♯003『裏側俯瞰図』
コウが一歩、私に近づく。壁にもたれて座り込んだ私には、立ち上がって物理的に抵抗する猶予すらない。私は彼の目と、ノートパソコンの画面に現れたカウントダウンを交互に見ながら、激しい口渇を耐える。
脳内で類推思考が暴走する。
利害どころか生存本能すら無視した行動。彼を突き動かしているのは、確率で心を扱う心理学など遥かに凌駕する、「自らを破滅させてでも私を『神』へと引き戻す」という狂信的な想いだ。
18歳の頃、実験のために一人の同年代の子供の人生を弄び、使い潰したあの記憶。名も知らぬサンプルとして捨て置いた「私の過去の悪行」が、今、圧倒的なバグとなって目の前に立っている。
『それが恐ろしかった18歳の私は、幸せしか知らない無辜の魂を【消し去った】』。
ああ。あの時の、あのサンプルの。
なんだかよく分からないけど気持ち悪いから『使い潰してしまえ』と鼻歌交じりでサンプルにした、あの……。
どこかの家庭から拾ってきた名前も知らない誰か。
「いけないよね。三種さんの仕様書の懸念事項をよく読まずに破滅しそうなあの人。窓際に追いやられて『リーチが懸かっていた人』……名越さんには僕から教えてあげたんだ。『三種さんは命がけの絶望を与えないと、本気を出してくれませんよ』ってね。『三種さんは居場所が無くなったら首を吊るんじゃないかな?』って囁いただけなんだよ。警察も、【八坂通運】も、この共有住宅の住人も……みんな、三種さんに目覚めてもらうための『火種』になってもらうよ……そしてまた、みんなで仲良くここで暮らそうよ。ここを守る為に僕はいつも三種さんを見ていたよ。だから三種さん。カウントゼロまで見届けてよ。その瞬間に自由だよ」
普段の視線の正体はこいつか!
自分が昔に書いたデザイン。犯罪スキームというより、短期間で都合のいい『殴り込み専門の鉄砲玉要員』を量産する自己暗示を交えた洗脳方法の全貌を思い出した。
……あの時は『人々が嫌う個人』を生み出すために、幸福以外何もインストールされていない、シナプス可塑性が簡単に強化される年齢の子供を、仕様を書く前の『実験』に使った。
人の命と心を弄ぶことに躊躇が無かった無謀な時代の自分を思い出した。
耳が、目が、狭窄する。
私のメタ認知の姿をした防衛機制の知性化が、途絶した。剃刀でプツリと切られたように。刻一刻とカウントダウンする画面の表示。これがゼロになるまでに『彼は何かを放つだろう』。
先が見えない。コウがこの世のあらゆる意味の『死』を恐れていない以上、恐怖や利害による交渉も話術も通用しない。言質を取ると言う概念も通用しないだろう。
一切通用しない。
私の目の前にあるのは、予測可能な記号ではなく、完全な『突然現れた過去の、不可解な狂気』という名の残滓。
銜えっぱなしの唇に強烈な熱さが走り、私は思わずショートホープを床に吐き出した。火種が畳を焦がす。フィルターを焼いた独特の悪臭がたつ。
視界が歪む。心拍数が跳ね上がる。コウという人物の全ての微表情が見えるのに、その意味を一つ一つ紐解いて説明できるだけの知識が頭の中に有るのに、不全を起こしたように、言語化できずに喉に詰まる。 ほんの少しでもサンプリングできれば……彼の思考や感情の癖が少しでも分かれば、この先に打つ手が見えるはず。見える可能性が広がるはず。今はただ、圧倒的な『未知の恐怖』で黒く塗りつぶされていく。
「……は」
私の口から、掠れた声が漏れた。喉がカラカラだ。
予測不能。制御不能。最悪の盤面。
圧倒的な絶望の淵で、私の冷え切っていた脳の奥底が、燃えるような熱を帯び始めていた。
短時間で脳がフル稼働した。オーバーヒートまで秒読みに入る。
煙草の火種が消えた後の、畳の焦げる匂いが、鼻腔を突く。
落としたショートホープの火種が、イグサを静かに黒く蝕んでいた。
「……あはは。どうしたの、三種さん? そんな顔、初めて見たよ」
コウが歪んだ笑みを浮かべ、ポケットから安物のカッターナイフを取り出す。
シャキ、キ、キ、と刃をスライドさせる不快な金属音が狭い六畳間に響く。彼の手は微かに震えていたが、それは恐怖からではない。『神』を自らの手で引きずり下ろし、再び真っ黒な盤面へ投げ込むという、狂気的な歓喜の震えだ。彼の瞳孔が開きっぱなしになっている。
そのカッターナイフの意味が理解できない。私を殺すつもりなのか? 脅すつもりなのか? ……私を殺す事でどのような結末になるのか想像しているのか?
私の脳内クロックが、臨界点を超えてオーバードライブを始めそうだ。
冷や汗が頬を滑り落ちる。心拍数は体感で140を超え、視界の端が明滅する。
社会心理学、行動経済学、ゲーム理論。私がこれまで頭に叩き込んできたあらゆるロジカルな構築物が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。……『怪獣に銃弾を浴びせても効かない恐怖ではなく、子供の幽霊に銃弾を浴びせても意味がない恐怖』。
脳内で類推思考が暴走する。
利害どころか生存本能すら無視した行動。彼を突き動かしているのは、確率で心を扱う心理学など遥かに凌駕する、「自らを破滅させてでも私を『神』へと引き戻す」という狂信的な想いだ。
18歳の頃、実験のために一人の同年代の子供の人生を弄び、使い潰したあの記憶。名も知らぬサンプルとして捨て置いた「私の過去の悪行」が、今、圧倒的なバグとなって目の前に立っている。
『それが恐ろしかった18歳の私は、幸せしか知らない無辜の魂を【消し去った】』。
ああ。あの時の、あのサンプルの。
なんだかよく分からないけど気持ち悪いから『使い潰してしまえ』と鼻歌交じりでサンプルにした、あの……。
どこかの家庭から拾ってきた名前も知らない誰か。
「いけないよね。三種さんの仕様書の懸念事項をよく読まずに破滅しそうなあの人。窓際に追いやられて『リーチが懸かっていた人』……名越さんには僕から教えてあげたんだ。『三種さんは命がけの絶望を与えないと、本気を出してくれませんよ』ってね。『三種さんは居場所が無くなったら首を吊るんじゃないかな?』って囁いただけなんだよ。警察も、【八坂通運】も、この共有住宅の住人も……みんな、三種さんに目覚めてもらうための『火種』になってもらうよ……そしてまた、みんなで仲良くここで暮らそうよ。ここを守る為に僕はいつも三種さんを見ていたよ。だから三種さん。カウントゼロまで見届けてよ。その瞬間に自由だよ」
普段の視線の正体はこいつか!
自分が昔に書いたデザイン。犯罪スキームというより、短期間で都合のいい『殴り込み専門の鉄砲玉要員』を量産する自己暗示を交えた洗脳方法の全貌を思い出した。
……あの時は『人々が嫌う個人』を生み出すために、幸福以外何もインストールされていない、シナプス可塑性が簡単に強化される年齢の子供を、仕様を書く前の『実験』に使った。
人の命と心を弄ぶことに躊躇が無かった無謀な時代の自分を思い出した。
耳が、目が、狭窄する。
私のメタ認知の姿をした防衛機制の知性化が、途絶した。剃刀でプツリと切られたように。刻一刻とカウントダウンする画面の表示。これがゼロになるまでに『彼は何かを放つだろう』。
先が見えない。コウがこの世のあらゆる意味の『死』を恐れていない以上、恐怖や利害による交渉も話術も通用しない。言質を取ると言う概念も通用しないだろう。
一切通用しない。
私の目の前にあるのは、予測可能な記号ではなく、完全な『突然現れた過去の、不可解な狂気』という名の残滓。
銜えっぱなしの唇に強烈な熱さが走り、私は思わずショートホープを床に吐き出した。火種が畳を焦がす。フィルターを焼いた独特の悪臭がたつ。
視界が歪む。心拍数が跳ね上がる。コウという人物の全ての微表情が見えるのに、その意味を一つ一つ紐解いて説明できるだけの知識が頭の中に有るのに、不全を起こしたように、言語化できずに喉に詰まる。 ほんの少しでもサンプリングできれば……彼の思考や感情の癖が少しでも分かれば、この先に打つ手が見えるはず。見える可能性が広がるはず。今はただ、圧倒的な『未知の恐怖』で黒く塗りつぶされていく。
「……は」
私の口から、掠れた声が漏れた。喉がカラカラだ。
予測不能。制御不能。最悪の盤面。
圧倒的な絶望の淵で、私の冷え切っていた脳の奥底が、燃えるような熱を帯び始めていた。
短時間で脳がフル稼働した。オーバーヒートまで秒読みに入る。
煙草の火種が消えた後の、畳の焦げる匂いが、鼻腔を突く。
落としたショートホープの火種が、イグサを静かに黒く蝕んでいた。
「……あはは。どうしたの、三種さん? そんな顔、初めて見たよ」
コウが歪んだ笑みを浮かべ、ポケットから安物のカッターナイフを取り出す。
シャキ、キ、キ、と刃をスライドさせる不快な金属音が狭い六畳間に響く。彼の手は微かに震えていたが、それは恐怖からではない。『神』を自らの手で引きずり下ろし、再び真っ黒な盤面へ投げ込むという、狂気的な歓喜の震えだ。彼の瞳孔が開きっぱなしになっている。
そのカッターナイフの意味が理解できない。私を殺すつもりなのか? 脅すつもりなのか? ……私を殺す事でどのような結末になるのか想像しているのか?
私の脳内クロックが、臨界点を超えてオーバードライブを始めそうだ。
冷や汗が頬を滑り落ちる。心拍数は体感で140を超え、視界の端が明滅する。
社会心理学、行動経済学、ゲーム理論。私がこれまで頭に叩き込んできたあらゆるロジカルな構築物が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。……『怪獣に銃弾を浴びせても効かない恐怖ではなく、子供の幽霊に銃弾を浴びせても意味がない恐怖』。
