♯003(2025.6.21)

 今夜も銃声と悲鳴が静寂を切り裂く。
 
 全国的に凶悪犯罪の多発が深刻な社会問題となっている、日本。
 そのとある政令都市。
 高層ビルが立ち並び猥雑な繁華街が裾野を広げる都市の喧騒から離れたこの街でも、夜の闇は日ごとにその色を濃くしていた。
 先月21歳の誕生日を迎えたばかりの津村ユキは、そんな不安な時代を生きる、ごく普通の大学生だった。少なくともごく普通だと思っていた。凡百の市民と同じく、平穏無事に毎日を享受することに何も不満はなかった。
 報道される国内の犯罪件数が、即ち、自分の住む街も『数えられている』という暗澹たる現実を無視すれば、だ。
 数年前にとうとう、国内でも絶対数的に人員不足という現実を新法で覆すことができなかった日本政府は、米国に倣ってコンシールドキャリー法を導入した。民間人の拳銃所持をライセンス制で許可したのだ。
 もちろん誰もが好きな銃を所持できるというわけではなく、毎月の厳しい試験と毎月の精神鑑定を一年間、問題なく突破した日本国民だけが『国が指定する銃火器メーカーのコンシールドの法令に抵触しないモデル』を所持することができた。
 それがライセンスだ。それはマイナンバーカードの機能の一つに組み込まれ、拳銃を携帯していてもマイナンバーカードが不携帯だと厳しい罰則が待ち構えている。
 そんな暗い世相の中、彼女の世代は逞しく生きていた。
 ユキのショートカットの髪が風に揺れる、華奢な身体。……けれど、その瞳の奥には、簡単に折れない芯の強さが宿っていた。とはいえ、彼女に何か強盛になってしまう目的や目標があるわけではない。少なくとも今はその自覚は無い。
 日に日に増える犯罪に対しても不安は有っても、だからと言って何もしなければ飢えるだけなのでバイトに励む。……正直、大学で学んでいる事が現実では何も反映されないと思っている。
 目標もなく、無目的に大学を受験し、講義を受ける毎日。専攻する学問を今後どのように活かすのか? ……そこまで考えていない。
 日々を生きている。
 享楽に生きているのではない。
 植物のように生きることだけが目的になっている、デジタルネイティブ世代だ。

 その日も、ユキは深夜まで続くアルバイトを終え、慣れた夜道を一人で歩いていた。
 空気がそろそろ湿度を含む。
 あと2週間もしないうちに不快指数に悩まされる梅雨が訪れるとの予報だ。
 毎年毎年、気候変動が激しく、ユキの周りでも気温や気圧の変動で季節性情動障害に悩まされる学生が多くなっている。
 あたかも、五月病が12ヶ月続くような感覚さえする。ユキも自律神経のケアだけは万全にしたいと思っていても、深夜まで続くバイトと軽い睡眠不足のまま講義を受ける日が続くので、思いっきり息抜きをしたいとつくづく思っている。
 このままだと交感神経が優位な状態が続き、最終的にノルアドレナリンが枯渇して脳疲労からのうつ病にまっしぐらだ。
 その予期不安に、軽く震えを覚える。
 その震えは精神疾患に対する想像からの震えか、それとも、明確な目標もなく進学してしまった自分の人生設計の危険さからか?

 最寄りの駅から自宅までは、街灯もまばらな細い生活道路が続く。ざっと徒歩20分。
 目蓋を落とし気味に、スマホの画面を眺め、今日の出来事をぼんやりと思い返していたその時だった。人間は歩きスマホをすると、視界の80%をスマホに奪われてしまう。これは昨今の夜道では非常に行動だった。
 起きるべくして……突然、背後から荒々しい声が響いた。
 『人間の脳は主語を理解しない』。
 聴覚情報はその声を快か不快かの0/100思考で判断し、不快だと判断した扁桃体は即座にノルアドレナリンとアドレナリンを噴出させて彼女の全身を凍りつかせた。即ち、防御的体勢として体を縮こまらせたように凍結したような姿勢を維持させた。
「なぁ、嬢ちゃん、ちょっと付き合えよ」
 硬直したまま振り返る間もなく、二人の男が素早く回り込み、ユキの前に立ちはだかった。
 どちらも大柄。
 顔には黒い使い捨てマスク。全身から漂う悪意に、彼女の心臓は一瞬で凍りついた。本当に氷の手で心臓を掴まれたかのような恐怖に飲み込まれた。
「いや……!」
 反射的に後ずさり、逃げようとするが、全身の筋肉が緊張しているので予想以上に体が重たい。
 男の一人が素早くユキの腕を掴んだ。もう一人が回り込み、ユキの退路を塞ぐ。
 恐怖で声が出ない。
 大粒の涙が溢れる。
 力で押さえつけられ、体躯、膂力ともに勝てる要素がないユキは悲鳴を挙げる間もなく、地面に引き倒されそうになる。
 体が大きく振り回されて地面に投げつけられるように倒されてしまう。
 叩きつけられた肩や背中から衝撃が伝わり、肺腑の空気が全て吐き出される。
 肘や上腕部を擦りむいたようだが、ノルアドレナリンの作用で痛みが麻痺している。ノルアドレナリンは『闘争か逃走か』を選ばせる役割を担っている。その際に体は否応なく戦闘モードに入り、アドレナリンが噴出し、神経を鈍麻させて多少の打撃でも痛みを感じ難くさせる。
 今の彼女は逃走を選んだはずだが、圧倒的に身体能力が劣ってるために、ノルアドレナリンのもう一つの役割……【『選択』と『行動』の実行】を行っていた。
 それは彼女が意識して行ったと言えなくもない。
 ほぼ無意識だ。
 ユキの脳裏に、取得したばかりのコンシールドキャリーのライセンスが過ぎり、その存在を認知し直した。
 凶悪犯罪の増加に伴い、護身用拳銃の携帯が許可されて以来、ユキは万が一のためにと、ライセンスを取得し、銃を所持していた。
 手元のバッグに収められた、愛用のS&W M351c。
 掌にすっぽりと収まる、Jフレームの小型のリボルバーだ。22WMR。7連発。
 普段は服の下に隠し持ち、その存在を意識する事は殆無く、思ったより出番がなかったのでホルスターではなくバッグに直接放り込んでいたのだ。
 だが……今、その冷たい金属の感触が、背筋に一筋の覚悟を走らせた。
 手元のバッグの底で、震える指先でグリップを保持。
 掌に吸い付く心地よさ。
 地面に倒れたまま、仰向けに銃を抜き放つ。
「離れなさい!」
 精一杯の声で叫び、ユキは男たちに向け、渾身の力で引き金を引いた。……異様に重い引き金だった。講習会のトレーニングの時とは異質な重さだった。
 パンッ!
 紙袋を破裂させたかのような、乾いた銃声が夜の静寂を切り裂き、その直後に鋭く息を呑む呼吸音。
 至近距離での発砲。
 彼我の距離、2m。
 22マグナムを用いるこの銃では理想的な距離。厳密には22WMR……スピアー社のゴールドドット・ショートバレル22WMRのホローポイント弾を装填している。
 国内でのコンシールドキャリー法で、護身用拳銃で用いる拳銃の弾頭はホローポイントのみと決められている。このメーカーのショートバレルシリーズ22マグナムは単純計算で32ACPと同程度以上の性能を持つ。名前の通りに、短い銃身で発砲した時に最高のパフォーマンスを発揮するように設計されている。
 手首に鋭い22マグナムの反動が襲いかかる。だが、ユキの腕力と握力でもコントロールできる軽便さだ。この軽さが気に入ってS&W M351cを選んだのだ。
 男たちは驚きのあまり、裂けんばかりに目を見開き、一瞬怯んだ。
 その隙を逃さず、ユキは銃口を振りながら男たちを牽制し、這う体勢から起き上がり、必死で走り出した。走っている方向が自宅の方向とは違う方向だと気がついていないが、兎に角走った。
 発砲したのだ、そのうち近隣住民が通報するだろう。
 それにコンシールドのライセンスを持つ本人が発砲したのなら24時間以内に警察に通報する義務がある。
 男たちの追跡はない。諦めたか? 巻いたか?
 ただひたすらに、自宅へと向かって走った。……自宅へと通じる路地を探しながら、息を切らし、走った。
 どれくらい走ったのか? 誰とも出会うこと無く、自宅のハイツに辿り着き、玄関の鍵を閉めると、玄関ドアにもたれて背中からズルズルと座り込む。
 安堵と恐怖で全身が震え、その場に崩れ落ちた。
 持っていたS&W M351cが、乾いた音を立てて床に落ちる。
 トレーニングで十分に把握していたはずの引き金の重みが、今はただ虚しく感じられた。
 壁にもたれかかり、ユキは膝を抱えてうずくまった。
 冷たい脂汗が全身を伝う。
 恐怖で視界が歪み、涙がとめどなく溢れ出した。
 小さな身体で味わった、死ぬかもしれない恐怖。
 コンシールドキャリーライセンスを取得していなければ、手元にS&W M351cが無ければどうなっていただろうか。
 想像するだけで、吐き気がこみ上げてくる。
 暗い玄関で、彼女はただ一人、声を殺して泣き続けた。

 翌朝。午前6時。
 ユキは重い身体を引きずるようにして目を覚ます。
  昨夜の出来事が、恐怖の時間が夢ではなかったことを、心臓の奥に巣食う『鈍い痛み』が告げていた。枕は涙で濡れ、目蓋は腫れ上がっている。
 床に落ちたままのS&W M351cと目が遭い、昨夜の恐怖に彩られた生々しい記憶を呼び覚ます。
 網膜に、鼓膜に、肌に、背筋に、あらゆる恐怖が悍ましさをまとって全身を駆け巡る。
 風邪を引いたように吐き気や震えを覚え、再び、ベッドに潜り込む。
 コンシールドキャリーのライセンスは取得しているが、実戦で発砲したのは初めてだ。何より、実際に犯罪の被害者として銃を抜き、発砲したのは始めてだ。
 銃弾が命中したか否かは別だ。
 人に向けて発砲したという大きな負い目が、罪悪感が、正当防衛のもとに行った行為が彼女を苦しめる。
 この精神的ショックで、折角取得したコンシールドキャリーのライセンスを返納する国民はかなり居る。故に、コンシールドキャリーのライセンスを取得するまでに1年間かけて精神鑑定と毎月のカウンセリングを行い、その上で精神に異常がなければコンシールドキャリーにまつわる座学実技を3ヶ月学んで試験を受けて合格する必要がある。
 身を守る道具を手元に置く。……それだけのことに、これだけの時間と試験を課すのは、国が許可を与えて銃を持った人間が『間違い』を犯すのを防ぐためだ。
 銃を護身目的で手元に置くにはさらに大きな法的制約がある。
 そのうちの一つが、『正当防衛が立証される条件が揃ったときのみ、緊急での発砲が許可される』ことだ。
 昨夜は明らかに男たちが先にユキの腕を掴んだ。法的解釈では暴行の意図ありと見做される。それを証明するためにも発砲した場合、警察に通報し、検分が行われ、『本当に正当防衛だったのか?』という法的疑問点が解消されて初めて『正当防衛での発砲』が認められる。正当防衛の成立が認められた通達は後日裁判所から郵送されてくる。
 銃を拾い上げ、薬室を確認する。撃ったのは1発。残弾は6発だ。
 昨夜、男たちに命中したかどうかは分からない。
 ただ、ユキが知っているのは、男たちが怯んだこと、そして、自分がその場から逃げられたということだけだ。
「……通報、しなきゃ……」
 震える声で呟く。義務とはいえ、警察に通報すれば、当然、銃を発砲したことについて詳しく事情を聞かれるだろう。
 護身用とはいえ、銃を使用したことは重い事実だ。
 けれど、通報しなければ、ライセンスは取り消しになる。何より、あの男たちがまたやってきて自分に仕返しするかもしれない。
 その場限りの発砲でこのような苦悩に陥ってライセンスを返納するケースが多いので、国民には思ったほど広くコンシールドキャリー法の恩恵は浸透していない。
 凶悪犯罪が全国的に問題になっている今、自分だけの問題ではない。
 ユキはスマホを手に取り、警察の緊急ダイヤルに電話をかけた。
 心拍亢進。呼吸が早く浅い。朝の早くからコルチゾールが正常値以上に分泌されて扁桃体が騒ぎ立てる。交感神経が脳を支配する。
 指が震え、なかなか番号が押せない。それでも、深呼吸を繰り返し、瞑目し、数分後に意を決してダイヤルした。
「もしもし、警察ですか? あの、昨日の夜、襲われて……それで、私、護身用に持っていた銃を……はい、ライセンス、有ります!」
 電話口の向こうから、事務的な声が聞こえてくる。
 ユキは言葉を選びながら、昨夜の出来事を簡潔に説明した。
 場所、時間、男たちの特徴。そして、自分が銃を発砲したこと。
「……命中したかどうかは、ちょっと分かりません。でも、その場からは逃げることができました」
 電話を切ると、ユキは再びベッドに倒れ込んだ。
 全身の力が抜け、鉛のような倦怠感に襲われる。何もする気になれない。思考が停滞している。……否、情報量が多い上に人生初の経験が多すぎて、ユキのワーキングメモリが完全に逼迫状態なのだ。
 警察への通報で、担当部署の警官が来るまで、自宅のハイツで待機するしかない。
 数分後、玄関のチャイムが鳴った。
 訪れたのは、2人の警察官だった。一人はベテランらしき中年の男性警察官、もう一人は若い女性警察官だ。通報者が女性だったので警察側の配慮で女性警察官を手配してくれたのだろう。深夜に独り歩きの女性が2人の男に襲われたとあってはデリケートな部分に聴取が及ぶ場合が多い。
 2人はユキの顔を見るなり、心配そうな表情を浮かべた。
「お怪我はありませんか、津村さん」
 ベテラン警察官が、柔らかな口調で尋ねる。ユキは青い顔のまま、首を横に振った。自分でも無理をして他人とコミュニケーションを取ろうとしているのが分かる。脳が働かない。粘度の高い液体を流し込まれたように思考が鈍い。
「はい、大丈夫です……多分」
 ユキは彼らをリビングに通し、改めて昨夜の状況を説明した。
 シリンダーを解放し、6発の実包と、1個の空薬莢を並べてS&W M351cテーブルの上に。
 発砲した時の状況、男たちの反応。そして、その時の自分の恐怖。
「発砲されたのは、この拳銃ですね? 確かに登録されています」
 女性警察官が、テーブルに置かれた銃と手元のタブレット端末を見て尋ねる。ユキは頷いた。女性警察官の指先には先程渡した、マイナンバーカードが挟まれている。
「はい……」
「念のため、この銃は鑑識に回させていただきます。それから、現場の状況を確認しに、一緒に向かっていただきますが、お時間は大丈夫ですか?」
 ユキは、再びあの場所に行くことに逡巡したが、それがライセンスを持つ自分の責任だと理解していた。重い足取りで警察官と共に家を出た。
 夜明け直後の薄明るい空が、目覚め始めた町を覆いつくす。

 現場となった細い路地は、夜が明けても尚、陰鬱な雰囲気を纏っていた。
 街灯は消え、周囲の住宅はひっそりと静まり返っている。
 警察官たちがユキの聴取の通りの場所を特殊なライトで地面や壁を照らし、何か痕跡がないかを確認している。
 ユキは、昨夜、自分が立っていた場所にそっと足を踏み入れた。あの時の恐怖が、鮮明に脳内に蘇る。
 男たちの荒々しい声、掴まれた腕の感触、そして、引き金を引いた時の衝撃と銃声……。軽い目眩を覚えたが、ここで倒れてはいけないと奮起して、両足の裏に力を込める。
「何か、変わったことはありませんか?」
 ベテラン警察官がユキに尋ねる。ユキは周囲を見渡し、首を横に振った。
 何も変わっていない。けれど、昨夜、この場所で確かに、自分は銃を撃ったのだ。
 その時、女性警察官が声を挙げた。
「こちらに!」
 ユキとベテラン警察官が駆け寄ると、女性警察官が指差す先には、壁の低い位置に、微かな血痕が付着していた。
 そして、その下には、何かが地面に落ちたような小さな窪みが確認できた。
「……当たったんだ」
 ユキは思わず呟いた。
 血痕の量からして、致命傷ではないだろう。
 けれど、確かに自分の放った弾丸が、男の身体を捉えたのだ。
 安堵と、そして言いようのない罪悪感が入り混じった感情が、ユキの胸に広がり圧壊せんばかりに重くなる。
「この高さは……おそらく、足に当たったのでしょう。この窪みは、弾丸が地面に跳弾した跡のようです」
 ベテラン警察官が冷静に分析する。
 日本国民がコンシールドキャリーで使える弾頭はホローポイントのみだ。
 ホローポイントは硬いコンクリやアスファルトに直撃すると簡単に砕け散るので、その破片を絶対数的に人員不足の警察組織が全て回収するのは事実上不可能だ。……それも見越しての、日本国指定の弾頭なのかもしれない。
「津村さん、よく頑張りましたね。護身用とはいえ、実弾を『相手』に発砲するのは並大抵のことではありません」
 彼の何気ない言葉に、ユキは初めて、自分の行動が間違っていなかったのだと思えた。
 震えや倦怠感が止まり、胸の奥に微かな温かさが広がった。
 鑑識が到着し、血痕や弾痕の採集作業が始まった。
 ユキは一連の作業を見つめながら、改めて日本の銃社会について考えた。
 凶悪犯罪が増える中で、護身用拳銃の所持が認められた。
 しかし、それはあくまで最終手段であり、決して銃による解決が推奨されているわけではない。
 銃を持つことの重みと責任を、ユキは痛感していた。
「津村さん、何か他に思い出すことはありませんか? 男たちの会話の内容とか、持っていたものとか……」
 女性警察官がユキに尋ねる。
 ユキは首を横に振った。
「殆ど何も……。ただ、あまりにも突然のことで……」
「そうですか……無理に思い出さなくても大丈夫ですよ」
 女性警察官はそこで一旦言葉を区切り、撤収しつつある鑑識班を見ながら独り言のように言う。
「しかし、これだけ凶悪犯罪が多発している中で、自分の身は自分で守らなければならないという意識は、今後さらに高まっていくでしょうね」
 ベテラン警察官が複雑な表情で聴いていた。
 その言葉に、ユキは深く頷いた。
 現場での検証を終え、警察署に戻ると、ユキは改めて詳しい事情聴取を受けた。
 何時間も続いた聴取の中で、ユキは昨夜の出来事を何度も繰り返し語った。
 そのたびに、恐怖が蘇り、身体が震えた。
 義務で通報したのに、このようにセカンドレイプに似た扱いは人権侵害だという意見も多い。施行されたコンシールドキャリー法はまだまだ未完成だ。
 聴取が終わり、警察署を出ると、既に日は高く昇っていた。
 疲労困憊の身体で、自宅に戻る。
「もう今日は、ゆっくり休もう」
 そう、呟く。
 しかし、心の中には、まだ拭いきれない不安が残っていた。
 あの男たちは、一体何者だったのか。
 そして、自分が発砲したことで、彼らはどうなったのか。
 全ての謎が解けないまま、不安という形に変貌してユキの心は重く沈んでいた。

 数日後、ユキの元に地元の警察署から鑑識の結果が届いた。
 S&W M351cから発射された弾丸は、確かに男の一人の腕に命中していたことが確認された。
 犯人の男たちの姓名は詳しくは報告されていないがそれは、知る必要も義務もないから伏せられているのか、まだ判明していないのか。
 報告書の文面は詳細を避けるために、かなり曖昧に書かれていたが、即死に至る負傷ではないものの、軽傷以上の負傷を負わせたらしい。
 ユキは、その報告書を見て、安堵と同時に……やはり複雑な感情を抱いた。
 相手を傷つけたことへの罪悪感と、それでも自分の身を守れたという事実。
 コンシールドキャリーの法律が正確に機能するというのは、同時に命を守ることができた被害者が、自ら負う必要のない傷を背負い込むことなのだと知る。
 警察署からの報告の締めくくりには、引き続き捜査を進めるという一文が明記されていた。
 地方版のネット新聞を見ても今回と似通ったケースが瓦の石のように転がっており、今のところ、男たちの足取りは自分で掴むのは不可能だ。
 凶悪犯罪が多発する世の中では、こういった事件も日常の一部となりつつあった。
 ユキは、事件以来、夜道を歩くことに恐怖を感じるようになっていた。
 アルバイトの帰り道も、常に周囲を警戒し、少しでも不審な気配を感じると、すぐに身を隠すようになった。
 揶揄無しで後頭部に目玉が欲しい。
 そんなある日、ユキは思い切って気分転換のために、一人で和喫茶を訪れた。
 お気に入りの店で、いつも注文する抹茶と和菓子のセットを前に、心を静かに落ち着かせようとする。
 昼間でも、衆人環視の中でも……傍に人がいるだけで、老若男女問わず警戒してしまう。それほど神経がすり減っていた。
 ユキは曝露療法のつもりで、いつも気分転換に訪れていた和喫茶に一人で来たのだ。
 何も怖くはない。
 自分は一人の暴漢を撃退したのだ。
 バッグには銃が入っている。
 落ち着け。
 不快な興奮は更に不快な興奮を増進させる。
 即ち、不安。
 不安は正体が分からないから不安という。
 正体が分かればそれは不安ではなく、恐怖と名前が変わる。
 恐怖と名前が変われば具体性が増すので、物理的にも精神的にも打開策が見つかりやすい。
 今は曖昧模糊とした不安が渦巻いているから人前に出るのが怖いだけだ。
 安心しろ、ここに銃がある。この店にはあの男たちはいない。
 自分の脳内を、反芻思考に陥らないように、不安や焦燥の要点をバッグから取り出したメモ帳に思いつくまま書き殴り、扁桃体を鎮める。
 扁桃体の興奮が不安を呼ぶ。ストレスを生む。
 扁桃体は言語化された情報を取り入れると沈静化する。
 だからこそ、不安が暴走しないように、不安が前頭前野を支配しないように、言語化できていない不安の根源のさらに奥底を解析するようにペンを走らせる。
 人間の脳みそは単純だ。眼の前に明確に可視化された言語情報が有れば、更にそれを自らが思い出して、考えて、構築した文章ともなると、そのアウトプットした情報に価値を勝手に見出し、脳が優先するタスクを押しのけて最上位に『自分の書き出したもの』を位置づけてしまう。
 つまり、姿の見えないものに姿を与えて解析しやすいようにサルベージする。たったそれだけで人間の脳は鎮静してしまう。
 脳は本来、快か不快かしか、選択する機能しか持っていない。その選択機能を快に傾ける行為の一つが言語化だ。
 運ばれてきた抹茶。湯のみ茶碗を手に取り、温かさを堪能し、ゆっくりと一口。
 先ず、芳醇な青い香りが鼻を擽る。唇の奥あたりから喉の最奥にかけて、染み込むようにほろ苦さが行き渡り濃厚な茶の甘みを残すが、すっと切れて余韻が嫌味無く残らない。
 それは程よく、張り詰めた心にじんわりと染み渡る。良薬を飲んだかのように倦怠感を覚える脳が緩んだ感覚がする。触らなくとも凝り固まった頭皮が柔らかくなったような気さえする。
 茶道の作法としては菓子を先に口に入れて味わうのだが、ここはもっとカジュアルな場所だ。茶道も作法も関係ない。自分のペースで楽しみたい。
 今はただ、静かな座敷の空間を一人で満喫したい。
 ……けれど、心の奥底に沈んだ不安は、簡単に消えるものではなかった。まだまだ言語化されていない不安は多そうだ。

 S&W M351cを返却するので警察署に来て欲しいと警察官が訪れたその翌日。警察署内での噂話や会話に耳を立てていた。
 拾った情報の断片から、警察の捜査状況が皆目見当がつかないことに、ユキは焦りを感じていた。もしかしたら、あの男たちは、またいつか自分を襲いに来るかもしれない。……そんなネガティブに引っ張られている、悪夢のような想像が、頭から離れない。気を緩めれば次から次へと想像が広がる。
 人間は基本的にネガティブを身近に感じて進化してきた。どんな小さな欠片からでも何百倍もの不安として瞬時にして膨らませることができるのは人間の生物としての才能だ。

────私に、できることはないのかな?

 帰宅するなり、ユキは、テーブルの脇に置かれたやや小さなトートバッグを見た。
 そこには大学で学んでいる学問の資料として積読のままになっている書籍が一冊収まっている。……落ち着いて読む時間がないのだ。
 これでも大学で社会心理学を学ぶ者として、集団の心理や行動パターンを分析することは得意だ。
 もしかしたら、その知識が、警察の捜査の役に立つかもしれない……自分の身を守るのに役に立つのかもしれない……。ふとそんな事を、そんな夢想を考えてしまう。
 こんな場合は、プロフェッショナルの警察は社会不安を煽るのを防ぐために濫りに捜査の進捗を関係者であろうと外部へ報告や連絡はしない。
 ふう、と息を吐くと、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して喉を潤した。

 さらに一週間経過。 
 ユキは、隙間の時間に、過去の似たような事件の報道を調べ始めた。
 全国で発生している凶悪犯罪の事例を片っ端から読み漁る。
 皮肉にも、資料を読み漁る時間を捻出するために寸暇を惜しみ、爪に火を灯す思いで、日常のタスクとルーティンをこなし、簡略化できる用件は後回しにするか友人の力を借りた。結果的に、誰よりも時間の作り方に秀でた生活サイクルが出来上がった。
 犯罪心理学を中心にした資料を読む。
 その中で、ある共通点に気づいた。……否、想像していた事例の裏付けが取れたと言った方が正しいか。
 犯行現場が、どれも比較的人通りの少ない住宅街の路地裏であること。
 そして、被害者が、殆どが女性の一人歩きであること。
「予想通り過ぎて……逆に……」

────自分の無自覚に残念。

 被害者は自ら犯罪心理学で言うところの、犯罪機会理論の被害者になるべく、無自覚に行動している。
 警戒心が薄い人間が犯罪が多発する時間帯に、犯罪が多発する場所へ行けば、犯罪に遭遇する可能性は飛躍的に跳ね上がる。
 ユキはその中で確信した事が一つ有った。
 この連続する事件には、他に例が少ないポイントが存在する。
 それは、『犯人たち』が特定のターゲットを選び、計画的に犯行に及んでいることを示唆していた。
 ユキの専門である社会心理学の観点からすれば、これは機会理論における、特定の状況下で犯罪機会が増加するという典型例だ。
 『犯人たち』は、人通りの少ない夜道、そして一人歩きの女性という、まさに標的の適合性が高い状況を選んでいる。そう……『犯人たち』だ。複数なのだ。
 女性をターゲットにした犯罪は大雑把に3つに分けられる。金と愛と性的嗜好だ。
 金と愛では殆どの場合、顔見知りの犯行……昨今ではSNSでのパラソーシャルな関係も含めて、必ず互いに接触のあるケースが殆だ。
 だが、性癖ともなると話は違ってくる。
 単純にサイコパス型とソシオパス型に分けられないのが、ユキが気付いたポイントだった。
 『犯人は複数』。
 ユキは2人の男に襲われた。
 それも路上強盗としての『位置取り』ではなかった。路上強盗なら静かに速やかに気取られずにをモットーに行動する。そのために複数で行動するが、その場合は分け前ができるだけ多くなるように、統計として2人が多い。
 だが、あの2人の男は違った。
 無駄口が多かった。
 無駄な行動が大きかった。
 自分たちの優位性を見せつけて萎縮させようとする心理が働いている。
 十分に萎縮させて少しばかり、腕力を奮えば被害者は大人しくなるだろうと考えているのだと分かる。
 それを雄弁に語るのが、ユキの銃による反撃に対して心底、驚愕し、目撃者のユキを追いかける防衛的反応すら見せなかった点だ。
 この事から分かるのは、2人の男は『同じ性癖を分かり会える者』同士で、性的嗜好も同じベクトルで、パーソナルとしての性質も同じ。
 性的嗜好を拗らせた犯罪者は基本的に一匹狼だ。統計的には自分の異常性を自覚しており、条件が揃わないと犯行に及ばない。
 その『条件』が合致する男が2人も居た。そして出会い、協力し、一定の条件下で、被害者が『偶々』揃うことで自らの欲望を発散する。
 そう、『偶々』なのだ。
 入念な計画を練っているのなら、ユキがコンシールドキャリーのライセンスを取得して銃を携行しているのも知っているし、それも計画の内だ。なんなら、ユキに暴行を働いた上で、その銃を奪って更に自分たちの暴力性のアピールに使おうと画策するだろう。
 だが、あの夜の男たちの反応は違った。反撃を予想していない顔。即ち、『罠に何がかかるか、それは敢えて計算しない。そこに不確定な要素があるから多幸感や射幸性が生まれる』。
 不確定要素に博打の心理が働くのは……過去に何度も成功して脳内伝達物質のドーパミンによる幸福感を味わい、それが忘れられなくなっているからだ。
 それは俗称で脳汁と呼ばれる。
 エンドルフィンを中心にした脳内麻薬は多数あるが、ドーパミンは即効性が高く……そしてすぐに得た幸せに飽きるので次の獲物を物色する。
 酒やSNSやギャンブルなどの依存症の仕組みと全く同じだ。ドーパミンの供給が絶たれると自己肯定感や自己効力感が下がり、その空虚を埋めるために行動的になる。
 目的は自分たちの条件や美学などに沿った上で、速やかな幸せを得ることなので、我慢できなくなったときが実行の時だ。故に、その時に備えて縄張りは決まっている。
 それに犯人たちの行動範囲を完全に絞るのは自力では無理だ。
 連続で、自分のルールに則り、何かしらの犯行を行うタイプの犯罪者は必ず、『通勤型』と『拠点型』に分ける事ができる。
 『通勤型』とは犯人は遠くに住んでいるが特定の条件が揃った狩り場に通い、やがて土地勘を得る。
 『拠点型』とは犯罪心理学のサークル円仮説で語られるように、同じ犯人が犯した犯罪が発生した、最も遠い点を2つ線で繋いで円を描いた中に犯人たちの拠点があるが、犯人たちは心理的にコールサック効果──拠点の周囲約2km以内では特定されにくいように犯罪を犯さない心理──が働くために、元から土地勘が優れている。
 ユキは、自分の分析をまとめた資料を作成し、匿名で地方のネット掲示板と別に作成したSNSのアカウントで情報を共有することにした。インフルエンサーとは程遠いが、もしかしたら、それが、事件解決や予防の何かの一助……糸口になるかもしれない。
 彼女に義侠心はない。
 自分と同じ被害者を増やしたくないのと、コンシールドキャリー法がまだまだ途上であり、当事者になった場合の心の負荷を訴えたかっただけだ。
 その小さな手伝いの手段として、インターネット隆盛の時代らしい方法を真似ただけである。
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