♯002『冷めたノイズ』
彼は私の服装を見て、ワゴンセール特有のチープさに当初は惑ったようだが、そんな事よりも、私の指先にある『両切りピース』という、ある種の特権的な嗜好品に『敵』の記号を見出したようだった。彼らの敵の首魁である為政者の取り巻き議員が偶々、この煙草を吸っている『らしいという噂』が流布されただけなのに。
彼が一歩進む。
その時、私の右手元で、肥後守の刃が太陽の光を鈍く跳ね返す。
彼からすれば煙草を横銜えにする女の右手に現れた折り畳みナイフは、手品を見ているような錯覚でもしたのだろうか。
私は彼の顔を見つめたまま、刃先を自分の左手の平に、浅く、迷いなく突き立てた。
私は顔を僅かに歪める。ピースのフィルターが割れた。痛みに耐えるために噛み過ぎた。自分で取った行動とはいえ、背中全体に冷たいものが噴き出る。大脳新皮質では自分を理論で納得させられても、大脳辺縁系による本能的生理的反応は言語ではコントロールできない。
だから、噴き出したアドレナリンが逓減するにつれて、脳内では「即座の処置が必要。傷口の洗浄と異物除去。トキソイドの接種かな。縫合処置2針。抗生物質の処方。こんなところかな?」と切っ先を抜いた直後からの処置を計算している。今、私は、私の体を大事にしていない。
感情での行動の後に、理屈がそれらしいでっち上げの言葉を脳内に並べるのは、いつものことだ。
肉が裂ける感覚。外気と鉄に触れる冷たい感覚の直後に湧き出る、じわりと広がる熱い痛み。『初めて感じる、人間の肌を傷つける感覚。人の肌は予想以上に硬い』。
多分、私の表情は一切変わっていない。眉一つ動いていないはず。……そういう演技で誤魔化したい。口に銜えたピースのフィルターにさらに大きく罅が入る。
掌の真ん中から、つー、と鮮血が溢れ出し、足元に落ちた血液が跳ねてクロッカスのサンダルを赤く汚す。
「ひっ……」
男は顔を信号機のように赤から青に変色させて、足を止めた。
彼の目に、明らかな恐怖が浮かぶ。……勿論、『恐怖を感じさせたのだけど』。
生存戦略としての凍りつき反応。
それが彼を襲っている事態だ。
人間は追い詰められると、戦うか逃げるかを直ぐに選択させられる。彼は自分が『男なので』優位だと思っていた。なのに突然、本能的に恐怖を抱く刃物と血と『得体のしれない行動をする女』が出現した。彼の脳内に第3の選択肢として凍り付き反応が出たのだ。
確証バイアスだけで固められた『思想』や『正義』という予測可能なゲームの中で戦っていた彼は、目の前で『自分の血をただの物理現象として流しながら、何の表情も見せない女』という、自らの理解の範疇を超えたバグに遭遇したのだ。それも自分の優位性が予想もしていないタイミングで死角から襲い掛かられ、脆く崩れる。
「これを見てください。血流量の増加に伴う、外出血。正常な生体反応です」
私は血で汚れた肥後守の先端をスラックスで撫でて拭い、折り畳んでチェンジポケットに押し込んだ。
「あなたの言う『戦い』は、この程度の生々しさに耐えられますか? 感情と勢いと興奮で誤魔化さない、ただの痛みに、あなたは耐えられますか?」
目の前の人物は何も言えなかった。
瞳孔を激しく収縮させている彼は後ずさりし、階段を転げるようにして降りていった。このまま彼は居心地のいい拡声器のノイズの中へと、彼を構成する記号の中へと消えていくのだろう。
暑い静寂が戻る。
私は噛み潰した使い捨てフィルターを床に吐き出し、出血が止まらないままの左掌を、尻ポケットにねじ込んでいたハンドタオルで押さえながら、さて、どうやって胸ポケットからピースを抜き出して口に銜えて火を点けようかと悩む。……先ほどの実行委員会とやらに所属する彼のことはもう記憶の中では朧気だ。
掌の痛みは、確かに激しかった。その激しい痛みも、数分もすれば脳が慣れ、ただの退屈な神経信号へと還元されていく。今は論理ではなく本能がアラートを出している。そのうち論理が勝ると、痛みや傷よりも、処置と経過中の生活の面倒さが大きく膨らむ。
『自省録』だったか、ふと或る言葉が脳裏をよぎる。
【宇宙のすべては変化であり、人生はただの思い込みに過ぎない】
世界はやはり、どこまでも平坦だった。
私は左掌を覆い包むハンドタオルを前歯で嚙み固定しながら、空いた右手でなんとか、ピースを抜き、フィルターに差して、それを耳の上に挟ませてから使い捨てライターを取り出し……漸く一服が可能になった。人間、必要なものがどうしても欲しくなるとどんな無理なミッションでも最大限に知恵を絞るものだ。……もしも、傍から人が見ていればさぞ間抜けなポーズの練習に見えただろう。
彼が一歩進む。
その時、私の右手元で、肥後守の刃が太陽の光を鈍く跳ね返す。
彼からすれば煙草を横銜えにする女の右手に現れた折り畳みナイフは、手品を見ているような錯覚でもしたのだろうか。
私は彼の顔を見つめたまま、刃先を自分の左手の平に、浅く、迷いなく突き立てた。
私は顔を僅かに歪める。ピースのフィルターが割れた。痛みに耐えるために噛み過ぎた。自分で取った行動とはいえ、背中全体に冷たいものが噴き出る。大脳新皮質では自分を理論で納得させられても、大脳辺縁系による本能的生理的反応は言語ではコントロールできない。
だから、噴き出したアドレナリンが逓減するにつれて、脳内では「即座の処置が必要。傷口の洗浄と異物除去。トキソイドの接種かな。縫合処置2針。抗生物質の処方。こんなところかな?」と切っ先を抜いた直後からの処置を計算している。今、私は、私の体を大事にしていない。
感情での行動の後に、理屈がそれらしいでっち上げの言葉を脳内に並べるのは、いつものことだ。
肉が裂ける感覚。外気と鉄に触れる冷たい感覚の直後に湧き出る、じわりと広がる熱い痛み。『初めて感じる、人間の肌を傷つける感覚。人の肌は予想以上に硬い』。
多分、私の表情は一切変わっていない。眉一つ動いていないはず。……そういう演技で誤魔化したい。口に銜えたピースのフィルターにさらに大きく罅が入る。
掌の真ん中から、つー、と鮮血が溢れ出し、足元に落ちた血液が跳ねてクロッカスのサンダルを赤く汚す。
「ひっ……」
男は顔を信号機のように赤から青に変色させて、足を止めた。
彼の目に、明らかな恐怖が浮かぶ。……勿論、『恐怖を感じさせたのだけど』。
生存戦略としての凍りつき反応。
それが彼を襲っている事態だ。
人間は追い詰められると、戦うか逃げるかを直ぐに選択させられる。彼は自分が『男なので』優位だと思っていた。なのに突然、本能的に恐怖を抱く刃物と血と『得体のしれない行動をする女』が出現した。彼の脳内に第3の選択肢として凍り付き反応が出たのだ。
確証バイアスだけで固められた『思想』や『正義』という予測可能なゲームの中で戦っていた彼は、目の前で『自分の血をただの物理現象として流しながら、何の表情も見せない女』という、自らの理解の範疇を超えたバグに遭遇したのだ。それも自分の優位性が予想もしていないタイミングで死角から襲い掛かられ、脆く崩れる。
「これを見てください。血流量の増加に伴う、外出血。正常な生体反応です」
私は血で汚れた肥後守の先端をスラックスで撫でて拭い、折り畳んでチェンジポケットに押し込んだ。
「あなたの言う『戦い』は、この程度の生々しさに耐えられますか? 感情と勢いと興奮で誤魔化さない、ただの痛みに、あなたは耐えられますか?」
目の前の人物は何も言えなかった。
瞳孔を激しく収縮させている彼は後ずさりし、階段を転げるようにして降りていった。このまま彼は居心地のいい拡声器のノイズの中へと、彼を構成する記号の中へと消えていくのだろう。
暑い静寂が戻る。
私は噛み潰した使い捨てフィルターを床に吐き出し、出血が止まらないままの左掌を、尻ポケットにねじ込んでいたハンドタオルで押さえながら、さて、どうやって胸ポケットからピースを抜き出して口に銜えて火を点けようかと悩む。……先ほどの実行委員会とやらに所属する彼のことはもう記憶の中では朧気だ。
掌の痛みは、確かに激しかった。その激しい痛みも、数分もすれば脳が慣れ、ただの退屈な神経信号へと還元されていく。今は論理ではなく本能がアラートを出している。そのうち論理が勝ると、痛みや傷よりも、処置と経過中の生活の面倒さが大きく膨らむ。
『自省録』だったか、ふと或る言葉が脳裏をよぎる。
【宇宙のすべては変化であり、人生はただの思い込みに過ぎない】
世界はやはり、どこまでも平坦だった。
私は左掌を覆い包むハンドタオルを前歯で嚙み固定しながら、空いた右手でなんとか、ピースを抜き、フィルターに差して、それを耳の上に挟ませてから使い捨てライターを取り出し……漸く一服が可能になった。人間、必要なものがどうしても欲しくなるとどんな無理なミッションでも最大限に知恵を絞るものだ。……もしも、傍から人が見ていればさぞ間抜けなポーズの練習に見えただろう。
