♯003(2025.6.21)
ユキがネットに独自の資料を投稿してから数日後。
警察から新たな情報がもたらされた。……厳密には付近で同じケースの犯罪が発生したので、警らの警察官が注意喚起として家屋を一軒一軒、訪ねているのだ。その時の会話の断片をつなぎ合わせる。
警らの警官の微表情を読み取りながら会話を自分に有利な方へ誘導し、情報の一端を少しずつ拾う。……後に、親切な警官に対して微表情を読んで、小賢しい話術をけしかけて情報を引き出そうとする真似をして罪悪感に悶えることになる。
ユキが襲われた場所と酷似した場所で、別の女性が襲われる事件が発生。幸い、その女性は無事だったものの、犯人たちは依然として逃走中だという。
「やはり、あの男たちは常習犯だったんだ……」
被害者のプロファイルは不明だが、それを含めない自分のプロファイルが大きく外れていないことが、逆に怖くなる。プロファイルが大きく外れないということは、これから起きる可能性の幅が限定できて犯行を止める事も可能になるが、民間人で司法権がない自分には何もできない。
ユキは唇を噛みしめた。自分の予想が当たってしまったことに、複雑な感情を抱く。……この世には当たってほしくない確率があるのだ。
────警察の捜査だけでは、あの連中を捕まえることは難しいのかもしれない。
ふと、そんな考えが脳裏を過る。
それから4日後の夜、ユキは再びアルバイトの帰り道……例の路地を避けて大通りを通ることにした。けれど、大通りは街灯も多く、人通りもそれなりにあるため、安全だと油断していた。
その時だった。
「よお、嬢ちゃん。この間は、とんでもない真似してくれたな」
背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。
ユキは脊髄反射的に振り返った。振り返ってはだめだと大脳辺縁系は叫んでいたのに、生理的反応をしてしまった。
そこに立っていたのは、先日ユキを襲った男たちのうちの一人だった。顔には黒い使い捨てマスク。目を見れば、歪んだ笑みを浮かべているのが分かる。
やや体の中心線が歪んでいる。あ、とユキは男と目が合うと……自分よりも頭一つ大きな男と目が合うと、意外なほど冷静に、体幹のブレを見抜いた。
────足を撃たれたから真っすぐ立っていると痛むんだ。
右足のジーンズのふくらはぎに不自然な膨らみが有った。そこが負傷箇所で包帯を巻いているのだろう。
「てめえ、よくも俺の足を……!」
男はそう叫び、ユキに向かって駆け寄ってきた。足を負傷していても5mの距離を一気に詰めるには問題ない痛みらしい。
ユキは一瞬にして身体が硬直した。まさか、こんな場所で、再び彼らの一人に遭遇するとは。
けれど、次の瞬間、ユキの身体は反射的に動いた。
トートバッグからS&W M351cを抜き放とうと手を差し込む。それを見た男たちは顔を後ろへそらし気味になり、急ブレーキをかけて停止した。怒りに狂った血走った目でユキを睨んで何事か罵声を吐いて、雑踏に向かって消えた。
男たちが目の前から雑踏へと向かって消えた。
────まさか……ね。
自分でも恐ろしいほどに頭が冴えてくる。
危険な目に遭うのに慣れたとか、対処能力が向上したとか、そのようなフィジカルな側面での変化ではない。
男たちは恐ろしいが、『犯罪者として見た場合、意外なほど小物だった』と確信したのだ。
根拠は今の反応だ。
人混みを歩いているから銃を持っていても撃たないだろうとたかを括っていたのに、大脳辺縁系に支配されたユキの表情は恐らく『脅威を排除する機械』のように冷徹な顔をしていただろう。……それは、明確な殺意。無意識に抱いた、殺意の籠もった目。
連中は、人混みの中でもこの女は銃を抜き即座に撃ち殺すと思い込んで、度肝を抜かれて驚愕し、急ブレーキをかけて逃げ出した。
衆人環視の中でも自分たちの優位性のアピールを怠らないのは、彼らに『過去に、同じ状況で仕返しをした時の成功体験』が何度もあるからだろう。
その上、2人並んでいつも同じ登場。……これも特徴的だ。男2人が並んで視界に入るとそれだけで圧迫感がある。圧迫感を感じる人間は途端に不快を覚えて防御的行動に出る。
その場合、様々な防御行動が予想されるが、その辺りも男たちは成功体験から学んでいた。被害者は思わぬ場所で自分を襲った犯人と出会うとパニックで思考が停止し、認知機能も著しく低下する。……自分たちがトラウマを確実に植え付けたという自負だ。
男たちの成功体験が、ユキが銃を本気で抜いて本気撃つ『顔と眼』をしていたので、自分たちは踏んではいけない獣の尾を踏んだのだと悟り、脱兎のごとく遁走した。
男たちは使い捨てマスクのお陰で素顔は相変わらず分からずじまいだが、ユキは2つの意味で大きく驚かなかった。
一つは男たちは小心者で普通の人間だということ。
もう一つは、言語化の効果だ。見えない不安を抱えているのだから見えるレベルまで不安を可視化させて対応対処を考えあぐねて、善後策とする。先制の予防はネットに流布している。『自分が必ず狙われることだけに、連中の意識を集中させていれば』、一瞬で脳が旧い脳の塊である大脳辺縁系に支配されても、何もできない小娘のように泣き崩れることもない……。
和喫茶で湯呑茶碗と語りながらメモに書き留めた内容を整理したジャーナリングは心理的に大きな武器となったのだ。
その後、ユキは自宅に無事に帰宅。後ろ手に鍵をかけた途端、風船が高速で萎むようにその場に座り込んで腰を抜かしてしまった。
方法論が判明しても、胆力もそれで強化されたわけではない。彼女も普通の人なのだ。
3日後。バイトの休憩時間。
全国チェーンのファミレスで夜11時まで働いている。その休憩時間に、寸暇を惜しむように、自らのプロファイリングを形作るためにメモ帳にペンを走らせる。
「?」
────これは……!?
プロファイリングの最中にとあることに気づく。
統計から犯人像を割り出すリバプール式プロファイリングよりも、その元祖のFBI式プロファイリングの方が割と簡単に『読めていた』事に気がつく。犯人の男たちの襲撃を直接受けていたから得られた情報も多い。
今まで人力としては最新のプロファイリングの手法あったリバプール式プロファイリングに当て嵌めて犯人像の特定に注力していたが、自分のルールに固執し、さらに博打の成分まで要求する犯人なら、『今でも、時代遅れでも進化を続けている』FBI式プロファイリングのほうが犯人像を割り出しやすいのではないか? と考えが及んだ。
映画やドラマのようにプロファイラーは捜査の最前線に出ないし、取調室で心理分析はしない。FBI式は殺人が多発する大都会よりも寧ろ、人口密度が薄く、殺人事件が少ない地方の警察でこそ役に立つ。
大都会なら殺人事件のノウハウを経験で会得した捜査官が多い。却って、田舎では事件が滅多に起きないからこそ、起きた時に脆弱になる。
そんな経験の少ない捜査官しかいない警察署でも一定のテンプレートに当て嵌めて操作を潤滑にするのにFBI式は有用だった。
後にFBI式を発展改良させたリバプール式が登場しFBI式は旧い技術となるが、滅んだ技術ではなかった。
ユキが注目した点は、犯人の男たちが衆人環視の中でも堂々と現れた場所。頭の中で近隣の地図を広げる。
コールサック効果とサークル円仮説を踏まえる。
男たちは自分達の性的嗜好に則ったルールを持つ。狩り場で罠を張り、どんな獲物が罠に掛かるかを楽しんでいる。……尚且つ、姿を隠す事は厭わず、ユキの前に再び現れてお得意の男性的優位性を発揮しようとした。それも過去の成功体験に基づいた行動だ。
被害者を弄んだだけでなく、心が疲弊していく様子を楽しむタイプ。
『普通ならば、そんな拗れた嗜好傾向を持つ人間はそうは居ない』。レアな嗜好を持つ2人が出会って犯行が簡単に起こせるようになり、また隠匿隠蔽のための工作も簡単になった。
……恐らく、警察も同じプロファイルを組み立てているだろう。
それでも進捗が芳しくないのは、『拗れた性的嗜好をした犯人』が一人でもう一人は単なる便乗の協力者だと想定して捜査をしているからだろう。
プロファイル……だけではなく、人の心を読むのを間違えると際限無く間違えた判断しかできなくなる。
屡々、世の多くの心理学者が内心で、「我々心理学者は必要以上に人の心を読む」と戒めを言い聞かせているほどだ。
ユキはメモ帳をめくり新しいページに今気づいた点のまとめを書き殴る。
唇の端に小さな笑みがこぼれる。
────この犯人たちは……近所に住んでいるタイプの物静かな人間だ。それも中流階級の人間で一般教養は低いけど、応用する知能は高い。『足し算を覚えると掛け算の存在に気がつくタイプ』の認知能力を持っている。
FBI式で言えば秩序型で無秩序型の類型。……犯人は秩序型か無秩序型か? そして現場の様子は秩序型か無秩序型か? ……これがFBI式プロファイリング大きな功績であり特徴だ。
典型的な秩序・無秩序型。
自分達のルールという秩序を持っていながら、獲物を狙う基準は博打性の高い嗜癖が働いている。
それならば、被害者として、ユキも納得する点が多かった。
当初は偶々、被害に遭っただけだと思っていたが、その後の男たちからの接触が不自然過ぎてずっと気になっていた。
過去の経験や知識を元に、冷静に心理状態を読み解いて、あるいは雰囲気だけで理解して、被害者の前に姿を表してトラウマを植え付けて楽しむ様はメインデッシュの後に極上のデザートを楽しむようなものだ。
それを例外的に崩壊させたのがコンシールドキャリーライセンスを持っているユキだった。
連中の過去の事例に、『被害者が反撃してきた。被害者が怯まなかった』ことは無かったのだろう。
ユキは限のいいところまでメモ帳を埋めて、ホールに戻った。
翌々日。午前9時。本日は午前はすっぽりと休講で自宅で籠もっていた。
男たちのお礼参りが怖いのではなく、男たちの行動範囲を絞るのに前頭前野をフル稼働させていた。
今初めて、目的を持って生きている。
生きていると実感できる。
何の目標もなく、親に言われるままに大学を受験して、合格して、ルールを知らないゲームのスコアボードを記録するような退屈な講義をノートに書く毎日だった。
それが、たった一回の性犯罪の未遂の当事者になっただけで日を追うごとに変化してきた。
毎日書いている日記を読んでも、当初は精神的ダメージが大きかったのに、日を追うごとに『自分でもできること』『自分だからできること』を模索し始めて、とうとう能動的に、犯罪者に対して講義で聞いて忘れていた知識だけで戦おうとしている。
現在の作業は近隣の地図を広げて『通勤型』ではない、『拠点型』と想定して犯行現場の次を割り出そうとしている。
これもFBI式プロファイリングの功績の一つだ。
犯人個人の特定はドラマのようにいかないが、犯人の属性や集団や性格から逆算した居住地域を割り出そうと必死だ。
そろそろ梅雨時で、じめじめした嫌な季節が来る。何故か心の中で、梅雨が訪れるまでに眼の前の資料を仕上げて地方のネット掲示板に投稿して注意喚起をより一層喧伝しようと誓う。
……ユキは自覚していない。
自分が生まれて初めて打ち込めるものと出会えたことに。
3日経過。
夜8時。近隣のパトロールが増強される。
ユキは思わず親指の爪を噛んで眉間にシワを寄せる。
これでは犯人を刺激してしまう。
自分の思考が本末転倒なのは理解している。犯罪は防ぐのが第一だ。だが、防がれては自分のプロファイリングの精度が試せない。
地方版の掲示板や新聞を見ても、自治体の警察本部が外注で作らせた防犯アプリの事件事故情報を見ても、この3日間で性犯罪全般がひっそりと鎮まった。
それこそ地元警察の本懐。それでこそ税金を払っている甲斐がある。
そして発生するアンビバレンス。
このままでは自分の力で描いたプロットが試せない。
小さく「よし……」と呟くと、ユキはトートバッグを見る。そこには愛用のS&W M351cが放り込まれたままだ。
彼女はこの日を境に、物理的に能動的行動に出た。
……まずは部屋の片付けだ。
ここ暫く、男たちの動向が恐ろしくてなんとか自力で先読みをして自分だけでも、自分の近所だけでも防犯効果を高めたくて、大量のメモパッドを書きなぐり、プリントアウトしたコピー用紙を未整理のまま部屋中に放り出していた。その様はとても女子大生の部屋の雰囲気とは遠い惨状だった。
「さて、片付けますか」
梅雨到来。
夜11時。
やや強めの雨。
無風。湿度が高い。夜間ゆえに黄色い雨合羽を着込んでいたが、寧ろ、雨合羽を着ているからこそ不快が増すのではないかと思ってしまう。
その姿のままコンビニに入り、店内で雨合羽を脱いで業務用の空調とエアコンの恩恵に預かる。しばし体を冷やして、化粧品や夜食の菓子パンや缶ビールを買ってコンビニを出る。
左手にコンビニのレジ袋を提げて、夜道を行く。この辺りは犯罪が割と発生していないので安心して歩けるが、やはり、夜中に一人で歩きたいとは思わない。……普通ならば。
防犯ミラーや家々の窓ガラスや雨戸が偽装された防弾仕様が流行りだしたのも頷ける。
最近は非合法に流通する銃火器の単価も下がってきている。日本がコンシールドキャリー法を導入する切っ掛けは、諸外国の犯罪組織が日本を最大の市場と目論んで橋頭堡を確保したことが直接の原因だ。
自宅からは少し離れたコンビニで買い物を済ませる。
『少し離れたコンビニ』という条件が必須だ。
ユキは……黄色い雨合羽を着ているとは言え、全身を雨に打たれながら、不快指数が高い夜の不穏な道を歩く。足元は外灯で照らされているとは言え、この道の先は得体のしれない巨大な何かが大きく口を開けて待っているような錯覚がした。
プロファイルでの適合率が非常に高くなる条件は今日が最適だった。
何処の誰がズバリ犯人であると的中させるのはドラマの主人公だけだ。結局、何処の誰が犯人なのかは分からずじまい。……しかし、類型自体は古典的なFBI式プロファイリングと普遍的な社会心理学を組み合わせてプロットを考えて書いた。
そもそも、メタ解析が侵入しつつあるリバプール式プロファイリングは民間人の力では不可能だ。
夜。雨。人通りが少ない。近くに旧い墓苑と雑木林、大きな人家は庭も広く隣家同士の物理的感覚が広い。
防犯ミラーが多い。
コンビニや、社会実験で導入されている防犯カメラの死角になる路地が多い。
ユキは脳裏で近隣の地図を広げていた。
住んでいる自宅のハイツから少し離れているので、この辺りでの土地勘はない。
ユキが当初に講じたSNSやネットの地方掲示板を用いた防犯に関する注意喚起。その中でも、『この地区だけは、注意喚起を促す投稿は途中でやめていた』。
腕時計を見る。
午後11時15分。
統計的にはそろそろ『怪しい時間帯』となる。
ユキはこの自治体の中でも、この地域一帯を根城に犯人の男たちがうろついていると断定した。男のどちらかが土地勘があると断定していた。
『通勤型』と『拠点型』の連続犯罪者が手を組んでいると見た。
地元の知識量で言えば『通勤型』よりも『拠点型』のほうが上だ。どちらが主導しているかは不明だが、『拠点型』の男が土地勘を活かして獲物の狩り場を探しているのだろう。
その『拠点型』の男に誤った判断を下させるためにSNSでの情報提供を止めたのだ。
『この地区は誰も警戒していない。狙い目だ』と。
事実、SNSや地方掲示板の効果なのか、この状況と似た地区には警らの警官が時間不定で巡回しており、犯罪が発生するリスクは大きく減っていた。
ユキの目が暗く沈む。
心に黒いガスのような塊が湧き出るのを感じ入る。
警察に通報すればそれで解決なのに、自分は自分の……初めて自主的に本気で打ち込んだ仮説の証明を立証させるために、非常に危険で無責任な行動を起こそうとしている。
法的な解釈の仕方ではユキが起こそうとしているのは『ライセンス』が無ければ許されない行為だ。
コンシールドキャリー法と同時に導入された新法『バウンティハンター法』。
文字通りの、みなし公務員としての賞金稼ぎだ。
警察の絶対数的な人員不足を準公務員と同等の資格を与えて、犯罪の抑止力を期待して法案が可決された。
そのバウンティハンターのライセンスを取得していないユキがこのように能動的に『犯人と思しき人物』を個人で『能動的に抑止』しようとするのは限りなくグレーだ。……バウンティハンター法もまた、未完成ゆえに抜け穴だらけの法律なのだ。その穴を突いたにすぎない。
ユキは『自分を餌に自分を襲った男たちだけ』を安っぽい正義感と未熟な精神と子供の理屈で『仕返し』さながらに行おうとしている。
「……」
雨が少し弱くなる。
撥水スプレーを振りかけた靴は既にずぶ濡れで不快感の権化として足を重くしていた。
そのユキが、不快感に悩まされるユキが、小さな、水が跳ねる音を聞いた。
……それは異質な、少なくともユキが聴く限りでは異質な水の音だった。
『あたかも、足音のように近づいてくる』。
やや歩行速度を落とす。口を閉じ、すうと鼻から息を吸う。腹式呼吸。4秒ゆっくり吸い、4秒息を止め、8秒かけてゆっくり息を吐く。
それを3回。
ふと、立ち止まる。振り返らない。普段からストレス解消で行っていた呼吸法が自然と行われて、高ぶり始める神経がノイズを含まなくなり、カミソリのように鋭くなる。
ノルアドレナリンとアドレナリンをセロトニンで抑えつける。沸騰しつつ有った鳩尾の辺りが急激に冷える。
知らぬまに覚えていた喉の渇きや早い呼吸の回数も落ち着く。
────ようやく、『試せる』……。
ユキは心の中で微笑を浮かべる。
ひりつくようなスリル。
実践でしか試せない仮説。
これを為したから何かを得るという損得勘定ではない。
大袈裟に言うのなら、この世で自分の存在を証明するチャンスを自力で見つけて、自力で思案し、自力で試せて、成否に問わず満足のいく行動ができたと自分で自分を褒めることができる。
全くの勝手な理屈。子供。未熟。無責任。
暗い道。街灯の間隔は同じでも光量は低い。……これも条件の一つ。
ユキは不意に走る。前方に向かって。
雨で濡れて重たい衣服に構わず、左手に提げたコンビニ袋を放り出さず、走る。
脳内に展開する近隣の地図。そこへ自分が書き込みをしたレイヤーを被せる。
足音が追跡してくる。歩幅が広い。足音が重い。男、一人分。視認していないので距離は不明だが10m以下の位置に居ると思われる。その足音は、間隔を狭めるように全速力だ。
ユキは雨合羽のフードの下でにやりと笑う。
実に悪いニュアンスを含んだ微笑みだ。
自分が悪魔に変貌しているのに気がついていない微笑みだ。
自分の心に背徳を好む何かが萌芽したことを悟っていない微笑みだ。
ユキは突如、全速力で走る。
男と思しき足音が水溜りを蹴って走り出す。1人分の足音。独りで来たか? 別の不審者か?
人間とは不思議なもので、衆人環視の中ならば唐突に現れて声を発するだけの度胸がある。反して、人に危害を為したことのある人間は夜だと逆に縫ったように口が開かない。
言語化できる理由は様々だが、心理的理由から観察すると、明らかに『この騒ぎを知られたくない』心理が働いているのだ。
雑踏の中で声をかけた男は今は静かに追跡している。あの時のように乱暴に呼び止めたりしない。
ユキは旧い墓苑の入口まで来るとゲートが閉まって入ることができないこの場所で、急停止し、きびすを返し、追跡者に向かってコンビニ袋を突然、投げつけた。
男は……特徴的な黒い使い捨てマスク。否、黒い使い捨てマスクをしているからこそ、耳たぶや眉目の形を集中して覚えやすいので、その男が、ユキを襲おうとした男たちの一人だと瞬間に分かった。
男は女の細腕で投げつけられた、大した威力のないコンビニ袋を足元に叩き落とすと、尻のポケットにでも突っ込んでいたのか、刃渡り15cmほどの包丁を抜き出す。包丁の刃を包んでいた新聞紙が水たまりに落ちて泥水を吸う。
脂が浮いた包丁。魚や肉しか捌いたことがない……ということを期待しよう。間違えても人を捌いたことはないと信じたい。
冷える腹の底。ユキはアドレナリンの分泌を全身で味わっていた。
恐ろしい男が目の前に居る。
自分に危害を与えた男と対峙している。
勝算はあるが約束された勝利は存在しない。
彼我の距離6m。
じりじりと詰め寄る男。
じりじりと後退りするユキ。
唐突にユキの雨合羽の右手側のポケットが2度、破裂した。風船が爆ぜたように、ポケットの樹脂の生地がちぎれて勢いよく吹き飛ぶ。
途端、目前の男の足元に落ちていたコンビニ袋から缶ビールの内容物が噴出し、男の視界を塞ぐ。ポケットの中で右手で握り続けて、まさに今のために待機させていたS&W M351cを右手側のポケットの中で発砲したのだ。2発の22WMRのうち1発が未開封の缶ビールに命中し、破裂したように内容物をぶちまけた
シリンダーギャップから吹き出る高熱のガスで火傷しないように軍手をしている。
更に発砲。1発。
22マグナムは違うことなく、男のへその上辺りに命中し、急激に脱力したように濡れた地面に倒れ込む。うめき声からして即死には至らない。22マグナムでも単純なエネルギーは、今では諸外国では対人停止力が低くて時代遅れの32ACP程度の威力だ。
そしてユキは『次に訪れる恐怖に対してこそ、博打を打った』。
『さあ、次は何処から出てくる?』と、その場で蝋人形のように固まる。全身の神経を集中させて気配だけで辺りを伺う。背中にも目がほしい。
心拍亢進。動悸。口渇。ヒステリー球。聴覚の狭窄。瞬きの頻回。扁桃体が急激に騒ぎ出したものだから交感神経が優位に立ちすぎて自律神経が激しく乱れる。
今の自分はどんな顔をしているだろう?
次の瞬間。
次の瞬間が永遠に思えるほどに長かった。
────『自分ならこうする』と考えてはダメ。『自分はこうされたら嫌だ』と考えて!
脳内ではその問答が超高速で反芻思考している。時間感覚があやふやになる錯覚がする。
訪れる『次の瞬間』に対して、ギャンブル的な享楽を感じてドーパミンサイクルが回ろうとしてる。
ほんの数秒。
……長かった。
ユキは左肩を叩かれた。
全身が過剰に跳ねて、それを待っていたのにも関わらずに、酷く驚愕した表情で素早く振り向いた!
しかし、その左肩を押さえつけられ、完全に振り向くことができない!
「よお……」
もう一人の男の声が粘っこく耳の奥に侵入してくる。
生理的反応でユキは体を反対側へと捻ろうとするが、男の力は強力で、ユキを自分の方へと向けた。
今しがた目の前で仲間の男が拳銃で撃ち倒されたというのに迷いがない!
敵意や殺意というより憎悪を気配で感じる。散々恐怖を与えてから息の根を止めてやろうと考えているのか。
「!」
ふと、男は抑えていたユキの左肩を解放した。
ユキは筋肉の強張りから反跳するように、自ら進んで体を右回転させるように彼の真正面に体を向けてしまう。筋肉のこわばりが生む反跳運動だ。
────しまった!
男の考えが分かっていながらも、このままでは右手を封じられて致命的な負傷を与えられる! ……と感じながら、ユキは呆然と男の黒い使い捨てマスクの顔を見た。
しばしの沈黙。
見つめ合う2人。
一方は恐怖に怯み。
一方は完全な優位性を初めて誇った目をしている。
ユキの右手はこの男によって手首付近を掴まれて、男に銃口を向けることができない。男の屈強な膂力で銃口が明後日の方向に向けられている。
男の目に勝利とその先の陶酔が浮かぶ。
ドス……。
男は右手にいつの間にか握っていた包丁をユキの腹部に突き刺していた。
男の目は狂喜に見開かれる。……が、すぐにその顔には焦りと疑問が浮かぶ。
ユキは、男の完全な勝利を確信した顔を確認してから、『行動を起こした』。
右手首を内側へと大きく捻り発砲。
この角度なら銃弾は空を穿つ。だが、目的は銃弾の命中ではない。
「ギャッ!!」
男は怪鳥のような叫び声を挙げた。
ユキの右手を掴んでいた男の左手首にはS&W M351cのシリンダーギャップから発砲時に発生する、高熱の凄まじい圧力のガスが叩きつけられて大火傷を負う。男は堪らずユキから体を離し後ろへ大きく後退りする。『火傷の部位を押さえながら』。
ユキの『腹には包丁が垂直に突き刺さったままだった』。
その光景が信じられないと言う顔を顔面に貼り付けたまま、2m向こうからユキの22マグナム弾を臍下辺りに叩き込まれて、次々と糸が切れていく操り人形のように地面に沈んでいく……。
この男も先程の男のように地面に伏したまま呻き声を上げる。時折呪詛を含んだ言葉が聞こえるが、腹膜付近に穴を開けられているのでまともに声が出ない。
「……」
────危なかった……。
────本当に役に立つとは思っていなかった……。
ユキの雨合羽の腹部に突き刺さったままの包丁。
ユキは辺りに視線を走らせる。
もうそろそろ、近隣住民に通報される時間だろう。
そんなことよりも……。
「!」
────よし!
ユキの視線の先には防犯カメラ……を映す防犯ミラーが有った。
コンシールドキャリー法の大前提は防衛のための発砲で、正当防衛が立証されなければ過剰防衛やオーバーキルで裁判に負けてしまう。
それを防ぐために、人気が少ないながらも、あらゆる角や辻に設置された防犯カメラや防犯ミラーを介して、男たちの犯行の一部始終がカメラに収まるように位置を移動していた。
実際に身を守るために『襲われてから』発砲したという明らかな証拠が必要だ。
その証人として一台の防犯カメラを映す防犯ミラーから姿を消す真似はしなかった。
これらも全て、脳内に叩き込んだ近隣地図を精査した賜物だった。
その際に大量に生み出すことになったコピー用紙や走り書き用のメモパッド。これらを集めて束ねると実に厚さ4cmにも達していた。
その燃えるゴミである使用済みのコピー用紙やメモパッドをガムテープで束ねて繋げて、A3サイズの大きさにして腹部全体を守る即席の防具として衣服の下に仕込んでいた。
ユキが行動に出る日に掃除を思い立ったようにしなかったら、この防具のアイデアは思いつかなかった。
更に、自分が窮地に陥るのは計算してあったが、どのような状況でどのような反応をすれば『自分よりも力が強い男はどのような暴力を行使するか』も十分に検討を重ねていた。
ユキは腹部に刺さった……コピー用紙の束に刺さった包丁を抜いて静かに地面に置く。S&W M351cにはまだ2発の22マグナムが未使用のまま収まっている。コンシールドキャリー法では携行弾数にも制限があり、激しい銃撃戦が行いにくいように考案されている。
正当防衛成立。
『拠点型』の男の方を中心にプロットを立てて正解だった。
犯罪者が全国的に増え、この地区も例外ではなかったが、特殊な性癖と性的嗜好を同じくする2人組の男の犯罪者はかなりレアなケースで、寧ろ、高度なプロファイリングよりもデータ解析に頼らない古典的なプロファイリングのほうが当て嵌めやすかった。
その証左が、今、ユキが生きている証拠だ。
何もかもがユキの掌の上ではなかった。統計と確率に頼った、それこそ『精度の高い博打』に頼った危うい部分もあった。
終わってしまえば何ということはない。
この通り、犯人たちは伏せたまま動けないでいる。
こうして、ユキは勝利と満足感に包まれながら、パトカーのサイレンを聴いていた。
パトカーのサイレンすら祝福のBGMに聞こえていた……。
ユキのプロットは大雑把な割り出ししかできないプロファイリングで、特定の嗜好と思考を行動教義にする犯人を警察に引き渡すという、華々しい成果を残した。
犯人が同じ狩り場で獲物に対して不確定性を求めるある種のドーパミン的依存に酔うタイプでなかったら……こうは上手く進まなかっただろう。
そして、ユキは自らの自惚れを思い知ることになる。
連続犯罪とはいえ、性犯罪と傷害のみの犯罪者は服役期間が短く、中毒性が高い故に再犯の確率も高い。
ユキが出所した男たちに復讐を計画されるのは想像に難くなかった。
これもまた、コンシールドキャリー法が生み出した闇の部分であった。
犯罪者を捕まえて恨まれるのは警察官だったのは今は昔になりつつある。
コンシールドキャリー法を行使した民間人が復讐の対象となり、今度こそ本当に一生物の心の傷を負わされ、一生、影に怯える社会問題が生み出された。……これは後年に成立する『民間警察法』の萌芽となる。
日本国内での拳銃所持の解禁はまだ尚早だったと国会で屡々議論に上がったが、その頃には後戻りできない惨状が国内を席巻していた。
《習作#3・了》
警察から新たな情報がもたらされた。……厳密には付近で同じケースの犯罪が発生したので、警らの警察官が注意喚起として家屋を一軒一軒、訪ねているのだ。その時の会話の断片をつなぎ合わせる。
警らの警官の微表情を読み取りながら会話を自分に有利な方へ誘導し、情報の一端を少しずつ拾う。……後に、親切な警官に対して微表情を読んで、小賢しい話術をけしかけて情報を引き出そうとする真似をして罪悪感に悶えることになる。
ユキが襲われた場所と酷似した場所で、別の女性が襲われる事件が発生。幸い、その女性は無事だったものの、犯人たちは依然として逃走中だという。
「やはり、あの男たちは常習犯だったんだ……」
被害者のプロファイルは不明だが、それを含めない自分のプロファイルが大きく外れていないことが、逆に怖くなる。プロファイルが大きく外れないということは、これから起きる可能性の幅が限定できて犯行を止める事も可能になるが、民間人で司法権がない自分には何もできない。
ユキは唇を噛みしめた。自分の予想が当たってしまったことに、複雑な感情を抱く。……この世には当たってほしくない確率があるのだ。
────警察の捜査だけでは、あの連中を捕まえることは難しいのかもしれない。
ふと、そんな考えが脳裏を過る。
それから4日後の夜、ユキは再びアルバイトの帰り道……例の路地を避けて大通りを通ることにした。けれど、大通りは街灯も多く、人通りもそれなりにあるため、安全だと油断していた。
その時だった。
「よお、嬢ちゃん。この間は、とんでもない真似してくれたな」
背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。
ユキは脊髄反射的に振り返った。振り返ってはだめだと大脳辺縁系は叫んでいたのに、生理的反応をしてしまった。
そこに立っていたのは、先日ユキを襲った男たちのうちの一人だった。顔には黒い使い捨てマスク。目を見れば、歪んだ笑みを浮かべているのが分かる。
やや体の中心線が歪んでいる。あ、とユキは男と目が合うと……自分よりも頭一つ大きな男と目が合うと、意外なほど冷静に、体幹のブレを見抜いた。
────足を撃たれたから真っすぐ立っていると痛むんだ。
右足のジーンズのふくらはぎに不自然な膨らみが有った。そこが負傷箇所で包帯を巻いているのだろう。
「てめえ、よくも俺の足を……!」
男はそう叫び、ユキに向かって駆け寄ってきた。足を負傷していても5mの距離を一気に詰めるには問題ない痛みらしい。
ユキは一瞬にして身体が硬直した。まさか、こんな場所で、再び彼らの一人に遭遇するとは。
けれど、次の瞬間、ユキの身体は反射的に動いた。
トートバッグからS&W M351cを抜き放とうと手を差し込む。それを見た男たちは顔を後ろへそらし気味になり、急ブレーキをかけて停止した。怒りに狂った血走った目でユキを睨んで何事か罵声を吐いて、雑踏に向かって消えた。
男たちが目の前から雑踏へと向かって消えた。
────まさか……ね。
自分でも恐ろしいほどに頭が冴えてくる。
危険な目に遭うのに慣れたとか、対処能力が向上したとか、そのようなフィジカルな側面での変化ではない。
男たちは恐ろしいが、『犯罪者として見た場合、意外なほど小物だった』と確信したのだ。
根拠は今の反応だ。
人混みを歩いているから銃を持っていても撃たないだろうとたかを括っていたのに、大脳辺縁系に支配されたユキの表情は恐らく『脅威を排除する機械』のように冷徹な顔をしていただろう。……それは、明確な殺意。無意識に抱いた、殺意の籠もった目。
連中は、人混みの中でもこの女は銃を抜き即座に撃ち殺すと思い込んで、度肝を抜かれて驚愕し、急ブレーキをかけて逃げ出した。
衆人環視の中でも自分たちの優位性のアピールを怠らないのは、彼らに『過去に、同じ状況で仕返しをした時の成功体験』が何度もあるからだろう。
その上、2人並んでいつも同じ登場。……これも特徴的だ。男2人が並んで視界に入るとそれだけで圧迫感がある。圧迫感を感じる人間は途端に不快を覚えて防御的行動に出る。
その場合、様々な防御行動が予想されるが、その辺りも男たちは成功体験から学んでいた。被害者は思わぬ場所で自分を襲った犯人と出会うとパニックで思考が停止し、認知機能も著しく低下する。……自分たちがトラウマを確実に植え付けたという自負だ。
男たちの成功体験が、ユキが銃を本気で抜いて本気撃つ『顔と眼』をしていたので、自分たちは踏んではいけない獣の尾を踏んだのだと悟り、脱兎のごとく遁走した。
男たちは使い捨てマスクのお陰で素顔は相変わらず分からずじまいだが、ユキは2つの意味で大きく驚かなかった。
一つは男たちは小心者で普通の人間だということ。
もう一つは、言語化の効果だ。見えない不安を抱えているのだから見えるレベルまで不安を可視化させて対応対処を考えあぐねて、善後策とする。先制の予防はネットに流布している。『自分が必ず狙われることだけに、連中の意識を集中させていれば』、一瞬で脳が旧い脳の塊である大脳辺縁系に支配されても、何もできない小娘のように泣き崩れることもない……。
和喫茶で湯呑茶碗と語りながらメモに書き留めた内容を整理したジャーナリングは心理的に大きな武器となったのだ。
その後、ユキは自宅に無事に帰宅。後ろ手に鍵をかけた途端、風船が高速で萎むようにその場に座り込んで腰を抜かしてしまった。
方法論が判明しても、胆力もそれで強化されたわけではない。彼女も普通の人なのだ。
3日後。バイトの休憩時間。
全国チェーンのファミレスで夜11時まで働いている。その休憩時間に、寸暇を惜しむように、自らのプロファイリングを形作るためにメモ帳にペンを走らせる。
「?」
────これは……!?
プロファイリングの最中にとあることに気づく。
統計から犯人像を割り出すリバプール式プロファイリングよりも、その元祖のFBI式プロファイリングの方が割と簡単に『読めていた』事に気がつく。犯人の男たちの襲撃を直接受けていたから得られた情報も多い。
今まで人力としては最新のプロファイリングの手法あったリバプール式プロファイリングに当て嵌めて犯人像の特定に注力していたが、自分のルールに固執し、さらに博打の成分まで要求する犯人なら、『今でも、時代遅れでも進化を続けている』FBI式プロファイリングのほうが犯人像を割り出しやすいのではないか? と考えが及んだ。
映画やドラマのようにプロファイラーは捜査の最前線に出ないし、取調室で心理分析はしない。FBI式は殺人が多発する大都会よりも寧ろ、人口密度が薄く、殺人事件が少ない地方の警察でこそ役に立つ。
大都会なら殺人事件のノウハウを経験で会得した捜査官が多い。却って、田舎では事件が滅多に起きないからこそ、起きた時に脆弱になる。
そんな経験の少ない捜査官しかいない警察署でも一定のテンプレートに当て嵌めて操作を潤滑にするのにFBI式は有用だった。
後にFBI式を発展改良させたリバプール式が登場しFBI式は旧い技術となるが、滅んだ技術ではなかった。
ユキが注目した点は、犯人の男たちが衆人環視の中でも堂々と現れた場所。頭の中で近隣の地図を広げる。
コールサック効果とサークル円仮説を踏まえる。
男たちは自分達の性的嗜好に則ったルールを持つ。狩り場で罠を張り、どんな獲物が罠に掛かるかを楽しんでいる。……尚且つ、姿を隠す事は厭わず、ユキの前に再び現れてお得意の男性的優位性を発揮しようとした。それも過去の成功体験に基づいた行動だ。
被害者を弄んだだけでなく、心が疲弊していく様子を楽しむタイプ。
『普通ならば、そんな拗れた嗜好傾向を持つ人間はそうは居ない』。レアな嗜好を持つ2人が出会って犯行が簡単に起こせるようになり、また隠匿隠蔽のための工作も簡単になった。
……恐らく、警察も同じプロファイルを組み立てているだろう。
それでも進捗が芳しくないのは、『拗れた性的嗜好をした犯人』が一人でもう一人は単なる便乗の協力者だと想定して捜査をしているからだろう。
プロファイル……だけではなく、人の心を読むのを間違えると際限無く間違えた判断しかできなくなる。
屡々、世の多くの心理学者が内心で、「我々心理学者は必要以上に人の心を読む」と戒めを言い聞かせているほどだ。
ユキはメモ帳をめくり新しいページに今気づいた点のまとめを書き殴る。
唇の端に小さな笑みがこぼれる。
────この犯人たちは……近所に住んでいるタイプの物静かな人間だ。それも中流階級の人間で一般教養は低いけど、応用する知能は高い。『足し算を覚えると掛け算の存在に気がつくタイプ』の認知能力を持っている。
FBI式で言えば秩序型で無秩序型の類型。……犯人は秩序型か無秩序型か? そして現場の様子は秩序型か無秩序型か? ……これがFBI式プロファイリング大きな功績であり特徴だ。
典型的な秩序・無秩序型。
自分達のルールという秩序を持っていながら、獲物を狙う基準は博打性の高い嗜癖が働いている。
それならば、被害者として、ユキも納得する点が多かった。
当初は偶々、被害に遭っただけだと思っていたが、その後の男たちからの接触が不自然過ぎてずっと気になっていた。
過去の経験や知識を元に、冷静に心理状態を読み解いて、あるいは雰囲気だけで理解して、被害者の前に姿を表してトラウマを植え付けて楽しむ様はメインデッシュの後に極上のデザートを楽しむようなものだ。
それを例外的に崩壊させたのがコンシールドキャリーライセンスを持っているユキだった。
連中の過去の事例に、『被害者が反撃してきた。被害者が怯まなかった』ことは無かったのだろう。
ユキは限のいいところまでメモ帳を埋めて、ホールに戻った。
翌々日。午前9時。本日は午前はすっぽりと休講で自宅で籠もっていた。
男たちのお礼参りが怖いのではなく、男たちの行動範囲を絞るのに前頭前野をフル稼働させていた。
今初めて、目的を持って生きている。
生きていると実感できる。
何の目標もなく、親に言われるままに大学を受験して、合格して、ルールを知らないゲームのスコアボードを記録するような退屈な講義をノートに書く毎日だった。
それが、たった一回の性犯罪の未遂の当事者になっただけで日を追うごとに変化してきた。
毎日書いている日記を読んでも、当初は精神的ダメージが大きかったのに、日を追うごとに『自分でもできること』『自分だからできること』を模索し始めて、とうとう能動的に、犯罪者に対して講義で聞いて忘れていた知識だけで戦おうとしている。
現在の作業は近隣の地図を広げて『通勤型』ではない、『拠点型』と想定して犯行現場の次を割り出そうとしている。
これもFBI式プロファイリングの功績の一つだ。
犯人個人の特定はドラマのようにいかないが、犯人の属性や集団や性格から逆算した居住地域を割り出そうと必死だ。
そろそろ梅雨時で、じめじめした嫌な季節が来る。何故か心の中で、梅雨が訪れるまでに眼の前の資料を仕上げて地方のネット掲示板に投稿して注意喚起をより一層喧伝しようと誓う。
……ユキは自覚していない。
自分が生まれて初めて打ち込めるものと出会えたことに。
3日経過。
夜8時。近隣のパトロールが増強される。
ユキは思わず親指の爪を噛んで眉間にシワを寄せる。
これでは犯人を刺激してしまう。
自分の思考が本末転倒なのは理解している。犯罪は防ぐのが第一だ。だが、防がれては自分のプロファイリングの精度が試せない。
地方版の掲示板や新聞を見ても、自治体の警察本部が外注で作らせた防犯アプリの事件事故情報を見ても、この3日間で性犯罪全般がひっそりと鎮まった。
それこそ地元警察の本懐。それでこそ税金を払っている甲斐がある。
そして発生するアンビバレンス。
このままでは自分の力で描いたプロットが試せない。
小さく「よし……」と呟くと、ユキはトートバッグを見る。そこには愛用のS&W M351cが放り込まれたままだ。
彼女はこの日を境に、物理的に能動的行動に出た。
……まずは部屋の片付けだ。
ここ暫く、男たちの動向が恐ろしくてなんとか自力で先読みをして自分だけでも、自分の近所だけでも防犯効果を高めたくて、大量のメモパッドを書きなぐり、プリントアウトしたコピー用紙を未整理のまま部屋中に放り出していた。その様はとても女子大生の部屋の雰囲気とは遠い惨状だった。
「さて、片付けますか」
梅雨到来。
夜11時。
やや強めの雨。
無風。湿度が高い。夜間ゆえに黄色い雨合羽を着込んでいたが、寧ろ、雨合羽を着ているからこそ不快が増すのではないかと思ってしまう。
その姿のままコンビニに入り、店内で雨合羽を脱いで業務用の空調とエアコンの恩恵に預かる。しばし体を冷やして、化粧品や夜食の菓子パンや缶ビールを買ってコンビニを出る。
左手にコンビニのレジ袋を提げて、夜道を行く。この辺りは犯罪が割と発生していないので安心して歩けるが、やはり、夜中に一人で歩きたいとは思わない。……普通ならば。
防犯ミラーや家々の窓ガラスや雨戸が偽装された防弾仕様が流行りだしたのも頷ける。
最近は非合法に流通する銃火器の単価も下がってきている。日本がコンシールドキャリー法を導入する切っ掛けは、諸外国の犯罪組織が日本を最大の市場と目論んで橋頭堡を確保したことが直接の原因だ。
自宅からは少し離れたコンビニで買い物を済ませる。
『少し離れたコンビニ』という条件が必須だ。
ユキは……黄色い雨合羽を着ているとは言え、全身を雨に打たれながら、不快指数が高い夜の不穏な道を歩く。足元は外灯で照らされているとは言え、この道の先は得体のしれない巨大な何かが大きく口を開けて待っているような錯覚がした。
プロファイルでの適合率が非常に高くなる条件は今日が最適だった。
何処の誰がズバリ犯人であると的中させるのはドラマの主人公だけだ。結局、何処の誰が犯人なのかは分からずじまい。……しかし、類型自体は古典的なFBI式プロファイリングと普遍的な社会心理学を組み合わせてプロットを考えて書いた。
そもそも、メタ解析が侵入しつつあるリバプール式プロファイリングは民間人の力では不可能だ。
夜。雨。人通りが少ない。近くに旧い墓苑と雑木林、大きな人家は庭も広く隣家同士の物理的感覚が広い。
防犯ミラーが多い。
コンビニや、社会実験で導入されている防犯カメラの死角になる路地が多い。
ユキは脳裏で近隣の地図を広げていた。
住んでいる自宅のハイツから少し離れているので、この辺りでの土地勘はない。
ユキが当初に講じたSNSやネットの地方掲示板を用いた防犯に関する注意喚起。その中でも、『この地区だけは、注意喚起を促す投稿は途中でやめていた』。
腕時計を見る。
午後11時15分。
統計的にはそろそろ『怪しい時間帯』となる。
ユキはこの自治体の中でも、この地域一帯を根城に犯人の男たちがうろついていると断定した。男のどちらかが土地勘があると断定していた。
『通勤型』と『拠点型』の連続犯罪者が手を組んでいると見た。
地元の知識量で言えば『通勤型』よりも『拠点型』のほうが上だ。どちらが主導しているかは不明だが、『拠点型』の男が土地勘を活かして獲物の狩り場を探しているのだろう。
その『拠点型』の男に誤った判断を下させるためにSNSでの情報提供を止めたのだ。
『この地区は誰も警戒していない。狙い目だ』と。
事実、SNSや地方掲示板の効果なのか、この状況と似た地区には警らの警官が時間不定で巡回しており、犯罪が発生するリスクは大きく減っていた。
ユキの目が暗く沈む。
心に黒いガスのような塊が湧き出るのを感じ入る。
警察に通報すればそれで解決なのに、自分は自分の……初めて自主的に本気で打ち込んだ仮説の証明を立証させるために、非常に危険で無責任な行動を起こそうとしている。
法的な解釈の仕方ではユキが起こそうとしているのは『ライセンス』が無ければ許されない行為だ。
コンシールドキャリー法と同時に導入された新法『バウンティハンター法』。
文字通りの、みなし公務員としての賞金稼ぎだ。
警察の絶対数的な人員不足を準公務員と同等の資格を与えて、犯罪の抑止力を期待して法案が可決された。
そのバウンティハンターのライセンスを取得していないユキがこのように能動的に『犯人と思しき人物』を個人で『能動的に抑止』しようとするのは限りなくグレーだ。……バウンティハンター法もまた、未完成ゆえに抜け穴だらけの法律なのだ。その穴を突いたにすぎない。
ユキは『自分を餌に自分を襲った男たちだけ』を安っぽい正義感と未熟な精神と子供の理屈で『仕返し』さながらに行おうとしている。
「……」
雨が少し弱くなる。
撥水スプレーを振りかけた靴は既にずぶ濡れで不快感の権化として足を重くしていた。
そのユキが、不快感に悩まされるユキが、小さな、水が跳ねる音を聞いた。
……それは異質な、少なくともユキが聴く限りでは異質な水の音だった。
『あたかも、足音のように近づいてくる』。
やや歩行速度を落とす。口を閉じ、すうと鼻から息を吸う。腹式呼吸。4秒ゆっくり吸い、4秒息を止め、8秒かけてゆっくり息を吐く。
それを3回。
ふと、立ち止まる。振り返らない。普段からストレス解消で行っていた呼吸法が自然と行われて、高ぶり始める神経がノイズを含まなくなり、カミソリのように鋭くなる。
ノルアドレナリンとアドレナリンをセロトニンで抑えつける。沸騰しつつ有った鳩尾の辺りが急激に冷える。
知らぬまに覚えていた喉の渇きや早い呼吸の回数も落ち着く。
────ようやく、『試せる』……。
ユキは心の中で微笑を浮かべる。
ひりつくようなスリル。
実践でしか試せない仮説。
これを為したから何かを得るという損得勘定ではない。
大袈裟に言うのなら、この世で自分の存在を証明するチャンスを自力で見つけて、自力で思案し、自力で試せて、成否に問わず満足のいく行動ができたと自分で自分を褒めることができる。
全くの勝手な理屈。子供。未熟。無責任。
暗い道。街灯の間隔は同じでも光量は低い。……これも条件の一つ。
ユキは不意に走る。前方に向かって。
雨で濡れて重たい衣服に構わず、左手に提げたコンビニ袋を放り出さず、走る。
脳内に展開する近隣の地図。そこへ自分が書き込みをしたレイヤーを被せる。
足音が追跡してくる。歩幅が広い。足音が重い。男、一人分。視認していないので距離は不明だが10m以下の位置に居ると思われる。その足音は、間隔を狭めるように全速力だ。
ユキは雨合羽のフードの下でにやりと笑う。
実に悪いニュアンスを含んだ微笑みだ。
自分が悪魔に変貌しているのに気がついていない微笑みだ。
自分の心に背徳を好む何かが萌芽したことを悟っていない微笑みだ。
ユキは突如、全速力で走る。
男と思しき足音が水溜りを蹴って走り出す。1人分の足音。独りで来たか? 別の不審者か?
人間とは不思議なもので、衆人環視の中ならば唐突に現れて声を発するだけの度胸がある。反して、人に危害を為したことのある人間は夜だと逆に縫ったように口が開かない。
言語化できる理由は様々だが、心理的理由から観察すると、明らかに『この騒ぎを知られたくない』心理が働いているのだ。
雑踏の中で声をかけた男は今は静かに追跡している。あの時のように乱暴に呼び止めたりしない。
ユキは旧い墓苑の入口まで来るとゲートが閉まって入ることができないこの場所で、急停止し、きびすを返し、追跡者に向かってコンビニ袋を突然、投げつけた。
男は……特徴的な黒い使い捨てマスク。否、黒い使い捨てマスクをしているからこそ、耳たぶや眉目の形を集中して覚えやすいので、その男が、ユキを襲おうとした男たちの一人だと瞬間に分かった。
男は女の細腕で投げつけられた、大した威力のないコンビニ袋を足元に叩き落とすと、尻のポケットにでも突っ込んでいたのか、刃渡り15cmほどの包丁を抜き出す。包丁の刃を包んでいた新聞紙が水たまりに落ちて泥水を吸う。
脂が浮いた包丁。魚や肉しか捌いたことがない……ということを期待しよう。間違えても人を捌いたことはないと信じたい。
冷える腹の底。ユキはアドレナリンの分泌を全身で味わっていた。
恐ろしい男が目の前に居る。
自分に危害を与えた男と対峙している。
勝算はあるが約束された勝利は存在しない。
彼我の距離6m。
じりじりと詰め寄る男。
じりじりと後退りするユキ。
唐突にユキの雨合羽の右手側のポケットが2度、破裂した。風船が爆ぜたように、ポケットの樹脂の生地がちぎれて勢いよく吹き飛ぶ。
途端、目前の男の足元に落ちていたコンビニ袋から缶ビールの内容物が噴出し、男の視界を塞ぐ。ポケットの中で右手で握り続けて、まさに今のために待機させていたS&W M351cを右手側のポケットの中で発砲したのだ。2発の22WMRのうち1発が未開封の缶ビールに命中し、破裂したように内容物をぶちまけた
シリンダーギャップから吹き出る高熱のガスで火傷しないように軍手をしている。
更に発砲。1発。
22マグナムは違うことなく、男のへその上辺りに命中し、急激に脱力したように濡れた地面に倒れ込む。うめき声からして即死には至らない。22マグナムでも単純なエネルギーは、今では諸外国では対人停止力が低くて時代遅れの32ACP程度の威力だ。
そしてユキは『次に訪れる恐怖に対してこそ、博打を打った』。
『さあ、次は何処から出てくる?』と、その場で蝋人形のように固まる。全身の神経を集中させて気配だけで辺りを伺う。背中にも目がほしい。
心拍亢進。動悸。口渇。ヒステリー球。聴覚の狭窄。瞬きの頻回。扁桃体が急激に騒ぎ出したものだから交感神経が優位に立ちすぎて自律神経が激しく乱れる。
今の自分はどんな顔をしているだろう?
次の瞬間。
次の瞬間が永遠に思えるほどに長かった。
────『自分ならこうする』と考えてはダメ。『自分はこうされたら嫌だ』と考えて!
脳内ではその問答が超高速で反芻思考している。時間感覚があやふやになる錯覚がする。
訪れる『次の瞬間』に対して、ギャンブル的な享楽を感じてドーパミンサイクルが回ろうとしてる。
ほんの数秒。
……長かった。
ユキは左肩を叩かれた。
全身が過剰に跳ねて、それを待っていたのにも関わらずに、酷く驚愕した表情で素早く振り向いた!
しかし、その左肩を押さえつけられ、完全に振り向くことができない!
「よお……」
もう一人の男の声が粘っこく耳の奥に侵入してくる。
生理的反応でユキは体を反対側へと捻ろうとするが、男の力は強力で、ユキを自分の方へと向けた。
今しがた目の前で仲間の男が拳銃で撃ち倒されたというのに迷いがない!
敵意や殺意というより憎悪を気配で感じる。散々恐怖を与えてから息の根を止めてやろうと考えているのか。
「!」
ふと、男は抑えていたユキの左肩を解放した。
ユキは筋肉の強張りから反跳するように、自ら進んで体を右回転させるように彼の真正面に体を向けてしまう。筋肉のこわばりが生む反跳運動だ。
────しまった!
男の考えが分かっていながらも、このままでは右手を封じられて致命的な負傷を与えられる! ……と感じながら、ユキは呆然と男の黒い使い捨てマスクの顔を見た。
しばしの沈黙。
見つめ合う2人。
一方は恐怖に怯み。
一方は完全な優位性を初めて誇った目をしている。
ユキの右手はこの男によって手首付近を掴まれて、男に銃口を向けることができない。男の屈強な膂力で銃口が明後日の方向に向けられている。
男の目に勝利とその先の陶酔が浮かぶ。
ドス……。
男は右手にいつの間にか握っていた包丁をユキの腹部に突き刺していた。
男の目は狂喜に見開かれる。……が、すぐにその顔には焦りと疑問が浮かぶ。
ユキは、男の完全な勝利を確信した顔を確認してから、『行動を起こした』。
右手首を内側へと大きく捻り発砲。
この角度なら銃弾は空を穿つ。だが、目的は銃弾の命中ではない。
「ギャッ!!」
男は怪鳥のような叫び声を挙げた。
ユキの右手を掴んでいた男の左手首にはS&W M351cのシリンダーギャップから発砲時に発生する、高熱の凄まじい圧力のガスが叩きつけられて大火傷を負う。男は堪らずユキから体を離し後ろへ大きく後退りする。『火傷の部位を押さえながら』。
ユキの『腹には包丁が垂直に突き刺さったままだった』。
その光景が信じられないと言う顔を顔面に貼り付けたまま、2m向こうからユキの22マグナム弾を臍下辺りに叩き込まれて、次々と糸が切れていく操り人形のように地面に沈んでいく……。
この男も先程の男のように地面に伏したまま呻き声を上げる。時折呪詛を含んだ言葉が聞こえるが、腹膜付近に穴を開けられているのでまともに声が出ない。
「……」
────危なかった……。
────本当に役に立つとは思っていなかった……。
ユキの雨合羽の腹部に突き刺さったままの包丁。
ユキは辺りに視線を走らせる。
もうそろそろ、近隣住民に通報される時間だろう。
そんなことよりも……。
「!」
────よし!
ユキの視線の先には防犯カメラ……を映す防犯ミラーが有った。
コンシールドキャリー法の大前提は防衛のための発砲で、正当防衛が立証されなければ過剰防衛やオーバーキルで裁判に負けてしまう。
それを防ぐために、人気が少ないながらも、あらゆる角や辻に設置された防犯カメラや防犯ミラーを介して、男たちの犯行の一部始終がカメラに収まるように位置を移動していた。
実際に身を守るために『襲われてから』発砲したという明らかな証拠が必要だ。
その証人として一台の防犯カメラを映す防犯ミラーから姿を消す真似はしなかった。
これらも全て、脳内に叩き込んだ近隣地図を精査した賜物だった。
その際に大量に生み出すことになったコピー用紙や走り書き用のメモパッド。これらを集めて束ねると実に厚さ4cmにも達していた。
その燃えるゴミである使用済みのコピー用紙やメモパッドをガムテープで束ねて繋げて、A3サイズの大きさにして腹部全体を守る即席の防具として衣服の下に仕込んでいた。
ユキが行動に出る日に掃除を思い立ったようにしなかったら、この防具のアイデアは思いつかなかった。
更に、自分が窮地に陥るのは計算してあったが、どのような状況でどのような反応をすれば『自分よりも力が強い男はどのような暴力を行使するか』も十分に検討を重ねていた。
ユキは腹部に刺さった……コピー用紙の束に刺さった包丁を抜いて静かに地面に置く。S&W M351cにはまだ2発の22マグナムが未使用のまま収まっている。コンシールドキャリー法では携行弾数にも制限があり、激しい銃撃戦が行いにくいように考案されている。
正当防衛成立。
『拠点型』の男の方を中心にプロットを立てて正解だった。
犯罪者が全国的に増え、この地区も例外ではなかったが、特殊な性癖と性的嗜好を同じくする2人組の男の犯罪者はかなりレアなケースで、寧ろ、高度なプロファイリングよりもデータ解析に頼らない古典的なプロファイリングのほうが当て嵌めやすかった。
その証左が、今、ユキが生きている証拠だ。
何もかもがユキの掌の上ではなかった。統計と確率に頼った、それこそ『精度の高い博打』に頼った危うい部分もあった。
終わってしまえば何ということはない。
この通り、犯人たちは伏せたまま動けないでいる。
こうして、ユキは勝利と満足感に包まれながら、パトカーのサイレンを聴いていた。
パトカーのサイレンすら祝福のBGMに聞こえていた……。
ユキのプロットは大雑把な割り出ししかできないプロファイリングで、特定の嗜好と思考を行動教義にする犯人を警察に引き渡すという、華々しい成果を残した。
犯人が同じ狩り場で獲物に対して不確定性を求めるある種のドーパミン的依存に酔うタイプでなかったら……こうは上手く進まなかっただろう。
そして、ユキは自らの自惚れを思い知ることになる。
連続犯罪とはいえ、性犯罪と傷害のみの犯罪者は服役期間が短く、中毒性が高い故に再犯の確率も高い。
ユキが出所した男たちに復讐を計画されるのは想像に難くなかった。
これもまた、コンシールドキャリー法が生み出した闇の部分であった。
犯罪者を捕まえて恨まれるのは警察官だったのは今は昔になりつつある。
コンシールドキャリー法を行使した民間人が復讐の対象となり、今度こそ本当に一生物の心の傷を負わされ、一生、影に怯える社会問題が生み出された。……これは後年に成立する『民間警察法』の萌芽となる。
日本国内での拳銃所持の解禁はまだ尚早だったと国会で屡々議論に上がったが、その頃には後戻りできない惨状が国内を席巻していた。
《習作#3・了》
