♯006『文筆家は夜警の一人』(全3話/現在2話まで公開中)
【♯001「喋らぬ者とその者共」1/6】
目立たない影、小さく走る。
雑多な人混みの中を文字通りに多種多様な人種で塗り尽くされた表通りを走る。
往来の人々と度々ぶつかるが小さな影も相手も特に気にしない。
小さな影の主の残像であるかのように腰に巻いた布切れがはためく。
昼を少し過ぎたバザー。
国の内外の隊商が商工ギルドで販売権を買ってまで店を出しているのだ。ゆえに人混み。
人いきれの密度だけで酔いそうだ。
小さな影の主は、やがて目的の露店に来た。
靴底に急ブレーキをかけて、商品の山につんのめってしまいそうになる体勢を堪えて正す。
本の山。
小さな影の主……一般的成人男性よりも頭一半ほど背が低い少年は、山のように積まれた商品に対して最大の敬意を払うように垂れ下がる腰布で手を拭いて、並べられた『本』を手に取る。
この露天で売られているのは本。
それも『自分が住む国の言語で翻訳された』写本。
貿易で栄えるこの国の沿岸部には海外航路向けの港がある。
それゆえ珍しい物品が大量に輸入されてくる。寧ろ何が平凡なのかわからない。
勿論、輸入販売だけでなく、陸揚げされた商品を馬車に積んで近隣の国外へ輸送輸出することで大きな税収としている。
識字と四則演算を覚えた少年の生きがいは知識の収集だ。
あらゆる物を失くしても知識だけは失くならない。……ひいては奪われない。
幼少の頃より大切な物を簒奪されてきた少年は自分独りでも生きていくのに困らない財産と技能はなにか? と幼い思考を巡らせた結果、知識の収集を最適解だと判断した。
それは、あくまで、知識を集めるという事の発端だ。
今では、新しい知識に触れることを至上の歓びとしている。
知識に触れる機会である識字と四則演算を叩き込んでくれた『あの人』には忌々しいが感謝している。
菓子を前にした子どものように目を輝かせて、本の表紙や巻物に巻かれたそれの名前を見て垂涎の顔を隠そうともしない。
(うわー……どれもこれも高いなぁ)
興味や知的好奇心が擽られる題名ほど、値段は高い。
少年は『新しくなった出自』の特権を振りかざしてまで図書館へ行く気がしない。それは彼が最も嫌う人間の力を用いるということ他ならない。
腰のベルトに提げた布袋に入っている金額では一冊の本を買うだけで精一杯だ。
一冊でもいいから本がほしい。
国外で活躍する同郷人が翻訳してくれたのだ。自分の国の言語で本が読める機会はそうそう無い。
彼自身が自在に読み書きできるのは母国語のみ。
外国の言語はなんとか読めるものが幾つかと、なんとか発音できるものが幾つか。……つまり、達者な話者とはいかない。
何か一冊でもと目を皿のようにして並べられた本を見る。
上着のベストの胸ポケットに差していた葦のペンを取り出して先端を舐めてから荒い繊維の懐紙に本の名前や著者を次々に書きなぐる。
店の主であろう、立派な体躯で熊ヒゲの中年が少年を怪しみながら見ていたが、少年が字を識る者だと分かると直ぐに追い払った。
(……うーん。残念)
少年は中年店主の追い払う声を背にその露店を去る。
『字を識る未成年』で『貧しい身なり』…この2つが揃えば真っ当でない本を売る人間からすれば脅威でしか無い。
何処かの知識階層が放った偵察だと相場は決まっている。
金持ちの知識階層がその店で扱っている本が本物かどうかを確認するために『覚えの悪い書生』に扱っている本の表題を調べさせたのだと判断したのだ。
それで追い払ったとなると……この店で扱っている本や諸々の書類は母国語で書かれた『得体のしれないもの』だと見抜かれるのを恐れたのだ。
店主がもう少し賢ければ、少年が本を手に取る前に腰布で手を拭く所作を見れば、本に愛情を持っている、立派な知的階層だと判断できたのに。
これから良い取引ができる可能性が高い客を自ら遠ざけてしまった。
本を扱う店に冷やかしは来ない。
本を読める者は字に親しんだ生活をしている。
本を読めないものは本とは縁のない生活をしている。
だから、本を換金する盗人は居ても、本の価値を知る盗人は『普通は居ない』。
字の読み書きができても身なりが伴わないとそれだけで怪しまれてしまう。
こればかりは少年の自助努力ではどうにもならない。
少年は自分が何処かの家で飼われている貧乏書生だと思われたのなら仕方ないとすぐに諦めた。
(それにしても……)
彼は懐紙に書きなぐった先程の露店で扱っていた本の題名や著者を一瞥すると口元を緩めて再び目に輝きを取り戻した。
(ということは、『これ』の原本が有る可能性が高いな)
全くの偽書でもない限り、書き写しの間違いが有る写本でもない限り、今後の可能性に望みを託した。
バザーはまだ開かれたばかりだ。
さあ、これから違う店に行こう!
少年……イヅは本を扱う次の露店に大きな期待を抱いた。
イヅの仕事は『今晩』は何もない。
久しぶりに大枚を提げてバザーにやってきたのだ、すぐに自宅へ戻るのも面白みがない。
露店では売るだけではなく、見世物としての珍品名品が並べられた店も多い。
貴族階級や小金持ち以上の金持ちに自分の販路をアピールするためのデモンストレーションだ。
精密な蝋人形に軽く驚いたり、珍妙な名前の毒蛇の毒の成分に惹かれたり、ロープを駆使して人や動物の形に編み上げた調度品などなど。
いつものことながら一日では全てのバザーを見て周ることは出来ない。
このバザーは今月の末まで続くのだから、もしかしたら、明日には新しい本屋が軒を連ねるかもしれない。
この国は交易路で栄えた国なので心もとなかった地場産業の紙と布を広く発信することに成功した。
軍靴が響かなくなって久しい。
周辺諸国やその属国ではまだまだ干戈を交えている国があるが、名君の皇帝陛下のお陰で今は平和を享受している。
下賤な身分を自称しているイヅが知識欲を満たせるのも帝国の…ひいては皇帝陛下とその家臣が優秀だから他ならない。
(……と、言うことにしておこう)
イヅは心の中で覚えめでたい存在に礼を述べた。
「……?」
不意に振り返る。
辺りを見回す。
視界の端に先程からイヅの歩幅に合わせて並行して歩いたり、背後に一定の距離を置いて歩いたりする影が見える。
掌にじっとりと汗を掻き始めて咄嗟に生成りの腰布を握る。
民族衣装としての生成りの腰布。質は中程度。
国民のあらゆる階層が腰巻きをしている。
(異邦人……? さっきの本屋からツけてきているな。スリでも拐かしでもない……まさか! あの人の敵か!?)
この世で一番嫌う人間のとばっちりで命が危険に晒されるのはゴメンだとばかりに、足早にバザーの出入り口へと向かう。
人混みが多すぎる雑踏で素早く直線的に走るのは不可能だ。
(仕方ない!)
衣料品や日用品を扱う露店の隙間を折れて細い路地に飛び込む。
日が高い時間であっても賑わう大通りの路地裏は日常的に物乞いや行倒れが見られる場所だ。勿論、犯罪に遭遇する可能性が高いので路地裏はできることなら避けたかった。
犯罪者の吹き溜まりであり犯罪の温床でもある路地裏はイヅにとっては非常に相性が悪い場所だ。
彼自身がそこそこ整った顔立ちをしているので人身売買組織の末端に拐われそうになったことも有るし、身ぐるみを剥がされそうになったことも有るし、貞操を奪われそうにもなった。
何より……『副業で請け負っている仕事柄、顔覚えられい居る人間から命そのものを狙われる』ことも考えられる。
……考えられるだけで、今まで具体的に副業が理由で殺されそうになったことはまだない。
同僚が何人か路地裏で死体で発見された事が過去にあった。
そんな危険な場所に飛び込んででも追っ手を巻きたかった。
同郷人なら同じ文化と言語なので手八丁口八丁でなんとかなるだろうが、異邦人なら文化や言語の成り立ちが違うのでジェスチャーすら成立しない。
(ひ!)
イヅの喉がコヒュッと鳴る。
追手と思しき人物は大きな肩を揺すって迷うことなく路地裏へと入り込んできた。
ポケットには簡素な造りの折りたたみナイフが有るが、これは葦ペンを削る程度の切れ味しかなく中指より少し刃渡りが長い程度の日用品だ。
副業の同僚たちが腰に提げている立派な剣とは用途が違う。
かび臭く埃が舞う路地裏を走りながら、汗の浮いてきた右手で腰巻きの布の腹の辺りをギュッと握る。
背丈の小さなイヅの膂力では大柄な異邦人の男には勝てない。走りながら何度も振り返り男を観察した。
やがて路地裏の、道の真ん中で爪先に急ブレーキをかけて追手に振り返ると、素早く左足を半歩ひき、右半身で構える。両手は握り拳を作りそれぞれの腰の辺りに押し付けて、右肩を男に突き出すように向ける。
イヅの背中は冷たい汗でびっしょりと濡れている。少なくとも、絞れば汗が滝のように出るくらいに緊張していた。
顔がややひきつる。
異邦人の男。年齢は30代だろうか。南方の国から来たのか? 肌がやや赤黒い。
背丈はイヅよりも頭二つ以上は高い。左腰にはやや反った小剣。
その剣を抜くまでもなく、腕を掴まれただけで骨が折れそうな太い腕、太い指。
その男は何処で覚えたのか、かたことの帝国の第一言語で話しかけてきた。
「本屋、お前は、何を、見た。動物、の本を、見たか」
野太い声で、発せられた。
イヅは緊張が途切れて腑抜けた顔で長い息を吐き、崩れるように『構え』を解いた。
否定。攻撃。不快。緊張。……男はそれらを漂わせない容貌をしていた。
イヅには『それ』が解る。
イヅとしては『この場所まで』でなんとしても異邦人の男から逃げたかった。
異邦人の男が彼に対して敵対的とあるのなら。
緊張の面持ちであらためて異邦人の大男の顔を観察するとあらゆる敵意や否定的な緊張が見られなかった。
男の右手の指先がだらりと下がったままで、その上腕部の筋肉も緊張していない。左腰に佩いた小剣を抜く素振りが見えなかった。
安堵のために腰が抜けそうになるイヅのおおよそ男らしからぬ腰抜け加減な緊張の解き具合を見ても顔色を変えずに、その異邦人はかたことの帝国語でこう続けた。
「ナンポウドウブツキタン、みたか。本屋で、あの」
(ナンポウドウブツキタン……ああ、アレか)
緊張と恐怖から回復しつつある少年は両膝に両手をついて体を折る体勢で、なんとか顔をもたげて大男の言葉を聞いて理解した。
(【南方動物稀険譚】…さっきの怪しい本屋に並べてあったあの本のことか)
イヅは先程の露店の本屋で気になった本の表題を懐紙に次々と書いた。その中に確かに【南方動物稀譚】という名前の本が有った。
珍しい動植物の知識が収集できると思い、食指が動いた本だ。
本屋自体が怪しいので、てっきり偽物しか扱っていないと思っていたが、眼の前の大男の真剣な顔を見るからには全てが偽物と断じるのは早かったようだ。
「ああ、有りましたよ。本物か偽物かは分かりませんよ」
走りすぎて乾く喉から声を絞り出す。
聞き返されるのも億劫なので、少し頑張って、ゆっくりはっきりと発音した。
喉がカラカラで、今すぐにでも井戸でよく冷やした瓜に齧りつきたい。
「礼を尽くす、言う」
異邦人の男はかたことで言い捨てると踵を返して今来た道を歩いていく。
しばし、息を整えていたイヅも、自分が今、どれだけ危険な場所にいるのかを思い出すと、すぐに彼の後を追うように小走りに向かう。
途中で彼を追い越したが、彼は特に視界の端にもイヅを捉えていない顔で歩いていた。
あの場所…イヅが急ブレーキを踏んで異邦人と対峙しようと『構え』だけを見せた場所。
あの場所より先はたとえ副業の仲間と組んでいても、日中でも、鎧を着ていても、絶対に進みたくない場所だった。
その道の先は二股に分かれており、どちらへ向かっても犯罪組織の巣窟に繋がっている。
本業だけでは生活できないからと、軽い気持ちで初めた割と高給な副業。今から考えると副業が邪魔で歩けなくなった場所や時間帯が彼の生活に存在していた。
異邦人の男が偽物を買おうとどうしようと自分には関係ないと言い聞かせてイヅは表通りに出る。
折角外国から来てくれたのだから帝国のいい思い出だけを持って帰ってほしいところだが、この国の治安や意地の悪い商魂を事細かに言うのも問題だ。
そんな事をしたら警吏がすっ飛んできて反社会思想か反体制思想か信用毀損のかどでしょっぴかれてしまう。
(なるほど)
表通りに出て雑踏に戻ると、ふと気が付いた。
あの異邦人は本屋の客全てに声をかけていたわけではない。
字が読める子供に声をかけたがっていたのだ。
人間は心理的に自分より体躯が小さなヒトを『扱いやすい存在』だと勝手に認識する。
字が読める大人だと自然と体つきも立派なので道端での初対面で交渉に持って行きにくいと脳内で勝手に判断したのだ。
その理由を、雑踏を見て理解した。
あらゆる肌の色、あらゆる髪の色、あらゆる国の服、文法は正しくともイントネーションが一致した人間が少ない帝国の首都の一角。
自分も外国人なら識字がある大人にたどたどしく話しかけるよりも、意思の疎通が簡単そうに見える子供を選んで接触を試みるに違いない。
帝国。
我が栄光のズァルト帝国は自国民以外を排斥するには手遅れなほどに異民族が往来する巨大な国となっていた。
元は質が高いと言えない布と紙だけの国が、近隣諸国に対して貿易とその交易路として国土を税収で以て開放した結果、わずか300年で嘗て無いほどに繁栄の極みを見せていた。
定期的に町の広場や集会所にやってきて帝国の威光を喧伝してから下達する公示人の発表を信じるのなら、首都の住民だけで100万人を越える人間がひしめいている。
果たして、その中で王侯貴族以外に純血のズァルト人は何割りいるのか?
国籍や人種による純血思想は一部の過激思想家以外にはどうでもいい概念となっている。皇族でさえも血脈主義は捨てて生命力の強い『人間』を選ぶようになった。
人々は今日の営みを続けるだけで精一杯なのだ。
何百年も昔の戦乱の時代に生まれていればこう生きた、このようにして成功したと考えるのは、その時代の歴史を知り、知識を蓄えた人間だけが夢想できる戯言だ。
翌日。
イヅの朝は時として早く時として遅い。
今日は早い朝だった。
本業の代筆業が幾つか舞い込んだのと手書き新聞の定期便が貼り出される日だからだ。
代筆業とは字の読み書きができてない人のために手紙の執筆を代行したり、看板やチラシの宣伝文句を考えて草案草稿を書き起こす仕事だ。
変わったところでは戯曲作家や詩人が詠う内容を紙に書き出す仕事などもある。
帝国全土で見ても識字率が低いので公示人や旅芸人や行商人が話す情報は貴重な情報源だが、それらには噂が尾ひれ背びれのごとく生えてくる場合が多い。
思想や情報の統制を図るために帝国がわざと国の内外の情報を小出しにして、世論を誘導している。その一端を担うのが手書き新聞だ。
銀行や金融取引所に貼り出された手書き新聞を更に手書きして(大方の場合、雇い主の思惑を込めた記事に捏造されて)、次の手書き職人に渡す。
最後にはその手書き新聞は過疎地域や人口密度の薄い近郊と辺境の中間あたりまで伝わり、その集団の中でも字を読める者が広場の真ん中で公示人よろしく大声で読み上げる。
昨日は結局、購買欲が膨らんだだけで、懐が間に合わず、何も買わずに帰宅しただけの一日で、近所の住人の代筆を何本か済ませただけですぐに寝た。
昨夜は副業のシフトではなかったので存分に眠れた。
そして、今朝。
手書き新聞の模写を20枚書いて、手書き新聞を所望する、依頼人の自宅や商店に届けておしまい。
昼食前から代筆業を行う。
手書き新聞の模写は誰でも行える仕事ではなく、新聞社に手書き職人として登録した人物だけが行える職業だ。
無論、新聞社の意向で記事が捏造改竄される事もしばしば。
更に新聞社のスポンサーになっている商店が宣伝を『不自然なく』捩じ込んでほしいという依頼が多い。
寧ろ、新聞社は帝国より下達手段を承っている機関というより、スポンサーの依頼料と広告料が目当てでしれっと社会通念を無視した商売をしていることになる。
夕方前に早々に代筆業を看板にして早い夕食を取る。
飲食店専門の露店街で夕食を済ませるとすぐに帰宅し、神経が昂ぶったままの脳味噌を鎮めるためのハーブティーを飲んでベッドに潜り込む。
暫くは眠気も何もない苛つきに悩まされていたが、やがて腹が満たされたことによる満足感が湧いてきて知らぬ間に眠りに落ちる。
今夜は副業なので、意地でも早く寝る必要があった。
十分ではないが眠る事ができたはず。
代筆業の収入だけでは生活に困るので誰でも資格なしに始められる夜警団に入団していたが、イヅの持ち回りは夜回りや不審者の路上での職務質問ではなく、所属する夜警団の事務所代わりになっている街の集会所の一室で待機していることだ。
当初は見てくれが全く頼りにならないイヅを笑っていた夜警団のメンツも彼が識字と四則演算を使えると分かってから大事な戦力として扱ってくれた。
不審者や犯罪者を現行犯で捕えるのは難しいことではないが、身の上調書が作成できる人間がほとんど居なかったので不都合や不手際が多発していた。
その度に自分たちの活動に資金を援助してくれている貴族に代筆を願っていたのだ。
その貴族の子爵…街の治安をあずかる治安府務めの高官である子爵も夜中に呼ばれると機嫌が悪くなるので、イヅの存在には期待を大きくしていた。
それだけ文字の読み書きが出きる人間は貴重だったのだ。
「!」
(焦げ臭い。火事?!)
集会所の一室で眠気覚ましの濃い茶を飲んでいた時に窓の外から喉がいがらっぽくなる匂いを嗅いで、蔀窓を大きく開けて換気をした。
やがて街で火災が有ったことを報せる鐘が鳴る。
外に飛び出て辺りを見る。
(西からの風。強くない。この匂い……軽い刺激臭。拭き屋根? 空気は乾燥していない。小火が家事になったか?
拭き屋根? …屋根瓦と煉瓦の家が燃えているわけじゃない?! ……あの方向は備蓄倉庫の辺り!?)
路地を抜ける風に乗って不快な煙は濃厚になる。
火災を報せる鐘が鳴ったのだから消防団も向かうだろう。それに伴って警吏も殺到する。
「……」
集会所の前の広場から暗い夜道へと続くそれぞれの路地を見る。
(火事が起きるのは事件だとして……)
イヅの心の隅に嫌な針が突き刺さった。
バザーが開かれている期間中の火事は注意したほうがいいと昔から夜警団の間で流布されているからだ。
(火事を起こしてそのドサクサに窃盗…よくある話だ。すぐに収まる、ただの失火であってほしい)
目立たない影、小さく走る。
雑多な人混みの中を文字通りに多種多様な人種で塗り尽くされた表通りを走る。
往来の人々と度々ぶつかるが小さな影も相手も特に気にしない。
小さな影の主の残像であるかのように腰に巻いた布切れがはためく。
昼を少し過ぎたバザー。
国の内外の隊商が商工ギルドで販売権を買ってまで店を出しているのだ。ゆえに人混み。
人いきれの密度だけで酔いそうだ。
小さな影の主は、やがて目的の露店に来た。
靴底に急ブレーキをかけて、商品の山につんのめってしまいそうになる体勢を堪えて正す。
本の山。
小さな影の主……一般的成人男性よりも頭一半ほど背が低い少年は、山のように積まれた商品に対して最大の敬意を払うように垂れ下がる腰布で手を拭いて、並べられた『本』を手に取る。
この露天で売られているのは本。
それも『自分が住む国の言語で翻訳された』写本。
貿易で栄えるこの国の沿岸部には海外航路向けの港がある。
それゆえ珍しい物品が大量に輸入されてくる。寧ろ何が平凡なのかわからない。
勿論、輸入販売だけでなく、陸揚げされた商品を馬車に積んで近隣の国外へ輸送輸出することで大きな税収としている。
識字と四則演算を覚えた少年の生きがいは知識の収集だ。
あらゆる物を失くしても知識だけは失くならない。……ひいては奪われない。
幼少の頃より大切な物を簒奪されてきた少年は自分独りでも生きていくのに困らない財産と技能はなにか? と幼い思考を巡らせた結果、知識の収集を最適解だと判断した。
それは、あくまで、知識を集めるという事の発端だ。
今では、新しい知識に触れることを至上の歓びとしている。
知識に触れる機会である識字と四則演算を叩き込んでくれた『あの人』には忌々しいが感謝している。
菓子を前にした子どものように目を輝かせて、本の表紙や巻物に巻かれたそれの名前を見て垂涎の顔を隠そうともしない。
(うわー……どれもこれも高いなぁ)
興味や知的好奇心が擽られる題名ほど、値段は高い。
少年は『新しくなった出自』の特権を振りかざしてまで図書館へ行く気がしない。それは彼が最も嫌う人間の力を用いるということ他ならない。
腰のベルトに提げた布袋に入っている金額では一冊の本を買うだけで精一杯だ。
一冊でもいいから本がほしい。
国外で活躍する同郷人が翻訳してくれたのだ。自分の国の言語で本が読める機会はそうそう無い。
彼自身が自在に読み書きできるのは母国語のみ。
外国の言語はなんとか読めるものが幾つかと、なんとか発音できるものが幾つか。……つまり、達者な話者とはいかない。
何か一冊でもと目を皿のようにして並べられた本を見る。
上着のベストの胸ポケットに差していた葦のペンを取り出して先端を舐めてから荒い繊維の懐紙に本の名前や著者を次々に書きなぐる。
店の主であろう、立派な体躯で熊ヒゲの中年が少年を怪しみながら見ていたが、少年が字を識る者だと分かると直ぐに追い払った。
(……うーん。残念)
少年は中年店主の追い払う声を背にその露店を去る。
『字を識る未成年』で『貧しい身なり』…この2つが揃えば真っ当でない本を売る人間からすれば脅威でしか無い。
何処かの知識階層が放った偵察だと相場は決まっている。
金持ちの知識階層がその店で扱っている本が本物かどうかを確認するために『覚えの悪い書生』に扱っている本の表題を調べさせたのだと判断したのだ。
それで追い払ったとなると……この店で扱っている本や諸々の書類は母国語で書かれた『得体のしれないもの』だと見抜かれるのを恐れたのだ。
店主がもう少し賢ければ、少年が本を手に取る前に腰布で手を拭く所作を見れば、本に愛情を持っている、立派な知的階層だと判断できたのに。
これから良い取引ができる可能性が高い客を自ら遠ざけてしまった。
本を扱う店に冷やかしは来ない。
本を読める者は字に親しんだ生活をしている。
本を読めないものは本とは縁のない生活をしている。
だから、本を換金する盗人は居ても、本の価値を知る盗人は『普通は居ない』。
字の読み書きができても身なりが伴わないとそれだけで怪しまれてしまう。
こればかりは少年の自助努力ではどうにもならない。
少年は自分が何処かの家で飼われている貧乏書生だと思われたのなら仕方ないとすぐに諦めた。
(それにしても……)
彼は懐紙に書きなぐった先程の露店で扱っていた本の題名や著者を一瞥すると口元を緩めて再び目に輝きを取り戻した。
(ということは、『これ』の原本が有る可能性が高いな)
全くの偽書でもない限り、書き写しの間違いが有る写本でもない限り、今後の可能性に望みを託した。
バザーはまだ開かれたばかりだ。
さあ、これから違う店に行こう!
少年……イヅは本を扱う次の露店に大きな期待を抱いた。
イヅの仕事は『今晩』は何もない。
久しぶりに大枚を提げてバザーにやってきたのだ、すぐに自宅へ戻るのも面白みがない。
露店では売るだけではなく、見世物としての珍品名品が並べられた店も多い。
貴族階級や小金持ち以上の金持ちに自分の販路をアピールするためのデモンストレーションだ。
精密な蝋人形に軽く驚いたり、珍妙な名前の毒蛇の毒の成分に惹かれたり、ロープを駆使して人や動物の形に編み上げた調度品などなど。
いつものことながら一日では全てのバザーを見て周ることは出来ない。
このバザーは今月の末まで続くのだから、もしかしたら、明日には新しい本屋が軒を連ねるかもしれない。
この国は交易路で栄えた国なので心もとなかった地場産業の紙と布を広く発信することに成功した。
軍靴が響かなくなって久しい。
周辺諸国やその属国ではまだまだ干戈を交えている国があるが、名君の皇帝陛下のお陰で今は平和を享受している。
下賤な身分を自称しているイヅが知識欲を満たせるのも帝国の…ひいては皇帝陛下とその家臣が優秀だから他ならない。
(……と、言うことにしておこう)
イヅは心の中で覚えめでたい存在に礼を述べた。
「……?」
不意に振り返る。
辺りを見回す。
視界の端に先程からイヅの歩幅に合わせて並行して歩いたり、背後に一定の距離を置いて歩いたりする影が見える。
掌にじっとりと汗を掻き始めて咄嗟に生成りの腰布を握る。
民族衣装としての生成りの腰布。質は中程度。
国民のあらゆる階層が腰巻きをしている。
(異邦人……? さっきの本屋からツけてきているな。スリでも拐かしでもない……まさか! あの人の敵か!?)
この世で一番嫌う人間のとばっちりで命が危険に晒されるのはゴメンだとばかりに、足早にバザーの出入り口へと向かう。
人混みが多すぎる雑踏で素早く直線的に走るのは不可能だ。
(仕方ない!)
衣料品や日用品を扱う露店の隙間を折れて細い路地に飛び込む。
日が高い時間であっても賑わう大通りの路地裏は日常的に物乞いや行倒れが見られる場所だ。勿論、犯罪に遭遇する可能性が高いので路地裏はできることなら避けたかった。
犯罪者の吹き溜まりであり犯罪の温床でもある路地裏はイヅにとっては非常に相性が悪い場所だ。
彼自身がそこそこ整った顔立ちをしているので人身売買組織の末端に拐われそうになったことも有るし、身ぐるみを剥がされそうになったことも有るし、貞操を奪われそうにもなった。
何より……『副業で請け負っている仕事柄、顔覚えられい居る人間から命そのものを狙われる』ことも考えられる。
……考えられるだけで、今まで具体的に副業が理由で殺されそうになったことはまだない。
同僚が何人か路地裏で死体で発見された事が過去にあった。
そんな危険な場所に飛び込んででも追っ手を巻きたかった。
同郷人なら同じ文化と言語なので手八丁口八丁でなんとかなるだろうが、異邦人なら文化や言語の成り立ちが違うのでジェスチャーすら成立しない。
(ひ!)
イヅの喉がコヒュッと鳴る。
追手と思しき人物は大きな肩を揺すって迷うことなく路地裏へと入り込んできた。
ポケットには簡素な造りの折りたたみナイフが有るが、これは葦ペンを削る程度の切れ味しかなく中指より少し刃渡りが長い程度の日用品だ。
副業の同僚たちが腰に提げている立派な剣とは用途が違う。
かび臭く埃が舞う路地裏を走りながら、汗の浮いてきた右手で腰巻きの布の腹の辺りをギュッと握る。
背丈の小さなイヅの膂力では大柄な異邦人の男には勝てない。走りながら何度も振り返り男を観察した。
やがて路地裏の、道の真ん中で爪先に急ブレーキをかけて追手に振り返ると、素早く左足を半歩ひき、右半身で構える。両手は握り拳を作りそれぞれの腰の辺りに押し付けて、右肩を男に突き出すように向ける。
イヅの背中は冷たい汗でびっしょりと濡れている。少なくとも、絞れば汗が滝のように出るくらいに緊張していた。
顔がややひきつる。
異邦人の男。年齢は30代だろうか。南方の国から来たのか? 肌がやや赤黒い。
背丈はイヅよりも頭二つ以上は高い。左腰にはやや反った小剣。
その剣を抜くまでもなく、腕を掴まれただけで骨が折れそうな太い腕、太い指。
その男は何処で覚えたのか、かたことの帝国の第一言語で話しかけてきた。
「本屋、お前は、何を、見た。動物、の本を、見たか」
野太い声で、発せられた。
イヅは緊張が途切れて腑抜けた顔で長い息を吐き、崩れるように『構え』を解いた。
否定。攻撃。不快。緊張。……男はそれらを漂わせない容貌をしていた。
イヅには『それ』が解る。
イヅとしては『この場所まで』でなんとしても異邦人の男から逃げたかった。
異邦人の男が彼に対して敵対的とあるのなら。
緊張の面持ちであらためて異邦人の大男の顔を観察するとあらゆる敵意や否定的な緊張が見られなかった。
男の右手の指先がだらりと下がったままで、その上腕部の筋肉も緊張していない。左腰に佩いた小剣を抜く素振りが見えなかった。
安堵のために腰が抜けそうになるイヅのおおよそ男らしからぬ腰抜け加減な緊張の解き具合を見ても顔色を変えずに、その異邦人はかたことの帝国語でこう続けた。
「ナンポウドウブツキタン、みたか。本屋で、あの」
(ナンポウドウブツキタン……ああ、アレか)
緊張と恐怖から回復しつつある少年は両膝に両手をついて体を折る体勢で、なんとか顔をもたげて大男の言葉を聞いて理解した。
(【南方動物稀険譚】…さっきの怪しい本屋に並べてあったあの本のことか)
イヅは先程の露店の本屋で気になった本の表題を懐紙に次々と書いた。その中に確かに【南方動物稀譚】という名前の本が有った。
珍しい動植物の知識が収集できると思い、食指が動いた本だ。
本屋自体が怪しいので、てっきり偽物しか扱っていないと思っていたが、眼の前の大男の真剣な顔を見るからには全てが偽物と断じるのは早かったようだ。
「ああ、有りましたよ。本物か偽物かは分かりませんよ」
走りすぎて乾く喉から声を絞り出す。
聞き返されるのも億劫なので、少し頑張って、ゆっくりはっきりと発音した。
喉がカラカラで、今すぐにでも井戸でよく冷やした瓜に齧りつきたい。
「礼を尽くす、言う」
異邦人の男はかたことで言い捨てると踵を返して今来た道を歩いていく。
しばし、息を整えていたイヅも、自分が今、どれだけ危険な場所にいるのかを思い出すと、すぐに彼の後を追うように小走りに向かう。
途中で彼を追い越したが、彼は特に視界の端にもイヅを捉えていない顔で歩いていた。
あの場所…イヅが急ブレーキを踏んで異邦人と対峙しようと『構え』だけを見せた場所。
あの場所より先はたとえ副業の仲間と組んでいても、日中でも、鎧を着ていても、絶対に進みたくない場所だった。
その道の先は二股に分かれており、どちらへ向かっても犯罪組織の巣窟に繋がっている。
本業だけでは生活できないからと、軽い気持ちで初めた割と高給な副業。今から考えると副業が邪魔で歩けなくなった場所や時間帯が彼の生活に存在していた。
異邦人の男が偽物を買おうとどうしようと自分には関係ないと言い聞かせてイヅは表通りに出る。
折角外国から来てくれたのだから帝国のいい思い出だけを持って帰ってほしいところだが、この国の治安や意地の悪い商魂を事細かに言うのも問題だ。
そんな事をしたら警吏がすっ飛んできて反社会思想か反体制思想か信用毀損のかどでしょっぴかれてしまう。
(なるほど)
表通りに出て雑踏に戻ると、ふと気が付いた。
あの異邦人は本屋の客全てに声をかけていたわけではない。
字が読める子供に声をかけたがっていたのだ。
人間は心理的に自分より体躯が小さなヒトを『扱いやすい存在』だと勝手に認識する。
字が読める大人だと自然と体つきも立派なので道端での初対面で交渉に持って行きにくいと脳内で勝手に判断したのだ。
その理由を、雑踏を見て理解した。
あらゆる肌の色、あらゆる髪の色、あらゆる国の服、文法は正しくともイントネーションが一致した人間が少ない帝国の首都の一角。
自分も外国人なら識字がある大人にたどたどしく話しかけるよりも、意思の疎通が簡単そうに見える子供を選んで接触を試みるに違いない。
帝国。
我が栄光のズァルト帝国は自国民以外を排斥するには手遅れなほどに異民族が往来する巨大な国となっていた。
元は質が高いと言えない布と紙だけの国が、近隣諸国に対して貿易とその交易路として国土を税収で以て開放した結果、わずか300年で嘗て無いほどに繁栄の極みを見せていた。
定期的に町の広場や集会所にやってきて帝国の威光を喧伝してから下達する公示人の発表を信じるのなら、首都の住民だけで100万人を越える人間がひしめいている。
果たして、その中で王侯貴族以外に純血のズァルト人は何割りいるのか?
国籍や人種による純血思想は一部の過激思想家以外にはどうでもいい概念となっている。皇族でさえも血脈主義は捨てて生命力の強い『人間』を選ぶようになった。
人々は今日の営みを続けるだけで精一杯なのだ。
何百年も昔の戦乱の時代に生まれていればこう生きた、このようにして成功したと考えるのは、その時代の歴史を知り、知識を蓄えた人間だけが夢想できる戯言だ。
翌日。
イヅの朝は時として早く時として遅い。
今日は早い朝だった。
本業の代筆業が幾つか舞い込んだのと手書き新聞の定期便が貼り出される日だからだ。
代筆業とは字の読み書きができてない人のために手紙の執筆を代行したり、看板やチラシの宣伝文句を考えて草案草稿を書き起こす仕事だ。
変わったところでは戯曲作家や詩人が詠う内容を紙に書き出す仕事などもある。
帝国全土で見ても識字率が低いので公示人や旅芸人や行商人が話す情報は貴重な情報源だが、それらには噂が尾ひれ背びれのごとく生えてくる場合が多い。
思想や情報の統制を図るために帝国がわざと国の内外の情報を小出しにして、世論を誘導している。その一端を担うのが手書き新聞だ。
銀行や金融取引所に貼り出された手書き新聞を更に手書きして(大方の場合、雇い主の思惑を込めた記事に捏造されて)、次の手書き職人に渡す。
最後にはその手書き新聞は過疎地域や人口密度の薄い近郊と辺境の中間あたりまで伝わり、その集団の中でも字を読める者が広場の真ん中で公示人よろしく大声で読み上げる。
昨日は結局、購買欲が膨らんだだけで、懐が間に合わず、何も買わずに帰宅しただけの一日で、近所の住人の代筆を何本か済ませただけですぐに寝た。
昨夜は副業のシフトではなかったので存分に眠れた。
そして、今朝。
手書き新聞の模写を20枚書いて、手書き新聞を所望する、依頼人の自宅や商店に届けておしまい。
昼食前から代筆業を行う。
手書き新聞の模写は誰でも行える仕事ではなく、新聞社に手書き職人として登録した人物だけが行える職業だ。
無論、新聞社の意向で記事が捏造改竄される事もしばしば。
更に新聞社のスポンサーになっている商店が宣伝を『不自然なく』捩じ込んでほしいという依頼が多い。
寧ろ、新聞社は帝国より下達手段を承っている機関というより、スポンサーの依頼料と広告料が目当てでしれっと社会通念を無視した商売をしていることになる。
夕方前に早々に代筆業を看板にして早い夕食を取る。
飲食店専門の露店街で夕食を済ませるとすぐに帰宅し、神経が昂ぶったままの脳味噌を鎮めるためのハーブティーを飲んでベッドに潜り込む。
暫くは眠気も何もない苛つきに悩まされていたが、やがて腹が満たされたことによる満足感が湧いてきて知らぬ間に眠りに落ちる。
今夜は副業なので、意地でも早く寝る必要があった。
十分ではないが眠る事ができたはず。
代筆業の収入だけでは生活に困るので誰でも資格なしに始められる夜警団に入団していたが、イヅの持ち回りは夜回りや不審者の路上での職務質問ではなく、所属する夜警団の事務所代わりになっている街の集会所の一室で待機していることだ。
当初は見てくれが全く頼りにならないイヅを笑っていた夜警団のメンツも彼が識字と四則演算を使えると分かってから大事な戦力として扱ってくれた。
不審者や犯罪者を現行犯で捕えるのは難しいことではないが、身の上調書が作成できる人間がほとんど居なかったので不都合や不手際が多発していた。
その度に自分たちの活動に資金を援助してくれている貴族に代筆を願っていたのだ。
その貴族の子爵…街の治安をあずかる治安府務めの高官である子爵も夜中に呼ばれると機嫌が悪くなるので、イヅの存在には期待を大きくしていた。
それだけ文字の読み書きが出きる人間は貴重だったのだ。
「!」
(焦げ臭い。火事?!)
集会所の一室で眠気覚ましの濃い茶を飲んでいた時に窓の外から喉がいがらっぽくなる匂いを嗅いで、蔀窓を大きく開けて換気をした。
やがて街で火災が有ったことを報せる鐘が鳴る。
外に飛び出て辺りを見る。
(西からの風。強くない。この匂い……軽い刺激臭。拭き屋根? 空気は乾燥していない。小火が家事になったか?
拭き屋根? …屋根瓦と煉瓦の家が燃えているわけじゃない?! ……あの方向は備蓄倉庫の辺り!?)
路地を抜ける風に乗って不快な煙は濃厚になる。
火災を報せる鐘が鳴ったのだから消防団も向かうだろう。それに伴って警吏も殺到する。
「……」
集会所の前の広場から暗い夜道へと続くそれぞれの路地を見る。
(火事が起きるのは事件だとして……)
イヅの心の隅に嫌な針が突き刺さった。
バザーが開かれている期間中の火事は注意したほうがいいと昔から夜警団の間で流布されているからだ。
(火事を起こしてそのドサクサに窃盗…よくある話だ。すぐに収まる、ただの失火であってほしい)
