♯002『冷めたノイズ』
夏の正午の灼熱はあまりに均一で、あまりに殺人的だった。
大学の正門へと続く坂道は、アスファルトの照り返しで歪んでいるかのように見える。壁に並べられた空虚な立て看板の文字が熱で溶け出しているかのようだった。
新しい看板がまた増えている。この暑い中、連中が汗をかいて作ったとは思えない。ライフライン、特に生命維持装置であるエアコンの電源の供給を断たれていない恵まれた環境だけを享受して、今日も連中は元気な事だ。
「帝国主義的大学解体を我が手に」
「全学連、連帯のストライキへ」
正門を潜るなりこれだ。
『お揃い』のドカヘルを被った男たちの声は、拡声器のハウリングと混じり合い、暑く粘り気のある空気の中で不快なうねりを生んでは撒き散らしていた。
私は休講が続く大学には惰性で通う。今の日本ではまともに学べる最高学府は先日の新聞の報道だと6割程度だと聞いた。
――――そういえばあの新聞……古新聞のラックに放り込んだっけ?
旧講義棟の非常階段。その踊り場に腰を下ろしている。休講だというのに顔を出して、予想通りにやる事が無かったのを確認しているだけの無為な時間。何かしていなければ人生やニンゲンと言うモノを考え過ぎてしまう。不安に飲み込まれるのを紛らわせるだけの時間。
明確に行く当てのない自分にはこの日影は助かる。エアコンの効いた『居心地のいい場所』ほど、あの酔い痴れているだけの連中の屯場として占拠されている。連中が打倒したいと願う為政者は、連中のライフラインを途絶させていないと言う事がどういうことなのかを理解していない。つまり連中はまだ為政者のコントロール出来る範囲内に居るのだ。
こんな時、『実家が太い』という私的な背景という事実は、実に機能的な免罪符になる。実に業腹ながら、その恩恵だけは頂戴する。
地価の高い閑静な住宅街にある、庭師が定期的に来るような家。そこから毎月、私の口座には二十一歳の女子大生が消費し尽くせるはずのない額の、しかし彼ら運動家気取りが命を懸けて呪詛する資本主義の血そのものである仕送りが振り込まれる。彼らは『万民が裕福になるための運動』が成功すれば、再建と維持の為にどれだけの血税が投入されるのかが計算できない。
大学が活動家気取りたちによって封鎖されようが、休講が何ヶ月続こうが私の生活には一ミリの亀裂も入らない。就職活動の焦りもない。何もしなくていいという、果てしのない真空の虚無だけがそこにあった。傍から見ればモラトリアムを貪っているだけのノンポリの典型だろう。そう思っていてくれた方がこちらも楽だ。
――――ドーパミンとノルアドレナリンの過剰駆動を思想の深さと勘違いしている。
小さく心の中で呟いた。
やや湿り気を帯びた熱い風が非常階段の隙間を笛を吹くようにすり抜け、私の顔を撫でる。階段のお気に入りの高さで腰を下ろすと、ポケットから紺色の紙箱を取り出した。
両切りのピース。タール二十八ミリグラム。
そのまま吸えば肺が焼け付くような重い煙と、刻んだ葉が口に飛び込んでくる不快感が否応なく味わえる。唇に唾液が溶けた巻紙が付着するオマケ付きで。
だから私は薬局の隅で売られている百円の、透明なプラスチック製の使い捨てフィルターにそれを差し込む。値段相応のフィルター。使用感は、恐らく殆ど濾過されていない。
それがいい。
ニコチンが欲しいのだ。アタマとココロに深く染み込むボディーブローのような、質量すら感じるそれが欲しいのだ。
使い捨てライターの火を近づけ深く吸い込む。濃厚な、あまりにも濃厚なバニラと蜂蜜の香りが、バージニアの葉を蹂躙するような濃厚な煙が、ここまで聞こえるアジテーションの埃っぽい空気のノイズを一瞬、塗りつぶした。
世界は、あまりにも見通しが良すぎる。
一年次修了時に申請したダブルメジャー。主専攻と第二専攻の単位を上乗せして修得する必要があるけど、『こんな状態になった私の頭』を虐めるのには丁度いい。目標がないから取得しない理由にはならない……という綺麗なナラティブではなく、ただの自傷癖じみた動機だ。
大学の正門へと続く坂道は、アスファルトの照り返しで歪んでいるかのように見える。壁に並べられた空虚な立て看板の文字が熱で溶け出しているかのようだった。
新しい看板がまた増えている。この暑い中、連中が汗をかいて作ったとは思えない。ライフライン、特に生命維持装置であるエアコンの電源の供給を断たれていない恵まれた環境だけを享受して、今日も連中は元気な事だ。
「帝国主義的大学解体を我が手に」
「全学連、連帯のストライキへ」
正門を潜るなりこれだ。
『お揃い』のドカヘルを被った男たちの声は、拡声器のハウリングと混じり合い、暑く粘り気のある空気の中で不快なうねりを生んでは撒き散らしていた。
私は休講が続く大学には惰性で通う。今の日本ではまともに学べる最高学府は先日の新聞の報道だと6割程度だと聞いた。
――――そういえばあの新聞……古新聞のラックに放り込んだっけ?
旧講義棟の非常階段。その踊り場に腰を下ろしている。休講だというのに顔を出して、予想通りにやる事が無かったのを確認しているだけの無為な時間。何かしていなければ人生やニンゲンと言うモノを考え過ぎてしまう。不安に飲み込まれるのを紛らわせるだけの時間。
明確に行く当てのない自分にはこの日影は助かる。エアコンの効いた『居心地のいい場所』ほど、あの酔い痴れているだけの連中の屯場として占拠されている。連中が打倒したいと願う為政者は、連中のライフラインを途絶させていないと言う事がどういうことなのかを理解していない。つまり連中はまだ為政者のコントロール出来る範囲内に居るのだ。
こんな時、『実家が太い』という私的な背景という事実は、実に機能的な免罪符になる。実に業腹ながら、その恩恵だけは頂戴する。
地価の高い閑静な住宅街にある、庭師が定期的に来るような家。そこから毎月、私の口座には二十一歳の女子大生が消費し尽くせるはずのない額の、しかし彼ら運動家気取りが命を懸けて呪詛する資本主義の血そのものである仕送りが振り込まれる。彼らは『万民が裕福になるための運動』が成功すれば、再建と維持の為にどれだけの血税が投入されるのかが計算できない。
大学が活動家気取りたちによって封鎖されようが、休講が何ヶ月続こうが私の生活には一ミリの亀裂も入らない。就職活動の焦りもない。何もしなくていいという、果てしのない真空の虚無だけがそこにあった。傍から見ればモラトリアムを貪っているだけのノンポリの典型だろう。そう思っていてくれた方がこちらも楽だ。
――――ドーパミンとノルアドレナリンの過剰駆動を思想の深さと勘違いしている。
小さく心の中で呟いた。
やや湿り気を帯びた熱い風が非常階段の隙間を笛を吹くようにすり抜け、私の顔を撫でる。階段のお気に入りの高さで腰を下ろすと、ポケットから紺色の紙箱を取り出した。
両切りのピース。タール二十八ミリグラム。
そのまま吸えば肺が焼け付くような重い煙と、刻んだ葉が口に飛び込んでくる不快感が否応なく味わえる。唇に唾液が溶けた巻紙が付着するオマケ付きで。
だから私は薬局の隅で売られている百円の、透明なプラスチック製の使い捨てフィルターにそれを差し込む。値段相応のフィルター。使用感は、恐らく殆ど濾過されていない。
それがいい。
ニコチンが欲しいのだ。アタマとココロに深く染み込むボディーブローのような、質量すら感じるそれが欲しいのだ。
使い捨てライターの火を近づけ深く吸い込む。濃厚な、あまりにも濃厚なバニラと蜂蜜の香りが、バージニアの葉を蹂躙するような濃厚な煙が、ここまで聞こえるアジテーションの埃っぽい空気のノイズを一瞬、塗りつぶした。
世界は、あまりにも見通しが良すぎる。
一年次修了時に申請したダブルメジャー。主専攻と第二専攻の単位を上乗せして修得する必要があるけど、『こんな状態になった私の頭』を虐めるのには丁度いい。目標がないから取得しない理由にはならない……という綺麗なナラティブではなく、ただの自傷癖じみた動機だ。
