにしてあるの。だけど、『あなたは私を深く勉強し過ぎた』……私の沢山の小さな罠を見たあなたは、ああいつものクセね、と無視していたんでしょ?」
 コウの瞳孔がキュッと小さく収縮し、カッターを構える手が微かに揺れた。
 勝てる。彼は私をまだ私を論破できると思っている。コウの脳内で、認知の修正が高速で行われ始めているだろう。その脳内の知的作業の進捗はコメカミや頭皮の動きで分かる。勿論コウも口先だけの論破は意味が無いのは分かっている。論破芸は所詮、相手より早く適切な語彙を引き出して言語化するゲームで、それに勝利しても相手の思想や主義を変容させることはできない。……それを知ったうえで彼は口を開いた。恐らく、『彼の武器』は脆い。
「……ハッ、ハハ! ブラフだ! 三種さんがそんな自分まで巻き込むような大雑把な罠を仕掛けるわけが……」
「そう、ブラフだよ」
 私はショートホープを横銜えにして冷ややかに笑い、コウが動揺した1秒の隙を見逃さず、卓上のノートパソコンへ手を伸ばし、エンターキーを右手の人差し指でカルタを取るように素早く叩きつけた。
「ハニーポットなんて大層なものは仕込んでいない。だけど、あなたが『三種ならこう罠を仕掛けるはずだ』と確信したのに裏を掻かれて思考をフリーズさせたその1秒があれば……この『一括自爆リークのエンターキー』を押すには十分だった。『有り難う。実行だけできるように設定してくれて。お陰で自爆できたわ』」
 カウントダウンの画面がサッと消える。画面の端に真っ赤な送信完了のポップアップが出る。コウの顔から血の気が失せた。
「あなたが私を『論理の奴隷』だと高をくくっていたように、あなた自身も『三種の思考パターンを全て読めている』という自分の知性に酔い痴れていた。……相手が合理性を捨てたなら、こちらが取るべきは古臭い自爆よ」
 『相手の立場に立って考えても無駄だ。相手の心は読めないばかりか、自分がこう思っているのだから相手もこう思っているに違いないという、錯覚の度合いが跳ね上がる』とは、新人時代に叩き込まれた言葉の一つだ。
 いつもの癖で仕掛ける必要のない、自爆装置を仕込んでいた。その自爆装置を確認していたはずのコウが無視した理由は簡単だ。仕掛ける必要のない罠なら幾らでも仕掛けてある。彼が見たのはその一つで、そこには私の癖が色濃く出ているので、彼からすれば、「いつものことか」と無視する『ほんの小さな小さな小技』でしかない。
 何故なら、私が欺瞞用の罠を張り巡らせず、疎らに設置するのは、『プログラムではなく、視認して修正する人間の認知疲労を蓄積させるための、対人間用のアナログな罠だからだ』。
 私は自らの手で、自分が過去に【八坂通運】で作成した全犯罪スキームのバックドアと、私自身の潜伏先、そして名越の全口座情報を、警視庁サイバー犯罪課のメインサーバーへ一括漏洩させたのだ。
「な……何やってんだよ!? それじゃ三種さん、君だって逮捕されるだろ! 命だって」
 コウが叫ぶ。初めて見せた、年相応の狼狽。
「目の前の『神』は、『最適解』を捨てたの。『不合理』の方が快適なの」
 私のリークによって、警察のAIは即座に『【八坂通運】の緊急捜査』へと切り替わる。名越のスマホにはやがて、組織の全拠点にガサ入れが入ったという悲鳴のような連絡が殺到するだろう。名越には私やこの共有住宅を相手にしている余裕など1秒たりとも無い。
 そして、その膨大なデータログの『発信元』として私が書き換えたのは、コウが使っていたプロキシサーバーだ。勿論、コウを狙う為にピンポイントで設定したのではなく、『異物を自動的に敵と見做して攻撃する』ように仕組んであった。これもいつものように仕込む自爆装置と同じで私のいつもの癖で個性だ。そこそこの腕前が有れば簡単に除去できる。先ほどのIMEIのハッタリも半分は本当だ。
 おそらく。……警察は数分後、【八坂通運】の本部だけではなく、この共有住宅へ向かって警察車両を走らせてくる。【八坂通運】は壊滅し、警察ご自慢のAI捜査網は手柄を上げて収束するだろう。まあ、これは完全なあてずっぽうだけど。
「あなたは私を神に戻したかったらしいけど……生憎、私はただの無職の犯罪者なの。警察に追われ、組織に追われ、ドブネズミみたいに逃げ回るタイプのね。……最高に理不尽で、最悪の始まりでしょ?」
 私は短くなったショートホープを座ったまま腕を伸ばして灰皿に押し付ける。コウの気配だけで分かる。彼は今反転したように絶望に心を埋めつくされて思考が固まっている。
 遠くから、微かにサイレンの音が聞こえ始めた。
 コウはカッターナイフをぽろりと手から落とし、崩れ落ちるように畳に膝をついた。
 自分の描いた最高にキレた破滅のシナリオが、私の全く合理的でない「身を捨てた、薄臭い一手」によって、ただの滑稽なだけで面白みが見つからない茶番へと書き換えられたのだ。
「じゃあね、コウ。警察には『自分は三種に利用されただけだ』ってスジの言い訳でも考えてなさい。……まあ、あいつらも『記号』だから、冤罪を認めるかは怪しいけど」
 私はジャケットを羽織り、ギターケースを脇に置いて座り込んだままコウの横を通り抜けた。
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