♯002『冷めたノイズ』
頭の中の観念奔逸にも似た、湧き出る何かの部品を紙に書き出しているだけ。
ノイズだらけの頭の中が、書けば書くほど晴れていく。
文字だけでなく、スケッチや図式らしきものも書く。私はこの時、何を書きたいのかまるで分っていない。ただ頭の中をクリアに保ちたいだけの排水作業。今このタイミングでの筆記は、殆ど意味がない。意味を持つのは、就寝時に眠りに落ちる瞬間や、入浴中だ。その時に何故かメモ帳に記しただけの文字が『何かを生み出す』。
腕時計を確認していないのでどれくらい紙幅を埋める作業に没頭したのかは分からない。作業興奮が脳を加速させると、時間感覚がスッ飛んだような感覚になる。
足元の吸い殻を見るとピースを4本吸っていたらしい。私のペースなら1本約6分で吸う。ロス抜きで約24分、吸っていた。実際はもっと時間がかかっているだろう。
一通り満足してメモ帳を胸ポケットにしまう。座っていた階段から立ち上がろうと左手を尻の近くに添える。
「!」
チクリとした痛みの後、親指の先に赤い血液が球体を作って盛り上がる。転がっていた画鋲の針で傷ついたらしい。剥がれ落ちたアジビラの画鋲だろうか。
――――毛細血管の損傷による、血小板の凝集反応。
頭の中で言語化すると、小さな負傷の事実も無機質なデータに変わる。
そんな小さな痛みに、私がこの平坦な世界に辛うじて繋ぎ止められている感覚を与えてくれた。……この情緒的な感情も伝達物質の配合が生み出した化学反応でしかない。今が昼間だからこの感じ方だが、時間が無い時や、疲労している時や、酷い空腹の時や、睡魔に襲われている時や、早朝や深夜では全く同じ伝達物質が受容体に作用するとは限らない。厳密に言えば、今現在の脳内の伝達物質の配合はもう二度と再現できないのだ。だから、同じ人間の同じ感動でも、毎回感動の度合いが違う。
「おい、お前。そこで何をしている」
突然、非常階段の下から声がした。声の主は階段を駆け上がってくる。
その人物が私の目の前に立つ。内集団性を誇示するヘルメットを小脇に抱え、汗まみれになった同学年の男が立っていた。腕章には『実行委員会』とある。何の実行委員会かは知らないが、何かの権限が上位の存在や仲間内から与えられて気分が常に高揚しているのだろうか。
彼の瞳は、私が最も嫌悪する、あの『正義の脳内物質』でギラギラと輝いていた。
「ここは立ち入り禁止だ。今、俺たちは歴史の転換点にいる。ノンポリの呑気な昼寝に付き合っている暇はないんだ! 早く出ていけ!」
彼の言葉を、私の脳は瞬時に翻訳する。
――――文脈は自己の存在価値を運動に投影。生存証明のための他者へのマウンティング。アドレナリンは過剰。共感性は著しく欠如。
私は恐らく表情を変えずに、煙をゆっくりと彼の顔に向けて吐き出した。彼との距離は2m程度。紫煙が被るほどの距離ではない。バージニア主体の甘い香りだけが漂うが、すぐに風に流される。風の力をもってしても消えない男の汗臭さ。紫煙の香りが敗北した。
「……歴史、ですか」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「あなたの言う歴史の転換点とは、何回目の再放送ですか。フランス革命、ロシア革命、あるいは六十年代の安保。集団心理のダイナミクスに於いて、あなたの行動は全て過去のデータのサンプリングに過ぎない。あなたが叫んでいる言葉は、あなたのオリジナルの思想ではなく、誰かのエピゴーネンのせいでシステムの機能不全が吐き出したただの排泄物ですよ」
男の顔が、瞬時に怒りで紅潮した。明確な交感神経への急激な切り替え。……どうしてこう、正義中毒の人間は借り物の思考を金科玉条と言わんばかりに大事にするのだろうか。それを指摘すれば指摘された弱点を補うために学ぼうとしないのか。絶対無謬の信条に傷がついたかのような反応だ。今ここで私を殺せば、誰もその誤りに気が付いていないとでも言わんばかりだ。……揃いも揃って連中はこうなのだ。自身の思考停止を疑っていない。
「何だと! ノンポリの女だからと、のうのうと……!」
彼は怒鳴る。
思わず心の中で口笛を吹いて驚いた。
万民平等と多様性社会の建設を目指しているのに主義と性別で篩にかける発言を躊躇いもなく感情だけで発言する。今のバカ騒ぎも、案外早く終わるのかもしれない。
ノイズだらけの頭の中が、書けば書くほど晴れていく。
文字だけでなく、スケッチや図式らしきものも書く。私はこの時、何を書きたいのかまるで分っていない。ただ頭の中をクリアに保ちたいだけの排水作業。今このタイミングでの筆記は、殆ど意味がない。意味を持つのは、就寝時に眠りに落ちる瞬間や、入浴中だ。その時に何故かメモ帳に記しただけの文字が『何かを生み出す』。
腕時計を確認していないのでどれくらい紙幅を埋める作業に没頭したのかは分からない。作業興奮が脳を加速させると、時間感覚がスッ飛んだような感覚になる。
足元の吸い殻を見るとピースを4本吸っていたらしい。私のペースなら1本約6分で吸う。ロス抜きで約24分、吸っていた。実際はもっと時間がかかっているだろう。
一通り満足してメモ帳を胸ポケットにしまう。座っていた階段から立ち上がろうと左手を尻の近くに添える。
「!」
チクリとした痛みの後、親指の先に赤い血液が球体を作って盛り上がる。転がっていた画鋲の針で傷ついたらしい。剥がれ落ちたアジビラの画鋲だろうか。
――――毛細血管の損傷による、血小板の凝集反応。
頭の中で言語化すると、小さな負傷の事実も無機質なデータに変わる。
そんな小さな痛みに、私がこの平坦な世界に辛うじて繋ぎ止められている感覚を与えてくれた。……この情緒的な感情も伝達物質の配合が生み出した化学反応でしかない。今が昼間だからこの感じ方だが、時間が無い時や、疲労している時や、酷い空腹の時や、睡魔に襲われている時や、早朝や深夜では全く同じ伝達物質が受容体に作用するとは限らない。厳密に言えば、今現在の脳内の伝達物質の配合はもう二度と再現できないのだ。だから、同じ人間の同じ感動でも、毎回感動の度合いが違う。
「おい、お前。そこで何をしている」
突然、非常階段の下から声がした。声の主は階段を駆け上がってくる。
その人物が私の目の前に立つ。内集団性を誇示するヘルメットを小脇に抱え、汗まみれになった同学年の男が立っていた。腕章には『実行委員会』とある。何の実行委員会かは知らないが、何かの権限が上位の存在や仲間内から与えられて気分が常に高揚しているのだろうか。
彼の瞳は、私が最も嫌悪する、あの『正義の脳内物質』でギラギラと輝いていた。
「ここは立ち入り禁止だ。今、俺たちは歴史の転換点にいる。ノンポリの呑気な昼寝に付き合っている暇はないんだ! 早く出ていけ!」
彼の言葉を、私の脳は瞬時に翻訳する。
――――文脈は自己の存在価値を運動に投影。生存証明のための他者へのマウンティング。アドレナリンは過剰。共感性は著しく欠如。
私は恐らく表情を変えずに、煙をゆっくりと彼の顔に向けて吐き出した。彼との距離は2m程度。紫煙が被るほどの距離ではない。バージニア主体の甘い香りだけが漂うが、すぐに風に流される。風の力をもってしても消えない男の汗臭さ。紫煙の香りが敗北した。
「……歴史、ですか」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「あなたの言う歴史の転換点とは、何回目の再放送ですか。フランス革命、ロシア革命、あるいは六十年代の安保。集団心理のダイナミクスに於いて、あなたの行動は全て過去のデータのサンプリングに過ぎない。あなたが叫んでいる言葉は、あなたのオリジナルの思想ではなく、誰かのエピゴーネンのせいでシステムの機能不全が吐き出したただの排泄物ですよ」
男の顔が、瞬時に怒りで紅潮した。明確な交感神経への急激な切り替え。……どうしてこう、正義中毒の人間は借り物の思考を金科玉条と言わんばかりに大事にするのだろうか。それを指摘すれば指摘された弱点を補うために学ぼうとしないのか。絶対無謬の信条に傷がついたかのような反応だ。今ここで私を殺せば、誰もその誤りに気が付いていないとでも言わんばかりだ。……揃いも揃って連中はこうなのだ。自身の思考停止を疑っていない。
「何だと! ノンポリの女だからと、のうのうと……!」
彼は怒鳴る。
思わず心の中で口笛を吹いて驚いた。
万民平等と多様性社会の建設を目指しているのに主義と性別で篩にかける発言を躊躇いもなく感情だけで発言する。今のバカ騒ぎも、案外早く終わるのかもしれない。
