♯003『裏側俯瞰図』

「お前は奴らに感情移入していないふりをしているつもりだろうが、ここを『安全な箱庭』として利用していたな? お前が俺の要求を拒むことで、この箱庭が地獄に変わる。……さあ、三種。得意な社会心理学で読んでみろ。お前の『不作為』が住人にどんな結末をもたらすか」
 私の脳が、強制的に高速回転を始めた。部屋の隅のテーブルに移動してそこの上の灰皿に短くなったショートホープを捨てる。そしてまた、スライドボックスから1本抜き、銜え、火を点け、吸い込み、煙を吐く。
 勿論、この緩慢な動作は時間稼ぎだと名越にはバレている。そして自分の動揺もバレている。『何でも知ってる三種さん』が即答せず表情を凍らせたまま、ぎこちなさを隠せず煙草を吸っているのだ。元上司なら癖レベルで把握しているだろう。
 名越の言葉。ハッタリではない。高い確率で脅迫を実行するだろうな。
 名越が直々に恐喝? 電話やメールでなくて?
 ん? 名越は組織での立場が危なくなっているのか?
「アップデートしろ、三種。お前のアタマで、警察のAIの裏をかく新しいスキームを組め。プログラムでもローンチでも構わない」
 という名越の言葉が再び脳内で浮上する。
 あ……。
 後続を育てていなかったにしても、今すぐ何が何でもスキームの更新が必要。
 その上で、私を動かすための唯一のレバーが、この共有住宅の破壊だと見抜いている。……名越の頭には、冷静な部分と焦燥に駆られる部分が衝突している。
 どちらにせよ同居人たちの未来は、私が拒否した場合、辿る悲惨な結末が、かなりの解像度で頭の中に描かれる。
 私の頭の奥で、カチリと冷たい音がした。
 責務? 怒り? いや、違う。そんな高尚な感情ではない。
 ただ、『結末が見えている不快感』が私を苛んだのだ。
 名越の脅迫に従ってスキームを更新する。そしてその先が見えている。
 拒絶して同居人が惨殺されるのも結末として見えている。
 どちらを選んでも、私は名越の用意した胸糞悪いシナリオの上を走らされるだけだ。
 名越が一人で対面で私と話をしているという状況自体が大きく引っかかっていた。
 『メタ認知が高いと錯覚している』私。自分で自分をジャッジできない人間にとって、誰かの掌で踊らされることほど、耐え難い屈辱はない。定義の上では、メタ認知が本当に極限まで高い人間は、「自分の予測能力の限界や、世界に存在する不確定要素」をも客観視できるため、「自分には全てが見えている」という結論自体が一種の認知の歪み――過剰汎化、結論への飛躍――であることを自覚しているはずなのだ。だが、それを自分で判断できないのが人間の脳だ。
「……はー」
 私は短くなったショートホープをまたもゆっくりとした動作で灰皿に押し付けた。さぞかし、名越には腹立たしい態度に見えただろう。
 捨てたショートホープの火種の熱さが指先に長く余韻のように残る。
私はできるだけ『元業界人間』の顔つきで名越を見た。
 コンマ数秒だけ、名越の口角が僅かに上がる。……望みのとおりの返答をするように錯覚させたのだ。こうまであっさりと名越の感情の揺らぎが見えると逆に、演技ではないかと疑ってしまう。
「いいでしょう。名越さん。警察のAIをハメる新しいスキームを作りましょう。今までのスキームでは少し旧いかもしれない」
 名越の口角があからさまに上がり、勝利の確信に満ちた笑みが浮かんだ。彼は満足そうにテーブルの上の灰皿に銜えていた煙草を押し付けた。
 だが、元上司は気づいていない。
 私の脳内ですでに新しいゲームが始まっていることに。
 警察のAIを欺くスキームを作成すると見せかけ、そのスキーム自体に【八坂通運】そのものを内部崩壊させるためのマルウェアを仕込む。名越の認知の癖、組織の上層の目的と目標、警察の捜査傾向。その全てを連動させ、【八坂通運】というシステムを足元から狂わせる不協和音を発生させてやる。
 私は本職のエンジニアではなく、犯罪スキームのデザイナーでしかない。それだけに横断的な知識が必要とされる。中には『使ってもいいが、使うと引き返せないような』資料も幾つか掴んでいる。
 私は退屈な幕引きを受け入れるつもりはない。
 「お前たちが用意したシナリオを破棄し、私自身の手で、誰も見たことのない最悪で最高の結果を生み出してやる!」と、声に出して睨みつける事が出来れば最高なのだけど。
「名越さん。準備に五日もらう。……それと、この住宅のあちらこちらに潜ませた連中を早く引き揚げさせて。『私は、どうしてもあなたが独りで真正面からナシをつけに来たとは信じられない』」
 新しいショートホープに火を点けながら言う。私の視線はライターの先端を見ているが、気配だけで、名越が動揺しているのが分かる。唾を飲み込み、喉仏が上下する音が聞こえた。……やはり、『何人かの荒い人』を仕込んでいたのか。
 仄かに苦い煙を大きく吸い込みながら、アンダーグラウンドの深淵で、死んでいた私の知識が、再び稼働する音が聞こえてきた。

 人は誰しも、己の合理性という幻想の檻の中に生きている。
 深夜2時。ノートパソコンの青白い光が、狭い6畳間の畳を照らし出している。
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