♯003『裏側俯瞰図』
私が抜けた後の引継ぎが上手く出来なかったのだ。
早く問題を収束させたいから、『私をバーンアウトさせた張本人の暴力上司』を【八坂通運】は寄越したわけだ。切った張ったのヤクザメソッドだけでは生き残れないからと新しく、今風の事業部を創設したが、若い新人たちを前に、まかり通るのは相変わらずの暴力だった。パワハラという言葉も生易しいのが想像できる。……それにしては接触の手口が変だ。上手く言えないが、名越の行動が妙だ。
名越は身を乗り出し、右手に持っていた煙草を口に銜えると純金のライターで火をつけて煙を乱暴に吐きながら、私を覗き込んだ。その顔には「仕方ねぇな」と書かれている。彼の眉に深い溝が刻まれる。頬の筋肉が盛り上がる。
「アップデートしろ、三種。お前のアタマで、警察のAIの裏をかく新しいスキームを組め。新しいプログラムでもローンチでも構わない」
私は紫煙を吐き出し、天井の小さなシミを見つめた。名越の言葉に少し引っかかりを覚える。
「断ります」
「何?」
「言ったはずです。……名越さん。私はもうアシを洗ったんです。それに……AIと人間のイタチごっこなんて、結末が見えている。私がスキームを書き換えても、警察は数ヶ月後にAIの学習モデルを更新する。またそれを私が裏かいて、また警察が追いつく。最後は確率統計の壁にぶち当たって、組織の誰かがヘタを打って自滅する。全パターン計算済みで、そのことも紙に印刷して報告しましたよね? 早く私の後続を複数確保してくださいと強調した筈ですが。……正直、そんな不毛な車輪の再発明に付き合う気はないんですよ」
私の言葉は、今の段階では理論上、事実だった。
この世のあらゆるゲームは、初期条件とアルゴリズムが決まれば結末が推測できる。名越がここで私を殴ろうが、拳銃を突きつけようが、私の虚無感を埋めることはできない。埋められるものならば埋めてほしい。それは虚無ではなくなるからだ。そもそも私に危害を加えれば本末転倒だ。
完全に名越の知識不足だが、私が組んだスキームはそんな優れたものではない。
というのも、警察のAIが追跡しているのは『心理』そのものではなく「餌食になった被害者の心理から発生した行動の『構造的パターン(異常データ)』」であると定義してテクニカルな整合性を追っているだけだ。「人間をどう騙すか」だけではない。「騙された人間の『大方の行動パターン』」を統計で表すだけだ。世のビジネス用AIとどう違うのかは、名越にも企業秘密だ。これは墓まで持っていく。この男に再現性や一回性と言った言葉を説明しても理解できないだろう。
私はこのスキームの仕様書のトップに「騙された人々にどのように分散して口座を開設させ、分散送金させるかという構造データがパターンによって捕捉される可能性がある」という旨の一文を添えたのだ。……なのに! それにも目を通していないのかよ!
「『いろんな最後』は見飽きたんですよ。言う事を聞かない私を殺したければ殺せばいいです。それもまた幾つか有る、予定通りの最後なので」
私が唇の端を下げ、眦の端を苦そうに細める。それを見た名越の顔から笑みが消えた。名越のように微表情の変化が科学で読めない人間でも明らかに伝わるノンバーバルを投げつけたからだ。不快と否定。
彼は銜え煙草のまま静かに立ち上がり、彼の右手側の壁際に歩み寄った。そして、薄い壁をコンコンとノックした。
隣の部屋からは、シングルマザーの幼い娘が口ずさむ童謡の歌声がかすかに聞こえていた。
「お前は本当に変わらないな、三種。自分の命すらどうでもいいという顔をしている。……それに今、本気で今すぐ撃ち殺してくれと考えただろう?」
あ。そういう空気は分かるんだ。
人の機微は分からないが、その機微を別の問題に置き換えて、本質を分解して理解する名越の意外な一面を知った。そこまで人の心が分かるのなら、私が壊れるまで働かさないでほしかった。『職場と言うより、名越が仕切る部署から逃げたかった』。その前に私は心を壊してしまったのだけど。
名越はジャケットのハンドウォームから数枚の紙片を取り出し、畳の上に落とした。パラパラと床に落ちる、それら。
「!」
私は八重歯でショートホープのフィルターを強く噛んだ。恐らく顔には驚きと恐怖の微表情が浮かんでいただろう。
そこには、この共有住宅の住人全員の顔写真だけでなく、行動パターン、家族構成、そして……彼らを社会的に抹殺するための具体的な手順が幾つも記載された『やけに綺麗な字で書かれたメモ』もある。……あ、これは、他人に書かせたな。物量で圧倒して優位に立とうとする古い虚仮威し。
「お前自身が何を選ぶかは勝手だ。だが、お前が嫌だというのなら……隣のあの母親と子供は、明日には『どこか』に売られる。下のミュージシャンは薬物の冤罪で逮捕され、元エンジニアの女は便所で自殺する。……かもしれない」
「……」
私は心の中で「ああ」と呟いた。
この手法は、私が新人教育の時に真っ先に教えてもらった『手解き』だ。
現代では古臭くなって誰も知らない恐喝の手段。古臭くなって誰も知らなくなったという強みがある。誰も知らないのだから対処の方法が発明されるまで時間がかかる。
早く問題を収束させたいから、『私をバーンアウトさせた張本人の暴力上司』を【八坂通運】は寄越したわけだ。切った張ったのヤクザメソッドだけでは生き残れないからと新しく、今風の事業部を創設したが、若い新人たちを前に、まかり通るのは相変わらずの暴力だった。パワハラという言葉も生易しいのが想像できる。……それにしては接触の手口が変だ。上手く言えないが、名越の行動が妙だ。
名越は身を乗り出し、右手に持っていた煙草を口に銜えると純金のライターで火をつけて煙を乱暴に吐きながら、私を覗き込んだ。その顔には「仕方ねぇな」と書かれている。彼の眉に深い溝が刻まれる。頬の筋肉が盛り上がる。
「アップデートしろ、三種。お前のアタマで、警察のAIの裏をかく新しいスキームを組め。新しいプログラムでもローンチでも構わない」
私は紫煙を吐き出し、天井の小さなシミを見つめた。名越の言葉に少し引っかかりを覚える。
「断ります」
「何?」
「言ったはずです。……名越さん。私はもうアシを洗ったんです。それに……AIと人間のイタチごっこなんて、結末が見えている。私がスキームを書き換えても、警察は数ヶ月後にAIの学習モデルを更新する。またそれを私が裏かいて、また警察が追いつく。最後は確率統計の壁にぶち当たって、組織の誰かがヘタを打って自滅する。全パターン計算済みで、そのことも紙に印刷して報告しましたよね? 早く私の後続を複数確保してくださいと強調した筈ですが。……正直、そんな不毛な車輪の再発明に付き合う気はないんですよ」
私の言葉は、今の段階では理論上、事実だった。
この世のあらゆるゲームは、初期条件とアルゴリズムが決まれば結末が推測できる。名越がここで私を殴ろうが、拳銃を突きつけようが、私の虚無感を埋めることはできない。埋められるものならば埋めてほしい。それは虚無ではなくなるからだ。そもそも私に危害を加えれば本末転倒だ。
完全に名越の知識不足だが、私が組んだスキームはそんな優れたものではない。
というのも、警察のAIが追跡しているのは『心理』そのものではなく「餌食になった被害者の心理から発生した行動の『構造的パターン(異常データ)』」であると定義してテクニカルな整合性を追っているだけだ。「人間をどう騙すか」だけではない。「騙された人間の『大方の行動パターン』」を統計で表すだけだ。世のビジネス用AIとどう違うのかは、名越にも企業秘密だ。これは墓まで持っていく。この男に再現性や一回性と言った言葉を説明しても理解できないだろう。
私はこのスキームの仕様書のトップに「騙された人々にどのように分散して口座を開設させ、分散送金させるかという構造データがパターンによって捕捉される可能性がある」という旨の一文を添えたのだ。……なのに! それにも目を通していないのかよ!
「『いろんな最後』は見飽きたんですよ。言う事を聞かない私を殺したければ殺せばいいです。それもまた幾つか有る、予定通りの最後なので」
私が唇の端を下げ、眦の端を苦そうに細める。それを見た名越の顔から笑みが消えた。名越のように微表情の変化が科学で読めない人間でも明らかに伝わるノンバーバルを投げつけたからだ。不快と否定。
彼は銜え煙草のまま静かに立ち上がり、彼の右手側の壁際に歩み寄った。そして、薄い壁をコンコンとノックした。
隣の部屋からは、シングルマザーの幼い娘が口ずさむ童謡の歌声がかすかに聞こえていた。
「お前は本当に変わらないな、三種。自分の命すらどうでもいいという顔をしている。……それに今、本気で今すぐ撃ち殺してくれと考えただろう?」
あ。そういう空気は分かるんだ。
人の機微は分からないが、その機微を別の問題に置き換えて、本質を分解して理解する名越の意外な一面を知った。そこまで人の心が分かるのなら、私が壊れるまで働かさないでほしかった。『職場と言うより、名越が仕切る部署から逃げたかった』。その前に私は心を壊してしまったのだけど。
名越はジャケットのハンドウォームから数枚の紙片を取り出し、畳の上に落とした。パラパラと床に落ちる、それら。
「!」
私は八重歯でショートホープのフィルターを強く噛んだ。恐らく顔には驚きと恐怖の微表情が浮かんでいただろう。
そこには、この共有住宅の住人全員の顔写真だけでなく、行動パターン、家族構成、そして……彼らを社会的に抹殺するための具体的な手順が幾つも記載された『やけに綺麗な字で書かれたメモ』もある。……あ、これは、他人に書かせたな。物量で圧倒して優位に立とうとする古い虚仮威し。
「お前自身が何を選ぶかは勝手だ。だが、お前が嫌だというのなら……隣のあの母親と子供は、明日には『どこか』に売られる。下のミュージシャンは薬物の冤罪で逮捕され、元エンジニアの女は便所で自殺する。……かもしれない」
「……」
私は心の中で「ああ」と呟いた。
この手法は、私が新人教育の時に真っ先に教えてもらった『手解き』だ。
現代では古臭くなって誰も知らない恐喝の手段。古臭くなって誰も知らなくなったという強みがある。誰も知らないのだから対処の方法が発明されるまで時間がかかる。
