習作【不定期】

 彼女は振り向きざまに、腰に構えていた拳銃を発砲した。
 狭い空間──8畳間ほどの洋風の書斎──の壁や天井に銃声が染み込んでいく。
 目を固く瞑っていた彼女は、恐る恐る目を開けると目前4mの床で大型ナイフを握った男がうつ伏せに倒れ、低く呻いていた。
 彼は彼女に対して呪詛をぶつけるかのような低い呻き声を挙げることでしか抵抗できなかった。
 やがて彼の体の下から血液が染み出してくる。
 いわゆる、バイタルゾーンにでも命中したのか?
 拳銃を生まれて初めて握ってから5分も経過していない彼女には、残念ながら彼に対して手加減してやれるだけの技量はなかった。

 大山巌(おおやま いわお)。
 還暦を迎えたばかりの調停役。昨今風に言うのであればフィクサーと呼ばれる地位にいる。
 彼が指を差せば、そこの人が消えて、新しい場所に経歴不詳の新人が生まれる。
 彼が一声挙げれば万年、膠着していた議会が天啓を得たように活性化する。
 彼がその道を歩いて風景が気に入ったとこぼせば、その道を中心に観光地が整備される。
 ……金や権力を保持して奮うからにはそれに見合う危険も十分に自覚している。
 親類縁者の中でも『敵対勢力に囚われると彼自身が精神的に弱体化してしまう』ような、重要な人物には何人もの警護をつけた。
 言い方を変えれば、彼に警護をつけられなかった親類縁者は人質としての価値が低い事を意味する。
 結果として、親類縁者の中でも大山巌の派閥に取り入ろうと目論んでいた沢山の、『自分こそが大山巌の右腕』だと自負していた、郎党は裏切られたと感じ、また、そんなに軽く見られていたのかと落胆して徐々に鬱屈に精神を支配されていた。

 その大山巌の一粒種。……言うまでもなく、大山巌の最大の泣き所である、一人っ子で長男の裕太郎は小学校が春休みに入ると、家族の誰よりも早く大山財閥所有の山荘へと『旅行』へ出かけた。
 表向きは『旅行』。
 実際は、大山巌が海外での、のっぴきならぬ会議のために出張で、それに随行させるには裕太郎が危険だと考え、彼を山荘へ押し込めたのだ。
 大山巌専用の山荘とまで言われるだけあり、山荘内部には核シェルター並みに堅牢なパニックルームが内蔵されていた。

 3月某日。深夜1時。新月。

 4人の警護とともに山荘で働くことになった織部舞衣(おりべ まい)。
 住み込みの家政婦として働いて5年になる。他にも家政婦が1人、居る。
 家政婦専用に割り当てられた3階の寝室で、物音を聞いた気がして、意識が眠りの世界から引き揚げられる。
「……?」
 もう一人の家政婦は隣のベッドにいない。トイレにでも行ったのだろうか。
 再び目蓋が下がり始めて眠りの国へと旅立とうとしていると、今度こそはっきりと物音を聞いた。
「!」
────裕太郎!
 舞衣は自分に懐いている大山の息子の名前を心の中で叫ぶ。何故叫んだのかは分からない。叫ばなければならない気がした。
 毛布を跳ね除けて飛び起きる。
 ドアを勢いよく開け放ち、左右に視線を走らせる。
 舞衣が居るフロアは3階建ての山荘の中でも2階南東側。山荘は大きく亅の字型をなす構造だ。
「!?」
 廊下の人感センサーが働いていない。この山荘は人の体温を感知すると自動的に温暖色のLED蛍光灯が天井から廊下を照らす仕組みのはずだ。
 そのセンサーが機能していない。
 嫌な予感がする。
 山荘の内部で居るはずの警護や、もう一人の家政婦を呼ぶべく息を大きく吸ったが、叫ぶのをやめた。
「……」
────『私なら、声を頼りに始末する』。
 舞衣は裸足にパジャマのまま、足音を殺して山荘の2階へ向かう。
 向かうにつれて人の気配が強くなる。断片的ではあるが、小さな話し声も聞こえてくる。
 その声に聞き覚えはない。
 ひんやりとした空気が彼女の体を押し留めるようにまといつく。……舞衣は歩みを止めた。2階へは下りず、人の気配を探る。
 山荘内のエアコンも機能していない。電源が遮断されたか?
 各フロアの廊下の角に1箇所ずつ設けられている固定電話に飛びついて受話器を上げようとするが、受話器を上げる前に、受話中を知らせる赤いランプや留守番電話作動中のランプも灯っていない。
────そうだ! スマホ!
 舞衣は踵を返そうとしたが、廊下の向こうの角から足音が聞こえてきた。本来なら温かみのある色調の色合いである床板が寒々と、その足音には悪意が籠もっていることを報せていた。
 今、家政婦用の寝室へ戻ると、足音の主と鉢合わせしてしまう。
 足音複数。それも山荘のフロアの様々な方向から聞こえる。……厳密には気配や話し声を頼りにした推定なので正確な人数は分からない。
 解るのは、この山荘に侵入した悪漢たちは、警護の4人を音もなく仕留めるだけの技量を持ったプロだということだ。
 警護の気配がしない上にもう一人の家政婦の声すら聞こえない。
 もう既に仕留められたと考えるのが妥当だろう。
 腹の底が冷える。寒さのためだけではない。
 連中の目的が直感で理解できたからだ。
 裕太郎。
 彼を攫うか殺害するか、意図は不明だが、目的は裕太郎だろう。
 耳の奥がキーンと甲高い音を聴く。緊張のあまり、アドレナリンが大量に分泌されて血圧が上がっているのだ。
 それに【闘争と逃走】と【選択と行動】を司る脳内物質であるノルアドレナリンが扁桃体を刺激して舞衣に今すぐ行動せよと急かす。
 急激にみぞおちが痛くなり、呼吸が浅くなり、口渇を覚える。眠気が吹っ飛ぶほどの危機的緊張のためにコルチゾールが沸騰している。
 寒いのに熱い。熱いのに寒い。
 血圧の上昇。脈拍の亢進。
 狭窄する視野と強張る筋肉。
 舞衣を具現して構成する脳という臓器が、舞衣というマニュピレーターを介して、『この場の判断として最適解であるはずの行動』を彼女に無意識に選択させる。
 動物的勘。危機回避本能。危険予知。……もっとヒューリスティックなバイアス。
 彼女は走り出した。
 自分の足音が山荘に潜む連中に聞かれても構わないと言わんばかりの全力疾走だった。
 狭まる視野はただただ、3階フロアの大山巌の書斎を目指していた。一番見晴らしのいい部屋に籠もって、大山巌はスピーチの原稿や日記を書くのを楽しみにしていた。
 その大山の聖域には必ず何かある!
 その部屋には必ず『武器』がある!
 確信はない。
 だが、大山ほど警戒心が強い人間が何の備えもしていないとは考えられない。
 大山巌は5年前に自分を拾ってくれた恩人だ。恩人のためにと、いつも彼を見ていた。
 彼の薄汚い本性を見せつけられる度に、彼が人を虐げる度に、舞衣は、本来なら自分は被害者のように痛めつけられる価値のない人間として生きていくしかなかったと思い知る。
 今の自分は大山巌に叱責されるだけの価値がある身分に漸くなれたのだ。
 それと同時に、彼に直接褒められる機会が訪れているのを感じている。
 裕太郎。
 彼が、出会ったばかりの、まだ17歳だった舞衣を物珍しそうに付きまとっていたのを大山巌が目撃していなかったら、舞衣は裕太郎の専属の家政婦として雇われていない。
 それまでは路地裏で空腹を凌ぐためにドブネズミのような生活をしているだけの痩せた獣だった。
 痩せた獣が、いつでも捨てられる下女として大山巌の会社の3次団体に拾われてから……全てが一転したのだ。
 決して出会うはずのない、ドブネズミの舞衣とグループの頂点の一粒種の裕太郎。
 大山巌は人見知りをする当時6歳の裕太郎の子守代わりにと、3次団体から舞衣を家政婦として大山家にスカウトした。
 勿論、舞衣の身辺は洗いざらい調べられた。
 舞衣の家庭は既に崩壊しており、家庭に居場所がない舞衣は高校を中退し、繁華街の路地裏でスリや置き引きをして生計を立てていた。
 その頃に大山の3次団体の会社──という体の反社会組織のフロント企業──に清掃員として拾われて、『本当に雑用と掃除をこなすだけのバイト』として舞衣は日々の糊口を凌いでいた。
 路地裏での生活を比べれば天国のような待遇で、彼女はこの職場を追い出されないように奮起した。
 そして、厳つい顔ばかりが並ぶ社会で裕太郎は、鼻歌を歌いながら自宅の廊下を掃除する舞衣と出会い、直感的に、自分を取り囲む男たちとは違った雰囲気に興味を覚え、舞衣の後を追いかけるようになった。
 舞衣は裕太郎のことは、自分の雇い主の長男だから大事にしなければいけないと義務的に敬う態度で接していたが、その義務での態度が、弟を見るような目に変わるのにそう時間はかからなかった。
 
 その裕太郎が、5年も同じ屋根の下で過ごしてきた11歳の少年が、命の危機に瀕している!
 舞衣は大山巌の書斎に来ると心の中で「社長! 失礼します!」と叫んで、ドアノブを捻り、室内に滑り込んだ。
 心臓の鼓動が五月蝿い。
 喉が渇く。
 瞬きの回数が多くなっているのを実感する。
 舞衣は五月蝿い鼓動と戦いながら、緊張と恐怖で震える指先を意思の力で抑え込みながら、クローゼットや戸棚を開け放ち、『武器』を探した。
 電気は断線させられているので証明は勿論使えない。窓から差し込む月明かりの中、探索する。
 焦りを代弁するかのように、玉のような汗が額から流れてくる。
「!」
 執筆用の簡素なデスクの足元を調べていると、デスクの裏側にダクトテープで貼り付けて固定された小型の拳銃を見つけた。
 見つけるなり、ダクトテープを剥がし、小型拳銃を手に取り、右手に握ってみる。
 一般的にリボルバー拳銃と呼ばれるものらしく、舞衣の知識では38口径で5発の弾を装填できるらしい。
 ……残念ながら、反社会勢力の総本山で家政婦をしていても本物の拳銃を見るのは今夜が初めてなのだ。
 その小型拳銃のシルエットになにか違和感を覚えながらも、デスクの足元から立ち上がる。
 その時だ。
 背後で何かを聞いた気がした。
 或いは気配を感じたのかもしれない。
 とにかく、意識していない挙動が彼女の身体に発生した。
「!」
「!」
 彼女は振り向きざまに腰に構えていた拳銃を発砲した。
 狭い空間──8畳間ほどの書斎──の壁や天井に銃声が染み込んでいく。
 目を固く瞑っていた彼女は、恐る恐る目を開けると、目前4mの床で大型ナイフを握った男がうつ伏せに倒れて低く呻いていた。彼は彼女に対して呪詛をぶつけるかのような低い呻き声を挙げることでしか抵抗できなかった。
 やがて彼の体の下から血液が染み出してくる。
 初めての発砲。
 初めての致傷。
 人は、銃を初めて人を撃つと何を感じるか? と聞かれると、詩篇的に感傷的な答えを返す人間は少なく、「反動を感じた」「銃声が五月蝿いと思った」のどちらかを答える確率が非常に高い。
 舞衣も例外に漏れず、反動を感じた。それも、片手で十分に制御できる軽便な反動で手首から伝わる反動は心地よさすら感じる。
 眼の前で倒れている男を見て、背筋をブルリと震わせる。
 快感。
 この男に殴りかかっていたとしても、手に鉄パイプを持っていたとしても、どこから殴っても彼女の膂力では大したダメージを当てられないだろう。
 それがどうだ。
 指先に少し力を込めるだけで自分より大きな男がたった1発で身動きできなくなるほどの姿に変貌する。
 彼女を包んだ快感も、直ぐに去る。
 この銃声を聞いて仲間がこのフロアに殺到することだろう。早くこの場を離れなければ。
 舞衣は床で伸びる男を飛び越え、書斎から出ると、先ほどの階段を降りて踊り場の隅で小さくうずくまった。
 足音が聞こえる。
 2階から。その数2人分。
 この拳銃には彼女の知識が正しいのなら残り4発の実包が詰まっている。
 最低3人の侵入者。今しがた、1人、倒した。初めて人間に死に至るかもしれない怪我を負わせたという、道徳的社会的通念の恐怖が舞衣を襲っている。
 体がガタガタと震えている。誇張無しで奥歯もカチカチと鳴っている。
 それでも尚、舞衣は遁走を選ばなかった。
 裕太郎。
 弟のような存在。
 当初は雇い主に大山の長男ということで面倒見が良い顔をしていれば給料が上がると思っていただけの大したことがない存在。
 それが今では、舞衣は命がけで救出したいと第一に考え、自身を覆う恐怖を払いながら歩みを進めている。
 不安や恐怖は扁桃体の過剰興奮でしかない。
 扁桃体の興奮という生理的挙動は根源の恐怖や不安が言語化できずに脳内で反芻されているから増幅し、ネガティブな感情に飲み込まれてしまう。
 恐怖や不安を言語化して、一つずつ解析すれば扁桃体は鎮まる。そのためには先ず、事実と感情を切り離して考えることだ。
 そして今、舞衣の認知機能は低下している。
 従って、ワーキングメモリも大して機能していない。
 筆記用具を広げて時間をかけて脳内の抽象的な概念を言語化している暇はない。
 そこで、視座を変えて、敢えて0/100思考を導入する。
 ざっくりと事実と感情を切り離す。今の舞衣の脳内では事実と感情に分類されない事柄は片っ端から削除されている。
 事実……。山荘内に悪意ある、人数不明の侵入者。裕太郎が危ない。警護要員は全滅とみなす。もう一人の家政婦も同じく。小型拳銃を持つ自分一人。電信電気は断絶。スマホは通用するだろうが、取りに帰るのは時間的ロスが大きい。……そして、連中は反撃を企てる者がいたことに気がついて早々に去るか、仕留めに来る。後者の可能性が確定であると言い聞かせる。可能性ですら0/100思考前提で思考し、悪意と戦う決心をする。
 その途端にノルアドレナリンが逃走よりも闘争を選び、選択と行動を即断で行うように全身に命令を出してアドレナリンやコルチゾールを分泌させる。
 いずれも『通常ならば』ストレスホルモンだと言われ、忌避されがちな脳内物質だが、短期決戦や一発逆転を狙う勝負や僅かなミスも許されない作戦を行う上では、信じられないほどの思考的効率と身体的能力の向上を引き出す。
 そして、感情。……言うまでもなく、裕太郎を命に変えても救い出したい。
 明確な目標の再設定。『山を登るのが目標であって、眼の前の落石を取り除くことが目的ではない』……確か、そのように書いてあったと思う。あの古ぼけた脳科学の本では。
 舞衣は走る足音を聞く。この山荘内部のことは全て頭に入っている。この踊り場の隅で、『採光窓の月明かりが差し込まないこの場所』で大人しくしていれば、必ず侵入者はこの階段を登ってくる。
 階段はここしかないのだ。
 息を呑む。
 足音、2つ。
 この歩幅は男。足音から焦燥がうかがえる。
 ぎゅっと小型リボルバー拳銃を握る。
 このリボルバー拳銃を初めて握った時に覚えていた違和感はもう忘れた。何が違和感だったのか? ……そんな疑問すら忘れた。
 呼吸4秒。呼吸停止2秒。呼吸を吐き出す8秒。
 それを数回繰り返す。
 呼吸法による不安と恐怖の鎮静を試みる。
 結果はプラセボ効果以上には効いている気がする。基本的にリラックスするための呼吸法は吸う時間1に対して、吐く時間2の長さが一番簡単に酸素を脳や筋肉に送り込める。この逆だと交感神経が優位になり、心拍数が上がり、血圧が上昇し、体温が上昇する。
 家政婦として働いていた時に、休み時間に休憩室に置いてあった脳科学を簡単に解説する本を流し読みして覚えた知識ばかりだが、予想以上に効果的なので、今度からもう少し読書に時間を割こうと思った。
 心が深く『沈む』。目蓋が下がる。口渇もヒステリー球も消える。
 脱力を実感する。
 呼吸が深く大きい。
 自分の意識が鼻先に集中し、脳内から雑念が消える。
 逃避行動としての思考停止ではなく、限られた弾薬で何人居るか分からない人数を相手に戦うかと自問自答してると、畢竟全員、倒せばいいという極論に達して覚悟が決まったのだ。
 その間、僅か5秒。
 舞衣は自身の思考が一時的に乖離してることを実感していない。
 メタ認知の自分が自分を見下ろしていることを実感していない。
 心の中で唐突に5秒からカウントダウンを始め、1秒に達した時、『その方向に向けて引き金を2度、引いた』。
 うめき声。
 2人分。
 2階から上がってきた2人の男の胸部が見えるなり、ろくに狙いもせずに引き金を引いた。
 『今この瞬間に、その方向を見ずに、その方向に向かって2発撃てば、必ず2発とも当たる』と【自分の声で誰かに囁かれた】。
 咄嗟にそれに従った。
 暗がりの中で突如咲いた銃火の花に為すすべなく、2人の男は胸骨のど真ん中を叩き割られてこの様だ。
 2秒経過。
────!!
────え!?
 銃火と銃声で舞衣の『沈んだ』目に焦点が戻り、『今自分は誰に何を言われて何を何故撃ったのか』全く分からず恐慌を起こしそうな恐怖で顔色を染めて叫ぼうとしたが、鼻をツンとつく硝煙の匂いに正気に戻り、叫ぶ代わりにくしゃみを耐えた。
────そうだ!
────裕太郎を助けなきゃ!
 彼女の知識が正しければ残弾2発。
 無駄弾は使えない。
 舞衣は非日常の連続に襲われて、すくみそうな足を叩いて活を入れる。
 脳裏には常に裕太郎の笑顔と恐怖に震える顔が交互に浮かぶ。
 階段を登りきる前に胸骨を叩き割られたらしい男たちは苦悶の声を低く漏らして全身を小さく震わせている。
 人を……。人を3人も撃った! 死ぬかもしれない大怪我をさせた!
 いくら『悪い人たち』でも怪我をさせるのはやり過ぎでは?
 いや、裕太郎だけじゃなく、この山荘に居る人間を皆殺しにするつもりで『悪い人たち』は歩き回っていた! 警護の人も仲間の家政婦も多分始末された!
 だからと言って拳銃で撃ってもいいはずがない! 拳銃以外ならいいのか?
 素手ならいいのか?
 素手だとしても、膂力が足りていたとしても、技術を身に着けていたとしても、起き上がれないほどの大怪我を追わせてもいいのか?
 舞衣はただの家政婦だ。
 雇い主の大山と違って何の力も無い。命令されることはあっても、それは清掃関連であって、死体を片付ける清掃ではなく、真っ当な保全管理としての清掃だ。
 清掃一筋5年。真面目に働いてきた。働いてきただけ報われてきた。なんなら、高校を受験しなくても中学を卒業して真っ先に大山の経営する会社の3次団体で清掃員として雇ってもらったほうが理想的な生き方ができた可能性が高い。
 それに裕太郎!
 あの子の笑顔は全ての修飾と形容を捨てて言うと、『可愛いから癒やされる』に尽きる。
 舞衣に弟はいないが、弟がいるとすればこんな感じなのかな? と舞衣にだけ見せる裕太郎の笑顔を見る度に思う。
 舞衣もまた、裕太郎を慈しむ笑顔で見る。
 心の何処かで裕太郎が幸せになるまではくたばれないとまで思っているに違いない。
 その証拠に、自分の生きる目的である裕太郎が『悪い人たち』の悪意に、今正に晒されていると思うと、頭がおかしくなりそうだ。
 その度に自分を抑えつけるように事実と感情の切り分けを思い出す。
 昂る感情のままだと視野が狭くなり、眼の前の小さな事柄が巨大な岩のように見える。
 目的は巨大な岩の処理ではない。
 岩の向こうにいる裕太郎を助け出すことだ。
 浅く回数が増える呼吸を、できるだけ整えながら、リボルバー拳銃を握る。
 残弾2発。
 敵の数は不明。
 気配はある。
 気配は1人分だと自分の声をした誰かが耳元──或いは脳内──で囁く。
 今有利な点の一つは、『悪い人たち』は銃を持っていないことだ。書斎の男も階段で仕留めた男たちも手に銃を持っていなかった。
 舞衣は『素人』だ。
 暗い建物内部に侵入し、誰にも気取られずに邪魔な存在を殺害するのには銃よりも音がしない刃物のほうが有利だ。それも真正面からの攻撃ではなく、暗がりや死角からの奇襲で致命的な部分に救急救命が間に合わない深手を負わせるのが最適解だ。
 その技術の優位性を舞衣は知らない。『拳銃は法律で取り締まられるほど強力だから、拳銃を持っている方が圧倒的に強い。』程度の認識だ。
 そして、ゆえに、だからこそ。
 この拳銃が有った書斎で予備の弾を探してこなかったことを後悔していた。
 『悪い人たち』はあと何人なのだろう?
 残弾よりも多かったらどうしよう?
 今までは偶々、弾が当たったけど、次は残弾を全部外すかもしれない。
 それになにか変だ。
 リボルバー拳銃のシリンダーの後部を指でなぞる。
 その度に首をひねる。
 何かおかしい。
 『リボルバー拳銃ってこんな形だったっけ?』
 ドラマだと後ろのこの辺に飛び出た細長い突起を指で起こして……。
「!!」
 漸く、舞衣は今まで握っていたリボルバー拳銃の違和感に気がついた。
────この拳銃にはアレがない!
 アレ。アンダーグラウンドの語彙が少ない舞衣には決して思い浮かばないワード。
 撃鉄。
 この銃には撃鉄がないのだ。
 撃鉄という語彙を知らなくとも、ドラマで得た知識なら知っている。
 撃鉄を親指で起こせば、引き金が軽くなり、狙撃しやすくなる。
 撃鉄が無いこの銃では、今まで無意識に引き絞っていた引き金が軽くなることはない。今までは咄嗟に全力で引き金を引いていたので、引き金の重さを忘れていた。
 撃鉄がないから狙撃ができない。外せない場面で重圧を感じるに違いない……。
 そう考えると、冷や汗がダラダラと流れてくる。
 鳩尾が締め付けられるように痛くなるほどの緊張に襲われる。
 残弾2発。
 それまで頼もしく見えていた2発という数字が弱々しく感じてきた。
 たった2発で『悪い人たち』をどうにかしなければならない。
 舞衣は清掃を主な職掌とする家政婦である。
 映画の主人公のように機転を利かせたり、知恵と勇気で臨んだり、実は秘匿していた特技で切り抜けるという能力は備えていない。
 ただの小型リボルバーを握るだけの、今夜、初めて3人を負傷させただけの素人だ。
 これから階下に降りて裕太郎を、大山巌のためではなく、裕太郎本人の命のために、自分も命懸けで『悪い人たち』と対峙しなければならない。
 呼吸が再び苦しくなる。
 再び呼吸法を試す。
 今度は重圧が大きすぎて上手く呼吸法が行えない。
 耳鳴りがする。口渇がする。喉に異物感がする。
 ストレスホルモンのコルチゾールが大量に分泌されてノルアドレナリンとアドレナリンが沸騰し、扁桃体が騒ぎ立てている。
 戦うか。逃げるか。
 何を選ぶか? どのように行動するか?
 喉がカラカラに乾く。
 コップ一杯の氷水を飲み下せば全てが解決すると錯覚するほどに、思考が狭窄している。
 震える足、しっかりと踏ん張らなければ階段を降りきる前に足首を捻挫しそうだ。
 生まれたばかりの鹿のように頼りない四肢。
 奥歯がカチカチと鳴る。
 恐怖に飲み込まれたまま、舞衣は1階に降りた。
 廊下。
 右手側に行けばキッチン。
 左手側に行けば正面玄関。
 何もかもが狭窄した世界で、舞衣の耳は愛しい裕太郎の声を拾った。
 11歳の、絶叫。
 確かにその声は舞衣の名前を呼んだ。
 それを聴くやいなや、奥歯を噛み締めて腹に活を入れる。
────裕太郎!!
────すぐ行くから!!
 舞衣は駆けた。
 狭い山荘の中、裸足で、パジャマ姿にリボルバー拳銃だけを持って。
 裕太郎の声が聞こえた1階キッチンへと向かう。
 この方向にはキッチンしかないし、この山荘は自宅よりも愛着がある。たった数日間の滞在だが、裕太郎と同じ屋根の下で過ごせた思い出が記憶を補強する。
「!」
「その子を離せ!」
 一か八か……そんな事も考えずに、作戦の一つも考えずに、命を蔑ろにするか否かも考えずに、舞衣はキッチンへと躍り出た。
 右手一杯に伸ばしたリボルバー拳銃。ドラマならこのシーンで威嚇する意味でも撃鉄を起こすのだろうが、この銃には撃鉄は存在しない。引き金を引ききった時に撃発するタイプの拳銃らしい。
 重い引き金。
 指先からギリッとした金属の音が伝わってくる。
 残弾2発。
 眼の前には男が一人。その男の左手は……裕太郎の後ろ首を掴んで勝手口へと通じるドアへと向かっている最中だった。右手に大型ナイフを握っている。ナイフには描いたような赤い筋。警護をそれで殺害したのか。
 男は勝手口へ通じるドアまで少し距離があったために、遁走に全力を出さず、裕太郎を体の前面に押し出してその細い喉元にナイフの刃を押し当てた。
 裕太郎の泣き腫らした顔を見るに、酷い暴力を受けたわけではなく、圧倒的な膂力でここまで引きずられてきたらしい。
 男の目は舞衣の右手に握られた拳銃を注視している。
 男の目は明らかに動揺していた。焦燥していた。
────ああ、この目は……。
 舞衣は悟る。
 今まで山荘内で出会ってきた『悪い人たち』は皆、暴力を奮うのに慣れてはいるが、暴力を振るわれるのには慣れていない顔をしていた。
 代紋を傘に道を練り歩く半グレ連中と同じだった。
 その男……歳の頃は30代前半だろうか。刃物の扱いには多少の覚えがあるのだろう。警護要員を音もなく片付ける腕前を買われて、今夜、大山巌の所有する山荘に送り込まれたのだろう。
 全てが狂ったのは、銃声が聞こえたからだろう。
 そして、その銃声を黙らせるべく向かわせた連中が銃声が打ち鳴らされる度に静かになっていく。
 舞衣の咄嗟の発砲と暗がりからの奇襲で次々と倒れる仲間。
 焦った男は裕太郎をここまで引きずって来たが、銃声の主を見て焦燥の表情を浮かべていた。
 反撃に足る人物が控えているとは思っていなかったか?
 全ての人間を殺したと思っていたのか?
 まさかガキを助けるために女風情が飛び出てくるとは思わなかったか?
 刃物に自信があるらしい男。
 銃には自信がないが、命懸けの度胸なら負けないと自負する舞衣。
 両者、5m余りの距離を置いて、窓から差す月明かりの光源を頼りに睨み合う。
「……」
「……」
 男は舞衣を、裕太郎を使って銃を捨てさせる真似はしなかった。
 舞衣の銃口がカタカタと震えているのだ。それにこの期に及んでこの女は、拳銃を両手で握るというスタンスを取っていない。……明らかにこの女はハジキの素人だ。
 男は人を小馬鹿にした薄ら笑いを作って口を開いた。
「へっ。撃てるもんな」
 銃声。
 舞衣は男のセリフの最中に引き金を引いた。
 純粋な殺意。
 憎悪や敵意や悪意をすっと通り越して、殺意を込めた視線で引き金を引いていた。
 銃弾は男の左肩の肉にめり込み、その直下の骨を叩き折った。
 怪鳥のような悲鳴を挙げて男は裕太郎を突き放し、右手のナイフを放り出して左肩を押さえる。 
 残弾1発。
 この男が、だらりと下がった左手でナイフを拾い、裕太郎に切っ先を向けねば、銃口を向けなかった。
 引き金を引こうとしたその時……。
 狭窄していた聴覚が背後で異音を聴き、鋭い寒気を覚えながら振り向いた!
 銃声。
 舞衣の拳銃の銃口から硝煙が薄く登る。
 眼の前には、書斎で咄嗟の発砲で既に動けないほどの怪我を負わせたはずの男が立っていた。
 その男は腹にできていた銃創の近くに新しい銃創を作って、今度こそ、その場に膝から崩れ落ちて動かなくなった。
 死んではいないが、限りなく死に近い場所を彷徨っているだろう。
 そのうつ伏せの男が死力を振り絞って地響きのような唸り声で仲間の男にこう、言った。
「この女は5発撃った! 弾込めはしていない! どこにも殻が転がっていない! そのハジキは文鎮だ!」
 それ以降、倒れている男は沈黙したままだ。そのガッツはまたの機会に見習いたい。
 それを聴いたナイフの男は、凄惨な笑みを浮かべてジリジリと舞衣に近づく。
 裕太郎は舞衣に駆け寄り、強く抱きついた。11歳の男でも子供だ。泣きじゃくりながら抱きついても誰も笑わない。泣きながら裕太郎は何かを伝えようと舞衣の顔を見ているが、舞衣は彼の顔よりも目の前の男の動向を注視していた。
 舞衣は裕太郎を連れて逃げようときびすを返して走り出す。裕太郎は「お姉ちゃん、それ……」となにか言ったようだが、それも彼女の耳には届いていない。
 2mも走らないうちに裕太郎と足をもつれさせて2人揃って転倒してしまう。
 舞衣の手から拳銃がこぼれて床を数十センチ、滑る。
 ナイフの男は左肩を負傷しているとは言え、痛みを堪えるようにナイフを右手に握り直し、舞衣に近づく。
 男顔から、怨念が込められた能面をつけているかのような壮絶な殺意を感じる。
「裕太郎逃げな!」
 舞衣は裕太郎を見ずに、迫りくる男を睨みながら、腰が抜けた状態で床を這いながら叫ぶ。
「死ねや!!」
 男の安っぽいセリフ。
 安っぽいが、純度の高い殺意が乗せられた裂帛の気合が籠もったセリフは、それを聴いた者をその場に釘付けにするだけの脅威を感じさせた。
 舞衣は瞬間的にそのセリフの気合に飲み込まれてしまい、顔を青くしたまま目を見開き、死を覚悟した。
 残弾0発。
 聞こえるはずのない銃声が聞こえる。
 聞こえた。
「……え?」
 ナイフの男は何が起きたのか信じられない表情で左手で左脇腹に手を当てて、その掌を見る。
 自らの鮮血で滑る掌。
 その途端、男は口から血液を逆流させて蹲り、咳き込みながら、苦悶の泣き声をだらしなく叫びながら倒れる。
「……?」
────え? 何?
 舞衣は銃声の正体よりも裕太郎が気になって彼の方を向いた。
 彼、裕太郎は、舞衣が滑り落とした拳銃を握って両手で構えていた。銃口から紫色の煙が薄く登っている。
 数秒後、裕太郎は緊張の糸が切れたように大きな呼吸を激しく繰り返し、過呼吸を起こしかける。
「裕太郎! しっかりして!」
 裕太郎は何かを伝えようとしているが、呼吸がままならないのでまともに喋れないでいた。
 代わりに彼は拳銃の親指で操作するらしいボタンを押し込んでシリンダーを振り出すと、激しく震える右手で銃を保持し、左掌で飛び出た棒状の部分を押し込んだ。
「……!」
────6発!
────裕太郎は『知っていたんだ!』
 裕太郎は『気がついた舞衣の顔』を見て、過呼吸で苦しむ中、無理をして口角を吊り上げて返答代わりの笑顔を作った。
 先程、裕太郎が泣きながら枚に抱きついてきた時に、彼が舞衣に伝えたかったことは、『連中は弾の勘定』を間違えている事を知らせたかった……。何故なら、裕太郎は、この拳銃の装弾数を知っていたからだ。
「まだ1発、余裕があるよ。おねえちゃん!」
 それに最後まで気が付かなかったばかりか、尻餅を搗いて銃を手放してしまい、舞衣は睨み返して床を尻で這いながら後退するだけだった。
 そこへ、誰からも注目されていなかった裕太郎が落ちていたリボルバー拳銃を拾って発砲し──後に分かったことだが──侵入した最後の一人を仕留めて危機を脱した。
 やがて遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。
 誰が通報したのか些末な問題だ。もしかしたらこの山荘のセキュリティが外部からの侵入を検知して警察に通報したのかもしれない。
 しばし呆然とする舞衣だったが、直ぐにリボルバー拳銃を自分のパジャマの生地で拭う。
 自分の指紋は兎も角、裕太郎の指紋が残っていると彼の今後の大きな不都合が発生する。
 慌てる舞衣に対して、過呼吸から回復しつつある裕太郎は細長い空薬莢を摘んで言う。
「やめときなよ、おねえちゃん……。空薬莢に浮いた指紋は……拭いても取れないんだし……それにこの指紋はパパの指紋だろうから……きっとパパが揉み消してくれるよ……」
 少し血色が戻った顔で、掠れる声で裕太郎は舞衣に説明する。
 確かに大山巌ほどの人物なら、事件の揉み消しなど簡単なことだろう。
 守らねばと思っていた少年に最後は守られた。
 少年は彼女が思っている以上に大人だった。……否、大人の悪い知恵の使い方を知っている少年だった。_
 きっと彼がか弱い少年の振りをして舞衣に泣きじゃくりながら抱きついたのも演技なのかもしれない。
 舞衣は裕太郎を疑っているのではない。
 可愛いだけの弟分だと思っていた少年が、土壇場で見せた度胸に、不覚にも、胸が高鳴ったのだ。

 こうしてこの夜の出来事は幕を閉じる。
 到着したパトカーは意外にもたった1台。警官2人が山荘内部に踏み込んだが、男2人が倒れて、リボルバー拳銃が転がっているのを見ても特に顔色を変えなかった。
 脱力しきって気が抜けそうな舞衣は警官の話し声が耳に聞こえていたが、それを処理して理解する気力が残っていなかった。
 やがて、彼女の意識は遠のき、その場で倒れて、深く眠ってしまう。

  ※ ※ ※

 大山巌所有の山荘での出来事は裕太郎の言の通りに、地方新聞の片隅にも掲載されない小事として片付けられた。
 恐らく、この惨劇は『元から発生しなかった事件』なのだろう。
 あの夜、警官はリボルバー拳銃と6個の空薬莢を見て「いい腕してるな」と呟いたらしいが、舞衣は眠りの国に堕ちていた。
 
 裕太郎が助かった事実を分析すれば、舞衣が最初から38口径5連発の小型拳銃だと思いこんで疑っていなかったのが生き延びることができた要因だ。
 実際は32口径のマグナムで6連発の小型拳銃で、ダブルアクションオンリー。
 カタログではS&W M632cと呼ばれているモデルだった。
 たった1発の計算違い。
 それが勝因だった。 

 そして、今日も舞衣は裕太郎のゆく先々で家政婦として働いている。勿論、本来の職掌である清掃要員として活躍中だ。

《習作#2・了》
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