♯006『文筆家は夜警の一人』(全3話/現在2話まで公開中)

【♯003「染み出る死」1/5】

 イヅはついと、空を見た。

(あー、今日も空が青いなー)

 机を挟んで、その対面では我らがライデ・ジーロ子爵が突っ伏している。
 彼の手元には干した果実の砂糖漬けと濃厚な茶。──いつもどおりに疲労困憊の顔でこの店までたどり着いたらしい。

(今年は鰻の漁獲量はどうだろう? 去年は不漁だったしな……)

「頼む、イヅ。今の状況を否定してくれ……」
「ライデ様のお言葉をそのまま解釈すれば、僕は越権行為で処罰されます。いくらライデ様の後ろ盾が有ったとしても……」

 イヅは視線を戻し、やがて、ゆっくりと自分の手元に寄せる。
 そこにはライデ・ジーロが持ってきた記帳(ノート)が1冊。
 それは彼が睡眠不足で就労に影響が出るのと引き換えに書き写した『事件』の調書だった。
 書類そのものの持ち出しは厳禁だが、検閲の入った写しならば問題ないという規則を馬鹿正直に履行した苦労の賜物だった。
 彼が睡眠時間を削ってまで書き写した『事件』の調書を読む前にすでに、イヅは危険を感じていた。

(『この時のために』ライデ様は役所に飼われているのかもしれないな……貴族も楽じゃないな)

「事件のあらましはどうであれ、ライデ様がそこまで神経が参っている、ということは……相手はライデ様と同格かそれ以上の貴族が絡む、あるいは部外秘にしたい事件が発生したと?」
「そこまで分かってるのなら早く写しを全部読んでくれ。そして助けてくれ……」

 夜警団のスポンサーで街を守る警吏の長である、愛すべき彼は疲労を隠さない。
 貴族の規範たり得ない姿で……机に突っ伏したまま、衆人環視の中、イヅのいきつけの食堂の露天テーブルで、弱音を堂々と吐いた。

 彼はまだ、貴族としてイヅに選択肢を与えているというささやかな優位性を保つために、イヅに写しの中身を強制的に読ませていない。

(正直、今回はライデ様に金の匂いがしないんだよな)

 経験上、ライデ・ジーロなる人物が溌剌とした顔でイヅの前に現れる時は、イヅが喜びそうな書籍を入手したか、書籍を購入してやるだけの金が手元にあるときだ。
 経験上、その彼の顔色が疲労の色合いが強いときほど、厄介な事件が急に舞い込んで彼の処理能力を完全にオーバーしたか、貴族特有の、庶民には理解できない縛りプレイで手も足も出なくなったときだ。

 ライデは墓から這い出てきた死体のようにゆらりと身を起こすと、目の前の砂糖漬けの乾燥果実を口に放り込み、微温くなった茶で胃に押し込む。
 イヅの立場として彼を警吏の長として評価すること避けている。
 正確には、珍しい本を入手する伝手の一つという評価なのだ。従って、金や本の匂いがしない現在、彼に付き合う『商売上の義理はない』。

(ライデ様には悪いが、今回は断ろう。時間がない。締め切りは立て込んでいるし、夜警のシフトは厳しくなってきたし、積読も増えてきた)

 イヅは自分で注文して、すでに空にした粥の器を手で押しやる。

「!」

 胡乱な顔をしていたイヅの瞳に雷光が走る。

「これは!」 
「おお! やる気になってくれたか!」

 ライデは口に押し込んでいた乾燥果実を嚥下すると、イヅを見た。
 イヅは肩を小さく震わせて、両手でしっかりと彼が持参した記帳を握ってまじまじと見つめていた。

「うむ! その事件の厄介なところは」
「そんなことより! これは手に入りますか?!」
「お? おお?」

 何がなんだか分からないライデ。
 
「これですよこれ!」
 
 イヅは先ほどとは打って変わって、テンション高めに記帳の表紙をバンバンと叩く。

「? ……なんだ?」
「これ、どこで手に入りますか? 幾らしますか? 次の入荷はいつですか?」

 流石に察するライデ・ジーロ。
 彼の大事なシンクタンクは、彼の仕事の困窮よりも、その手に握る記帳の方に興味が注がれていた。
 なぜ急にそんなものを? とライデは訝しんだが、その答えは彼が汲むように引き取ってくれた。

「『この太陽の位置になるまで』気が付きませんでした! この記帳、中々の値打ち物ですよ!」
「? 太陽の位置?」

 ライデは空を仰ぐ。確かに、この店へ来て弱音を長々と吐いていた時より太陽の位置は変わっているが……。

「さすが、ナル社の記帳! 表紙の色調が素晴らしい! 特別に拵えた染料で商品価値を高めているだけある!」
「……治安府の納品業者が持ち込んだものだから、今期からナル社の紙物に切り替えたんだが……それが?」
「一廉の文筆家なら誰もが一度は愛用したいと願うナル社の記帳! これで手を打ちましょう!」

 イヅは喉から手が出て、それが欲しいものを掴んだという、実に欲深い笑顔でライデ・ジーロを見つめていた。気圧されて「あ、ああ」と応えた彼の手を両手で力強く握って、もらえるものがもらえた犬のような顔で見つめ返す。

(犬を飼ったらこんな感じなのか……)

 ライデ・ジーロ子爵はたじろぎながらも、これが彼と交渉するチャンスだと言葉を次ごうと思ったが、彼はすでに記帳を捲って中身を確認していた。
 この瞬間、部外秘を知ったイヅはライデの願いを無碍にできなくなった。
 ただ、不幸なのは、イヅが興味があったのは中身に記された調書の写しではなく、製本や紙質や染料で、胸ポケットから取り出した葦ペンをナイフで削り出す始末。
 それは流石に拙い。
 ライデはすっと記帳を取り上げる。早く取り上げないとこの部外秘の塊は文筆業の少年の手によって試し書きの素材にされてしまう。

「あ……」
「……」

 イヅは表面上、敬愛すべき夜警団のスポンサーである子爵の顔を見た。彼の目は明らかに取引の成功を感じ取っていた。眼がいやらしく笑っている。
 思わず唇を噛むイヅ。だが、ジレンマ。
 ナル社の記帳は非常に高品質で高級品だ。イヅが懐にいつも忍ばせている懐紙とは比べものにならない。それこそ、本一冊と同等の価格すらする製品もある。
 目の前の製品は民生向けの廉価版だが、それでも喉から手が出るほど欲しい。文筆業者なら誰でも一度は懐に忍ばせたい記帳……それが目の前でひらひらと踊っている。

(……しまった! いや! 記帳も欲しい! いや、絶対に面倒な事件だぞこれは……)

 悶々とするイヅの顔に対して、一押しの言葉をかけるライデ・ジーロ。

「んー。見間違えでなければ……。今確かに、この記帳の中身を見たよな? 『読んだ』よな? どうだ。少年? ん?」

 子爵の意地の悪い言葉が、緩い帽子を被せられたように頭を締め付ける。
 いつの間にか、乾燥果実の糖分と茶の成分が作用していたのか、彼の顔色は精気を取り戻していた。

 イヅは記帳の中身には興味がなかったので全く読んでいなかったが、試し書きのページを探すためにパラパラと記帳を捲っていたのは動かしようのない事実なので、反論のしようがない。それを見てライデが『中身を読んだ』と解釈しても仕方ない。

 そして、中身を読んだということは、この事件の解決にイヅは承諾の意思を見せたということになる。

 噛み縛った唇を解くと、イヅは溜め息を吐いてこう言った。

「ナル社の記帳を治安付が納品するたびに『不良品を引き取って処分させていただきます』」
「『ほう、これは助かる。無料で不良品を廃棄してくれるのなら予算の削減につながるな!』」

(この野郎……!)

 ジトッとした目でイヅは彼を見た。彼は精気を取り戻した顔で茶を美味そうに飲んでいた。

 イヅは、不良品の処分を申し出れば、公正に只で記帳を横流ししてもらえると思っていたが、その言葉を待っていたように、彼は淀みなく『これは助かる』と続けた。 
 ライデにとってはまさに怪我の功名。
 イヅをナル社の製品に釘付けにするためにわざと、備品として与えられた官品に一睡もせずに、今回の事件の調書を書き写して持参したわけではない。

 今回ばかりはイヅの交渉が遅れを取ったとしか言えない。
 翌日。イヅはライデと共に現場となった屋敷へと赴いた。

(なるほど……これは厄介だ)

 門扉にひるがえるバナーを見てイヅは早くも気分が重くなった。
 現場は子爵邸内。ライデ・ジーロと同じ爵位の人間が殺された。……らしい。

 今のところ、家族、使用人合わせて10人に容疑がかかっているが、爵位のある人間とそれに関連する人物の取り調べともなると相当な時間がかかる。
 貴族は法に守られていて当然だという常識が壁なのだ。

 事件のあらましはこうだ。

 4日前早朝に使用人頭が執務室から一晩以上出てこない被害者のムルド・ガフラン子爵の様子を見に行ったところ、床で腹部を刺されて死亡していたとのこと。
 確かに床に血の跡が広がっているが……。写しの記帳を見ながらイヅは首をひねる。

 そして、視線を窓枠に向け、壁一面をゆっくりと見回す。

(典型的な貴族の趣味ではない。……職業が金融業の頭目をしているから、室内が派手とは限らない。寧ろ、簡素で清貧をアピールして来客にギャップを植え付けたほうが『部屋が名刺代わりになる』) 

 質素な執務机と背の低い棚、その上に乗った金魚鉢と向かいの壁にあるマントルピースを見る。暖炉自体はなく、本当に装飾目的らしく花が活けられた花瓶が3個、並んでいる。

 来客用の応接机と椅子。

 イヅはまたも首をひねる。記帳に目を落とし、ライデが腕を組んで持たれている背後の出入り口のドアを見る。

「ライデ様。犯人は『内部犯』だから、捜査が難航しているのですか?」
「その通り。『窓際のくだり』は読んだか?」
「はい。『怪しすぎます』」

 記帳には一階の建物の西側にある、この現場の窓枠に侵入者と思われる靴の跡が有り、入る跡と出る跡が両方とも確認できたとある。
 ここ暫く雨は降っていない。分かりやすい泥が靴の裏にへばりつく可能性は低い。しかも目的があって静謐に忍んできた人間が足跡を残すのは考えられない。

「察しの通りだ」
「ですよねー」

 内部犯。
 貧乏子爵の貴族が金融業の頭目を担う金持ち子爵を疑う。
 それだけで火の粉が発生しそうな話だ。
 そこでイヅは更に首をひねる。

「ムルド・ガフラン子爵……金融業全般に顔が利くが、本人は金満生活を嫌い、淡々と毎日数字を右へ左へ……。どうだ? これを聞いただけで『本人の知らぬところで敵を作りそうだろう?』」
「はい」

 イヅはそそそ、とライデのもとへ来ると、辺りに人が誰もいないことを確認して、すっと背伸びし、彼の右耳に顔を近づける。

「遺産目的の事件だとすれば、灰色のまま終わらせるのが賢いのではないですか?」

 それを聞いたライデは否定も肯定もしない。ただ、「これは殺人事件だ。犯人を上げるのが私の仕事なんだよ」と空に向かって独りごちるように言う。

(役人も大変だー)

 イヅは心の中でご愁傷さまと呟くと、再び記帳に目を落とした。
 記帳の写しに書かれた通りの現場。
 犯人とされる人物は窓から侵入し、今年60歳になる、恰幅のいい体格のムルド・ガフラン子爵の腹部をナイフで一突き。そのまま仰向けになって絶命。その後、窓から犯人は脱出。

 見事なまでに『疑いを入れる余地がない』殺人現場だ。不逞の輩が行きずりで犯した殺人事件として今すぐにでも捜査を終了できる。

 ライデが治安を与るものとして不承不承、事件を担当した理由はただ一つ。

 これを事件だから調べてほしいと訴えているのは、この邸宅に住む人間全員なのだ。通いの使用人でさえ、捜査のためなら治安府へ何度でも足を運ぶと自ら約束する始末。
 殺されたムルド・ガフラン子爵はよほどの人格者だったのだろう。生前の噂を集めても浮いた話や後ろ暗い話は全く出てこない。
 それはつまり、融通が利かない故に外部に敵を作りやすいタイプの人間とも言える。

「……」

(そうなるとライデ様の胃に穴が開く前に『落とし所を探したほうが』早いような気がする)

 イヅは自分でもかなり無責任なことを言っている自覚を持ちながら、記帳と現場の執務室を照らし合わせる。部屋の中を歩き、記帳にメモを書き込み、時折、ライデに質問する。

 記帳は調書の完璧な写しではなく、特に解剖所見は図説なしでは見当もつかない。実際にムルド・ガフラン子爵の死体すら見ていない。

 今回の依頼は正確にはライデ・ジーロが同じ爵位のよしみで引き受けざるを得なかっただけなのだ。
 ジーロ家は裕福とはいえない貴族ゆえに治安負という、役場の使いっ走りのような仕事をしている。
 その間柄もあって、親の前の世代で両家で金の貸し借りがあったという。なんとも、資産を持たない庶民には理解の範疇を超える面倒な話だ。
 そして、その借りの一つを今、返せと無言で言われているのだ。
 犯人を探して処罰しないと貴族の名折れ。この事件はガフラン家の世間体がかかっている。
 いささか横紙破りな話でも、治安府の大手スポンサーの一つにガフラン家が名を連ねていると、多少のお目溢しも許される。そしてお決まりのようにババを引かされるライデ・ジーロ。

(結局、金の力で治安活動の人員を別件に割いているだけの邪魔な要件なのだよなー)

 それは流石に口が裂けても言わないほうがいいと思った。
 当のライデ・ジーロは右肩をドアの縁に預けたまま、渋い顔でこちらを見ている。
 彼は彼で、治安を預かる人間が金で尻尾を振って別の要件を優先したという誹りを免れないのを気にしているらしい。……それは非常によく分かる。表づらの良さで会話しているとまで言われる貴族社会では、爵位が同格だと、役職よりも実家の具体的な資産がマウントの材料になる。

(貴族に生まれてなくてよかったー)

 ふと、酷く嫌う人間の顔が思い浮かんだが、顔を振ってすぐに忘れた。

「!」

(あ、これか)

 床に血痕。
 これは執務室の隅に置かれていた鳥籠の鳥が飼い猫によって食われた跡らしく事件とは関係ない。

(猫……。ああ、それで)

 ついと、イヅの顎先が壁際の棚の金魚鉢を見る。
 金魚鉢は空だ。成人男性の頭部ほどの大きさの丸い金魚鉢。八分目まで水が減っている。
 何を飼っていたのかは不明だが、金魚鉢に水棲生物はいない。恐らく観賞用の美麗な魚でも飼っていたのだろうが、飼い猫によってこれまた食べられたらしい。床には水が溢れて乾いた跡もある。

 表向き、ライデ・ジーロ子爵の単独行動が黙認されている捜査だ。彼の上役がどこまで便宜を図ってくれるか不明なのが不安なところだ。

「何か分かったか?」
「……まずは現場検証です。記帳の書かれていることと現場を照らし合わせて、必要な情報とそうでない情報と、判断できない情報を分けます。こんな時に要不要の二択で情報を選別すると必ず間違えた判断をします」

 イヅは説明しながら部屋中を歩き回る。

 今回の捜査は貴族社会から見ると、ガフラン家がコネのあるジーロ家の嫡男に事件解決を『外注』したのと同じなので治安府から人員が動員できる可能性は低い。

 正直に言うとイヅも困り果てている。
 文筆業の仕事が立て込み始めた矢先のライデの無理難題。犯人の目星だけでも付けようと、現場の邸宅の人間すべての顔を見ながらライデ経由で様々な質問をぶつけた。
 だが、家人や使用人の表情や『微かな表情』を見ても、一様に不安と焦燥と怒りしか見えない。恐怖や困惑、驚きなどの反応が見られない。……家人と使用人はシロに近い。

 イヅは大きく息を吐いて、ライデに向き直ってこう言った。

「ガフラン子爵の埋葬はまだでしたよね? 遺体を見たいのですが、解剖か検視ができるお役人を、遺体を安置している場所へ呼んでください」
「分かった。手配する。手が空いている者がいたはずだから……明日、日次刻(午前10時)に治安府の門で落ち合おう」

 ライデはイヅがまだ見ぬ遺体に興味を持ったことから、もうこの場所で得られるものはないと悟って、本日の捜査は解散とした。
 ただ、室内を振り向いた時、イヅが金魚鉢の水の表面を懐紙で何かを掬い取る仕草をしていたのは気になったが、それもすぐに済んだので特に声をかける事はしなかった。

「失礼しました。行きましょう」
 と、イヅは折りたたんだ懐紙をポケットに仕舞うと、こうべを垂れて慇懃に、写しの記帳をライデに返した。イヅが欲しいのは報酬の記帳であって、捜査を記した資料ではない。

 遠くで鐘が聞こえる。
 その鐘の音が正しければ、夕入刻(午後6時)だ。頼もしい少年はこれから夕餉を腹に流し込んで夜警に備えるのだろう。
 あまり自分の我が儘で彼の生活を乱すと体が不健康なになると思い、ライデはぼそっと「世話をかけるな……」と呟く。
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