♯003『裏側俯瞰図』

 あと3分。『恰も、私がこの時間に煙草を吸いながらパソコンの画面を見ているのをどこかで見ていたように、そして、動揺する私を見物するために設定された『3分丁度から始まったカウントダウン』。
 だとすれば、折角確保した生贄の海外のマフィアは? 【八坂通運】への具体的な攻撃はいつ、何処の誰がどのように?
 利害関係、生存本能、承認欲求。人間が行動を起こすためのいかなる心理的インセンティブの法則を当てはめても、この介入の目的が割り出せない。
 これは利益を得るための【八坂通運】内部の目ざとい人間が仕組んだ背任ではなく、自爆を前提とした純粋な『崩壊の熱量』だ。
 普通ならば、警察という巨大な組織が個人の組んだスクリプトだけで動くはずがない。
 通信傍受や現場鑑識など多層的な証拠が介在するからだ。心理的な誘導だけに頼る危うさは熟知していたはずだった。
 だからこそ、アナログな仕掛けで名越を追い詰めるスキームを組んだ。なのに、それを逆手に取られ、内部から上書きされた。自分の専門知の落とし穴も計算に入れていたつもりだったが、この世に絶対はない。無謬だと高をくくった瞬間に破滅は訪れるのだ。
 今、まさにその破滅が目の前に迫っているのかもしれない。
 どんなにネガティブポイントを知り尽くして計算していても、必ず計算外は確率的に発生する。
 その時、背後のドアが、ノックもなしに開いた。部屋の中に廊下から抜けてきた表の喧騒がそろりと入り込む。ドアのきしむ音に反応して咄嗟に振り向く。喉が一瞬で渇く。
「!」
 心臓を氷の手で掴まれた! 揶揄ではなく、本気でそう思った。この先を即座に計算できる。その能力はこの後に起きるであろう展開を何通りも計算するが、そのどれもが私の破滅に辿り着く!
「三種さん。また煙草吸ってんの? 部屋、煙いんだけど」
 開いたドアの方向を睨む。そこに立っていたのは共有住宅の1階に住む、ミュージシャン志望の青年のコウだった。本名は知らない。皆が皆、お互いの本名を知らない。この【かつしか荘】は脛に傷の有る、『そういう人間』の最後の棲み処なのだ。
 使い古した白いギターケースを肩に掛け、彼の特徴である、いつもの冴えない笑みを浮かべている。彼の顔の印象や存在感が薄いのも彼なりに世間から逃げている最中に覚えた、彼なりの韜晦の方法なのだろう。
 磨けば光るであろう整った風貌を、整えていない。20代後半と思われる優しそうなコウ青年は部屋の紫煙に眉を顰めながら私を見ていた。
「……」
 喜び。嫌悪。否定。
 そんな微表情が数瞬の間に次々と現れる。……なんだそりゃ? どんな感情だ?
 ともかく、この青年は、私が『社会の主権的レールから外れた、害のない境界線の住人』と勝手に心の中で定義して、警戒網の視界の隅にすら置いていなかった存在。
 背筋に不快な何かが這い昇ってくる、嫌な感触。彼の記憶に残りにくい優しい笑顔が、過去の『業界人間のあらゆる表情と照らし合わせて類推していく』。
 ああ、この顔。『人を殺さない人殺しの顔』だ。
 ノンバーバルで反社会性パーソナリティ障害を匂わせるが、それも演技で、本人は社会通念を守って論理的に思考し、感情を共有する。……つまり、話が通じるが小細工が通じないタイプ。道徳の教科書を読んで道徳を知り尽くした上で道徳を予想外の方向から破るタイプ。
 現役の頃に何度もこのタイプの人間に煮え湯を飲まされてきた。
「コウ……? なぜ鍵を開け……」
「あはは、鍵なんて最初から壊れてるよ。それよりさ」
 コウはジーンズの尻ポケットからスマホを取り出し、幾つかの操作をして画面を私に見せた。
 そこに表示されていたのは、私が組んだスキームの最深部、暗号化のルートを改竄したログだった。
「やっぱりすごいね、三種さん。警察の誘導のパラメータ。いや、『人間の警察官自体』を狙い撃ちにするスキーム。美しすぎてうっとりしちゃったよ。だからさ、僕がちょっと『調味料』を加えておいたんだ」
 脳の奥で、激しい警告音が鳴り響く。
「……あなたが、アクセスしたの? なぜ? あなたには何の得もない。【八坂通運】と警察が正面衝突すれば、この共有住宅だって捜査の手が伸びて」
 気が付けば、焦燥のあまり私はこの青年に向かって自供していた。
「得? 利益? あはは、三種さんってば、相変わらず人間を『損得』でしか見てないんだね」
 コウの笑みがすっと消えた。
 その瞳の奥には、どのような心理学のいかなる分類、領域、積層にも当てはまらない、底知れない黒い洞穴が開いている。
「僕ね、知ってたんだよ。三種さんが昔『【八坂通運】の神様』だったことも、全部を悟った顔をして退屈そうに煙草を吸ってることも。だって僕……昔、三種さんが作った『自己破壊カルトの誘導マニュアル』の被験者第1号だったんだから」
 冷や汗が、背筋を滑り落ちる。
「あの時、僕の家族も、人生も、三種さんの書いたたった数行のシミュレーションの通りに崩壊した。でもね、恨んでなんていないよ。むしろ感動したんだ。人間なんて、こんな簡単に他人の手の上で踊らされるんだって」
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