♯006『文筆家は夜警の一人』(全3話/現在2話まで公開中)

【♯002「一足遅れの哀歌」1/6】

「誰かいないかー! た、助けてくれ!」

 早次刻(午前4時)の、早い街中に若い男の声が静謐な空気を裂いて突き通る。
 それを聞きつけたのは漸く巡回が終わったばかりで帰路に就こうとしている数人の夜警団だった。

 彼らは蛮勇を誇る粗野な人間たちであったが、自分たちに助けを求める声には使命感によって敏感に研ぎ澄まされていた。
 従って、その声を聞くやいなや、我先にと声がした方向へと走りだす。

 しかし、腕っぷしで鳴らす彼らも、そこへ来るなり、爪先に制動をかけて停止するしかなかったが。対して、助けを呼んだ主は構わないから早く来てくれと叫んだ。

 それはいつもの夜明けとは違う始まりを報せていたが、少年がそれを実感するのは、起床していつも通りに生業のために頭を絞る前日のことであった。

  ※ ※ ※

 イヅは今日もズァルト帝国よ朗らかたれと心で祈りながら露店で朝食を食んでいた。

 今朝は芋の蔓に似た根っこが多く含まれた雑穀粥だ。粥はズァルト帝国の国民食だ。 
 帝国の粥はズァルト帝国が建国する前に礎を築いた民族が雑穀と肉や魚を香草と煮込んで嵩を膨らませたものが起源だという。
 歴史ある国民食で、皇帝陛下におかれても主食として粥を召されていると聞くが、どのような穀物でどのような具材が入っているか興味は深い。帝国の粥は、穀物で煮込んでいれば粥という大きなくくりに分類される大雑把な料理だ。

 雑穀粥を啜りながら、テーブルの上に広げた懐紙を見ながら本日の予定を確認する。

 手書き新聞の項目の先頭にある四角い印にはバツ印が入っている。この仕事はもう済んだ。

 手紙の代筆に、ペンすら持てなくなった病人の口述筆記、日用品の買い出し、代筆業者の斡旋場で依頼の受け取り……。

 これじゃ今夜も夜警は辛いな、と口の中が塩辛くなる。

 そう言えば、昨日の朝早くに隣の区画で物騒な事件が発生したらしいが、あの区画はライデ・ジーロ子爵の担当なので彼は今頃、指揮官の選抜に忙しいだろう。
 
 子爵の職掌は現場での事件解決ではなく、その事件解決に相応しい人物やチームを編成するのが本来の仕事だった。
 ところが、治安府は慢性的な人材不足で高級警吏が自らも現場に出る機会が多い。
 人材に困らなければ、そもそも自警団やその下部組織の夜警団に巡回を委託したりはしない。

 何かと時間があり、イヅと絡んでいるライデ・ジーロ子爵だが、それは机での事務仕事から逃げ出す口実を作っては、庁舎外へ出て気分の入れ替えを頻繁に行っているだけだ。
 怠け者ではないが、組織であるからには自分一人が不在でも組織なのだから代わりはいくらでもいるだろうと自分の重責を甘く視ているフシがある……のかもしれない。

 自警団や…ひいては夜警団や、街角の警吏から挙がってくる報告書に目を通し、事件性があるのならその度に専門の組織を構築する。
 普段から書類だけに目を通していればいい楽な身分ではなく、いつでも自分の仕事のためによい返事を返してくれる使い勝手のいい駒を確保していなければならない。……自身の息抜きの時間を増やすために。

 なのに、あの子爵様は記憶力がよくて勉強ができるというだけの応用力に乏しい性分のくせに、貴族の間で通用する人心掌握術より、庶民に飴を与えることのほうが得意な人間なので、職場の治安府では割と陰口を叩かれているらしい。
 口の悪いやつ等は子爵を昼行燈などと呼ぶのだという。

(……の、かもしれないなぁ)
(まあ、当たらずしも遠からずだろうなぁ……)

 ふと思考が、顔だけはいい子爵に飛び火すると、少しだけ粥の味の塩気が引いたような気がした。

 イヅが自宅へ戻る途上で同じく副業で夜警団に所属している青年に会った。
 その青年より聞き捨てにしたい言葉を聞く。

「今夜の巡回前の集会にジーロ子爵様が来るってよ」

 笑顔でそれはどうもと答えたがイヅの頭の中は一気に曇る。
 ライデ・ジーロ子爵は本来ならばはるか後方でふんぞり返っていなければならない地位にいる人物なのに、自身が直々に現場付近へ出向くことが多い。
 彼曰く、後学のためらしいが、後学以前に治安府の基礎の仕事もこなしてほしい。

 すなわち、イヅの脳内が文筆家から商人へと切り替わったのだ。

 面倒ごとの匂いがする。

 子爵様は善人に違いないが、善人だから悪事が寄り付かないとは限らない。

 さらに子爵様は場の雰囲気を読めないことでも有名で、『頼られれば断固として断ることが苦手なのだ』。

 それがどんな不条理でも、理にかなった案件でも、根が善人ゆえに職業や地位を天秤にかけて無下にするのが苦手なのだ。もしかしたら、推し量るという概念を知らないのかもしれない。
 
 食事をしながら考えていた本日の予定の一部を省略するか先送りにするか考え始めた。

 ……子爵様が直々に集会所へ来る。

 大きな駄賃の匂いがする。  
 イヅの知的探究心を擽られる見返りが手に入るチャンスが訪れたかもしれない。……『商人の頭のイヅ』はそう考える一方で、本来の文筆家としてのイヅを抑え込んでいた。

(いい匂いがする)

 どうやら彼の脳内では高速で算盤を弾く商人のイヅが勝利したらしい。

   ※ ※ ※

 二律背反に決着をつけるように、緊急で重要な仕事だけを片付けたイヅは、どうせ子爵様は自分に用があるのだろう? と大きく高をくくって集会所に出向いた。

 時刻は宵前刻(午後8時)の鐘が鳴ったばかり。

 イヅが到着すると、巡回に出る班分けが終了して、どの班がどのコースを廻るのかが既に決まっていた。

 驚いたのは、その陣頭指揮を取っている夜警団の団長の背後で苦い顔をしているライデ・ジーロ子爵が椅子に座り、腕も足も組んでいた事だ。

 虫の居所が悪いのがよく分かる。
 少しだけ気を引き締めるイヅ。

 夜警団の団長と各班が威勢よくぞろぞろと集会所を出ていくと、子爵は眉根を揉んで座ったままイヅを見た。

(苛立ち、恥、隠蔽……)

 失礼なことだと分かっていても、自分の好奇心には勝てずに子爵様の『小さな表情』を読み取る。

(あ、これは…面倒な仕事を理不尽に押し付けられた顔だな)
(多分、横紙破りな命令が下りてきた感じか、それに近いことかな)
(ん? このストレス反応は防衛か?) 

 イヅはご愁傷さまと心で苦笑いをする。表情には出さない。つとめて、ごきげんようライデ様。と、こうべを垂れて挨拶する。

「イヅ……『大方、お前の思っているとおりだよ』」

 彼は遣る瀬無いため息とともにそう言った。

 イヅもその表情と台詞、声色から、何故子爵が既に勤務を終えている時間帯にわざわざ自分から夜警団が集まる集会所まで来たのか分かりつつあった。
 彼の職掌だが、彼に招集がかかる大きな事件は『今日は』発生していない。ならば昨日早朝の件だろう。

「先に言う。『この件』は爵位階層の間での均衡に直結する話だ」

 イヅはあ、と口を開く。早くこの先の話を聞かないようにせねば。
 この話は最後まで聞くと危険な匂いがする。
 どんなに高額な書籍をちらつかされてもこの話だけは別物だと、直感が囁いている。

「お待ち下さい! そのような話はこのような小屋同然の場所では不釣り合いです!」

 イヅは直接、拒否するのではなく、彼のこれから話す内容が高貴で高度な立場だけの人間が口にするのだから破落戸同然の庶民しか集まらない下賤な場所でするべきでないと、子爵の立場を思い出させるように言う。

 爵位持ちだけが集まるサロンの個室で当事者同士が額を合わせながらひそひそと憚りながら話すのが普通だ。……爵位持ちの普通はどのようなものかは詳しくは知らないが。

「この集会所だから安全なんだ。壁は薄いが、幾つもの部屋が有って、各部屋は今しがた全て空になった。表や裏には不寝番が立っている。最初の巡回班が帰投するまで一刻(2時間)以上ある。寧ろ、治安府のほうが魔窟だ。爵位や役職や俸禄の下剋上を狙う狐連中が何処に手の者を放っているか分かったものではない」
「……」

(こりゃ、深刻だな。自分のお家が抵当にでも入りそうな深刻加減だ)

 勉強ができる馬鹿だから職場でも馬鹿とは限らない。
 勉強ができるゆえに、『注意すべき事柄』を全て頭に叩き込めば、最低限、それを守る能力を得たことになる。

 ライデ・ジーロ子爵は、だからといって都合が悪いとすぐに駒の一つだと嘯くイヅを駄賃をちらつかせて操り人形にしない。
 
 イヅ自身も彼が日々研鑽を積んでいることは知っている。業務が忙しくて脳内の記憶の棚を整理している暇が無いのだ。
 その足りない部分を埋めるための都合の良い駒が自分だとイヅは自分で思っている。状況に応じて適切な場面で適材を起用するのは人を束ねる者として当たり前の技能だ。

 この距離感がいい。
 使う者と使われる者の距離感はこれくらいがちょうどいい。

 その距離感が破綻する時は決まって面倒な、それも庶民出身ではどうしようもない事態が発生した時だ。

 泣く子も黙る暴力好きな男連中が集まる集会所に好き好んで侵入する馬鹿は本物の馬鹿だ。

 この小屋が安全だという彼の言葉はある意味では正解だった。

 子爵が治安府務めで夜警団のスポンサーでなかったら、たとえ爵位持ちでも鼻をひん曲げた顔をしてこの集会所には近寄らないだろう。

 暫し、少年と青年子爵の視線が交差し、圧力で鍔迫り合いをする。
 貴族の言葉が聞けぬのか! と癇癪のように腰の剣に手を伸ばさない子爵に対してイヅは最大の、そして僅かな譲歩として、目を伏せた。
 視線をずらすことで、圧力での鍔迫り合いはイヅの負けと相成った。彼へ勝利を譲った。
 ここで視線で問答をしていても何も話が進まないと少年は表情の端で溜め息を吐く。きっと今の少年には諦めや疲労の『小さな表情』が現れていただろう。
 
「僕はお茶を淹れます。ライデ様が喉が渇いたと無様に喚き散らす言葉は聞きたくないので」

 少年の無礼な言い草に対して、深く長い一息を吐いたライデ・ジーロ子爵は顔ですまんな、と勝利したはずなのに、敗北を知った顔を見せる。
 少年が背中を見せているうちに少年に聴いてほしいことを全て話してしまっても、それは『茶の一杯も出さないとは! それはスポンサーに対する敬意が足りない証拠だと』聞こえにくい小さな声で愚痴を溢しているだけだと、イヅは『受け取って』くれるのだ。

 物分りの良い少年で助かった。

「二日前の早次刻(午前4時)頃に海運卿ことガナドー男爵の邸宅で殺人事件が有った」

 子爵はとつとつと喋りだした。
 
「近隣の巡回を終えて帰投していた最中の、その地元の夜警団員にガナドー家当主のフロン・ガナドー男爵が助けを求めた。夜警団員が男爵の許可の元、邸宅に入ると、彼に仕える家令ゴフ・リルトという壮年が腹を複数箇所、刺されて死んでいた。犯人は強盗らしく、フロン・ガナドー男爵も背後から殴られて気を失っていた。」
 
 ライデ・ジーロ子爵は一旦言葉を区切った。

「ただ、ただ……」

 そのまま彼は沈黙した。

 沈黙したまま中々続きを話さないので、此処から先が機密事項に該当する部分に抵触するのかと生唾を飲んだイヅ。

「家令が発見された場所は密室だった」

 イヅは思わず「またかよ!」と叫びたくなる衝動を下唇を強く噛むことで抑えて防ぐ。
 
「先代のガナドー家当主には我がジーロ家も輸入品の販路で世話になっているから、穏便に事件を強盗だけで済ませたいのだが」
「?」

 言葉の切れが悪くなる子爵を思わず振り向いて見てしまう。

「この事件……正直言って、臭い。当主で長男のフロン・ガナドー男爵はよく知っているが学業も先見性も次男のほうが上で嫡子権は次男が引き継がれると思っていたのに長男のフロンが継いだ。家令のゴフは私もよく知っている。ガナドー家のため若い頃より尽くしてきた忠義の人だと聴いているしそのとおりだと思う」

 イヅは思わず口を挟む。『彼の愚痴』に思わず口を挟む。

「ライデ様、何がどのように臭いのですか?」

 イヅの割って入った言葉に応答するように話すライデ・ジーロ子爵。

「家の財政難のために使用人や下男を全て追い出した当日に狙ったかのように事件が起きた。内部の事情を詳しく知っている人間が犯人なのだろうが、だとすれば……家や『コミュニティ』同士の泥の塗り合いになる」

(あー……それか……)

 爵位持ちの貴族は家や派閥や属している『協会』などの集団性の帰属意識が強く、横の連帯が強固だ。
 ガナドー家をよく思っていない何処かの貴族が仕組んだ事件の可能性が否定できないとライデ・ジーロ子爵は言っているのだ。
 そして、そう言った横の連携の強い集団や組織や家系の一端に狙われると、末代まで嫌がらせを受ける。

 その面倒くささを抱えつつも性根が真面目な子爵は僅かな事件性が無視できずに心を曇らせているのだ。

 実際にフロン・ガナドー男爵は襲われて夜警団に助けを乞うている。つまり、被害届が出されたわけだ。

 イヅは話の背景を仮説無しで読み取った。
 子爵は、被害届が受理された以上捜査はするが、この事件はただの行きずりの犯行だと証明しろと命令されて、道化を演じさせられる自分が歯がゆいのだ。

 なんでもかんでもなあなあで済ませる事件の報告書など、治安府という組織の中では箸にも棒にもかからない奴がする仕事だという位置づけなのだろう。……それは仮説を立てなくとも彼の表情を見ていれば分かる。

 彼の顔が「私がなんでこんな事をしなければならないのか?」と黙って理不尽を表明している。

 イヅは遣る瀬無い息を吐くと、頭を抱える彼の前に安っぽい器に入った茶を置いて一言、湿度が多く粘液質な声でこう言った。

「……今回のお駄賃、楽しみだなぁ」
「!」

 はっと子爵は顔を上げた。

「人格者であらせられる子爵様はまさか、愚痴を長々と庶民に聴かせただけで終わらないでしょう。何か口止め料的なものをお支払いになるやも知れません。…これは独り言ですが、珍しい書籍が入荷したのですが、今月は財布が寒くてまいっています」

 イヅはわずかに微笑んだ顔でやけに赤い舌を出して唇を湿らせて彼の顔を見た。
 駄賃の強請りに、自分の顔が一定の層に受けているらしいのを悪戯心から試したくなっただけの軽い気持ちのイヅだったが、ライデ・ジーロ子爵は激しく情緒が乱された。

 貴族の威厳として、奥歯で舌を噛んで平常を装う。

 早くも彼の頭の中ではこの少年に報酬として何を与えるべきか考え出して恐ろしくなった。
 子爵はその場で……夜警団の事務所になっている集会所の一室で報告書の束を出した。

 それを慇懃に受け取り目を通すイヅ。

 どれもこれも玉石混交。

 夜警団から挙がってきた報告書はかろうじて字の読み書きができる者が書いたであろう読みにくい報告書。
 治安府の警吏が提出した報告書は流石に事務的で読みやすかったが、逆に必要な情報がところどころ抜け落ちている。
 その差異は同じ状況を記した別の報告書を比べて読むと、何処のどんな部分の情報が抜けているか比較できる。

 曲がりなりにも情報媒体に触れて文筆業を生業にしているイヅから見れば、情報の精度はお世辞にも高いとは言えない。

 確かにこれならば、子飼いの情報屋を頼りにする治安府関係者が多くて当たり前だ。

「表向きは、貴族の家に押し入った不逞の輩を追い詰めて然るべき厳しい罰を与えたいから早急に解決せよとのことだ」
「…ですが、この報告書と検分報告で事件が解決できたら苦労しません。正しい情報の精査だけで大量の人と時間と予算を使ってしまいます」
「被害者が名誉貴族ならなんとか放置できた事件だが、落ちぶれたとは言え、海運卿の男爵が被害者だと貴族のメンツが許さないんだ……」

 頭痛の種を払うかのように目の前に出された茶を飲んでから不意に席を立ち、テーブルの燭台を寄せて獣脂でできた蝋燭の火で葉巻に火を点ける。
 気が荒れているのか乱暴に紫煙を吐き出す。彼は「名誉貴族なら放置できた」と思わず放言してしまったことに嫌悪している。正確には庶民など切り捨てればいいという意味の言葉を庶民のイヅの前ではなってしまった悔悟だ。

 イヅは人の命など木の葉のように軽いこの世界で生きている庶民なので特に気にしなかったが、子爵様は貴族の貫禄を出せないでいる。

(ライデ様は何か平民階層に思うところでも有るのか?)

「分かりました…と気軽に言えない事件ですね」
「ああ。私がこの事件を解決したら、ガナドー家と反駁し合う集団や家系に目をつけられるのだろうな……事件を解決しなければガナドー家と加盟しているその派閥から恨まれる……」

 苦い薬を飲み込んだような顔で葉巻を吸う子爵。

 貴族に生まれなくてよかったと思う一方で、貴族のお家の話になる度にこの世で一番嫌いなあいつの顔がどうしても脳裏を過るのでイヅの顔も苦くなる。

「兎に角、今すぐできることはありません。ライデ様さえよろしければ明日の日次刻(午前10時)に捜査を始めませんか?」

 会話の先制権を先に発揮するイヅ。
 貴族に対して庶民が提案してそれを飲み込ませるのは普通なら不敬として処罰されても仕方がないが、ライデ・ジーロ子爵はイヅの知恵を借りたいので都合よく自分の、下層の人間に頭を下げられない身分の弱みを解釈してくれたイヅの申し出に頷いたのだ。

「あ、ああ。そうだな。家令のゴフの死体も治安府の検視室だし、ガナドー家の邸宅は不寝番の警吏たちが見張っている」
「念の為に聞きますが、今回の捜査の主導はライデ様で間違いないですね?」
「いかにも。それがなにか?」

 少し含みのありそうな呼吸の間合いを置いてイヅはできるだけ敬愛する子爵様を怒らせないように静かに言った。

「先日の一件では危うく私に流れ弾が飛んできそうだったので。失礼ですが、今回もそれを防ぐ盾も見当たりませんでしたので」
「ああ、ルーフン公爵の話しか。それは問題ない。あの件のように横紙破りな命令系統から降りてきた捜査の指令ではない」
「それは何よりです。安心しました」

 人に物を頼むにしても背後を見せているうちに、愚痴を垂れている姿を装う必要があるとは貴族とはなんと面倒な世界の住人なのだろう、とはおくびにも出さない少年だった。

  ※ ※ ※

 日次刻(午前10時)を僅かに経過。

 治安府の門の前で向かいの役所の壁に背を任せていたイヅの顔がひまわりのようにぱっと変わる。

 その唐突な笑顔に中てられたライデ・ジーロ子爵はつられて笑顔になる……のを堪えた。
 威厳ある治安府でニコニコと白い歯を見せて笑う治安府の役人などと噂されればいらぬ悪評がたつ。
 ただでさえ、ジーロ子爵に浮いた噂の一つも浮いてこないのは、陰で稚児を囲っているからだという噂が立っている。何処の誰がそんな寝も葉もない噂を! 稚児とは誰のことだ! と少し職場の空気に嫌気が差している。

 治安府の庁舎から出て、誤魔化しの咳払いをしてからイヅを門の内側から招いた。

 いつもながらに面倒臭い儀式だが、これが貴族と庶民の隔たりを示す行いなのだと理解している。どんなに事件を解決しようとも、イヅは庶民だ。下賤な生まれの一人に過ぎない。

 2人は挨拶をした後にすぐに検視室へと向かう。

「これは……」
「言葉に詰まるだろ?」

 死体安置用の台に60絡みの中肉中背の壮年が瞑目したまま横たわっている。
 全裸で。

 検視官が書いた報告書をライデ・ジーロ子爵から受け取る。彼はもう既に内容を覚えているのかもしれない。 

「腹部に6箇所の刺傷。凶器は鋭利な両刃のナイフ」

 チラと死体の横の台に置かれたナイフを見る。
 子爵様が少しでも情報の足しになればと凶器と思われる刃物や脱がせた衣服なども並べさせていたのを見た。

(このナイフか。刃渡り、刺傷…の形状…は間違いない)
(けど、これは……)

 イヅは検視の報告書と死体とナイフを何度も往復して見る。

 辺りを見回す。
 予め、ライデ・ジーロ子爵が人払いをしていたので少なくともこの部屋には2人以外に誰も居ない。潜伏する場所もない。

「やはり『おかしい』だろ?」

 ふと、葉巻の香りが漂ったと思ったら、子爵が背後から顔を寄せて、イヅの右耳の近くで囁いたのだ。
 熱い吐息と普段から隠さない美声がねっとりとイヅの体内に入り込む。
 少年の右耳は瞬間的に沸騰したように真っ赤に熱を帯びる。両足がぶるりと震えて内股になる。

「は、はい……おかしいですね」

 イヅは子爵の奇襲に辛うじて耐えて平静ないつも通りの声で返答する。まあ、彼は奇襲を仕掛けたつもりはないだろう。普通に接したつもりだろう。
 今、彼に赤い顔を問われるとなんと返答していいか分からないので、できるだけ彼の方に顔を向けない。
 少なくとも顔から熱が引くまで見ないでおこう。

(美人は声まで美人なのだから困る……それにらいで様の声は間近で聞くといつも濡れているような感じがするんだよなあ)
(もしもこの先、音声を閉じ込められて自由に聞ける絡繰が発明されれば、声だけの色街ができて繁盛するのんじゃないか?)

 検視の報告書を再び見る。

「6箇所の刺傷。大量の血液を短時間で失ったのが死因。毒でも盛られない限りそれは覆らないでしょう」
「私も同意見だ」
「そして、これも同意見だと思います」

 イヅは台の上に置かれたナイフを手に取る。
 細かな装飾が施された柄とヒルトから伸びる両刃の身。
 刃渡りはイヅの尺骨ほどもある、大型のナイフ。護身用としてだけでなく、日用としても腰に提げているのだろう。この国では老若男女問わずに何かしらの刃物を持っているので不思議ではない。
 イヅも葦ペンを削るための折り畳みナイフをいつも持っている。

 脱がせた衣服のズボンのベルト部分に鞘があった。
 
「1箇所だけ、『違う刺し傷』があります。他の5箇所とは異質です」
「気付いたか」
「はい。報告書を信用するのなら『凶器はこのナイフで間違いない』と思います」

 イヅは彼の勤務場所を重んじて彼の職掌を侮辱しないように言葉を選んだ。
 
 子爵は美しい顔を小さく歪ませると、眉間に浅い溝を作る。

「『そのナイフで決まりだろうな』」
「異論は今のところありません」
「『これ』に気が付いたのだな」
「はい」

 子爵は解剖に使う刃渡りが短く柄の長い鋏を指で摘んで、その切っ先を他の5箇所を点々と指す。

 ここにあるナイフで刺されたのは5箇所。
 それはきれいな刺し傷で痕に乱れがない。
 腹部に集中した6箇所の刺傷痕。
 5箇所は見事な刃物で刺された痕。
 残りの1箇所は切れ味の悪い同じ大きさのナイフか類似する刃物。……その刃物は見つかっていない。

(事件か? ……『法律上は事件になる』だろうな……)

 脳裏に一つの仮説が過る。
 仮説の段階なのでイヅはいつも通りにそれを述べない。

「犯人は『複数』の可能性だ。家令のゴフはナイフで立ち向かおうとしたがナイフを奪われて刺された」
「ですが、ライデ様はその報告を疑っていらっしゃる」
「ああ。傷口が腹部に集中。凶器が違う刺し傷が刺傷群まぎれているのが気になる」

 全くの同意見だ。

「海運で一儲けしたお家なら、結構な造りのお屋敷なのでは?」
「ん? ああ、海運業で儲けたのは先々代までの話で、先代からは海難事故が続いて財政は厳しくなっていた。で、先代は亡くなり長男のフロンが跡を継いだと。負債は辛うじてなし。帳面ではな……それが?」
「ガナドー家へ行きませんか? ライデ様と一緒に事件現場も見てみたいです。一緒に行ってください」

 ライデ・ジーロという青年は18歳の割にもっと幼く見える少年に「一緒にイってください」と焦がれるような目で請われて少し固まったが、他意はない! 自分にもイヅにも! と呪文のように脳内で唱えて硬直を解いた。

(早く解決して本代を稼ぐぞ!)
(それにしてもこの部屋は空気が乾燥しているな。カビ対策だろうな…)

 イヅはしっとりとした目を瞬かせながら彼と部屋を出た。

  ※ ※ ※

「なるほど。これは……」
「使用人どころか、番犬もお払い箱にするのだからかなり厳しい財政難だったようだ」
「邸宅の規模は……」

 乗合馬車を継いでフロン・ガナドーの邸宅に来ると、イヅはその屋敷の造りを眺めた。
 街中に構える屋敷としては小規模。海運の儲けで買ったのは郊外の複数の別荘や事業拡大の投資。成金にしては手堅い買い物だ。
 それもこれも帝国やお家に万が一が発生した場合に備えて預金と保険に余念がなかったのだろう。
 それが先細りするほどの海難事故とは本当についていないとしか言えない。

「中に入ろう」
「はい」

 ライデ・ジーロ子爵が先頭に立ち右手後方で従者の顔で付き従うイヅ。
 彼と歩く時はこのポジションが一番無難だ。

 瀟洒な造り。豪華絢爛とはいかないが、他の貴族を招いてのお茶会なら及第点以上のおもてなしが期待できると想像に難くない。

 2人は2階建ての邸宅の隅々まで歩く。外部や庭では警吏たちが警備にあたっている。屋内には2人だけだ。

「ここですか」
「ここなんだよ」

 2人は殺人現場の部屋の前に立つ。
 ドア。鍵があるドアノブ。
 ライデ・ジーロ子爵が鍵で解錠してドアを開けて先に入る。

「……」

 イヅは鍵穴と子爵から借りた鍵を見比べる。前回の安宿のドアの鍵と違って名のある職人が作ったものだと一目で分かる。鍵穴をのぞくが、部屋の中を見通せない時点で厄介な鍵だと分かる。

「家令のゴフはここで死んでいた」

 子爵は細い指で差す。
 血溜まりの跡が見える。固まった血飛沫にゴミ虫やキンバエが集っていた。

 これだけの血液の流出ならば助からない。前回の安宿のような偽装された血痕でもない。

 ただ気になったのは……。

「ライデ様、この血の跡ですが、これだと」
「?」
「これだと、家令のゴフはここで倒れて背中を壁に凭れさせて腹を何度も刺されていることになります」
「報告書の通りだろ? それが?」

 イヅは少し思考を巡らせる素振りで天井を見る。

「事件当時にこの邸宅にいたのは被害者ゴフと主人のガナドー卿だけ……ですよね」
「うむ。使用人も事件前に解雇したばかりで……!」

 すぐにライデは気が付く。

「急な解雇の逆恨みか! 確かに全員が円満な解雇でなかったので不満が大きかったようだ。餞別も少なかったし、別口の雇先の紹介もなかったと証言している」

 それを聞いたイヅは報告書で知っていたとは言え、やはり、第一の容疑者群の聞き込みは必至だな、と思い後頭部を掻いた。
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