♯006『文筆家は夜警の一人』(全3話/現在2話まで公開中)

【♯001「喋らぬ者とその者共」2/6】

 翌日、朝から代筆業を黙々とこなすだけであっという間に昼になる。

 正午を報せる鐘が鳴る。
 食堂が軒先に突き出す露店街へ行き、あくびを堪えながら豚肉の入った粥を胃袋に流し込む。

 眠気と戦っているイヅの顔を真正面から見ている子爵様の麗しい顔がある。

 治安府の高官で夜警団のスポンサーでなかったら殺意多めのジト目で睨んでいるところだ。

「昨夜はご苦労」

 自称24歳だという金髪を後ろで結わえた美顔の持ち主は元からそのような造りであるかのような微笑みを絶やさず、テーブルに片肘を衝いて昨夜の顛末を労ってくれた。

 昼飯を注文して屋外のテーブルについたと同時に子爵はやってきた。
 するりと猫のように相席した。
 見知らぬ人間が見ると二人連れでこの席に座ったと思うだろう。

「昨夜の報告書を読ませてもらった。新聞屋が雇う売文家のように形容も修飾もない実に事務的な報告書は見ていて気持ちがいい」
「それはどうも」

 下賤なこの身がいつの間にかこの治安府の高官で夜警団のスポンサーであるライデ・ジーロ子爵に気に入られているようだ。

 イヅ自身は彼に対して、悪い評価はしていない。しかし、個人的には思うところが多すぎるので知らず知らずのうちに顔に心の中が出てしまう。
 すなわち、今のイヅの顔は苦虫を噛み潰したような複雑なシワを眉間に作っているのだ。

 彼がイヅの貴重な休憩時間に狙ったように現れる時は面倒臭い報せが殆どなのだ。

 面倒臭い報せ…代筆業を中断してすぐにこの案件に取り組んでほしいという内容が殆ど全て。

 イヅの虫の居所が少し悪くなるのも当たり前だ。

 夜警団の大人は腕っぷしには自信がある荒くれ者が多いが、繊細な判断や雰囲気を読んだ扱いができない者が多い。
 貴族に対して謙譲語で話しかけるときでも文法がしどろもどろになってしまうほどだ。
 その中にあって少々の口のきき方を知っているイヅは都合がいい『窓口』だ。

 最近ではジーロ子爵はイヅを子飼い下男のように扱う。
 それに見合うとまではいかなくとも、小銭や本や子爵の名前が入った小切手を駄賃代わりに手渡してくれる。

 当初はこの貴族は『そちらの趣味』があり自分に対して『そのような目で』見ているのかと、背中におぞましい寒気が走ったことが有ったが……実をいうと今でもその件については警戒している。

 イヅとて、黙って本を読んでいれば女衒に男娼としてスカウトされることもある。
 自分の何処がそれほど、何処の層にどのように受けるのかは不明。知りたくもない。特殊な性的嗜好に時代も壁もない。
 ……と言いつつ、後学のために大手の売春宿や名うての女衒につきっきりで取材したい。
 知識として知っているが、それをさらに磨きたい知的好奇心が混じった知識欲に飲み込まれているのは黙っておこうと思っている。

(これは子爵様には言わないほうがいいな)

 イヅの本心を知ればライデ・ジーロ子爵はどのように反応するか。

「それで、ライデ様。僕の昼食を邪魔しにきたわけでは無いのでしょ?」

 イヅのライデ・ジーロ子爵に対する雑な口のきき方は今に始まったことではない。

 庶民が爵位持ちにこのような態度を取れば問答無用で投獄される可能性もあるが、ライデ・ジーロ子爵は微笑みを絶やさない顔で上着の懐から紙を一枚取り出して粥をすするイヅの目の前に置く。

「君が飾りの無い事務的な報告書を書いてくれているおかげで『今回も』気になる点が見つかった……これは、それを別紙に書いてまとめたものだ」

(あちゃー)

 塩味しかしない豚肉を咀嚼しながら顔から表情がなくなってくるのを実感する。
 
 この辺りの治安を預かる部門の長として役職に就いている子爵の元には、予算を少しでも沢山もらおうと盛りに盛った報告書が寄せられるので彼の仕事はその精査によって阻害される。
 イヅも夜警団の団長にもっと勇ましく書けとか手柄をたくさん立てた者がいるとか犯罪組織を壊滅させたと書き足せとよく突かれる。
 悲しいかな、夜警団の団長は識字者ではないので、サラサラと筆を走らせるイヅは自分の意見を全て報告書に書いていると思いこんでいる。

「昨夜の火事…西の外れにある食料の…乾物倉庫で火事をがあった」
「被害者は出ていないと聞いていますが。それとも類焼範囲が広かったのですか? それでもそれは消防団の仕事では?」
「確かに報告書にはそう書かれていたな」

 そう言いながら子爵は指で紙片に整然と並んだ字を指で追う。

(これは、僕の『まとめ方』じゃない。……インクのノリが良い。紙はかなり上質。右上に帝国製の透かし。文字の間隔と桁が整っているから下書きの後に清書。公文書で使われる羽ペンの筆跡。筆圧からみて非力な文官か女性)

「これは?」
「やんごとなき方とご関係あそばされる人物が行方不明だ」

 書類は恐らく極秘事項なのだろう。公衆の面前で大々的に晒していいものではない。 どうせこの界隈にはまともに字が読める人間はいないだろうという爵位持ち特有の驕りが見える。イヅは住む世界が違うとこんなにも視点が違うのかと辟易した。

 書類の文面はまとめるとこうだ。

 【ルーフン公爵が密使に下命して書籍が偽物だと判明。途中ですり替えられた可能性が高く、書籍の入手のために諸外国との取引窓口として雇っていたた交易商サルバル・ドルと連絡が取れない。至急サルバル・ドルを探し出し、事の詳細を聞き出してほしい。反旗や内通の疑いが有る場合は捕縛せよ。探索中の書籍の表題は『南方動物稀譚』。】

 とのこと。

「ライデ様」
 イヅは匙を置いて口元を腰布で拭って姿勢を正した。
「ん? どうした?」

 やや置いて落ち着いて言う。

「西の外れの乾物倉庫との関連性を教えてください」
 ライデは少し声をひそめて話しだした。

 イヅは本来なら下賤な身分の庶民として生きていたいが、この世で最も嫌うたった一人の人間のために、世間を欺く仮の姿が目の前の美丈夫には通用していないのを悟っていた。

 子爵という爵位持ちの中でも下級ランクに位置し、一人で市中を歩く小金持ちにさえ『自分がどのような出自になってしまった人間』であるかお見通しなのだ。

 子爵はイヅの過去を知っていると、イヅ自身は固く信じている。

 それはそれで努力が実らなかったと歯がゆくもなる。

 だが、美貌の子爵はイヅの経歴をおくびにも出さず、夜警団の報告書専門の事務員として扱ってくれている。

 その『優しさ』だけは感謝だ。

「火事の現場…乾物倉庫でドル氏の切断された右膝下が見つかった。所轄の治安府の警吏は靴と残ったズボンの布と柄からドル氏はここで『拷問にあい、殺害された』と『殺害現場を偽装したに違いない』という方向で捜査が進んでいる」
「つまり、『ルーフン公爵のドル氏は商売敵に寝返ったかもしれないという推測』を元に捜査が進んでいると」

 イヅはしれっと商売敵という言葉を使った。

 イヅは無知蒙昧な庶民なのだ。ルーフン公爵が『何処の誰で何処の機関に所属する人間』であるかなどと詮索するつもりはない。しかし、必要な情報はほしい。

「お上の機嫌を伺うために、治安維持を生業にする警務機関が明後日の方向しか見ていないのだよ」

 身分の高い人間のお考えは時としてこのような弊害を誘発してしまう。

 文字による情報の伝達は無味無臭で無機質な文章でなければ、自分以外の人間が何処でどのように受け取って、挙げ句どのような行動に出るかわからない。

 100人の人間がいても、100人とも間違えた一方向を見ているとその方向が正しいものだと誰も疑わなくなる。

 ましてや自分たちの功名心や保身に直結するとなると目も当てられない。

 この広大な首都の主だった区画の治安府にも同じ文面の下達書が書写されて水面下で出回っていると思ったほうがいい。

「消防団に発見されたは膝下の件は不逞の輩が拷問をしたあとの『残り物』だと説明しておいた」

 イヅはぬるくなった白湯をぐいと飲んで。目を伏せる。

「ライデ様」
「ん? なんだ?」

 イヅ、じっと夜警団のスポンサーでもある子爵の顔を沈んだ眼差しで見据えてしばし、沈黙。

 沈黙の後に、こう言った。

「色々と申し上げにくいのですが、数刻ほど眠らせてください。……今の僕ではあなた様の期待の10分の1も役に立てません」

 ややポカンとしていた子爵は「ああ」と納得の感嘆を挙げるといつもの微笑気味な表情に戻り、イヅに早い帰宅を促す。

「引き止めて悪かった。夕入刻頃(午後6時)にそちらに向かう」

 彼は昨夜は不寝番で夜警として報告書を書いていたのだ、そのまま帰宅しても一睡もせずに残していた本業に取り掛かっていたのだ。
 昼食で腹を満たしたら眠るつもりのところへ自分が現れて『いつもの調子』で面倒なの案件を話しだしたものだから席を立つわけにはいかなかったらしい。

 ライデ・ジーロ子爵はフラフラとした足取りで帰路に就く小さな背中を見ながら、自分は与えられた駒を使うのはなんとも思わないが、自分で育てたいと思った駒は自分が思っているほど簡単に扱えないと臍を噛んだ。

 自分が嫌いな貴族の生き方に自分がどっぷりと浸かっている姿に辟易した。

 そして、自身の人心掌握術の不足にも。

  ※ ※ ※

 自宅(馬小屋を改装した2階建ての長屋)の表で、腰巻きの布と同じ生成りの布を用いて塩をなすりつけるだけの歯磨きを終えたイヅはうがいで口中をゆすいでいた。
 夕入刻(午後6時)の鐘が鳴ってから大して時間は経過していない。

 夕食も今し方食べた。
 美顔の子爵様が来る時間に合わせて、昼食後に帰宅するなり消毒用においていた引用可能な酒精の高い酒を呷って無理やり寝た。

 気絶するように眠れたのか、夢は覚えていないし、体はだるい。寝酒をすると必ず軽い倦怠感に悩まされる体質だ。
 その割には、頭ははっきりしていた。

 暮れつつある太陽を見ながらライデに聞いた昼間の内容を反芻する。
 
 そうしているうちに雑多な長屋街のすぐ表に乗合馬車が到着し、ライデ・ジーロ子爵様が到着あそばされる。

 彼はやあ、と右手を上げながら薄暮の道を歩いてくる。
 お抱えの馬車や御者すら賄えない子爵様は中流階層以上の庶民が愛用する乗合馬車で見参だ。

 あの妙に金に物を言わせない姿が領民(与えられた区画に住む庶民)に必要以上の偏見や反感を持たれない処世術なのだなと、いつも思う。

 イヅは子爵に挨拶もそこそこに先ずは、と述べた。

「見るのか? 火事の現場を…消防団が火を消したから何かを探すのに人足が必要になると思うが……」

 現場の西の外れの乾物倉庫……水場が遠い場所では、延焼や類焼を防ぐために基本的に破壊防火を第一選択とする消防団が『火を消した』となると徹底的な家屋の破壊が主となる。

 少し面倒だなとは思いつつも、破壊の規模も焼けた範囲も見ていないのでなんとも言えない。
 つまり、直接見て日を改めることも視野にいれる。

 イヅとしては……実に打算的な目論見で彼の調査依頼を引き受けている面があるので、早く彼の問題を解決したいのだ。

 子爵の持ち込む問題を解決する速さが早いほど気前のいい報酬が出る。

 過去最速で解決した折など、欲しい本が与えられたのだ。
 それも、図書館に納品する前の本が報酬として与えられた。

 その前例を味わっているだけにイヅは彼をどうしても無碍に出来ない。

 知的探求心というよりも知識欲を満たしたいだけの情動的な自分が抑えられないのが自分の弱点の一つなのだと認識している。

 認識しているからとそれを改めてしまうと、今度は自分が自分でなくなる気がするので今は欲望の犬に成り下がる事を甘んじている。

「そうですね。夕陽も沈み始めました。瓦礫しか無いような場所で漁っても何も見つけられない可能性が高いですね。他に手がかりが拾えそうな場所や人物に心当たりは? それに…僕はその被害者の顔や姿を知りません。まあ、暗く狭いところですがどうぞ」
「すまないね」

 長屋の中に二人は入ると、イヅは彼に簡素な椅子を勧めた。自分は乾燥した雑草で水増ししたハーブティの用意をする。

「交易商サルバル・ドル。40歳前後。主に異邦で活躍する著述家の翻訳した本や書類を輸入、行商し、南方の大陸の北側で販路を巡っている人物で、2、3年おきに帰朝して珍しい本や翻訳書を商工組合を通して納品。ルーフン公爵の御用達だが、今度の件からどうやらこの人物は」
「熊ヒゲ。僕より頭一つくらい高い。日焼けが印象的な豪放磊落っぽい印象。丁稚は従えず、独りで行商するタイプ。特徴的な翻訳書を仕入れるので一人親方の店主としては割と儲かっている方……なのではないですか?」

 ライデは自分の言葉を遮ってドル氏の人相を滔々と語るイヅを見てしばし、目を開く。

「どうしてそれを?」
「その『どうして』にはどう答えれば?」
「サルバル・ドルの風体だよ」
「その人物と2日前のバザーで出会っているからです。……なるほど。あんな珍しそうな本ばかり有るからとメモに残しておいて正解でした」

 サルバル・ドルが字を識る子供だから何処かの書生だと勘違いしてイヅを追い払ったわけではない。

 接触してくる手はずのルーフン公爵の配下を待っていたのだ。
 結果的に手渡した本…【南方動物稀譚】は偽物だと判明して裏切りの嫌疑をかけられて目下、逃走中。強盗か犯罪に巻き込まれた状況を作り出し、自身の死亡を印象つけるために右膝下を火災現場に残した。

 そんなところだろう。

 国外で姿を消さずにわざわざ帰国して事件を見せつけたのだから、ルーフン公爵の望みの品は手に入れたというアピール。
 まだまだ国内で通用する商人で居たかった。

 イヅは安い茶を淹れながら突然頭をブンブンと左右に振る。

(いかんいかん! 推測は想像を呼んでしまう! もっと証拠を固めないと!)
(もっと証拠を固めてそこそこ見事にライデ様を喜ばせないと良いお駄賃がいただけない!)

 そして…この件は少しばかり危険な匂いが漂っている。
 イヅは部分的に敬愛する子爵がドル氏に関して『帰国』ではなく『帰朝』という言葉を使っていたことに引っかかった。
 爵位を持っている人間の間ではドル氏は重要な情報源だったのだろう。どの程度、重要な情報なのかは知らないほうがいいと思い、先程はライデの言葉を遮ってドル氏の人相を語ることで会話の主題を有耶無耶にさせた。

 公爵クラスが子飼いにする本の交易商ともなれば、イヅが想像する知識欲を満たす本よりも、知らなければそれで平穏に暮らせるような内容が書かれた本の可能性が高い。
 
「手がかり…そうだな。ドルが借りていた宿が有るのだが、また面倒なことでね」

 子爵は美しい顔をやや渋めに歪める。今しがた出した茶が想像以上に不味かったのか?

 彼は少し顎先を撫でながらうつむき加減になると何か考え始めた。

 そして顔を上げるなり神妙そうにこう言った。

「そこは密室だよ」
「密室……ですか」

 彼の顔につられてイヅも思わず神妙になる。

 イヅとライデ・ジーロ子爵が乗合馬車を継いでやってきた場所は宵前刻(午後8時)頃の宿場町だった。20軒ほどの宿屋がひしめく。

 往来は暗い時間ではあるが、客引きのための灯りが煌々と焚かれており、子爵が用意していた安っぽいランタンがやや邪魔だった。

 その宿場町の一角にドル氏が宿泊していた犀の角館なる名前の宿があった。
 
 子爵が爵位持ちらしい威厳を絞り出して胸を張り、宿の表から入る。従者の身分を借りてイヅも3歩後ろからついてくる。

「ドルなる商人の泊まっていた部屋をもう一度見せてほしい。現場には勿論誰も入れていないだろうね?」
「それはもう子爵様のご命令を第一に!」

 誠実そうで権力に弱そうな何処にでもいる全うな商売人の顔をした50絡みの主人がもみ手をして子爵を迎えた。

 詮議前の見聞で何度か訪れると子爵が伝えていたのか、相好を崩さずに主人はドル氏の宿泊していた部屋へと案内した。手には鍵の束を持っている。

(主人を入れて……3人)
(まあ、この宿ならその数で十分かな)

 イヅは先をゆく子爵の背中に付き従うふりをしながら、宿の入口にあるカウンターに見えた人影を数える。その奥の木のドアが見える範囲で2枚ある事も確認する。

 3階建ての宿屋の2階部分。その一番手前の、すぐに階下に降りられる部屋へ到着。

 簡素な鍵。鍵穴もごく普通の拵え。目を凝らさなくともすぐに分かるほど使い古された鍵と鍵穴と木製のドアノブ。

(へぇ…これは思ったより……)

 名のある宿屋でもないのに防犯対策は一応の気を使っているのが解る。

 先に部屋に入り、店主は灯りを灯す。店主が恭しく粗朶を差し出し、ライデがかざしたランタンに火を移し、熾す。

「ここらへんの宿屋でも部屋に鍵を設えていることで少しでも安全を守りたいお客様に提供しております」
「それは結構。その不逞者に対する意識がもっと広まる前に『我々』が安穏な世間を広めねばならないのに…苦労をかける」

 店主は鍵を用いた安全性を宣伝したかったのに、子爵は更に俯瞰した、思いやった気持ちを表明してしまったので店主は恐縮して一回り小さくなったような気がした。

「後で声を掛ける。済まないが、その鍵の束を置いていってくれないか?」
「ごゆっくりどうぞ」

 店主はこうべを垂れて退室する。

「本当に『密室ですらない』可能性のほうが高いですね」

 イヅはため息を吐いて独り言のように漏らす。

「その根拠は?」

 そうですね、と息を吐くようにイヅは辺りを見回す。
 ライデの右手が左右にゆっくり振られる。

 部屋の広さは平均的なベッド6枚分。蔀窓が1箇所。壁付近に合計3本の燭台。クローゼットや便壺、ハンガーフックは無し。年季の入った椅子とテーブル。これは拵えが別々なので不用品を集めたものを流用しているのだろう。

 ドル氏が借りていたこの部屋で手の平ほどの大きさの血痕が床一面に落ちていて、荷物も血飛沫で汚れていたそうだ。
 この部屋に持ち込まれたドル氏の荷物は旅行用の鞄だけで、商品は露店とともにバザーに置き、金で雇った警備員に守らせていた。この部屋に持ち込まれた荷物は開封されていた……と、子爵が説明してくれる。
 更に、ドル氏に関連する荷物や商品はすべてルーフン公爵の配下が回収したので彼に関する所持品はすぐには見ることが出来ないと付け加えられた。

「……そうですか」

 2人の視線は床をどす黒く汚す血痕を向いていてた。

 イヅは蔀窓へ寄り、窓縁を凝視してから折り畳みナイフで刃を突き立てる。

「おい! 何をしているんだ、私がいても後で店主が怒るぞ」
「ドル氏が『裏切ったとされる根拠』です。それに疑問があります」
「?」

 ライデが怪訝な顔をしてランタンをかざして蔀窓の縁を見る。

「最初にこの部屋を調べた人は、こことここ、この2箇所のフックか何かの爪痕が気になったのでしょう」

 イヅが窓辺にしっかりと残る新しい瑕を引き抜いたナイフの先端で指す。

「ああ、そうだ。ここから縄梯子で降りて鈎爪を外した。そして縄を結わえていたであろう鈎爪を外した」
「それでも、それでは室内にもう一人いた事になります。ドル氏がこの窓から降りたとなると……ですよ」
「事件があったとされる日に…ドル氏の部屋に踏み込んだ際にはこの部屋には鍵がかかっていた。血痕があったことから両者かいずれかが負傷していたが……」

 ライデ・ジーロは眉をひそめたり顎をかいたりと悩む。

 捜査を命令されたルーフン公爵の配下はその辺りでドル氏に起きた不可解な行動、或いは不明瞭な思考のせいで難航しているらしいのがその顔から伺える。
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