♯006『文筆家は夜警の一人』(全3話/現在2話まで公開中)

【♯002「一足遅れの哀歌」2/6】

「と、その前に使用人たちに会う前に会いたい人がいるのですが」
「フロン・ガナドー卿だな」

 イヅの申し出にライデ・ジーロ子爵は即答した。名誉不名誉の面子の世界で生きている貴族としては殺人事件の容疑者として名前が浮上するだけで一騒動だ。
 イヅが容疑者として濃厚な使用人たちに会う前にフロンと会いたがるのはライデとしても簡単に予想できた。

 ライデからすれば、いつまで経ってもイヅの耳に届かないフロン・ガナドーという人物が気になって仕方がないだろう。使用人たちの聞き込みや身の上調書は既に聴取が終わって作成されているので、疑問があったとしてもその部分だけを裏付ければ一応は疑念が晴れる。

 だが、貴族という立場に守られているフロン・ガナドー男爵についてはイヅに手渡された報告書では邸宅の持ち主程度の記述しかない。
 被害者の家令ゴフに関しても、フロンに常に付き従ってくれた忠義を評価され、殺害されてから、その働きを評価して名誉爵位を与えるとさえ言われているのでその名誉人に傷をつけるわけにはいかない。
 報告書の上では腹部を刺されながらも自らのナイフで応戦した義に篤い勇気ある人という扱いなのである。

  ※ ※ ※

「つまり、本当に何も……」

 ライデ・ジーロ子爵は高級な材質だが質素なデザインの家具や調度品で囲まれた部屋でテーブルを挟んでフロン・ガナドーと神妙な顔で当時の様子をうかがっていた。

「はい、子爵。あの晩……宵刻(午8時)、使用人たちに解雇を下して自宅から追い出すと……恥ずかしながら、急に寂しくなり」
「お察しします。先代の意思を貫けなかったので仕方無しに使用人を全員、急遽解雇とは。私も同じ立場なら自分が情けないやら恥ずかしいやらで何をするか分かりません」
「……お察しいただき、有難うございます。……まさか続けてゴフまで喪うとは! ゴフはもう雇いたくても雇えません……」

 ゴフ以外の使用人の代わりはいくらでもいると言わんばかりの、30代前半だと思われるその男爵は下瞼を震わせて眦に涙を浮かべる。小鼻が小さく収縮を繰り返す。合わせてきつく閉じた両の拳は血の気が引くほど強く握られている。

(恥。悲しみ。怒り。怒り……恥。悔い。悲しみ)
(この男……本当に被害者を悼んでいる。焦燥も緊張も無い)
(ここに来るだけ無駄だったかな。報告書も偶には正確に取捨選択された情報が書かれているのだなぁ……)

 イヅはあらかじめ、懐紙に書いた質問を子爵に覚えてもらって、何も知らない従者の顔で椅子に座る彼の右手後方で控えていた。
 もちろん、質問に潜ませた相手を揺さぶる言葉を幾つか紛れ込ませていたが、それらはことごとく、言葉通りに解釈されてしまう。
 つまり、本当に家令を喪った事実を悲しんでいる。使用人を解雇したことを恥じている。事件自体を悲運だと嘆いている。
 フロンの『小さな表情』や『感情と連携した仕草』がそれを物語っている。
 捜査のために訪れたと前置きしても、椅子に座るフロンの肩は開いたままで、爪先も肩幅を維持したまま。さらに手の位置も最初からテーブルの上だ。……これらは無警戒や相手の話を聞き入れるための姿勢で警戒や注意はしていない。心理的圧力を感じていない。

 かねてからの合図で、イヅはベストのポケットから手帳を取り出すとパラパラめくり、失礼します、と声をかけてライデ・ジーロ子爵の耳元でささやく。

「ん? ああ、もうそんな長く話しているのか……ガナドー卿、今日はありがとうございました。本日はこれにて失礼します」
「大したお役に立てずに申し訳ないです……どうかゴフの仇を!」
「全力を尽くします」

 子爵と男爵は握手をして邸宅を後にした。
 フロン・ガナドーは別れの握手のときでさえも泪と洟を流して子爵の捜査の進展を心待ちにしている台詞を継いでいた。

「……」

(? 今少し……『あの顔になにか見えた』が……気のせいか?)

 治安府へ戻るまでに乗合馬車を探している最中にイヅはライデ・ジーロに高級な装丁の手帳を返す。少しでも身分が上の従者の小道具として自分を演出させるために子爵から借りたものだ。
 自分の手帳を受け取った子爵は今一つ冴えない少年の顔を見て、なんの成果も得られなかったのを悟った。

「……まあ、少なくともこれで貴族を犯人扱いすることはなくなったと思えば気が楽だ」

 子爵はしょげた顔をする少年を労るように言う。
 
「さあ、これで貴族間の面倒ごとから遠ざかったぞ! 犯人は少なくともガナドー卿じゃないそうだしな!」

 さらに子爵は笑顔で肩の荷が下りたことをアピールする。少しでもイヅの顔を平穏に戻したい一心だ。
 子爵は心の何処かでフロン・ガナドーが犯人かも知れないという疑いを持っていた。そうなった場合の後々に発生するであろう派閥やお家の面倒事を考えると気が重いのだ。
 だが、イヅの何処か陰りのある顔を見ると、犯人はガナドー卿ではないようだ。
 それを思わず喜んでしまったが、自分の配慮の足りなさに感づいて息を呑んだ。
 貴族が犯人でなければそれで全く問題ないというニュアンスを含んでいるからだ。貴族ではない庶民の前で口にする言葉ではなかった。
 自分で自分の鍍金をヤスリで剥がしているようなものだ。
 もしかしたら、今この時を以てイヅは口を利いてくれないのではないか? とさえ疑うほど長い時間が経過した。
 実際には数瞬ほどだろう。

「そう……ですね。そうですね。気分を切り替えましょう」
「そ、そうだぞ! 次はやはり当初の予定通りに使用人を当たるか?」
「はい。是非」

 少しだけ口元に笑顔が浮かんだ少年のをお見た子爵は思わず彼の頭を撫でてしまった。彼が言葉を継いでくれて、心の隙間から安心が溢れ出てしまったのだ。
 なのに撫でてしまってからしまった! と慌てて手を引っ込める。彼は少年だが男だ。大人になろうとしている男だ。いつもならジトッとした嫌そうな目で無言で抗議してくるのに……。

 失言に無礼。
 ライデ・ジーロ子爵は生まれながらに何か人間として重要な機微を読み取る力を忘れてしまったのではないかと、自分を殴り飛ばしたくなる。
 非言語の意思疎通が苦手で、相手の発信を読み取る能力が低く、なのにこちらが相手にどれだけ非言語で発信しても相手には皆目伝わっていない。
 自分の生まれ持った病気なのか、こういう性分なのか分からないが、自分の発言や行動で傷つく人間が居るのは事実なのでなんとか、気合と根性だけで自分を制御したい。……と、常々思っている。

「……あ、すまん」
「…………」

 頭を撫でられたイヅはというと、全く意に介さず腕を組み何事かを考えながら顎を指で撫でていた。

「何か? 他に気になることでも?」
「……」

 イヅは顎を引き気味にして視線を空に向けて違和感とも言えない小さな何かの正体を探っていた。

 ライデはイヅのその顔を認めると何か言いたげに開いた口を閉じた。
 彼は今なにかを…『整合性があるなにか』と比較している。
 それは恐らく報告書の様々な記述だったり、五感から拾った情報だったりと、子爵の感性や視点からでは思いもよらないことだろう。
 この少年は決して推測を論拠としない。推測を証明するための仮説を先に打ち立ててから裏付けをするタイプだ。

 問題の解決方法はどのような場合でも大別して三種類しか無い。

 自力で解決できるレベルまで問題を細分化するか、他に類似する問題を探して比較してどのような方法で同じ問題を解決したか、それともさっぱりと視点を変えるか。

 一番難しいのは視点を変えて問題を見ることだ。その人物だからその見方をするのは個性とも言える。それを全く違う方向から眺めるのは自分を一旦解離させる必要がある。

 その場合、自分という個性が一番の障壁とも言える。

 ライデ・ジーロ子爵は自分の限界というよりも得手不得手を知り尽くしている。
 だからこそ、イヅという子飼いのシンクタンクを手懐けている。
 自分の視点では何も見つからなかった場合に備えてのイヅだ。

 最初は都合のいい駒として駄賃をちらつかせて顎で扱っていたが、今では……今となっては、そんな無礼な出会いを演出するのではなかったと後悔している。
 社会的地位と見合う俸給を携えて官吏補佐として正式に取りたてるべきだった。少なくとも胥吏待遇で交渉するべきだった

 自分の最初の接し方が無礼だと分かって姿勢を正して彼と向き合って全ての本音と謝罪を述べたうえで自分の右腕になってほしいと強く願ったことも一度や二度ではない。

 それをいつも思い留めるのは……庶民として溌溂と生きている顔が魅力的な生命力に包まれて眩しいからだ。
 あの笑顔は何処かの組織に強制的に編入させた途端に失われるだろう。
 彼は安息を求めているが、怠惰は求めていない。

 ライデ・ジーロ子爵と従者の如き少年。

 今はその関係でいい。
 
 ふと思い返せば、先代の従者を喪ってから悲嘆に暮れるのが嫌で、爵位持ちでありながら決まった従者を連れずに出歩く変な貴族だと思われているのも、考え方によっては都合がいい。

 あんな悲しい別れをするくらいなら、代筆業の少年の知恵を金で買っている鼻持ちならない貴族と思われている方がいい。

「解雇したのは……容疑者……使用人……何か……」
「使用人は全員で4人。男の料理人、下男、女の使用人が2人だが」

 あの規模の邸宅なら主人のフロンと家令のゴフを足しても丁度いい。街中の屋敷なので土地自体も広くはない。
 番犬を飼い、警備員を雇う金も渋るほどなのだから家も土地も小さいほうが処分しやすいだろう。元は海運の商売で儲けた家柄だ。あらゆる形の保険……処分しやすい家や土地、売りやすい別邸、換金しやすい調度品も視野に入れての購入だろう。

「!」

 フッとイヅは顔を上げる。

「ライデ様、使用人への聞き込みは後にしましょう! それよりもガナドー卿の家にもう一度向かいましょう!」
「え?」




 突然何を言い出したかと思えば、と思いながらも2人はやや小走り気味にフロン・ガナドーの邸宅にとんぼ返りして、ライデ・ジーロ子爵は、先程の邸宅の検分中に落とし物をしたので失礼を申したい、と言って、本当に検分した通りの順でライデ・ジーロは歩いた。エスコートするように2人の先頭をゆくのはフロンだ。
 もちろん、現場の最低限の状況は治安府の絵描きに描き残させるために触れない用に注意はしている。
 フロンが先頭を歩いてるが真に目を光らせているのはその最後尾のイヅだった。

 最初、ぽかんとしていたフロンだったが、案内が終わると、役所務めも大変ですねと声をかけただけで応接室で自ら茶を淹れている。貴族、ましてや当主が茶を淹れるなど他の貴族からすれば噴飯ものだが、本人曰く、なんでもいいからしていないと気が紛れないらしい。

(思った通り!)
(違和感が『大きすぎた』!)

 子爵とフロンが応接室で雑談をしている間、イヅは調度品や壁の絵画や貴族階級の家なら珍しくない武器や盾を見る。
 指先で家令ゴフの血痕と思しき跡も追う。

 強盗に荒らされた、というのが第一報。
 その報告はフロン・ガナドーが自ら強盗に襲われたと夜警団に助けを求めた。
 夜警団は難なく、邸宅内部に入れた。

 そうなれば……2つの疑問が同時に湧く。

 一刻(2時間)ほどの時間差だが、それで十分だ。

 だが、仮説でしか無い。証明されても状況証拠でしか無い。

 人情や感情では裁判は開けない。

 決定的な証拠は無い。
 一つの仮説が脳内で様々な分岐を見せて無限に可能性だけが広がっていく。

 目を皿のようにしてイヅは這いつくばったり、舐め回すように壁や床や家具を見る。

 フロンとの雑談の最中に視界の端で、少年が床を這う。フロンは特に気にしていないようだ。

 しばらくして何もなかったような涼しい顔でいつもの従者の芝居で子爵の右手後方に来て立ち、子爵に耳打ちする少年。

「探しものは彼が見つけたようなので、これで失礼します」
「本当にお役所務めは大変ですね」

 苦笑いのフロン。
 両者は握手をして、来た時と同じ順路で玄関から出る。
 握手と会釈を交わして退散する2人。

 先程の廊下を這う少年のその姿をライデは手綱から放たれた愛玩犬が匂いを探っている様子をなぜか連想してしまった。

 こちらに尻を突き出すように向けながら床に顔を埋めんばかりにしている様など、つい、その誘わんばかりの尻を……。床についた両手の脇から見えた彼の桜色の乳首など……。

 と、思ったところで、イヅが考え込んで路面を視ている隙に近くの壁に額を打ち付けて、どこから湧いてきたのかわからない度が過ぎる邪念を追い払ったライデ・ジーロ子爵。(自称24歳。未婚)

 フロン・ガナドー男爵の邸宅を後にして歩きながら。

「確かにそれはおかしい。おかしいと言えばおかしい」
「もちろん、犯人や犯人連中がどうしようもない間抜けでも幸運は人一倍なら可能性はありますが」

 イヅとライデ・ジーロ子爵は早足で乗合馬車を探す。今日はこれから容疑者たちの家に出向いて直接の聞き込みをする。

 まとめて出頭させれば最良なのだが、次の職場探しに躍起になっているであろうから、全員が揃う時期を見定めるのは難しいと判断した。

「順序としては先ほども言いました点がおかしいのです。その点だけでも使用人たち…容疑者たちに確認するだけでも大きな収穫となるはずです」
「それはそうだが、では、犯人が外部の…複数の可能性は?」
「それも否定できません。一人の可能性ももちろん否定できません」

 ライデ・ジーロ子爵は届けられた報告書の中でも一番強く記憶に残っている書類の内容を脳内に浮かべて気になった文節を検索する。

 イヅは何事かを言おうとつい、とライデ・ジーロ子爵の顔を見上げるが、集中するその顔は、苦み走った精悍な美丈夫と化した彼の顔に一瞬だけ呆けてしまう。
 直ぐに頭を振って言いたいことを口にする。……美人が仕事に没頭するとこう、なんとも言語化が難しい気品とも色気とも言える雰囲気がだだ漏れになるので何かと不便だろう。
 そんな美貌なのに浮いた噂がないので余計に面倒な縁談に追われるのも納得できる。
 さっさとお手つきでも作って見た目だけの夫婦生活をアピールすればいいのにと不謹慎ながらいつも思う。

「確かに、屋敷内部では調度品や美術品が奪われた痕跡がありました。それが……いや、それを残らず正確に説明してくれたガナドー卿が…」
「…」

 イヅは子爵が途端に睨みつける厳しい顔に変貌したのを見て口を閉じた。

 往来で貴族に嫌疑をかける発言を庶民がしたとなっては、誰かが聞いて警吏に訴えれば、さすがのライデ・ジーロも権力を以てしても揉み消したり不問に付すことはできない。
 ライデ自身への不敬なら幾らでも目を閉じよう。可愛い奴めと戯れ程度に聞いてやろう。
 だが、直接の交流も親睦もない貴族への誹りは『彼の権力では止められない』。

「失礼しました……」
「…」

 またもしょげた顔になるイヅ。自分に非があるとは言え、自分だけではなく場合によっては監督不行き届きで子爵も何かしらの責任を負わされる事態も想像するべきだった。
 そこには確かに上司を叱る部下の姿があった。
 従者を躾ける主人の顔があった。

 イヅだから特別に取り立ててやっているという身分的上位者の驕りというより、少しでもこの国で長生きしたかったら口に出していいことと悪いこと、そしてその言葉を口にしてもいい機会があることを肝に銘じろという教育でもあった。

 夜警団の連中ならば自分より汚れていない服を着ている人間ならば分け隔てなく平身低頭する。それは、相手の身分や地位や役職を見破る能力を持っていないので、身なりだけの印象で『自分たち側か、そうでないか』を決めているだけの思考停止だ。それは彼らなりの処世術でもある。

 しかし。

 ライデはイヅが低いレベルでの判別しか知らない無教養の人間なら叱りはしない。
 そもそも、傍に置こうとは思わない。

 彼が自分の時間を投資しても惜しくないと、惚れ込んでしまった頼もしい少年を往来でのくだらない失言で失いたくない。

 誤解を恐れずに言うのなら、子爵は彼を広義の意味で愛している。

 願わくば、その失言は犯人逮捕の瞬間まで温存しておいて、犯人に向けて放ってほしい。

 現行犯でも検挙した後の自供でも、犯罪者だと確定すれば身分は関係なく断じられる。

 何より、小さな猟犬のようによく働く存在の口から他者を悪く言う言葉は聞きたくない。

 魂が穢れるのには若すぎる。

「これは独り言だが」

 と、唐突にライデ・ジーロ子爵は前置きした。取って付けたような喋りだしだが少年はその顔色から機微を読んで黙った。

「初めてあの屋敷へ来たときも、先程もくだんの屋敷へ戻ったときも、当主は迷うことなく『同じ順序で家の中を説明してくれた』な」
「…まるで観光名所を案内する案内人のような正確さでしたね。それとも自分の家での出来事ですから忘れようとしても忘れられないのかもしれません。『思い出深いのでしょう』」
「今は一時保留として覚えておこう。とにかく聞き込みだ」
「日が暮れる前に片付けばいいですね」

 うまく噛み合っている独り言を2人は交互に口から漏らした。

 やがて2人は漸く掴まえた乗合馬車に乗り込み、子爵の手帳に書かれた容疑者たちの家を一軒ずつ巡ることで本日の捜査は終了の目標とした。

 実のところ、捜査は続けるつもりだったが、昼次刻(午後4時)を一刻(1時間)ほど過ぎた時に、一番近くの容疑者の家に向かう前に、早めの夕食を摂ろうと露店に出向いたが、体力面で子爵より劣るイヅが食後すぐに眠気を覚えて大きなあくびをした。欠伸を連発して一休みしないとどうしようもないと判断した子爵はイヅを先に帰宅させた。

 帰宅させてから後はライデ・ジーロは独りで手帳と手帳に挟んだ懐紙を見ながら雑踏に揉まれながら容疑者の家へ単身、向かった。

 ライデ・ジーロ子爵とて馬鹿ではない。記憶力のいい馬鹿で、応用が効かない馬鹿なのだ。
 それゆえに、昼にフロンの家を探っていた最中にイヅが気にかけている事柄を全て懐紙に書き込み、それを残りの容疑者たちに同じ質問を繰り返すだけだったので楽な仕事だった。
 それに少年は食後の急激な眠気に必死で耐えながら子爵に同じ質問をしてほしいと頼んでいたのだ。半分寝顔の少年。その声も寝言さながらに舌足らずに聞こえて可愛らしいものだった。

 仕事は楽だが、仕事が楽に感じられるほど要件を要約した文言を考えたのは他でもないイヅだ。

 日がどっぷり暮れる。
 子爵の背中が人混みに飲まれる。 

 やはり敵わないな、と手帳を見ながら後頭部を掻く。

 街中の雑踏に吸い込まれていくように、溶けるように、紛れるように消えていく子爵の背中が有った。

  ※ ※ ※

 翌日、正刻(正午)。

 早朝から手書き新聞と代筆の仕事を優先順位の高い順から片付けたイヅ。
 正直な所、夜警団の範疇を超えた職掌のおかげで副業は割と実入りがいい。
 それでも代筆業と比較してのことで副業を始めてから少しばかり露店で高い注文をする回数が増えたくらいだ。

 帝国の飲食店事情は独身男性で成り立っているとまで言われている。

 結婚すれば自宅で妻に食事を作ってもらえばいいという考えが強いのだ。

 そんなわけで自宅に食材を買い込んで自炊する男は珍しい。
 イヅ自身はその珍しい分類に半分ほど、入る人間だが、露店で食べることが多い。
 というのも、帝国内の地方の珍しい料理や外国の料理のレシピをまとめた本を手に入れると、実際にどんな味なのか試したくなってつい、自炊してしまう。
 腹を膨らませるためではなく、好奇心ゆえの調理だ。

 それどころか、服用薬や外用薬の作り方をまとめた本を入手すると、その薬を作るだけでなく、実際に使用してみる。

 イヅの持論としては知識というのは覚えただけでは全く役に立たない、脳の容量を圧迫するだけの雑念でしか無いとのことだ。
 知識は実践して成功と失敗を繰り返して、何故成功したのか何故失敗したのかを見直してその要因を洗い出し、さらに成功率を高める工夫をし、失敗の可能性が低い方法を模索する。
 イヅの感覚では失敗した理由を徹底的に解析したほうが成功への道が見つかりやすい……覚えて、実行して、学んで、さらに覚えたものを試すべく実行する。

 いづの脳の端にはいくつかの格言がスローガンのごとく存在するがそのうちの一つに、とある国の発明家の言葉が掲げられている。

 『この方法では失敗するということを1000回実験して証明し、結果として成功するたった1つの方法を見つけるに至った。』

 この繰り返しの結果、本当に知識は知識として活かされるのだと思っている。
 それは数ヶ月も数年もかかる長い習得方法だ。
 いつか読んだ古代の数学者の言葉で『誰であろうと自ら苦労して習得していくほかない』という一文が彼の気が付かないレベルでこれもまた掲げた格言の一つになっている。

 昼飯時のいつもの露店。

 今は食材や薬の材料を買う金子に乏しいので露店でいつも通りに食事中だ。
 
 具が皆無の雑穀粥と焼いたうなぎの昼食を胃袋にゆっくりと収める。
 うなぎのタレは魚醤と蜂蜜をベースにした煮汁に香草で香りをつけたものだ。

 豚肉と野菜の切れ端が入った雑穀粥ばかりだと流石に飽きるので偶に少し高いメニューを注文する。

 今日は日頃の不摂生を食事で賄う意味もあり、少し高い注文をしたのだ。東方のとある書物では『日頃から滋味あふれる食事を楽しむことで病を防いで治す』と書かれており、医術の基礎の一つだそうだ。

 食事の間はできるだけ考えたくないと思っていても、フロン・ガナドーの家令殺人事件が脳裏にすぐに浮かぶ。

 何故、フロンが助けを求めたら即座に夜警団が問題なく屋敷の敷地内に入れたのだ?
 庶民はいかなる時も貴族に招かれなければその敷地に踏み込むことを許されていない。後頭部を殴られて目が覚めたフロンが真っ先に助けを求めた。夜警が通り、敷地内へ招いた……理由はそれだけか?

 確かに強盗が荒らしたような形跡はある。それにしては『正確にして大雑把、それでいて確実』。

 この2つがどうしても引っかかる。
 昨夕以降の捜査は子爵に任せっきりなのでその報告を聞くまで今は何もできない。
 情けないことに、はっと気がついて飛び起きたときには自身は菰のベッドの上だった。眠気に抵抗できなかったらしく何も覚えていない。記憶が不明瞭だ。

 …これはきっと脳が疲れを訴えているので全身の筋肉にに緊急停止命令を出したのだ。

 と、解釈している。
 さて、子爵様のご機嫌はいかがだろうか?
 寝落ちした庶民に呆れ果てているだろうか?

 事件の内容が頭の隅に追いやられて、敬愛する子爵の顔が浮かぶ。

 彼は治安府警邏部警吏副官長。けっして暇な職務ではない。
 彼は机の前ばかりだと運動不足で息が詰まりそうだと言いながら外出しては市井に混じって景気や治安に聞き耳を立てている……らしい。

 ジーロ家の家督を継いだ子爵ほどの人物ならば従者を連れて出歩くのが普通だろうに、貴族らしくなく、従者を雇っていない。
 前には彼専門の従者が居たらしいが、特に興味がそそられる気配がないので詳しく聞いていない。
 ジーロ家は役職こそ高いが、俸給は中の中だと自称していたのでフロン・ガナドーのように実際は先代やその前から引き継だ負債で帳面では赤い字が踊っているのかもしれない。

「本当に美味そうに食べてるなぁ。山のように盛った麦と焼いた牛の切り落とし肉を思いっきり食べさせてやりたい」
「うわっ」

 思わず声が出る。粥の鉢とうなぎの皿ばかりを見ながら思考を巡らせていたイヅの左手側からのほほんとした声が聞こえた。
 聞き間違えようのない、我らが子爵様の登場だ。
 麗しい声で、田舎に帰った孫を見る祖母ようなことを言う。

 それにしても、この子爵。
 食事の時だけいつも不意をついた登場をするのよな。

「ら、ライデ様!? なにか言ってくださいよ!」
「リスみたいに頬を膨らませて食べる顔を見ていると声を掛けるタイミングがなかなか見つからなくてな」

 そう言いながら、体を大きくくるりと回してイヅの右手側の椅子に腰掛けて、露店の給仕を呼んで濃い茶と砂糖をまぶした焼き菓子を注文する。

 子爵が露店で注文するものは決まって茶と甘味だ。
 腹持ちのいいものを食べると眠くなって仕事にならないのと、頭がいつも疲れているので自然と甘いものを欲しがるのだそうだ。
 ……余計なお世話だと叱られるかもしれないが、いつかは彼にはっきりと言わねばならぬとイヅは思っている。

「そのままだと飲水病(糖尿病)になりますよ」

 と、はっきりと言ってやらねばならない!

 彼を喪うのは非常に痛手だ。
 主に本を買う資金を調達するという意味で。
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