♯006『文筆家は夜警の一人』(全3話/現在2話まで公開中)
【♯003「染み出す死」3/5】
その日の夜。宵刻(午後10時)頃。
陣頭指揮の名目で夜警団の事務所に息抜きに来たライデ・ジーロ。
彼のタイムテーブルは過密で、治安府と役所と所轄の自警団の事務所巡りの毎日で、世間が想像するようにきらびやかな貴族生活とはやや遠い位置にいる。更に山のような書類仕事だ。
そんな彼も人間なので休息や休養が必要だが、なかなかまとまった時間の休日が獲得できない。
だから、毎日のスケジュールの中での僅かな時間にストレス発散のための雑談をしに来る。……勿論、話し相手はイヅだ。
夜警団で事務要員として常に集会所の一室で治安府に提出する書類を作成しているイヅ。
(……この足音は……疲労を感じる。踵を引きずり気味。腰の剣の音が大きい。強く雑な衣擦れの音)
廊下の向こうからやってくるライデのコンディションを耳でいち早く察知して、彼のために椅子と尻に敷くクッションを用意する。
「陣頭指揮で檄を飛ばしに来たが、行き違いだったらしい」
彼はそう言いながら、事務所で紙にペンを走らせる少年に言う。
(……と、いう手前の言い訳を用意して参上ですか)
彼も貴族である。貴族に間違えは許されない。なので、彼と夜警団本隊が合流できなかったのは、夜警団本隊がすでに任務のために出払っていたからだという、建前が必要だ。
そうでなければ『浮いた時間に休むことができなくなる』。
「『皆様はすでに出られたようです。遅かったようですね』」
イヅも話を合わせるように……全て言わなくても貴方が言いたいことはわかりますよ、という『理解を示す』。
イヅはペンを止めて、席を立ち、茶を入れる。生憎ここにある茶は茶葉よりも乾燥させた香草を大量に混ぜた安物で、茶に近い味がする、温かい何かだ。
ライデはイヅが用意していたクッションが敷かれた椅子に腰掛けると、イヅの机に向きなおり、単刀直入に言う。
「ガフラン子爵の件、殺人で『終わりそうだ』。だが、犯人がいないのでは体裁が悪い」
(でしょうねー)
「事件が起きた時間から家人や使用人の動向を調べさせたが、『家の外部の者』と接触している人間はいなかった」
『家の外部』とは、ガフラン家の誰かが、どこかの誰かや組織と共謀して、殺害を依頼した疑いを指す。ライデはそれを今のところ、否定している。
「勿論、事件が起きる前の家族や使用人や親類縁者も調べたが、殺害の動機になる者は今のところ浮上せず……。商売敵は多いが、金融業にも『調整役』と『それを必要とする仕組み』があるので、『大きな力の均衡の崩れ』は誰も望んでいないようだ」
(つまり、業界人間同士が切磋琢磨している間柄、だと)
イヅは彼の前に茶の器を置いて、茶器から熱いそれを注ぐ。
彼は思い出したように懐から練り菓子の紙袋を取り出し、豆を食べるように小さな粒のそれを掴んで口に放り込む。
「分かってる。みなまで言うな」
ライデはイヅのじとっとした視線を感じて唇を尖らせる。
たしかに甘いものは疲労を軽減させることができるが、それも度を超えてしまえば体に毒だ。飲水病にでもなってしまったらもう治療は不可能だ。
彼にはなんとしても長生きしてもらわねばならない。
「なあ、イヅ」
「はい。なんでしょう?」
再び椅子に座りペンを持とうとしていたイヅに話しかけるライデ。
彼の声には疲労の色が感じられる。ろうそくだけの薄暗い部屋でもよく分かる疲労の色。
「うちの敷地内に離れがあるのだが、そこを貸してやるぞ」
「藪から棒に……。なんです? そんな事をしても懐柔されませんよ。僕はいただけるものが、過不足なくいただけだける、今の生活が好きなんです」
少しぽかんとしていたライデだが、イヅはどうやら、従者としてスカウトして事件解決代の本代をケチろうとライデが目論んでいると思い込んでいるらしい。……それを察したライデは顔の前で手を振る。
「いやいやいや! 使っていない離れの有効な活用法が見つからないからなんとなく言っただけだ!」
「本当ですか?」
疑いの目を向けるイヅ。それも仕方がない。ジーロ家は子爵階級の貴族ではあるが、決して裕福ではない。裕福ではないから当主が世襲制で継いでいる治安府の役人なんぞを請け負っているのだ。金が有れば別の楽な働き口に鞍替えしてるだろう。ライデの正義感が普通の人間より熱いとは思えない。
そのライデが貴族としての世間体を守るために、敷地内で雇っている使用人の数で子爵の力をアピールしたいが、都合よく低価格で雇える人間に心当たりがないので、この際だからイヅを自分の正式な使用人として雇ってしまおう……と、考えたに違いない! とイヅは勘繰ったのだ。
(焦り。焦り。不安。困惑)
(どうやら、僕のはったりに『驚き』を感じているな。本当に僕を使用人に雇うつもりはないようだ)
「ライデ様、お言葉ながら、この際ですから言っておきますが。僕はライデ様の従者でもお手つきでも下男でも……それになってしまえば、全く役に立たない人間に成り下がりますよ」
「え?」
きょとんとするライデ。彼は話を軽く流されると思っていただけに、イヅの言葉は意外だったようだ。
「僕は文筆業者の顔をしていますが、貴方も御存知の通り、本さえ読めて、内容を試行錯誤して自分なりの成否や結果や仮説が出せればそれで幸せなんです。卑しい身分ながらも知的探求心は人一倍あるようです。……そんな僕がここまで意識を高めていられるのは、今の境遇がそこそこの庶民だからです。この境遇が自分を研鑽するのに、今は最適だと愚かなりに弁えているつもりです」
そこまで喋ってイヅは手元の茶を飲むと、一息ついて、言葉を少しだけ続けた。
「こんな僕を見守ってくれているあなたが……いつもそこで心に僕を留めておいてくれている。それに勝る安心がありましょうか?」
言葉の後半はやや声のトーンが深くなり、イヅの瞳は微かに潤む。乾いた唇を舐める少年の小さな舌先がやけに赤く見えた。
ライデは自分の何気ない雑談程度の話でも、この少年からすれば住む世界を一転させる、位打ちに等しい意地悪を言っていたと解釈されたらしい。
「すまない」
と少年の涙をたたえそうな潤み始めた瞳に向かって真摯に謝罪する。言葉は短いが、そこに込められた謝罪の意志と、自らの発言の所在のなさを諌める心は本物だった。
「分かっていただければ感謝します」
彼はそう言うと静かに席を立ち、子爵の傍を通り過ぎた。
ライデの傍を通り過ぎる一瞬、イヅは懐紙を取り出し、その角で眦に溜まった涙を押さえるようにして染み込ませた。
(イヅに大きな負担を強いるところだった……。泣かせてしまうとは……)
ライデはイヅの芯の強さを知っている。その芯が強い少年が必死で今を守ろうとしている努力を、貴族の力でもっていとも容易く否定してしまうような言葉を言った自分の右頬を自分ではたく。
一方、事務所から出たイヅは。
(あー、この時間に重い話を持ってこられても頭が働かないんだよなー。あの空気の読めなさがライデ様なのだけど)
と、心の中で苦笑いしながら、両まぶたを懐紙で抑えていた。
この時間になると決まってイヅは眠くなる。なんでも人間の体には時刻を計る機能が何処かにあるらしく、その時計には眠気が強く出る時間帯があらかじめ記されているらしい。
ライデが夜警団の連中に檄を飛ばしに来る時間帯が一番眠く、欠伸を堪えるので精一杯だ。
さきほども、長く喋りすぎてあくびを噛み殺したのはいいが、眠い目から溢れる涙が止められないので中座してしまった。
スポンサーたるライデの前で任務の意欲が引く顔など見せられない。自分の勤務態度で夜警団の寄付金が減るのは勘弁被りたい。
「濃い茶でも淹れるか」
そう言いながら、イヅはライデのいる事務所に踵を返した。
事務所には、ライデの姿はなかった。
机の上にライデの手帳のページが破られたものが置いてあった。
『お前の力になりたいだけだった。』
と、一言だけ記されている。
(本当に変わった貴族様だなー。こんな庶民を助けたところで何もならないというのに)
その頃のライデはというと……。
(あ、しまった! あの文では手籠めに失敗した男の未練がましい捨て台詞にも捉えられるな……)
やっちまった、という顔で、隣町の夜警団の事務所へとトボトボ歩いていった。
※ ※ ※
翌日。昼食の直後にライデがイヅの自宅を訪れた。
彼は忙しい身ではあるが、自前の機動力たる馬車を下駄履きのように使えるほどの資産ではないのでいつも乗合馬車を使って拝領区画(建国の際に褒美として与えられた、下町にある、事実上の彼の家系の所領)から庶民が住む区画までやってくる。
さらに治安府の身分ある役人だと言うのに、警護もつけずに剣を一本携えているだけなので非常に危なっかしい。
彼の貴族としての社会的地位は低い。しかし、彼が治安府の役人として社会に貢献しているのは確かだ。彼の軍配いかんで所轄の防犯体制は左右される。
(その自覚が今一つ薄いお陰で領民からは『会いに行ける貴族様』として支持されているんだよなー)
イヅは珍しく自宅で朝食を食べていた。その直後にライデが転がり込むようにイヅの家にやってきたのだ。
ノックの音がうるさいので早くドアを開けるや否や、彼は両手で押していた目の前の壁が突然消えたと言わんばかりに重心を崩してイヅの自宅の床に顔からつんのめった。
「!」
「!」
イヅは、顔面から床に盛大に口付けをしそうなライデを助けようと、彼の体の下に爪先から床をスライディングして自らがクッションになる。
「大丈夫ですか!? ライデ様!」
「……」
「?! ライデ様!」
イヅの腹の上に顔を埋めたままのライデが中々起き上がろうとせず、踏みつけたカエルのように床の上で伸びているので流石に心配になるイヅ。
人間には多かれ少なかれ、様々な局面で復元性が働く。躓いたのならすぐに正確に歩こうとするし、よそ見して歩いていても、すぐに視線を戻そうとする。一説では人間が猿だった頃に一方向だけに注意を注いでいたり、いつまでも倒れていると敵に襲われやすくなるから身についた反応だと言われている。
この心理的な反応に『反応しない』彼が心配になり、もしや頭でもぶつけたか!? と冷や汗が吹き出る。
「……」
「?」
美貌の子爵が貴族にあるまじき無様な格好で床に伸びている。その彼が何事かぶつぶつと言っている。
「?」
「もうここでいい」
「はい?」
「もう……ここで寝たい……」
ライデの寝言のような覇気のない声を聞くや、イヅは無防備に晒すライデの後頭部に肘を落としてやろうかと思った。
「あー……持って帰りたい」
彼の、色々と端折った言葉を聞いて、まだこの貴族様は僕を自宅の使用人にしたいのかとジトっとした目で見下ろした。
彼は純粋に、自分の頭部にマッチした、よく眠れそうな枕を見つけたのでこれを持って帰りたいと言っただけなのだが、その真意はイヅには伝わっていない。
「どうした?」
「何が有った?」
「ほら、いつもの貴族様が……」
近所の住人たちが開け放たれたドアの向こうから、イヅの下腹辺りで顔を埋めて少年の腰を抱くようにしている姿を見て、「まあ、積極的な」「貴族様の興しに入るのか?」「前から浮いた話がないとは思っていたけど……ねえ」「朝から大胆なことで」と、好き勝手に感想を述べるので、このままではどんな噂が立つかわからないと危惧したイヅは、必死で守った彼の頭部をポイと浮かせて、その隙に体を逃がして立ち上がる。
住人たちは貴族の濃密な寵愛を受けていたはずの少年の下半身が無事だったので残念そうな顔をする者も居た。
今朝ほど、人前から消え去りたと思ったことはない。
それこそ、彼に責任をとってもらい、彼の自宅にあるという離れにでも一生住まわせてもらわないと世間に見せる顔がない。否、世間に顔を見せたくない。
(まさか、それが狙いか!?)
(いや、この人はそんな先まで計算できるほど賢くない!)
軽い嫌悪の『微かな表情』を浮かべながら、心の中で衆人環視に近い中で寝こけているライデをずるずると引きずり、自宅内に入れるとドアを閉めた。
ドアの向こうから「頑張れよ坊主!」「逃がしちゃダメだよ!」「何か精のつくものでも買ってきてやろうか?」と住人たちの好き勝手な言葉がドアに突き刺さる。
ドアを背に、固く閉じた唇を震わせて顔を真赤にしているイヅ。
(なんで朝からこんな目に! 朝でなくてもイヤだけど!!)
「……」
気持ちよさそうに床に倒れ込んだままの美貌の貴族を見る。疲労の色が隠せないやつれた頬とあばら家の床の色調と妙に合って、それはそういう名前の芸術があるのではないかと、ふと脳裏をよぎった。
いやいや! と、かぶりを振ってすぐにライデを肩から抱えて歯を食いしばって自分のベッドへと運ぶ。
肩で息をしながらイヅは彼の落としていった荷物や小物を拾おうと視線を床に這わせる。
「……?」
(これは……)
床に落ちていた記帳の写し。前に見せてもらった彼の手書きの調書の写しではない。筆跡が違う。治安府の補佐にでも写させたのか?
「それは、新しい情報と私の記述漏れを補った改訂版だ」
「起きましたか」
「『非常に独特』の寝心地だったので気力が養えた」
「庶民の寝具はやはりライデ様にはお気に入りございませんでしたか」
イヅのベッドで目を覚ましたライデの軽口に対して、この野郎と思いつつも謙りを含めた苦笑いを作って彼にぶつける。普通の感性を持つ人間なら自分の失言を恥じ入るところだが、『斜め上の発言を平気で放り返してくる』のが、さすが我らが子爵様だと思った。
「お前の匂いが体内にひそみいる夢を見たよ」
(この野郎……やはり、肘鉄を頭に叩き落しておけばよかった)
イヅのベッドから無理をして起き上がるライデ。疲労困憊なのは事実らしく、ここ数日、別件も抱えていたようなのでガフラン子爵の件は書類の作成のみ、補佐や代理に任せて、寸暇を惜しんで走り回っていたようだ。彼の靴の汚れやズボンの膝を見れば激務ぶりがうかがえる。
「この調書の内容は後で伺います。暫くお待ち下さい。茶を淹れます」
「茶はいい。また倒れるやもしれん。先に喋らせてくれ。……その記帳を読みながらでいい」
「はい、では」
彼は大きく息を吸うと、話し始めた。……疲労に飲み込まれている哀れな貴族ではなく、背筋を伸ばしてよく通る声で話す。……庶民のガキに何を格好をつけているのやら。
「犯人は単独。争った形跡がないことから親しい人物の犯行。窓枠の足跡については賊が子爵の死体を見て驚いて逃げ出したため本件とは無関係。……という筋書きで御蔵入り確定になりそうだ」
(不快。嫌悪。怒り。……隠そうともしない表情。相当お怒りで)
手元の記帳が彼が書いたものではないとは言え、魔術書のように重々しく感じられた。
ライデの焦りと立腹が解るだけにイヅも何か力になってやりたいが、お得意の相手の顔から感情を読み取る能力は容疑者と対面して初めて効果を発揮する。
現場百遍の治安府の警吏とは根本的に違う。
それもこれも、容疑の濃い人間が順番に容疑が晴れてしまい、無為に聞き込みができる対象がいなくなった。
……そして何より大きな問題点は。
「犯人が分からん! 『そもそも、犯人がいるのか?!』」
先程までの貴族の凛然たる姿勢を保持していたライデが糸を切った人形のように再び庶民のベッドに崩れて頭を掻きむしる。
(遺体の腹部に突き刺さったままだったというナイフ、到底、致命傷を与えられるような刃渡りでもないし致命的な臓器を傷つけられたわけでもない)
自分の能力不足を嘆くライデを横目にイヅは脳内のガフラン邸の見取り図と手元の記帳を照らし合わせる。
口元に手の甲を当て、視線を左右の下側に走らせながら、しばし、神妙な顔で思考を巡らせる。
(執務室の鍵は開いていた。誰でも出入りできる。第一発見者の使用人の疑いも晴れている。窓枠の靴跡……つまり、窓からの出入りも自由だった。飼い猫でさえ出入りするのだから……)
そこまで考えて脳裏に何か閃くものが有った。
ただ瞬間の火花が散った感覚だったので、すぐに忘却の彼方へと押しやられる。
「はー。……上役の言う通りに事件を仕舞うのはなんとしても避けたい。相手は同じ子爵でも資産力が桁違いで『仕事を融通してやった』と思いこんでいるのだろうな……」
「なんですか! みっともない! 睡眠不足と心身の疲労で心がささくれていますよ!」
イヅはそう言って、彼の目の前にあまり高価ではないがそこそこの甘みがある乾燥果物を差し出す。
「決まった時間に食事をして、四刻(八時間)の睡眠をして、血行を促すように体を動かしてください。それだけで体内では疲労回復に必要な物質が作られて心地よく睡眠できます。どんなに疲れていてもベッドに入った途端に眠れるうちに十分お休みください。心身が疲れているのに眠りに妨げが出るとなかなか元に戻りませんよ」
乾燥果物を齧りながら、ライデは口をとがらせる。
「飲水病もそうだが、世の中には元に戻らない病ばかりだな」
「それが世の儚さです。いずれは克服される病でしょうが、今の我々の知識では対処できません」
「ふん……」
子供が拗ねるような顔で乾燥果物を咀嚼するライデ。
(飲水病……元に戻らない……さっきも何かちらっと『繋がった』んだよなー。あー! イライラする!)
粗末なベッドの上で胡座を書いて口をモゴモゴさせる美青年と、その傍で立ちっぱなしのまま記帳を睨みつける少年。
イヅがふと振り向いた時には、ライは再びベッドに横になり、寝息を立てていた。
無防備な横顔は本来なら、彼の褥の中でのみ晒す顔であってこんなあばら家の無名の少年に無料で見せるものではない。
(しょうがない人だ)
イヅは後頭部を掻き、彼にシーツを掛けてやった。
その日の夜。宵刻(午後10時)頃。
陣頭指揮の名目で夜警団の事務所に息抜きに来たライデ・ジーロ。
彼のタイムテーブルは過密で、治安府と役所と所轄の自警団の事務所巡りの毎日で、世間が想像するようにきらびやかな貴族生活とはやや遠い位置にいる。更に山のような書類仕事だ。
そんな彼も人間なので休息や休養が必要だが、なかなかまとまった時間の休日が獲得できない。
だから、毎日のスケジュールの中での僅かな時間にストレス発散のための雑談をしに来る。……勿論、話し相手はイヅだ。
夜警団で事務要員として常に集会所の一室で治安府に提出する書類を作成しているイヅ。
(……この足音は……疲労を感じる。踵を引きずり気味。腰の剣の音が大きい。強く雑な衣擦れの音)
廊下の向こうからやってくるライデのコンディションを耳でいち早く察知して、彼のために椅子と尻に敷くクッションを用意する。
「陣頭指揮で檄を飛ばしに来たが、行き違いだったらしい」
彼はそう言いながら、事務所で紙にペンを走らせる少年に言う。
(……と、いう手前の言い訳を用意して参上ですか)
彼も貴族である。貴族に間違えは許されない。なので、彼と夜警団本隊が合流できなかったのは、夜警団本隊がすでに任務のために出払っていたからだという、建前が必要だ。
そうでなければ『浮いた時間に休むことができなくなる』。
「『皆様はすでに出られたようです。遅かったようですね』」
イヅも話を合わせるように……全て言わなくても貴方が言いたいことはわかりますよ、という『理解を示す』。
イヅはペンを止めて、席を立ち、茶を入れる。生憎ここにある茶は茶葉よりも乾燥させた香草を大量に混ぜた安物で、茶に近い味がする、温かい何かだ。
ライデはイヅが用意していたクッションが敷かれた椅子に腰掛けると、イヅの机に向きなおり、単刀直入に言う。
「ガフラン子爵の件、殺人で『終わりそうだ』。だが、犯人がいないのでは体裁が悪い」
(でしょうねー)
「事件が起きた時間から家人や使用人の動向を調べさせたが、『家の外部の者』と接触している人間はいなかった」
『家の外部』とは、ガフラン家の誰かが、どこかの誰かや組織と共謀して、殺害を依頼した疑いを指す。ライデはそれを今のところ、否定している。
「勿論、事件が起きる前の家族や使用人や親類縁者も調べたが、殺害の動機になる者は今のところ浮上せず……。商売敵は多いが、金融業にも『調整役』と『それを必要とする仕組み』があるので、『大きな力の均衡の崩れ』は誰も望んでいないようだ」
(つまり、業界人間同士が切磋琢磨している間柄、だと)
イヅは彼の前に茶の器を置いて、茶器から熱いそれを注ぐ。
彼は思い出したように懐から練り菓子の紙袋を取り出し、豆を食べるように小さな粒のそれを掴んで口に放り込む。
「分かってる。みなまで言うな」
ライデはイヅのじとっとした視線を感じて唇を尖らせる。
たしかに甘いものは疲労を軽減させることができるが、それも度を超えてしまえば体に毒だ。飲水病にでもなってしまったらもう治療は不可能だ。
彼にはなんとしても長生きしてもらわねばならない。
「なあ、イヅ」
「はい。なんでしょう?」
再び椅子に座りペンを持とうとしていたイヅに話しかけるライデ。
彼の声には疲労の色が感じられる。ろうそくだけの薄暗い部屋でもよく分かる疲労の色。
「うちの敷地内に離れがあるのだが、そこを貸してやるぞ」
「藪から棒に……。なんです? そんな事をしても懐柔されませんよ。僕はいただけるものが、過不足なくいただけだける、今の生活が好きなんです」
少しぽかんとしていたライデだが、イヅはどうやら、従者としてスカウトして事件解決代の本代をケチろうとライデが目論んでいると思い込んでいるらしい。……それを察したライデは顔の前で手を振る。
「いやいやいや! 使っていない離れの有効な活用法が見つからないからなんとなく言っただけだ!」
「本当ですか?」
疑いの目を向けるイヅ。それも仕方がない。ジーロ家は子爵階級の貴族ではあるが、決して裕福ではない。裕福ではないから当主が世襲制で継いでいる治安府の役人なんぞを請け負っているのだ。金が有れば別の楽な働き口に鞍替えしてるだろう。ライデの正義感が普通の人間より熱いとは思えない。
そのライデが貴族としての世間体を守るために、敷地内で雇っている使用人の数で子爵の力をアピールしたいが、都合よく低価格で雇える人間に心当たりがないので、この際だからイヅを自分の正式な使用人として雇ってしまおう……と、考えたに違いない! とイヅは勘繰ったのだ。
(焦り。焦り。不安。困惑)
(どうやら、僕のはったりに『驚き』を感じているな。本当に僕を使用人に雇うつもりはないようだ)
「ライデ様、お言葉ながら、この際ですから言っておきますが。僕はライデ様の従者でもお手つきでも下男でも……それになってしまえば、全く役に立たない人間に成り下がりますよ」
「え?」
きょとんとするライデ。彼は話を軽く流されると思っていただけに、イヅの言葉は意外だったようだ。
「僕は文筆業者の顔をしていますが、貴方も御存知の通り、本さえ読めて、内容を試行錯誤して自分なりの成否や結果や仮説が出せればそれで幸せなんです。卑しい身分ながらも知的探求心は人一倍あるようです。……そんな僕がここまで意識を高めていられるのは、今の境遇がそこそこの庶民だからです。この境遇が自分を研鑽するのに、今は最適だと愚かなりに弁えているつもりです」
そこまで喋ってイヅは手元の茶を飲むと、一息ついて、言葉を少しだけ続けた。
「こんな僕を見守ってくれているあなたが……いつもそこで心に僕を留めておいてくれている。それに勝る安心がありましょうか?」
言葉の後半はやや声のトーンが深くなり、イヅの瞳は微かに潤む。乾いた唇を舐める少年の小さな舌先がやけに赤く見えた。
ライデは自分の何気ない雑談程度の話でも、この少年からすれば住む世界を一転させる、位打ちに等しい意地悪を言っていたと解釈されたらしい。
「すまない」
と少年の涙をたたえそうな潤み始めた瞳に向かって真摯に謝罪する。言葉は短いが、そこに込められた謝罪の意志と、自らの発言の所在のなさを諌める心は本物だった。
「分かっていただければ感謝します」
彼はそう言うと静かに席を立ち、子爵の傍を通り過ぎた。
ライデの傍を通り過ぎる一瞬、イヅは懐紙を取り出し、その角で眦に溜まった涙を押さえるようにして染み込ませた。
(イヅに大きな負担を強いるところだった……。泣かせてしまうとは……)
ライデはイヅの芯の強さを知っている。その芯が強い少年が必死で今を守ろうとしている努力を、貴族の力でもっていとも容易く否定してしまうような言葉を言った自分の右頬を自分ではたく。
一方、事務所から出たイヅは。
(あー、この時間に重い話を持ってこられても頭が働かないんだよなー。あの空気の読めなさがライデ様なのだけど)
と、心の中で苦笑いしながら、両まぶたを懐紙で抑えていた。
この時間になると決まってイヅは眠くなる。なんでも人間の体には時刻を計る機能が何処かにあるらしく、その時計には眠気が強く出る時間帯があらかじめ記されているらしい。
ライデが夜警団の連中に檄を飛ばしに来る時間帯が一番眠く、欠伸を堪えるので精一杯だ。
さきほども、長く喋りすぎてあくびを噛み殺したのはいいが、眠い目から溢れる涙が止められないので中座してしまった。
スポンサーたるライデの前で任務の意欲が引く顔など見せられない。自分の勤務態度で夜警団の寄付金が減るのは勘弁被りたい。
「濃い茶でも淹れるか」
そう言いながら、イヅはライデのいる事務所に踵を返した。
事務所には、ライデの姿はなかった。
机の上にライデの手帳のページが破られたものが置いてあった。
『お前の力になりたいだけだった。』
と、一言だけ記されている。
(本当に変わった貴族様だなー。こんな庶民を助けたところで何もならないというのに)
その頃のライデはというと……。
(あ、しまった! あの文では手籠めに失敗した男の未練がましい捨て台詞にも捉えられるな……)
やっちまった、という顔で、隣町の夜警団の事務所へとトボトボ歩いていった。
※ ※ ※
翌日。昼食の直後にライデがイヅの自宅を訪れた。
彼は忙しい身ではあるが、自前の機動力たる馬車を下駄履きのように使えるほどの資産ではないのでいつも乗合馬車を使って拝領区画(建国の際に褒美として与えられた、下町にある、事実上の彼の家系の所領)から庶民が住む区画までやってくる。
さらに治安府の身分ある役人だと言うのに、警護もつけずに剣を一本携えているだけなので非常に危なっかしい。
彼の貴族としての社会的地位は低い。しかし、彼が治安府の役人として社会に貢献しているのは確かだ。彼の軍配いかんで所轄の防犯体制は左右される。
(その自覚が今一つ薄いお陰で領民からは『会いに行ける貴族様』として支持されているんだよなー)
イヅは珍しく自宅で朝食を食べていた。その直後にライデが転がり込むようにイヅの家にやってきたのだ。
ノックの音がうるさいので早くドアを開けるや否や、彼は両手で押していた目の前の壁が突然消えたと言わんばかりに重心を崩してイヅの自宅の床に顔からつんのめった。
「!」
「!」
イヅは、顔面から床に盛大に口付けをしそうなライデを助けようと、彼の体の下に爪先から床をスライディングして自らがクッションになる。
「大丈夫ですか!? ライデ様!」
「……」
「?! ライデ様!」
イヅの腹の上に顔を埋めたままのライデが中々起き上がろうとせず、踏みつけたカエルのように床の上で伸びているので流石に心配になるイヅ。
人間には多かれ少なかれ、様々な局面で復元性が働く。躓いたのならすぐに正確に歩こうとするし、よそ見して歩いていても、すぐに視線を戻そうとする。一説では人間が猿だった頃に一方向だけに注意を注いでいたり、いつまでも倒れていると敵に襲われやすくなるから身についた反応だと言われている。
この心理的な反応に『反応しない』彼が心配になり、もしや頭でもぶつけたか!? と冷や汗が吹き出る。
「……」
「?」
美貌の子爵が貴族にあるまじき無様な格好で床に伸びている。その彼が何事かぶつぶつと言っている。
「?」
「もうここでいい」
「はい?」
「もう……ここで寝たい……」
ライデの寝言のような覇気のない声を聞くや、イヅは無防備に晒すライデの後頭部に肘を落としてやろうかと思った。
「あー……持って帰りたい」
彼の、色々と端折った言葉を聞いて、まだこの貴族様は僕を自宅の使用人にしたいのかとジトっとした目で見下ろした。
彼は純粋に、自分の頭部にマッチした、よく眠れそうな枕を見つけたのでこれを持って帰りたいと言っただけなのだが、その真意はイヅには伝わっていない。
「どうした?」
「何が有った?」
「ほら、いつもの貴族様が……」
近所の住人たちが開け放たれたドアの向こうから、イヅの下腹辺りで顔を埋めて少年の腰を抱くようにしている姿を見て、「まあ、積極的な」「貴族様の興しに入るのか?」「前から浮いた話がないとは思っていたけど……ねえ」「朝から大胆なことで」と、好き勝手に感想を述べるので、このままではどんな噂が立つかわからないと危惧したイヅは、必死で守った彼の頭部をポイと浮かせて、その隙に体を逃がして立ち上がる。
住人たちは貴族の濃密な寵愛を受けていたはずの少年の下半身が無事だったので残念そうな顔をする者も居た。
今朝ほど、人前から消え去りたと思ったことはない。
それこそ、彼に責任をとってもらい、彼の自宅にあるという離れにでも一生住まわせてもらわないと世間に見せる顔がない。否、世間に顔を見せたくない。
(まさか、それが狙いか!?)
(いや、この人はそんな先まで計算できるほど賢くない!)
軽い嫌悪の『微かな表情』を浮かべながら、心の中で衆人環視に近い中で寝こけているライデをずるずると引きずり、自宅内に入れるとドアを閉めた。
ドアの向こうから「頑張れよ坊主!」「逃がしちゃダメだよ!」「何か精のつくものでも買ってきてやろうか?」と住人たちの好き勝手な言葉がドアに突き刺さる。
ドアを背に、固く閉じた唇を震わせて顔を真赤にしているイヅ。
(なんで朝からこんな目に! 朝でなくてもイヤだけど!!)
「……」
気持ちよさそうに床に倒れ込んだままの美貌の貴族を見る。疲労の色が隠せないやつれた頬とあばら家の床の色調と妙に合って、それはそういう名前の芸術があるのではないかと、ふと脳裏をよぎった。
いやいや! と、かぶりを振ってすぐにライデを肩から抱えて歯を食いしばって自分のベッドへと運ぶ。
肩で息をしながらイヅは彼の落としていった荷物や小物を拾おうと視線を床に這わせる。
「……?」
(これは……)
床に落ちていた記帳の写し。前に見せてもらった彼の手書きの調書の写しではない。筆跡が違う。治安府の補佐にでも写させたのか?
「それは、新しい情報と私の記述漏れを補った改訂版だ」
「起きましたか」
「『非常に独特』の寝心地だったので気力が養えた」
「庶民の寝具はやはりライデ様にはお気に入りございませんでしたか」
イヅのベッドで目を覚ましたライデの軽口に対して、この野郎と思いつつも謙りを含めた苦笑いを作って彼にぶつける。普通の感性を持つ人間なら自分の失言を恥じ入るところだが、『斜め上の発言を平気で放り返してくる』のが、さすが我らが子爵様だと思った。
「お前の匂いが体内にひそみいる夢を見たよ」
(この野郎……やはり、肘鉄を頭に叩き落しておけばよかった)
イヅのベッドから無理をして起き上がるライデ。疲労困憊なのは事実らしく、ここ数日、別件も抱えていたようなのでガフラン子爵の件は書類の作成のみ、補佐や代理に任せて、寸暇を惜しんで走り回っていたようだ。彼の靴の汚れやズボンの膝を見れば激務ぶりがうかがえる。
「この調書の内容は後で伺います。暫くお待ち下さい。茶を淹れます」
「茶はいい。また倒れるやもしれん。先に喋らせてくれ。……その記帳を読みながらでいい」
「はい、では」
彼は大きく息を吸うと、話し始めた。……疲労に飲み込まれている哀れな貴族ではなく、背筋を伸ばしてよく通る声で話す。……庶民のガキに何を格好をつけているのやら。
「犯人は単独。争った形跡がないことから親しい人物の犯行。窓枠の足跡については賊が子爵の死体を見て驚いて逃げ出したため本件とは無関係。……という筋書きで御蔵入り確定になりそうだ」
(不快。嫌悪。怒り。……隠そうともしない表情。相当お怒りで)
手元の記帳が彼が書いたものではないとは言え、魔術書のように重々しく感じられた。
ライデの焦りと立腹が解るだけにイヅも何か力になってやりたいが、お得意の相手の顔から感情を読み取る能力は容疑者と対面して初めて効果を発揮する。
現場百遍の治安府の警吏とは根本的に違う。
それもこれも、容疑の濃い人間が順番に容疑が晴れてしまい、無為に聞き込みができる対象がいなくなった。
……そして何より大きな問題点は。
「犯人が分からん! 『そもそも、犯人がいるのか?!』」
先程までの貴族の凛然たる姿勢を保持していたライデが糸を切った人形のように再び庶民のベッドに崩れて頭を掻きむしる。
(遺体の腹部に突き刺さったままだったというナイフ、到底、致命傷を与えられるような刃渡りでもないし致命的な臓器を傷つけられたわけでもない)
自分の能力不足を嘆くライデを横目にイヅは脳内のガフラン邸の見取り図と手元の記帳を照らし合わせる。
口元に手の甲を当て、視線を左右の下側に走らせながら、しばし、神妙な顔で思考を巡らせる。
(執務室の鍵は開いていた。誰でも出入りできる。第一発見者の使用人の疑いも晴れている。窓枠の靴跡……つまり、窓からの出入りも自由だった。飼い猫でさえ出入りするのだから……)
そこまで考えて脳裏に何か閃くものが有った。
ただ瞬間の火花が散った感覚だったので、すぐに忘却の彼方へと押しやられる。
「はー。……上役の言う通りに事件を仕舞うのはなんとしても避けたい。相手は同じ子爵でも資産力が桁違いで『仕事を融通してやった』と思いこんでいるのだろうな……」
「なんですか! みっともない! 睡眠不足と心身の疲労で心がささくれていますよ!」
イヅはそう言って、彼の目の前にあまり高価ではないがそこそこの甘みがある乾燥果物を差し出す。
「決まった時間に食事をして、四刻(八時間)の睡眠をして、血行を促すように体を動かしてください。それだけで体内では疲労回復に必要な物質が作られて心地よく睡眠できます。どんなに疲れていてもベッドに入った途端に眠れるうちに十分お休みください。心身が疲れているのに眠りに妨げが出るとなかなか元に戻りませんよ」
乾燥果物を齧りながら、ライデは口をとがらせる。
「飲水病もそうだが、世の中には元に戻らない病ばかりだな」
「それが世の儚さです。いずれは克服される病でしょうが、今の我々の知識では対処できません」
「ふん……」
子供が拗ねるような顔で乾燥果物を咀嚼するライデ。
(飲水病……元に戻らない……さっきも何かちらっと『繋がった』んだよなー。あー! イライラする!)
粗末なベッドの上で胡座を書いて口をモゴモゴさせる美青年と、その傍で立ちっぱなしのまま記帳を睨みつける少年。
イヅがふと振り向いた時には、ライは再びベッドに横になり、寝息を立てていた。
無防備な横顔は本来なら、彼の褥の中でのみ晒す顔であってこんなあばら家の無名の少年に無料で見せるものではない。
(しょうがない人だ)
イヅは後頭部を掻き、彼にシーツを掛けてやった。
