♯005『歪んだ弾頭』(2025.12.7)
涼子の声が、廃工場に響き渡った。遮蔽の陰に身を滑り込ませた男たちが互いの顔を見合わせて怪訝に首を捻る。
「何言ってんだ!? このバカ女」
左手側の小型リボルバーの男が怒鳴る。怒鳴りながらリボルバーを発砲。弾頭は涼子の脇を逸れて背後の壁に弾痕を拵える。
部屋の出入り口付近に仁王立ちのままの涼子。
涼子の左右斜め前方の陰に潜む男たち。
涼子の八m前方付近の床では神崎に酷似した男が大の字に倒れている。まだ息は有るらしい。
両脇の遮蔽に隠れる男たちは全く連携のなっていない銃撃を浴びせるが、元から連携という概念を持ち合わせていないのか、銃弾はあっという間に撃ち尽くし、瞬間的に沈黙する。……ド素人の涼子でも分かった。参考に見ていた動画サイトでの解説であった、再装填の隙が大きいとはこのことだったのかと。
職業的な反射で即座に反応した彼らは護身用の拳銃を抜き、撃ったはいいが、いわゆる鉄砲玉や荒事師と言われるようなハジキの達人ではなかった。再装填が完了次第、涼子に向かって構える。
然し、その頃には、涼子は――左上腕部を浅く被弾していたのに――その場から動かず、右手側の遮蔽に隠れる小型自動拳銃の男の影を狙った。……光源が乏しいと伸びる影なのか、本体の影なのか判断に困る。
引き金を引き絞る。
ブローニング自動拳銃がそうなのか、自動拳銃が全てそうなのかは分からないが、引き金はやや重く感じ、撃発するまでやや長く感じた。そういえばこの拳銃には撃鉄という部品が無い。シンプルでスマートすぎるデザインで衣服の何処にも引っかからないようにデザインされたのだろうか?
何処か乖離した思考。三挺の拳銃の銃弾と銃声の洗礼を受けながらもどこか遠くの出来事のように感じている涼子。
自分の把握する日常から遠く離れすぎた現実の為に、処理能力が追い付いていない。その結果として、乖離を起こし、自分の体を幽体離脱して見下ろしているような感覚を覚えていた。
なので、右手側の男の影の右頸動脈から血飛沫が噴出して、喚きながら男の影がその場に崩れ落ちても、自分が撃ったタマが一人の人間に致命的な負傷を負わせたとは全く認識していなかった。……自分も銃弾で腕を掠ったが死んでいない。頸を削られても大したことは無いだろう。
その男がスッと沈み、沈黙したのを確認すると、その場から動かず、ブローニング自動拳銃を両手で構えたまま、すうっと銃口を左側へと流れるように走らせて、『神崎をどこかへ隠したに違いない男たち』に向かって銃口を向ける。
「!」
――――?
――――『殴られた?』
不意に腹部に衝撃。
全身に小さな衝撃が走り、鳩尾の右下辺りにじんわりと熱い物が広がる。
「ああ。撃たれたのね……」
表情が消えたままの涼子は自分が被弾したのにもかかわらず、その出来事が遠い国のニュースを見るような顔で弾痕からこんこんと湧き出る赤い色を見ながら呟いた。
乖離、アドレナリン、認知機能の低下、状況把握の放棄。
様々な要因が重なり、過剰に分泌された伝達物質が涼子の全身を支配している今、連中のリボルバーや小型自動拳銃程度のエネルギーでは彼女を一撃で黙らせることは難しかった。
「撃て撃て!」と、男の一人が吠えた。
涼子は迷わなかった。彼女は、腹部の負傷をアンヘドニアのような目で一瞥しただけで、次の瞬間には体幹を低くし、右手斜め前方に向かって走り出していた。……「ここに来て、今までに何発撃ったのか?」というカウントなど今の彼女の脳内にはない。拳銃には装弾数が有り、再装填が必要であるという概念を忘れているような顔だった。
乾いた発射音が、涼子の耳朶を激しく打つ。
ブローニングM1910の小さな銃声は、左手側のコンクリの柱を遮蔽とする男たちの間に命中し、壁にめり込んで塵埃をまき散らした。
――――神崎は何処?
男たちはさらに左右に分かれた。
右手側にリボルバーの男。左手側に小型自動拳銃の男。
彼らはどうしてここに留まるのか? 自分は神崎にしか用が無い。早く何処かへ行って欲しい。邪魔だ。
舌打ちする涼子。
ハエを払うように放った一発は、小型自動拳銃の男の左脇腹に命中した。彼は呻き声を挙げ、持っていた銃を落として、左腋腹を押さえながら、力なく膝をつき倒れる。即死するような負傷ではない。銃声よりもその口から溢れる罵詈雑言の方が大きく聞こえた。
狭い空間に銃声が伸び、右手側の、更に離れた位置にあるコンクリの陰に潜んでいた男は何発も、やたらと耳障りな銃声を叩きつけながら、後退していく。
涼子はその男には特に興味はなかったので、その男がこの部屋の出入り口――涼子が吶喊してきた出入口――から姿を消しても、追う真似はしなかった。彼は知らない人間だ。神崎ではない。
冷静に判断できるのに、どこか熱に中てられたような遊離感がする。
今、彼女は、自分で自分をメタ認知的に捉えて観察する能力を完全に喪っている。……その例が、『ブローニング自動拳銃に何発の弾丸が残っているのか?』という疑問を抱かない点だ。
だから彼女は自分の腹部に小さな弾痕が開いているのにも関わらずに、アドレナリンが痛覚を麻痺させているのを幸いに、被弾して地面に仰向けに寝転がったまま喚きたてる男の傍まで来ると、テレビのスイッチを押して消すように、銃口をその男の顔に向けて表情の無い顔で引き金を引いた。
二回引いた。もっと引き金を引いて、『もっと静かにしたかった』が、何故か弾が出なかった。そして凍り付いたようにブローニング自動拳銃の引き金はびくともしなくなった。
「?」
――――なんだろう?
涼子は右手に視線を落とす。その視線の向こうには額に小さな孔が開いた男の凄惨な死に顔が有ったが、どこにでもある風景のように無関心だった。関心が有るのは動かなくなったブローニング自動拳銃。
作動不良の中でも排莢不良と呼ばれる類の不調をきたしたらしい。
曾祖父が軍隊で使っていた骨董品の拳銃と100年以上前に作られたと思われる実包。それらを機械油と錆落とし液で磨いただけで動画サイト説明していたような、『分解して清掃』という真似事すらしていない。少し前にこの拳銃を手に入れた時に夜の海に向かって、二発発砲して、二発とも発砲できたので何も問題に思わなかった。
沈黙したままのブローニングをどうした物かと考えながら、辺りを見回す。
相変わらず光源に乏しい空間。自分たちが舞い上げた塵埃に黴臭さが混じる。窓から差し込む心許ない光源が最初に視界から排除した、神崎に酷似した男が目に入る。
相変わらず、大の字で寝転がったまま怠惰に天井をあおいでいるようだった。人の気も知らないでいい気なものだ。こいつを脅して神崎の居場所を聞こう。
涼子は腹部に開いた小さな弾痕から走る激痛が段々と強くなってきているのに気にも止めていない。遊離してしまった彼女自身は、彼女自身の世界の主が、彼女ではなくなったようだ。
自分が左腕上腕部と腹部を銃弾で負傷した要救護者である自覚がない。
「ああ、そう言えば」
――――今……何発撃ったっけ?
自分が握る拳銃にはあと何発の実包が詰まっているのか今頃になってようやく思い出した。『てっきり百発くらいタマが詰まっているかのような心強さを勝手に抱いていた』。
立ち尽くしていても何も始まらないので、爪先を神崎に酷似した男が倒れる場所へと向けた。
歩きながら、空薬莢という物を噛みこんだ孔――排莢孔――を見て眉の端を落とす。
引き金を引いても何も動かない。もう使えないのか? 修理が必要なのか? 拳銃とはこういうものなのか?
あまり困っていなさそうな困り顔で、涼子は弾倉を引き抜いた。何もなくとも残弾三発を装填しなければ。
ジャケットにむき出しのまま放り込んでいた三十二口径の実包を、斜め上方から押し込むように力任せに装弾していく。装弾するたびに金属の弾倉が軋んだ音を立てる。それは、もう自分は働けないとでも言わんばかりの泣き言のように聞こえた。
弾倉への装弾には慣れている。少なくとも発砲よりは慣れている。
ブローニング自動拳銃を手に入れた時に、真っ先に行ったのが、弾倉を抜いて実包を抜き、再び実包を装弾することだった。涼子とて、白痴ではない。銃は実包があってこその代物だと理解している。銃を発見した当時は十二発もあったが今はたったの三発。
不思議と心細さは感じなかった。
初めての鉄火場で、初めて人を撃ち、初めて本懐を遂げた満足感と多幸感が彼女のドーパミンが自己肯定感の増強と自己効力感の強化に貢献していた。
自分は何でもできる。偉大な存在である。
何者も止められない。何者でも倒す事ができる。
残弾の全てを装弾した弾倉を銃把の底部から押し込んで、弾倉受けのボタンを指で戻す。この部分にはバネが仕込まれているらしいが、手入れされていない百年以上前の骨董品ゆえに、機械油を差しても機能することは無く、指で弾倉受けを押したり戻したりしなければ、弾倉が抜け落ちてしまう。
弾倉を差し込んでから無意識にスライドを力強く引く。
「あ……」
思わず小さな声が出た。
排莢孔で斜めに噛みこんでいた空薬莢が小さな甲高い音を立てて掻き出されて床に転がった。
「なーんだ……」
――――最初からこうすればよかったんじゃない。
涼子は相棒に関しての知識を自力で拾った事で、更に賢くなったと錯覚した。人間は自力で成し遂げた事を過大評価する傾向にある。今の彼女は様々な幸運に助けられているだけの小さな存在であるのにもかかわらず、全て自力で為した優れた人間であるという誇大性を抱いているので、何を行っても、解釈しても、知覚しても、「それは私の実力だから」と自分を誇大化し、自分以外を矮小化している。……排莢不良を解消できたのは自分が天才だから。
それ以外の説明は彼女には不要だった。否、彼女はそれ以外の説明を拒否し否定し、3Fの段階――フリーズ(膠着)、フライト(逃走、誤魔化し、すり替え)、ファイト(反撃、駁撃、詭弁の展開)――を踏んで、発言者を攻撃するだろう。
神崎に酷似した人間は大の字になって怠惰を貪っていたわけではなかった。
彼は既にこの世に無く、抜け殻だけが晒された状態で冷たくなりつつあった。……直接の死因は後頭部に大きく広がる血液から見て、仰向けに倒れた時にできた後頭部の脳挫傷。その原因を作ったのは喉仏に開いた小さな孔。弾痕。三十二口径が至近距離から直撃したものだ。
涼子は神崎に似た人物の懐を漁り、免許証や財布、スマートフォンを集めて中身を確認する。スマートフォンはロックがかかっていたのでどうしようもないが、免許証と財布の中身から、この人物が神崎徹本人で間違いないと証明された。
神崎のそっくりさんではなかった。
とうに本懐を遂げていた。
無駄な銃弾を使った。
無駄な負傷をした。
肩から力が抜けて、急激に腹部の小さな銃創が疼くように痛みだす。
爪先が僅かに重い。寒気を伴う倦怠感。風邪を引いたかのような小癪な不快感。……心身に起きている事態と、腹部の負傷が一致しないほどの観察眼を失っている。明らかに腹部の小さな銃創が原因で血液を喪い、腹膜の力が抜けているのにアドレナリンの残余が彼女を痛みから今まで守っていたのだ。アドレナリンの魔法が解けようとしていた。
彼女が腹部に受けたのはコルトの六連発の懐中自動拳銃から発せられた二十五口径フルメタルジャケット。
嘗ては野良犬や酔っぱらいを追い払うのに使われていた殺傷力が低い銃弾。
バイタルゾーンに至近距離から一発まともに受けたとしても致死に至る可能性が低いとされている。……だが、負傷を放置して適切な手当てをしなければ失血死の可能性は高い。ましてや、腹部だ。銃弾も貫通していない。盲管となった銃弾ほど恐ろしい物はない。豆粒のような小さな弾頭は確実に彼女の命を削っている。
涼子は既に息絶えた神崎の、予想通りに酷い死に顔を見下ろしながら、彼の死体のそばに立つ。
ゆらり、と、右手のブローニング自動拳銃を心臓も脳波も停止した彼の顔に向ける。
引き金の指に力を籠める。
「女ぁ!」
この場にそぐわない叫び声。
少し前に右頸部の頸動脈にブローニングのタマが掠って噴血して倒れて男が、小さく平べったいコルト25オートを右手一杯に伸ばしてこちらに銃口を向けて、未だ流血が止まらぬ頸部の負傷箇所を左掌で押さえている。
その男は、警護要員と思しき男は、何事か喚きながら小さな拳銃を乱射する。
実に小賢しい乱射。耳障りなだけで掠りもしない。十m以上離れているが、その拳銃でその距離の意味が分かっていない人間の発砲だった。或いは、それをかなぐり捨ててでも自分を負傷させた女に一矢報いたいために命と引き換えに立ち上がって乱射を浴びせているのかもしれない。
蚊が飛んでいたから殺虫剤をまいた。そんな仕草でブローニングの銃口を向けて無造作に引き金を引いた。喚き散らす声が消えるのと、コルトの豆鉄砲が六発撃ち、沈黙するのと、男の鳩尾に血飛沫の花が咲くのはほぼ同時だった。
無駄なタマを撃ってしまった。
これでは今から涼子が為そうとしている事が不完全燃焼で終わってしまう。
涼子自身はコルトの懐中拳銃の男の命など、全く意に介していないが……。
今の今まで、彼女の発砲は悉く命中し、相手に脱落するに足る負傷を負わせている。
それだけでも彼女を特筆すべき存在だとして評価するに値するが、涼子自身が、「自動拳銃とは撃てば負傷の具合は別として当たる物だ」という観念でいるので、自分の拳銃の腕前が素人には有り得ないラッキーパンチの連続であることに気が付いていない。それもまた、彼女を増長させる一因だった。
今の彼女は、世界に愛されている。
このどうしようもない、変動性、不確実性、複雑性、曖昧性の世界で彼女は一番世界に愛されていた。スピリチュアルな何かが憑りついたと解釈されても仕方がないほどに彼女は幸運を享受していた。そして、幸運を幸運だと認識できないほどの狭い世界に存在する認知能力の持ち主だった。
「さて」
懐中拳銃の男が本当に沈黙したのを視認すると、おどけるように肩をすくめた涼子は気を改めて、ブローニングの銃口を再び、ゆっくり走らせて神崎の顔に向けた。
残弾二発。
出来るものなら残弾どころか当初の十発全てを神崎の顔面に叩き込みたかった。
無い物は仕方がない。二発で我慢しよう。
待っていた、この時。この時の為に今まで生きてきた。逃亡生活を続けて一か月ほどしか経過していない。感覚的には十年以上追跡していた気分だ。
乾いた唇を舌で湿らせて、心の中でサヨナラと言い。呟くようにクソ野郎と罵った。
銃声。
軽い銃声。そして反動。
神崎の額に小さな孔がぽつんと開く。
脳内の急上昇した圧力で、小さな穴から内部の組織がはみ出て、後頭部の血液に小さな波紋が広がった。
続けて引き金を引く。
「?」
――――あれ?
引き金を引いたのに、銃声がしない。反動を感じない。撃針とか言う部分が薬莢の雷管という部分を叩いた音は確かに聞いた。
「……また?」
装弾数は間違えていない。空薬莢は噛んでいない。引き金はちゃんと引けた。
なのに撃発という作用が発生しない。
「もー、これだから骨董品はー」
涼子はうんともすんとも言わないブローニングの銃口を除いた。薄暗い空間なので銃口の向こうがどうなっているのか全く見えない。
左目を閉じて右目を大きく見開き、銃口を覗く。この奥に何か詰まっているのだろうか?
次の瞬間。
銃声。
彼女が引き金を引いたのでない。
遅延発火が発生したのだ。
遅延発火とは雷管の打撃不良や雷管の発火不良などで、即座に発火せず、数秒後に引火して一気に爆発する『事故』だ。
涼子の右目を貫通したフルメタルジャケットの三十二口径の弾頭は彼女の脳内を直進して脳幹を破壊して更に突き進み、後頭部の薄い頭蓋骨を叩き割り、赤い糸を引いて貫通した。
涼子は自身に何が起きたのかも全く理解しないまま絶命した。
首を不自然に後方へ直角に折って、膝からその場に糸を切った人形のように崩れ落ちた。
仰向けに倒れ、何が起きたのか全く分かっていない表情のまま、右目の洞が虚空を見つめていた。
ブローニングは冷たく転がっていた。
遥か遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきたが、今ではもうどうでもいい事だった。
※ ※ ※
涼子が死亡したと警察内部に潜ませた内通者からの連絡を聞き、すぐに自分の主へと電話をする。
「私です……はい。これで問題は解消しました。関係者が一名逃げたようですが、すぐに『手配』します。まだ社内には神崎の『身内』が居るようです。……仰られる通り、予想通りに神崎は情報を横流ししていた事実が判明しましたし、神崎のオンナに握らせた偽物が……ええ、まあ、そうですが。神崎の美咲とかいうオンナが我々の仕組んだ偽物で神崎を糾弾して『法的に晒して』くれるものかと思っていましたが、美咲とかいうオンナは勘が良かったようで……報道では名前はまだ公開されていませんが、渉外2課の……高城涼子が……はい、うちの一般社員です。高城が『神崎のオンナ』とどういう関係であったのかは分かりませんが、『始末』をつけてくれました」
何度か頷き、相槌を打つ。
「偽のSDはご安心ください。それは回収しました。……神崎が横流ししようとしたモノも偽物だと判明すれば、事態はこじれてしまいます。……神崎が自分が握った情報が大金になると勘違いしてくれたおかげで今回の筋書きが進んだようなものですから……神崎が手土産にわが社の情報を持ち出すのは計算のうちでしたから……。では、続報が入り次第連絡を差し上げます」
彼女はスマートフォンの通話を切り、誰も居ない狭い喫煙室の壁に凭れて溜息を吐いた。
これで一つの大きな山が終わった。
ふと窓の外を見る。夕焼けに似たやたらと赤い朝焼けだった。
社内の情報漏洩を手引きしている人間を炙りだ、社会的に抹殺する使命を帯びた彼女は、普段はうだつの上がらないドジなOLとして社内を『ドジすぎて転々とさせられている無能なOL』の顔をしたトラブルシューターだ。会長直属の指示で動員されるトラブルバスターの一人。
これだけの大企業にもなると必ず一枚岩では組織は成り立たない。その上で、獅子身中の虫を炙りだして、『誰にも感知されずに実働し、対象を社会的に抹殺する』のが職掌だ。
今回は発砲事件が絡むので警察に対して幾らかの賄賂は必要だが、その賄賂も必要経費のうちとして処理される。
巨大企業には巨大企業なりの自浄作用があり、それは時代が変わっても、機能が失われることが無く、姿と形と名前を変えて存続している。
三平友美は夜明けの社屋の、目立たない位置にある喫煙室で一仕事終えた後の鎮静の儀式であるかのように、シガリロを銜えて、シルバーの細いライターで先端を炙り、瞑目し、何故かこの『作戦』に絡んできた高城涼子の存在に感謝しながら紫煙を細く長く吐いた。
≪♯005・了≫
「何言ってんだ!? このバカ女」
左手側の小型リボルバーの男が怒鳴る。怒鳴りながらリボルバーを発砲。弾頭は涼子の脇を逸れて背後の壁に弾痕を拵える。
部屋の出入り口付近に仁王立ちのままの涼子。
涼子の左右斜め前方の陰に潜む男たち。
涼子の八m前方付近の床では神崎に酷似した男が大の字に倒れている。まだ息は有るらしい。
両脇の遮蔽に隠れる男たちは全く連携のなっていない銃撃を浴びせるが、元から連携という概念を持ち合わせていないのか、銃弾はあっという間に撃ち尽くし、瞬間的に沈黙する。……ド素人の涼子でも分かった。参考に見ていた動画サイトでの解説であった、再装填の隙が大きいとはこのことだったのかと。
職業的な反射で即座に反応した彼らは護身用の拳銃を抜き、撃ったはいいが、いわゆる鉄砲玉や荒事師と言われるようなハジキの達人ではなかった。再装填が完了次第、涼子に向かって構える。
然し、その頃には、涼子は――左上腕部を浅く被弾していたのに――その場から動かず、右手側の遮蔽に隠れる小型自動拳銃の男の影を狙った。……光源が乏しいと伸びる影なのか、本体の影なのか判断に困る。
引き金を引き絞る。
ブローニング自動拳銃がそうなのか、自動拳銃が全てそうなのかは分からないが、引き金はやや重く感じ、撃発するまでやや長く感じた。そういえばこの拳銃には撃鉄という部品が無い。シンプルでスマートすぎるデザインで衣服の何処にも引っかからないようにデザインされたのだろうか?
何処か乖離した思考。三挺の拳銃の銃弾と銃声の洗礼を受けながらもどこか遠くの出来事のように感じている涼子。
自分の把握する日常から遠く離れすぎた現実の為に、処理能力が追い付いていない。その結果として、乖離を起こし、自分の体を幽体離脱して見下ろしているような感覚を覚えていた。
なので、右手側の男の影の右頸動脈から血飛沫が噴出して、喚きながら男の影がその場に崩れ落ちても、自分が撃ったタマが一人の人間に致命的な負傷を負わせたとは全く認識していなかった。……自分も銃弾で腕を掠ったが死んでいない。頸を削られても大したことは無いだろう。
その男がスッと沈み、沈黙したのを確認すると、その場から動かず、ブローニング自動拳銃を両手で構えたまま、すうっと銃口を左側へと流れるように走らせて、『神崎をどこかへ隠したに違いない男たち』に向かって銃口を向ける。
「!」
――――?
――――『殴られた?』
不意に腹部に衝撃。
全身に小さな衝撃が走り、鳩尾の右下辺りにじんわりと熱い物が広がる。
「ああ。撃たれたのね……」
表情が消えたままの涼子は自分が被弾したのにもかかわらず、その出来事が遠い国のニュースを見るような顔で弾痕からこんこんと湧き出る赤い色を見ながら呟いた。
乖離、アドレナリン、認知機能の低下、状況把握の放棄。
様々な要因が重なり、過剰に分泌された伝達物質が涼子の全身を支配している今、連中のリボルバーや小型自動拳銃程度のエネルギーでは彼女を一撃で黙らせることは難しかった。
「撃て撃て!」と、男の一人が吠えた。
涼子は迷わなかった。彼女は、腹部の負傷をアンヘドニアのような目で一瞥しただけで、次の瞬間には体幹を低くし、右手斜め前方に向かって走り出していた。……「ここに来て、今までに何発撃ったのか?」というカウントなど今の彼女の脳内にはない。拳銃には装弾数が有り、再装填が必要であるという概念を忘れているような顔だった。
乾いた発射音が、涼子の耳朶を激しく打つ。
ブローニングM1910の小さな銃声は、左手側のコンクリの柱を遮蔽とする男たちの間に命中し、壁にめり込んで塵埃をまき散らした。
――――神崎は何処?
男たちはさらに左右に分かれた。
右手側にリボルバーの男。左手側に小型自動拳銃の男。
彼らはどうしてここに留まるのか? 自分は神崎にしか用が無い。早く何処かへ行って欲しい。邪魔だ。
舌打ちする涼子。
ハエを払うように放った一発は、小型自動拳銃の男の左脇腹に命中した。彼は呻き声を挙げ、持っていた銃を落として、左腋腹を押さえながら、力なく膝をつき倒れる。即死するような負傷ではない。銃声よりもその口から溢れる罵詈雑言の方が大きく聞こえた。
狭い空間に銃声が伸び、右手側の、更に離れた位置にあるコンクリの陰に潜んでいた男は何発も、やたらと耳障りな銃声を叩きつけながら、後退していく。
涼子はその男には特に興味はなかったので、その男がこの部屋の出入り口――涼子が吶喊してきた出入口――から姿を消しても、追う真似はしなかった。彼は知らない人間だ。神崎ではない。
冷静に判断できるのに、どこか熱に中てられたような遊離感がする。
今、彼女は、自分で自分をメタ認知的に捉えて観察する能力を完全に喪っている。……その例が、『ブローニング自動拳銃に何発の弾丸が残っているのか?』という疑問を抱かない点だ。
だから彼女は自分の腹部に小さな弾痕が開いているのにも関わらずに、アドレナリンが痛覚を麻痺させているのを幸いに、被弾して地面に仰向けに寝転がったまま喚きたてる男の傍まで来ると、テレビのスイッチを押して消すように、銃口をその男の顔に向けて表情の無い顔で引き金を引いた。
二回引いた。もっと引き金を引いて、『もっと静かにしたかった』が、何故か弾が出なかった。そして凍り付いたようにブローニング自動拳銃の引き金はびくともしなくなった。
「?」
――――なんだろう?
涼子は右手に視線を落とす。その視線の向こうには額に小さな孔が開いた男の凄惨な死に顔が有ったが、どこにでもある風景のように無関心だった。関心が有るのは動かなくなったブローニング自動拳銃。
作動不良の中でも排莢不良と呼ばれる類の不調をきたしたらしい。
曾祖父が軍隊で使っていた骨董品の拳銃と100年以上前に作られたと思われる実包。それらを機械油と錆落とし液で磨いただけで動画サイト説明していたような、『分解して清掃』という真似事すらしていない。少し前にこの拳銃を手に入れた時に夜の海に向かって、二発発砲して、二発とも発砲できたので何も問題に思わなかった。
沈黙したままのブローニングをどうした物かと考えながら、辺りを見回す。
相変わらず光源に乏しい空間。自分たちが舞い上げた塵埃に黴臭さが混じる。窓から差し込む心許ない光源が最初に視界から排除した、神崎に酷似した男が目に入る。
相変わらず、大の字で寝転がったまま怠惰に天井をあおいでいるようだった。人の気も知らないでいい気なものだ。こいつを脅して神崎の居場所を聞こう。
涼子は腹部に開いた小さな弾痕から走る激痛が段々と強くなってきているのに気にも止めていない。遊離してしまった彼女自身は、彼女自身の世界の主が、彼女ではなくなったようだ。
自分が左腕上腕部と腹部を銃弾で負傷した要救護者である自覚がない。
「ああ、そう言えば」
――――今……何発撃ったっけ?
自分が握る拳銃にはあと何発の実包が詰まっているのか今頃になってようやく思い出した。『てっきり百発くらいタマが詰まっているかのような心強さを勝手に抱いていた』。
立ち尽くしていても何も始まらないので、爪先を神崎に酷似した男が倒れる場所へと向けた。
歩きながら、空薬莢という物を噛みこんだ孔――排莢孔――を見て眉の端を落とす。
引き金を引いても何も動かない。もう使えないのか? 修理が必要なのか? 拳銃とはこういうものなのか?
あまり困っていなさそうな困り顔で、涼子は弾倉を引き抜いた。何もなくとも残弾三発を装填しなければ。
ジャケットにむき出しのまま放り込んでいた三十二口径の実包を、斜め上方から押し込むように力任せに装弾していく。装弾するたびに金属の弾倉が軋んだ音を立てる。それは、もう自分は働けないとでも言わんばかりの泣き言のように聞こえた。
弾倉への装弾には慣れている。少なくとも発砲よりは慣れている。
ブローニング自動拳銃を手に入れた時に、真っ先に行ったのが、弾倉を抜いて実包を抜き、再び実包を装弾することだった。涼子とて、白痴ではない。銃は実包があってこその代物だと理解している。銃を発見した当時は十二発もあったが今はたったの三発。
不思議と心細さは感じなかった。
初めての鉄火場で、初めて人を撃ち、初めて本懐を遂げた満足感と多幸感が彼女のドーパミンが自己肯定感の増強と自己効力感の強化に貢献していた。
自分は何でもできる。偉大な存在である。
何者も止められない。何者でも倒す事ができる。
残弾の全てを装弾した弾倉を銃把の底部から押し込んで、弾倉受けのボタンを指で戻す。この部分にはバネが仕込まれているらしいが、手入れされていない百年以上前の骨董品ゆえに、機械油を差しても機能することは無く、指で弾倉受けを押したり戻したりしなければ、弾倉が抜け落ちてしまう。
弾倉を差し込んでから無意識にスライドを力強く引く。
「あ……」
思わず小さな声が出た。
排莢孔で斜めに噛みこんでいた空薬莢が小さな甲高い音を立てて掻き出されて床に転がった。
「なーんだ……」
――――最初からこうすればよかったんじゃない。
涼子は相棒に関しての知識を自力で拾った事で、更に賢くなったと錯覚した。人間は自力で成し遂げた事を過大評価する傾向にある。今の彼女は様々な幸運に助けられているだけの小さな存在であるのにもかかわらず、全て自力で為した優れた人間であるという誇大性を抱いているので、何を行っても、解釈しても、知覚しても、「それは私の実力だから」と自分を誇大化し、自分以外を矮小化している。……排莢不良を解消できたのは自分が天才だから。
それ以外の説明は彼女には不要だった。否、彼女はそれ以外の説明を拒否し否定し、3Fの段階――フリーズ(膠着)、フライト(逃走、誤魔化し、すり替え)、ファイト(反撃、駁撃、詭弁の展開)――を踏んで、発言者を攻撃するだろう。
神崎に酷似した人間は大の字になって怠惰を貪っていたわけではなかった。
彼は既にこの世に無く、抜け殻だけが晒された状態で冷たくなりつつあった。……直接の死因は後頭部に大きく広がる血液から見て、仰向けに倒れた時にできた後頭部の脳挫傷。その原因を作ったのは喉仏に開いた小さな孔。弾痕。三十二口径が至近距離から直撃したものだ。
涼子は神崎に似た人物の懐を漁り、免許証や財布、スマートフォンを集めて中身を確認する。スマートフォンはロックがかかっていたのでどうしようもないが、免許証と財布の中身から、この人物が神崎徹本人で間違いないと証明された。
神崎のそっくりさんではなかった。
とうに本懐を遂げていた。
無駄な銃弾を使った。
無駄な負傷をした。
肩から力が抜けて、急激に腹部の小さな銃創が疼くように痛みだす。
爪先が僅かに重い。寒気を伴う倦怠感。風邪を引いたかのような小癪な不快感。……心身に起きている事態と、腹部の負傷が一致しないほどの観察眼を失っている。明らかに腹部の小さな銃創が原因で血液を喪い、腹膜の力が抜けているのにアドレナリンの残余が彼女を痛みから今まで守っていたのだ。アドレナリンの魔法が解けようとしていた。
彼女が腹部に受けたのはコルトの六連発の懐中自動拳銃から発せられた二十五口径フルメタルジャケット。
嘗ては野良犬や酔っぱらいを追い払うのに使われていた殺傷力が低い銃弾。
バイタルゾーンに至近距離から一発まともに受けたとしても致死に至る可能性が低いとされている。……だが、負傷を放置して適切な手当てをしなければ失血死の可能性は高い。ましてや、腹部だ。銃弾も貫通していない。盲管となった銃弾ほど恐ろしい物はない。豆粒のような小さな弾頭は確実に彼女の命を削っている。
涼子は既に息絶えた神崎の、予想通りに酷い死に顔を見下ろしながら、彼の死体のそばに立つ。
ゆらり、と、右手のブローニング自動拳銃を心臓も脳波も停止した彼の顔に向ける。
引き金の指に力を籠める。
「女ぁ!」
この場にそぐわない叫び声。
少し前に右頸部の頸動脈にブローニングのタマが掠って噴血して倒れて男が、小さく平べったいコルト25オートを右手一杯に伸ばしてこちらに銃口を向けて、未だ流血が止まらぬ頸部の負傷箇所を左掌で押さえている。
その男は、警護要員と思しき男は、何事か喚きながら小さな拳銃を乱射する。
実に小賢しい乱射。耳障りなだけで掠りもしない。十m以上離れているが、その拳銃でその距離の意味が分かっていない人間の発砲だった。或いは、それをかなぐり捨ててでも自分を負傷させた女に一矢報いたいために命と引き換えに立ち上がって乱射を浴びせているのかもしれない。
蚊が飛んでいたから殺虫剤をまいた。そんな仕草でブローニングの銃口を向けて無造作に引き金を引いた。喚き散らす声が消えるのと、コルトの豆鉄砲が六発撃ち、沈黙するのと、男の鳩尾に血飛沫の花が咲くのはほぼ同時だった。
無駄なタマを撃ってしまった。
これでは今から涼子が為そうとしている事が不完全燃焼で終わってしまう。
涼子自身はコルトの懐中拳銃の男の命など、全く意に介していないが……。
今の今まで、彼女の発砲は悉く命中し、相手に脱落するに足る負傷を負わせている。
それだけでも彼女を特筆すべき存在だとして評価するに値するが、涼子自身が、「自動拳銃とは撃てば負傷の具合は別として当たる物だ」という観念でいるので、自分の拳銃の腕前が素人には有り得ないラッキーパンチの連続であることに気が付いていない。それもまた、彼女を増長させる一因だった。
今の彼女は、世界に愛されている。
このどうしようもない、変動性、不確実性、複雑性、曖昧性の世界で彼女は一番世界に愛されていた。スピリチュアルな何かが憑りついたと解釈されても仕方がないほどに彼女は幸運を享受していた。そして、幸運を幸運だと認識できないほどの狭い世界に存在する認知能力の持ち主だった。
「さて」
懐中拳銃の男が本当に沈黙したのを視認すると、おどけるように肩をすくめた涼子は気を改めて、ブローニングの銃口を再び、ゆっくり走らせて神崎の顔に向けた。
残弾二発。
出来るものなら残弾どころか当初の十発全てを神崎の顔面に叩き込みたかった。
無い物は仕方がない。二発で我慢しよう。
待っていた、この時。この時の為に今まで生きてきた。逃亡生活を続けて一か月ほどしか経過していない。感覚的には十年以上追跡していた気分だ。
乾いた唇を舌で湿らせて、心の中でサヨナラと言い。呟くようにクソ野郎と罵った。
銃声。
軽い銃声。そして反動。
神崎の額に小さな孔がぽつんと開く。
脳内の急上昇した圧力で、小さな穴から内部の組織がはみ出て、後頭部の血液に小さな波紋が広がった。
続けて引き金を引く。
「?」
――――あれ?
引き金を引いたのに、銃声がしない。反動を感じない。撃針とか言う部分が薬莢の雷管という部分を叩いた音は確かに聞いた。
「……また?」
装弾数は間違えていない。空薬莢は噛んでいない。引き金はちゃんと引けた。
なのに撃発という作用が発生しない。
「もー、これだから骨董品はー」
涼子はうんともすんとも言わないブローニングの銃口を除いた。薄暗い空間なので銃口の向こうがどうなっているのか全く見えない。
左目を閉じて右目を大きく見開き、銃口を覗く。この奥に何か詰まっているのだろうか?
次の瞬間。
銃声。
彼女が引き金を引いたのでない。
遅延発火が発生したのだ。
遅延発火とは雷管の打撃不良や雷管の発火不良などで、即座に発火せず、数秒後に引火して一気に爆発する『事故』だ。
涼子の右目を貫通したフルメタルジャケットの三十二口径の弾頭は彼女の脳内を直進して脳幹を破壊して更に突き進み、後頭部の薄い頭蓋骨を叩き割り、赤い糸を引いて貫通した。
涼子は自身に何が起きたのかも全く理解しないまま絶命した。
首を不自然に後方へ直角に折って、膝からその場に糸を切った人形のように崩れ落ちた。
仰向けに倒れ、何が起きたのか全く分かっていない表情のまま、右目の洞が虚空を見つめていた。
ブローニングは冷たく転がっていた。
遥か遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきたが、今ではもうどうでもいい事だった。
※ ※ ※
涼子が死亡したと警察内部に潜ませた内通者からの連絡を聞き、すぐに自分の主へと電話をする。
「私です……はい。これで問題は解消しました。関係者が一名逃げたようですが、すぐに『手配』します。まだ社内には神崎の『身内』が居るようです。……仰られる通り、予想通りに神崎は情報を横流ししていた事実が判明しましたし、神崎のオンナに握らせた偽物が……ええ、まあ、そうですが。神崎の美咲とかいうオンナが我々の仕組んだ偽物で神崎を糾弾して『法的に晒して』くれるものかと思っていましたが、美咲とかいうオンナは勘が良かったようで……報道では名前はまだ公開されていませんが、渉外2課の……高城涼子が……はい、うちの一般社員です。高城が『神崎のオンナ』とどういう関係であったのかは分かりませんが、『始末』をつけてくれました」
何度か頷き、相槌を打つ。
「偽のSDはご安心ください。それは回収しました。……神崎が横流ししようとしたモノも偽物だと判明すれば、事態はこじれてしまいます。……神崎が自分が握った情報が大金になると勘違いしてくれたおかげで今回の筋書きが進んだようなものですから……神崎が手土産にわが社の情報を持ち出すのは計算のうちでしたから……。では、続報が入り次第連絡を差し上げます」
彼女はスマートフォンの通話を切り、誰も居ない狭い喫煙室の壁に凭れて溜息を吐いた。
これで一つの大きな山が終わった。
ふと窓の外を見る。夕焼けに似たやたらと赤い朝焼けだった。
社内の情報漏洩を手引きしている人間を炙りだ、社会的に抹殺する使命を帯びた彼女は、普段はうだつの上がらないドジなOLとして社内を『ドジすぎて転々とさせられている無能なOL』の顔をしたトラブルシューターだ。会長直属の指示で動員されるトラブルバスターの一人。
これだけの大企業にもなると必ず一枚岩では組織は成り立たない。その上で、獅子身中の虫を炙りだして、『誰にも感知されずに実働し、対象を社会的に抹殺する』のが職掌だ。
今回は発砲事件が絡むので警察に対して幾らかの賄賂は必要だが、その賄賂も必要経費のうちとして処理される。
巨大企業には巨大企業なりの自浄作用があり、それは時代が変わっても、機能が失われることが無く、姿と形と名前を変えて存続している。
三平友美は夜明けの社屋の、目立たない位置にある喫煙室で一仕事終えた後の鎮静の儀式であるかのように、シガリロを銜えて、シルバーの細いライターで先端を炙り、瞑目し、何故かこの『作戦』に絡んできた高城涼子の存在に感謝しながら紫煙を細く長く吐いた。
≪♯005・了≫
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