♯006『文筆家は夜警の一人』(全3話/現在2話まで公開中)
【♯002「一足遅れの哀歌」4/6】
庶民のイヅとして想像できる状況が実は身近にあった。
夜逃げだ。
近所に住む一家が何もかもを置いて姿をくらます事が多い中、小金持ちが家財を処分してその日の夜に逃げ出すことがあった。
喫緊に片付けなければならない事態に追い込まれた人間はとにかく、判断を早める。結果として誤りを招く。
逃げるにしても計画的でない逃走は終わりがない。
今回は破滅的に似た事件の裏側が見え隠れし始めている。
「で、だ。……その番犬のことだが」
「!」
ライデ・ジーロ子爵は口元を小さく緩めて小鼻を膨らませる。
興奮。優位性。肯定的な歓び。
(え?)
正直、意外だった。
イヅは目を丸くして彼に向き直った。手にしていた茶器を落としそうだった。
今日は容疑者たちの報告を聞いた後に、これから番犬の行方を掴んで終了するかと思われたからだ。
子爵はここぞとばかりに胸を反らせて誇らしげな顔をしてる。
自身の実力を誇示したがる大型犬のようで、見えない尻尾をブンブンと振っている幻すら見えそうだ。
人間の始末など造作もないこの街では番犬の始末など子供の小遣い稼ぎ程度の気軽さでできる。
この帝国には文字通りに犬を食べる文化圏から入国している民族も多い。その民族ならば一食分の代金を浮かせるために出どころの知れぬ犬でも迷いなく食べる。
即ち、捜査は難航を極めるとイヅは勝手に想像していた。
(あ……『そうだった』……)
彼は勉強ができる馬鹿なのだ。
教えなければ出来ない。教えたことはできる。
興味のないことには職掌であっても興味はないが、興味があれば職掌外でも全力を出す。
知識や雑学の利用応用転用は苦手でもそれらの一方的な蓄積は得意だ。
そんな彼に、イヅは昨夜の夕暮れに、眠気が勝りそうな状態で何か言ってしまった挙げ句にそれに興味を持ち忠実に実行したのなら……ライデ・ジーロ子爵の頭脳は恐らくこの街の治安府では勿体無い働きをするだろう。
「結論から言うと、番犬は始末されている。毒物の混じった肉をたらふく食べて死んでいた」
(あ、誰かに食べられたわけじゃなかったんだ)
別段、愛犬家ではないがなぜかホッとするイヅ。
「ということは、番犬の死骸は見つかったのですね」
「ああ。犬の検視の結果は不明。担当の検視官は人間ほど検体が多くないので死亡時間は不明とのことだ。死骸は吐血して死後硬直が始まっていたらしいが、人間とは違うのでこのあたりはなんとも言えない」
朗々と詠うように子爵は手帳に視線を走らせながら言う。
更に続く。
「番犬の死骸はガナドー家邸宅の庭にあるゴミ焼却炉に放り込んであった。…ここでお前の嫌う仮説というものが2つ生まれた」
イヅはまたも驚きを覚える。子爵がイヅの疑問を先んじたからだ。
「番犬の死体を焼かなかった理由ですね。『番犬が啼かなければなんでも良かった』場合と『盗品の運び出しを想定して、番犬がその場所に居たら困る場合』ですね。…夜中に死骸を焼いて証拠を消す理由はないですものね。だから焼却炉に放り込まれたままの死骸が見つかったと」
子爵は肩をすくめた。
「屋敷の台所、側溝、便所や浴場の排水路を辿っても、どこのゴミ除け用の柵にも番犬と思しき死骸がなかったので、屋敷内部から持ち出していないと踏んで部下に探させた。勿論、庭の掘り返した土の色も確認した」
彼は苦いものを飲み込んだように少しだけ、片眉を歪めた。
(ああ。ルーフン公爵のアレか……)
前回の事件では警吏が、並ぶ鶏の死骸の惨状からそれ以上その場所を調べなかったゆえにドル氏の遺体を床板の下から見つけることが出来なかった。
今回はその轍を踏むまいと、庭の土も調べたのだろう。
それこそ、番犬が埋めたおもちゃの骨も取り除いて更に掘り返して調べたのだろう。
夜遅くに動員された警吏と叩き起こされたであろう検視官に感謝だ。
「……ん?」
ふと、イヅは良い香りを立てる茶碗を口に運ぶ前に動作が止まった。
「どうした?」
「…子爵の2つの仮説ですが」
「間違えているか?」
「いえ、その後から考えられる分岐です。まあ、仮説なのですが」
子爵は首を傾ける。イヅが何を考えついたのか推し量れないという顔だ。
イヅは子爵の仮説が間違いだと言いたいのではない。
寧ろ、気がつくべき要点に漸くたどり着いた顔をしている。
「『番犬が啼かなければなんでも良かった』場合と『盗品の運び出しを想定して、番犬がその場所に居たら困る場合』…と、僕は先程言いましたが」
「それがどうした? お前もも概ね同意だと思ったが?」
イヅはテーブルの上に茶碗を置き、視線をそれに落としながら言う。
「与えられた情報や条件が最初から無かった事になりませんか?」
「んん? どういうことだ?」
全く不可解な発言をする少年に子爵は困惑を隠せないでいた。
治安府の捜査能力を馬鹿にする話しなら聞き捨てならないぞ、と顔が少し渋くなる。
「使用人の急な解雇と番犬の死亡時刻……それと屋敷の盗品。これにばかり執着しているというか、執着させられている気がします」
やや、間を置いて子爵は珍しいものを見た顔で言う。
「お前らしくない…本当に推測で話をしているな」
子爵のその声は少しだけ無視した。
「あの方に、こんな高度な細工が出来ましょうか? こんなにも時の神様が味方をしてくれるでしょうか?」
「それは運が重なった間抜けな犯人連中が……」
子爵もそう言いながらも言葉尻が小さくなっていく。
少年と子爵は前提以前の大前提がおかしいと疑い始めた。
今手に入っているこれらの情報は、計算されたものだと疑い始めている。
「家令はご長男に何故、忠誠を誓っていたのでしょう? それは本当でしょうか? 次男のほうが優秀なのでしょう? 家督を継ぐのなら劣る長男より次男が適任とも言われていたそうですね。実際、次男は軍を率いて駐屯しています。能力的に劣る人物にそこまでお家の未来を託す理由はなんなのでしょう? お家のため? 誰かがあの方を思う一心?」
イヅの顔からすう、と表情が消えた。
ああ、嫌な顔だ。
子爵は彼の唯一の嫌いな顔を目の前にして、悲しい眼差しで少年を見据える。
少年は人間の嫌な部分に直接触れたときには必ず、表情が消える。
それは彼の心の防御反応なのだろう。
心を冷たくしなければ直視できないなにかに触れた時の顔だ。
「与えられた前提や条件、情報といったものが全て正答に繋がるとは限りません。繋がったとしたら、それは出題者の思うままの答えを答えさせられただけのような気がします」
先のルーフン公爵の件では正しい情報を前提とした結果、近づいてはいけない正答を導いてしまったために、イヅはやや疑心暗鬼になってた。
その曇った視界を払っただけだ。
偏見や先入観、認知の歪みなど、人間は兎に角、経験を主体にした思考の補正で世界を見てしまう。
目の前の情報だけが、提示された事柄だけが、全て正しいと思い込む事が多い。
イヅの脳裏の端で古代の哲学者の言葉が過ぎる。
『賢い人間とは知識を蓄えた事を誇る人間ではなく、蓄えた知識によって歪んだ自分の世界を自力で正すことのできる手段を知っている人間のことだ』
前提、前提、前提……。
イヅはベストの内ポケットからさっと懐紙を取り出し、胸のポケットから葦ペンを抜き、ペン先を舐めると紙にその先端を走らせる。
子爵は無言で、私物の持ち歩き用のインク瓶を開けて、彼の手元に静かに置く。
「ありがとうございます!」「好きなだけ使ってくれ」
子爵も先程、自分の言葉尻が小さくなった悔しさが有るのか、美しい顔を物憂げに変貌させて、少年の手元の懐紙を見つめていた。
紙の中心に事件の概要。その四方八方へ線を引き、大きな疑問を幾つか書く。その疑問を丸で囲み、更に四方八方へ線を引く。それを繰り返す。たちまち、テーブルの上は懐紙で埋め尽くされる。
その懐紙に書かれた情報や疑問や独自だと思われる解釈を書き込んだ要点だけを更に別の懐紙に書いて、真っ先に考えなければならない重要な点と、重要ではあるが優先順位は低い点と、真っ先に考えなければならないが、重要度は低い点と、緊急性も重要性も低い点を分別して4枚の紙に書き出す。
これはイヅが本業の文筆業で依頼が重なって忙殺されそうな時に用いる思考の順番だ。
それを今回の捜査に応用した。
緊急性と重要性が低い点だけを書き出した事柄は子爵の力を借りる。正直に言って、多少の人海戦術で解決できる問題だからだ。イヅには指揮権がないので実行できないだけだ。
緊急だが重要でない点だけを書き出した紙。これは、事件の後に判明するであろう事柄なので『留意』と紙の端に書いて折り畳んでポケットに入れる。……どちらかというと仮説の答え合わせに近い。
緊急性も重要性も高い点を書いた紙は……この場合最も、雑音と化している点ばかりだ。つまり、事件発生に関する前情報や自分たちが入手した情報や、背後にいるかも知れない貴族階層別の条件など。重要な点ほど、上位者を常に敬わないといけない煩わしさが知らぬ間に足枷になり、今回の捜査は行き詰まっていると判断した。そしてそれを無視することを決断したのだ。……貴族である子爵の手前、口には出していないが、イヅはこの喫緊の問題のせいで全てが眩んで見えていたと理解した。
(役人と貴族の世界に詳しい人間の発想だ。『フロンがそれらを全て計算できるのなら』かなりの切れ者で、跡継ぎ云々の話は元から無かっただろう)
そして最後の、最も重要視すべき緊急でない点。ここに事件の重要性が集約されていると言える。
事件の重要性。
それは貴族に仕える人間が殺された、という一言で済まされる影に潜む真意だ。
その真意こそが、今回の事件そのものを生み出したと言える。
単純に人が殺されたから調べてくれというありきたりな事件として『処理されてしまいがち』な治安府としての日常、貴人に仕える人物が不幸に遭ったから原因を突き止めてほしいという庶民に対する責務を装った篤い賢人アピール。
この前提の上で事件が成り立っている。
それがそもそもの『事件の根底を混迷させている大元』だと整理できた。
脳内の曖昧模糊とした概念じみた思考を紙に書き出し、それを整理して可視化させなかったのは……心に自然とブレーキが掛かっていたのは、『ただの庶民』のイヅと『命令には逆らえない』ライデ・ジーロ子爵だからこそ陥った罠だった。
そしてその罠を『短時間で考案し、実行するほどの能力の高い人物ならば、嚢の錐のごとく一廉の名を挙げているに違いない』。なのに、最初からそのような人物は何処にも居ない。
少なくとも容疑者として浮上していない。
子爵は、テーブルの上に散らかった懐紙を集めながら、沈痛な面持ちで分類されたそれぞれのカテゴリーを見る。
イヅが、貴族への敬いの心を疲労のせいで忘れていたとして目を瞑ろうと思った。
それを看過してしまった自分の責任だと責められるつもりだった。……然るべき部署に懐紙に書かれたこれがバレたのならば、だ。
彼が不敬として処罰されても仕方がない事柄が並んでいる懐紙をカテゴリーごとに束ねて二つに折る。誰かに読まれては拙い。
「そういうわけです。もう一度、あのお方の屋敷へと参りましょう」
鉄の仮面を被ったように表情が消えているイヅは胸ポケットに葦ペンを差しながら言うと、静かに冷めきった茶を飲んだ。
上等で美味い茶は冷めても美味いと言うが、庶民が利用する露店で出されるような高級の程度はたかが知れている。
冷めた茶が氷水のように臓腑に染み渡る感触を覚えた。
この事件がなければこの茶はきっと天上の甘味のように美味かっただろう。
2人はガナドー家の邸宅敷地内に入ると、たった独りで家屋の番をしてると思われたフロンの姿を想像したが違った。
若い女性とやせ細った中年男性が2人を出迎えたのだ。
イヅははて、と門扉の前で目を白黒させていた。
男女2人の向こうにある邸宅の正面玄関から出てきたフロン・ガナドー男爵を見て目礼をした。
フロンは「今日はどのような件でご協力いたしましょう?」と両手を広げて出迎えてきた。
そして、2人の使用人を紹介する。
嘗て急に解雇したはずの使用人であるメルと下男のフォルだ。
ライデ・ジーロ子爵は容疑者リストにその名前を認めていた。イヅは子爵が解雇された使用人リストの名前を読み上げた中にその名があったことを思い出した。
フロン・ガナドーはメルに茶を淹れるように命じ、下男のフォルには庭掃除の続きを促した。
フロンが先頭に立ち、イヅと子爵を邸宅内部に招き入れながら廊下を渡り、応接室に至るまでに解雇したはずの使用人を再び雇った件を訊かれてもいないのに話しだした。
「この家は悲しい事件が起きたのでもう売り払ってしまおうかと思ったのですが、そうなると急に思い出深くなってしまいまして。そこで暫くの間、解雇した使用人の中でまだ職の見つかっていない者を再雇用したのです。こう広いと、夜は寂しいものです。なので、2人の使用人にはこの屋敷の部屋を無償で貸しています」
自分で追い出しておいて自分の都合で雇い直して、さらに恩着せがましく無償で部屋を貸して住まわせているとまで言い放つ貴族の性根に、正直、イヅは心の中で唾を吐き捨てた。
それと同時に……。
フロンという人物は本当に寂しいらしい。独りで屋敷で過ごすのが寂しいのか、家令のゴフを喪ったことが寂しいのかは不明だが、声のトーンや『小さな表情』からは寂寞が現れていた。
「……」
ライデ・ジーロ子爵はちらりとイヅを見た。
イヅはつい、と顔を上げてライデ・ジーロ子爵を見た。
2人の視線が偶然に空中で衝突する。
何も焦る心当たりなど無いのに、2人の視線は反発するように僅かに逸れる。2人とも、自分たちの反応に何故か困惑している……。
あたかも、どんな感情が原因でお互いが、相手を見ようとしていたのか理解不能だと言わんばかりに。
イヅに対して、貴族の庶民の扱い方は千差万別だからな! と目で言い訳をしていたのがバレたくなかったからか。
ライデに対して、あなたもこんな酷い仕打ちをするのですか? と口では尋ねていないが、顔で尋ねていたのではないかと咄嗟に思ったからだ。
実は、イヅも子爵もただ、『またも、廊下を歩くコースが同じだ』と言いたかったのだ。
この廊下が伸びるコースはいやが応にでも事件が有った現場を全て見ることができる。
ゴフのものと思しき血痕は薄くなっている。どんなに血抜きを施したところで、壁や露出した一部の床板に飛び散った血痕はそれ以上は薄まらないだろう。
盗難に遭った絵や刀剣、花瓶の跡が見える。
そこにの台には埃で丸く花瓶の後が残っている。
そこの壁にかけられた奪われた刀剣が架かっていたであろう壁には細長く日で色褪せていない刀剣の形が残っている。
そこの壁には絵が掛かっていたのだろう、四角い、日に焼けていない跡がある。
(埃と日の変色で気が付かなかったけど……)
(これは『見世物』だ)
イヅは盗難に遭った物が置いてあったとされる場所やその痕跡、捜査後に他の場所へ移されたと思われる調度品や美術品を見て、ちぐはぐな印象を強く受けた。
それを子爵に伝えようとしたかったのだが、子爵も気がついたらしい。
チラと見た彼の顔には思考、警戒、それと戸惑いの『小さな表情』が見えていた。
「我が商会や海運業は暫くは代行を雇って任せています。それで、今日はどのような」
「賊に奪われたものは高価な品物ばかりですね」
「え? ええ。そうですが」
応接室のソファに座るなり、挨拶もなしに子爵は火蓋を切った。
今回は子爵には何も言っていない。イヅは子爵の右手後方で従者の顔で立っている。
子爵が何を言い出すか不安と期待がせめいでいた。
屋敷の敷地に入る前に彼にフロンに対する質問をまとめたメモを渡すつもりだったが、見慣れない2人の使用人の登場で時間を奪われてしまい、打ち合わせも何もなしだ。
屋敷に来るまでに乗合馬車を用いたが、他の客が居る乗合馬車のキャビンで貴族が関係する犯罪の話を口にするわけにはいかなかった。
さて、どのように攻めるか? と頭を一捻りする間もなく、子爵は唐突に話しだしたのでイヅは驚きの顔を鉄の意志で抑えて、直ぐ様、お手並み拝見と気分を切り替えた。
イヅの頭の中では様々なパターンの仮説が次々と可能性を否定されて着実に一つの答えに近付きつつある。
願わくば、その答えと子爵の答えが同じでありますように。
そして、この事件の前提である核心からずれないように、と願うばかりだ。
使用人の女性がティーセットを持ってきて、湯を注し、茶を蒸らす。最後にシンプルな砂時計を逆さにする。
それだけを行うと、一礼して、応接室から出ていく。
「さて」
「はい」
女性使用人が入室してから退室するまで無言だった空間に再び子爵の声とフロンの声が交わされる。
「私は美術品には詳しくないが、仕事柄、美術品の特徴を見定める技能を求められる。治安府の証拠物品を置いておく倉庫はちょっとした美術館なみでしてね」
「はあ……」
「で、その付け刃の審美眼の持ち主がみたところ……『奪われたのは本物だけだな』と、思いまして」
子爵は声は穏やかだったが、恫喝に近い眼光でフロンを射抜いた。
子爵が言葉を少しずつゆっくり、はっきりと発音したのは前回の事件で犯人の1人であるガラを取り調べた時に用いた話し方だ。……勿論、その時にそれを教えたのはイヅだが。
その声の穏やかさと鋭い眼光と、何故か耳の奥に届くアクセントの置き方。
言語でありながらどこか非言語なそれらは、話している内容は理路整然とした文法なのに、あたかも二重束縛的な話術に陥ったように認知してしまい、脳内で子爵の言葉の噛み砕きと、子爵の非言語の仕草と、余計な印象だけを拾いそうな声質に惑わされ、思考が遅れる。
思考が遅れるとそれだけ脳内で処理された情報が言語化されて口頭で答えるという出力にも影響が出る。
つまり、しどろもどろになる。
咄嗟の反応ができにくくなる。
(ほう……これは)
イヅは涼しい顔のまま目をフロンの顔や肩や手先に向けながらも、子爵の生兵法だが、基礎の基礎を押さえた尋問技能に舌を巻いた。
イヅが尋問するならば導入は違うが、これはこれで非常に好奇心が刺激される展開なので子爵の次の一手を待った。
これはイヅでは絶対に質問できない、帰属集団的概念が働く社会的地位での上位階級だからこそ放つことができる質問だった。
先程の子爵の言葉の意味は、『お前の家にある美術品は偽物が混じっている』と家の主人に対して決めつけで言っているのだ。
普通ならば侮辱が成立して裁判なり決闘なりが開かれるのだろうが、少年は子爵の後頭部しか見えない。顔が見えないので、男爵の『小さな表情』を読み取って、自らも表情を動かさないように始終した。
「これは手痛い! と、申したいところですが、当家の財政が逼迫してからというもの、価値のある物は少しずつ売却しておりまして…美術品や調度品もその限りではなく。恥ずかしながら、見栄だけでも、と思いまして、よくできた贋作を並べていたのです。凋落寸前の貴族でも痩せ我慢を悟られたくはないのです」
「なるほど。確かに。私も実家の台所が苦しくなると卿のようにこっそりと本物と贋作を入れ替えて、本物を売りに出すかもしれません。我々貴族は懐に関する醜聞はぜひとも避けたいですからな」
ライデ・ジーロ子爵は貴族としてはデリケートな話題なのに自らも苦境に陥ったら同じことをするだろうと宣い、更に彼は、男爵と数瞬遅れでティーカップを口に運び、茶の芳醇な香りに目を伏せている。……目を伏せる動作もフロン・ガナドーと同じタイミングだ。
相手との心理的距離を詰めるために普段の所作を利用応用する手法が幾つかあるが、そのうちの鏡写しの動作をライデ・ジーロは用いたのだ。
イヅは舌を巻いただけで足らずに、奥歯を少し強く噛む。
前回のガラの取り調べにおいても拷問は心理的に有効ではないと感じたので、事件が解決してから子爵に「相手を懐柔する方法を学べば短時間でなんとかなるかもしれませんよ?」と吹き込むべきか悩んだが、子爵は打てば響く太鼓のようにイヅの望む手法を広げていく。
勉強ができる馬鹿は応用が利かないだけで、『応用を利かせる』ということ自体に興味を持たせれば貪欲になる。殊に、自分の興味と職掌が一致すれば不眠で習得に励むだろう。
……とは言え残念なことに、子爵は高給取りには興味はないようなので、その応用を活かせる範囲はあくまで現場一辺倒で終わるだろう。
貴族同士の軋轢や、職場での力関係や上意下達の際に発生する齟齬や矛盾に対処する技術まで興味の範囲が及ぶとは思えない。
ライデ・ジーロとはそんな残念な優秀な頭脳の持ち主なのだ。
「その贋作を踏まえての話なのですが……贋作だらけですな」
「ええ、それは先程も申しましたとおりに……」
「いやいやいやいや。私は押し入った賊の手並みを恥ずかしながら鮮やかだと感じているのです」
「…」
(!)
ライデ・ジーロ子爵が強盗を褒める内容を滑らかに話した瞬間にフロンの瞳孔は収縮し緊張を見せた。舌骨も上下する。連動して胸鎖乳突筋の顎側もピクリと動く。
「ガナドー卿、あなたの協力のもとに作成した盗品のリストを何度も見返したのですが……見事に『本物』だけを狙って賊は奪っていますね」
(緊張、警戒、焦燥)
(一気にライデ様を『敵認定』したな)
ライデ・ジーロがゆっくりと友好的距離を縮めて、突然、今回の聴取の核心まで距離を詰めたので、フロンは髪の毛が逆立つような感覚に陥っただろう。
実際に頭皮がきゅっと上下するのを確認した。
「治安府の見解では犯人は1人乃至少数で、家屋内部の構造に詳しい人物……つまり、屋敷に関連する誰かの手引が最低限必要だと睨んでいました」
「つまり、我が家のものを疑っていると?」
フロンの肩が硬直する。靴の爪先が狭くなる。硬い干し肉でも噛んでいるように顎の表皮が上下する。
ライデジーロの言葉は、フロンの触れてほしくない部分に触れたか、触れられると困る部分に触れたか。
「いやいや、誤解されては困りますよ。知らぬ間に利用されていた、ということもあるでしょうから」
ライデ・ジーロ子爵は刃を返すように苛立たしさを掻き立てる口調でフロンに言う。
「これは治安府の内密の資料からの抜粋なのですが」
と、子爵は勿体ぶって前置きする。
頭に血が上ったフロンを宥めると言うより、頭に血が上っている今だからこそ大量の情報を流しこむことで墓穴を掘るのを誘うつもりだ。
イヅも捜査権が有ればこの機会でそのようにしていただろう。
感情の撹乱。
社会通念としてはスマートではないが、激しい感情の発現を控えるとを美徳とする貴族からすれば、内なる自分を抑えるので精一杯だろう。
それもこれも、イヅが、フロンがそんなに優秀なのか? 次男が家督を継げばいいとも言われていたのでしょう? と疑問を持ったことを子爵に言ったのを、覚えていたのだ。
短絡。
それがフロンがガナドー家を継ぐに相応しくない理由として辺りの人間が次男を跡継ぎに推していた理由だった。
短絡を更にカミソリで撫でてボロを出すように仕向ける子爵。
恐らく勝負はこれからだ。
イヅの脳内では様々な仮説が脱落して、最早、一つの仮説しか生き残っていない。
この事件に直接的な犯人は居ない。
それがイヅの仮説だ。
敬愛する美貌の子爵は、そのイヅと仮説を同じくしてくれているかどうかが心配だった。
庶民のイヅとして想像できる状況が実は身近にあった。
夜逃げだ。
近所に住む一家が何もかもを置いて姿をくらます事が多い中、小金持ちが家財を処分してその日の夜に逃げ出すことがあった。
喫緊に片付けなければならない事態に追い込まれた人間はとにかく、判断を早める。結果として誤りを招く。
逃げるにしても計画的でない逃走は終わりがない。
今回は破滅的に似た事件の裏側が見え隠れし始めている。
「で、だ。……その番犬のことだが」
「!」
ライデ・ジーロ子爵は口元を小さく緩めて小鼻を膨らませる。
興奮。優位性。肯定的な歓び。
(え?)
正直、意外だった。
イヅは目を丸くして彼に向き直った。手にしていた茶器を落としそうだった。
今日は容疑者たちの報告を聞いた後に、これから番犬の行方を掴んで終了するかと思われたからだ。
子爵はここぞとばかりに胸を反らせて誇らしげな顔をしてる。
自身の実力を誇示したがる大型犬のようで、見えない尻尾をブンブンと振っている幻すら見えそうだ。
人間の始末など造作もないこの街では番犬の始末など子供の小遣い稼ぎ程度の気軽さでできる。
この帝国には文字通りに犬を食べる文化圏から入国している民族も多い。その民族ならば一食分の代金を浮かせるために出どころの知れぬ犬でも迷いなく食べる。
即ち、捜査は難航を極めるとイヅは勝手に想像していた。
(あ……『そうだった』……)
彼は勉強ができる馬鹿なのだ。
教えなければ出来ない。教えたことはできる。
興味のないことには職掌であっても興味はないが、興味があれば職掌外でも全力を出す。
知識や雑学の利用応用転用は苦手でもそれらの一方的な蓄積は得意だ。
そんな彼に、イヅは昨夜の夕暮れに、眠気が勝りそうな状態で何か言ってしまった挙げ句にそれに興味を持ち忠実に実行したのなら……ライデ・ジーロ子爵の頭脳は恐らくこの街の治安府では勿体無い働きをするだろう。
「結論から言うと、番犬は始末されている。毒物の混じった肉をたらふく食べて死んでいた」
(あ、誰かに食べられたわけじゃなかったんだ)
別段、愛犬家ではないがなぜかホッとするイヅ。
「ということは、番犬の死骸は見つかったのですね」
「ああ。犬の検視の結果は不明。担当の検視官は人間ほど検体が多くないので死亡時間は不明とのことだ。死骸は吐血して死後硬直が始まっていたらしいが、人間とは違うのでこのあたりはなんとも言えない」
朗々と詠うように子爵は手帳に視線を走らせながら言う。
更に続く。
「番犬の死骸はガナドー家邸宅の庭にあるゴミ焼却炉に放り込んであった。…ここでお前の嫌う仮説というものが2つ生まれた」
イヅはまたも驚きを覚える。子爵がイヅの疑問を先んじたからだ。
「番犬の死体を焼かなかった理由ですね。『番犬が啼かなければなんでも良かった』場合と『盗品の運び出しを想定して、番犬がその場所に居たら困る場合』ですね。…夜中に死骸を焼いて証拠を消す理由はないですものね。だから焼却炉に放り込まれたままの死骸が見つかったと」
子爵は肩をすくめた。
「屋敷の台所、側溝、便所や浴場の排水路を辿っても、どこのゴミ除け用の柵にも番犬と思しき死骸がなかったので、屋敷内部から持ち出していないと踏んで部下に探させた。勿論、庭の掘り返した土の色も確認した」
彼は苦いものを飲み込んだように少しだけ、片眉を歪めた。
(ああ。ルーフン公爵のアレか……)
前回の事件では警吏が、並ぶ鶏の死骸の惨状からそれ以上その場所を調べなかったゆえにドル氏の遺体を床板の下から見つけることが出来なかった。
今回はその轍を踏むまいと、庭の土も調べたのだろう。
それこそ、番犬が埋めたおもちゃの骨も取り除いて更に掘り返して調べたのだろう。
夜遅くに動員された警吏と叩き起こされたであろう検視官に感謝だ。
「……ん?」
ふと、イヅは良い香りを立てる茶碗を口に運ぶ前に動作が止まった。
「どうした?」
「…子爵の2つの仮説ですが」
「間違えているか?」
「いえ、その後から考えられる分岐です。まあ、仮説なのですが」
子爵は首を傾ける。イヅが何を考えついたのか推し量れないという顔だ。
イヅは子爵の仮説が間違いだと言いたいのではない。
寧ろ、気がつくべき要点に漸くたどり着いた顔をしている。
「『番犬が啼かなければなんでも良かった』場合と『盗品の運び出しを想定して、番犬がその場所に居たら困る場合』…と、僕は先程言いましたが」
「それがどうした? お前もも概ね同意だと思ったが?」
イヅはテーブルの上に茶碗を置き、視線をそれに落としながら言う。
「与えられた情報や条件が最初から無かった事になりませんか?」
「んん? どういうことだ?」
全く不可解な発言をする少年に子爵は困惑を隠せないでいた。
治安府の捜査能力を馬鹿にする話しなら聞き捨てならないぞ、と顔が少し渋くなる。
「使用人の急な解雇と番犬の死亡時刻……それと屋敷の盗品。これにばかり執着しているというか、執着させられている気がします」
やや、間を置いて子爵は珍しいものを見た顔で言う。
「お前らしくない…本当に推測で話をしているな」
子爵のその声は少しだけ無視した。
「あの方に、こんな高度な細工が出来ましょうか? こんなにも時の神様が味方をしてくれるでしょうか?」
「それは運が重なった間抜けな犯人連中が……」
子爵もそう言いながらも言葉尻が小さくなっていく。
少年と子爵は前提以前の大前提がおかしいと疑い始めた。
今手に入っているこれらの情報は、計算されたものだと疑い始めている。
「家令はご長男に何故、忠誠を誓っていたのでしょう? それは本当でしょうか? 次男のほうが優秀なのでしょう? 家督を継ぐのなら劣る長男より次男が適任とも言われていたそうですね。実際、次男は軍を率いて駐屯しています。能力的に劣る人物にそこまでお家の未来を託す理由はなんなのでしょう? お家のため? 誰かがあの方を思う一心?」
イヅの顔からすう、と表情が消えた。
ああ、嫌な顔だ。
子爵は彼の唯一の嫌いな顔を目の前にして、悲しい眼差しで少年を見据える。
少年は人間の嫌な部分に直接触れたときには必ず、表情が消える。
それは彼の心の防御反応なのだろう。
心を冷たくしなければ直視できないなにかに触れた時の顔だ。
「与えられた前提や条件、情報といったものが全て正答に繋がるとは限りません。繋がったとしたら、それは出題者の思うままの答えを答えさせられただけのような気がします」
先のルーフン公爵の件では正しい情報を前提とした結果、近づいてはいけない正答を導いてしまったために、イヅはやや疑心暗鬼になってた。
その曇った視界を払っただけだ。
偏見や先入観、認知の歪みなど、人間は兎に角、経験を主体にした思考の補正で世界を見てしまう。
目の前の情報だけが、提示された事柄だけが、全て正しいと思い込む事が多い。
イヅの脳裏の端で古代の哲学者の言葉が過ぎる。
『賢い人間とは知識を蓄えた事を誇る人間ではなく、蓄えた知識によって歪んだ自分の世界を自力で正すことのできる手段を知っている人間のことだ』
前提、前提、前提……。
イヅはベストの内ポケットからさっと懐紙を取り出し、胸のポケットから葦ペンを抜き、ペン先を舐めると紙にその先端を走らせる。
子爵は無言で、私物の持ち歩き用のインク瓶を開けて、彼の手元に静かに置く。
「ありがとうございます!」「好きなだけ使ってくれ」
子爵も先程、自分の言葉尻が小さくなった悔しさが有るのか、美しい顔を物憂げに変貌させて、少年の手元の懐紙を見つめていた。
紙の中心に事件の概要。その四方八方へ線を引き、大きな疑問を幾つか書く。その疑問を丸で囲み、更に四方八方へ線を引く。それを繰り返す。たちまち、テーブルの上は懐紙で埋め尽くされる。
その懐紙に書かれた情報や疑問や独自だと思われる解釈を書き込んだ要点だけを更に別の懐紙に書いて、真っ先に考えなければならない重要な点と、重要ではあるが優先順位は低い点と、真っ先に考えなければならないが、重要度は低い点と、緊急性も重要性も低い点を分別して4枚の紙に書き出す。
これはイヅが本業の文筆業で依頼が重なって忙殺されそうな時に用いる思考の順番だ。
それを今回の捜査に応用した。
緊急性と重要性が低い点だけを書き出した事柄は子爵の力を借りる。正直に言って、多少の人海戦術で解決できる問題だからだ。イヅには指揮権がないので実行できないだけだ。
緊急だが重要でない点だけを書き出した紙。これは、事件の後に判明するであろう事柄なので『留意』と紙の端に書いて折り畳んでポケットに入れる。……どちらかというと仮説の答え合わせに近い。
緊急性も重要性も高い点を書いた紙は……この場合最も、雑音と化している点ばかりだ。つまり、事件発生に関する前情報や自分たちが入手した情報や、背後にいるかも知れない貴族階層別の条件など。重要な点ほど、上位者を常に敬わないといけない煩わしさが知らぬ間に足枷になり、今回の捜査は行き詰まっていると判断した。そしてそれを無視することを決断したのだ。……貴族である子爵の手前、口には出していないが、イヅはこの喫緊の問題のせいで全てが眩んで見えていたと理解した。
(役人と貴族の世界に詳しい人間の発想だ。『フロンがそれらを全て計算できるのなら』かなりの切れ者で、跡継ぎ云々の話は元から無かっただろう)
そして最後の、最も重要視すべき緊急でない点。ここに事件の重要性が集約されていると言える。
事件の重要性。
それは貴族に仕える人間が殺された、という一言で済まされる影に潜む真意だ。
その真意こそが、今回の事件そのものを生み出したと言える。
単純に人が殺されたから調べてくれというありきたりな事件として『処理されてしまいがち』な治安府としての日常、貴人に仕える人物が不幸に遭ったから原因を突き止めてほしいという庶民に対する責務を装った篤い賢人アピール。
この前提の上で事件が成り立っている。
それがそもそもの『事件の根底を混迷させている大元』だと整理できた。
脳内の曖昧模糊とした概念じみた思考を紙に書き出し、それを整理して可視化させなかったのは……心に自然とブレーキが掛かっていたのは、『ただの庶民』のイヅと『命令には逆らえない』ライデ・ジーロ子爵だからこそ陥った罠だった。
そしてその罠を『短時間で考案し、実行するほどの能力の高い人物ならば、嚢の錐のごとく一廉の名を挙げているに違いない』。なのに、最初からそのような人物は何処にも居ない。
少なくとも容疑者として浮上していない。
子爵は、テーブルの上に散らかった懐紙を集めながら、沈痛な面持ちで分類されたそれぞれのカテゴリーを見る。
イヅが、貴族への敬いの心を疲労のせいで忘れていたとして目を瞑ろうと思った。
それを看過してしまった自分の責任だと責められるつもりだった。……然るべき部署に懐紙に書かれたこれがバレたのならば、だ。
彼が不敬として処罰されても仕方がない事柄が並んでいる懐紙をカテゴリーごとに束ねて二つに折る。誰かに読まれては拙い。
「そういうわけです。もう一度、あのお方の屋敷へと参りましょう」
鉄の仮面を被ったように表情が消えているイヅは胸ポケットに葦ペンを差しながら言うと、静かに冷めきった茶を飲んだ。
上等で美味い茶は冷めても美味いと言うが、庶民が利用する露店で出されるような高級の程度はたかが知れている。
冷めた茶が氷水のように臓腑に染み渡る感触を覚えた。
この事件がなければこの茶はきっと天上の甘味のように美味かっただろう。
2人はガナドー家の邸宅敷地内に入ると、たった独りで家屋の番をしてると思われたフロンの姿を想像したが違った。
若い女性とやせ細った中年男性が2人を出迎えたのだ。
イヅははて、と門扉の前で目を白黒させていた。
男女2人の向こうにある邸宅の正面玄関から出てきたフロン・ガナドー男爵を見て目礼をした。
フロンは「今日はどのような件でご協力いたしましょう?」と両手を広げて出迎えてきた。
そして、2人の使用人を紹介する。
嘗て急に解雇したはずの使用人であるメルと下男のフォルだ。
ライデ・ジーロ子爵は容疑者リストにその名前を認めていた。イヅは子爵が解雇された使用人リストの名前を読み上げた中にその名があったことを思い出した。
フロン・ガナドーはメルに茶を淹れるように命じ、下男のフォルには庭掃除の続きを促した。
フロンが先頭に立ち、イヅと子爵を邸宅内部に招き入れながら廊下を渡り、応接室に至るまでに解雇したはずの使用人を再び雇った件を訊かれてもいないのに話しだした。
「この家は悲しい事件が起きたのでもう売り払ってしまおうかと思ったのですが、そうなると急に思い出深くなってしまいまして。そこで暫くの間、解雇した使用人の中でまだ職の見つかっていない者を再雇用したのです。こう広いと、夜は寂しいものです。なので、2人の使用人にはこの屋敷の部屋を無償で貸しています」
自分で追い出しておいて自分の都合で雇い直して、さらに恩着せがましく無償で部屋を貸して住まわせているとまで言い放つ貴族の性根に、正直、イヅは心の中で唾を吐き捨てた。
それと同時に……。
フロンという人物は本当に寂しいらしい。独りで屋敷で過ごすのが寂しいのか、家令のゴフを喪ったことが寂しいのかは不明だが、声のトーンや『小さな表情』からは寂寞が現れていた。
「……」
ライデ・ジーロ子爵はちらりとイヅを見た。
イヅはつい、と顔を上げてライデ・ジーロ子爵を見た。
2人の視線が偶然に空中で衝突する。
何も焦る心当たりなど無いのに、2人の視線は反発するように僅かに逸れる。2人とも、自分たちの反応に何故か困惑している……。
あたかも、どんな感情が原因でお互いが、相手を見ようとしていたのか理解不能だと言わんばかりに。
イヅに対して、貴族の庶民の扱い方は千差万別だからな! と目で言い訳をしていたのがバレたくなかったからか。
ライデに対して、あなたもこんな酷い仕打ちをするのですか? と口では尋ねていないが、顔で尋ねていたのではないかと咄嗟に思ったからだ。
実は、イヅも子爵もただ、『またも、廊下を歩くコースが同じだ』と言いたかったのだ。
この廊下が伸びるコースはいやが応にでも事件が有った現場を全て見ることができる。
ゴフのものと思しき血痕は薄くなっている。どんなに血抜きを施したところで、壁や露出した一部の床板に飛び散った血痕はそれ以上は薄まらないだろう。
盗難に遭った絵や刀剣、花瓶の跡が見える。
そこにの台には埃で丸く花瓶の後が残っている。
そこの壁にかけられた奪われた刀剣が架かっていたであろう壁には細長く日で色褪せていない刀剣の形が残っている。
そこの壁には絵が掛かっていたのだろう、四角い、日に焼けていない跡がある。
(埃と日の変色で気が付かなかったけど……)
(これは『見世物』だ)
イヅは盗難に遭った物が置いてあったとされる場所やその痕跡、捜査後に他の場所へ移されたと思われる調度品や美術品を見て、ちぐはぐな印象を強く受けた。
それを子爵に伝えようとしたかったのだが、子爵も気がついたらしい。
チラと見た彼の顔には思考、警戒、それと戸惑いの『小さな表情』が見えていた。
「我が商会や海運業は暫くは代行を雇って任せています。それで、今日はどのような」
「賊に奪われたものは高価な品物ばかりですね」
「え? ええ。そうですが」
応接室のソファに座るなり、挨拶もなしに子爵は火蓋を切った。
今回は子爵には何も言っていない。イヅは子爵の右手後方で従者の顔で立っている。
子爵が何を言い出すか不安と期待がせめいでいた。
屋敷の敷地に入る前に彼にフロンに対する質問をまとめたメモを渡すつもりだったが、見慣れない2人の使用人の登場で時間を奪われてしまい、打ち合わせも何もなしだ。
屋敷に来るまでに乗合馬車を用いたが、他の客が居る乗合馬車のキャビンで貴族が関係する犯罪の話を口にするわけにはいかなかった。
さて、どのように攻めるか? と頭を一捻りする間もなく、子爵は唐突に話しだしたのでイヅは驚きの顔を鉄の意志で抑えて、直ぐ様、お手並み拝見と気分を切り替えた。
イヅの頭の中では様々なパターンの仮説が次々と可能性を否定されて着実に一つの答えに近付きつつある。
願わくば、その答えと子爵の答えが同じでありますように。
そして、この事件の前提である核心からずれないように、と願うばかりだ。
使用人の女性がティーセットを持ってきて、湯を注し、茶を蒸らす。最後にシンプルな砂時計を逆さにする。
それだけを行うと、一礼して、応接室から出ていく。
「さて」
「はい」
女性使用人が入室してから退室するまで無言だった空間に再び子爵の声とフロンの声が交わされる。
「私は美術品には詳しくないが、仕事柄、美術品の特徴を見定める技能を求められる。治安府の証拠物品を置いておく倉庫はちょっとした美術館なみでしてね」
「はあ……」
「で、その付け刃の審美眼の持ち主がみたところ……『奪われたのは本物だけだな』と、思いまして」
子爵は声は穏やかだったが、恫喝に近い眼光でフロンを射抜いた。
子爵が言葉を少しずつゆっくり、はっきりと発音したのは前回の事件で犯人の1人であるガラを取り調べた時に用いた話し方だ。……勿論、その時にそれを教えたのはイヅだが。
その声の穏やかさと鋭い眼光と、何故か耳の奥に届くアクセントの置き方。
言語でありながらどこか非言語なそれらは、話している内容は理路整然とした文法なのに、あたかも二重束縛的な話術に陥ったように認知してしまい、脳内で子爵の言葉の噛み砕きと、子爵の非言語の仕草と、余計な印象だけを拾いそうな声質に惑わされ、思考が遅れる。
思考が遅れるとそれだけ脳内で処理された情報が言語化されて口頭で答えるという出力にも影響が出る。
つまり、しどろもどろになる。
咄嗟の反応ができにくくなる。
(ほう……これは)
イヅは涼しい顔のまま目をフロンの顔や肩や手先に向けながらも、子爵の生兵法だが、基礎の基礎を押さえた尋問技能に舌を巻いた。
イヅが尋問するならば導入は違うが、これはこれで非常に好奇心が刺激される展開なので子爵の次の一手を待った。
これはイヅでは絶対に質問できない、帰属集団的概念が働く社会的地位での上位階級だからこそ放つことができる質問だった。
先程の子爵の言葉の意味は、『お前の家にある美術品は偽物が混じっている』と家の主人に対して決めつけで言っているのだ。
普通ならば侮辱が成立して裁判なり決闘なりが開かれるのだろうが、少年は子爵の後頭部しか見えない。顔が見えないので、男爵の『小さな表情』を読み取って、自らも表情を動かさないように始終した。
「これは手痛い! と、申したいところですが、当家の財政が逼迫してからというもの、価値のある物は少しずつ売却しておりまして…美術品や調度品もその限りではなく。恥ずかしながら、見栄だけでも、と思いまして、よくできた贋作を並べていたのです。凋落寸前の貴族でも痩せ我慢を悟られたくはないのです」
「なるほど。確かに。私も実家の台所が苦しくなると卿のようにこっそりと本物と贋作を入れ替えて、本物を売りに出すかもしれません。我々貴族は懐に関する醜聞はぜひとも避けたいですからな」
ライデ・ジーロ子爵は貴族としてはデリケートな話題なのに自らも苦境に陥ったら同じことをするだろうと宣い、更に彼は、男爵と数瞬遅れでティーカップを口に運び、茶の芳醇な香りに目を伏せている。……目を伏せる動作もフロン・ガナドーと同じタイミングだ。
相手との心理的距離を詰めるために普段の所作を利用応用する手法が幾つかあるが、そのうちの鏡写しの動作をライデ・ジーロは用いたのだ。
イヅは舌を巻いただけで足らずに、奥歯を少し強く噛む。
前回のガラの取り調べにおいても拷問は心理的に有効ではないと感じたので、事件が解決してから子爵に「相手を懐柔する方法を学べば短時間でなんとかなるかもしれませんよ?」と吹き込むべきか悩んだが、子爵は打てば響く太鼓のようにイヅの望む手法を広げていく。
勉強ができる馬鹿は応用が利かないだけで、『応用を利かせる』ということ自体に興味を持たせれば貪欲になる。殊に、自分の興味と職掌が一致すれば不眠で習得に励むだろう。
……とは言え残念なことに、子爵は高給取りには興味はないようなので、その応用を活かせる範囲はあくまで現場一辺倒で終わるだろう。
貴族同士の軋轢や、職場での力関係や上意下達の際に発生する齟齬や矛盾に対処する技術まで興味の範囲が及ぶとは思えない。
ライデ・ジーロとはそんな残念な優秀な頭脳の持ち主なのだ。
「その贋作を踏まえての話なのですが……贋作だらけですな」
「ええ、それは先程も申しましたとおりに……」
「いやいやいやいや。私は押し入った賊の手並みを恥ずかしながら鮮やかだと感じているのです」
「…」
(!)
ライデ・ジーロ子爵が強盗を褒める内容を滑らかに話した瞬間にフロンの瞳孔は収縮し緊張を見せた。舌骨も上下する。連動して胸鎖乳突筋の顎側もピクリと動く。
「ガナドー卿、あなたの協力のもとに作成した盗品のリストを何度も見返したのですが……見事に『本物』だけを狙って賊は奪っていますね」
(緊張、警戒、焦燥)
(一気にライデ様を『敵認定』したな)
ライデ・ジーロがゆっくりと友好的距離を縮めて、突然、今回の聴取の核心まで距離を詰めたので、フロンは髪の毛が逆立つような感覚に陥っただろう。
実際に頭皮がきゅっと上下するのを確認した。
「治安府の見解では犯人は1人乃至少数で、家屋内部の構造に詳しい人物……つまり、屋敷に関連する誰かの手引が最低限必要だと睨んでいました」
「つまり、我が家のものを疑っていると?」
フロンの肩が硬直する。靴の爪先が狭くなる。硬い干し肉でも噛んでいるように顎の表皮が上下する。
ライデジーロの言葉は、フロンの触れてほしくない部分に触れたか、触れられると困る部分に触れたか。
「いやいや、誤解されては困りますよ。知らぬ間に利用されていた、ということもあるでしょうから」
ライデ・ジーロ子爵は刃を返すように苛立たしさを掻き立てる口調でフロンに言う。
「これは治安府の内密の資料からの抜粋なのですが」
と、子爵は勿体ぶって前置きする。
頭に血が上ったフロンを宥めると言うより、頭に血が上っている今だからこそ大量の情報を流しこむことで墓穴を掘るのを誘うつもりだ。
イヅも捜査権が有ればこの機会でそのようにしていただろう。
感情の撹乱。
社会通念としてはスマートではないが、激しい感情の発現を控えるとを美徳とする貴族からすれば、内なる自分を抑えるので精一杯だろう。
それもこれも、イヅが、フロンがそんなに優秀なのか? 次男が家督を継げばいいとも言われていたのでしょう? と疑問を持ったことを子爵に言ったのを、覚えていたのだ。
短絡。
それがフロンがガナドー家を継ぐに相応しくない理由として辺りの人間が次男を跡継ぎに推していた理由だった。
短絡を更にカミソリで撫でてボロを出すように仕向ける子爵。
恐らく勝負はこれからだ。
イヅの脳内では様々な仮説が脱落して、最早、一つの仮説しか生き残っていない。
この事件に直接的な犯人は居ない。
それがイヅの仮説だ。
敬愛する美貌の子爵は、そのイヅと仮説を同じくしてくれているかどうかが心配だった。
