♯003『裏側俯瞰図』
自動的に作動する認知能力を起動させる必要すら拒絶してくれる、無害で穏やかな人的ノイズ。
この共有住宅の心地よいぬるま湯は、私の死んだ世界しか認識しない脳に許された唯一の居場所だった。ここには利害関係がない。誰の心を読み解く必要も、脅威を値踏みする必要もない。ここで初めて私の脳は過剰な観察モードをオフにできる。眉間の皺がほぐれるのを感じられる空間だ。
時折ギシッと鳴る木製の階段を上がり、2階の突き当たりにある自分の部屋のドアノブに手をかける。廊下は薄暗く、いまだに直管の蛍光灯だ。
「!」
ドアノブを握った瞬間分かった。鍵が開いている! 有って無いようなシンプルな鍵。ヘアピンだけで開くような安っぽい鍵。その鍵が、『明確な意図を持って開錠』しているとなると警戒心が跳ねあがる。
実に数年ぶりに右手が後ろ腰の9mmオートへと伸びる! ……だが、手は空を切る。当たり前だ。今の私は全てを捨てた人間なのだ。ハジキも捨てたのだ。
頸動脈が震えるような寒気を一瞬だけ感じた。鍵など有って無いような共有住宅だが、この強烈な不快感は『身に覚えが有る』。
私はゆっくりと唾を飲み込み、静かにドアを開けた。口をやや開いて眉を意識的に固定した。動揺したという表情を読まれたくない防衛的な反応だ。「自分ができる技は相手もできると思え」とは、かつての師匠の言葉だ。……『この表情に戻るのは数年ぶり』で、もしかしたら、不快と恐怖が混じって表情筋が固まっていただけなのかもしれない。
ドアを開ける。6畳の狭い畳部屋の真ん中。蛍光灯のシェードが照らす室内。部屋の隅に畳んでどかしてある布団の上に、見覚えのある上質なイタリア製スーツを着た男が座っていた。その身なりが整った姿からして、この建物の中では何処にいても場違いな異物でしかない。
『このような人間は、対面からのメンツで信用商売の名刺とするので、何処に赴くにも、自分は自分だと分かるように、衣服や身なりで個性を主張する。どこまでやせ我慢できるかでその人間の仕事の質が推し量られてしまうのだから、それは仕方がない。いささか滑稽な話だが』。
「久しぶりだな、三種。相変わらず煙草臭い部屋だ」
【八坂通運】の若頭――私の知る最後の役職がそのままなら若頭だ――名越(なごえ)だ。私の記憶が確かならば、この身なりの良い長身の男は今年で57歳のはず。インテリやくざの顔をしているが、それも商売上の仮面で、実際にはインテリとは対極に位置する存在で、何が何でもこの人物とは二度と接触はしたくなかった。
腋や背中に冷たい物がだらだらと流れる私の顔色を知ってか知らずか、名越は右手を懐に手をサッと伸ばす。
「やれやれ。遊んでもくれないのか」
「『その手』は漫画の中でしか見ませんよ」
数年ぶりの会話がそれ。
名越が表情を動かさず右懐に手を素早く差し込んだのは、そこに有る煙草を取るため。そしてその挙動を私に見せたのは、私がハジキを抜くのを見越して動揺する顔を見たかっただけだ。……見たくもない顔なのにその顔を深く観察してしまう。人間はネガティブから目を逸らしたいと思えば思うほど、ネガティブを意識から振り払う事はできない。
部屋の中に漂う、洗練された香水の匂いと、隠しきれない血生臭さ。名越が、この部屋へ来る前に『一仕事』終わらせてきたと言っても私は驚かない。それほどに暴力に親しんでいる男だ。
「ドアの鍵、派手に壊さないでくれてありがとう」
「俺がここまで素通り出来た事には疑問を持たないのか?」
「大家さんを金で買収するのは、あなたほどの人間なら全く問題ないでしょ?」
私も小上がりから部屋に入ると、その場に胡坐をかいて座り込み、ポケットからショートホープを取り出して一本銜える。
前髪を焼かないように小首をかしげて使い捨てライターで火をつけた。
煙を深く吸い込み、ようやく名越の顔を直視する。緊張の糸が切れそうになる寸前でのニコチンの補給。数少ない鉄火場の空気を思い出す。
名越の表情、瞳孔の開き具合、微小な肩の緊張。こめかみから胸鎖乳突筋の動き。
彼は私に対して警戒心を抱いているが、同時に優位性を誇示しようとしている。支配欲求の現れだ。名越ほどの男が一人でやってくるとは考えられない。【かつしか荘】は彼が率いる手勢によって掌握されていると考えるのが妥当だろう。普段から時々、監視と思われる視線を感じているのもこの時のためだろう。
「さて。無駄話をしに来たわけじゃない。さっさと本題に入ろう」
「そのまま無駄話をして帰ってくれても構いませんよ?」
私は虚勢を張るので精一杯だった。私はこいつのせいで……!
名越は冷ややかな笑みを浮かべ、幾つかの操作をしたスマホを畳の上に放り投げた。画面には複雑なデータとグラフが表示されている。
「お前が昔作った『密輸・資金洗浄のスキーム』……覚えているな?」
「忘れましたよ。昔のゴミクズみたいな落書きです」
「……それが今、警察の新しいAI捜査網に引っかかり始めている。警察のアルゴリズムがお前のスキームのパターンを学習し始めたんだ。このままじゃ、うちのカネヅルが一つ潰れる」
ああ、そうですか。
もう少しでそんな、どうでもいいという意思表示を言葉で発するところだった。
同時に話の大まかな流れが理解できた。
この共有住宅の心地よいぬるま湯は、私の死んだ世界しか認識しない脳に許された唯一の居場所だった。ここには利害関係がない。誰の心を読み解く必要も、脅威を値踏みする必要もない。ここで初めて私の脳は過剰な観察モードをオフにできる。眉間の皺がほぐれるのを感じられる空間だ。
時折ギシッと鳴る木製の階段を上がり、2階の突き当たりにある自分の部屋のドアノブに手をかける。廊下は薄暗く、いまだに直管の蛍光灯だ。
「!」
ドアノブを握った瞬間分かった。鍵が開いている! 有って無いようなシンプルな鍵。ヘアピンだけで開くような安っぽい鍵。その鍵が、『明確な意図を持って開錠』しているとなると警戒心が跳ねあがる。
実に数年ぶりに右手が後ろ腰の9mmオートへと伸びる! ……だが、手は空を切る。当たり前だ。今の私は全てを捨てた人間なのだ。ハジキも捨てたのだ。
頸動脈が震えるような寒気を一瞬だけ感じた。鍵など有って無いような共有住宅だが、この強烈な不快感は『身に覚えが有る』。
私はゆっくりと唾を飲み込み、静かにドアを開けた。口をやや開いて眉を意識的に固定した。動揺したという表情を読まれたくない防衛的な反応だ。「自分ができる技は相手もできると思え」とは、かつての師匠の言葉だ。……『この表情に戻るのは数年ぶり』で、もしかしたら、不快と恐怖が混じって表情筋が固まっていただけなのかもしれない。
ドアを開ける。6畳の狭い畳部屋の真ん中。蛍光灯のシェードが照らす室内。部屋の隅に畳んでどかしてある布団の上に、見覚えのある上質なイタリア製スーツを着た男が座っていた。その身なりが整った姿からして、この建物の中では何処にいても場違いな異物でしかない。
『このような人間は、対面からのメンツで信用商売の名刺とするので、何処に赴くにも、自分は自分だと分かるように、衣服や身なりで個性を主張する。どこまでやせ我慢できるかでその人間の仕事の質が推し量られてしまうのだから、それは仕方がない。いささか滑稽な話だが』。
「久しぶりだな、三種。相変わらず煙草臭い部屋だ」
【八坂通運】の若頭――私の知る最後の役職がそのままなら若頭だ――名越(なごえ)だ。私の記憶が確かならば、この身なりの良い長身の男は今年で57歳のはず。インテリやくざの顔をしているが、それも商売上の仮面で、実際にはインテリとは対極に位置する存在で、何が何でもこの人物とは二度と接触はしたくなかった。
腋や背中に冷たい物がだらだらと流れる私の顔色を知ってか知らずか、名越は右手を懐に手をサッと伸ばす。
「やれやれ。遊んでもくれないのか」
「『その手』は漫画の中でしか見ませんよ」
数年ぶりの会話がそれ。
名越が表情を動かさず右懐に手を素早く差し込んだのは、そこに有る煙草を取るため。そしてその挙動を私に見せたのは、私がハジキを抜くのを見越して動揺する顔を見たかっただけだ。……見たくもない顔なのにその顔を深く観察してしまう。人間はネガティブから目を逸らしたいと思えば思うほど、ネガティブを意識から振り払う事はできない。
部屋の中に漂う、洗練された香水の匂いと、隠しきれない血生臭さ。名越が、この部屋へ来る前に『一仕事』終わらせてきたと言っても私は驚かない。それほどに暴力に親しんでいる男だ。
「ドアの鍵、派手に壊さないでくれてありがとう」
「俺がここまで素通り出来た事には疑問を持たないのか?」
「大家さんを金で買収するのは、あなたほどの人間なら全く問題ないでしょ?」
私も小上がりから部屋に入ると、その場に胡坐をかいて座り込み、ポケットからショートホープを取り出して一本銜える。
前髪を焼かないように小首をかしげて使い捨てライターで火をつけた。
煙を深く吸い込み、ようやく名越の顔を直視する。緊張の糸が切れそうになる寸前でのニコチンの補給。数少ない鉄火場の空気を思い出す。
名越の表情、瞳孔の開き具合、微小な肩の緊張。こめかみから胸鎖乳突筋の動き。
彼は私に対して警戒心を抱いているが、同時に優位性を誇示しようとしている。支配欲求の現れだ。名越ほどの男が一人でやってくるとは考えられない。【かつしか荘】は彼が率いる手勢によって掌握されていると考えるのが妥当だろう。普段から時々、監視と思われる視線を感じているのもこの時のためだろう。
「さて。無駄話をしに来たわけじゃない。さっさと本題に入ろう」
「そのまま無駄話をして帰ってくれても構いませんよ?」
私は虚勢を張るので精一杯だった。私はこいつのせいで……!
名越は冷ややかな笑みを浮かべ、幾つかの操作をしたスマホを畳の上に放り投げた。画面には複雑なデータとグラフが表示されている。
「お前が昔作った『密輸・資金洗浄のスキーム』……覚えているな?」
「忘れましたよ。昔のゴミクズみたいな落書きです」
「……それが今、警察の新しいAI捜査網に引っかかり始めている。警察のアルゴリズムがお前のスキームのパターンを学習し始めたんだ。このままじゃ、うちのカネヅルが一つ潰れる」
ああ、そうですか。
もう少しでそんな、どうでもいいという意思表示を言葉で発するところだった。
同時に話の大まかな流れが理解できた。
