♯006『文筆家は夜警の一人』(全3話/現在2話まで公開中)
【♯001「喋らぬ者とその者共」4/6】
残念なことにイヅはサーガに出てくる英雄とは違うので早くも眠気が出てくる。
顔には疲労の色が濃い。
今夜は2人分の『顔を見て』、さらに腰布で大立ち回りをした。夜警団所属とはいえ、巡回の部署ではないので体力がないのだ。
本業からして腕っぷしを奮う事は皆無だ。
ライデ・ジーロは隣であくびをする少年に気がつくと「先に帰っていいぞ」と声をかけた。
イヅは精一杯の空元気を出した顔で礼を言うとトボトボと歩きだした。
「……あー」
イヅの背中がどんどん小さくなり、夜の影に飲み込まれそうな路地に入ると、ライデは小さく息を吐き、彼の後を追い、イヅの小さな肩に手を回した。
「え? ライデ様?」
「その足取りだと強盗に身包みを剥がされるぞ。近くまで送っていこう」
「そ、それは困ります! 世間が誤解します!」
「どういう方向の誤解だ? まあ、大人しくしろ、頭と体力を使いすぎて頭痛がするんじゃないか? 明日も頑張ってもらわないと困るのにここで倒れられたら一層困る」
ライデ・ジーロ子爵のやや過剰な甘い声質が不思議と耳の奥に残る時がある。
それは概ねして、ライデ・ジーロが爵位持ちなのにそれを全く鼻にかけずに、名誉庶民でもないイヅを珠のように扱う時だ。
事象があるのなら、その謎よりもその必然性を疑え。
いつか何かの書物で読んだ一節だ。それがふと頭に浮かぶ。
(子爵に下心が有るからそれを疑うのか?)
(何の下心よ?)
(あれ……なんだっけ?)
疲労で足元が覚束なくなって、子爵の体に自分の顔を預けるようになりながら朦朧と歩くイヅの脳裏に乖離したかのように全く場違いなその一節が浮かんではループする。
疲労が極まる直前で正常に思考が働いていない証拠だ。
もしかしたら彼は歩きながら寝言を言っているのかもしれない。
「え? ……どうした?」
「…………す」
「ん? 何か言いたいのか?」
半分以上目蓋が落ちたイヅの頭がズルっと落ちる。首が切り落とされたのかと思うほどの脱力だった。
そしてハッと目が覚める。
「おいおい、しっかりしろ。もう少し歩いたら乗合馬車に乗ろう」
「あ、いや…ライデ様!」
「お、おう?」
彼は敬うべき子爵の顔をしっかりと見た。数瞬の睡眠で頭脳が回復したと言わんばかりに。
「『事象があるのなら、その謎よりもその必然性を疑え』ですよ!」
「ん? んん?」
フクロウのように首を大きくかしげるライデ・ジーロ。
「事象……つまり、ドル氏が姿を消した宿。宿屋の男女が見たくなかった物は、ドル氏への危害ではなく、『現場の目眩まし』では?」
「血痕だらけの床の部屋か……」
「はい。あれは明らかに血痕でした。人間なら致死量の。しかし、ドル氏は危害を加えられていない。そのまま拉致された。……つまり、その後の目眩ましの血痕の工作をあの2人は手伝わされていたのでは? あの二人の顔には『思い出した恐怖』が浮かんでいました」
ライデは顔を上げて少し遠くを見る。顎を指で掻きながら考える。
「なんの血液なのでしょうね。人間の死体ならバザー裏の路地で毎日幾つか転がっていますが、『乾いた後の鮮度』が違います」
「……生きた人間」
「もしくは、人間と同じ血液の色素を持つ動物」
ライデ・ジーロは脳内の記憶を検索する。
家出人や行方不明者には困らない町ではあるが、見つかった死体は尽く身元がはっきりしているし、『大動脈を大きく損傷した死体』はここ数日は無い。
「ライデ様。『お薬』をいただきますね」
「あ、こいつ! …まあ、いいか」
イヅはいつの間にか(恐らくライデの体に密着していた時に)、彼のポケットから嗜好品兼気つけ薬の蒸留酒が入ったガラス瓶のフラスコを抜き出して右手で弄んでいた。
彼の許可を貰う前に先程までその場で眠りこけそうだった少年はフラスコの中身を呷って口に含んだ分を一気に嚥下した。
酒精の強さに喉を焼かれて思わず片頬を吊るイヅ。
「さすが効きますね!」
フラスコに栓をしながら子爵に返す。こいつは自分の都合のいいことだけは全く意に介さない正直なやつだ。
「西の外れの乾物倉庫にいきましょう。例の、火事があった倉庫です。それと、治安府に盗難届は出ていませんか? 牛とか豚とかヤギとか」
「盗難って言っても……それにそんな大きな動物なら直ぐに目を引くし、浮浪者や難民が奪って食べるのが毎日発生しているぞ」
少年はニヤと笑う。
「でしょうね」
今、二人の足は話しながらでも自然と乗合馬車が集まる通りを目指している。
「今夜一晩もう一働きしますよ。敬愛する子爵様のご褒美のために」
口では威勢の良いことを言ってはいるが彼はまだ少ししっかりしない足元でライデの体に身を寄せて蒸留酒で上気した笑顔を向ける。
ライデは彼の視線から鼻筋、唇、顎先、首筋、喉仏と視線を下に滑り落として、胸元の隙間に到達させる。
「いいか、そんな顔は絶対に路地裏とか色街で見せるなよ!」
「んー? 何がです?」
「ああもう…酔ってんのか……しっかりしろ」
ライデもイヅのほのかに赤い顔にうっと詰まりながらも視線をまっすぐ元に戻す。
実のところ、イヅは正直に言えなかった。
子爵の衣服の煙草の匂いで心地よく安堵して一瞬で眠り一瞬で起きたとは。
(煙草ってそんなにリラックスできるものなのかな?)
(なにか違う気がする)
唇の端に僅かな笑顔を見せていることに気が付いていない少年と、その笑顔の根源が理解できない子爵は、やがて乗合馬車を掴まえて西の外れの倉庫街まで一路、進んだ。
乗り心地がお世辞にもよくない馬車の客室内は6人が乗れた。左右の壁に突き出るように設けられたベンチ型の椅子にそれぞれ分かれて座る。乗客は少年と子爵だけだ。
「!」
イヅは階段を踏み外す夢を見た瞬間に自重で首が落ちたのを感じた。
入眠時に起こりやすいとされる筋肉の無意識の痙攣で起こされた彼は先程以上に頭がはっきりしていた。
気付け薬の蒸留酒は眠りに関する副作用が大きいのが難点だ。
「起きたか。着いたぞ」
「え、ああ。そうですか」
十分な夜中。ライデの話では真刻(午前0時)に近い時間だという。
明日は今と同時刻に夜警の仕事が入っているので、今日拾える情報は全て拾っておきたい。
ライデ・ジーロ子爵は自らのバナーが入ったランタンを持っていたが、足元を照らす程度だろう。現場を存分に照らし出すのは無理だと思われる。
馬車から降りた2人は屋根が焼け落ちた乾物倉庫の前に立っていた。
乾物倉庫の前では不寝番の警吏が見える範囲で5人、立っていた。誰もが剣と身の丈ほどの棒で武装している。
きっとルーフン公爵与りの事件の現場なので、現場の保存のために、倉庫内を荒らされたくないのだろう。
焼け落ちたとはいえ、乾物倉庫なのだから、被災を逃れた食料や食料の燃えカスを漁りに来る不逞の輩を追い払うために配備されているに違いない。
ライデ・ジーロ子爵は自身の名を言うだけで不寝番の警吏は背筋を伸ばして焼け落ちた倉庫内部を見せてくれた。
「何か分かりそうか?」
「……ここで、ドル氏の右足の膝下が見つかったのですね」
「報告ではな」
話しながら、イヅは腰布の端をナイフで切り、その布切れをナイフの刃に巻きつけて、子爵のランタンから、オイルをそれに垂らして警吏から借りた火種で簡易的な小さな松明を作った。
広さは先程の宿と比較すると3倍ほどの大きさと推測される。
すす焦げた匂いが未だ残る。
火の洗礼を受けなかった乾物が棚に整然と並んでいる。
破壊消火の際にかなり気を使ったのだろう。
災害や飢饉が発生すればこの区画にある倉庫一帯から食料や日用品などの備蓄品を放出して庶民の生活の立て直しを図るためにある倉庫街だ。
皇帝陛下の篤い御心に臣民としては頭が下がるばかり。と、イヅは心のなかで形式だけの敬いの姿勢を見せる。
為政者としては万が一に備えてこれだけの備蓄があるとか、臣民のためにこれだけ深い愛情を注いでいるとか、そういった人心掌握のための布石に余念がない。
イヅはそれも理解している。
警吏や軍隊がどんなに強大でもそれ以上の人数の臣民が大挙して押しかければ栄華を誇る帝国でもあっという間に滅んでしまう。
国民のためにどれだけの、どれくらいの規模の倉庫を設けているかで甲斐性を試されるのだから皇帝陛下に於かれましては胃に穴があかないようにご自愛くださいとしか言えない。
「……?」
「何か?」
二手に分かれて棚の間を探っていた時、少年の足音が止まったのを聞いた子爵が気付いて声を挙げる。
「ライデ様、これを」
「んー? 鶏か? 鶏肉の乾物?」
「確かに、これは焼け焦げた鶏肉の乾物だと思われます…というか、そう見えます」
イヅが懐紙の灯りをかざした足元には横一列に整然と並んだ鶏肉がある。
元は、鶏は首を落とされ、血と内臓と羽毛を抜かれ、塩漬けにされて一羽ずつ麻袋に入れられて壁から壁へ横に張った縄に吊るされていたのだろう。
それが火事で縄が切れて床にドスンと落ちた状態で横一列に整然と並んでいるように、床で焦げている。辺りの棚も炎の洗礼を受けている。
普通ならば。普通の、食料としてなら。
その鶏の塩漬けは切断された首の断面から凝固して変色しつつある血の色を広げていた。
イヅは落ちていた板切れに燃える布をナイフからそれに移して板切れの布の灯りを翳しながら、ナイフの切っ先で焦げた麻の袋をどける。焦げた鶏肉の列、どれもこれもにナイフに先を押し込み、軽く裂き、唇をへの字に結ぶ。
「さきほど僕は子爵に盗難された豚や羊はと訊きましたが…」
「『これが代用』か?」
子爵も何か思い当たったようだ。
それは裂かれた鶏の中身を見て理解したらしい。
どの鶏も、内臓を抜かれていない。羽毛すら抜かれていない。
抜かれているのは血液のみ。
「なるほど。これが宿屋の床の血痕かもしれないと?」
「可能性ですが。バザーには珍しい動物の見世物の小屋も有りましたので、そこの肉食動物に食べさせる餌だけでもかなりの量になると思います」
「…それが小細工用の血液の出どころだと?」
「血の正体を知らない宿屋の協力者たちはさぞかしおぞましい思いをして床に血を垂らしていたでしょうね。ドル氏は宿屋で拷問されたかのような痕跡を造りたかった……とも『解釈できます』」
子爵は顎を掻きながら言う。
「ふーむ。ではお前があの2人から感じていた『何か』の正体がこれか」
「はい。あの2人は最後まで人間の血液だと思っていたでしょうね」
「犯人は2人に種を明かしていれば顔に出なかったのに」
腰布でナイフを拭って折り畳んでズボンのポケットに差す。
すう、と子爵に向き直り、こう言う。
「事象があるのなら、その謎よりも必然性を疑え。ですよ。この事件自体は時間をかければ誰にでも解決できると思います。……どうやら、ルーフン公爵の子飼いのドル氏はただの書籍専門の交易商ではなかったという話は『本当のようですね』」
「今まで『それを気が付いていないふりをしていたのか?』」
絶妙に痛いところを突いてくる子爵に対してできるだけ思わせぶりな微笑で表情を隠す。……それを悟られてはいけない気がした。
「ルーフン公爵は反意があればドル氏を始末するようにさえ言っています。そのドル氏は何者かによって理解しがたい目眩ましで行方不明です」
推測だけでは想像が羽ばたいてしまい、不要な情報までもが必要な情報に見えてしまう危険性があるので、確実に出揃った情報だけで真相までの道を組み立てる。
想像通りなら、真相は解明寸前で横槍が入るだろう。
「果たして犯人の確保が優先でしょうか? それとも『ドル氏のみが国内に持ち込んだ【南方動物稀譚】という本が必要』なのでしょうか? はたまた【南方動物稀譚】であれば誰の訳書でも良かったのでしょうか? あるいは、二股膏薬のように『両者』に内通していた利益追求型の亡者だったのでしょうか?」
淡々と他人事のように述べるイヅに対してライデ・ジーロ子爵は何も答えなかった。
それこそが真相直前で横槍が入り、完全に解明されない理由だと悟る。
治安府で捜査活動を束ねる子爵が窮して口を噤む時は、彼はイヅに対して嘘は言っていないが本当のことは言っていない時だ。
(お役所努めご苦労さまです)
イヅは恐らく表向きの顔の下で渋い顔をしている子爵の心中を思いながら労う。
その顔の理由を絶対に訊かない。
知らないほうが安穏に暮らせる気がする。
翌日。
溜まった仕事を最優先で片付けるべく、代筆業の斡旋業者から受け取った依頼を四種類に分類し、喫緊で重要な依頼に目を通していた。
昨夜は西の外れの倉庫から帰宅して直ぐに酒を呷って濡れた毛布のようにベッドで眠り、昼前に起床してカビの生えた硬いパンを折り畳みナイフで削りながら食べた。
味気がないので豚の脂に岩塩を溶いて固めた固形物をこれまた折りたたみナイフで擦り付けて齧る。
ライデ・ジーロ子爵は昨夜、宿屋の店主に絵師を寄越すと言ったとおりに絵師を派遣し現場の絵と治安府で一時拘束してる2人の協力者に似顔絵を描かせるつもりだという。
宿屋で捕縛した協力者の男女はテイ人の男に相当な金をもらって協力したらしい。
テイ人。
どんなに容疑者リストから除外しようにも、バザーで出会った赤黒い肌の大男の顔を思い出す。
腰に提げた短剣を抜いていつ襲いかかってくるのかと思うと気が気ではなかった。その恐怖と大男の顔が強く結びついてしまったようだ。
あの男も南の大陸の人間の顔つきをしていた。
海を挟んで帝国に近い南の大陸にはテイ人が主たる構成の国が幾つかある。
その国々では帝国の同郷人が小さな町を形成できるほど定住しており、その国や大陸の文化を船便で定期的に帝国の要衝に海運で輸入してくる。
武力で近隣諸国を制圧して統治する時代が去って長い。イヅが生まれたときには既に今のように平和を享受できる時代だった。
進んで帝国の属州や属国となってゴマすり外交を展開して帝国との貿易や交易の際の税金の軽減を願い出る国々が多い。
帝国が帝国として栄華を誇る前の群雄割拠の時代はさぞかし地獄絵図で阿鼻叫喚の時代が長かったのだろう。
今では一応の平和を満喫している帝国ではあるが……。
敬愛するライデ・ジーロ子爵や名前しか知らないルーフン公爵や太くて強くて、しかし、見えない糸で結ばれている書籍交易商のサルバル・ドルの関連を好奇心で探りたくなるが、その度に自制を効かせていた。
継ぎ接ぎだらけの文化文明で形成されつつある我がズァルト帝国は一皮むけばまだまだ戦争の延長線上なのかもしれない。次の戦争に向けてもう既に戦争が始まっているのかもしれない。
イヅは自宅の仕事用の机で座りながら自分の右頬を右手で強くはたいた。
余計な妄想は繰り返すと記憶に定着していつに間にかその頭の中で事実として錯覚や誤認をしてしまう。
それに捜査に関与している都合上、余計な推測は思考を阻害する。
悪い虫でも払うように脳内から憶測や推測や希望的観測を追い出して、再び葦ペンを持ち、インク瓶にペン先を浸ける。
今は優先度と重要度で4つに分類した依頼を早く片付けるべくペンを走らせる。
大方が、手紙の代筆だ。代筆の斡旋業者が依頼人に書いてほしい内容の要点を聴いて紙に書き留めて、それが手紙として体裁が良いように整った文章を紡いで仕上げるのだ。
代筆の斡旋業者はそろって識字率がかなり高いが、自分が全ての仕事を独り占めするよりも、識字のある人間を雇って短期間で大量の依頼をこなしたほうが儲けがデカイのだ。
勿論、斡旋業者が上前をはねるのは当たり前だ。
それを知っていても代筆業者には組合がないので立場は弱い。組合がないという隙を狙った卑怯な仕事で搾取される一方なので、夜警団に入団して副業で報告書作成の事務員を始めたのだ。
悔しいことに、卑怯にも搾取している斡旋業者だが、査定は確かなので、質の高い仕事にはイロをつけてくれる。
斡旋業者が、自らが雇っている代筆業者が逃げ出さないための飴と鞭を程よく使い分けている。
生かさず殺さず。しかし、心は労働者として死ぬ分量を弁えた采配を奮うので、イヅは起業や転職の時期が見つけられないでいる。
転職しても字を書く仕事以外には何も出来ないだろうと諦めている節さえある。
女衒に声をかけて男娼として売り込むのは最後の手段だ。
自分はどうやら特定の層には受ける顔らしいので、若さの賞味期限が切れるまでに売り込む算段はいつも頭の隅にある。
子爵と顔を合わせたのは3日後の夜警団の集合場所になっている町の集会所だ。
宵前刻(午後8時)を一刻(1時間)ほど経過した時に、残していた報告書の整理をしていたイヅの前に子爵は足早にやってきた。
「あの2人が言っていたテイ人の面が割れた」
「へえ。どのような顔で?」
子爵は懐から四っつに折った紙を取り出して広げながら言う。
「名前はガラ。金で雇われた船の警護人だ」
「……」
(世界は狭いなぁ)
鼻息を荒くして自慢している子爵に対してイヅは苦笑いを噛み殺した。
広げられた紙には、バザーの路地裏で彼を睨み殺さんばかりの勢いで追いかけてきた赤黒い肌の大男の顔が描かれていた。
「この人物の名前まで判明しているということは……緊急手配済みですか」
「ふふん…聞きたいか?」
今回ばかりは出し抜いてやったぞと言わんばかりの顔をする子爵。
誠に残念なことに、この子爵様、自分の区画に住む住民……つまり、領民を守る程度の権利さえ手に入れば何でもするが、それが確保できている状態だと、心の何処かが緩んでしまい潜在的な能力が全く活かされずに、手柄を治安府の同僚に奪われてしまうのだ。
そんな子爵が自慢を開陳したげな顔をしているということは……。
「あ、もういいです。テイ人の男は網に引っかかったのですね。では今頃取調べ中でしょう。尋問はほどほどに」「おいおいおい、感動が薄い反応だなぁ。重要参考人を確保したのだぞ、もう少し喜んでほしいな」
ライデ・ジーロは非難の色を強くしたが、イヅは夜警団の報告書の下書きからペンを離し、子供のように拗ねている24歳の青年子爵を見ながら言う。
「ライデ様。そのガラという男が、『トカゲの尻尾切り』だとしたらどうしますか? 何故ドル氏殺害後に逃げないのでしょう? 手配が早かったとは言え、身柄の拘束も問題なかった。事件が発生した日時と、ここ3日ほどの時間から考えて、潜伏しているにしても、現場から大して離れることなく市井に紛れていたのですよね? 船の警護なら船に乗り込めばよその管轄の与りになるので十分に逃亡できる時間が稼げたはずです。治安府やその与りの夜警団の中程度の役職では、交易府与りの港湾部や海運関係には門前払いされてしまい、司立庁の令状なしでは何も出来ません……その辺りはどうなっていますか?」
次々と少年に指摘される間、年上の子爵は「それは…」「裏取り中で…」「ん……不明」などを繰り返すだけで鬼の首を取ったような先ほどまでの勢いが消え失せていた。
それもそのはずだと子爵は強く反論しなかった。
彼としてもこの目眩ましだらけの事件を、誠の心でルーフン公爵理不尽な命令を聞き届ける意欲は高いとは言えなかった。
とは言えライデ・ジーロは、その容貌を磨けば輝くかもしれない少年に対して圧倒されているばかりの無能者ではなかった。
直ぐに懐から糸綴じの手帳を取り出して、手帳に挟んでいた羽ペンをインク瓶に浸けると、イヅが指摘した疑問点を素早く筆記した。
暫しして。
「普通なら」
2人は同時に同じ言葉を発した。
少し気まずい雰囲気。
呼吸一回分の後にイヅが先を譲る。
「ライデ様からどうぞ」
ライデ・ジーロ子爵は少しでも爵位持ちらしい威厳を持ち直そうとやや芝居がかった咳払いをしてこう言った。
「普通なら名誉毀損で庶民の首など撫で斬りされているぞ。理解のある私でよかったな」
あくまで、上位者として振る舞いたい一方で顔が少し赤くなっている。
様々な恥や不勉強加減や礼を言いたい気持ちが混ざり合って心の内は複雑なのだろうか。
「そうですね。普通なら…。でも僕はライデ様だけの僕でいたいとも思っています。だからライデ様の前でいる時はライデ様にしか見せない僕の顔だと思ってください」
イヅは眦をほんの少し潤ませながら子爵の目を見た。
(あなただけが重要な、本を買うための金蔓なんです! 僕以外に『都合の良い使い捨て』を飼われると、本を買う機会が少なくなるんです!)
と、イヅは目で訴えていた。
だのに、子爵は何故か生唾を飲んで欲しいものを堪えるような顔をして耳まで赤くしている。
(…それにしても眠い。ライデ様、早く治安府に戻って取調べしてくれないかな。……まずい、眠すぎて涙が出そう。早く報告書を纏めたいのに……)
(どうやら僕は役者のような目力とやらで無言で人を退散させる才能はないようだ……知ってたけど)
「んっ…お前こそ、その何を言いたかったんだ?」
ライデ・ジーロは首を右下に向けていながら視線をさらに右に向けようとしている。手に持った羽ペンを強く握り、ペン先が自分の体に向いている。唇と鼻の中間の筋肉が小さな緊張を一瞬見せた。
肩幅が少し狭くなる。喉仏が大きく上下する。体重をかけている軸足が左右入れ替わる。
(緊張。防御……何かに耐える? 何かに耐えたい?)
(何故に!?)
(この人は何を警戒してるんだ!?)
失礼と分かっていても視えてしまったものは仕方がない。
ライデ・ジーロの口元から喉、肩と全体を『微細な動作』から推し量ってしまった。
「僕はですね、普通なら庶民なんてなんとも思わないのが貴族様なのに、ここまで可愛がってくれているので、僕も身も心もあなたのために尽くさないといけませんよね。と、言いたかったのです」
(あなた様がもっと手柄を立てて役職が上がると俸給も良くなるので僕の『駄賃』も増えるに決まっている!)
(だから手伝いますから早く事件を解決しないと! 早く出世してください! そのためなら多少の面倒は我慢しますゆえ!)
「なっ、バッ、おまっ…何を! はあ? その、そういうのは!」
「はあ?」
まさか、本を買う駄賃以外の報酬を期待されていると思っていたのか? それとも名誉貴族や無爵に推薦しろと言われると思っていたのか? と、頭に疑問符を浮かべるイヅ。
目の前の美丈夫は自分の言葉の何にそんなにわたわたと反応しているのか全く分からない。
イヅは啼き散らす色彩豊かなインコを見るような目で子爵を見ていた。
残念なことにイヅはサーガに出てくる英雄とは違うので早くも眠気が出てくる。
顔には疲労の色が濃い。
今夜は2人分の『顔を見て』、さらに腰布で大立ち回りをした。夜警団所属とはいえ、巡回の部署ではないので体力がないのだ。
本業からして腕っぷしを奮う事は皆無だ。
ライデ・ジーロは隣であくびをする少年に気がつくと「先に帰っていいぞ」と声をかけた。
イヅは精一杯の空元気を出した顔で礼を言うとトボトボと歩きだした。
「……あー」
イヅの背中がどんどん小さくなり、夜の影に飲み込まれそうな路地に入ると、ライデは小さく息を吐き、彼の後を追い、イヅの小さな肩に手を回した。
「え? ライデ様?」
「その足取りだと強盗に身包みを剥がされるぞ。近くまで送っていこう」
「そ、それは困ります! 世間が誤解します!」
「どういう方向の誤解だ? まあ、大人しくしろ、頭と体力を使いすぎて頭痛がするんじゃないか? 明日も頑張ってもらわないと困るのにここで倒れられたら一層困る」
ライデ・ジーロ子爵のやや過剰な甘い声質が不思議と耳の奥に残る時がある。
それは概ねして、ライデ・ジーロが爵位持ちなのにそれを全く鼻にかけずに、名誉庶民でもないイヅを珠のように扱う時だ。
事象があるのなら、その謎よりもその必然性を疑え。
いつか何かの書物で読んだ一節だ。それがふと頭に浮かぶ。
(子爵に下心が有るからそれを疑うのか?)
(何の下心よ?)
(あれ……なんだっけ?)
疲労で足元が覚束なくなって、子爵の体に自分の顔を預けるようになりながら朦朧と歩くイヅの脳裏に乖離したかのように全く場違いなその一節が浮かんではループする。
疲労が極まる直前で正常に思考が働いていない証拠だ。
もしかしたら彼は歩きながら寝言を言っているのかもしれない。
「え? ……どうした?」
「…………す」
「ん? 何か言いたいのか?」
半分以上目蓋が落ちたイヅの頭がズルっと落ちる。首が切り落とされたのかと思うほどの脱力だった。
そしてハッと目が覚める。
「おいおい、しっかりしろ。もう少し歩いたら乗合馬車に乗ろう」
「あ、いや…ライデ様!」
「お、おう?」
彼は敬うべき子爵の顔をしっかりと見た。数瞬の睡眠で頭脳が回復したと言わんばかりに。
「『事象があるのなら、その謎よりもその必然性を疑え』ですよ!」
「ん? んん?」
フクロウのように首を大きくかしげるライデ・ジーロ。
「事象……つまり、ドル氏が姿を消した宿。宿屋の男女が見たくなかった物は、ドル氏への危害ではなく、『現場の目眩まし』では?」
「血痕だらけの床の部屋か……」
「はい。あれは明らかに血痕でした。人間なら致死量の。しかし、ドル氏は危害を加えられていない。そのまま拉致された。……つまり、その後の目眩ましの血痕の工作をあの2人は手伝わされていたのでは? あの二人の顔には『思い出した恐怖』が浮かんでいました」
ライデは顔を上げて少し遠くを見る。顎を指で掻きながら考える。
「なんの血液なのでしょうね。人間の死体ならバザー裏の路地で毎日幾つか転がっていますが、『乾いた後の鮮度』が違います」
「……生きた人間」
「もしくは、人間と同じ血液の色素を持つ動物」
ライデ・ジーロは脳内の記憶を検索する。
家出人や行方不明者には困らない町ではあるが、見つかった死体は尽く身元がはっきりしているし、『大動脈を大きく損傷した死体』はここ数日は無い。
「ライデ様。『お薬』をいただきますね」
「あ、こいつ! …まあ、いいか」
イヅはいつの間にか(恐らくライデの体に密着していた時に)、彼のポケットから嗜好品兼気つけ薬の蒸留酒が入ったガラス瓶のフラスコを抜き出して右手で弄んでいた。
彼の許可を貰う前に先程までその場で眠りこけそうだった少年はフラスコの中身を呷って口に含んだ分を一気に嚥下した。
酒精の強さに喉を焼かれて思わず片頬を吊るイヅ。
「さすが効きますね!」
フラスコに栓をしながら子爵に返す。こいつは自分の都合のいいことだけは全く意に介さない正直なやつだ。
「西の外れの乾物倉庫にいきましょう。例の、火事があった倉庫です。それと、治安府に盗難届は出ていませんか? 牛とか豚とかヤギとか」
「盗難って言っても……それにそんな大きな動物なら直ぐに目を引くし、浮浪者や難民が奪って食べるのが毎日発生しているぞ」
少年はニヤと笑う。
「でしょうね」
今、二人の足は話しながらでも自然と乗合馬車が集まる通りを目指している。
「今夜一晩もう一働きしますよ。敬愛する子爵様のご褒美のために」
口では威勢の良いことを言ってはいるが彼はまだ少ししっかりしない足元でライデの体に身を寄せて蒸留酒で上気した笑顔を向ける。
ライデは彼の視線から鼻筋、唇、顎先、首筋、喉仏と視線を下に滑り落として、胸元の隙間に到達させる。
「いいか、そんな顔は絶対に路地裏とか色街で見せるなよ!」
「んー? 何がです?」
「ああもう…酔ってんのか……しっかりしろ」
ライデもイヅのほのかに赤い顔にうっと詰まりながらも視線をまっすぐ元に戻す。
実のところ、イヅは正直に言えなかった。
子爵の衣服の煙草の匂いで心地よく安堵して一瞬で眠り一瞬で起きたとは。
(煙草ってそんなにリラックスできるものなのかな?)
(なにか違う気がする)
唇の端に僅かな笑顔を見せていることに気が付いていない少年と、その笑顔の根源が理解できない子爵は、やがて乗合馬車を掴まえて西の外れの倉庫街まで一路、進んだ。
乗り心地がお世辞にもよくない馬車の客室内は6人が乗れた。左右の壁に突き出るように設けられたベンチ型の椅子にそれぞれ分かれて座る。乗客は少年と子爵だけだ。
「!」
イヅは階段を踏み外す夢を見た瞬間に自重で首が落ちたのを感じた。
入眠時に起こりやすいとされる筋肉の無意識の痙攣で起こされた彼は先程以上に頭がはっきりしていた。
気付け薬の蒸留酒は眠りに関する副作用が大きいのが難点だ。
「起きたか。着いたぞ」
「え、ああ。そうですか」
十分な夜中。ライデの話では真刻(午前0時)に近い時間だという。
明日は今と同時刻に夜警の仕事が入っているので、今日拾える情報は全て拾っておきたい。
ライデ・ジーロ子爵は自らのバナーが入ったランタンを持っていたが、足元を照らす程度だろう。現場を存分に照らし出すのは無理だと思われる。
馬車から降りた2人は屋根が焼け落ちた乾物倉庫の前に立っていた。
乾物倉庫の前では不寝番の警吏が見える範囲で5人、立っていた。誰もが剣と身の丈ほどの棒で武装している。
きっとルーフン公爵与りの事件の現場なので、現場の保存のために、倉庫内を荒らされたくないのだろう。
焼け落ちたとはいえ、乾物倉庫なのだから、被災を逃れた食料や食料の燃えカスを漁りに来る不逞の輩を追い払うために配備されているに違いない。
ライデ・ジーロ子爵は自身の名を言うだけで不寝番の警吏は背筋を伸ばして焼け落ちた倉庫内部を見せてくれた。
「何か分かりそうか?」
「……ここで、ドル氏の右足の膝下が見つかったのですね」
「報告ではな」
話しながら、イヅは腰布の端をナイフで切り、その布切れをナイフの刃に巻きつけて、子爵のランタンから、オイルをそれに垂らして警吏から借りた火種で簡易的な小さな松明を作った。
広さは先程の宿と比較すると3倍ほどの大きさと推測される。
すす焦げた匂いが未だ残る。
火の洗礼を受けなかった乾物が棚に整然と並んでいる。
破壊消火の際にかなり気を使ったのだろう。
災害や飢饉が発生すればこの区画にある倉庫一帯から食料や日用品などの備蓄品を放出して庶民の生活の立て直しを図るためにある倉庫街だ。
皇帝陛下の篤い御心に臣民としては頭が下がるばかり。と、イヅは心のなかで形式だけの敬いの姿勢を見せる。
為政者としては万が一に備えてこれだけの備蓄があるとか、臣民のためにこれだけ深い愛情を注いでいるとか、そういった人心掌握のための布石に余念がない。
イヅはそれも理解している。
警吏や軍隊がどんなに強大でもそれ以上の人数の臣民が大挙して押しかければ栄華を誇る帝国でもあっという間に滅んでしまう。
国民のためにどれだけの、どれくらいの規模の倉庫を設けているかで甲斐性を試されるのだから皇帝陛下に於かれましては胃に穴があかないようにご自愛くださいとしか言えない。
「……?」
「何か?」
二手に分かれて棚の間を探っていた時、少年の足音が止まったのを聞いた子爵が気付いて声を挙げる。
「ライデ様、これを」
「んー? 鶏か? 鶏肉の乾物?」
「確かに、これは焼け焦げた鶏肉の乾物だと思われます…というか、そう見えます」
イヅが懐紙の灯りをかざした足元には横一列に整然と並んだ鶏肉がある。
元は、鶏は首を落とされ、血と内臓と羽毛を抜かれ、塩漬けにされて一羽ずつ麻袋に入れられて壁から壁へ横に張った縄に吊るされていたのだろう。
それが火事で縄が切れて床にドスンと落ちた状態で横一列に整然と並んでいるように、床で焦げている。辺りの棚も炎の洗礼を受けている。
普通ならば。普通の、食料としてなら。
その鶏の塩漬けは切断された首の断面から凝固して変色しつつある血の色を広げていた。
イヅは落ちていた板切れに燃える布をナイフからそれに移して板切れの布の灯りを翳しながら、ナイフの切っ先で焦げた麻の袋をどける。焦げた鶏肉の列、どれもこれもにナイフに先を押し込み、軽く裂き、唇をへの字に結ぶ。
「さきほど僕は子爵に盗難された豚や羊はと訊きましたが…」
「『これが代用』か?」
子爵も何か思い当たったようだ。
それは裂かれた鶏の中身を見て理解したらしい。
どの鶏も、内臓を抜かれていない。羽毛すら抜かれていない。
抜かれているのは血液のみ。
「なるほど。これが宿屋の床の血痕かもしれないと?」
「可能性ですが。バザーには珍しい動物の見世物の小屋も有りましたので、そこの肉食動物に食べさせる餌だけでもかなりの量になると思います」
「…それが小細工用の血液の出どころだと?」
「血の正体を知らない宿屋の協力者たちはさぞかしおぞましい思いをして床に血を垂らしていたでしょうね。ドル氏は宿屋で拷問されたかのような痕跡を造りたかった……とも『解釈できます』」
子爵は顎を掻きながら言う。
「ふーむ。ではお前があの2人から感じていた『何か』の正体がこれか」
「はい。あの2人は最後まで人間の血液だと思っていたでしょうね」
「犯人は2人に種を明かしていれば顔に出なかったのに」
腰布でナイフを拭って折り畳んでズボンのポケットに差す。
すう、と子爵に向き直り、こう言う。
「事象があるのなら、その謎よりも必然性を疑え。ですよ。この事件自体は時間をかければ誰にでも解決できると思います。……どうやら、ルーフン公爵の子飼いのドル氏はただの書籍専門の交易商ではなかったという話は『本当のようですね』」
「今まで『それを気が付いていないふりをしていたのか?』」
絶妙に痛いところを突いてくる子爵に対してできるだけ思わせぶりな微笑で表情を隠す。……それを悟られてはいけない気がした。
「ルーフン公爵は反意があればドル氏を始末するようにさえ言っています。そのドル氏は何者かによって理解しがたい目眩ましで行方不明です」
推測だけでは想像が羽ばたいてしまい、不要な情報までもが必要な情報に見えてしまう危険性があるので、確実に出揃った情報だけで真相までの道を組み立てる。
想像通りなら、真相は解明寸前で横槍が入るだろう。
「果たして犯人の確保が優先でしょうか? それとも『ドル氏のみが国内に持ち込んだ【南方動物稀譚】という本が必要』なのでしょうか? はたまた【南方動物稀譚】であれば誰の訳書でも良かったのでしょうか? あるいは、二股膏薬のように『両者』に内通していた利益追求型の亡者だったのでしょうか?」
淡々と他人事のように述べるイヅに対してライデ・ジーロ子爵は何も答えなかった。
それこそが真相直前で横槍が入り、完全に解明されない理由だと悟る。
治安府で捜査活動を束ねる子爵が窮して口を噤む時は、彼はイヅに対して嘘は言っていないが本当のことは言っていない時だ。
(お役所努めご苦労さまです)
イヅは恐らく表向きの顔の下で渋い顔をしている子爵の心中を思いながら労う。
その顔の理由を絶対に訊かない。
知らないほうが安穏に暮らせる気がする。
翌日。
溜まった仕事を最優先で片付けるべく、代筆業の斡旋業者から受け取った依頼を四種類に分類し、喫緊で重要な依頼に目を通していた。
昨夜は西の外れの倉庫から帰宅して直ぐに酒を呷って濡れた毛布のようにベッドで眠り、昼前に起床してカビの生えた硬いパンを折り畳みナイフで削りながら食べた。
味気がないので豚の脂に岩塩を溶いて固めた固形物をこれまた折りたたみナイフで擦り付けて齧る。
ライデ・ジーロ子爵は昨夜、宿屋の店主に絵師を寄越すと言ったとおりに絵師を派遣し現場の絵と治安府で一時拘束してる2人の協力者に似顔絵を描かせるつもりだという。
宿屋で捕縛した協力者の男女はテイ人の男に相当な金をもらって協力したらしい。
テイ人。
どんなに容疑者リストから除外しようにも、バザーで出会った赤黒い肌の大男の顔を思い出す。
腰に提げた短剣を抜いていつ襲いかかってくるのかと思うと気が気ではなかった。その恐怖と大男の顔が強く結びついてしまったようだ。
あの男も南の大陸の人間の顔つきをしていた。
海を挟んで帝国に近い南の大陸にはテイ人が主たる構成の国が幾つかある。
その国々では帝国の同郷人が小さな町を形成できるほど定住しており、その国や大陸の文化を船便で定期的に帝国の要衝に海運で輸入してくる。
武力で近隣諸国を制圧して統治する時代が去って長い。イヅが生まれたときには既に今のように平和を享受できる時代だった。
進んで帝国の属州や属国となってゴマすり外交を展開して帝国との貿易や交易の際の税金の軽減を願い出る国々が多い。
帝国が帝国として栄華を誇る前の群雄割拠の時代はさぞかし地獄絵図で阿鼻叫喚の時代が長かったのだろう。
今では一応の平和を満喫している帝国ではあるが……。
敬愛するライデ・ジーロ子爵や名前しか知らないルーフン公爵や太くて強くて、しかし、見えない糸で結ばれている書籍交易商のサルバル・ドルの関連を好奇心で探りたくなるが、その度に自制を効かせていた。
継ぎ接ぎだらけの文化文明で形成されつつある我がズァルト帝国は一皮むけばまだまだ戦争の延長線上なのかもしれない。次の戦争に向けてもう既に戦争が始まっているのかもしれない。
イヅは自宅の仕事用の机で座りながら自分の右頬を右手で強くはたいた。
余計な妄想は繰り返すと記憶に定着していつに間にかその頭の中で事実として錯覚や誤認をしてしまう。
それに捜査に関与している都合上、余計な推測は思考を阻害する。
悪い虫でも払うように脳内から憶測や推測や希望的観測を追い出して、再び葦ペンを持ち、インク瓶にペン先を浸ける。
今は優先度と重要度で4つに分類した依頼を早く片付けるべくペンを走らせる。
大方が、手紙の代筆だ。代筆の斡旋業者が依頼人に書いてほしい内容の要点を聴いて紙に書き留めて、それが手紙として体裁が良いように整った文章を紡いで仕上げるのだ。
代筆の斡旋業者はそろって識字率がかなり高いが、自分が全ての仕事を独り占めするよりも、識字のある人間を雇って短期間で大量の依頼をこなしたほうが儲けがデカイのだ。
勿論、斡旋業者が上前をはねるのは当たり前だ。
それを知っていても代筆業者には組合がないので立場は弱い。組合がないという隙を狙った卑怯な仕事で搾取される一方なので、夜警団に入団して副業で報告書作成の事務員を始めたのだ。
悔しいことに、卑怯にも搾取している斡旋業者だが、査定は確かなので、質の高い仕事にはイロをつけてくれる。
斡旋業者が、自らが雇っている代筆業者が逃げ出さないための飴と鞭を程よく使い分けている。
生かさず殺さず。しかし、心は労働者として死ぬ分量を弁えた采配を奮うので、イヅは起業や転職の時期が見つけられないでいる。
転職しても字を書く仕事以外には何も出来ないだろうと諦めている節さえある。
女衒に声をかけて男娼として売り込むのは最後の手段だ。
自分はどうやら特定の層には受ける顔らしいので、若さの賞味期限が切れるまでに売り込む算段はいつも頭の隅にある。
子爵と顔を合わせたのは3日後の夜警団の集合場所になっている町の集会所だ。
宵前刻(午後8時)を一刻(1時間)ほど経過した時に、残していた報告書の整理をしていたイヅの前に子爵は足早にやってきた。
「あの2人が言っていたテイ人の面が割れた」
「へえ。どのような顔で?」
子爵は懐から四っつに折った紙を取り出して広げながら言う。
「名前はガラ。金で雇われた船の警護人だ」
「……」
(世界は狭いなぁ)
鼻息を荒くして自慢している子爵に対してイヅは苦笑いを噛み殺した。
広げられた紙には、バザーの路地裏で彼を睨み殺さんばかりの勢いで追いかけてきた赤黒い肌の大男の顔が描かれていた。
「この人物の名前まで判明しているということは……緊急手配済みですか」
「ふふん…聞きたいか?」
今回ばかりは出し抜いてやったぞと言わんばかりの顔をする子爵。
誠に残念なことに、この子爵様、自分の区画に住む住民……つまり、領民を守る程度の権利さえ手に入れば何でもするが、それが確保できている状態だと、心の何処かが緩んでしまい潜在的な能力が全く活かされずに、手柄を治安府の同僚に奪われてしまうのだ。
そんな子爵が自慢を開陳したげな顔をしているということは……。
「あ、もういいです。テイ人の男は網に引っかかったのですね。では今頃取調べ中でしょう。尋問はほどほどに」「おいおいおい、感動が薄い反応だなぁ。重要参考人を確保したのだぞ、もう少し喜んでほしいな」
ライデ・ジーロは非難の色を強くしたが、イヅは夜警団の報告書の下書きからペンを離し、子供のように拗ねている24歳の青年子爵を見ながら言う。
「ライデ様。そのガラという男が、『トカゲの尻尾切り』だとしたらどうしますか? 何故ドル氏殺害後に逃げないのでしょう? 手配が早かったとは言え、身柄の拘束も問題なかった。事件が発生した日時と、ここ3日ほどの時間から考えて、潜伏しているにしても、現場から大して離れることなく市井に紛れていたのですよね? 船の警護なら船に乗り込めばよその管轄の与りになるので十分に逃亡できる時間が稼げたはずです。治安府やその与りの夜警団の中程度の役職では、交易府与りの港湾部や海運関係には門前払いされてしまい、司立庁の令状なしでは何も出来ません……その辺りはどうなっていますか?」
次々と少年に指摘される間、年上の子爵は「それは…」「裏取り中で…」「ん……不明」などを繰り返すだけで鬼の首を取ったような先ほどまでの勢いが消え失せていた。
それもそのはずだと子爵は強く反論しなかった。
彼としてもこの目眩ましだらけの事件を、誠の心でルーフン公爵理不尽な命令を聞き届ける意欲は高いとは言えなかった。
とは言えライデ・ジーロは、その容貌を磨けば輝くかもしれない少年に対して圧倒されているばかりの無能者ではなかった。
直ぐに懐から糸綴じの手帳を取り出して、手帳に挟んでいた羽ペンをインク瓶に浸けると、イヅが指摘した疑問点を素早く筆記した。
暫しして。
「普通なら」
2人は同時に同じ言葉を発した。
少し気まずい雰囲気。
呼吸一回分の後にイヅが先を譲る。
「ライデ様からどうぞ」
ライデ・ジーロ子爵は少しでも爵位持ちらしい威厳を持ち直そうとやや芝居がかった咳払いをしてこう言った。
「普通なら名誉毀損で庶民の首など撫で斬りされているぞ。理解のある私でよかったな」
あくまで、上位者として振る舞いたい一方で顔が少し赤くなっている。
様々な恥や不勉強加減や礼を言いたい気持ちが混ざり合って心の内は複雑なのだろうか。
「そうですね。普通なら…。でも僕はライデ様だけの僕でいたいとも思っています。だからライデ様の前でいる時はライデ様にしか見せない僕の顔だと思ってください」
イヅは眦をほんの少し潤ませながら子爵の目を見た。
(あなただけが重要な、本を買うための金蔓なんです! 僕以外に『都合の良い使い捨て』を飼われると、本を買う機会が少なくなるんです!)
と、イヅは目で訴えていた。
だのに、子爵は何故か生唾を飲んで欲しいものを堪えるような顔をして耳まで赤くしている。
(…それにしても眠い。ライデ様、早く治安府に戻って取調べしてくれないかな。……まずい、眠すぎて涙が出そう。早く報告書を纏めたいのに……)
(どうやら僕は役者のような目力とやらで無言で人を退散させる才能はないようだ……知ってたけど)
「んっ…お前こそ、その何を言いたかったんだ?」
ライデ・ジーロは首を右下に向けていながら視線をさらに右に向けようとしている。手に持った羽ペンを強く握り、ペン先が自分の体に向いている。唇と鼻の中間の筋肉が小さな緊張を一瞬見せた。
肩幅が少し狭くなる。喉仏が大きく上下する。体重をかけている軸足が左右入れ替わる。
(緊張。防御……何かに耐える? 何かに耐えたい?)
(何故に!?)
(この人は何を警戒してるんだ!?)
失礼と分かっていても視えてしまったものは仕方がない。
ライデ・ジーロの口元から喉、肩と全体を『微細な動作』から推し量ってしまった。
「僕はですね、普通なら庶民なんてなんとも思わないのが貴族様なのに、ここまで可愛がってくれているので、僕も身も心もあなたのために尽くさないといけませんよね。と、言いたかったのです」
(あなた様がもっと手柄を立てて役職が上がると俸給も良くなるので僕の『駄賃』も増えるに決まっている!)
(だから手伝いますから早く事件を解決しないと! 早く出世してください! そのためなら多少の面倒は我慢しますゆえ!)
「なっ、バッ、おまっ…何を! はあ? その、そういうのは!」
「はあ?」
まさか、本を買う駄賃以外の報酬を期待されていると思っていたのか? それとも名誉貴族や無爵に推薦しろと言われると思っていたのか? と、頭に疑問符を浮かべるイヅ。
目の前の美丈夫は自分の言葉の何にそんなにわたわたと反応しているのか全く分からない。
イヅは啼き散らす色彩豊かなインコを見るような目で子爵を見ていた。
