♯002『冷めたノイズ』
生理学と社会学。
生理学を専攻すれば、人間が『心』と呼ぶものの正体が、シナプスを飛び交う伝達物質の電気信号に過ぎないことが分かる。他者の涙は涙腺の刺激であり、怒りはアドレナリンの過剰分泌だ。いずれも、偏桃体、帯状回、前頭前野等を中心に複雑な相互作用で成立している。
社会学を専攻すれば、眼下で叫んでいる彼らの熱狂が、近代社会に於けるアイデンティティの喪失を埋めるための、教科書通りの集団心理の様式美であることが分かる。彼らは正義を信じているのではなく、正義を信じている自分という記号に依存しているだけだ。
全ては予測可能で、全ては反復だ。さらに微細な誤差を脳が勝手に修正し、予測符号化がほんの少し強化される。
私は嘗て、心臓が文字通り停止することにより『世界の前提がひっくり返るような出来事』を経験した。なんとか生還したが、それが何であったかは、もう『思い出す必要もない』。
ただ、トラウマケアの教科書で見た『心的外傷後成長』――:Post-Traumtic Growth――という冷たい文字列が、今の私の全てを説明している。
『心的外傷後成長』。教科書には『感謝』やら『新たな可能性』やらといった、おめでたい道徳のような言葉が5つの領域として並んでいた。だが、私にとっての『成長』とは、認知のノイズを削ぎ落とした結果として残る、この絶対的な冷ややかさのことだ。他者との関係の深化? 冗談じゃない。
関係の無意味さを正しく見極められるようになったことが、私なりの『成長』……PTGの定義だった。
恐らく、今は代償機能としてレジリエンスという決して壊れない、しかし決して震える事も無い強固な防壁を脳内に作ってしまった。作って引き籠ってしまった。……或いは、そのように知性化の防衛機制が働いてしまい、過剰な情報を遮断しているだけなのかもしれない。
そこで見た世界は完全にフラットだった。凸凹のない、ただの平坦なデータが整然と足元に並んでいるだけで善悪や大小や白黒などの意味づけがされていない。変数が無いのではない。変数が生まれる余地が無いのだ。
だから、苦しい。
世界を呪い、絶望の淵で『厭世』を気取ることもできない。そんなポーズは、ただの自己憐憫の社会学的再生産だと知っているから。
かと言って、酒や薬や男に溺れて『退廃』の快楽に身を委ねることもできない。それらがもたらす脳内のドーパミンの動態が、あまりに透けて見えすぎて、白けてしまうからだ。
そして……どうも『無頼』とも違う。
依存は逃亡の果て。
中毒は快楽の果て。
狂うことも、信じることも、溺れることもできない。
ただ、無駄に高い視座と潤沢な資産という特等席に座らされたまま、巨大な茶番を眺め続けるしかない。
ふと視線を落とす。
私の衣服は、駅前のスーパーのワゴンセールでまとめ買いした、全く同じ形のグレーのTシャツと、同じ黒のスラックスだ。毎朝の服選びという無駄な時間と認知のリソースを省くための、生理学的に合理的な最適解。足元は、どこにでも売っているクロッカスのサンダル。皆が期待するような、実家の太さに対する反抗という勇ましいナラティブではない。多様性の表出を強いる、個性の表現などという世間のバカ騒ぎに対しての、ささやかなボイコットに過ぎない。
ピースを差し込んだフィルターのプラスチックが、徐々に茶色いタールで汚れていく。
Tシャツのポケットに差してあった、黒い表紙のメモ帳を取り出した。背の部分から栞紐付きの細い鉛筆を抜き出す。
スマホの画面はノイズが多過ぎる。アナログな紙の切れ端に、私は日々の思う事を観察記録のように書き留める。
文章による正確な言語化は少なく、バレットを打ってキーワードだけを記す。今記しているのは、今日も何事も無く平穏に終わる希望や期待を意味する幾つかのワード。これは、もしかしたら私だけの宗教の私だけのマントラなのかもしれない。
「……ん」
字の線の幅が広い。鉛筆の先端が丸くなっている。書けないことは無いが、書きにくい。
スラックスのウォッチポケットから、鈍い黄色をした、薄く細長い真鍮のそれを取り出した。
肥後守。昭和の子供が愛用し鉛筆を削ったという、無骨な折りたたみナイフ。
親指で刃後端のチキリを押し、親指の力だけで刃を固定する。鈍い光を放つ鋼の刃を出して親指の力だけでホールド。軽く、手帳用の鉛筆の先端を削る。カツオブシを削るように木くずが美しく風に吹き飛ばされていく。カツオブシを削った事はないけど。
ピースを銜えたまま、紫煙を吐き散らしながら、メモ帳に視線を落として再び紙幅を埋める。
生理学を専攻すれば、人間が『心』と呼ぶものの正体が、シナプスを飛び交う伝達物質の電気信号に過ぎないことが分かる。他者の涙は涙腺の刺激であり、怒りはアドレナリンの過剰分泌だ。いずれも、偏桃体、帯状回、前頭前野等を中心に複雑な相互作用で成立している。
社会学を専攻すれば、眼下で叫んでいる彼らの熱狂が、近代社会に於けるアイデンティティの喪失を埋めるための、教科書通りの集団心理の様式美であることが分かる。彼らは正義を信じているのではなく、正義を信じている自分という記号に依存しているだけだ。
全ては予測可能で、全ては反復だ。さらに微細な誤差を脳が勝手に修正し、予測符号化がほんの少し強化される。
私は嘗て、心臓が文字通り停止することにより『世界の前提がひっくり返るような出来事』を経験した。なんとか生還したが、それが何であったかは、もう『思い出す必要もない』。
ただ、トラウマケアの教科書で見た『心的外傷後成長』――:Post-Traumtic Growth――という冷たい文字列が、今の私の全てを説明している。
『心的外傷後成長』。教科書には『感謝』やら『新たな可能性』やらといった、おめでたい道徳のような言葉が5つの領域として並んでいた。だが、私にとっての『成長』とは、認知のノイズを削ぎ落とした結果として残る、この絶対的な冷ややかさのことだ。他者との関係の深化? 冗談じゃない。
関係の無意味さを正しく見極められるようになったことが、私なりの『成長』……PTGの定義だった。
恐らく、今は代償機能としてレジリエンスという決して壊れない、しかし決して震える事も無い強固な防壁を脳内に作ってしまった。作って引き籠ってしまった。……或いは、そのように知性化の防衛機制が働いてしまい、過剰な情報を遮断しているだけなのかもしれない。
そこで見た世界は完全にフラットだった。凸凹のない、ただの平坦なデータが整然と足元に並んでいるだけで善悪や大小や白黒などの意味づけがされていない。変数が無いのではない。変数が生まれる余地が無いのだ。
だから、苦しい。
世界を呪い、絶望の淵で『厭世』を気取ることもできない。そんなポーズは、ただの自己憐憫の社会学的再生産だと知っているから。
かと言って、酒や薬や男に溺れて『退廃』の快楽に身を委ねることもできない。それらがもたらす脳内のドーパミンの動態が、あまりに透けて見えすぎて、白けてしまうからだ。
そして……どうも『無頼』とも違う。
依存は逃亡の果て。
中毒は快楽の果て。
狂うことも、信じることも、溺れることもできない。
ただ、無駄に高い視座と潤沢な資産という特等席に座らされたまま、巨大な茶番を眺め続けるしかない。
ふと視線を落とす。
私の衣服は、駅前のスーパーのワゴンセールでまとめ買いした、全く同じ形のグレーのTシャツと、同じ黒のスラックスだ。毎朝の服選びという無駄な時間と認知のリソースを省くための、生理学的に合理的な最適解。足元は、どこにでも売っているクロッカスのサンダル。皆が期待するような、実家の太さに対する反抗という勇ましいナラティブではない。多様性の表出を強いる、個性の表現などという世間のバカ騒ぎに対しての、ささやかなボイコットに過ぎない。
ピースを差し込んだフィルターのプラスチックが、徐々に茶色いタールで汚れていく。
Tシャツのポケットに差してあった、黒い表紙のメモ帳を取り出した。背の部分から栞紐付きの細い鉛筆を抜き出す。
スマホの画面はノイズが多過ぎる。アナログな紙の切れ端に、私は日々の思う事を観察記録のように書き留める。
文章による正確な言語化は少なく、バレットを打ってキーワードだけを記す。今記しているのは、今日も何事も無く平穏に終わる希望や期待を意味する幾つかのワード。これは、もしかしたら私だけの宗教の私だけのマントラなのかもしれない。
「……ん」
字の線の幅が広い。鉛筆の先端が丸くなっている。書けないことは無いが、書きにくい。
スラックスのウォッチポケットから、鈍い黄色をした、薄く細長い真鍮のそれを取り出した。
肥後守。昭和の子供が愛用し鉛筆を削ったという、無骨な折りたたみナイフ。
親指で刃後端のチキリを押し、親指の力だけで刃を固定する。鈍い光を放つ鋼の刃を出して親指の力だけでホールド。軽く、手帳用の鉛筆の先端を削る。カツオブシを削るように木くずが美しく風に吹き飛ばされていく。カツオブシを削った事はないけど。
ピースを銜えたまま、紫煙を吐き散らしながら、メモ帳に視線を落として再び紙幅を埋める。
