♯006『文筆家は夜警の一人』(全3話/現在2話まで公開中)
【♯003「染み出す死」4/5】
ライデがイヅのベッドで気を失うように眠っている間、イヅは口元に手の甲を添えるようにして腕を組み、仕事用の机に広げた記帳と懐紙を見ていた。
(この事件、どこの誰がどのように得をするのか全く見えない。営利目的ではないのか……?)
(怨恨にしても、不可解な刺傷が腹部に一つのみ。怨みのある人物が使うような刃物でもない……)
(金品が無くなっていないので物盗りの居直り強盗とも思えない。ガフラン氏が所持している特定の何かを奪いに侵入したのか? それで腹を刺したにしても……果物を切るような小さなナイフで太鼓腹を真正面から突き刺して一撃で死に至らせるのは不可能だ。失血による死亡だとしても半刻(1時間)は立って歩くことも可能だ)
何度も記帳を見る。ライデが言うように最初に彼が持参した記帳とは相違点が何箇所も有るが、その数だけ謎が増えている。
この記帳は書き込めば書き込むほどややこしくなっていくだろう。
それとは別に、自分で書いた懐紙の備忘を見る。現場や治安府の死体安置所やライデ直筆の写しで気になった部分を抜き取り、覚えている限り思い出して記したものだ。
そこに描かれた見取り図を見る。ガフラン子爵の遺体発見時の執務室の見取り図だ。窓やドアや棚の位置が描かれている。イヅの手描きで、描画は専門外だが、簡単な描き留めは薄れゆく記憶の保持に大きく役立つ。今回のように思い出して描画することもあれば、言語化が難しい概念を記号などを使って紙に書き出して考えることもする。
「?」
数枚の懐紙のうち一枚の紙を広げる。そこには金魚鉢の水面で浮かんでいたゴミを集めた物がカラカラに乾いてまとまっていた。
(確か、ガフラン氏の関係者は彼の部屋にいつ金魚鉢が持ち込まれたか分からなかったのだよな……執務室には花瓶があって、小鳥の鳥籠があった。……ということは、観賞用の魚を飼うのは珍しくないが……)
「火をもらってもいいか?」
「あ、起きましたか。火でしたら竈門で炭がくすぶっていると思いますのでご自由にお使いください」
「すまんな。……で、何か『見えそう』か?」
「『見えているもの』と『見えていないもの』の接点が分かりません」
「……だろうな」
彼はそう言いながら、竈門の炭を咥えた葉巻を押し付けて火を移した。夜警団の事務所や新聞社の建物内部はタバコの煙が充満しているので彼の葉巻の煙は特に気にならない。
「寧ろ、僕達が『見ようとしたいもの』を探しているから『見えなくなっている』感じがします」
「御蔵入りに誘導されている? その可能性か?」
「可能性としては。ただ、可能性だけで話をするのなら際限がありません。冤罪すら生み出します。仮説すら立てられない現在の状況では僕は多くを語れません」
「ふむ……」
ライデは唇の端から紫煙を細く長く吐く。まるで彼の苦悩と疲労が可視化されたような煙だった。
「今のところ、証拠の品は凶器の小さなナイフのみ」
ライデの表情に『嫌悪』の微かな表情が現れた。
貴族でも非業に命を落とすこともあろう。だが、賊に対して愛剣を抜くことなく一撃で絶命させられたとあっては、事件の真相は兎も角、貴族の体面が悪い。
ゆえに卑怯千万の犯人を上げて罰を与えたい家人の気持ちがわかるライデだった。彼も貴族だ。不逞の輩を相手に逃げ惑う姿より、剣を抜いて堂々と渡り合う勇ましい姿を忘れるなと教育されてきた『世代』だ。
「これは? ゴミか?」
「ああ、それはガフラン子爵の執務室の金魚鉢に浮いていたゴミです」
「なんでこんなものを?」
「金魚鉢には観賞用の魚が一匹もいませんでした。水が溢れた跡が床にあったので、恐らく飼い猫が食べたのでしょう。執務室のドアの鍵がかかっていなくてドアが少し開いていた状態との証言が有ったので、その隙間なら猫なら入り込めます。金魚鉢だけでなく、壊れた鳥籠と鳥の血痕も有ったので飼っていた鳥も飼い猫に食い殺されたのでしょう」
しばし宙を見るライデ。
「じゃあ、猫に入られると困る動物だけ執務室で飼っていたのだな」
「そうですね」
(!!)
今、忘却の彼方に押しやられていた閃きの断片が再び火花を散らしたが、それを『掴む』前にまたも忘れてしまう。
「ま、まあ、その金魚鉢ではどんな魚が飼われていたのか気になったので水面のゴミを集めて餌から調べようと思ったのですが、まだ調べていません」
「この事件の整合性のなさが元凶なんだと思うのだが。綺麗な経歴を持つ苦労人で努力家というのも考えものだな。私だったらとっくに疲労で倒れているくらいの働きぶりだ」
「そう思ってるのでしたらお休みください」
(ん? なんて?)
「ライデ様、ガフラン子爵はそんなに人徳の高い方だったのですか?」
何か引っかかる。ライデがガフランと比較した時の様子が……。
「ガフラン子爵は人徳者というより、献身者だな。自分の力量を超えた仕事を次々に片付けて金融業の世界でも子爵という『一番軽く見られる身分』でも一目置かれるようになった。彼の経営状況と日報も押収して調べたが、コレまた大量でな……。だが、怪しい部分は感じられない。そりゃあ、生き馬の目を抜くような商売をしているのだから殺伐とした業界には違いないが、誰かを殺して丸く収まるのならこの業界は殺人事件だらけだ」
(まさか!)
「ライデ様! 働きすぎです!」
「ああ、だからそのうちまとめて休むと言ってるだろ」
「いえ、ガフラン子爵が、です! ガフラン子爵の労働時間と日報日誌を洗い直してください! 『子爵はいつ休んでいるんですか?』」
寝ぼけ頭から回復したとは言え、記憶力に自信がないライデは直ぐに懐から手帳を取り出し、覚書きをする。
(仮説は2つ。前者なら話は簡単だが、後者は……考えたくないが、『そう考えてしまう!』)
先程から数度、イヅの脳内で火花が散っている閃きの断片。
それぞれただの情報の断片でしかないが、玉突きで枠の中を散った玉のように絶妙な位置に転がりつつある。
後は仮説を『検証』して可能性を潰すだけだ。
ライデは手帳にペンを走らせてイヅの指示を書く。
身分的には不敬もいいところの扱いではあるが、事件解決につながるのであれば、誰も見ていないところでの不敬な態度や口調などライデにはなんの問題もない。
ライデにも苦い覚えがある。
脳内に閃いた一瞬の名案は即座に記すか、口頭で部下に次々と指示を出して瞬発力重視の行動を取らないと、最高に冴えた名案は記憶の彼方に埋もれてしまう。
彼が手帳に覚書を記すのは、自らの頭脳を高く評価していないからだ。
イヅの知識によると、人間がごく短時間に覚えていられる情報の数は3つか4つだという。しかもその情報は鶏のように3歩歩けば忘れてしまうほど儚いもので、4つ目、5つ目と情報が入れば先に覚えていた情報がかき消されてしまうらしい。
だから彼は少年に対して非難の声を挙げる時間が有るのなら、彼の名案を少しでも早く正確に手帳に記したほうが有用だと思っている。……どうあがいたところで、現行の捜査手順をなぞることでしか捜査ができないライデより、役人や貴族の枠組みに嵌まる必要がないイヅの意見のほうが自由で開放的だ。
「よし、分かった。治安府に戻ってこの通りに調べ直す。邪魔したな」
ライデはきびすを返すと、机の上の最後の乾燥果物の一切れを摘んで口に放り込んだ。
「……もう、僕のおやつまで全部食べて……。治安府まで走って帰ったらどうですか?」
「おいおいおい、乾燥果物くらいで冷たいな」
「体に糖分が蓄積するといろいろな害が出ます。中年になって腹が出るよりも早く飲水病になったり肥満になったり血の圧が高くて卒中を起こしますよ!」
「事件を解決したら少しは運動するさ! じゃあ、邪魔したな!」
彼は疲労の色を喜色で無理やり塗り替えてイヅの家を出た。……なんだかんだ言いつつ、走って表通りに向かっている。
彼の美貌は財産だと言い張られても通用するほどの造りだ。肥満の彼は今一つ想像したくない。
イヅは自宅のドアから顔を出し、彼の背中が見えなくなるまで見守っていた。
その彼の背中を横切るように、いつか見た商会の樽を積んだ馬車がよぎる。
「!」
(仮説が1つに減った!)
まさにその商会の紋章が焼印で押された樽を見て、脳内の小さな火花が集まって、明確に言語化できるほどに情報の集合体となってイヅの記憶を司る部分に、イヅの重要度の高い順番に収納された。
翌日、夜警団の事務所へ向かったところ、すでにライデが待機しており、現場へ向かう夜警団のむさ苦しい男たちに檄を飛ばしていた。
年々犯罪の発生率が上がっているのに、検挙率が減っているのを鑑みての直々の演説だ。
彼は非常に真面目な部分とそうでない部分の境目が解りやすく分かれているタイプだ。
そのライデがこうも声高に仕事熱心になっているのは、仕事が好きだからなのではなく、雛形に決まった枠の中で手順通りにしか認知的行動ができないので、与えられた仕事は馬鹿正直なほどに愚直に捉えて実行してしまう。
そんな彼の生来の弱みを都合よく利用したのが、こともあろうに彼の『家系』だった。
バカ殿と影の操り人形。
彼の家系は、指示されたことなら思考を停止してなんでも実行に移すライデを若くして本家総代とし、彼を都合のいい政争の具に仕立て上げようとする親類に危機一髪のところで、彼の家に仕える旧い従者に助けられた。
……らしい。
今まで、彼の寝物語や酒の席でのぼやきや独りごちる言葉を掻き集めた結果、イヅが勝手に解釈し、勝手に記憶の端に牢記している事柄だ。
イヅの憶測や仮説が半分以上を占めるので、推測した彼の生い立ちや昔話を彼に直接尋ねることはしない。
(難儀な性格に生まれたものだな)
イヅは事務所で一人で書類の作成作業に移る。表では夜警団が勝どきの声にも似た大声を挙げて気合を入れている。
「さて、待たせたな」
「お気遣いなく」
ライデは少し回復した疲労の顔に無理に作り笑顔を浮かべる。イヅのいる事務室に入るなり、長椅子に座る。
(ほほえみうつ病って怖いんだよな……)
「ガフラン子爵の遺体は埋葬されたよ。氷柱の冷気で保存するにしても限度があるからな」
「仕方ないですね。疫病が流行っては元も子もありませんから」
「で、お前の言った通りにガフラン子爵の日報や日誌を調べた結果、連日連勤の鬼だな。……早朝から深夜まで、ろくに食事も取っていない。同業者との付き合いで宴席に出ることはあっても、お前の言葉を借りるなら、不摂生の極みだったようだ」
「……睡眠時間と食事と休養が不十分なのに不眠不休に近い状態で業務をこなしているのが不自然に見えたと思います」
ライデはイヅのその言葉に対して、少し息に詰まり、咳払いをした。遠回しに自分の生活を咎められている気がしたからだ。
多少は睡眠時間の確保に成功しているが、この少年に言わせると、睡眠だけではなく適度な運動と栄養価の高い食事と、疲労を感じる前の疲労発散を最低3ヶ月は維持しないと疲労は抜けないらしい。なんでも、休養はだらけているだけではダメで、修道僧のように規則正しい生活を心がけて俗世と離れた思考で脳を休ませないといけない……だ、そうだ。
「じゃあ、疲労が過ぎて頭か心の臓の卒中で倒れたか?」
「私も真っ先にそれを疑いました。ですが、それでは腹に突き立てられた小型ナイフの意味が分かりません。『死体にナイフを突き立ててわざと殺人事件の現場を作ったように見えたのです』」
「じゃあ、ガフラン子爵は今際に助けを呼ぶより、自分の腹を刺す事を優先した?」
「調書の写しによれば、ナイフはガフラン子爵のものではなく、安っぽい庶民向けの日用品レベルです。貴族様の手元や厨房にある物とは思えません」
ライデの顔色が疲労とは別にやや青ざめる。
「じゃあ……死体にナイフを突き立てた者が居るということか」
「そうです。これにより仮説の一つは消えました」
「?」
「僕は仮説を2つ立てていました。そのうちの1つが、ガフラン子爵が労働中毒だった場合です」
「なんだそれは?」
「働くことに喜びや生きがいを見つけてしまい依存症になってしまう心の病の一つです。人によって労働中毒に陥る原因や理由は様々です。今となってはガフラン子爵は『労働中毒の可能性が高かったと思われる』としか言えません」
「勿論、それで終わらないのだろう?」
「はい」
イヅは懐紙をポケットから取り出し、挟まれた金魚鉢のゴミを見せる。
「ゴミか。これが?」
「ガフラン子爵の部屋にあった金魚鉢ですが、何を飼っていたのでしょうね?」
「魚じゃないか? 観賞用の」
イヅは懐紙を折って作った手のひら大の薄っぺらい手帳もどきを取り出し、そこに小さな字でびっしりと描かれている内容に視線を走らせる。
「労働中毒による過労死の線ですが……勤勉で真面目で実直な人間が蓄積する疲労で頭がおかしくなることはよくあります」
「何が言いたい?」
この目は何かを掴んだ目だ。ライデはイヅの長い睫毛を見ながら思う。彼が手元の小さな紙片に視線を落として段々と表情が無くなってくるのを感じ取った。
(ああ、何か『分かった』な……。この顔は私に気を使う顔だ)
ライデは人の表情から発する非言語的な意思の疎通や、その読み取りと発信が苦手な人間だ。イヅのように人の顔を見ただけで全てを悟る能力は持っていない。そんな学習もしていない。
ただ、この少年との付き合いの中で、イヅの表情の変化だけは論理的ではなく、直感で判別することができた。
殊に、事件解決が進めば進むほど、核心に近づけば近づくほど、その直感は当たる。そして、概ねして、ライデの立場を図ったり、不敬に当たらないように言葉を選んでいる場合が多い。
今回は金融業界でも顔が広く利く子爵が殺害されたとされる事件だ。イヅの仮説の証明が正義として正しくても、貴族の世界に波風を立てる可能性がある。
イヅはすう、と息を吸い、少し重そうに話し出す。
「そんな仕事人間が、『家人や使用人に暴言や暴力を働いたり、人と疎遠になったりもせず、理由はどうあれ、死ぬ直前までガフラン子爵の悪評を聞いていない』のは……『不自然』ではないですか? どのような方法で疲労を発散していたのでしょう?」
残った仮説を検証するために現場に戻って再びガフラン邸の人間を集めるか……?
ライデはそのように頭の中で考えた。
イヅは2つの仮説と言った。
1つは労働中毒による過労死。この場合、ナイフの謎は一旦除外。ナイフの件は別件として帳場が立つことになる。
その仮説はイヅによって一旦保留にされ、続けて2つ目の仮説を聴くことにする。
「ライデ様、近頃、不逞の輩が非合法な手段で麻薬を作り出している話を聞いていませんか?」
「!」
ライデの顔が凍りつく。
イヅは小さな溜め息を吐きそうになったが飲み込んだ。
「この金魚鉢の水面に浮いていたゴミですが、餌の残骸でした。帝国内では生息していないはずの甲虫や羽虫を餌として与えていたようです。それと、ガフラン子爵の部屋にあった花瓶の花の花びらが一枚」
「観賞用の魚にか? それと麻薬がどんな……?」
イヅはライデが書いた記帳の写しをパラパラとめくりながらあるページのある部分を指す。
「ここで気がつくべきでした」
「?」
ガフラン子爵の口内に細長い炎症跡。
室内に花瓶。
「これは僕が模写したものですが。御覧ください」
「!?」
イヅは懐紙を折って作ったメモ帳を見せた。
トカゲかそれに類する右太ももを拡大した絵が描かれていた。
「これが、『ガフラン子爵が刺殺体として発見させられた理由でしょう』」
「??」
(イヅ! 何を言っている!? 金魚鉢のゴミと麻薬は? 労働中毒の過労死は? カエルの足とナイフとは? 『刺殺体として発見させられた』?)
顔に興味と興奮と不安の『微かな表情』を瞬き一回分の時間だけ表すライデ。その後のライデは顔全体に疑問符を浮かべ、イヅの手元の紙と彼の顔を何度も見る。
「はあー?」
とうとう理解の範疇を超えたらしく、美貌の子爵は実に間の抜けた声を出してしまった。
貴族の尊厳も気品もない、間抜けっぷりにイヅは思わず、微妙に眉をひそめてジトッとした目で彼を見てしまった。
ライデがイヅのベッドで気を失うように眠っている間、イヅは口元に手の甲を添えるようにして腕を組み、仕事用の机に広げた記帳と懐紙を見ていた。
(この事件、どこの誰がどのように得をするのか全く見えない。営利目的ではないのか……?)
(怨恨にしても、不可解な刺傷が腹部に一つのみ。怨みのある人物が使うような刃物でもない……)
(金品が無くなっていないので物盗りの居直り強盗とも思えない。ガフラン氏が所持している特定の何かを奪いに侵入したのか? それで腹を刺したにしても……果物を切るような小さなナイフで太鼓腹を真正面から突き刺して一撃で死に至らせるのは不可能だ。失血による死亡だとしても半刻(1時間)は立って歩くことも可能だ)
何度も記帳を見る。ライデが言うように最初に彼が持参した記帳とは相違点が何箇所も有るが、その数だけ謎が増えている。
この記帳は書き込めば書き込むほどややこしくなっていくだろう。
それとは別に、自分で書いた懐紙の備忘を見る。現場や治安府の死体安置所やライデ直筆の写しで気になった部分を抜き取り、覚えている限り思い出して記したものだ。
そこに描かれた見取り図を見る。ガフラン子爵の遺体発見時の執務室の見取り図だ。窓やドアや棚の位置が描かれている。イヅの手描きで、描画は専門外だが、簡単な描き留めは薄れゆく記憶の保持に大きく役立つ。今回のように思い出して描画することもあれば、言語化が難しい概念を記号などを使って紙に書き出して考えることもする。
「?」
数枚の懐紙のうち一枚の紙を広げる。そこには金魚鉢の水面で浮かんでいたゴミを集めた物がカラカラに乾いてまとまっていた。
(確か、ガフラン氏の関係者は彼の部屋にいつ金魚鉢が持ち込まれたか分からなかったのだよな……執務室には花瓶があって、小鳥の鳥籠があった。……ということは、観賞用の魚を飼うのは珍しくないが……)
「火をもらってもいいか?」
「あ、起きましたか。火でしたら竈門で炭がくすぶっていると思いますのでご自由にお使いください」
「すまんな。……で、何か『見えそう』か?」
「『見えているもの』と『見えていないもの』の接点が分かりません」
「……だろうな」
彼はそう言いながら、竈門の炭を咥えた葉巻を押し付けて火を移した。夜警団の事務所や新聞社の建物内部はタバコの煙が充満しているので彼の葉巻の煙は特に気にならない。
「寧ろ、僕達が『見ようとしたいもの』を探しているから『見えなくなっている』感じがします」
「御蔵入りに誘導されている? その可能性か?」
「可能性としては。ただ、可能性だけで話をするのなら際限がありません。冤罪すら生み出します。仮説すら立てられない現在の状況では僕は多くを語れません」
「ふむ……」
ライデは唇の端から紫煙を細く長く吐く。まるで彼の苦悩と疲労が可視化されたような煙だった。
「今のところ、証拠の品は凶器の小さなナイフのみ」
ライデの表情に『嫌悪』の微かな表情が現れた。
貴族でも非業に命を落とすこともあろう。だが、賊に対して愛剣を抜くことなく一撃で絶命させられたとあっては、事件の真相は兎も角、貴族の体面が悪い。
ゆえに卑怯千万の犯人を上げて罰を与えたい家人の気持ちがわかるライデだった。彼も貴族だ。不逞の輩を相手に逃げ惑う姿より、剣を抜いて堂々と渡り合う勇ましい姿を忘れるなと教育されてきた『世代』だ。
「これは? ゴミか?」
「ああ、それはガフラン子爵の執務室の金魚鉢に浮いていたゴミです」
「なんでこんなものを?」
「金魚鉢には観賞用の魚が一匹もいませんでした。水が溢れた跡が床にあったので、恐らく飼い猫が食べたのでしょう。執務室のドアの鍵がかかっていなくてドアが少し開いていた状態との証言が有ったので、その隙間なら猫なら入り込めます。金魚鉢だけでなく、壊れた鳥籠と鳥の血痕も有ったので飼っていた鳥も飼い猫に食い殺されたのでしょう」
しばし宙を見るライデ。
「じゃあ、猫に入られると困る動物だけ執務室で飼っていたのだな」
「そうですね」
(!!)
今、忘却の彼方に押しやられていた閃きの断片が再び火花を散らしたが、それを『掴む』前にまたも忘れてしまう。
「ま、まあ、その金魚鉢ではどんな魚が飼われていたのか気になったので水面のゴミを集めて餌から調べようと思ったのですが、まだ調べていません」
「この事件の整合性のなさが元凶なんだと思うのだが。綺麗な経歴を持つ苦労人で努力家というのも考えものだな。私だったらとっくに疲労で倒れているくらいの働きぶりだ」
「そう思ってるのでしたらお休みください」
(ん? なんて?)
「ライデ様、ガフラン子爵はそんなに人徳の高い方だったのですか?」
何か引っかかる。ライデがガフランと比較した時の様子が……。
「ガフラン子爵は人徳者というより、献身者だな。自分の力量を超えた仕事を次々に片付けて金融業の世界でも子爵という『一番軽く見られる身分』でも一目置かれるようになった。彼の経営状況と日報も押収して調べたが、コレまた大量でな……。だが、怪しい部分は感じられない。そりゃあ、生き馬の目を抜くような商売をしているのだから殺伐とした業界には違いないが、誰かを殺して丸く収まるのならこの業界は殺人事件だらけだ」
(まさか!)
「ライデ様! 働きすぎです!」
「ああ、だからそのうちまとめて休むと言ってるだろ」
「いえ、ガフラン子爵が、です! ガフラン子爵の労働時間と日報日誌を洗い直してください! 『子爵はいつ休んでいるんですか?』」
寝ぼけ頭から回復したとは言え、記憶力に自信がないライデは直ぐに懐から手帳を取り出し、覚書きをする。
(仮説は2つ。前者なら話は簡単だが、後者は……考えたくないが、『そう考えてしまう!』)
先程から数度、イヅの脳内で火花が散っている閃きの断片。
それぞれただの情報の断片でしかないが、玉突きで枠の中を散った玉のように絶妙な位置に転がりつつある。
後は仮説を『検証』して可能性を潰すだけだ。
ライデは手帳にペンを走らせてイヅの指示を書く。
身分的には不敬もいいところの扱いではあるが、事件解決につながるのであれば、誰も見ていないところでの不敬な態度や口調などライデにはなんの問題もない。
ライデにも苦い覚えがある。
脳内に閃いた一瞬の名案は即座に記すか、口頭で部下に次々と指示を出して瞬発力重視の行動を取らないと、最高に冴えた名案は記憶の彼方に埋もれてしまう。
彼が手帳に覚書を記すのは、自らの頭脳を高く評価していないからだ。
イヅの知識によると、人間がごく短時間に覚えていられる情報の数は3つか4つだという。しかもその情報は鶏のように3歩歩けば忘れてしまうほど儚いもので、4つ目、5つ目と情報が入れば先に覚えていた情報がかき消されてしまうらしい。
だから彼は少年に対して非難の声を挙げる時間が有るのなら、彼の名案を少しでも早く正確に手帳に記したほうが有用だと思っている。……どうあがいたところで、現行の捜査手順をなぞることでしか捜査ができないライデより、役人や貴族の枠組みに嵌まる必要がないイヅの意見のほうが自由で開放的だ。
「よし、分かった。治安府に戻ってこの通りに調べ直す。邪魔したな」
ライデはきびすを返すと、机の上の最後の乾燥果物の一切れを摘んで口に放り込んだ。
「……もう、僕のおやつまで全部食べて……。治安府まで走って帰ったらどうですか?」
「おいおいおい、乾燥果物くらいで冷たいな」
「体に糖分が蓄積するといろいろな害が出ます。中年になって腹が出るよりも早く飲水病になったり肥満になったり血の圧が高くて卒中を起こしますよ!」
「事件を解決したら少しは運動するさ! じゃあ、邪魔したな!」
彼は疲労の色を喜色で無理やり塗り替えてイヅの家を出た。……なんだかんだ言いつつ、走って表通りに向かっている。
彼の美貌は財産だと言い張られても通用するほどの造りだ。肥満の彼は今一つ想像したくない。
イヅは自宅のドアから顔を出し、彼の背中が見えなくなるまで見守っていた。
その彼の背中を横切るように、いつか見た商会の樽を積んだ馬車がよぎる。
「!」
(仮説が1つに減った!)
まさにその商会の紋章が焼印で押された樽を見て、脳内の小さな火花が集まって、明確に言語化できるほどに情報の集合体となってイヅの記憶を司る部分に、イヅの重要度の高い順番に収納された。
翌日、夜警団の事務所へ向かったところ、すでにライデが待機しており、現場へ向かう夜警団のむさ苦しい男たちに檄を飛ばしていた。
年々犯罪の発生率が上がっているのに、検挙率が減っているのを鑑みての直々の演説だ。
彼は非常に真面目な部分とそうでない部分の境目が解りやすく分かれているタイプだ。
そのライデがこうも声高に仕事熱心になっているのは、仕事が好きだからなのではなく、雛形に決まった枠の中で手順通りにしか認知的行動ができないので、与えられた仕事は馬鹿正直なほどに愚直に捉えて実行してしまう。
そんな彼の生来の弱みを都合よく利用したのが、こともあろうに彼の『家系』だった。
バカ殿と影の操り人形。
彼の家系は、指示されたことなら思考を停止してなんでも実行に移すライデを若くして本家総代とし、彼を都合のいい政争の具に仕立て上げようとする親類に危機一髪のところで、彼の家に仕える旧い従者に助けられた。
……らしい。
今まで、彼の寝物語や酒の席でのぼやきや独りごちる言葉を掻き集めた結果、イヅが勝手に解釈し、勝手に記憶の端に牢記している事柄だ。
イヅの憶測や仮説が半分以上を占めるので、推測した彼の生い立ちや昔話を彼に直接尋ねることはしない。
(難儀な性格に生まれたものだな)
イヅは事務所で一人で書類の作成作業に移る。表では夜警団が勝どきの声にも似た大声を挙げて気合を入れている。
「さて、待たせたな」
「お気遣いなく」
ライデは少し回復した疲労の顔に無理に作り笑顔を浮かべる。イヅのいる事務室に入るなり、長椅子に座る。
(ほほえみうつ病って怖いんだよな……)
「ガフラン子爵の遺体は埋葬されたよ。氷柱の冷気で保存するにしても限度があるからな」
「仕方ないですね。疫病が流行っては元も子もありませんから」
「で、お前の言った通りにガフラン子爵の日報や日誌を調べた結果、連日連勤の鬼だな。……早朝から深夜まで、ろくに食事も取っていない。同業者との付き合いで宴席に出ることはあっても、お前の言葉を借りるなら、不摂生の極みだったようだ」
「……睡眠時間と食事と休養が不十分なのに不眠不休に近い状態で業務をこなしているのが不自然に見えたと思います」
ライデはイヅのその言葉に対して、少し息に詰まり、咳払いをした。遠回しに自分の生活を咎められている気がしたからだ。
多少は睡眠時間の確保に成功しているが、この少年に言わせると、睡眠だけではなく適度な運動と栄養価の高い食事と、疲労を感じる前の疲労発散を最低3ヶ月は維持しないと疲労は抜けないらしい。なんでも、休養はだらけているだけではダメで、修道僧のように規則正しい生活を心がけて俗世と離れた思考で脳を休ませないといけない……だ、そうだ。
「じゃあ、疲労が過ぎて頭か心の臓の卒中で倒れたか?」
「私も真っ先にそれを疑いました。ですが、それでは腹に突き立てられた小型ナイフの意味が分かりません。『死体にナイフを突き立ててわざと殺人事件の現場を作ったように見えたのです』」
「じゃあ、ガフラン子爵は今際に助けを呼ぶより、自分の腹を刺す事を優先した?」
「調書の写しによれば、ナイフはガフラン子爵のものではなく、安っぽい庶民向けの日用品レベルです。貴族様の手元や厨房にある物とは思えません」
ライデの顔色が疲労とは別にやや青ざめる。
「じゃあ……死体にナイフを突き立てた者が居るということか」
「そうです。これにより仮説の一つは消えました」
「?」
「僕は仮説を2つ立てていました。そのうちの1つが、ガフラン子爵が労働中毒だった場合です」
「なんだそれは?」
「働くことに喜びや生きがいを見つけてしまい依存症になってしまう心の病の一つです。人によって労働中毒に陥る原因や理由は様々です。今となってはガフラン子爵は『労働中毒の可能性が高かったと思われる』としか言えません」
「勿論、それで終わらないのだろう?」
「はい」
イヅは懐紙をポケットから取り出し、挟まれた金魚鉢のゴミを見せる。
「ゴミか。これが?」
「ガフラン子爵の部屋にあった金魚鉢ですが、何を飼っていたのでしょうね?」
「魚じゃないか? 観賞用の」
イヅは懐紙を折って作った手のひら大の薄っぺらい手帳もどきを取り出し、そこに小さな字でびっしりと描かれている内容に視線を走らせる。
「労働中毒による過労死の線ですが……勤勉で真面目で実直な人間が蓄積する疲労で頭がおかしくなることはよくあります」
「何が言いたい?」
この目は何かを掴んだ目だ。ライデはイヅの長い睫毛を見ながら思う。彼が手元の小さな紙片に視線を落として段々と表情が無くなってくるのを感じ取った。
(ああ、何か『分かった』な……。この顔は私に気を使う顔だ)
ライデは人の表情から発する非言語的な意思の疎通や、その読み取りと発信が苦手な人間だ。イヅのように人の顔を見ただけで全てを悟る能力は持っていない。そんな学習もしていない。
ただ、この少年との付き合いの中で、イヅの表情の変化だけは論理的ではなく、直感で判別することができた。
殊に、事件解決が進めば進むほど、核心に近づけば近づくほど、その直感は当たる。そして、概ねして、ライデの立場を図ったり、不敬に当たらないように言葉を選んでいる場合が多い。
今回は金融業界でも顔が広く利く子爵が殺害されたとされる事件だ。イヅの仮説の証明が正義として正しくても、貴族の世界に波風を立てる可能性がある。
イヅはすう、と息を吸い、少し重そうに話し出す。
「そんな仕事人間が、『家人や使用人に暴言や暴力を働いたり、人と疎遠になったりもせず、理由はどうあれ、死ぬ直前までガフラン子爵の悪評を聞いていない』のは……『不自然』ではないですか? どのような方法で疲労を発散していたのでしょう?」
残った仮説を検証するために現場に戻って再びガフラン邸の人間を集めるか……?
ライデはそのように頭の中で考えた。
イヅは2つの仮説と言った。
1つは労働中毒による過労死。この場合、ナイフの謎は一旦除外。ナイフの件は別件として帳場が立つことになる。
その仮説はイヅによって一旦保留にされ、続けて2つ目の仮説を聴くことにする。
「ライデ様、近頃、不逞の輩が非合法な手段で麻薬を作り出している話を聞いていませんか?」
「!」
ライデの顔が凍りつく。
イヅは小さな溜め息を吐きそうになったが飲み込んだ。
「この金魚鉢の水面に浮いていたゴミですが、餌の残骸でした。帝国内では生息していないはずの甲虫や羽虫を餌として与えていたようです。それと、ガフラン子爵の部屋にあった花瓶の花の花びらが一枚」
「観賞用の魚にか? それと麻薬がどんな……?」
イヅはライデが書いた記帳の写しをパラパラとめくりながらあるページのある部分を指す。
「ここで気がつくべきでした」
「?」
ガフラン子爵の口内に細長い炎症跡。
室内に花瓶。
「これは僕が模写したものですが。御覧ください」
「!?」
イヅは懐紙を折って作ったメモ帳を見せた。
トカゲかそれに類する右太ももを拡大した絵が描かれていた。
「これが、『ガフラン子爵が刺殺体として発見させられた理由でしょう』」
「??」
(イヅ! 何を言っている!? 金魚鉢のゴミと麻薬は? 労働中毒の過労死は? カエルの足とナイフとは? 『刺殺体として発見させられた』?)
顔に興味と興奮と不安の『微かな表情』を瞬き一回分の時間だけ表すライデ。その後のライデは顔全体に疑問符を浮かべ、イヅの手元の紙と彼の顔を何度も見る。
「はあー?」
とうとう理解の範疇を超えたらしく、美貌の子爵は実に間の抜けた声を出してしまった。
貴族の尊厳も気品もない、間抜けっぷりにイヅは思わず、微妙に眉をひそめてジトッとした目で彼を見てしまった。
