♯003『裏側俯瞰図』
「参りました」
私はわざとらしく溜息を吐き、頭を深く下げた。おじさんのアクションが目に入ったわけではないが、おじさんが盛大なガッツポーズをしている姿が脳内に浮かぶ。それを脳内で見て、顔を将棋盤に伏せながら思わず私は笑みをこぼした。
「ほら見ろ! だから言ったろ、俺の読み勝ちだ!」
おじさんが歓声を上げて木村を見る。喜色満面のおじさん。おめでとう。そして有り難う。
「いやー、おじさん強いですねー。私も自信が有る方ですけど、おじさんのような指し手はあまり見たことが無いので……他にも幾つか見たことが無い手を使ってましたね。これだけの手が打てるのなら……あ、そうか、この時の為に温存していたんですね!」
私はおじさんの勝利を心から喜び、自分の勉強不足を悔いる芝居をする。全部嘘だ。私の言っていることは全部嘘だ。完敗を認めた相手によって自尊心を擽られると人間は目の前の人間が積年のライバルであっても、途端に評価を変える。幾らでも私の勝ち筋は有った。それをおじさんに献上しただけだ。おじさんは、そうだろうそうだろう。わかってるね、と言う大変満足げな顔で煙草をくわえて火を点けている。
おじさんはこれで『私に3連勝したつもりでいる』。そのように認知が書き換えられたのだ。強烈なドーパミンの分泌によって。今しがた。
実際はおじさんは3連敗の後に1勝しただけ。
非常に、非常に惜しい負け方を繰り返した末に、ようやく打倒できた快楽は、ネガティブが完全に打ち消され、自力で困難をクリアしたという成功体験で以て、おじさんは強く学習してしまった。自分は強い。自分はやればできる。『自分の腕に絶対の自信を持っているという事は同時に弱点にもなる。それも将棋の勝負ではなく、盤外の勝負では脆弱とも言えるレベルの』。……これでしばらくカモには困らない。
恐らく、彼の持ち金は既に尽きかけており、次回の一局でも彼は「絶対に勝てる」と信じ込んで手元の全額を賭けてくるだろう。
ここまで泥沼に金を注ぎ込ませれば、もう自力じゃ引けない。人間の脳なんて、自分の損を認めるくらいなら喜んで破滅を選ぶように出来ている。おじさんは自分が引くに引けない状況にあるという、内省や自己洞察ができていないのが敗因であるという事実に、恐らく一生気が付かないだろう。
私はこの手口で、数日のショートホープ代と共有住宅の家賃の一部、せいぜい三日分の食費だけを稼ぐ。どんなに勝負の機会があっても、それ以上は稼がないことにしている。
勝ち過ぎれば場が荒れ、私は煙たがられるだけでなく、追い出されてしまう。こんな小さな賭場では圧倒的強者は不要。おっさん連中が飲み代稼ぎに来るような場所で、全身全霊を賭ける意味がない。
……しかし、嘗ての私は違った。
※ ※ ※
私は、嘗ての自分の生き方を否定せずに拒否をした。
ほんの数年前まで、アンダーグラウンドのシンジケートの一角【八坂通運】のブレインの末席に座り、犯罪ビジネスの設計――スキームデザイン――を行っていた。新しい犯罪を生み出して、それを顧客に売る。顧客からの注文で新しい犯罪を設計する。
人間がどのような心理的盲点を持ち、どういう文脈を用意すれば自発的に法を犯し、警察の網をかいくぐり、資金を洗浄するか。
社会心理学の知見を組み込んだ私のスキームの成功確率は同僚の中でも常にトップだった。人の心を読むというのは成功確率の世界だ。絶対という物は絶対にない。
億単位の金が動き、組織は拡大した。私は肥大化した自負に飲み込まれたいた。この組織を動かしているのは自分であるという事実と感情が癒着した思考が視野を狭くしていた。
しかし、やりすぎたのだ。働き過ぎたのだ。……あろうことか、仕事に自分の人生を『賭けた』のだ。
長期間の徹夜続き。
ナチュラルハイ――一過性そう転――に転じ、脳内で非常警報とアハ体験が発生して、劇的に大きな仕事を片付けた。
その直後にバーンアウト。
仕事場で倒れて、気が付けば見知らぬ天井。会社の息がかかった病院の病室だった。
療養中に退屈なのでリハビリのつもりで、得意分野の社会心理学をSNSやネット記事、TVを俯瞰したメディア論、病棟内部での人間模様ばかりを観察していたら、『人の心理と集団の心理、それぞれがシンプルなパターンと複雑なパターンに別れる分水嶺のようなものが言語化できないレベルで脳内に生まれた』。
恐らくそれがメタ認知の視座の変化。防衛機制の知性化がカンストした瞬間だ。その感覚は『自分は成長した』というよりも、『降ってきたものが命中した』という感覚に近い。
メタ認知の視座が高くなっただけで知能は相変わらずだ。
突然、世の中の全てに嫌気が差して会社を辞めた。……後ろ暗い世界で生きている人間が簡単に足抜け出来るわけでもなく、今でも時々視線を感じる。それに対しては恐怖や不安よりも嫌悪の感情が強く出てしまう。
恐らく【八坂通運】は私を本気で療養させているのだろう。
足抜けはさせないつもりだろう。アンダーグラウンドの世界から完全に足を洗えた人間は最近ではとんと聞かなくなった。『デジタルタトゥーほど個人追跡の材料として優秀な物はない』のは、私が良く知っているからだ。私がどんなに厭世家の世捨て人の姿をしていても、出回っている情報と出回りつつある情報は削除できない。……その仕組みを逆手に取った犯罪スキームは数えきれない程、設計してきた。
制御できない高過ぎるメタ認知は諸刃の剣だ。
私はわざとらしく溜息を吐き、頭を深く下げた。おじさんのアクションが目に入ったわけではないが、おじさんが盛大なガッツポーズをしている姿が脳内に浮かぶ。それを脳内で見て、顔を将棋盤に伏せながら思わず私は笑みをこぼした。
「ほら見ろ! だから言ったろ、俺の読み勝ちだ!」
おじさんが歓声を上げて木村を見る。喜色満面のおじさん。おめでとう。そして有り難う。
「いやー、おじさん強いですねー。私も自信が有る方ですけど、おじさんのような指し手はあまり見たことが無いので……他にも幾つか見たことが無い手を使ってましたね。これだけの手が打てるのなら……あ、そうか、この時の為に温存していたんですね!」
私はおじさんの勝利を心から喜び、自分の勉強不足を悔いる芝居をする。全部嘘だ。私の言っていることは全部嘘だ。完敗を認めた相手によって自尊心を擽られると人間は目の前の人間が積年のライバルであっても、途端に評価を変える。幾らでも私の勝ち筋は有った。それをおじさんに献上しただけだ。おじさんは、そうだろうそうだろう。わかってるね、と言う大変満足げな顔で煙草をくわえて火を点けている。
おじさんはこれで『私に3連勝したつもりでいる』。そのように認知が書き換えられたのだ。強烈なドーパミンの分泌によって。今しがた。
実際はおじさんは3連敗の後に1勝しただけ。
非常に、非常に惜しい負け方を繰り返した末に、ようやく打倒できた快楽は、ネガティブが完全に打ち消され、自力で困難をクリアしたという成功体験で以て、おじさんは強く学習してしまった。自分は強い。自分はやればできる。『自分の腕に絶対の自信を持っているという事は同時に弱点にもなる。それも将棋の勝負ではなく、盤外の勝負では脆弱とも言えるレベルの』。……これでしばらくカモには困らない。
恐らく、彼の持ち金は既に尽きかけており、次回の一局でも彼は「絶対に勝てる」と信じ込んで手元の全額を賭けてくるだろう。
ここまで泥沼に金を注ぎ込ませれば、もう自力じゃ引けない。人間の脳なんて、自分の損を認めるくらいなら喜んで破滅を選ぶように出来ている。おじさんは自分が引くに引けない状況にあるという、内省や自己洞察ができていないのが敗因であるという事実に、恐らく一生気が付かないだろう。
私はこの手口で、数日のショートホープ代と共有住宅の家賃の一部、せいぜい三日分の食費だけを稼ぐ。どんなに勝負の機会があっても、それ以上は稼がないことにしている。
勝ち過ぎれば場が荒れ、私は煙たがられるだけでなく、追い出されてしまう。こんな小さな賭場では圧倒的強者は不要。おっさん連中が飲み代稼ぎに来るような場所で、全身全霊を賭ける意味がない。
……しかし、嘗ての私は違った。
※ ※ ※
私は、嘗ての自分の生き方を否定せずに拒否をした。
ほんの数年前まで、アンダーグラウンドのシンジケートの一角【八坂通運】のブレインの末席に座り、犯罪ビジネスの設計――スキームデザイン――を行っていた。新しい犯罪を生み出して、それを顧客に売る。顧客からの注文で新しい犯罪を設計する。
人間がどのような心理的盲点を持ち、どういう文脈を用意すれば自発的に法を犯し、警察の網をかいくぐり、資金を洗浄するか。
社会心理学の知見を組み込んだ私のスキームの成功確率は同僚の中でも常にトップだった。人の心を読むというのは成功確率の世界だ。絶対という物は絶対にない。
億単位の金が動き、組織は拡大した。私は肥大化した自負に飲み込まれたいた。この組織を動かしているのは自分であるという事実と感情が癒着した思考が視野を狭くしていた。
しかし、やりすぎたのだ。働き過ぎたのだ。……あろうことか、仕事に自分の人生を『賭けた』のだ。
長期間の徹夜続き。
ナチュラルハイ――一過性そう転――に転じ、脳内で非常警報とアハ体験が発生して、劇的に大きな仕事を片付けた。
その直後にバーンアウト。
仕事場で倒れて、気が付けば見知らぬ天井。会社の息がかかった病院の病室だった。
療養中に退屈なのでリハビリのつもりで、得意分野の社会心理学をSNSやネット記事、TVを俯瞰したメディア論、病棟内部での人間模様ばかりを観察していたら、『人の心理と集団の心理、それぞれがシンプルなパターンと複雑なパターンに別れる分水嶺のようなものが言語化できないレベルで脳内に生まれた』。
恐らくそれがメタ認知の視座の変化。防衛機制の知性化がカンストした瞬間だ。その感覚は『自分は成長した』というよりも、『降ってきたものが命中した』という感覚に近い。
メタ認知の視座が高くなっただけで知能は相変わらずだ。
突然、世の中の全てに嫌気が差して会社を辞めた。……後ろ暗い世界で生きている人間が簡単に足抜け出来るわけでもなく、今でも時々視線を感じる。それに対しては恐怖や不安よりも嫌悪の感情が強く出てしまう。
恐らく【八坂通運】は私を本気で療養させているのだろう。
足抜けはさせないつもりだろう。アンダーグラウンドの世界から完全に足を洗えた人間は最近ではとんと聞かなくなった。『デジタルタトゥーほど個人追跡の材料として優秀な物はない』のは、私が良く知っているからだ。私がどんなに厭世家の世捨て人の姿をしていても、出回っている情報と出回りつつある情報は削除できない。……その仕組みを逆手に取った犯罪スキームは数えきれない程、設計してきた。
制御できない高過ぎるメタ認知は諸刃の剣だ。
