♯003『裏側俯瞰図』

 テーブルの上の灰皿には、すでに短く焼けたショートホープの吸い殻がハリネズミのような山をなしていた。辺りにはショートホープの空箱が散乱している。指先に刻まれた焦げ付きの熱感と、ヤニ臭いと色が移った指が、辛うじて私の疲労で輪郭を失いそうな意識を繋ぎ止めている。
 私が画面上で構築しているのは、単なるプログラミングのコードや資金洗浄のバイパスルートではない。……表向きはそのように偽装してあるが。
 警察組織という巨大な集団の心理的脆弱性を突く、出来る限り確率の高い行動力学の罠だ。出来る限りだ。この世に絶対はない。それだけは断言できる。絶対というものは絶対にない。
 警察の最新の捜査AIとやらは、過去の膨大な犯罪データを統計的に解析し、最も合理的に容疑者像や資金の流れを弾き出す。だが、そのAIを運用しているのは、どこまでも愚かで、認知の癖や歪みを抱えた人間である警察官だ。
 私は社会心理学の古典的かつ強力なフレームワークを、暗号通貨の分散型ネットワークの上にレイヤーとして重ねていく。AI用の韜晦ではなく、人間用の目隠し。
 先ず、アンカリング効果とフレーミング効果の重複提示。警察のサイバー犯罪対策に対して、いかにも【八坂通運】が使いそうな、それでいて手口は警察の既知の情報である『古典的な資金洗浄のダミーシグナル』を意図的に検知させる。
 その報告は個人から集団へ。つまり、警察と言う組織自体が過去の成功体験に引きずられ、それが本命のルートであると勝手に固執する。
 次に集団極性化の誘発。捜査本部という閉鎖的な集団内では、異論を唱える者が排除され、一度決まった方針が極端な方向へとエスカレートする。私はダミーの痕跡の中に、警察の功名心を刺激する『決定的な証拠……の偽物』を巧妙に仕込んだ。それも幾つも。その方法は死体を埋めるにはその上に犬の骨を埋めるのと同じ、これまた古典的で『今では歯牙にもかけられない手法』だ。これにより、捜査幹部は自分たちの仮説を補強する情報だけを集める確証バイアスに陥り、組織全体が誤った捜査線上に突っ走ることになる。
 そして、同調圧力による内部不全。警察内部の「事なかれ主義」と「階級社会の同調圧力」を利用して、現場の優秀な捜査官が抱く小さな違和感を黙殺させる。『声が大きい者のせいで、少数の声の小さな者はさらに声を小さくする』。
 つまり私が狙っているのは警察の御大層なAIではなく、それを運用する人間だ。これは3段階の作戦ではなく、3種類の釣り針だと言える。どれか一つにでも食いついてくれればいい。人間の心理を読んだり操る時は、読心術ではなく、確率と統計なのだ。確率と統計の分母が大きい物を能動的に大量に取り入れる。イメージ的には、ベン図で描いて、複数の円が重なった部分。そこを大きく広くするのだ。
 インスタント食品やショートホープの空箱や缶コーヒーの空き缶などを突っ込んだゴミ袋に部屋の片隅を占拠されつつ、私は3日目の早朝に新しい『スキームの更新プログラム』と銘打ったコマンドプロンプトで埋め尽くされているノートパソコンの画面を見ている。無意識に手がショートホープの紙箱を探すが、触れる感触が無い。……底を突いた。
 仕方なく灰皿からまだ吸えそうな悪臭が鼻を突く吸殻を探して銜える。前髪を火で焼かないように首を小さく傾げながらライターで着火する。想像通り酷い味だったが、『仕事に一段落ついた安堵感』を盛り上げるのには多少は役に立った。
 私はニコチンが沈着してエグ味しかない煙を吐きながら、画面を見つめていた。
 名越に完成を報せるメールを送信した。苦いだけの煙を吐き切る前に返信があり、直ぐに「ばらまけ」との命令。その命令の即断に私は吹き出した。早く手柄が欲しいばかりに検証もしないのか?
 ノートパソコンのエンターキーを押す。
 ……だが。
 異常検知レスポンス0.04秒。
「!?……ハッ、ウソでしょ!」
 煙草の灰がキーボードの上に落ちる。全身に冷たい汗が噴き出る!
 警察のAIは、私が用意したアンカリング――初期ダミー――の罠に引っかかるどころか、ダミー口座のアクセスパターンに含まれるミリ秒単位の『通信の揺らぎ』を異物として検知し始めていた。学習モデルの更新スピードが、私の想定を二世代飛び越えている。
 このまま対処せず実行を見守り続ければ、ダミーを全て解析されて除去されると、この6畳間のIPアドレスまで1秒未満で逆探知される。
 胃の底が冷たく縮みあがる。冷や汗が首筋を伝う。
 コンマ数秒単位で時間がない! もうGOサインは出て実行した。AIの巡回アルゴリズムの次の更新は、あと4分後に迫っている。
 思考を回せ! AIは論理の怪物だが、運用している人間の心理はアナログだ!
 私は震える指でコンソールを叩き、スキームの根本に『ノイズ』を混ぜ込んだ。脳内の様々な技術の中で、当たるを幸いに利用可能性ヒューリスティックで拾い上げた、『一か八かの小技の数々』。
 AI自体を騙すのを最初から諦め、AIが吐き出す、異常検知アラートの優先度フィルターを狙い撃ちにする。このアラートにダイレクトに反応するのは『生きている人間』の警察官だ。サイバー課の当直警察官が深夜の監視画面で最も見逃しやすい、過小評価されがちなエラーフォーマット――形式的な通信エラー――へと、私はシグナルを偽装したのだ。
 『敵の動向を報せる』、画面のプログレスバーが98%で停止し、沈黙する。
 1秒、2秒……。
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